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ジョゼフ・アディソン

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ジョセフ・アディソンから転送てんそう
Joseph Addison
ジョゼフ・アディソン
生誕せいたん (1672-05-01) 1672ねん5月1にち
イギリスの旗 イギリス ウィルトシャーミルストン英語えいごばん
死没しぼつ 1719ねん6月17にち(1719-06-17)(47さいぼつ
イギリスの旗 イギリス ロンドン
国籍こくせき イギリスの旗 イギリス
職業しょくぎょう 作家さっか 政治せいじ
署名しょめい
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ジョゼフ・アディソン英語えいご: Joseph Addison PC PC (Ire)1672ねん5月1にち1719ねん6月17にち)は、イギリスエッセイスト詩人しじんげき作家さっか政治せいじ文学ぶんがくしゃ。ジョゼフはジョフ、アディソンはアソンとやくされることもある。熱心ねっしんホイッグとう支持しじしゃであり、アン女王じょおう治世ちせい友人ゆうじんリチャード・スティール英語えいごばんともエッセイ新聞しんぶんスペクテイター』(1711ねん – 1714ねん)を創刊そうかんして[1]、18世紀せいき市民しみん文学ぶんがく基礎きそ確立かくりつしたことでられる[2]

生涯しょうがい

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聖職せいしょくしゃランスロット・アディソン英語えいごばん1人ひとりつまジェーン・ガルストン(Jane Gulston、1635ねん? – 1684ねん6がつ30にち[3])の長男ちょうなんとして、1672ねん5がつ1にちウィルトシャーミルストン英語えいごばんまれた[1]。1671ねんまれたあねジェーンは夭折ようせつしており、おとうとにのちのマドラス総督そうとくガルストン・アディソン英語えいごばん(1673ねん – 1709ねん)、古典こてん学者がくしゃランスロット・アディソン(1680ねん – 1710ねん)が、いもうとにドロシー(1674ねん – 1750ねん)とアン(1676ねん – ?)がいる[3]エイムズベリー英語えいごばん、ついでソールズベリーグラマースクールとおったのち、1683ねんちちリッチフィールド聖堂せいどう参事さんじ会長かいちょう英語えいごばん任命にんめいされると、リッチフィールド学校がっこう転校てんこうした[1]ちちは1684ねんにもコヴェントリーだい執事しつじ英語えいごばん昇進しょうしんしたが、ジョセフの教育きょういくなどが原因げんいんとなって債務さいむ背負せおったままだった[3]。1686ねんチャーターハウス・スクール転校てんこう[4]同校どうこうリチャード・スティール英語えいごばんった[1]

1687ねん7がつ12にち、アディソンはオックスフォおっくすふぉド大学どだいがくクイーンズ・カレッジ入学にゅうがくした[5]。スティールもおなじくオックスフォード大学だいがく進学しんがくしたが、かれ入学にゅうがくしたのはクライスト・チャーチであり、1692ねん学位がくい取得しゅとくせずに大学だいがく[6]。この時期じきのアディソンとスティールが連絡れんらくった証拠しょうこはなかった[6]

古典こてんがくひいでたアディソンはクイーンズ・カレッジのフェローだったウィリアム・ランカスター英語えいごばん博士はかせ注目ちゅうもくけ、ランカスターの尽力じんりょくにより1689ねん7がつ30にちから1697ねんまでどう大学だいがくモードリン・カレッジデミシップ英語えいごばんdemyship奨学しょうがくきん一種いっしゅ)を[1][6][5]。その、1691ねんB.A.学位がくいを、1694ねん2がつ14にちM.A.学位がくい修得しゅうとくした[1]。1697ねん5がつ30にちかり採用さいようフェロー就任しゅうにんしたのち[6]、1698ねん正式せいしき就任しゅうにん、1711ねんまでつとめた[1]

在学ざいがくちゅうジョン・ドライデン詩作しさく献呈けんていしており、このは1693ねん6がつにドライデンが出版しゅっぱんした詩集ししゅうExamen Poeticumふくまれた[6]。1695ねんPoem to his Majesty国璽尚書こくじしょうしょジョン・サマーズ(のちの初代しょだいサマーズ男爵だんしゃく)に献呈けんてい、1697ねんラテン語らてんごPax Gulielmi auspiciis Europeae reddita財務ざいむ大臣だいじんチャールズ・モンタギュー献呈けんていした[6]。これらの努力どりょくにより、のちにモンタギューやサマーズがアディソンのパトロンになった[6]

グランドツアー

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モンタギューの尽力じんりょく政府せいふから200ポンドをあたえられたアディソンはグランドツアー[6]。1699ねん8がつドーバーから出発しゅっぱつしてカレーかい、つづいてパリについた[6]。パリではオペラを、ヴェルサイユではルイ14せい肖像しょうぞう鑑賞かんしょうしたが、フランス語ふらんすごをあまりはなぜなかったため、12月にブロワ移動いどうしてフランス語ふらんすご勉強べんきょうをはじめた[6]。ブロワではフランス語ふらんすご教師きょうしから指導しどうけ、教師きょうしとともに晩餐ばんさんをとる以外いがいはほとんどだれにもわず、隠居いんきょちか状況じょうきょうだったが[1]エドワード・ウォートリー・モンタギューおとずれてきたときは一緒いっしょにフランス中部ちゅうぶたびした[6]以降いこうエドワード・ウォートリー・モンタギューとそのつまメアリー最後さいごまでアディソンの友人ゆうじんでありつづけた[6]。1700ねんなつ[6]にパリにもどったときには哲学てつがくしゃニコラ・ド・マルブランシュ詩人しじんニコラ・ボアロー=デプレオーとの対話たいわ問題もんだいしょうじないほどフランス語ふらんすご上達じょうたつした[1]

つづいてマルセイユうつり、1700ねん12月にふねってイタリアにかおうとしたが、あらしってサヴォーナ上陸じょうりくせざるをなかった[1]。アディソンは海路かいろわりに陸路りくろ使つかい、ジェノヴァパヴィーアミラノヴェネツィアサンマリノロレートローマ経由けいゆすすめ、受難じゅなんしゅうナポリごした[1][6]

1702ねん3がつにイングランドおうウィリアム3せい死去しきょ、ハリファックス男爵だんしゃく(チャールズ・モンタギューが1700ねん叙爵じょしゃく)やサマーズ男爵だんしゃくといったホイッグとうぞくするパトロンが官職かんしょく解任かいにんされたことで官職かんしょく就任しゅうにん一気いっきとおのいたが、アディソンはたびつづけ、あきにはスイスチロル経由けいゆウィーン到着とうちゃく年末ねんまつにはドレスデンつづいてハンブルク到着とうちゃくした[6]。1703ねんにはネーデルラント連邦れんぽう共和きょうわこく(オランダ)のライデンアムステルダムたびし、同地どうちちちった[6]書店しょてん経営けいえいするジェイコブ・トンソン英語えいごばんだい6だいサマセット公爵こうしゃくチャールズ・シーモア同意どういて、公爵こうしゃく息子むすこであるハートフォード伯爵はくしゃくアルジャーノン・シーモア家庭かてい教師きょうしとしてアディソンを招聘しょうへいしようとした[1]。トンソンとアディソンは交渉こうしょうはじめたが、アディソンが経費けいひとし100ギニー支払しはらいでも不十分ふじゅうぶんであると主張しゅちょうして公爵こうしゃくおこらせてしまい、交渉こうしょう物別ものわかれにわった[1]ジョナサン・スウィフトによれば、アディソンが外国がいこく資金しきんなんおちいり、(たびする)「男性だんせい随行ずいこうする家庭かてい教師きょうし」(travelling tutor to a squire)になったというが、『英国えいこく人名じんめい事典じてん』ではこの記述きじゅつ風刺ふうしであり、証拠しょうこ裏打うらうちされた言葉ことばではないとしている[1]

アン女王じょおうのホイッグとう政権せいけん(1704ねん – 1710ねん

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アディソンが帰国きこくした時点じてんではパトロンのハリファックスとサマーズが官職かんしょく復帰ふっきしておらず、アディソンに外交がいこうしょくあたえられる見込みこみはなかったが[4]政府せいふないにおけるホイッグとう影響えいきょうりょくしていた[1]。1704ねん8がつブレンハイムのたたかでイングランドぐん勝利しょうりすると、大蔵おおくらきょう英語えいごばん初代しょだいゴドルフィン男爵だんしゃくシドニー・ゴドルフィン戦勝せんしょういわ詩人しじん人選じんせんについてハリファックスと相談そうだん、ハリファックスは十分じゅうぶん報酬ほうしゅうがあれば有能ゆうのう作家さっか推薦すいせんできるとした[1]。ゴドルフィンはそれをけて、財務ざいむ大臣だいじんヘンリー・ボイル閣下かっかをアディソンのもとにやって、アディソンを招聘しょうへいした[1]。アディソンは関税かんぜい控訴こうそ委員いいんcommissioner of appeals in the excise年収ねんしゅう200ポンドの官職かんしょく)を代償だいしょうに『せん』(The Campaign、1704ねん12月14にち出版しゅっぱん[6])とだいするき、それがだい成功せいこうおさめた[4]。『英国えいこく人名じんめい事典じてん』は『せん』がハリファックスのボインかわたたかでの勝利しょうりいわよりはく、公認こうにんofficial poetry)としては上質じょうしつえたが、どう時代じだい作品さくひんのなかではきんでるほどのしつではないとしている[1]。『せん』ではマールバラ公爵こうしゃくを「天使てんし」に比喩ひゆしたが、サミュエル・ジョンソン引用いんようしたサミュエル・マッデン英語えいごばん意見いけんによれば、「10にん学生がくせいけば、8にん天使てんし使つかうとこたえてもおかしくない」(if he had proposed the same topic to ten schoolboys, he should not have been surprised if eight had brought him the angel)ほど平凡へいぼん形容けいようだという[1]ジョセフ・ウォートン英語えいごばんいたっては「いん官報かんぽう」(Gazette in rhyme)と揶揄やゆした[1]

いずれにせよ、『せん』の成功せいこうにより、アディソンの文壇ぶんだん政界せいかいでの地位ちいがり[1]1705ねんイングランドそう選挙せんきょでホイッグとう勝利しょうりするなどホイッグとう有利ゆうり情勢じょうせいになったため、アディソンは1705ねん7がつには南部なんぶしょう英語えいごばん政務次官せいむじかん任命にんめいされた[6]。このときの南部なんぶ担当たんとう国務大臣こくむだいじんトーリーとうチャールズ・ヘッジスであり、1706ねん12月にヘッジスが退任たいにんしてだい3だいサンダーランド伯爵はくしゃくチャールズ・スペンサー後任こうにんになったときも留任りゅうにんした[1]同年どうねんなつにハリファックス男爵だんしゃくハノーファーせんみかどこうゲオルク・ルートヴィヒガーター勲章くんしょう授与じゅよするための使節しせつ任命にんめいされると[1]、アディソンはハリファックスに同伴どうはんしてハノーファーせんみかどほうりょうかった[4]

官職かんしょく就任しゅうにんするかたわら、イタリアでの見聞けんぶんをもとに散文さんぶんき、1705ねん11月に『イタリア見聞けんぶん』(Remarks on Several Parts of Italy、サマーズ男爵だんしゃく献呈けんてい)としてトンソンにより出版しゅっぱんされた[1][6][7]。この著作ちょさく出版しゅっぱんしてすぐ大人気だいにんきになり、品薄しなうす状態じょうたいにより値段ねだん原価げんかの4から5ばいがり、1718ねんだい2はん出版しゅっぱんされてようやくいた[1]。このように、『イタリア見聞けんぶん』は18世紀せいきのイギリスじん大陸たいりくヨーロッパたびするときの必携ひっけいしょとされるほどだったが[8]、『オックスフォード英国えいこく人名じんめい事典じてん』は現代げんだい紀行きこう文学ぶんがくからの視点してんでは。アディソン自身じしんは『イタリア見聞けんぶん』を友人ゆうじんジョナサン・スウィフトおくっている[1]

散文さんぶん以外いがいではオペラロザモンド英語えいごばん』のリブレットあらわした[1]。『ロザモンド』は1700年代ねんだいにイングランドで流行りゅうこうしたイタリア・オペラとことなり、イングランドの伝承でんしょうもとづくオペラであり[9]当時とうじイギリスで上演じょうえんされたオペラのおおくがイタリアうたふくむのにたいし、『ロザモンド』のうた英語えいごのみだった[1]。『ロザモンド』は1707ねん3がつ4にちドルリー・レーン劇場げきじょう英語えいごばん上演じょうえんされたが、だい失敗しっぱいわり、3日間にちかんしか上演じょうえんされなかった[6][9]。アディソンはオペラの作曲さっきょくトマス・クレイトン英語えいごばん招聘しょうへいしており、チャールズ・バーニーはこの人選じんせんが「音楽おんがくへの知識ちしき審美しんび欠如けつじょ」(want of taste and intelligence in Music)とひょうした[10]。のちにトマス・アーン作曲さっきょく使用しようした再演さいえん英語えいごばん成功せいこうおさめた[1]。また、『ロザモンド』とほぼどう時期じきにスティールが喜劇きげき『やさしいおっと』(The Tender Husband、1705ねん)をあらわしており、アディソンがスティールを手伝てつだったためスティールはげきをアディソンに献呈けんていした[1]

どう1707ねんにはThe present state of the war and the necessity of an augmentation consideredだいするパンフレットをあらわしており、スペイン継承けいしょう戦争せんそうにおけるイギリスの戦争せんそう目標もくひょうをホイッグとう視点してん記述きじゅつするとともに、フランスを「ブリテンこくもっと危険きけんてき」(most dangerous enemy to the British nation)と形容けいようした[6][4]

1708ねんイギリスそう選挙せんきょでは選挙せんきょ当日とうじつ急遽きゅうきょロストウィシエル選挙せんきょ英語えいごばんから出馬しゅつばして当選とうせんした[11]。この出馬しゅつば上司じょうしのサンダーランド伯爵はくしゃく主導しゅどうした行動こうどうだった[11]当選とうせんしたアディソンは議員ぎいん失格しっかくふせぐために、1708ねん6がつ関税かんぜい控訴こうそ委員いいん辞任じにんした[4]対立たいりつ候補こうほフランシス・ロバーツ閣下かっか英語えいごばんラッセル・ロバーツ閣下かっか英語えいごばん選管せんかんつとめた市長しちょうアレクサンダー・ジョンズ(Alexander Johns)の公正こうせい主張しゅちょうして選挙せんきょ申立もうしたてを提出ていしゅつ選挙せんきょ委員いいんかいは1709ねん12月に全会ぜんかい一致いっちでフランシス・ロバーツとラッセル・ロバーツの当選とうせん宣告せんこくした[11]一方いっぽう、アディソンは1709ねん1がつ南部なんぶしょう政務次官せいむじかんからアイルランド主席しゅせき政務せいむかん英語えいごばん年収ねんしゅう2,000ポンドの官職かんしょく)にてんじ、アイルランド総督そうとく初代しょだいウォートン伯爵はくしゃくトマス・ウォートン部下ぶかになり[4]、4がつ21にちダブリン到着とうちゃくした[1]同年どうねんアイルランド枢密院すうみついん英語えいごばん枢密すうみつ顧問こもんかん任命にんめいされたほか[4]同年どうねんから1713ねんまでキャバン・バラ選挙せんきょ英語えいごばん代表だいひょうとしてアイルランド庶民しょみんいん英語えいごばん議員ぎいんつとめた[12]。『英国えいこく議会ぎかい英語えいごばん』によれば、アディソンは総督そうとく部下ぶかとしてよくはたらいたが、政治せいじおおきな役割やくわりたすことはなく、アイルランド庶民しょみんいん発言はつげんした記録きろくもなかった[4]。ウォートンとの関係かんけい心地ここちよかったが、けっしてしたしくはなかった(comfortable but never close)という[4]。また、ダブリンじょうのバーミンガム・タワー記録きろく長官ちょうかんkeeper of the records in the Bermingham tower年収ねんしゅう400ポンドの官職かんしょく)に任命にんめいされるかたち給料きゅうりょう上乗うわのせがなされた[4]。この官職かんしょくまったくの閑職かんしょくであり、スウィフトは「そこの記録きろくはんクラウン価値かちもない」(all the Records there are not worth Half a Crown)と形容けいようした[6]

タトラー

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1709ねん4がつ12にち友人ゆうじんスティールが筆名ひつめいアイザック・ビッカースタッフ英語えいごばんもちいて、エッセイ新聞しんぶんタトラー英語えいごばん』を創刊そうかんした[1][13]。『タトラー』は火曜かよう木曜もくよう土曜どようしゅう3かい発行はっこうであり[6]、1ねんには毎号まいごう3せん発行はっこうされるようになり、1711ねん1がつ2にちまでつづいた[1]。タトラーの内容ないよう最初さいしょ新聞しんぶん記事きじ広告こうこく構成こうせいされたが、やがてながいエッセイ1ほんという構成こうせいになり[6]おも社会しゃかい風俗ふうぞく文芸ぶんげい政治せいじ外交がいこうあつかった[13]

アディソンはタトラーの設立せつりつ時点じてんではアイルランド主席しゅせき政務せいむかん任命にんめいされてダブリンにかう道中どうちゅうにあり、あまりかかわらなかったが、4がつ23にちごうでスティールへの言葉ことば記載きさいされたことで主筆しゅひつがスティールとづき[1]、5月20にちごうよりタトラー寄稿きこうするようになり、以降いこう単作たんさくで50ごう、スティールとのともさくで20ごう以上いじょういた[6]。タトラーへの寄稿きこうについて、『オックスフォード英国えいこく人名じんめい事典じてん』では普段ふだん記事きじがスティールのそれよりわずかに洗練せんれんされており、ユーモア記事きじでもスティールのそれより品位ひんいのあったとひょうした[6]

タトラーは2ねん未満みまん廃刊はいかんしたが、スティールとアディソンはわずか2かげつには『スペクテイター』を創刊そうかんすることとなる[1]

2度目どめ庶民しょみんいん議員ぎいん就任しゅうにん

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1710ねんにトーリーとう政権せいけんにぎると、アディソンも主席しゅせき政務せいむかん解任かいにんされたが、あたらしく任命にんめいされた総督そうとくだい2だいオーモンド公爵こうしゃくジェームズ・バトラー好意こういにより、ダブリンじょう閑職かんしょく留任りゅうにんすることができた[4]同年どうねん3がつマームズベリー選挙せんきょ英語えいごばん補欠ほけつ選挙せんきょでウォートン伯爵はくしゃく推薦すいせんけて当選とうせんした[14]。ウォートン伯爵はくしゃくが1690ねんから1715ねん死去しきょするまでマームズベリー執事しつじちょうHigh Steward of Malmesbury)をつとめ、マームズベリーで勢力せいりょくゆうしたため、アディソンは1713ねん1715ねんそう選挙せんきょでもウォートン伯爵はくしゃく指名しめいけて再選さいせんした[14][15]。1710ねん3がつには絶大ぜつだい人気にんきほこり、ジョナサン・スウィフトが「かれ国王こくおう選出せんしゅつされようとしても、ことわられることはないだろう」(if he had a mind to be chosen king he would hardly be refused)と形容けいようしたほどだった[6]

議会ぎかい演説えんぜつした記録きろくはなく、議会ぎかい演説えんぜつかんする逸話いつわとしては「庶民しょみんいんがって演説えんぜつしようとしたとき、『かれけ!』(Hear him! Hear him!)とかえされた野次やじずかしくなって、一言ひとことはっせずに着席ちゃくせきし、以降いこう二度にど演説えんぜつしようとしなかった」というものがある[16]投票とうひょうではホイッグとう立場たちばつらぬき、1711ねん12月に「スペインなくして講和こうわなし」の動議どうぎ賛成さんせいひょうを、1713ねん6がつにフランス通商つうしょう法案ほうあんFrench commerce bill)への反対はんたいひょうとうじた[4]

一方いっぽう主席しゅせき政務せいむかん俸給ほうきゅううしない、2人ふたりおとうと相次あいつ死去しきょはいるはずだった遺産いさん裁判さいばんなどにより実際じっさいにはほとんどもらえず、アディソンは支出ししゅつらすためにオックスフォード大学だいがくでのフェローしょくした[6]。この状況じょうきょうすうねんのうちに好転こうてんし、アディソンは1713ねんに8,000ポンドをついやしてラグビービルトン・ホール英語えいごばん購入こうにゅうし、親族しんぞくエドワード・アディソン(Edward Addison)を庭師にわしとしてやとった[6]

ボタンズ・コーヒー・ハウス

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英国えいこく人名じんめい事典じてん』の形容けいようによれば、アディソンは高潔こうけつ品性ひんせい謙虚けんきょ性格せいかくやさしい気質きしつによりおおくのパトロンから指示しじされ、文壇ぶんだんにもおおくの友人ゆうじんがいた[1]れいとしてジョナサン・スウィフトリチャード・スティール英語えいごばんトマス・ティッケル英語えいごばんアンブローズ・フィリップス英語えいごばんユースタス・バッジェル英語えいごばんサミュエル・ガース英語えいごばんアレキサンダー・ポープがおり、アディソンは友人ゆうじんとのあつまりじょうとしてボタンズ・コーヒー・ハウス英語えいごばん利用りようした[6]。ダニエル・ボタン(Daniel Button)はアディソンのもと使用人しようにんであり[6]、アディソンの後援こうえんけて1711ねんごろにコーヒー・ハウスを開設かいせつしたのであった[1]。ポープによれば、アディソンらがコーヒー・ハウスを長時間ちょうじかん利用りようしたことは健康けんこうわるかったという[1]。いずれにせよ、このあつまりはホイッグとう傾向けいこうつよく、ポープはもなく脱退だったい参加さんかしなくなった[6]

ボタンズ・コーヒー・ハウスはのちにスティールの『ガーディアン英語えいごばん(1713ねん)のオフィスとなる[6]

スペクテイター

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『タトラー』は1711ねん1がつ2にち最終さいしゅうごう出版しゅっぱんされたが、スティールとアディソンは直後ちょくご(3がつ1にち)にあらたなエッセイ新聞しんぶんである『スペクテイター』を創刊そうかんした[1]。スペクテイターは日刊にっかん月曜げつようから土曜どようまでの日刊にっかん)であり、1712ねん12月6にちまでつづいた[6]。タトラーの後期こうきおなじく、エッセイのみで構成こうせいされ[1]形式けいしきとしてフィクションや架空かくう投書とうしょもちいた[17]。ホイッグとうとトーリーとう政争せいそう激化げきかした時期じきだったこともあり、スペクテイターでは政治せいじ話題わだいけたが[1]、『英国えいこく議会ぎかい』ではうすいながらもホイッグしょくかんじられたとしている[4]。タトラーとちがい、アディソンは創刊そうかん当初とうしょよりスペクテイターにかかわり、だい1ごうのエッセイもアディソンがいたものだった[6]ぜん555ごうのうち、アディソンは記事きじを274ほんいた[1]

スペクテイターはすぐ成功せいこうおさめ、だい10ごうのときにはすでに3せん発行はっこうされ、2まん発行はっこうされたときもあった[1]。ただし、1712ねん8がつ1にちより徴収ちょうしゅうされた印紙いんしぜい値上ねあげを余儀よぎなくされ、部数ぶすう半分はんぶんった[1]

スペクテイターの最終さいしゅうごう出版しゅっぱんされたのち、アディソンは悲劇ひげきカトー英語えいごばん』にかった[1]。『カトー』はオックスフォおっくすふぉド大学どだいがくにはすでに初稿しょこう作成さくせいされており、以降いこうグランドツアーちゅう改訂かいていすすめられ、さらにジョン・ドライデンジョナサン・スウィフトらのにより改訂かいていされたが、1712ねん時点じてんではだい4まくまでしか完成かんせいしていなかった[6]。1712ねんアンブローズ・フィリップス英語えいごばんDistrest Mother成功せいこうおさめたことで[6]、アディソンは1週間しゅうかんだい5まくげ、『カトー』は1713ねん4がつ14にちにはドルリー・レーン劇場げきじょう英語えいごばん上演じょうえんされた[1]。『カトー』はだい成功せいこうして、5月9にちまで20日間にちかん上演じょうえんされたほか、フランス語ふらんすご、イタリア、ドイツ翻訳ほんやくされ、イエズスかいによりラテン語らてんごにも翻訳ほんやくされた[1]。スペクテイターのときとおなじく、ホイッグとうとトーリーとうはげしく対立たいりつした時期じきだったが、りょうとう人物じんぶつともに『カトー』を賞賛しょうさんした[1][2]

アディソンがカトー以降いこういた演劇えんげきは『ドラマー英語えいごばん』(The Drummer)の1ほんだけだった[6]。『ドラマー』はいまやドルリー・レーン劇場げきじょうのマネージャーに就任しゅうにんしたスティールにより、1716ねん3がつ10日とおか上演じょうえんされたが、あまり成功せいこうしなかった[6]

ガーディアン、スペクテイター、フリーホルダー

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1713ねん3がつにスティールが『ガーディアン英語えいごばん創刊そうかんすると、アディソンは合計ごうけい記事きじを52ほんいた[6]同年どうねんユトレヒト条約じょうやくふくまれた通商つうしょう条項じょうこうがロンドンの商人しょうにんからだい反対はんたいけると、アディソンはThe trial and conviction of Count Tariffだいするパンフレットを出版しゅっぱんして、条約じょうやく締結ていけつ主導しゅどうした初代しょだいボリングブルック子爵ししゃくヘンリー・シンジョン批判ひはんした[6]。1714ねんに『スペクテイター』が短期間たんきかん復活ふっかつしたときは1714ねん6がつ18にちから9がつ29にちまで記事きじを24ほんいた[1]

1715ねん12月から1716ねん6がつにかけては『フリーホルダー』(The Freeholder)を出版しゅっぱんした[1]。フリーホルダーはしゅう2かい刊行かんこうであり[6]1715ねんジャコバイト蜂起ほうきけてホイッグとう原則げんそくまもるための政治せいじだった[1]。アディソンは合計ごうけいでフリーホルダーの記事きじを55ほんいた[1]

ハノーヴァーあさでの官職かんしょく(1714ねん – 1719ねん

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1714ねん8がつアン死去しきょしてから、ジョージ1せいがイギリスに到着とうちゃくするまで政務せいむをとった司法しほうきょうLords Justices)の秘書官ひしょかんつとめたため、次期じき国務大臣こくむだいじんうわさされたが、実際じっさいには財務省ざいむしょう秘書官ひしょかん英語えいごばんにも下級かきゅう商務しょうむきょうにも任命にんめいされず、9月にアイルランド主席しゅせき政務せいむかん任命にんめいされた程度ていどだった[16]。さらにアイルランド総督そうとくだい3だいサンダーランド伯爵はくしゃくチャールズ・スペンサー総督そうとくとしてアイルランドに赴任ふにんしなかったため、アディソンはつづきロンドンで議会ぎかい登院とういんした[16]

サンダーランドのアイルランド総督そうとく退任たいにんともな[1]、アディソンも1715ねん8がつにアイルランド主席しゅせき政務せいむかん退任たいにん、12月に下級かきゅう商務しょうむきょう任命にんめいされた[16]。1717ねん4がつホイッグとう分裂ぶんれつ英語えいごばんではサンダーランド伯爵はくしゃくがはじめ政争せいそう有利ゆうりすすめたため、アディソンはサンダーランドにより南部なんぶ担当たんとう国務大臣こくむだいじん任命にんめいされ、どう4がつ16にちグレートブリテン枢密院すうみついん枢密すうみつ顧問こもんかん任命にんめいされた[16]どう時代じだい日記にっき作家さっかである初代しょだいエグモント伯爵はくしゃくジョン・パーシヴァル(このときは初代しょだいパーシヴァル男爵だんしゃく)によれば、サンダーランドがアディソンを国務大臣こくむだいじん任命にんめいしたのは自身じしん命令めいれいかないひと就任しゅうにんさせないためであり、それが必要ひつようなくなった途端とたん(1718ねん3がつ政務せいむができないアディソンを解任かいにんした[16]一方いっぽう、『英国えいこく人名じんめい事典じてん』では健康けんこう悪化あっか理由りゆうとしてげている[1]退任たいにんにあたり、1600ポンドの年金ねんきんあたえられた[16]

ポープとの確執かくしつ

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1714ねん10がつアレキサンダー・ポープはアディソンにたいし、自身じしん出版しゅっぱんする予定よていの『イーリアス英語えいごやくだい1、2かんむよう依頼いらいした[18]。しかし、アディソンの友人ゆうじんトマス・ティッケル英語えいごばんだい1かん英語えいごやくませて、アディソンにむようもとめてきていたため、アディソンはポープのもとめを辞退じたいしようとした[18]最終さいしゅうてきにはアディソンがれてポープやくだい2かんみ、それを賞賛しょうさんした[18]。ポープはその、1715ねん6がつにイーリアスの英語えいごやくだい1かん出版しゅっぱんしたが、そのしゅうにティッケルの英語えいごやく出版しゅっぱんされ、さらにスティールからアディソンがティッケルやくを「これまでのどの言語げんご翻訳ほんやくよりもい」とひょうしたとかされたため、ポープはボタンズでアディソンの『カトー英語えいごばん』を批判ひはんした[18]

さい晩年ばんねん

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1719ねんにサンダーランドが貴族きぞく法案ほうあん英語えいごばん提出ていしゅつすると、スティールは1719ねん3がつ14にちづけの『プリビアン』The Plebeian)で法案ほうあん批判ひはん、アディソンは3がつ19にちづけの『オールド・ホイッグ』The Old Whig)でスティールの批判ひはんおだやかな返答へんとうおこない、貴族きぞく法案ほうあん勢力せいりょく均衡きんこうたもつための施策しさくとして擁護ようごした[1]。スティールは3がつ29にちと30にちづけの『プリビアン』返答へんとうしたが、この返答へんとう政敵せいてき品行ひんこう批判ひはんしたため、19世紀せいきにはトーマス・マコーリーから批判ひはんされた[1]。アディソンは4がつ2にちづけの『オールド・ホイッグ』でスティールの品行ひんこう批判ひはん軽蔑けいべつしたが、『プリビアン』立派りっぱ論評ろんぴょうをかけるとしんじているともべた[1]。スティールは4がつ6にちづけの『プリビアン』2人ふたり友情ゆうじょううしなわれたことに遺憾いかん表明ひょうめいしたが、和解わかいへのうごきはみられなかった[1]

同年どうねんリッチフィールド聖堂せいどう英語えいごばんちち記念きねんてた[3]。1719ねん6がつ17にちケンジントンホランド・ハウス病死びょうしした[6]。6月26にちウェストミンスター寺院じいん埋葬まいそうされた[19]著作ちょさくについては死去しきょから数日すうじつまえトマス・ティッケル英語えいごばん(アディソンの南部なんぶ担当たんとう大臣だいじん在任ざいにんちゅう政務次官せいむじかんつとめた人物じんぶつ)に自身じしん著作ちょさく収集しゅうしゅうするようめいじ、ティッケルのパトロンとしてジェームズ・クラッグス推薦すいせんした[18]。その、ティッケルは1721ねん10がつ3にちにアディソンの作品さくひんしゅうぜん4かん)を出版しゅっぱんした[18]

1809ねん、アディソンのしろ大理石だいりせきぞうリチャード・ウェストマコットさく)がウェストミンスター寺院じいんでたてられた[19]

家族かぞく

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1716ねん8がつ9にちにシャーロット・リッチ(Charlotte Rich、1680ねん洗礼せんれい[6] – 1731ねん7がつ7にち[1]だい2だいじゅん男爵だんしゃくサー・トマス・ミドルトン英語えいごばんむすめだい6だいウォリック伯爵はくしゃくエドワード・リッチ未亡人みぼうじん)と結婚けっこん[4]、1じょをもうけた[1]

つまシャーロットにはだい7だいウォリック伯爵はくしゃくエドワード・ヘンリー・リッチがおり、アディソンはエドワード・ヘンリーの教育きょういくくばった[1]

著作ちょさく

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ジョゼフ・アディソン

ほかにも『タトラー英語えいごばん』、『スペクテイター』、『ガーディアン英語えいごばん』、『フリーホルダー』に寄稿きこうした[1]

出典しゅってん

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay az ba bb bc bd be bf bg bh bi bj bk bl Stephen, Leslie (1885). "Addison, Joseph" . In Stephen, Leslie (ed.). Dictionary of National Biography (英語えいご). Vol. 1. London: Smith, Elder & Co. pp. 122–131.
  2. ^ a b アディソン」『ブリタニカ国際こくさいだい百科ひゃっか事典じてん しょう項目こうもく事典じてんhttps://kotobank.jp/word/%E3%82%A2%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%BD%E3%83%B3コトバンクより4 November 2021閲覧えつらん 
  3. ^ a b c d Hamilton, Alastair (23 September 2004). "Addison, Lancelot". Oxford Dictionary of National Biography (英語えいご) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/157 (よう購読こうどく、またはイギリス公立こうりつ図書館としょかんへの会員かいいん加入かにゅう。)
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n o Hayton, D. W. (2002). "ADDISON, Joseph (1672-1719), of Sandy End, Fulham, Mdx.; St. Margaret's, Westminster, and Bilton Hall, Warws.". In Hayton, David; Cruickshanks, Eveline; Handley, Stuart (eds.). The House of Commons 1690-1715 (英語えいご). The History of Parliament Trust. 2021ねん11月4にち閲覧えつらん
  5. ^ a b Foster, Joseph, ed. (1891). "Abannan-Appletre". Alumni Oxonienses 1500-1714 (英語えいご). Oxford: University of Oxford. pp. 1–28.
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax Rogers, Pat (28 May 2015) [23 September 2004]. "Addison, Joseph". Oxford Dictionary of National Biography (英語えいご) (online ed.). Oxford University Press. doi:10.1093/ref:odnb/156 (よう購読こうどく、またはイギリス公立こうりつ図書館としょかんへの会員かいいん加入かにゅう。)
  7. ^ a b Addison, Joseph (1767) [1705]. Remarks on Several Parts of Italy, &c. in the Years 1701, 1702, 1703 (英語えいご). London: J. and R. Tonson.
  8. ^ a b c アディソン」『世界せかいだい百科ひゃっか事典じてん だいはんhttps://kotobank.jp/word/%E3%82%A2%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%BD%E3%83%B3コトバンクより3 November 2021閲覧えつらん 
  9. ^ a b c d 松田まつだ, 幸子こうじオペラは「ゴシック」か:『ロザモンド』における「古代こだい」イングランド」『文学ぶんがく研究けんきゅう論集ろんしゅうだい27ごう筑波大学つくばだいがく比較ひかく理論りろん文学ぶんがくかい、2009ねん2がつ28にち、69–71, 80、ISSN 0915-8944NCID AN10366582 
  10. ^ Fubini, Enrico (1994) [1986]. Blackburn, Bonnie J. (ed.). Music and Culture in Eighteenth-Century Europe: A Source Book (英語えいご). Chicago: The University of Chicago Press. p. 391. ISBN 0-226-26731-8
  11. ^ a b c Cruickshanks, Eeline; Handley, Stuart (2002). "Lostwithiel". In Hayton, David; Cruickshanks, Eveline; Handley, Stuart (eds.). The House of Commons 1690-1715 (英語えいご). The History of Parliament Trust. 2021ねん11月3にち閲覧えつらん
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  13. ^ a b タトラー」『ブリタニカ国際こくさいだい百科ひゃっか事典じてん しょう項目こうもく事典じてんhttps://kotobank.jp/word/%E3%82%BF%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BCコトバンクより3 November 2021閲覧えつらん 
  14. ^ a b Hayton, D. W. (2002). "Malmesbury". In Hayton, David; Cruickshanks, Eveline; Handley, Stuart (eds.). The House of Commons 1690-1715 (英語えいご). The History of Parliament Trust. 2021ねん11月3にち閲覧えつらん
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  16. ^ a b c d e f g Lea, R. S. (1970). "ADDISON, Joseph (1672-1719), of Bilton, Warws. and Holland House, Kensington". In Sedgwick, Romney (ed.). The House of Commons 1715-1754 (英語えいご). The History of Parliament Trust. 2021ねん11月4にち閲覧えつらん
  17. ^ スペクテーター」『ブリタニカ国際こくさいだい百科ひゃっか事典じてん しょう項目こうもく事典じてんhttps://kotobank.jp/word/%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%AF%E3%83%86%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BCコトバンクより4 November 2021閲覧えつらん 
  18. ^ a b c d e f Aitken, George Atherton (1898). "Tickell, Thomas" . In Lee, Sidney (ed.). Dictionary of National Biography (英語えいご). Vol. 56. London: Smith, Elder & Co. pp. 380–382.
  19. ^ a b c "Joseph Addison". Westminster Abbey (英語えいご). 2021ねん11月3にち閲覧えつらん
  20. ^ アジソン」『精選せいせんばん 日本にっぽん国語こくごだい辞典じてんhttps://kotobank.jp/word/%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%BD%E3%83%B3コトバンクより3 November 2021閲覧えつらん 

関連かんれん図書としょ

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外部がいぶリンク

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