ジョゼフ・アディソン (英語 えいご : Joseph Addison PC PC (Ire) 、1672年 ねん 5月1日 にち – 1719年 ねん 6月17日 にち )は、イギリス のエッセイスト 、詩人 しじん 、劇 げき 作家 さっか 、政治 せいじ 家 か 、文学 ぶんがく 者 しゃ 。ジョゼフはジョセ フ、アディソンはアジ ソンと訳 やく される事 こと もある。熱心 ねっしん なホイッグ党 とう の支持 しじ 者 しゃ であり、アン女王 じょおう の治世 ちせい に友人 ゆうじん のリチャード・スティール (英語 えいご 版 ばん ) と共 とも にエッセイ 新聞 しんぶん 『スペクテイター 』(1711年 ねん – 1714年 ねん )を創刊 そうかん して[ 1] 、18世紀 せいき 市民 しみん 文学 ぶんがく の基礎 きそ を確立 かくりつ したことで知 し られる[ 2] 。
聖職 せいしょく 者 しゃ ランスロット・アディソン (英語 えいご 版 ばん ) と1人 ひとり 目 め の妻 つま ジェーン・ガルストン(Jane Gulston 、1635年 ねん ? – 1684年 ねん 6月 がつ 30日 にち [ 3] )の長男 ちょうなん として、1672年 ねん 5月 がつ 1日 にち にウィルトシャー のミルストン (英語 えいご 版 ばん ) で生 う まれた[ 1] 。1671年 ねん に生 う まれた姉 あね ジェーンは夭折 ようせつ しており、弟 おとうと にのちのマドラス総督 そうとく ガルストン・アディソン (英語 えいご 版 ばん ) (1673年 ねん – 1709年 ねん )、古典 こてん 学者 がくしゃ ランスロット・アディソン(1680年 ねん – 1710年 ねん )が、妹 いもうと にドロシー(1674年 ねん – 1750年 ねん )とアン(1676年 ねん – ?)がいる[ 3] 。エイムズベリー (英語 えいご 版 ばん ) 、ついでソールズベリー のグラマースクール に通 とお った後 のち 、1683年 ねん に父 ちち がリッチフィールド聖堂 せいどう 参事 さんじ 会長 かいちょう (英語 えいご 版 ばん ) に任命 にんめい されると、リッチフィールド の学校 がっこう に転校 てんこう した[ 1] 。父 ちち は1684年 ねん にもコヴェントリー大 だい 執事 しつじ (英語 えいご 版 ばん ) に昇進 しょうしん したが、ジョセフの教育 きょういく などが原因 げんいん となって債務 さいむ を背負 せお ったままだった[ 3] 。1686年 ねん にチャーターハウス・スクール に転校 てんこう [ 4] 、同校 どうこう でリチャード・スティール (英語 えいご 版 ばん ) と知 し り合 あ った[ 1] 。
1687年 ねん 7月 がつ 12日 にち 、アディソンはオックスフォ おっくすふぉ ード大学 どだいがく クイーンズ・カレッジ に入学 にゅうがく した[ 5] 。スティールも同 おな じくオックスフォード大学 だいがく に進学 しんがく したが、彼 かれ が入学 にゅうがく したのはクライスト・チャーチ であり、1692年 ねん に学位 がくい を取得 しゅとく せずに大学 だいがく を出 で た[ 6] 。この時期 じき のアディソンとスティールが連絡 れんらく を取 と り合 あ った証拠 しょうこ はなかった[ 6] 。
古典 こてん 学 がく に秀 ひい でたアディソンはクイーンズ・カレッジのフェローだったウィリアム・ランカスター (英語 えいご 版 ばん ) 博士 はかせ の注目 ちゅうもく を受 う け、ランカスターの尽力 じんりょく により1689年 ねん 7月 がつ 30日 にち から1697年 ねん まで同 どう 大学 だいがく モードリン・カレッジ のデミシップ (英語 えいご 版 ばん ) (demyship 、奨学 しょうがく 金 きん の一種 いっしゅ )を得 え た[ 1] [ 6] [ 5] 。その後 ご 、1691年 ねん にB.A. の学位 がくい を、1694年 ねん 2月 がつ 14日 にち にM.A. の学位 がくい を修得 しゅうとく した[ 1] 。1697年 ねん 5月 がつ 30日 にち に仮 かり 採用 さいよう でフェロー に就任 しゅうにん した後 のち [ 6] 、1698年 ねん に正式 せいしき に就任 しゅうにん 、1711年 ねん まで務 つと めた[ 1] 。
在学 ざいがく 中 ちゅう にジョン・ドライデン に詩作 しさく を献呈 けんてい しており、この詩 し は1693年 ねん 6月 がつ にドライデンが出版 しゅっぱん した詩集 ししゅう Examen Poeticum に含 ふく まれた[ 6] 。1695年 ねん にPoem to his Majesty を国璽尚書 こくじしょうしょ のジョン・サマーズ (のちの初代 しょだい サマーズ男爵 だんしゃく )に献呈 けんてい 、1697年 ねん にラテン語 らてんご の詩 し Pax Gulielmi auspiciis Europeae reddita を財務 ざいむ 大臣 だいじん チャールズ・モンタギュー に献呈 けんてい した[ 6] 。これらの努力 どりょく により、のちにモンタギューやサマーズがアディソンのパトロンになった[ 6] 。
モンタギューの尽力 じんりょく で政府 せいふ から200ポンドを与 あた えられたアディソンはグランドツアー に出 で た[ 6] 。1699年 ねん 8月 がつ にドーバー から出発 しゅっぱつ してカレー に向 む かい、続 つづ いてパリ についた[ 6] 。パリではオペラを、ヴェルサイユ ではルイ14世 せい の肖像 しょうぞう 画 が を鑑賞 かんしょう したが、フランス語 ふらんすご をあまりはなぜなかったため、12月にブロワ に移動 いどう してフランス語 ふらんすご の勉強 べんきょう をはじめた[ 6] 。ブロワではフランス語 ふらんすご の教師 きょうし から指導 しどう を受 う け、教師 きょうし とともに晩餐 ばんさん をとる以外 いがい はほとんど誰 だれ にも会 あ わず、隠居 いんきょ に近 ちか い状況 じょうきょう だったが[ 1] 、エドワード・ウォートリー・モンタギュー が訪 おとず れてきたときは一緒 いっしょ にフランス中部 ちゅうぶ を旅 たび した[ 6] 。以降 いこう エドワード・ウォートリー・モンタギューとその妻 つま メアリー は最後 さいご までアディソンの友人 ゆうじん であり続 つづ けた[ 6] 。1700年 ねん 夏 なつ [ 6] にパリに戻 もど ったときには哲学 てつがく 者 しゃ ニコラ・ド・マルブランシュ や詩人 しじん ニコラ・ボアロー=デプレオー との対話 たいわ で問題 もんだい が生 しょう じないほどフランス語 ふらんすご が上達 じょうたつ した[ 1] 。
続 つづ いてマルセイユ に移 うつ り、1700年 ねん 12月に船 ふね に乗 の ってイタリアに向 む かおうとしたが、嵐 あらし に遭 あ ってサヴォーナ に上陸 じょうりく せざるを得 え なかった[ 1] 。アディソンは海路 かいろ の代 か わりに陸路 りくろ を使 つか い、ジェノヴァ 、パヴィーア 、ミラノ 、ヴェネツィア 、サンマリノ 、ロレート 、ローマ 経由 けいゆ で進 すす め、受難 じゅなん 週 しゅう をナポリ で過 す ごした[ 1] [ 6] 。
1702年 ねん 3月 がつ にイングランド王 おう ウィリアム3世 せい が死去 しきょ 、ハリファックス男爵 だんしゃく (チャールズ・モンタギューが1700年 ねん に叙爵 じょしゃく )やサマーズ男爵 だんしゃく といったホイッグ党 とう に属 ぞく するパトロンが官職 かんしょく を解任 かいにん されたことで官職 かんしょく 就任 しゅうにん が一気 いっき に遠 とお のいたが、アディソンは旅 たび を続 つづ け、秋 あき にはスイス 、チロル 経由 けいゆ でウィーン に到着 とうちゃく 、年末 ねんまつ にはドレスデン 、続 つづ いてハンブルク に到着 とうちゃく した[ 6] 。1703年 ねん にはネーデルラント連邦 れんぽう 共和 きょうわ 国 こく (オランダ)のライデン とアムステルダム を旅 たび し、同地 どうち で父 ちち の死 し を知 し った[ 6] 。書店 しょてん を経営 けいえい するジェイコブ・トンソン (英語 えいご 版 ばん ) は第 だい 6代 だい サマセット公爵 こうしゃく チャールズ・シーモア の同意 どうい を得 え て、公爵 こうしゃく の息子 むすこ であるハートフォード伯爵 はくしゃく アルジャーノン・シーモア の家庭 かてい 教師 きょうし としてアディソンを招聘 しょうへい しようとした[ 1] 。トンソンとアディソンは交渉 こうしょう を始 はじ めたが、アディソンが経費 けいひ と年 とし 100ギニー の支払 しはら いでも不十分 ふじゅうぶん であると主張 しゅちょう して公爵 こうしゃく を怒 おこ らせてしまい、交渉 こうしょう は物別 ものわか れに終 お わった[ 1] 。ジョナサン・スウィフト によれば、アディソンが外国 がいこく で資金 しきん 難 なん に陥 おちい り、(旅 たび する)「男性 だんせい に随行 ずいこう する家庭 かてい 教師 きょうし 」(travelling tutor to a squire )になったというが、『英国 えいこく 人名 じんめい 事典 じてん 』ではこの記述 きじゅつ が風刺 ふうし であり、証拠 しょうこ に裏打 うらう ちされた言葉 ことば ではないとしている[ 1] 。
アン女王 じょおう のホイッグ党 とう 政権 せいけん 期 き (1704年 ねん – 1710年 ねん )[ 編集 へんしゅう ]
アディソンが帰国 きこく した時点 じてん ではパトロンのハリファックスとサマーズが官職 かんしょく に復帰 ふっき しておらず、アディソンに外交 がいこう 職 しょく を与 あた えられる見込 みこ みはなかったが[ 4] 、政府 せいふ 内 ない におけるホイッグ党 とう の影響 えいきょう 力 りょく は増 ま していた[ 1] 。1704年 ねん 8月 がつ のブレンハイムの戦 たたか い でイングランド軍 ぐん が勝利 しょうり すると、大蔵 おおくら 卿 きょう (英語 えいご 版 ばん ) の初代 しょだい ゴドルフィン男爵 だんしゃく シドニー・ゴドルフィン は戦勝 せんしょう を祝 いわ う詩 し を書 か く詩人 しじん の人選 じんせん についてハリファックスと相談 そうだん 、ハリファックスは十分 じゅうぶん な報酬 ほうしゅう があれば有能 ゆうのう な作家 さっか を推薦 すいせん できるとした[ 1] 。ゴドルフィンはそれを受 う けて、財務 ざいむ 大臣 だいじん のヘンリー・ボイル閣下 かっか をアディソンのもとにやって、アディソンを招聘 しょうへい した[ 1] 。アディソンは関税 かんぜい 控訴 こうそ 委員 いいん (commissioner of appeals in the excise 、年収 ねんしゅう 200ポンドの官職 かんしょく )を代償 だいしょう に『戦 せん 』(The Campaign 、1704年 ねん 12月14日 にち 出版 しゅっぱん [ 6] )と題 だい する詩 し を書 か き、それが大 だい 成功 せいこう を収 おさ めた[ 4] 。『英国 えいこく 人名 じんめい 事典 じてん 』は『戦 せん 』がハリファックスのボイン川 かわ の戦 たたか い での勝利 しょうり を祝 いわ う詩 し よりは良 よ く、公認 こうにん 詩 し (official poetry )としては上質 じょうしつ と言 い えたが、同 どう 時代 じだい の作品 さくひん のなかでは抜 ぬ きんでるほどの質 しつ ではないとしている[ 1] 。『戦 せん 』ではマールバラ公爵 こうしゃく を「天使 てんし 」に比喩 ひゆ したが、サミュエル・ジョンソン が引用 いんよう したサミュエル・マッデン (英語 えいご 版 ばん ) の意見 いけん によれば、「10人 にん の学生 がくせい に聞 き けば、8人 にん が天使 てんし を使 つか うと答 こた えてもおかしくない」(if he had proposed the same topic to ten schoolboys, he should not have been surprised if eight had brought him the angel )ほど平凡 へいぼん な形容 けいよう だという[ 1] 。ジョセフ・ウォートン (英語 えいご 版 ばん ) に至 いた っては「韻 いん を踏 ふ む官報 かんぽう 」(Gazette in rhyme )と揶揄 やゆ した[ 1] 。
いずれにせよ、『戦 せん 』の成功 せいこう により、アディソンの文壇 ぶんだん と政界 せいかい での地位 ちい が上 あ がり[ 1] 、1705年 ねん イングランド総 そう 選挙 せんきょ でホイッグ党 とう が勝利 しょうり するなどホイッグ党 とう 有利 ゆうり の情勢 じょうせい になったため、アディソンは1705年 ねん 7月 がつ には南部 なんぶ 省 しょう (英語 えいご 版 ばん ) 政務次官 せいむじかん に任命 にんめい された[ 6] 。このときの南部 なんぶ 担当 たんとう 国務大臣 こくむだいじん はトーリー党 とう のチャールズ・ヘッジス であり、1706年 ねん 12月にヘッジスが退任 たいにん して第 だい 3代 だい サンダーランド伯爵 はくしゃく チャールズ・スペンサー が後任 こうにん になったときも留任 りゅうにん した[ 1] 。同年 どうねん 夏 なつ にハリファックス男爵 だんしゃく がハノーファー選 せん 帝 みかど 侯 こう ゲオルク・ルートヴィヒ にガーター勲章 くんしょう を授与 じゅよ するための使節 しせつ に任命 にんめい されると[ 1] 、アディソンはハリファックスに同伴 どうはん してハノーファー選 せん 帝 みかど 侯 ほう 領 りょう に向 む かった[ 4] 。
官職 かんしょく に就任 しゅうにん する傍 かたわ ら、イタリアでの見聞 けんぶん をもとに散文 さんぶん を書 か き、1705年 ねん 11月に『イタリア見聞 けんぶん 』(Remarks on Several Parts of Italy 、サマーズ男爵 だんしゃく に献呈 けんてい )としてトンソンにより出版 しゅっぱん された[ 1] [ 6] 。この著作 ちょさく は出版 しゅっぱん してすぐ大人気 だいにんき になり、品薄 しなうす 状態 じょうたい により値段 ねだん が原価 げんか の4から5倍 ばい に上 あ がり、1718年 ねん に第 だい 2版 はん が出版 しゅっぱん されてようやく落 お ち着 つ いた[ 1] 。このように、『イタリア見聞 けんぶん 』は18世紀 せいき のイギリス人 じん が大陸 たいりく ヨーロッパ を旅 たび するときの必携 ひっけい 書 しょ とされるほどだったが[ 8] 、『オックスフォード英国 えいこく 人名 じんめい 事典 じてん 』は現代 げんだい の紀行 きこう 文学 ぶんがく からの視点 してん では。アディソン自身 じしん は『イタリア見聞 けんぶん 』を友人 ゆうじん ジョナサン・スウィフト に贈 おく っている[ 1] 。
散文 さんぶん 以外 いがい ではオペラ 『ロザモンド (英語 えいご 版 ばん ) 』のリブレット を著 あらわ した[ 1] 。『ロザモンド』は1700年代 ねんだい にイングランドで流行 りゅうこう したイタリア・オペラと異 こと なり、イングランドの伝承 でんしょう に基 もと づくオペラであり[ 9] 、当時 とうじ イギリスで上演 じょうえん されたオペラの多 おお くがイタリア語 ご の歌 うた を含 ふく むのに対 たい し、『ロザモンド』の歌 うた は英語 えいご のみだった[ 1] 。『ロザモンド』は1707年 ねん 3月 がつ 4日 にち にドルリー・レーン劇場 げきじょう (英語 えいご 版 ばん ) で上演 じょうえん されたが、大 だい 失敗 しっぱい に終 お わり、3日間 にちかん しか上演 じょうえん されなかった[ 6] [ 9] 。アディソンはオペラの作曲 さっきょく にトマス・クレイトン (英語 えいご 版 ばん ) を招聘 しょうへい しており、チャールズ・バーニー はこの人選 じんせん が「音楽 おんがく への知識 ちしき と審美 しんび 眼 め の欠如 けつじょ 」(want of taste and intelligence in Music )と評 ひょう した[ 10] 。のちにトマス・アーン の作曲 さっきょく を使用 しよう した再演 さいえん (英語 えいご 版 ばん ) は成功 せいこう を収 おさ めた[ 1] 。また、『ロザモンド』とほぼ同 どう 時期 じき にスティールが喜劇 きげき 『やさしい夫 おっと 』(The Tender Husband 、1705年 ねん )を著 あらわ しており、アディソンがスティールを手伝 てつだ ったためスティールは劇 げき をアディソンに献呈 けんてい した[ 1] 。
同 どう 1707年 ねん にはThe present state of the war and the necessity of an augmentation considered と題 だい するパンフレットを著 あらわ しており、スペイン継承 けいしょう 戦争 せんそう におけるイギリスの戦争 せんそう 目標 もくひょう をホイッグ党 とう の視点 してん で記述 きじゅつ するとともに、フランス を「ブリテン国 こく の最 もっと も危険 きけん な敵 てき 」(most dangerous enemy to the British nation )と形容 けいよう した[ 6] [ 4] 。
1708年 ねん イギリス総 そう 選挙 せんきょ では選挙 せんきょ 当日 とうじつ に急遽 きゅうきょ ロストウィシエル選挙 せんきょ 区 く (英語 えいご 版 ばん ) から出馬 しゅつば して当選 とうせん した[ 11] 。この出馬 しゅつば は上司 じょうし のサンダーランド伯爵 はくしゃく が主導 しゅどう した行動 こうどう だった[ 11] 。当選 とうせん したアディソンは議員 ぎいん 失格 しっかく を防 ふせ ぐために、1708年 ねん 6月 がつ に関税 かんぜい 控訴 こうそ 委員 いいん 辞任 じにん した[ 4] 。対立 たいりつ 候補 こうほ のフランシス・ロバーツ閣下 かっか (英語 えいご 版 ばん ) とラッセル・ロバーツ閣下 かっか (英語 えいご 版 ばん ) は選管 せんかん を務 つと めた市長 しちょう アレクサンダー・ジョンズ(Alexander Johns )の不 ふ 公正 こうせい を主張 しゅちょう して選挙 せんきょ 申立 もうした てを提出 ていしゅつ 、選挙 せんきょ 委員 いいん 会 かい は1709年 ねん 12月に全会 ぜんかい 一致 いっち でフランシス・ロバーツとラッセル・ロバーツの当選 とうせん を宣告 せんこく した[ 11] 。一方 いっぽう 、アディソンは1709年 ねん 1月 がつ に南部 なんぶ 省 しょう 政務次官 せいむじかん からアイルランド主席 しゅせき 政務 せいむ 官 かん (英語 えいご 版 ばん ) (年収 ねんしゅう 2,000ポンドの官職 かんしょく )に転 てん じ、アイルランド総督 そうとく の初代 しょだい ウォートン伯爵 はくしゃく トマス・ウォートン の部下 ぶか になり[ 4] 、4月 がつ 21日 にち にダブリン に到着 とうちゃく した[ 1] 。同年 どうねん にアイルランド枢密院 すうみついん (英語 えいご 版 ばん ) の枢密 すうみつ 顧問 こもん 官 かん に任命 にんめい されたほか[ 4] 、同年 どうねん から1713年 ねん までキャバン・バラ選挙 せんきょ 区 く (英語 えいご 版 ばん ) の代表 だいひょう としてアイルランド庶民 しょみん 院 いん (英語 えいご 版 ばん ) 議員 ぎいん を務 つと めた[ 12] 。『英国 えいこく 議会 ぎかい 史 し (英語 えいご 版 ばん ) 』によれば、アディソンは総督 そうとく の部下 ぶか としてよく働 はたら いたが、政治 せいじ で大 おお きな役割 やくわり を果 は たすことはなく、アイルランド庶民 しょみん 院 いん で発言 はつげん した記録 きろく もなかった[ 4] 。ウォートンとの関係 かんけい は心地 ここち よかったが、決 けっ して親 した しくはなかった(comfortable but never close )という[ 4] 。また、ダブリン城 じょう のバーミンガム・タワー記録 きろく 長官 ちょうかん (keeper of the records in the Bermingham tower 、年収 ねんしゅう 400ポンドの官職 かんしょく )に任命 にんめい される形 かたち で給料 きゅうりょう の上乗 うわの せがなされた[ 4] 。この官職 かんしょく は全 まった くの閑職 かんしょく であり、スウィフトは「そこの記録 きろく は半 はん クラウン の価値 かち もない」(all the Records there are not worth Half a Crown )と形容 けいよう した[ 6] 。
1709年 ねん 4月 がつ 12日 にち 、友人 ゆうじん スティールが筆名 ひつめい アイザック・ビッカースタッフ (英語 えいご 版 ばん ) を用 もち いて、エッセイ新聞 しんぶん 『タトラー (英語 えいご 版 ばん ) 』を創刊 そうかん した[ 1] [ 13] 。『タトラー』は火曜 かよう 、木曜 もくよう 、土曜 どよう の週 しゅう 3回 かい 発行 はっこう であり[ 6] 、1年 ねん 後 ご には毎号 まいごう 3千 せん 部 ぶ 発行 はっこう されるようになり、1711年 ねん 1月 がつ 2日 にち まで続 つづ いた[ 1] 。タトラーの内容 ないよう は最初 さいしょ は新聞 しんぶん 記事 きじ と広告 こうこく で構成 こうせい されたが、やがて長 なが いエッセイ1本 ほん という構成 こうせい になり[ 6] 、主 おも に社会 しゃかい 風俗 ふうぞく 、文芸 ぶんげい 、政治 せいじ 外交 がいこう を扱 あつか った[ 13] 。
アディソンはタトラーの設立 せつりつ 時点 じてん ではアイルランド主席 しゅせき 政務 せいむ 官 かん に任命 にんめい されてダブリンに向 む かう道中 どうちゅう にあり、あまり関 かか わらなかったが、4月 がつ 23日 にち 号 ごう でスティールへの言葉 ことば が記載 きさい されたことで主筆 しゅひつ がスティールと気 き づき[ 1] 、5月20日 にち 号 ごう よりタトラー紙 し に寄稿 きこう するようになり、以降 いこう 単作 たんさく で50号 ごう 、スティールとの共 とも 作 さく で20号 ごう 以上 いじょう を書 か いた[ 6] 。タトラーへの寄稿 きこう について、『オックスフォード英国 えいこく 人名 じんめい 事典 じてん 』では普段 ふだん の記事 きじ がスティールのそれよりわずかに洗練 せんれん されており、ユーモア記事 きじ でもスティールのそれより品位 ひんい のあったと評 ひょう した[ 6] 。
タトラーは2年 ねん 未満 みまん で廃刊 はいかん したが、スティールとアディソンはわずか2か月 げつ 後 ご には『スペクテイター 』を創刊 そうかん することとなる[ 1] 。
2度目 どめ の庶民 しょみん 院 いん 議員 ぎいん 就任 しゅうにん [ 編集 へんしゅう ]
1710年 ねん にトーリー党 とう が政権 せいけん を握 にぎ ると、アディソンも主席 しゅせき 政務 せいむ 官 かん を解任 かいにん されたが、新 あたら しく任命 にんめい された総督 そうとく の第 だい 2代 だい オーモンド公爵 こうしゃく ジェームズ・バトラー の好意 こうい により、ダブリン城 じょう の閑職 かんしょく に留任 りゅうにん することができた[ 4] 。同年 どうねん 3月 がつ 、マームズベリー選挙 せんきょ 区 く (英語 えいご 版 ばん ) の補欠 ほけつ 選挙 せんきょ でウォートン伯爵 はくしゃく の推薦 すいせん を受 う けて当選 とうせん した[ 14] 。ウォートン伯爵 はくしゃく が1690年 ねん から1715年 ねん に死去 しきょ するまでマームズベリー執事 しつじ 長 ちょう (High Steward of Malmesbury )を務 つと め、マームズベリーで勢力 せいりょく を有 ゆう したため、アディソンは1713年 ねん と1715年 ねん の総 そう 選挙 せんきょ でもウォートン伯爵 はくしゃく の指名 しめい を受 う けて再選 さいせん した[ 14] [ 15] 。1710年 ねん 3月 がつ には絶大 ぜつだい な人気 にんき を誇 ほこ り、ジョナサン・スウィフト が「彼 かれ が国王 こくおう に選出 せんしゅつ されようとしても、断 ことわ られることはないだろう」(if he had a mind to be chosen king he would hardly be refused )と形容 けいよう したほどだった[ 6] 。
議会 ぎかい で演説 えんぜつ した記録 きろく はなく、議会 ぎかい 演説 えんぜつ に関 かん する逸話 いつわ としては「庶民 しょみん 院 いん で立 た ち上 あ がって演説 えんぜつ しようとしたとき、『彼 かれ を聞 き け!』(Hear him! Hear him! )と繰 く り返 かえ された野次 やじ で恥 は ずかしくなって、一言 ひとこと も発 はっ せずに着席 ちゃくせき し、以降 いこう 二度 にど と演説 えんぜつ しようとしなかった」というものがある[ 16] 。投票 とうひょう ではホイッグ党 とう の立場 たちば を貫 つらぬ き、1711年 ねん 12月に「スペインなくして講和 こうわ なし 」の動議 どうぎ に賛成 さんせい 票 ひょう を、1713年 ねん 6月 がつ にフランス通商 つうしょう 法案 ほうあん (French commerce bill )への反対 はんたい 票 ひょう を投 とう じた[ 4] 。
一方 いっぽう 、主席 しゅせき 政務 せいむ 官 かん の俸給 ほうきゅう を失 うしな い、2人 ふたり の弟 おとうと の相次 あいつ ぐ死去 しきょ で手 て に入 はい るはずだった遺産 いさん も裁判 さいばん などにより実際 じっさい にはほとんどもらえず、アディソンは支出 ししゅつ を減 へ らすためにオックスフォード大学 だいがく でのフェロー職 しょく を辞 じ した[ 6] 。この状況 じょうきょう は数 すう 年 ねん のうちに好転 こうてん し、アディソンは1713年 ねん に8,000ポンドを費 つい やしてラグビー のビルトン・ホール (英語 えいご 版 ばん ) を購入 こうにゅう し、親族 しんぞく エドワード・アディソン(Edward Addison )を庭師 にわし として雇 やと った[ 6] 。
『英国 えいこく 人名 じんめい 事典 じてん 』の形容 けいよう によれば、アディソンは高潔 こうけつ な品性 ひんせい 、謙虚 けんきょ な性格 せいかく 、優 やさ しい気質 きしつ により多 おお くのパトロンから指示 しじ され、文壇 ぶんだん にも多 おお くの友人 ゆうじん がいた[ 1] 。例 れい としてジョナサン・スウィフト 、リチャード・スティール (英語 えいご 版 ばん ) 、トマス・ティッケル (英語 えいご 版 ばん ) 、アンブローズ・フィリップス (英語 えいご 版 ばん ) 、ユースタス・バッジェル (英語 えいご 版 ばん ) 、サミュエル・ガース (英語 えいご 版 ばん ) 、アレキサンダー・ポープ がおり、アディソンは友人 ゆうじん との集 あつ まり場 じょう としてボタンズ・コーヒー・ハウス (英語 えいご 版 ばん ) を利用 りよう した[ 6] 。ダニエル・ボタン(Daniel Button )はアディソンの元 もと 使用人 しようにん であり[ 6] 、アディソンの後援 こうえん を受 う けて1711年 ねん ごろにコーヒー・ハウスを開設 かいせつ したのであった[ 1] 。ポープによれば、アディソンらがコーヒー・ハウスを長時間 ちょうじかん 利用 りよう したことは健康 けんこう に悪 わる かったという[ 1] 。いずれにせよ、この集 あつ まりはホイッグ党 とう の傾向 けいこう が強 つよ く、ポープは間 ま もなく脱退 だったい し参加 さんか しなくなった[ 6] 。
ボタンズ・コーヒー・ハウスは後 のち にスティールの『ガーディアン (英語 えいご 版 ばん ) 』紙 し (1713年 ねん )のオフィスとなる[ 6] 。
『タトラー』は1711年 ねん 1月 がつ 2日 にち に最終 さいしゅう 号 ごう が出版 しゅっぱん されたが、スティールとアディソンは直後 ちょくご (3月 がつ 1日 にち )に新 あら たなエッセイ新聞 しんぶん である『スペクテイター 』を創刊 そうかん した[ 1] 。スペクテイターは日刊 にっかん 紙 し (月曜 げつよう から土曜 どよう までの日刊 にっかん )であり、1712年 ねん 12月6日 にち まで続 つづ いた[ 6] 。タトラーの後期 こうき と同 おな じく、エッセイのみで構成 こうせい され[ 1] 、形式 けいしき としてフィクションや架空 かくう の投書 とうしょ を用 もち いた[ 17] 。ホイッグ党 とう とトーリー党 とう の政争 せいそう が激化 げきか した時期 じき だったこともあり、スペクテイター紙 し では政治 せいじ の話題 わだい を避 さ けたが[ 1] 、『英国 えいこく 議会 ぎかい 史 し 』では薄 うす いながらもホイッグ色 しょく が感 かん じられたとしている[ 4] 。タトラーと違 ちが い、アディソンは創刊 そうかん 当初 とうしょ よりスペクテイターに関 かか わり、第 だい 1号 ごう のエッセイもアディソンが書 か いたものだった[ 6] 。全 ぜん 555号 ごう のうち、アディソンは記事 きじ を274本 ほん 書 か いた[ 1] 。
スペクテイターはすぐ成功 せいこう を収 おさ め、第 だい 10号 ごう のときにはすでに3千 せん 部 ぶ 発行 はっこう され、2万 まん 部 ぶ 発行 はっこう されたときもあった[ 1] 。ただし、1712年 ねん 8月 がつ 1日 にち より徴収 ちょうしゅう された印紙 いんし 税 ぜい で値上 ねあ げを余儀 よぎ なくされ、部数 ぶすう も半分 はんぶん に減 へ った[ 1] 。
スペクテイターの最終 さいしゅう 号 ごう が出版 しゅっぱん された後 のち 、アディソンは悲劇 ひげき 『カトー (英語 えいご 版 ばん ) 』に取 と り掛 か かった[ 1] 。『カトー』はオックスフォ おっくすふぉ ード大学 どだいがく 期 き にはすでに初稿 しょこう が作成 さくせい されており、以降 いこう グランドツアー中 ちゅう に改訂 かいてい が進 すす められ、さらにジョン・ドライデン 、ジョナサン・スウィフト らの手 て により改訂 かいてい されたが、1712年 ねん 時点 じてん では第 だい 4幕 まく までしか完成 かんせい していなかった[ 6] 。1712年 ねん にアンブローズ・フィリップス (英語 えいご 版 ばん ) のDistrest Mother が成功 せいこう を収 おさ めたことで[ 6] 、アディソンは1週間 しゅうかん で第 だい 5幕 まく を書 か き上 あ げ、『カトー』は1713年 ねん 4月 がつ 14日 にち にはドルリー・レーン劇場 げきじょう (英語 えいご 版 ばん ) で上演 じょうえん された[ 1] 。『カトー』は大 だい 成功 せいこう して、5月9日 にち まで20日間 にちかん 上演 じょうえん されたほか、フランス語 ふらんすご 、イタリア語 ご 、ドイツ語 ご に翻訳 ほんやく され、イエズス会 かい の手 て によりラテン語 らてんご にも翻訳 ほんやく された[ 1] 。スペクテイターのときと同 おな じく、ホイッグ党 とう とトーリー党 とう が激 はげ しく対立 たいりつ した時期 じき だったが、両 りょう 党 とう の人物 じんぶつ ともに『カトー』を賞賛 しょうさん した[ 1] [ 2] 。
アディソンがカトー以降 いこう に書 か いた演劇 えんげき は『ドラマー (英語 えいご 版 ばん ) 』(The Drummer )の1本 ほん だけだった[ 6] 。『ドラマー』は今 いま やドルリー・レーン劇場 げきじょう のマネージャーに就任 しゅうにん したスティールにより、1716年 ねん 3月 がつ 10日 とおか に上演 じょうえん されたが、あまり成功 せいこう しなかった[ 6] 。
1713年 ねん 3月 がつ にスティールが『ガーディアン (英語 えいご 版 ばん ) 』紙 し を創刊 そうかん すると、アディソンは合計 ごうけい で記事 きじ を52本 ほん 書 か いた[ 6] 。同年 どうねん のユトレヒト条約 じょうやく に含 ふく まれた通商 つうしょう 条項 じょうこう がロンドンの商人 しょうにん から大 だい 反対 はんたい を受 う けると、アディソンはThe trial and conviction of Count Tariff と題 だい するパンフレットを出版 しゅっぱん して、条約 じょうやく 締結 ていけつ を主導 しゅどう した初代 しょだい ボリングブルック子爵 ししゃく ヘンリー・シンジョン を批判 ひはん した[ 6] 。1714年 ねん に『スペクテイター』が短期間 たんきかん 復活 ふっかつ したときは1714年 ねん 6月 がつ 18日 にち から9月 がつ 29日 にち まで記事 きじ を24本 ほん 書 か いた[ 1] 。
1715年 ねん 12月から1716年 ねん 6月 がつ にかけては『フリーホルダー』(The Freeholder )を出版 しゅっぱん した[ 1] 。フリーホルダーは週 しゅう 2回 かい 刊行 かんこう であり[ 6] 、1715年 ねん ジャコバイト蜂起 ほうき を受 う けてホイッグ党 とう の原則 げんそく を守 まも るための政治 せいじ 紙 し だった[ 1] 。アディソンは合計 ごうけい でフリーホルダーの記事 きじ を55本 ほん 書 か いた[ 1] 。
ハノーヴァー朝 あさ での官職 かんしょく (1714年 ねん – 1719年 ねん )[ 編集 へんしゅう ]
1714年 ねん 8月 がつ にアン が死去 しきょ してから、ジョージ1世 せい がイギリスに到着 とうちゃく するまで政務 せいむ をとった司法 しほう 卿 きょう (Lords Justices )の秘書官 ひしょかん を務 つと めたため、次期 じき 国務大臣 こくむだいじん と噂 うわさ されたが、実際 じっさい には財務省 ざいむしょう 秘書官 ひしょかん (英語 えいご 版 ばん ) にも下級 かきゅう 商務 しょうむ 卿 きょう にも任命 にんめい されず、9月にアイルランド主席 しゅせき 政務 せいむ 官 かん に任命 にんめい された程度 ていど だった[ 16] 。さらにアイルランド総督 そうとく の第 だい 3代 だい サンダーランド伯爵 はくしゃく チャールズ・スペンサー が総督 そうとく としてアイルランドに赴任 ふにん しなかったため、アディソンは引 ひ き続 つづ きロンドンで議会 ぎかい に登院 とういん した[ 16] 。
サンダーランドのアイルランド総督 そうとく 退任 たいにん に伴 ともな い[ 1] 、アディソンも1715年 ねん 8月 がつ にアイルランド主席 しゅせき 政務 せいむ 官 かん を退任 たいにん 、12月に下級 かきゅう 商務 しょうむ 卿 きょう に任命 にんめい された[ 16] 。1717年 ねん 4月 がつ のホイッグ党 とう 分裂 ぶんれつ (英語 えいご 版 ばん ) ではサンダーランド伯爵 はくしゃく がはじめ政争 せいそう を有利 ゆうり に進 すす めたため、アディソンはサンダーランドにより南部 なんぶ 担当 たんとう 国務大臣 こくむだいじん に任命 にんめい され、同 どう 4月 がつ 16日 にち にグレートブリテン枢密院 すうみついん の枢密 すうみつ 顧問 こもん 官 かん に任命 にんめい された[ 16] 。同 どう 時代 じだい の日記 にっき 作家 さっか である初代 しょだい エグモント伯爵 はくしゃく ジョン・パーシヴァル (このときは初代 しょだい パーシヴァル男爵 だんしゃく )によれば、サンダーランドがアディソンを国務大臣 こくむだいじん に任命 にんめい したのは自身 じしん の命令 めいれい を聞 き かない人 ひと を就任 しゅうにん させないためであり、それが必要 ひつよう なくなった途端 とたん (1718年 ねん 3月 がつ )政務 せいむ ができないアディソンを解任 かいにん した[ 16] 。一方 いっぽう 、『英国 えいこく 人名 じんめい 事典 じてん 』では健康 けんこう の悪化 あっか も理由 りゆう として挙 あ げている[ 1] 。退任 たいにん にあたり、1600ポンドの年金 ねんきん を与 あた えられた[ 16] 。
1714年 ねん 10月 がつ 、アレキサンダー・ポープ はアディソンに対 たい し、自身 じしん が出版 しゅっぱん する予定 よてい の『イーリアス 』英語 えいご 訳 やく の第 だい 1、2巻 かん を読 よ むよう依頼 いらい した[ 18] 。しかし、アディソンの友人 ゆうじん トマス・ティッケル (英語 えいご 版 ばん ) が第 だい 1巻 かん の英語 えいご 訳 やく を済 す ませて、アディソンに読 よ むよう求 もと めてきていたため、アディソンはポープの求 もと めを辞退 じたい しようとした[ 18] 。最終 さいしゅう 的 てき にはアディソンが折 お れてポープ訳 やく の第 だい 2巻 かん を読 よ み、それを賞賛 しょうさん した[ 18] 。ポープはその後 ご 、1715年 ねん 6月 がつ にイーリアスの英語 えいご 訳 やく 第 だい 1巻 かん を出版 しゅっぱん したが、その週 しゅう にティッケルの英語 えいご 訳 やく も出版 しゅっぱん され、さらにスティールからアディソンがティッケル訳 やく を「これまでのどの言語 げんご の翻訳 ほんやく よりも良 よ い」と評 ひょう したと聞 き かされたため、ポープはボタンズでアディソンの『カトー (英語 えいご 版 ばん ) 』を批判 ひはん した[ 18] 。
1719年 ねん にサンダーランドが貴族 きぞく 法案 ほうあん (英語 えいご 版 ばん ) を提出 ていしゅつ すると、スティールは1719年 ねん 3月 がつ 14日 にち 付 づけ の『プリビアン』紙 し (The Plebeian )で法案 ほうあん を批判 ひはん 、アディソンは3月 がつ 19日 にち 付 づけ の『オールド・ホイッグ』紙 し (The Old Whig )でスティールの批判 ひはん に穏 おだ やかな返答 へんとう を行 おこな い、貴族 きぞく 法案 ほうあん を勢力 せいりょく 均衡 きんこう を保 たも つための施策 しさく として擁護 ようご した[ 1] 。スティールは3月 がつ 29日 にち と30日 にち 付 づけ の『プリビアン』紙 し で返答 へんとう したが、この返答 へんとう で政敵 せいてき の品行 ひんこう を批判 ひはん したため、19世紀 せいき にはトーマス・マコーリー から批判 ひはん された[ 1] 。アディソンは4月 がつ 2日 にち 付 づけ の『オールド・ホイッグ』紙 し でスティールの品行 ひんこう 批判 ひはん を軽蔑 けいべつ したが、『プリビアン』紙 し は立派 りっぱ に論評 ろんぴょう をかけると信 しん じているとも述 の べた[ 1] 。スティールは4月 がつ 6日 にち 付 づけ の『プリビアン』紙 し で2人 ふたり の友情 ゆうじょう が失 うしな われたことに遺憾 いかん の意 い を表明 ひょうめい したが、和解 わかい への動 うご きはみられなかった[ 1] 。
同年 どうねん にリッチフィールド聖堂 せいどう (英語 えいご 版 ばん ) で父 ちち の記念 きねん 碑 ひ を建 た てた[ 3] 。1719年 ねん 6月 がつ 17日 にち にケンジントン のホランド・ハウス で病死 びょうし した[ 6] 。6月26日 にち 、ウェストミンスター寺院 じいん に埋葬 まいそう された[ 19] 。著作 ちょさく については死去 しきょ から数日 すうじつ 前 まえ にトマス・ティッケル (英語 えいご 版 ばん ) (アディソンの南部 なんぶ 担当 たんとう 大臣 だいじん 在任 ざいにん 中 ちゅう に政務次官 せいむじかん を務 つと めた人物 じんぶつ )に自身 じしん の著作 ちょさく を収集 しゅうしゅう するよう命 めい じ、ティッケルのパトロンとしてジェームズ・クラッグス を推薦 すいせん した[ 18] 。その後 ご 、ティッケルは1721年 ねん 10月 がつ 3日 にち にアディソンの作品 さくひん 集 しゅう (全 ぜん 4巻 かん )を出版 しゅっぱん した[ 18] 。
1809年 ねん 、アディソンの白 しろ 大理石 だいりせき 像 ぞう (リチャード・ウェストマコット 作 さく )がウェストミンスター寺院 じいん でたてられた[ 19] 。
1716年 ねん 8月 がつ 9日 にち にシャーロット・リッチ(Charlotte Rich 、1680年 ねん 洗礼 せんれい [ 6] – 1731年 ねん 7月 がつ 7日 にち [ 1] 、第 だい 2代 だい 準 じゅん 男爵 だんしゃく サー・トマス・ミドルトン(英語 えいご 版 ばん ) の娘 むすめ 、第 だい 6代 だい ウォリック伯爵 はくしゃく エドワード・リッチ の未亡人 みぼうじん )と結婚 けっこん [ 4] 、1女 じょ をもうけた[ 1] 。
妻 つま シャーロットには連 つ れ子 こ の第 だい 7代 だい ウォリック伯爵 はくしゃく エドワード・ヘンリー・リッチ がおり、アディソンはエドワード・ヘンリーの教育 きょういく に気 き を配 くば った[ 1] 。
ジョゼフ・アディソン
『ハリファクス卿 きょう へのイタリア書簡 しょかん 』(A Letter from Italy 、1704年 ねん ) - グランドツアーでの見聞 けんぶん に関 かん する詩 し [ 8]
『戦 せん 』(The Campaign, a Poem, to His Grace the Duke of Marlborough 、1704年 ねん 12月14日 にち [ 6] ) - ブレンハイムの戦 たたか い での勝利 しょうり を祝 いわ う詩 し [ 1] 。日本語 にほんご 名 めい は『戦 せん 』[ 20] のほか、『キャンペーン』とも[ 9]
『イタリア管見 かんけん 』(Remarks on Several Parts of Italy 、1705年 ねん 11月) - グランドツアーでの見聞 けんぶん に関 かん する散文 さんぶん [ 8] 。初代 しょだい サマーズ男爵 だんしゃく ジョン・サマーズ に献呈 けんてい [ 6]
『ロザモンド (英語 えいご 版 ばん ) 』(Rosamond 、1707年 ねん 3月 がつ 4日 にち 初演 しょえん ) - オペラ ののリブレット 。サラ・ジェニングス に献呈 けんてい [ 9]
The present state of the war and the necessity of an augmentation considered (1707年 ねん ) - スペイン継承 けいしょう 戦争 せんそう における戦争 せんそう 目標 もくひょう を述 の べたパンフレット[ 6]
『カトー (英語 えいご 版 ばん ) ](Cato 、1713年 ねん 4月 がつ 14日 にち 初演 しょえん ) - 悲劇 ひげき [ 6]
The trial and conviction of Count Tariff (1713年 ねん ) - パンフレット[ 6]
『ドラマー (英語 えいご 版 ばん ) 』(The Drummer 、1716年 ねん 3月 がつ 10日 とおか 初演 しょえん ) - 喜劇 きげき [ 6]
ほかにも『タトラー (英語 えいご 版 ばん ) 』、『スペクテイター 』、『ガーディアン (英語 えいご 版 ばん ) 』、『フリーホルダー』に寄稿 きこう した[ 1] 。
^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay az ba bb bc bd be bf bg bh bi bj bk bl Stephen, Leslie (1885). "Addison, Joseph" . In Stephen, Leslie (ed.). Dictionary of National Biography (英語 えいご ). Vol. 1. London: Smith, Elder & Co . pp. 122–131.
^ a b 「アディソン 」『ブリタニカ国際 こくさい 大 だい 百科 ひゃっか 事典 じてん 小 しょう 項目 こうもく 事典 じてん 』。https://kotobank.jp/word/%E3%82%A2%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%BD%E3%83%B3 。コトバンク より4 November 2021 閲覧 えつらん 。
^ a b c d Hamilton, Alastair (23 September 2004). "Addison, Lancelot". Oxford Dictionary of National Biography (英語 えいご ) (online ed.). Oxford University Press. doi :10.1093/ref:odnb/157 。 (要 よう 購読 こうどく 、またはイギリス公立 こうりつ 図書館 としょかん への会員 かいいん 加入 かにゅう 。)
^ a b c d e f g h i j k l m n o Hayton, D. W. (2002). "ADDISON, Joseph (1672-1719), of Sandy End, Fulham, Mdx.; St. Margaret's, Westminster, and Bilton Hall, Warws." . In Hayton, David; Cruickshanks, Eveline ; Handley, Stuart (eds.). The House of Commons 1690-1715 (英語 えいご ). The History of Parliament Trust. 2021年 ねん 11月4日 にち 閲覧 えつらん 。
^ a b Foster, Joseph , ed. (1891). "Abannan-Appletre" . Alumni Oxonienses 1500-1714 (英語 えいご ). Oxford: University of Oxford. pp. 1–28.
^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax Rogers, Pat (28 May 2015) [23 September 2004]. "Addison, Joseph". Oxford Dictionary of National Biography (英語 えいご ) (online ed.). Oxford University Press. doi :10.1093/ref:odnb/156 。 (要 よう 購読 こうどく 、またはイギリス公立 こうりつ 図書館 としょかん への会員 かいいん 加入 かにゅう 。)
^ a b c 「アディソン 」『世界 せかい 大 だい 百科 ひゃっか 事典 じてん 第 だい 2版 はん 』。https://kotobank.jp/word/%E3%82%A2%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%BD%E3%83%B3 。コトバンク より3 November 2021 閲覧 えつらん 。
^ a b c d 松田 まつだ , 幸子 こうじ 「オペラは「ゴシック」か:『ロザモンド』における「古代 こだい 」イングランド 」『文学 ぶんがく 研究 けんきゅう 論集 ろんしゅう 』第 だい 27号 ごう 、筑波大学 つくばだいがく 比較 ひかく ・理論 りろん 文学 ぶんがく 会 かい 、2009年 ねん 2月 がつ 28日 にち 、69–71, 80、ISSN 0915-8944 、NCID AN10366582 。
^ Fubini, Enrico (1994) [1986]. Blackburn, Bonnie J. (ed.). Music and Culture in Eighteenth-Century Europe: A Source Book (英語 えいご ). Chicago: The University of Chicago Press. p. 391. ISBN 0-226-26731-8 。
^ a b c Cruickshanks, Eeline; Handley, Stuart (2002). "Lostwithiel" . In Hayton, David; Cruickshanks, Eveline ; Handley, Stuart (eds.). The House of Commons 1690-1715 (英語 えいご ). The History of Parliament Trust. 2021年 ねん 11月3日 にち 閲覧 えつらん 。
^ "Biographies of Members of the Irish Parliament 1692-1800" . Ulster Historical Foundation (英語 えいご ). 2021年 ねん 11月4日 にち 閲覧 えつらん 。
^ a b 「タトラー 」『ブリタニカ国際 こくさい 大 だい 百科 ひゃっか 事典 じてん 小 しょう 項目 こうもく 事典 じてん 』。https://kotobank.jp/word/%E3%82%BF%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC 。コトバンク より3 November 2021 閲覧 えつらん 。
^ a b Hayton, D. W. (2002). "Malmesbury" . In Hayton, David; Cruickshanks, Eveline ; Handley, Stuart (eds.). The House of Commons 1690-1715 (英語 えいご ). The History of Parliament Trust. 2021年 ねん 11月3日 にち 閲覧 えつらん 。
^ Lea, R. S. (1970). "Malmesbury" . In Sedgwick, Romney (ed.). The House of Commons 1715-1754 (英語 えいご ). The History of Parliament Trust. 2021年 ねん 11月3日 にち 閲覧 えつらん 。
^ a b c d e f g Lea, R. S. (1970). "ADDISON, Joseph (1672-1719), of Bilton, Warws. and Holland House, Kensington" . In Sedgwick, Romney (ed.). The House of Commons 1715-1754 (英語 えいご ). The History of Parliament Trust. 2021年 ねん 11月4日 にち 閲覧 えつらん 。
^ 「スペクテーター 」『ブリタニカ国際 こくさい 大 だい 百科 ひゃっか 事典 じてん 小 しょう 項目 こうもく 事典 じてん 』。https://kotobank.jp/word/%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%AF%E3%83%86%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC 。コトバンク より4 November 2021 閲覧 えつらん 。
^ a b c d e f Aitken, George Atherton (1898). "Tickell, Thomas" . In Lee, Sidney (ed.). Dictionary of National Biography (英語 えいご ). Vol. 56. London: Smith, Elder & Co . pp. 380–382.
^ a b c "Joseph Addison" . Westminster Abbey (英語 えいご ). 2021年 ねん 11月3日 にち 閲覧 えつらん 。
^ 「アジソン 」『精選 せいせん 版 ばん 日本 にっぽん 国語 こくご 大 だい 辞典 じてん 』。https://kotobank.jp/word/%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%BD%E3%83%B3 。コトバンク より3 November 2021 閲覧 えつらん 。
全般 ぜんぱん 国立 こくりつ 図書館 としょかん 学術 がくじゅつ データベース芸術 げいじゅつ 家 か 人物 じんぶつ その他 た