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ジャクソン5

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ジャクソンファイブから転送てんそう
ジャクソン5
基本きほん情報じょうほう
別名べつめい ジャクソンズ
出身しゅっしん アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく インディアナしゅうゲーリー[1]
ジャンル
活動かつどう期間きかん
レーベル
メンバー
きゅうメンバー

ジャクソン5(ジャクソン・ファイヴ、英語えいご: The Jackson 5The Jackson Five)は、アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく音楽おんがくグループのちジャクソンズ英語えいご: The Jacksons)に改名かいめい

バックストリート・ボーイズワン・ダイレクション代表だいひょうされる「ボーイ・バンド」の先駆さきがであるとされ、はじめて白人はくじん人気にんきあつめた黒人こくじんアイドルであるともいわれている。

1960年代ねんだいインディアナしゅうゲーリー出身しゅっしんのジャクソン兄弟きょうだいによって結成けっせいマイケル・ジャクソンをリード・シンガーにいた。1969ねんモータウンからデビューたすやいなヒット連発れんぱつし、スーパーアイドルとして一世いっせい風靡ふうび。1975ねんエピック移籍いせき以降いこうは「ジャクソンズ」として活動かつどう継続けいぞくし、自主じしゅ制作せいさくによるディスコヒットをおおす。84ねんにマイケルが脱退だったい表明ひょうめいして以降いこう活動かつどう停滞ていたいし、90ねん最後さいご解散かいさん状態じょうたいとなった。なお、21世紀せいきはいっていくさい結成けっせいたしている。

代表だいひょうきょくに「かえってほしいの」「ABC」「ちいさな経験けいけん」「アイル・ビー・ゼア」「さよならはわないで」「ダンシング・マシーン」「今夜こんやはブギー・ナイト」「シェイク・ユア・ボディ」「キャン・ユー・フィール・イット」「ステイト・オブ・ショック」など[3]

メンバー

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括弧かっこない英語えいごつづりとグループへの参加さんか時期じきあらわす。

現役げんえきメンバー

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長男ちょうなん本名ほんみょうジグムント。音楽おんがくはじめる以前いぜん野球やきゅうをしていたという運動うんどうきで、からだきたえることをかさなかった。ソロとして2まいのアルバムを発売はつばい養女ようじょのブランディがマイケルの「ブラック・オア・ホワイト」のミュージック・ビデオ出演しゅつえんしているほか、息子むすこのシギーは「DealZ」の名義めいぎラッパーをしている。

三男さんなん。グループではマイケルに人気にんきほこる。マイケル加入かにゅうまえはリード・ヴォーカルをつとめていた。グループがモータウンからCBSレコードに移籍いせきしたさいには、一人ひとりだけモータウンにのこり、ソロとしてまずまずの成功せいこうおさめた。1984ねんにグループに復帰ふっき、マイケル脱退だったいふたたびリード・ヴォーカルをつとめた。

  • マーロン・ジャクソン(Marlon Jackson、1963ねん - 1987ねん・2001ねん・2012ねん - ):ヴォーカル、タンバリン

よんなん。バンド結成けっせいから1ねんにマイケルとともに加入かにゅう。ソロとして1まいのアルバムを発表はっぴょうしている。その不動産ふどうさんぎょうてんじ、大手おおて放送ほうそうきょく共同きょうどう所有しょゆうしゃとなった。息子むすこのマーロンJrは現在げんざい歌手かしゅとして活動かつどうしている。

死去しきょしたメンバー

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ろくなん世界せかいもっと有名ゆうめい歌手かしゅ一人ひとりであり、グループのなかでも圧倒的あっとうてきたか人気にんきほこる。63ねんにグループに加入かにゅう。それまでのジャーメインにわってリード・ヴォーカルをつとめる。その歌唱かしょうりょくあいらしい風貌ふうぼうでデビュー当初とうしょからおおきな話題わだいとなったほか、ジャクソンズになってからは作曲さっきょくプロデューサーとしての才能さいのう発揮はっきした。72ねんからはグループ活動かつどう並行へいこうしてソロ活動かつどうおこなっており、80年代ねんだい前半ぜんはんにはソロ2さくオフ・ザ・ウォール』『スリラー』で前人未到ぜんじんみとう成功せいこうにする。84ねん、ソロ活動かつどうへの専念せんねんのため脱退だったい表明ひょうめい仕事しごと家族かぞくべつというかんがえがつよく、脱退だったいさい結成けっせい家族かぞくとの仕事しごとはなしかたくなに承知しょうちしなかった(一時いちじてきさい結成けっせいはマイケルのデビュー30周年しゅうねん記念きねん公演こうえんでようやく実現じつげんした)。ただし家族かぞくあいつよく、ツアーではかならずジャクソン5時代じだいのヒットメドレーを曲目きょくもくれていたほか、相次あいつぐスキャンダルで精神せいしんてき苦労くろうえなかった晩年ばんねん家族かぞくつねささえとしていた。2009ねん急性きゅうせいプロポフォール中毒ちゅうどくにより急逝きゅうせい死後しご発表はっぴょうされた楽曲がっきょくTHIS IS IT」では、ジャクソンズがバックコーラスに参加さんかした[4]

次男じなん温和おんわふとったお菓子かしきとして度々どど紹介しょうかいされた。ソロではブルースうたっている。後年こうねん、3にん息子むすこたちを「3T」の名義めいぎでデビューさせた(グループめい息子むすこたちのがいずれも父親ちちおやのティト同様どうよう『T』からはじまることに由来ゆらいする)。2024ねんに70さい死去しきょ[5]

きゅうメンバーおよびバックバンド

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なななん。1972ねんからジャクソン5に度々どどゲスト参加さんかし、コンガを演奏えんそう。1975ねん移籍いせきさいしてジャーメインと交替こうたいして公式こうしきメンバーとなる。多彩たさい楽器がっき演奏えんそうするマルチプレイヤーとして活躍かつやくしたほか、マイケルとともに楽曲がっきょく制作せいさくにもたずさわっていた。ソロとしてはA&Mレーベルと「ランディ&ザ・ジプシーズ」の名義めいぎ契約けいやくし、ファンク・ロック調しらべのアルバムを1まいしている。2012ねんさい結成けっせいには存命ぞんめいメンバーで唯一ゆいいつ参加さんかしていない。なお、テレビ番組ばんぐみアメリカン・アイドル」の審査しんさいんをしている同名どうめい歌手かしゅ・プロデューサーとは別人べつじんである。

  • ミルフォード・ハイト(Milford Hite、1962ねん - 1967ねん)、ドラムス

ジャクソン5が地元じもとインディアナで結成けっせいしたときのドラマー。

  • レイノー・ジョーンズ(Reynaud Jones、1962ねん - 1967ねん)、リードギター

ティトがリード・ギターを担当たんとうする以前いぜんのギタリスト。

モータウン時代じだいわりまで、ステージでのドラマーをつとめた。ジャクソンとの血縁けつえん関係かんけいはない。2006ねん刺殺しさつされ死去しきょ

モータウン時代じだいのキーボーディスト。

メンバーの変遷へんせん

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  • 1962ねん:ジャッキー、ティト、ジャーメインと、血縁けつえん関係かんけいのないレイノー・ジョーンズ、ミルトン・ハイトの5にん結成けっせい
  • 1963ねん:マーロンとマイケルが加入かにゅう
  • 1967ねん:リード・ヴォーカルをジャーメインからマイケルに変更へんこう
  • 1969ねんジャッキーティトジャーメインマーロンマイケルの5にんのメンバーでメジャーデビュー
  • 1975ねん:エピックへの移籍いせきさいして、ジャーメインにわって末弟ばっていランディ加入かにゅう
  • 1984ねん:ジャーメインが復帰ふっきして一時いちじてきに6にん全員ぜんいんそろったが、年末ねんまつにマイケルが脱退だったい
  • 1985ねん:マーロンが脱退だったい
  • 1989ねん解散かいさん
  • 2001ねん:「マイケル・ジャクソン ソロデビュー30周年しゅうねん記念きねんコンサート」にて一時いちじてきに6にん全員ぜんいんさい集結しゅうけつ
  • 2009ねん:マイケル死去しきょ
  • 2012ねん存命ぞんめいのメンバーでさい結成けっせいただしランディは不参加ふさんか
  • 2024ねん:ティト死去しきょ

概要がいよう

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ジャクソン5は、1969ねんモータウンから4きょく連続れんぞく全米ぜんべいチャート1獲得かくとくする鮮烈せんれつなデビューをたした。その作曲さっきょくチーム「ザ・コーポレーション」やハル・デイヴィスによる楽曲がっきょく演奏えんそうして次々つぎつぎとヒットを量産りょうさんし、アメリカを代表だいひょうするスーパーアイドルとして一世いっせい風靡ふうびする。

しかし1970年代ねんだいなかば、従来じゅうらいのバブルガム路線ろせんから脱却だっきゃくしたいジャクソン5がわと、あくまでアイドルとしての売出うりだしを継続けいぞくしたいモータウンがわとで軋轢あつれき発生はっせいし、1975ねんエピック/CBSレコード移籍いせき。「ジャクソンズ」としてよそおあらたにさい出発しゅっぱつしたかれらは、作曲さっきょくやプロデュース、演出えんしゅつみずかかかわる自作じさく自演じえんのスタイルをり、おもにディスコ調ちょうのダンス・ヒットをしていった。

1980年代ねんだい前半ぜんはんにはだい規模きぼなコンサート・ツアーを成功せいこうさせるなど人気にんきまることをらなかったが、1984ねんのマイケル脱退だったい皮切かわきりに活動かつどうおおきく停滞ていたい。ほぼマイケルなしの状態じょうたい作品さくひん制作せいさくするも興業こうぎょうてきには成功せいこうせず、1989ねん公式こうしき解散かいさんした。なおマイケルあとの2012ねんに、ランディをのぞいた存命ぞんめいメンバーがさい結成けっせいたしている[6]

現在げんざい作品さくひんすべてリマスターがほどこされてさい発売はつばいされている。

音楽おんがくせい影響えいきょう

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初期しょきは、楽曲がっきょくのほとんどを「ザ・コーポレーション」とよばれる作曲さっきょくチームが制作せいさくしており、「モータウン・サウンド」とバブルガム・ポップわせた「モータウン・ソウル」とばれるあたらしいサウンドがつくげられた。

ジャクソン5のサウンドは1960年代ねんだい活躍かつやくしたスターたちの影響えいきょうけている。とくスライ&ザ・ファミリー・ストーンアイズレー・ブラザーズといった家族かぞく編成へんせいのファンクバンドや、ソウルの先駆せんくしゃであるマーヴィン・ゲイドゥーワップのボーイ・バンドであるフランキー・ライモン&ザ・ティーンエイジャーズ、そしてウィルソン・ピケットジャッキー・ウィルソン、スティーヴィー・ワンダー、ジェームス・ブラウンなどのソウル歌手かしゅ影響えいきょうつよ[7]。リード・ヴォーカルを複数ふくすうくスタイルはファミリー・ストーンからの着想ちゃくそうであるし、キャリアをとおしてマイケルのトレードマークとなった独特どくとくのダンスやうたのスタイルは、ジャッキー・ウィルソンやジェームス・ブラウンのそれをれるところからまれた。またメンバーは、スモーキー・ロビンソン&ザ・ミラクルズ、スティーヴィー・ワンダー、マーヴィン・ゲイ、テンプテーションズ、ダイアナ・ロス&ザ・スプリームスなどの当時とうじモータウンがかかえていたスターをて、うたかたやダンスなどをまなんだという。

ジャクソン5は、ジャンルをえてその音楽おんがくかいおおきな影響えいきょうのこした。たとえばインディーロックのバンドダッシュボード・コンフェッショナル[7]や、R&Bのグループニュー・エディション[8]B5[よう曖昧あいまい回避かいひ][9]、ボーイ・バンドのハンソン[10]などがジャクソン5からの影響えいきょうみとめている。しかしそのなか特筆とくひつすべきなのは1980年代ねんだい中盤ちゅうばんのイギリスの兄弟きょうだい姉妹しまいグループファイブ・スターであろう。ピアソンのステッドマン、ドリス、ロレーヌ、デニース、デルロイの5にん構成こうせいされ、父親ちちおやバスター・ピアソンがマネージャーをつとめていた。最初さいしょのレコーディングがおこなわれたときに最年少さいねんしょうのデルロイはわずか12さいであった。T5はジャクソン5としばしば比較ひかくされ、ドリスも彼女かのじょ素晴すばらしい一瞬いっしゅんとして「結婚けっこんにマイケル・ジャクソンとおどること」とべている。

来歴らいれき

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1974ねん

ちと下積したづ時代じだい

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1950年代ねんだい、ジャクソン兄弟きょうだいインディアナしゅうゲーリー労働ろうどうしゃ階級かいきゅう黒人こくじん家庭かていまれた。ははのキャサリンはエホバの証人しょうにん信者しんじゃである。ちちジョセフ・ジャクソン(ジョー)は製鉄せいてつしょ従業じゅうぎょういんで、かれおとうとのルーサーと「ファルコンズ」というR&Bのバンドをやっていた。かれ息子むすこたちのおおくがのち述懐じゅっかいしているように、ジョーは仕事しごととうによるストレスを発散はっさんさせようと、しつけとしょうしてかれらを虐待ぎゃくたいしていたという。

ジャッキー(1951年生ねんせい)、ティト(1953年生ねんせい)、ジャーメイン(1954年生ねんせい)のあに3にん時折ときおりちちのギターを無断むだんりてラジオにあわせて演奏えんそうし、マーロン(1957年生ねんせい)とマイケル(1958年生ねんせい)もちちにはだまってそれをていたという。そんなある、ギターのつるれていることからジョセフはこれにづき[7]激怒げきどする。しかしこの事件じけん息子むすこたちの演奏えんそういたジョセフはかれらに音楽おんがく才能さいのう見出みいだし、音楽おんがく活動かつどうをさせることを決意けついする。

1962ねん、ジャッキー、ティト、ジャーメインの3にんは、近所きんじょんでいたミルトン・ハイト(ドラム)とレイノー・ジョーンズ(キーボード)とともにバンドをみ、「ジャクソン・ブラザーズ」のでゲイリー周辺しゅうへん演奏えんそうはじめる。ジャーメインがリード・ヴォーカルおよびベース、ティトがギターを担当たんとうしていた。ジョーは製鉄せいてつしょでの仕事しごとをやめ、フルタイムでマネージャーとしての活動かつどう開始かいしした。

1963ねん、マーロンとマイケルがそれぞれタンバリンとボンゴの担当たんとうとして参加さんか。すでにうたでもおどりでも頭角とうかくあらわしていたマイケルは[11]、1967ねんなかばまでにはジャーメインにわってリード・ヴォーカルをつとめるようになる。同時どうじに、かれらの才能さいのうづいていたティトの管弦楽かんげんがく教師きょうしであるシャーリー・カートマンがかれらの指導しどうはじめる。

このころあらたに「ジャクソン5」と名乗なのったかれらは、インディアナしゅう広範囲こうはんいわたるツアーをおこなう。

1966ねん地元じもとおこなわれただい規模きぼなタレントショーで、テンプテーションズの「マイ・ガール」を演奏えんそう優勝ゆうしょう。これによりイリノイしゅうシカゴでプロとしての演奏えんそうはじめ、アメリカちゅう東部とうぶ活動かつどうひろげる。これらのツアーは黒人こくじんクラブをまわるいわゆるチトリン・サーキットばれる形態けいたいのもので、まだおさなかれらはストリップショーなど成年せいねんけの舞台ぶたい前座ぜんざつとめなければならないこともあった。

1967ねん、ゴードン・キース主催しゅさい地方ちほうレーベル「スティールタウン」から、最初さいしょのシングル「ビッグ・ボーイ」を発表はっぴょう。シャーリー・カートマンによりレーベルとの契約けいやく成功せいこうし、きょく地域ちいきてきなヒットとなった。このころからミルトン・ハイトとレイノー・ジョーンズにわってジョニー・ジャクソン血縁けつえん関係かんけいはない)をドラムに、ロニー・ランシファーをキーボードにむかえ、ちまたではすで多数たすうのファンを獲得かくとくしていく。

同年どうねん8がつ13にちハーレムアポロシアターおこなわれた「アマチュア・ナイト」で優勝ゆうしょうかれらに注目ちゅうもくしていた人物じんぶつ一人ひとりであるサム&デイヴはたらきかけが、脚光きゃっこうをあびる一助いちじょとなった。これによりモータウン・レコードのアーティスト、グラディス・ナイトまる。ナイトはモータウン社長しゃちょうベリー・ゴーディにジャクソン5を推薦すいせんしたが、当時とうじゴーディはおなじく10代だったスティーヴィー・ワンダーすで契約けいやくむすんでおり、未成年みせいねんを2くみかかえることへの法律ほうりつめんなどでの躊躇ちゅうちょから、契約けいやく見送みおくられた。

1968ねんごろ、シカゴのザ・ガイズ・アンド・ギャルズ・カクテル・ラウンジ・アンド・レストランで「オールスター・フロア・ショー」の主役しゅやくつとめる。

モータウン契約けいやく

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1968ねん7がつ12にちから27にちにかけて、シカゴのリーガル・シアターで、モータウン所属しょぞくボビー・テイラー&ザ・バンクーバーズ前座ぜんざとして出演しゅつえん。このときボビー・テイラーはかれらの演奏えんそう非常ひじょう感動かんどうし、デトロイトにれていきモータウンに紹介しょうかいすることを約束やくそくした。

同月どうげつ23にち、テイラーとモータウンの女流じょりゅうプロデューサー、スザンヌ・ド・パッシーまえでオーディションをける。オーディションではジェームズ・ブラウンのヒットきょく「アイ・ガット・ザ・フィーリン」を披露ひろうした。その様子ようすはビデオテープにおさめられ、当日とうじつ欠席けっせきしていたベリー・ゴーディのもととどけられた。映像えいぞうたゴーディは当初とうしょ躊躇ちゅうちょから心機一転しんきいってん見事みごとモータウンとの契約けいやく許可きょかするにいたる。

11月25にち、ジャクソン5の紹介しょうかいねて、デトロイトにあるゴーディの邸宅ていたくでパーティがひらかれた。

1969ねん3がつ、モータウンによるスチールタウンからのジャクソン5契約けいやく買取かいとり完了かんりょうかれらのモータウンからの最初さいしょのレコーディングをヒッツビルU.S.A.(デトロイトにあるモータウンのレコーディング・スタジオ)でおこない、スライ&ザ・ファミリー・ストーンの「スタンド!」やスモーキー・ロビンソンによるミラクルズの「フーズ・ラヴィン・ユー」など、当時とうじのヒットきょくやモータウンのスタンダード・ナンバーのカバーを録音ろくおん。テイラーがプロデュースを手掛てがけた。

同年どうねん8がつなかば、スターの準備じゅんびとしてゴーディのはたらきかけでカリフォルニアへす。ジョセフと兄弟きょうだいたち以外いがい家族かぞくはゲーリーにのこっていた。カリフォルニアでのまいをさがあいだ、ジョセフ、ジャーメイン、ティト、ジャッキーの4にんはベリー・ゴーディのいえに、マイケルとマーロンはモータウンのスターであるダイアナ・ロスいえらしていた。

晩夏ばんかから初秋しょしゅうにかけては、レコーディングを一旦いったんやすみトレーニングにはげむようになる。

8がつ11にち、ビバリーヒルズの「デイジー」というクラブにおいて、ダイアナ・ロスがジャクソン5をおおやけ紹介しょうかい。8月わりにはニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデン収録しゅうろくされた「ミス・ブラック・アメリカ・ペジェント」でテレビはつ出演しゅつえんたし、アイズレー・ブラザーズの「イッツ・ユア・シング」をうたった。

クレジットのちが

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契約けいやく成立せいりつからデビューまでのあいだ、モータウンはジャクソン5を音楽おんがく業界ぎょうかい本流ほんりゅうへとげるべく、プロモーションのための宣伝せんでん資料しりょうやそのほかのプロモーション用品ようひん作成さくせい着手ちゃくしゅした。しかしそのさい、ジャクソン5の経歴けいれき以下いかのような部分ぶぶんてき改竄かいざんくわえられた。

  • マイケルの年齢ねんれいを11さいから8さい詐称さしょう
  • 血縁けつえん関係かんけいのないバンドメンバー(ジョニー・ジャクソンとロニー・ランシファー)を従兄弟いとことして紹介しょうかい
  • ジャクソン5を発掘はっくつしたのはダイアナ・ロスであると説明せつめい[12]
    • モータウンの公式こうしき説明せつめいでは、ゲーリーのリチャード・ハッチャー市長しちょう(アメリカ最初さいしょアフリカけいアメリカじん市長しちょう)が、チャリティーコンサートで市長しちょうのために演奏えんそうしたジャクソン5をダイアナ・ロスやベリー・ゴーディに紹介しょうかいし、かれらの演奏えんそう素質そしつ2人ふたりかれらにモータウンとの契約けいやくをさせ、ダイアナ・ロスがかれらに指導しどうをするようになったとされている。
    • ダイアナ・ロスがジャクソン5の初期しょき成長せいちょうおおきくかかわったのは事実じじつであるものの、ジャクソン5の発掘はっくつ・デビューのうえおおきな役割やくわりたしたのは、シャーリー・カートマン、サム&デイブ、グラディス・ナイト、ボビー・テイラーらである。この事実じじつは20ねんものあいだこうにはなることはなかった。

鮮烈せんれつなデビュー

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1969ねん10がつ7にちだい1だんシングル「かえってほしいの」でメジャーデビュー。ほんきょくは「ザ・コーポレーション」を名乗なのったモータウンの4にん作曲さっきょく・プロデューサー(ベリー・ゴーディ、アルフォンソ・ミゼルディーク・リチャーズフレディー・ペレン)の合作がっさくかれた。シングルの発売はつばいさいし、テレビ番組ばんぐみ「ハリウッド・パレス」にダイアナ・ロス&ザ・スプリームスの特別とくべつゲストとして出演しゅつえんほんきょくほか、スライ&ザ・ファミリー・ストーンの「シング・ア・シンプル・ソング」、デルフォニクスの「キャン・ユー・リメンバー」、ジェームズ・ブラウンの「ゼア・ワズ・ア・タイム」を披露ひろうした。

1969ねん12月、スタジオばんだい1さくとなる『かえってほしいの』を発表はっぴょう

1970ねん1がつ、シングル「かえってほしいの」ががビルボード・ホット100チャートにおいて1獲得かくとくいきおいはまることをらず、つづく「ABC」がビートルズの「レット・イット・ビー」を退けて1上昇じょうしょうだい3だんの「ちいさな経験けいけん」とだい4だんアイル・ビー・ゼア」も1獲得かくとくし、ジャクソン5はデビューから4きょくつづけてビルボード・ホット100およびビルボード・ソウル・シングルズ・チャートで1獲得かくとくする偉業いぎょうげた。そのも「ママの真珠しんじゅ」と「さよならはわないで」でトップ5りをたし、ジャクソン5はデビュー1ねんにしてポピュラー音楽おんがくかいもっと人気にんきのあるグループのひとつとなる。

おなごろ、キャサリンはじめゲイリーにのこっていた家族かぞくもカリフォルニアにす。最初さいしょにロサンゼルスのクイーンズどおり1616の2かいてのいえ合流ごうりゅうしたのち、ジョセフが1971ねん3がつ購入こうにゅうした邸宅ていたく通称つうしょうハイヴェンハースト(Hayvenhurst)」に家族かぞく全員ぜんいんうつった。

1971ねん9がつ11にち、ABCの土曜どようあさ番組ばんぐみとしてランキン・バスプロダクションによるテレビアニメーション「ジャクソン5」放映ほうえい開始かいし全部ぜんぶで2シーズン放送ほうそうされた。

同月どうげつ16にち、ジャクソン5主演しゅえんによる特別とくべつ番組ばんぐみ「ゴーイン・バック・トゥ・インディアナ」放送ほうそう

同年どうねん、マイケルが「ガット・トゥ・ビー・ゼア」でソロデビューし、全米ぜんべいトップ5を獲得かくとく翌年よくねんからも映画えいがベン』の主題歌しゅだいかである「ベンのテーマ」をはじめ、「ロッキン・ロビン」「アイ・ウォナ・ビー・ホエア・ユー・アー」などソロヒットをばし、マイケル個人こじん人気にんき確立かくりつされていった。

1972ねん11月5にち、こちらもジャクソン5主演しゅえんとなる番組ばんぐみ「ジャクソン5・ショー」放送ほうそう

1973ねん前半ぜんはん、ジャーメインもソロ活動かつどう開始かいし。シェップ・アンド・ザ・ライムライツのカバー「ダディーズ・ホーム」で全米ぜんべいトップ10を獲得かくとくする。なおジャッキーもソロアルバムをしているが、これはチャートインするようなヒットとはならなかった。ジャクソン5としての成功せいこう維持いじしたいというモータウンがわ意図いともあり、かれらはそのもソロ活動かつどうとグループ活動かつどう並行へいこうしてつづけることになる。

爆発ばくはつてき人気にんき女性じょせい関係かんけい結婚けっこん

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こうして1970年代ねんだい前半ぜんはん、モータウンの主力しゅりょくアーティストのをスプリームスから実質じっしつてきうばってしまったジャクソン5は、全米ぜんべいに「ジャクソンマニア」とばれるファンをかかえることとなった。

そうした人気にんき利用りようしてステッカー、ワッペン、ポスター、といった若年じゃくねんそうけの商品しょうひんおお発売はつばいされたほか、メディア露出ろしゅつ急激きゅうげきえた。1971ねん創刊そうかんのアフリカけいアメリカじん若年じゃくねんそうけのしん雑誌ざっし「ライト・オン!」には頻繁ひんぱん登場とうじょうし、1972ねん2がつから1974ねん4がつまで毎号まいごうジャクソンだれかが表紙ひょうしかざっていたほどである。

またわかおんなからの人気にんきすさまじく、なかでもおおくがジャーメインとマイケルにこいをした。『マイケル・ジャクソンの真実しんじつ』の製作せいさくしゃJ・ランディ・タラボレッリによれば、あにちちがファンのおんな性的せいてき関係かんけいをもっているときに、おとうとのマイケルとマーロンはおな部屋へやでその行為こういていたとのことである[13]。2003ねん放映ほうえいされた「マイケルジャクソンの真実しんじつ」では、マイケル自身じしん部屋へや女性じょせいはいっててベッドでているぼくつけると、マイケル?可愛かわいい!とうんだ。にいさんたちに「おまえ絶対ぜったいけるなよ!」とわれけなかったけど全部ぜんぶいていたんだ」かたっている。マイケル自身じしんはグループでもっと人気にんきがあったにもかかわらず、かれ思春期ししゅんきだい部分ぶぶん女性じょせいたいして内気うちきなままにごしたという。

1972ねん6がつ、ティトが兄弟きょうだいなか最初さいしょ結婚けっこんした。相手あいて高校こうこうのガールフレンドのディーディー。

1973ねんちち反対はんたい無視むしして、ジャーメインはベリー・ゴーディのむすめヘイゼルとはじめる。その関係かんけいは「ライト・オン!」「エボニー」「ジェット」などの雑誌ざっしおおきくあつかわれた。二人ふたりは12月15にちビバリーヒルズ・ホテル結婚式けっこんしきをあげた。

低迷ていめい

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1972ねん以降いこうは、ハル・デイヴィスによる作曲さっきょく・プロデュースで「窓辺まどべのデート」(1972ねん)「ダンシング・マシーン」(1974ねんロボットダンス有名ゆうめいにした)といったヒットはすものの、次第しだい爆発ばくはつてき売上うりあげのこすことはすくなくなる。『窓辺まどべのデート』(1972ねん)や「ハム・アロング・アンド・ダンス」(テンプテーションズのカバーきょく)を収録しゅうろくする『ゲット・イット・トゥゲザー』(1973ねん)などアルバムのヒットもるが、そうじて評価ひょうか売上うりあげもかんばしくはなかった。

この低迷ていめいおも原因げんいんは、モータウンがジャクソン5にたいしてイメージの転換てんかんやセルフプロデュースをゆるさなかったことにあるとするのが、当時とうじ批評ひひょう、ジャクソン5自身じしん、そしてジョセフ・ジャクソンの共通きょうつう認識にんしきだった。舞台ぶたいでは楽器がっき演奏えんそうしていたうえうら自身じしんでの作曲さっきょくはじめていたにもかかわらず、あくまでアイドル路線ろせんでの売出うりだしをつらぬきたいモータウンはそれを録音ろくおんすることをゆるさなかった。モータウンからはなれればよりおおきな成功せいこうおさめることができるとかんじたジョセフは、息子むすこたちのためにあらたなレコード契約けいやく決意けついする。

CBSレコードへの移籍いせき

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1975ねんCBSレコード契約けいやく。CBSレコードがかれらにたいしモータウンよりも17.5もたかい20%の印税いんぜいりつ約束やくそくしたうえ完全かんぜん自作じさく自演じえん許可きょかしたことが移籍いせきとなった。モータウンはジャクソン5にたい契約けいやく違反いはん訴訟そしょうこすものの、結局けっきょくジャクソン5をめることはできなかった。しかしモータウンは「ジャクソン5」の商標しょうひょう手放てばなさなかったため、CBSレコード所属しょぞくジャクソンズ名乗なのって活動かつどうすることとなった。また、ゴーディと親戚しんせき関係かんけいにあったジャーメインがグループをけてモータウンにのこることを選択せんたくし、それにわるかたち当時とうじ14さい末弟ばっていランディあらたに加入かにゅうした(ランディは1972ねんからライブでコンガ奏者そうしゃとしてゲスト参加さんかしていた)。

一方いっぽうでジャクソン5をうしなったベリー・ゴーディは、社長しゃちょう退しりぞくまでにそれ以上いじょう成功せいこう音楽家おんがくかつことはなかった。かれはジャクソン5について(ジャクソン5がすでにモータウンでもっと人気にんきのある存在そんざいとなったのちに)、「(モータウンという)なが作業さぎょうてラインからまれた最後さいごのビッグスターだった」かたっている[14]

1976ねんなつCBSテレビの重役じゅうやくフレッド・シルバーマンは、ABCオズモンズ対抗たいこうすべく、ジャクソンの8にん(マイケル、マーロン、ティト、ジャッキー、ランディー、レビー、ラトーヤ、ジャネット)とバラエティー・ショーの契約けいやくむすぶ。番組ばんぐみ「ザ・ジャクソンズ」は1976ねん6がつ16にち放送ほうそう開始かいしし、翌年よくねん3がつまでつづいた。この番組ばんぐみはアフリカけいアメリカじん家族かぞく主演しゅえんとした最初さいしょのバラエティー・ショーであった。

ジャクソンズは、CBS所属しょぞく時代じだい前半ぜんはんフィラデルフィア・インターナショナル・レコードから、のちにはエピック・レコードから「ぼくはゴキゲン」(フィラデルフィア・インターナショナルのケニー・ギャンブルとレオン・ハフによるプロデュース)に代表だいひょうされるヒットをした。最初さいしょのスタジオばん2さく(『ザ・ジャクソンズ・ファースト〜ぼくはゴキゲン』『ゴーイン・プレイシズ〜青春せいしゅんのハイウェイ』)ではギャンブル&ハフが大半たいはんきょくのプロデュースを担当たんとうした。

人気にんき回復かいふく、マイケルの成功せいこう

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1978ねん全編ぜんぺん自己じこプロデュースとなるアルバムだい3さくデスティニー〜今夜こんやはブギー・ナイト』を発表はっぴょうほんさくからはシングルとしてマイケルとランディのによる「シェイク・ユア・ボディ」がカットされ、ビルボード・ホット100で7、R&Bチャートで3まで上昇じょうしょう、200まんまい売上うりあげダブル・プラチナムを獲得かくとくする移籍いせき最大さいだいのヒットとなった。アルバム自体じたいもプラチナ・レコードとなり、ビルボード・ホット200・アルバム・チャートでは最高さいこう11どうR&Bチャートでは3記録きろくしている。

同年どうねん、マイケルがモータウンとユニバーサル映画えいが合作がっさく映画えいがウィズ』でダイアナ・ロスなどと共演きょうえん。この映画えいが音楽おんがく担当たんとうしたクインシー・ジョーンズ翌年よくねん、マイケルの移籍いせき最初さいしょのソロ・アルバム『オフ・ザ・ウォール』のプロデュースを担当たんとうし、2000まんまい売上うりあげと4つのトップ10、2つのナンバー1シングルをすというだい成功せいこうおさめる。この成功せいこうによりマイケルはソロ専念せんねんへのおもいをつよめ、すうねんにジャクソンズをはなれるきっかけのひとつとなった。

1979ねんハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム名前なまえ刻印こくいんされる。

1980ねん、スタジオばんだい4さくトライアンフ』を発表はっぴょうほんさくからは「マイ・ラブリー・ワン」と「キャン・ユー・フィール・イット」の2つのヒットシングルがまれた。またほんさくっさげたコンサート・ツアー「トライアンフ・ツアー」は、1988ねんローリング・ストーンによる「1967ねんから1987ねんのツアー:ベスト25」にふくまれるなどだい成功せいこうおさめ、その模様もよう収録しゅうろくしたライブばんザ・ベスト・ライヴ』はゴールド・レコードとなった。しかしながらこうした成功せいこうは、マイケルの1982ねんのアルバム『スリラー』のかげ完全かんぜんかくれることとなってしまう。『スリラー』は歴史れきしじょうもっとおおくのげを記録きろくした音楽おんがく作品さくひんであり、2014ねん現在げんざいそうすうは6500まんまいにのぼるとされる。

1981ねん、モータウンが、ぜん世界せかいでのジャクソン5のモータウンからのアルバム・シングルのそう売上うりあげが1おくまい突破とっぱしたと発表はっぴょう

1984ねんのヴィクトリー・ツアー

1983ねん5がつ16にち、モータウンの25周年しゅうねん記念きねん公演こうえんモータウン25」に出演しゅつえん。7ねんぶりにジャーメインがグループに一時いちじてき復帰ふっきたし、6にん往年おうねんのヒットきょく披露ひろうした。またジャクソンズの演奏えんそうはマイケルがのこって「ビリー・ジーン」をうたい、はじめてムーンウォーク披露ひろうした。公演こうえん模様もよう翌日よくじつNBCから録画ろくが放送ほうそうされた。

1984ねん、スタジオばんだい5さくヴィクトリー』を発表はっぴょう。ジャーメインが公式こうしき復帰ふっきしたほんさくは、マイケルの『スリラー』の成功せいこう手伝てつだって売上うりあげばし、ミック・ジャガーむかえて制作せいさくされたカットシングル「ステイト・オブ・ショック」がヒットした。わせておこなわれたワールド・ツアー「ヴィクトリー・ツアー」もだい成功せいこうおさめた。

同年どうねんまつ、エピック・レコードが、ジャクソンズのレコードのセールスが3,000まんまいえたと発表はっぴょう

マイケル脱退だったい解散かいさん

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1984ねんの「ヴィクトリー・ツアー」終了しゅうりょう直後ちょくご、『スリラー』でちょう人的じんてきなヒットを記録きろくしていたマイケルがソロへの専念せんねんかかげて脱退だったい兄弟きょうだいたちもソロ活動かつどうへの注力ちゅうりょくはじめ、ジャクソンズは一旦いったん解散かいさん状態じょうたいとなる。

1989ねん最後さいごとなるスタジオばん『2300・ジャクソン・ストリート』でさい結成けっせいほんさくでは表題ひょうだいきょくのぞ全曲ぜんきょくがマイケルとマーロンなしに制作せいさくされた。なお表題ひょうだいきょくではラトーヤとマーロンをのぞくジャクソン兄弟きょうだい姉妹しまい全員ぜんいんつらねており、R&Bチャートで9獲得かくとくした。しかしながら当時とうじすでにマイケルは世界せかいてきだいスターになっており、すえいもうとのジャネットもそれにいつくように名声めいせいげていたため、ジャクソンズが注目ちゅうもくされることはく、ほんさく興行こうぎょうてきには失敗しっぱいわった。翌年よくねん解散かいさん

伝説でんせつさい結成けっせい

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1997ねんロックの殿堂でんどうりをたし、「ABC」と「かえってほしいの」の2きょくがロックの殿堂でんどうの「ロックを形作かたちづくる500きょく」にえらばれる。

1999ねんヴォーカル・グループの殿堂でんどうむかえられる。

2001ねん、マイケルのデビュー30周年しゅうねん記念きねん公演こうえん出演しゅつえんし、6にん一時いちじてきさい結成けっせい実現じつげん

2004ねん、CBS/エピック時代じだいのベスト・アルバム『エッセンシャル・ジャクソンズ』と、モータウン時代じだいのベスト・アルバム『ザ・ジャクソンズ・ストリー』が相継あいついで発売はつばい

2009ねん、マイケルが死去しきょ。これによりオリジナル・メンバーによるジャクソン5のさい結成けっせい不可能ふかのうとなってしまった。

同年どうねん11がつ、ジャクソン5の発表はっぴょうきょくしゅうかえってほしいの!アンリリースト・マスターズ』がモータウンから発売はつばい。ジャクソン5は世界せかいからさい注目ちゅうもくびることとなった。

解散かいさんかくメンバーのうご

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  • マイケル

クインシー・ジョーンズとんだ3さく『オフ・ザ・ウォール』『スリラー』『バッド』で前人未到ぜんじんみとう成功せいこうにしたマイケルは、そのも『デンジャラス』『ヒストリー』『インヴィンシブル』と4〜5ねん単位たんいでヒット作品さくひん発表はっぴょうつづけ、文字通もじどおりポップ・ミュージックの頂点ちょうてん君臨くんりんする。

一方いっぽうで1990年代ねんだい以降いこう容姿ようし変化へんか様々さまざまうわさばなし原因げんいんとなり、メディアから奇人きじん変人へんじんあつかいをけるようになる。1993ねんと2003ねんには未成年みせいねんへの性的せいてき虐待ぎゃくたい容疑ようぎをかけられており、いち度目どめ和解わかい度目どめ法定ほうていでの完全かんぜん無罪むざい判決はんけつ終結しゅうけつした(2010ねんにはFBIが一連いちれん容疑ようぎかんする10年間ねんかん調査ちょうさ監視かんし資料しりょう発表はっぴょうしており、無実むじつであったと結論けつろんづけている)。そのあいだに2結婚けっこん離婚りこんかえし、3にん子供こどもをもうけている。

2001ねんの『インヴィンシブル』以降いこうは、上述じょうじゅつ裁判さいばん子育こそだてもあって表向おもてむきの創作そうさく活動かつどうをしていなかったが、2009ねん3がつにカムバックステージとして「THIS IS IT」のロンドン公演こうえん発表はっぴょう。しかしながら、ツアー開始かいし1ヶ月かげつまえの6がつ25にちにロサンゼルスの自宅じたく急死きゅうしし、実現じつげんすることはなかった。

  • ジャーメイン、マーロン

解散かいさんすぐにソロ活動かつどう開始かいししたが、マーロンはその不動産ふどうさんぎょうてんじ、ブラック・ファミリー・チャンネル共同きょうどう所有しょゆうしゃともなった。

  • ティト

ジョセフにならって3にん息子むすこたちを「3T」の音楽おんがくグループとしてデビューさせる。3Tは1997ねんにマイケルをゲストにむかえたシングル「ホワイ」でぜんえいトップ5のヒットを達成たっせいする。そのすぐ、ティトはブルース歌手かしゅとしてひかえめなソロ・キャリアをスタートさせている。

  • ランディ

1989ねんにソロアルバムをしたのちは、もっぱ兄弟きょうだいたちをたすける仕事しごとにまわっている。

作品さくひん

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すべての楽曲がっきょく一覧いちらんジャクソン5の作品さくひんen:The Jackson 5 discography)を参照さんしょう

アルバム・シングルのそう売上うりあげ枚数まいすうは1おくまい以上いじょう(2014ねん1がつ現在げんざい)。

全米ぜんべいぜんえいトップ10のシングル

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以下いかげるのは、Billboard Hot 100もしくはUKシングル・チャートでトップ10りした、もしくはビルボードR&Bシングル・チャートでナンバー1になったきょくである。

ジャクソン5

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すべモータウンからの発売はつばい
発売はつばいねん 曲名きょくめい 全米ぜんべいトップ10チャート ぜんえいトップ10チャート 全米ぜんべいR&Bナンバー1
1969ねん かえってほしいの(I Want You Back) 1 2 1
1970ねん ABC 1 8 1
1970ねん ちいさな経験けいけん(The Love You Save) 1 7 1
1970ねん アイル・ビー・ゼア(I'll Be There) 1 4 1
1971ねん ママの真珠しんじゅ(Mama's Pearl) 2 - 1
1971ねん さよならはわないで(Never Can Say Goodbye) 2 - 1
1971ねん シュガー・ダディ(Sugar Daddy) 10 - -
1972ねん 窓辺まどべのデート(Lookin' Through the Windows) - 9 -
1972ねん ドクター・マイ・アイズ(Doctor My Eyes) - 9 -
1974ねん ダンシング・マシーン(Dancing Machine) 2 - 1
1988ねん かえってほしいの [リミックス] - 8 -

ジャクソンズ

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すべCBSからの発売はつばい
発売はつばいねん 曲名きょくめい 全米ぜんべいトップ10チャート ぜんえいトップ10チャート 全米ぜんべいR&Bナンバー1
1976ねん ぼくはゴキゲン(Enjoy Yourself) 6 - -
1977ねん あいある世界せかい(Show You the Way to Go) - 1 -
1978ねん 今夜こんやはブギー・ナイト(Blame It on the Boogie) - 8 -
1979ねん シェイク・ユア・ボディ(Shake Your Body (Down to the Ground)) 7 4 -
1981ねん キャン・ユー・フィール・イット(Can You Feel It) - 6 -
1981ねん ウォーク・ライト・ナウ(Walk Right Now) - 7 -
1984ねん ステイト・オブ・ショック(State of Shock) 3 14 -

アルバム

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ジャクソン5

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すべモータウンからの発売はつばい
  • 1969ねん: Diana Ross Presents the Jackson 5
  • 1970ねん: ABC
  • 1970ねん: Third Album
  • 1970ねん: The Jackson 5 Christmas Album
  • 1971ねん: Maybe Tomorrow
  • 1971ねん: Goin' Back to Indiana
  • 1972ねん: Lookin' Through the Windows
  • 1973ねん: Skywriter
  • 1973ねん: The Jackson 5 in Japan日本にっぽん限定げんてい、アメリカではモータウンから2004ねん発売はつばい
  • 1973ねん: Get It Together
  • 1974ねん: Dancing Machine
  • 1975ねん: Moving Violation
  • 1976ねん: Joyful Jukebox Music(コンピレーションばん
  • 1979ねん: Boogie(コンピレーションばん

ジャクソンズ

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すべCBSからの発売はつばい

シングル

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ジャクソン5

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すべモータウンからの発売はつばい
発売はつばい 規格きかく 規格きかく品番ひんばん めん タイトル
1969ねん EP JET-1951 A かえってほしいの / I Want You Back
B だれのとりこに / Who's Loving You
1970ねん5がつ10日とおか EP JET-1969 A ABC
B The Young Folks
1970ねん EP JET-1991 A ちいさな経験けいけん / Love You Save
B ぼくがつけたおんな / I Found That Girl
1970ねん EP JET-2005 A One More Chance
B Never Had A Dream Come True
1970ねん12がつ20日はつか EP JET-2019 A I'll Be There
B Darling Dear
EP JET-2040 A ママの真珠しんじゅ / Mama's Pearl
B Oh How Happy
EP JET-2055 A さよならはわないで / Never Can Say Good-Bye
B She's Good
EP JET-2065 A きっと明日あしたは / Maybe Tomorrow
B 希望きぼうはあるさ / I Will Find A Way
EP JET-2077 A ママがサンタにキッスした / I Saw Mommy Kissing Santa Claus
B サンタがまちに / Santa Claus Is Comin' To Town
EP JET-2087 A Got To Be There
B Maria (You Were The Only One)
EP JET-2102 A Sugar Daddy
B I'm So Happy
EP JET-2141 A 窓辺まどべのデイト / Lookin' Through The Windows
B Love Song
EP JET-2145 A ベンのテーマ / Ben
B You Can Cry On My Shoulder
EP JET-2162 A Corner Of The Sky
B To Know
EP JET-2180 A Hallelujah Day
B You Made Me What I Am
EP JET-2241 A Dancing Machine
B どきをもどして / It's Too Late To Change The Time
EP JET-2264 A 悪夢あくむ / You Haven't Done Nothin'
B Big Brother
EP VIP-2041 A ABC
B I'll Be There

ジャクソンズ

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すべCBSからの発売はつばい
発売はつばい 規格きかく 規格きかく品番ひんばん めん タイトル
1977ねん EP 06SP-197 A 青春せいしゅんのハイウェイ / Goin' Places
B 青空あおぞらのパーティー / Do What You Wanna
1978ねん EP 06・5P-12 A 今夜こんやはブギーナイト / Blame It In The Boogie
B 青空あおぞらのパーティー / Do What You Wanna
1978ねん EP 06・5P-52 A Shake Your Body
B That's What You Get

ザ・ジャクソンズ

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発売はつばい 規格きかく 規格きかく品番ひんばん めん タイトル
EP 07・5P-119 A マイ・ラブリー・ワン / Lovely One
B Bless His Soul
1980ねん EP 07・5P-125 A Heartbreak Hotel
B Things I Do For You
1980ねん EP 07・5P-136 A Can You Feel It
B Push Me Away
1981ねん EP 07・5P-160 A Of The Wall
B 今夜こんやはドント・ストップ / Don't Stop Till You Get Enough
1984ねん7がつ1にち EP 07・5P-288 A State Of Shock
B Your Ways
1984ねん9がつ21にち EP 07・5P-311 A Torture
B Torture(Inst.)
1987ねん EP P-222A A Time Out For The Burglar
B 11のニュース / News At 11

かれらをえがいた作品さくひん

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テレビドラマ

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詳細しょうさいザ・ジャクソンズ:アメリカン・ドリームen:The Jacksons: An American Dream)を参照さんしょう

1992ねん、スザンヌ・ド・パッシーとジャーメイン・ジャクソンはモータウンとともに、ジャクソン来歴らいれきもとにした5あいだわくのテレビドラマ「ザ・ジャクソンズ:アメリカン・ドリーム」を製作せいさくした。このドラマは2構成こうせいでABCから放送ほうそうされた。だい1では1945ねんのキャサリンとジョセフの最初さいしょ出会であいから1969ねんのモータウンでのデビューまで、だい2は1970ねんから1984ねんまでを、ジャクソン5の成功せいこう家族かぞくにあたえた影響えいきょうとともにあつかっている。

配役はいやくはキャサリン・ジャクソンにアンジェラ・バセット、ジョセフ・ジャクソンにローレンス・ヒルトン=ジェイコブス、ベリー・ゴーディにビリー・ディー・ウィリアムズ、スザンヌ・ド・パッシーにヴァネッサ・リン・ウィリアムズ、ダイアナ・ロスにホリー・ロビンソン、ジャッキー(10代)にバンパー・ロビンソン子供こども時代じだいのマイケルにジェイソン・ウィーヴァー、ジャッキー(成年せいねん)にテレンス・ホワードである。このドラマはしゅう最高さいこう視聴しちょうりつ獲得かくとくし、エミーしょう獲得かくとく、またヤング・アーティストしょうの3部門ぶもんにノミネートしうち2部門ぶもん制覇せいはした。「ザ・ジャクソンズ:アメリカン・ドリーム」はのちにVH1さい放送ほうそうされ、VHSとDVDでも発売はつばいされている。

テレビアニメ

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それいけ!ジャクソン・ファイブ
  • 1971ねんから73ねんまでABCで放映ほうえいされた子供こどもけTVアニメ。日本にっぽんではカートゥーン ネットワーク放映ほうえいされた。

関連かんれん項目こうもく

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以下いか歌手かしゅ作曲さっきょくとして活動かつどうしていたジャクソンの3にん姉妹しまいである。ジャクソン5に正式せいしき加入かにゅうすることはなかったが、ゲストとして舞台ぶたいでの共演きょうえん録音ろくおんへの参加さんかなどはなんおこなっている。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c d e f Steve Huey. The Jackson 5|Biography & History - オールミュージック. 2020ねん3がつ4にち閲覧えつらん
  2. ^ The Jackson |Biography & History - オールミュージック. 2020ねん3がつ4にち閲覧えつらん
  3. ^ The Jacksons - Playlist: The Very Best Of The Jacksons”. Discogs. 2020ねん3がつ8にち閲覧えつらん
  4. ^ マイケル新曲しんきょく・・・79ねん「オブ・ザ・ウォール」制作せいさくレコーディングスポーツ報知ほうち 2009ねん9がつ25にち
  5. ^ 「ジャクソン5」メンバーのティトさん死去しきょ、70さい マイケル・ジャクソンのあに”. 産経新聞さんけいしんぶん (2024ねん9がつ16にち). 2024ねん9がつ17にち閲覧えつらん
  6. ^ M・ジャクソン、「ジャクソン5」さい結成けっせいには不参加ふさんか ロイターニュース
  7. ^ a b c 2003ねん11月30にちラリー・キング・ライブでのジャーメイン・ジャクソンへのインタビュー。
    http://edition.cnn.com/TRANSCRIPTS/0311/30/lkl.00.html 2005ねん8がつ20日はつか より
  8. ^ Huey, Steve. "New Edition". AllMusic.
    https://www.allmusic.com/artist/new-edition-mn0000865016 2005ねん8がつ20日はつか より。抜粋ばっすい: "New Edition's early, Jackson 5-inspired material made them the forerunners of two generations of teen pop..."
  9. ^ Rashbaum, AlyssaとPaco, Matt. "MTV News - You Heard It First: B5". MTV.com.
    http://www.mtv.com/news/yhif/b5/ 2005ねん8がつ20日はつか より。B5[よう曖昧あいまい回避かいひ] (the "Breeding 5") はジャクソン5よりのち呼称こしょうされた。抜粋ばっすい: "Since that fateful meeting, the Breeding brothers...have worked with sought-after producers including Rodney Jerkins, who produced their debut single, a cover of "All I Do" by the Jackson 5, a group with whom they are often compared."
  10. ^ Erlewine, Stephen Thomas. "Hanson". AllMusic.
    https://www.allmusic.com/artist/hanson-mn0000949780 2005ねん8がつ20日はつか より。抜粋ばっすい: "Sounding like a re-vamped 'Jackson 5' for the '90s..."
  11. ^ Rock of Ages, p. 448. "Almost immediately [after adding Michael and Marlon,] it became clear that Michael was their main attraction."
  12. ^ "The Jackson Five". Look Magazine. (1970ねん8がつ25にち
  13. ^ Green, Dave(プロデューサー、ディレクター).(2005ねん1がつ29にち). VH1 News Presents: Michael Jackson's Secret Childhood [テレビ番組ばんぐみ]. New York, NY: MTV Networks. (だい1、およびだい2より)
  14. ^ (1997ねん) The Jackson 5 Biography | The Rock and Roll Hall of Fame and Museum 2013ねん12月7にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん

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外部がいぶリンク

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  • JACKSON 5(ユニバーサル ミュージックの公式こうしきサイト 日本語にほんご
  • ジャクソンズ(ソニー・ミュージックの公式こうしきサイト 日本語にほんご
  • ティト・ジャクソンの公式こうしきサイト(ジャクソン5の情報じょうほう、パフォーマンスのビデオクリップがある)
  • "ジャクソン5". ロックの殿堂でんどう.