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トゥーケーシュ・ラースロー

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
Tőkés László
トゥーケーシュ・ラースロー(2007ねん
欧州おうしゅう議会ぎかい議員ぎいん
任期にんき
2007ねん5月11にち – 2019ねん7がつ1にち
選挙せんきょハンガリー(2014ねん以降いこう
ルーマニア(2014ねんまで)
個人こじん情報じょうほう
生誕せいたんTőkés László
(1952-04-01) 1952ねん4がつ1にち(72さい
ルーマニアクルージュ=ナポカ
政党せいとう
宗教しゅうきょうキリスト教きりすときょう

トゥーケーシュ・ラースローハンガリー: Tőkés László, [ˈtøːkeːsˈ laːsloː]1952ねん4がつ1にち - )は、ルーマニアまれのハンガリーじん政治せいじ牧師ぼくし1990ねんから2009ねんまで改革かいかく教会きょうかい教区きょうく司教しきょうつとめていた。2007ねんから2019ねんまで欧州おうしゅう議会ぎかい議員ぎいんつとめ、2010ねんから2011ねんにかけてはふく議長ぎちょうつとめた[1]

1989ねん12月15にち、ルーマニア政府せいふは、ティミショアラ (Timișoara) にんでいたトゥーケーシュにたいして教区きょうくから退くようめいじた。この退命令めいれい抗議こうぎするかたちで、キリスト教徒きりすときょうとたちの集団しゅうだんができあがり、群衆ぐんしゅうもこれにくわわり、抗議こうぎ運動うんどう徐々じょじょ拡大かくだいし、いきおいをしていった。この抗議こうぎ運動うんどうは、最終さいしゅうてきに、1989ねん12月25にちニコラエ・チャウシェスク (Nicolae Ceauşescu) の処刑しょけいつながった。

トゥーケーシュ・ラースローは、トランスィルヴァニア・ハンガリー国民こくみん評議ひょうぎかい (Erdélyi Magyar Nemzeti Tanács) の代表だいひょうでもある。トランスィルヴァニア・ハンガリー人民じんみんとう (Erdélyi Magyar Néppárt) とのかかわりもふかいが、党員とういんではない。「欧州おうしゅう歴史れきし和解わかいだん」の委員いいん一人ひとりであり[2]2009ねん実施じっしされた「ヨーロッパの良心りょうしん全体ぜんたい主義しゅぎかんする欧州おうしゅう議会ぎかい決議けつぎ」を支持しじした[3]

ちと教育きょういく

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1952ねんルーマニアクルージュ=ナポカ (Cluj-Napoca)にまれた。祖父そふ父親ちちおや改革かいかく教会きょうかい牧師ぼくしであった。1971ねん高校こうこう卒業そつぎょう、1971ねんから1975ねんまで、父親ちちおやが1980年代ねんだい初頭しょとうまで教授きょうじゅつとめていた神学しんがく研究所けんきゅうじょまなんだ。卒業そつぎょうブラショブ (Brașov)の改革かいかく教会きょうかいで2年間ねんかん1984ねんまでデジ (Dej)の教会きょうかい牧師ぼくしつとめた[4]

かれはスンペトル・デ・クンピエ (Sânpetru de Câmpie)のむらへの転属てんぞくめいぜられたが、それを拒否きょひし、クルージュ=ナポカの実家じっかで2年間ねんかんごした[5]

牧師ぼくしとして

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トゥーケーシュは、チャウシェスク政権せいけん批判ひはんしていた。かれは、雑誌ざっしEllenpontok』(『対比たいひ』)にて、ルーマニアにおける人権じんけん侵害しんがいについての記事きじ寄稿きこうした。記事きじには署名しょめいかったが、セクリターテ (Securitate)がトゥーケーシュが寄稿きこうした記事きじであることをめた[4]

ティミショアラにて、トゥーケーシュは、ルーマニア国内こくないまちむら生活せいかつ基盤きばんについての抜本ばっぽんてき再編さいへん提示ていじしたルーマニア政府せいふによる「体系たいけい計画けいかく」に反対はんたいする内容ないよう説教せっきょうおこなった[6]小規模しょうきぼむら存在そんざいは「不合理ふごうり」と做され、供給きょうきゅう削減さくげん住民じゅうみん強制きょうせい移住いじゅう教会きょうかい修道院しゅうどういんふく建物たてものこわしの対象たいしょうとなった。人権じんけん活動かつどうやルーマニア在住ざいじゅうのハンガリーじんは、この体系たいけい計画けいかくについて、ハンガリーじん居住きょじゅうたいする重大じゅうだい脅威きょうい做したが、トゥーケーシュのおこなった説教せっきょう内容ないようは、ルーマニアじんとハンガリーじん連帯れんたいびかけるものであった[7]。ハンガリー政府せいふ西にしドイツ政府せいふは、この体系たいけい計画けいかくたいして抗議こうぎした。ハンガリーじん劇団げきだん「タリア」(Thalia)の劇団げきだんいんは、ルーマニア政府せいふ当局とうきょくが「『領土りょうど回復かいふく主義しゅぎしゃ』(民族みんぞく統一とういつ主義しゅぎ外国がいこく併合へいごうされた、同一どういつ民族みんぞくらし、歴史れきしてき固有こゆう領土りょうどである土地とちもどそう、とする立場たちば主張しゅちょうす)の」と察知さっちしていたものをんでいた。かれらの文化ぶんかてき行事ぎょうじ企画きかくしたトゥーケーシュは、1989ねん5がつブダペストのラジオで放送ほうそうされた抗議こうぎ声明せいめいつうじて、タリアの活動かつどう禁止きんし決定けってい批判ひはんした[4]

1988ねんなつ、トゥーケーシュはハンガリー改革かいかく教会きょうかい牧師ぼくしたちとともに、体系たいけい計画けいかく反対はんたいする団体だんたい編成へんせいしたが、これはセクリターテからふたた注目ちゅうもくされることになった。1988ねん10月31にち宗教しゅうきょう改革かいかく記念きねん、セクリターテが、「タリア」と共同きょうどう開催かいさいする祝祭しゅくさい実施じっし反対はんたいすると、司教しきょうのポップ・ラースロー (Papp László)は、バーナート (Banat)における青年せいねん活動かつどう禁止きんしした。しかし、1989ねんはる、トゥーケーシュは、ルーマニア正教会せいきょうかい (Biserica Ortodoxă Română)の司教しきょうとともに、べつ祝祭しゅくさい開催かいさいした[7]

1989ねん3がつ20日はつかミッシェル・クレア英語えいごばんとレジョン・ロイ (Réjean Roy)、2人ふたりのカナダじんがトゥーケーシュを訪問ほうもんし、ひそかにんだカメラでトゥーケーシュを取材しゅざいし、録音ろくおんした。3にんのハンガリーじんがカメラのみを支援しえんし、そのあいだかれらはセクリターテから追跡ついせきされていた[8]3月31にち、ポップ司教しきょうはトゥーケーシュにティミショアラでの説教せっきょう行為こういめ、孤立こりつした教区きょうくがあるミネウむら (Mineu)に移住いじゅうするようめいじたが、トゥーケーシュはこれを拒否きょひし、かれ信徒しんとたちもそれを支持しじした。

1989ねん7がつ24にち、ハンガリーの国営こくえいテレビの調査ちょうさ番組ばんぐみ『パノラマ』が、3月に実施じっしされたカナダじんによるトゥーケーシュへの取材しゅざい映像えいぞう放送ほうそうした。この2にち、ポップ司教しきょうはトゥーケーシュに書簡しょかんおくり、「トゥーケーシュ・ラースローは面談めんだんなかでルーマニアの国家こっかたいして名誉めいよ棄損きそんとなる言葉ことばべ、うそまでいた」と非難ひなんし、トゥーケーシュの追放ついほうめいじた。カナダの『トロント・スターは、「この取材しゅざい映像えいぞう公開こうかいが、1989ねん12月の一連いちれん出来事できごと誘発ゆうはつする契機けいきとなった可能かのうせいがある」といた[9]。ポップ司教しきょうはトゥーケーシュを教会きょうかい集合しゅうごう住宅じゅうたくからすため、民事みんじ訴訟そしょう手続てつづきを開始かいしした。トゥーケーシュの自宅じたく電気でんきめられ、食糧しょくりょう配給はいきゅう手帳てちょう没収ぼっしゅうされたが、教区きょうく住人じゅうにんはトゥーケーシュを支援しえんつづけた。ルーマニア政府せいふ当局とうきょくすうにん逮捕たいほし、殴打おうだした。1989ねん9月14にち、ハンガリーじんのエルノ・ウユヴァロシー (Ernő Ujvárossy)が、ティミショアラ郊外こうがいもりなか遺体いたい発見はっけんされ[10][11]、トゥーケーシュの父親ちちおや一時いちじてき身柄みがら拘束こうそくされた[12]。エルノのは、「治安ちあん部隊ぶたいによる政治せいじてき暗殺あんさつ」とられている[10]。1989ねん7がつにハンガリーが放送ほうそうしたトゥーケーシュへの取材しゅざい映像えいぞうなかで、トゥーケーシュは、「ルーマニアじん自分じぶんたちの人権じんけんさえもらないのだ」と発言はつげんしていた。2008ねんドイツ放送ほうそうされたてつのカーテン題材だいざいにしたテレビ番組ばんぐみなかで、トゥーケーシュは以下いかのようにかたっている[13]

この真意しんいは、独裁どくさいしゃであるニコラエ・チャウシェスクを支持しじする必要ひつよういのだ、とつたえることにありました。チャウシェスクの仮面かめんるために、どうしても必要ひつようであったのです。一般いっぱんのルーマニアじんやセクリターテにも衝撃しょうげきあたえた模様もようです。あの当時とうじ外国がいこくのテレビ放送ほうそう視聴しちょう禁止きんしされており、この映像えいぞうはルーマニアとハンガリーの国境こっきょう付近ふきんでのみ、視聴しちょうできました。この映像えいぞうひとだれもが衝撃しょうげきけ、とりわけ、映像えいぞうトランスィルヴァニアひろまり、ルーマニア国内こくない空気くうき世相せそうに、おもいもらぬかたち影響えいきょうおよぼしたのです。

1989ねん10がつ20日はつか、ティミショアラ裁判所さいばんしょは、トゥーケーシュの退きをめいじる評決ひょうけつし、トゥーケーシュはこれに控訴こうそした。11月2にち刃物はもの武装ぶそうした4にん人物じんぶつがトゥーケーシュの自宅じたくった[11]。セクリターテの諜報ちょうほういん見守みまもなか、トゥーケーシュとその友人ゆうじんたちは襲撃しゅうげきしてきたものたちを撃退げきたいした。ルーマニアの特命とくめい全権ぜんけん大使たいしはハンガリーの外務省がいむしょう召喚しょうかんされ、ハンガリー政府せいふにトゥーケーシュ・ラースローの安全あんぜん心配しんぱいしている趣旨しゅしげられた。11月12にち何者なにものかが教区きょうく建物たてものまどった[11]11月28にち、ティミショアラ裁判所さいばんしょはトゥーケーシュによる控訴こうそ棄却ききゃくし、トゥーケーシュは1989ねん12月15にち正式せいしき退くことになった[14][12]

ティミショアラ

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1989ねん12月11にち、トゥーケーシュはぐんとう委員いいんかいされ、「退きの12月18にち月曜日げつようび変更へんこうされたことを教区きょうく住民じゅうみんつたえるように」との指示しじけた。しかし、礼拝れいはいおこなわれるのは日曜日にちようびであり、12月15にち金曜日きんようびであったため、トゥーケーシュは退きが延期えんきされたはなしつたえることができずにいた[14]。12月15にちよる8ごろ教会きょうかい建物たてものまえに、くろダチアしゃまり、ティミショアラの市長しちょう、ペトレ・モーツ (Petru Moţ)があらわれ、トゥーケーシュと対話たいわした。きょう区民くみんたちは、トゥーケーシュの自宅じたくそと哨戒しょうかいはじめ、移動いどう命令めいれいけるも拒否きょひした。教区きょうくでは「人間にんげんくさり」が形成けいせいされ、民兵みんぺいはこれにることができなくなった。トゥーケーシュはきょう区民くみんたちに感謝かんしゃ言葉ことばべたうえで、るようつたえたが、トゥーケーシュの自宅じたくちかくには、トゥーケーシュをまもろうとする集団しゅうだんができあがっていた。トゥーケーシュのつま・エディートは妊娠にんしんちゅうで、体調たいちょうくずした。12月16にち、かかりつけの医師いしがエディートの診察しんさつおとずれ、そこから30ふんたないうちに、ペトレ・モーツが3にん医師いしれてあらわれ、エディートを病院びょういんれてくように説得せっとくするも、かかりつけの医師いしはそれを拒否きょひするよう彼女かのじょつたえた[15]。その作業さぎょういん到着とうちゃくし、襲撃しゅうげきしゃこわしたまど玄関げんかんとびら修理しゅうりした。トゥーケーシュのもとおとずれる人々ひとびとかずはさらにえていき、いつしかルーマニアじんきょう区民くみん群衆ぐんしゅうくわわっていた。トゥーケーシュはペトレ・モーツと会話かいわしたのち、ふたた群衆ぐんしゅうるようつたえたが、きょう区民くみんたちはそのとどまっていた。一旦いったんったのち、ふたたもどってきたモーツは、「トゥーケーシュが退たいかされることはい」趣旨しゅし約束やくそくした。群衆ぐんしゅうなかには、トゥーケーシュの退命令めいれい書面しょめん撤回てっかいするよう要求ようきゅうした人物じんぶつた。ペトレ・モーツは一時いちじあいだ以内いないにそうする趣旨しゅし約束やくそくしたが、かれ実際じっさいにそうするつもりだったとしても、結局けっきょくそれは不可能ふかのうであることが判明はんめいした。退命令めいれいについてはどうにもならなかった[14][16]市長しちょうふく市長しちょうとの交渉こうしょうや、複数ふくすう団体だんたい姿すがたせたのち、ペトレ・モーツはトゥーケーシュにたいし、「午後ごご5までにこの群衆ぐんしゅう解散かいさんさせなければ、消防しょうぼうたいによる放水ほうすいじゅう攻撃こうげきする」との最後さいご通告つうこくした。トゥーケーシュは群衆ぐんしゅう解散かいさんするよう懇願こんがんしたが、トゥーケーシュがセクリターテから脅迫きょうはくけている、と確信かくしんしたのか、群衆ぐんしゅうあらためてそれを拒否きょひした。群衆ぐんしゅうは、自宅じたくからて、とおりに姿すがたげんわすよう手招てまねきするも、トゥーケーシュはこれを拒否きょひした。これについて、歴史れきしデニス・デリータント英語えいごばんは、「トゥーケーシュは、自分じぶんが『抵抗ていこう組織そしき団体だんたい指導しどうしゃ』と判断はんだんされるのをおそれたのだろう」といた[17]

時刻じこく午後ごご5むかえたが、放水ほうすいじゅうによる攻撃こうげきおこなわれなかった。午後ごご7までに、複数ふくすう区画くかくわたって群衆ぐんしゅう規模きぼ拡大かくだいしていた。地元じもと工科こうか大学だいがく大学生だいがくせいや、ハンガリーじんとルーマニアじんい、「人間にんげんくさり」を形成けいせいしていた。当初とうしょかれらはさん美歌みか合唱がっしょうしていたが、午後ごご730ふん、ルーマニアの国歌こっかである『Deşteaptă-te române!』(「デシュタープタ=テ、ロムネ」、「目覚めざめよ、ルーマニアじん!」)の斉唱せいしょうはじまった[18][14]。この国歌こっか1947ねん斉唱せいしょう行為こうい禁止きんしされており、1987ねん11月15にちブラショヴ労働ろうどうしゃたちがこした反乱はんらん (Revolta de la Brașov)のさいにもこれがうたわれた[19]

トゥーケーシュへの退命令めいれい抗議こうぎする意味いみで、蝋燭ろうそくともした人々ひとびとあらわれ、抗議こうぎ拡大かくだいつづけた。午後ごご9、セクリターテの長官ちょうかんユリアン・ヴラードロシアばんはこの反乱はんらん鎮圧ちんあつするため、上級じょうきゅう作戦さくせん部隊ぶたいをティミショアラに派遣はけんした[20]抗議こうぎしゃたちはティミショアラ正教せいきょうだい聖堂せいどう (Catedrala Mitropolitană din Timişoara)の周辺しゅうへん移動いどうし、市内しない行進こうしんし、治安ちあん部隊ぶたいふたた対峙たいじした。いつしか群衆ぐんしゅうは「チャウシェスクをたおせ!」「政権せいけんたおせ!」「共産きょうさん主義しゅぎたたつぶせ!」と唱和しょうわはじめた。群衆ぐんしゅうべつ場所ばしょ移動いどうし、はしわたり、共産党きょうさんとう本部ほんぶ建物たてものがある市街地しがいちへとかい、いし投擲とうてきした。午後ごご10ごろ、民兵みんぺいかれらを教会きょうかいへとかえし、放水ほうすいじゅうによる水攻みずぜめがはじまった。しかし、群衆ぐんしゅうはそれをうばって解体かいたいし、その部品ぶひんを、ベガがわRâul Bega, ルーマニアとセルビアあいだながれるかわ)にてた[21]午後ごご9から午後ごご1130ふんにかけて、民兵みんぺい警備けいびいん消防しょうぼう国境警備隊こっきょうけいびたい構成こうせいされた部隊ぶたいが180にん逮捕たいほした[20]。デニス・デリータントは、「このハンガリーじん抗議こうぎ運動うんどうは、いまやルーマニアじん反乱はんらんへとわった」といた。

1989ねん12月17にち、ニコラエ・チャウシェスクはルーマニア共産党きょうさんとう中央ちゅうおう委員いいんかい政治せいじ執行しっこう委員いいんかい臨時りんじ会議かいぎ招集しょうしゅうし、トゥーケーシュについて言及げんきゅうし、「ある改革かいかく司祭しさいが、かれ自身じしんのせいで制裁せいさいけた。ティミショアラからべつぐんうつり、んでいたいえらねばならない、というものである。かれ自宅じたくわたすことをのぞまなかった。司教しきょう裁判所さいばんしょうったえ、裁判所さいばんしょかれ退かせる決定けっていくだした。これにはなが時間じかんようした。昨日きのう裁判所さいばんしょ命令めいれい執行しっこうされようとしたが、司祭しさい団体だんたい組織そしきした。これはブダペストはじめとする外国がいこく諜報ちょうほう組織そしきによる妨害ぼうがいである。かれ外国がいこくからの取材しゅざいにもおうじているのだ」とべた[22]午前ごぜん9陸軍りくぐん参謀さんぼう本部ほんぶ工作こうさくいん集団しゅうだん市内しない到着とうちゃくした。午前ごぜん11、ティミショアラでの抗議こうぎ運動うんどう参加さんかしゃは、いつしかすうせんにんにまでふくがっていた。中心ちゅうしんにある本屋ほんやまどガラスがられ、チャウシェスクを賛美さんびするほんひど損壊そんかいされた。国防こくぼう大臣だいじん将軍しょうぐんヴァスィーレ・ミーラ (Vasile Milea)は、ティミショアラ市内しないにあるルーマニア共産党きょうさんとう本部ほんぶ建物たてものを、400にん兵士へいしまもるよう命令めいれいした。午後ごご130ふん、ミーラは「ティミショアラの状況じょうきょう悪化あっか一途いっと辿たどっています。ぐんによる介入かいにゅう命令めいれいをおねがいたします。ぐん戦闘せんとう状態じょうたい突入とつにゅうします。ティミショアラぐんにて非常ひじょう事態じたい進行しんこうちゅうです」と報告ほうこくした[20]軍隊ぐんたいたいして命令めいれいせるのは、法的ほうてきにはニコラエ・チャウシェスクだけであった。チャウシェスクは、ユリアン・ヴラードに2かい、ヴァスィーレ・ミーラにすくなくとも6かい電話でんわし、ティミショアラでの暴動ぼうどううでずくで迅速じんそく鎮圧ちんあつするよう指令しれいした[23]午後ごご145ふん、ティミショアラのとおりに戦車せんしゃあらわれた。午後ごご4ごろ抗議こうぎしゃたちはぐんとう委員いいんかい建物たてもの闖入ちんにゅうし、とう文書ぶんしょ宣伝せんでんようしょう冊子さっし、チャウシェスクの著書ちょしょ共産党きょうさんとう権力けんりょく象徴しょうちょうであるこれらをまどから次々つぎつぎてた。かれらは建物たてものけようとしたが、これはぐん部隊ぶたい阻止そしされた。午後ごご430ふん、チャウシェスクは、首都しゅとブクレシュティ (Bucureşti)にてルーマニア共産党きょうさんとう中央ちゅうおう委員いいんかい政治せいじ執行しっこう委員いいんかい臨時りんじ会議かいぎ招集しょうしゅうし、ティミショアラでの出来事できごとについて、国防こくぼう大臣だいじんたちと議論ぎろんはじめた。チャウシェスクは、反乱はんらん鎮圧ちんあつ躊躇ちゅうちょしたトゥドール・ポステルニクロシアばん、ヴァスィーレ・ミーラ、ユリアン・ヴラードを非難ひなんした[24]。チャウシェスクはヴァスィーレ・ミーラにたいし、「ミーラよ、あなたの部下ぶかなにをしていたのか。なぜすぐに介入かいにゅうしなかった? なぜたなかった? 部下ぶか足元あしもとたれてもおかしくないはずだ」と質問しつもんした。ミーラが「わたしはいかなる種類しゅるい弾薬だんやくあたえませんでした」とこたえると、チャウシェスクは「なぜあたえなかったのか? そんなことなら、部下ぶかいえかえしたほうがましだ」と非難ひなんした[22]。チャウシェスクは、治安ちあん部隊ぶたいたいして発砲はっぽう命令めいれいさなかったユリアン・ヴラードにたいし、いかりをめて応酬おうしゅうした。「あなたのやったことは、国家こっか利益りえき人民じんみん利益りえき社会しゃかい主義しゅぎ利益りえきたいする裏切うらぎりだ。責任せきにんある行動こうどうらなかったのだ」「あなたにいかなる処罰しょばつあたえるべきか、かるか? 銃殺じゅうさつけいだ。それこそがあなたにふさわしいのだ。あなたのやったことは、てきむすんだも同然どうぜん行為こういだからだ!」[23]

ヴァスィーレ・ミーラは、チャウシェスクから抗議こうぎしゃてとの指令しれいけたが、ミーラはこれを陸軍りくぐん部隊ぶたい伝令でんれいするのを拒否きょひした。ミーラは「軍規ぐんき確認かくにんしましたが、人民じんみんぐん人民じんみんころせ、との記述きじゅつがある項目こうもくはどこにも見当みあたりませんでした」と発言はつげんした[23][25]

チャウシェスクは、反逆はんぎゃくしゃつようめいじた。この命令めいれいしたチャウシェスクにたいし、国防こくぼう大臣だいじん内務ないむ大臣だいじん、セクリターテの長官ちょうかんはじめて反対はんたい表明ひょうめいした。チャウシェスクは、自分じぶんたいするかれらの忠誠ちゅうせい服従ふくじゅううたがい、3にんたいして「役職やくしょく解任かいにんする」と発言はつげんしたが、閣僚かくりょう評議ひょうぎかい議長ぎちょうのコンスタンティン・ダスカレスクはこれに反対はんたいし、かれら3にんへの支持しじ表明ひょうめいした。チャウシェスクはいかりをあらわにし、「ならばわたし書記しょきちょう辞任じにんする。べつ人物じんぶつ書記しょきちょう選出せんしゅつするがい!」とい、会議かいぎしつからった。エミール・ボブロシアばんとコンスタンティン・ダスカレスクがチャウシェスクのあとをいかけ、部屋へやもどるよう懇願こんがんした[24]すうふん、チャウシェスクは会議かいぎしつもどり、会議かいぎつづけた。チャウシェスクは、ティミショアラのとう代表だいひょう緊急きんきゅう電話でんわ会議かいぎ実施じっしし、民間みんかんじんたいする発砲はっぽう命令めいれいした[26]。チャウシェスクは将軍しょうぐんイオン・コーマン (Ion Coman)を司令しれいかん任命にんめい[24]、12月17にち午後ごご330ふん国防省こくぼうしょう内務省ないむしょう将官しょうかん代表だいひょうだんがティミショアラに派遣はけんされた。午後ごご6、ジロクルイ (Girocului)にて、参謀さんぼう総長そうちょうシュテファン・グーシャ (Ştefan Guşă)の命令めいれいにより、みちふさがれた戦車せんしゃ回収かいしゅうする名目めいもくで、抗議こうぎしゃたいして発砲はっぽうはじまった。午後ごご645ふんごろ、ティミショアラの部隊ぶたいは、信号しんごうRadu cel Frumos」をけた。これは「軍隊ぐんたい戦争せんそう弾薬だんやく装備そうびさせ、戦闘せんとう態勢たいせいえよ」との指令しれいであった[20]。ティミショアラでは、国防省こくぼうしょう部隊ぶたいによる発砲はっぽうがついに開始かいしされ、数時間すうじかんで300にんえる人々ひとびとたれた。

12月18にち午前ごぜん530ふん、ティミショアラの部隊ぶたい司令しれいかん、イオン・コーマンは、現地げんち状況じょうきょうについて「まりの最中さいちゅうにあります」とブクレシュティに報告ほうこくした[20]。この24あいだで、ティミショアラでは66にん死亡しぼうし、300にんちかくが負傷ふしょうした。この、チャウシェスクはイラン訪問ほうもんする予定よていがあった。午前ごぜん8、チャウシェスクは「イランへの訪問ほうもん必要ひつようい」と判断はんだんし、テヘラン出発しゅっぱつした。午後ごご3から午後ごご4にかけて、抗議こうぎしゃころされたことに激怒げきどした労働ろうどうしゃだい規模きぼ集団しゅうだんが、市内しない中心ちゅうしん移動いどうしていた。午後ごご5から午後ごご7にかけて、蝋燭ろうそくにしたものたちがだい聖堂せいどう階段かいだん集結しゅうけつした。将軍しょうぐんミハイ・チツァックルーマニアばん兵士へいしたちに発砲はっぽうめいじ、みずからも民間みんかんじんけて発砲はっぽうした。7にん死亡しぼうし、98にん負傷ふしょうした。

12月17にちから18にちよるにかけて、ティミショアラのぐん病院びょういんにて、たれて死亡しぼうしたものたちの遺体いたい安置あんちされた。12月19にちエレナ・チャウシェスク[21]とイオン・コーマンの命令めいれいもとづき、遺体いたい安置あんちしょ安置あんちされていた58たい遺体いたいのうち、43たい冷凍れいとうトラックにまれ、ブクレシュティに移送いそうされた。かれらの遺体いたい火葬かそうされ、そののこはい水路すいろてられた。弾圧だんあつされた痕跡こんせきのこさないようにするのが目的もくてきであった。エレナ・チャウシェスクはこれを「Operaţiunea Trandafirul」(「バラ作戦さくせん」)と名付なづけた[20]午前ごぜん7から午後ごご12すうせんにん労働ろうどうしゃ街頭がいとうしていた。ティミショアラでの抗議こうぎ運動うんどうはもはやめることが不可能ふかのうになっていた。午後ごご150ふん、シュテファン・グーシャは兵士へいしたちにたいし、兵舎へいしゃへの撤退てったいめいじた。

12月20にち午前ごぜん9抗議こうぎしゃ集団しゅうだんすうまんにん規模きぼにまでふくらんでいた。ティミショアラの中心ちゅうしんにある劇場げきじょう広場ひろば集結しゅうけつした群衆ぐんしゅうは「独裁どくさいしゃたおせ!」「自由じゆうを!」「かみ御座ぎょざします!」「軍隊ぐんたい我々われわれ味方みかただ!」と唱和しょうわした。午後ごご12、ティミショアラの中心ちゅうしんには、およそ15まんにん抗議こうぎしゃがいた。かれらは兵士へいしれをおくった。午後ごご1230ふん抗議こうぎしゃすうにん劇場げきじょう桟敷さじき開放かいほうし、その直後ちょくごに「おもいの」の唱和しょうわはじまった。拡声かくせいつうじて「ティミショアラは共産きょうさん主義しゅぎから解放かいほうされたルーマニアの最初さいしょ都市としである」と宣言せんげんされた。午後ごご230ふん閣僚かくりょう評議ひょうぎかい議長ぎちょうコンスタンティン・ダスカレスクロシアばんがティミショアラに到着とうちゃくした。抗議こうぎしゃたちは、くに指導しどうしゃ立場たちばにあるものたち全員ぜんいん辞任じにん自由じゆう選挙せんきょ、ティミショアラでの殺害さつがい責任せきにんしゃ裁判さいばんにかけるよう要求ようきゅうした。

ティミショアラではじまった抗議こうぎ運動うんどうは、12月20にち時点じてんで、暴動ぼうどうへと発展はってんしていった[21]

ティミショアラ公式こうしきサイトには、ティミショアラで犠牲ぎせいとなったものたちの名前なまえ記録きろくされている[27]

チャウシェスクの

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1989ねん12月21にち、チャウシェスクは首都しゅと・ブクレシュティにて集会しゅうかいひらき、あつまった群衆ぐんしゅうまえ演説えんぜつおこなったが、この最中さいちゅう突如とつじょさわぎが勃発ぼっぱつした。チャウシェスクはぐんとう委員いいんかいだいいち書記しょき電話でんわ会議かいぎおこない、「ここ数日すうじつ一連いちれん出来事できごとは、くに不安定ふあんていにさせ、ルーマニアの独立どくりつ主権しゅけんたいする組織そしきてき策動さくどう結果けっかである」と宣言せんげんし、とう国家こっか権力けんりょく民兵みんぺい治安ちあん部隊ぶたい軍隊ぐんたい総動員そうどういんするようもとめたうえで、「我々われわれは、この出来事できごと正体しょうたいあばき、断固だんことして拒否きょひし、始末しまつけねばならない」とべた。革命かくめい広場ひろばからものたちは恐慌きょうこう状態じょうたいおちいり、革命かくめい広場ひろば周辺しゅうへんとおりにあつまると、「独裁どくさいしゃたおせ!」「チャウシェスクよ、おまえだれだ? - スコルニチェシュティ出身しゅっしん極悪ごくあくじんだ!」との唱和しょうわはじめた。

12月22にち午後ごご126ふんだい群衆ぐんしゅう見守みまもなか、チャウシェスク夫妻ふさい護衛ごえいったヘリコプターが、建物たてもの屋上おくじょうから離陸りりくしていった[28]。チャウシェスク夫妻ふさいはこののうちにトゥルゴヴィシュテ (Târgoviște)にて軍隊ぐんたいらえられ、12月25にち裁判さいばんにかけられたのち、銃殺じゅうさつけいしょせられるにいたった[29]

チャウシェスクは、以下いか罪状ざいじょう死刑しけい宣告せんこくされた。

  • 6まんにん殺害さつがいした
  • 国家こっか国民こくみんたいして武装ぶそう行動こうどう組織そしきし、国家こっか権力けんりょく転覆てんぷくさせようとした
  • 建物たてもの破壊はかい損壊そんかい都市としにおける爆発ばくはつ公共こうきょう財産ざいさん破壊はかいした
  • 国民こくみん経済けいざい弱体じゃくたいさせた
  • 外国がいこく銀行ぎんこうに10おくドルを不正ふせい蓄財ちくざいし、それを利用りようして国外こくがい逃亡とうぼうはかろうとした

しかしながら、これらの告訴こくそ内容ないよう立証りっしょうされたことはい。

裁判さいばんはわずか1あいだ20ふん終了しゅうりょうし、これらの罪状ざいじょう立証りっしょうされないままチャウシェスクは処刑しょけいされた[30]

司教しきょうとして

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トゥーケーシュ・ラースロー(1993ねん9がつ
講演こうえんおこなうトゥーケーシュ・ラースロー(1993ねん10がつ17にち

トゥーケーシュは改革かいかく教会きょうかい地区ちくであるキライハゴマリーク (Királyhágómellék)の司教しきょう選出せんしゅつされた。2004ねん、トゥーケーシュは再選さいせんされ、6年間ねんかん任期にんきつとめた。1992ねんから欧州おうしゅう名誉めいよ上院じょういん議員ぎいん世界せかいハンガリーじん協会きょうかい世界せかいハンガリー改革かいかく協会きょうかい会長かいちょうつとめる。

かれ共産きょうさん主義しゅぎしゃこわされた教会きょうかい建物たてもの再建さいけんちからそそぎ、ハンガリーによる教育きょういく社会しゃかいてき責任せきにん宣教せんきょう活動かつどう重要じゅうようせい強調きょうちょうした。オラダ (Oradea)にある「キリストきょうパルティウム大学だいがく」(A Partiumi Keresztény Egyetem)は1999ねん創設そうせつされ、これにはトゥーケーシュがかかわっていた。オラダでは託児たくじしょ創設そうせつし、アレシュト (Aleșd)では孤児こじいん、アルドゼル (Arduzel)ではベテスダ医療いりょう施設しせつサロンタ (Salonta)ではピーテル改革かいかく小学校しょうがっこう、ティンカ (Tinca)では介護かいご施設しせつ建設けんせつたずさわった。1996ねん博物館はくぶつかん講堂こうどう社会しゃかい福祉ふくし施設しせつそなえたハンガリー改革かいかく教会きょうかい建物たてものLórántffy Zsuzsanna」(「ロランティフィ・ジョジャンナ」)が開館かいかんした。

政治せいじ活動かつどう

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2007ねん、ハンガリーの政党せいとうフィデス=ハンガリー市民しみん同盟どうめい (Fidesz-Magyar Polgári Szövetség)からの支援しえんけて、トゥーケーシュは欧州おうしゅう議会ぎかい議員ぎいん無所属むしょぞく立候補りっこうほした[31]2007ねん11月にルーマニアで実施じっしされた選挙せんきょで、トゥーケーシュは充分じゅうぶん得票とくひょうすうて、議席ぎせき獲得かくとくした。トゥーケーシュの立候補りっこうほにより、どうとう党首とうしゅであるフルンダ・ギョルジ英語えいごばんから、「得票とくひょうすうれた」と非難ひなんされた。フルンダは、「トゥーケーシュにとっても、フィデスにとっても、全体ぜんたい利益りえきよりも個人こじん利益りえきほう重要じゅうようらしい」とべた[32]。フルンダはまた、「トゥーケーシュはトライアン・バセスク (Traian Băsescu)にたすけられた」と主張しゅちょうし、ハンガリーじんがほとんどんでいないルーマニアのワラキア (Wallachia)とモルダヴィア (Moldavia)から1まん8000ひょう獲得かくとくした趣旨しゅしべた[33]開票かいひょうよる、トゥーケーシュは「わたしだいルーマニアとうやぶった」と発言はつげんした[34]。トゥーケーシュが議席ぎせき獲得かくとくした一方いっぽうで、だいルーマニアとう (Partidul România Mare)は5議席ぎせきすべうしなった[35]。ジャーナリストのアティラ・トート・セネシー (Attila Tóth-Szenesi)は、「この選挙せんきょは、ハンガリー国内こくないにおける政治せいじ闘争とうそう一部いちぶでもあった」といた[34]

2009ねん実施じっしされた欧州おうしゅう議会ぎかい議員ぎいん選挙せんきょでは、ハンガリーじん民主みんしゅ同盟どうめい (Romániai Magyar Demokrata Szövetség, RMDSZ)から出馬しゅつばし、再選さいせんされた。2010ねん5月、トゥーケーシュは、パール・シュミット英語えいごばん後任こうにんとして、欧州おうしゅう議会ぎかいふく議長ぎちょう一人ひとりえらばれた。賛成さんせい334ひょう棄権きけん287ひょうであった[36]。トゥーケーシュは、「ヨーロッパの良心りょうしん共産きょうさん主義しゅぎかんするプラハ宣言せんげん」の共同きょうどう署名しょめいしゃでもある[37]

2010ねん6がつ、トゥーケーシュは欧州おうしゅう議会ぎかい選挙せんきょにてふく議長ぎちょう選出せんしゅつされた[38]

2014ねんにハンガリーで実施じっしされた欧州おうしゅう議会ぎかい選挙せんきょで、トゥーケーシュはフィデス=ハンガリー市民しみん同盟どうめい党名とうめい簿で3番目ばんめ候補者こうほしゃえらばれた[39]2019ねん任期にんき終了しゅうりょうまえ、トゥーケーシュは再選さいせんけての立候補りっこうほはしない趣旨しゅし発表はっぴょうした。トゥーケーシュによれば、「欧州おうしゅう人民じんみんとうキリスト教きりすときょうへの信仰しんこう放棄ほうきした」のだという[40]

受賞じゅしょう

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トゥーケーシュ・ラースロー(2010ねん
トム・ラントス研究所けんきゅうじょ落成らくせいしき様子ようす写真しゃしん左下ひだりしたせきすわっているのがトゥーケーシュ。写真しゃしん中央ちゅうおうせきすわっているのはヒラリー・クリントン(2011ねん6がつ30にちブダペストにて)

トゥーケーシュは、1990ねん信教しんきょう自由じゆうにおける「4つの自由じゆうしょう」(The Four Freedoms Award)を受賞じゅしょうした[41]

2009ねん、トゥーケーシュはワシントンD.C.にて、「The Truman-Reagan Medal of Freedom」(「トルーマン=リーガン自由じゆう勲章くんしょう」)を授与じゅよされた。ルーマニアの共産きょうさん主義しゅぎたいするかれ役割やくわり敬意けいいあらわしておくられた[42]

受勲じゅくん撤回てっかい

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2009ねん、トゥーケーシュはルーマニア政府せいふから「ルーマニアぼし勲章くんしょう」を受勲じゅくんした[43]

しかし、2016ねんクラウス・ヨハニス (Klaus Iohannis)は、トゥーケーシュに授与じゅよした栄誉えいよ撤回てっかいする趣旨しゅし発表はっぴょうした。2013ねん11月20にち、ルーマニアぼし勲章くんしょう評議ひょうぎかいは、賛成さんせい5ひょう棄権きけん1ひょうで、トゥーケーシュに授与じゅよした勲章くんしょう撤回てっかいすることを決定けっていした。トゥーケーシュは2013ねんにハンガリーの首相しゅしょうオルバーン・ヴィクトル (Orbán Viktor)にたいして「2013ねん7がつ27にち、トゥーケーシュ・ラースローはハンガリーのオルバーン・ヴィクトル首相しゅしょうたいし、「オーストリアみなみティロルたいしてったように、トランスィルヴァニアに『保護ほごりょう』の地位ちいあたえる『国家こっか協力きょうりょく制度せいど』を確立かくりつするよう、政府せいふとともに要請ようせいした」ことが、受勲じゅくんしの最大さいだい理由りゆうであった[44]。トゥーケーシュは、「トランスィルヴァニアに『保護ほごりょう』の地位ちいあたえてはどうか」と提案ていあんした、とされる発言はつげんは「誤訳ごやくだ」と主張しゅちょうした[45]。2016ねん2がつ29にち、オルバーンは「ルーマニア政府せいふは、ルーマニア在住ざいじゅうのハンガリーじん指導しどうてき立場たちばにある人物じんぶつたいして、『憲法けんぽう合法ごうほうせい汚職おしょくとのたたかい』を口実こうじつに、『政治せいじてき闘争とうそう』を展開てんかいしようとしている」と批判ひはんした[46]

2016ねん3月4にち、クラウス・ヨハニスは、「トゥーケーシュ・ラースローに授与じゅよしたルーマニアぼし勲章くんしょう撤回てっかいする」法令ほうれい署名しょめいし、首相しゅしょうダチアン・チョロシュ (Dacian Cioloș)もこれに副署ふくしょした[47]。この決定けっていたいし、トゥーケーシュは、裁判所さいばんしょ異議いぎもうてをおこない、ヨハニスとチョロシュをうったえた。2016ねん11月、ブクレシュティ上訴じょうそ裁判所さいばんしょは「事実じじつもとづかない」として、トゥーケーシュのうったえを棄却ききゃくした[45]

2021ねん5月12にち、ルーマニア最高裁判所さいこうさいばんしょは、トゥーケーシュ・ラースローが提出ていしゅつした上訴じょうそ承認しょうにんし、裁判さいばんのやりなおしをめいじた[47]

民族みんぞく主義しゅぎてき行動こうどう

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トゥーケーシュは、ルーマニア国内こくないにおけるハンガリーじんによる自治じちけん拡大かくだいさせようとかんがえている。ルーマニアのほう執行しっこう機関きかんDirecția de Investigare a Infracțiunilor de Criminalitate Organizată și Terorism, DIICOT』(『組織そしき犯罪はんざい・テロ捜査そうさきょく』)の検察けんさつから、「トゥーケーシュはルーマニア憲法けんぽう違反いはんし、国家こっか権力けんりょく弱体じゃくたいさせようとしている」として告発こくはつされたことがある[38]。2010ねん6がつ、トゥーケーシュは「ハンガリーじんおお地域ちいきでは、ルーマニアじんもハンガリーまな価値かちはある」と発言はつげんした[38]。オラダのとおりにあるルーマニアによる銘板めいばんが、トゥーケーシュによる主導しゅどうでハンガリー変更へんこうされた。市議会しぎかいはこれをえたが、トゥーケーシュはふたたびこれをハンガリーのものにえ、「撤去てっきょした場合ばあい抗議こうぎする」と脅迫きょうはくした[38]

トゥーケーシュは政治せいじてき意図いとかくすことなく、ハンガリーじんによる自治じちけん要求ようきゅうつづけており[48]、2022ねん7がつには、ハンガリーの首相しゅしょう、オルバーン・ヴィクトルにたいしても「ルーマニア国内こくないにおけるハンガリーじんによる自治じちたいする支持しじ表明ひょうめいしてしい」とはたらきかけている[49]

2019ねん12月、トゥーケーシュは、自分じぶんを「ハンガリーのスパイ」とんだ人物じんぶつたいして名誉めいよ毀損きそん訴訟そしょうこし、勝訴しょうそした[50]

1989ねん時点じてんで、トゥーケーシュの行動こうどう監視かんししていた政府せいふ当局とうきょくは -セクリターテととう公文書こうぶんしょしめされているように- 、トゥーケーシュを「ハンガリーのスパイ」と做していた[4]

家族かぞく

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つま・エディートとのあいだ息子むすこ2人ふたりむすめが1にんいる。

2010ねん3月23にち、エディートが離婚りこん申請しんせいした。トゥーケーシュの不倫ふりん理由りゆうであるという[51]司祭しさいのバローグ・バルナバス(Balogh Barnabas) は、2010ねん11月に声明せいめい発表はっぴょうし、「原告げんこく被告ひこくから屈辱くつじょくけ、愚弄ぐろうされたとえるでしょう。様々さまざま機会きかいや、記念きねんに、被告ひこく原告げんこくまえで、被告ひこくべつ女性じょせいむね谷間たにまについて発言はつげんしたり、原告げんこくは、おそらくは被告ひこく人生じんせいにおいて番目ばんめさん番目ばんめ存在そんざいであり、いち番目ばんめ女性じょせいではないことを示唆しさする言動げんどうられました」とべた。バルナバス司祭しさいによれば、「トゥーケーシュはエディートを『おろかで粗野そやおんな』と表現ひょうげんした」という[52]。また、エディートは1990ねん6がつ20日はつかにクルージュ=ナポカにある病院びょういんむすめのイローナを出産しゅっさんしたとき、おっとはその前後ぜんご見舞みまいにすらなかったてんはじめ、おっとから冷遇れいぐうされたはなしほんにして出版しゅっぱんした[53]。トゥーケーシュはおおくの女性じょせい不倫ふりんしており、親愛しんあいじょうしめ手紙てがみつづっていた一方いっぽうで、家族かぞくたいしてはほとんどくちかなかったという[54]

トゥーケーシュは2013ねんべつ女性じょせい再婚さいこんし、その女性じょせいは「妊娠にんしんちゅう」と報道ほうどうされた[54]

著書ちょしょ

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  • Zur Winterzeit der Welt (társszerző, Berlin, 1980)
  • With God, for the people. The autobiography of Laszlo Tokes; as told to David Porter; Hodder & Stoughton, London, 1990
  • Temesvár ostroma 1989; Hungamer, Bp., 1990 (naplójegyzetek, levelek, dokumentumok)
  • "Ahol az Úrnak lelke, ott a szabadság". Válogatás Tőkés László igehirdetéseiből, 1986–1990; Református Zsinati Iroda, Bp., 1990
  • Istennel a népért. Tőkés László életútja ahogyan David Porternek elmondta; angolból ford. Főgler Klára; Aranyhíd, Bp., 1991
  • „Ideje van a szólásnak” (válogatott írások, Nagyvárad, 1993)
  • Egy kifejezés és ami mögötte van / What's behind a statement; Balaton Akadémia, Vörösberény, 1993 (Balaton Akadémia könyvek)
  • Temesvár szellemében. Ökumenia és megbékélés (Nagyvárad, 1996)
  • Temesvári memento (Kolozsvár, 1999)
  • Asediul Timişoarei (Temesvár ostroma); románra ford. Gelu Păteanu; Ed. de Eparhia Reform. de pe lângă Piatra Craiului, s.l., 1999
  • Remény és valóság. Egyház- és kisebbségpolitikai írások, 1989–1999; szerk. Barabás Zoltán;  Királyhágómelléki Református Egyházkerület, Oradea, 1999
  • Rádióba mondom. Rádiós igehirdetések, igei alapú beszédek (2001-2003); Királyhágómelléki Református Egyházkerület, Nagyvárad, 2003
  • Remény és valóság. Összegyűjtött írások; új, jelentősen bőv. kiad.; Mundus, Bp., 2006 (Protestáns művelődés Magyarországon)
  • Hit és nemzet. Tőkés László breviáriuma. Ady Endre verseivel; vál., szerk. Jánosi Zoltán, vál., összeáll. Farkas Ernő; Magyar Napló, Bp., 2017

出典しゅってん

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参考さんこう文献ぶんけん

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資料しりょう

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外部がいぶリンク

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