トゥーケーシュ・ラースロー (ハンガリー語 ご : Tőkés László , [ˈtøːkeːsˈ laːsloː] 、1952年 ねん 4月 がつ 1日 にち - )は、ルーマニア 生 う まれのハンガリー人 じん の政治 せいじ 家 か 、牧師 ぼくし 。1990年 ねん から2009年 ねん まで改革 かいかく 派 は 教会 きょうかい の教区 きょうく で司教 しきょう を務 つと めていた。2007年 ねん から2019年 ねん まで欧州 おうしゅう 議会 ぎかい 議員 ぎいん を務 つと め、2010年 ねん から2011年 ねん にかけては副 ふく 議長 ぎちょう を務 つと めた[ 1] 。
1989年 ねん 12月15日 にち 、ルーマニア政府 せいふ は、ティミショアラ (Timișoara ) に住 す んでいたトゥーケーシュに対 たい して教区 きょうく から立 た ち退 の くよう命 めい じた。この立 た ち退 の き命令 めいれい に抗議 こうぎ する形 かたち で、キリスト教徒 きりすときょうと たちの集団 しゅうだん ができあがり、群衆 ぐんしゅう もこれに加 くわ わり、抗議 こうぎ 運動 うんどう は徐々 じょじょ に拡大 かくだい し、勢 いきお いを増 ま していった。この抗議 こうぎ 運動 うんどう は、最終 さいしゅう 的 てき に、1989年 ねん 12月25日 にち のニコラエ・チャウシェスク (Nicolae Ceauşescu ) の処刑 しょけい に繋 つな がった。
トゥーケーシュ・ラースローは、トランスィルヴァニア・ハンガリー国民 こくみん 評議 ひょうぎ 会 かい (Erdélyi Magyar Nemzeti Tanács ) の代表 だいひょう でもある。トランスィルヴァニア・ハンガリー人民 じんみん 党 とう (Erdélyi Magyar Néppárt ) との関 かか わりも深 ふか いが、党員 とういん ではない。「欧州 おうしゅう 歴史 れきし 和解 わかい 団 だん 」の委員 いいん の一人 ひとり であり[ 2] 、2009年 ねん に実施 じっし された「ヨーロッパの良心 りょうしん と全体 ぜんたい 主義 しゅぎ に関 かん する欧州 おうしゅう 議会 ぎかい 決議 けつぎ 」を支持 しじ した[ 3] 。
1952年 ねん 、ルーマニア のクルージュ=ナポカ (Cluj-Napoca )に生 う まれた。祖父 そふ も父親 ちちおや も改革 かいかく 派 は 教会 きょうかい の牧師 ぼくし であった。1971年 ねん に高校 こうこう を卒業 そつぎょう 後 ご 、1971年 ねん から1975年 ねん まで、父親 ちちおや が1980年代 ねんだい 初頭 しょとう まで教授 きょうじゅ を務 つと めていた神学 しんがく 研究所 けんきゅうじょ で学 まな んだ。卒業 そつぎょう 後 ご 、ブラショブ (Brașov )の改革 かいかく 派 は 教会 きょうかい で2年間 ねんかん 、1984年 ねん までデジ (Dej )の教会 きょうかい で牧師 ぼくし を務 つと めた[ 4] 。
彼 かれ はスンペトル・デ・クンピエ (Sânpetru de Câmpie )の村 むら への転属 てんぞく を命 めい ぜられたが、それを拒否 きょひ し、クルージュ=ナポカの実家 じっか で2年間 ねんかん 過 す ごした[ 5] 。
トゥーケーシュは、チャウシェスク政権 せいけん を批判 ひはん していた。彼 かれ は、雑誌 ざっし 『Ellenpontok 』(『対比 たいひ 』)にて、ルーマニアにおける人権 じんけん 侵害 しんがい についての記事 きじ を寄稿 きこう した。記事 きじ には署名 しょめい が無 な かったが、セクリターテ (Securitate )がトゥーケーシュが寄稿 きこう した記事 きじ であることを突 つ き止 と めた[ 4] 。
ティミショアラにて、トゥーケーシュは、ルーマニア国内 こくない の街 まち や村 むら の生活 せいかつ 基盤 きばん についての抜本 ばっぽん 的 てき な再編 さいへん を提示 ていじ したルーマニア政府 せいふ による「体系 たいけい 化 か 計画 けいかく 」に反対 はんたい する内容 ないよう の説教 せっきょう を行 おこな った[ 6] 。小規模 しょうきぼ な村 むら の存在 そんざい は「不合理 ふごうり 」と見 み 做され、供給 きょうきゅう の削減 さくげん 、住民 じゅうみん の強制 きょうせい 移住 いじゅう 、教会 きょうかい や修道院 しゅうどういん を含 ふく む建物 たてもの は取 と り壊 こわ しの対象 たいしょう となった。人権 じんけん 活動 かつどう 家 か やルーマニア在住 ざいじゅう のハンガリー人 じん は、この体系 たいけい 化 か 計画 けいかく について、ハンガリー人 じん の居住 きょじゅう 区 く に対 たい する重大 じゅうだい な脅威 きょうい と見 み 做したが、トゥーケーシュの行 おこな った説教 せっきょう の内容 ないよう は、ルーマニア人 じん とハンガリー人 じん の連帯 れんたい を呼 よ びかけるものであった[ 7] 。ハンガリー政府 せいふ と西 にし ドイツ政府 せいふ は、この体系 たいけい 化 か 計画 けいかく に対 たい して抗議 こうぎ した。ハンガリー人 じん の劇団 げきだん 「タリア」(Thalia )の劇団 げきだん 員 いん は、ルーマニア政府 せいふ 当局 とうきょく が「『領土 りょうど 回復 かいふく 主義 しゅぎ 者 しゃ 』(民族 みんぞく 統一 とういつ 主義 しゅぎ 、外国 がいこく に併合 へいごう された、同一 どういつ の民族 みんぞく が暮 く らし、歴史 れきし 的 てき に固有 こゆう の領土 りょうど である土地 とち を取 と り戻 もど そう、とする立場 たちば や主張 しゅちょう を指 さ す)の詩 し 」と察知 さっち していたものを読 よ んでいた。彼 かれ らの文化 ぶんか 的 てき 行事 ぎょうじ を企画 きかく したトゥーケーシュは、1989年 ねん 5月 がつ にブダペスト のラジオで放送 ほうそう された抗議 こうぎ 声明 せいめい を通 つう じて、タリアの活動 かつどう の禁止 きんし の決定 けってい を批判 ひはん した[ 4] 。
1988年 ねん の夏 なつ 、トゥーケーシュはハンガリー改革 かいかく 派 は 教会 きょうかい の牧師 ぼくし たちとともに、体系 たいけい 化 か 計画 けいかく に反対 はんたい する団体 だんたい を編成 へんせい したが、これはセクリターテから再 ふたた び注目 ちゅうもく されることになった。1988年 ねん 10月31日 にち の宗教 しゅうきょう 改革 かいかく 記念 きねん 日 び 、セクリターテが、「タリア」と共同 きょうどう で開催 かいさい する祝祭 しゅくさい の実施 じっし に反対 はんたい すると、司教 しきょう のポップ・ラースロー (Papp László )は、バーナート (Banat )における青年 せいねん 活動 かつどう を禁止 きんし した。しかし、1989年 ねん の春 はる 、トゥーケーシュは、ルーマニア正教会 せいきょうかい (Biserica Ortodoxă Română )の司教 しきょう とともに、別 べつ の祝祭 しゅくさい を開催 かいさい した[ 7] 。
1989年 ねん 3月 がつ 20日 はつか 、ミッシェル・クレア (英語 えいご 版 ばん ) とレジョン・ロイ (Réjean Roy )、2人 ふたり のカナダ人 じん がトゥーケーシュを訪問 ほうもん し、密 ひそ かに持 も ち込 こ んだカメラでトゥーケーシュを取材 しゅざい し、録音 ろくおん した。3人 にん のハンガリー人 じん がカメラの持 も ち込 こ みを支援 しえん し、その間 あいだ 、彼 かれ らはセクリターテから追跡 ついせき されていた[ 8] 。3月31日 にち 、ポップ司教 しきょう はトゥーケーシュにティミショアラでの説教 せっきょう 行為 こうい を止 と め、孤立 こりつ した教区 きょうく があるミネウ村 むら (Mineu )に移住 いじゅう するよう命 めい じたが、トゥーケーシュはこれを拒否 きょひ し、彼 かれ の信徒 しんと たちもそれを支持 しじ した。
1989年 ねん 7月 がつ 24日 にち 、ハンガリーの国営 こくえい テレビの調査 ちょうさ 番組 ばんぐみ 『パノラマ』が、3月に実施 じっし されたカナダ人 じん によるトゥーケーシュへの取材 しゅざい 映像 えいぞう を放送 ほうそう した。この2日 にち 後 ご 、ポップ司教 しきょう はトゥーケーシュに書簡 しょかん を送 おく り、「トゥーケーシュ・ラースローは面談 めんだん の中 なか でルーマニアの国家 こっか に対 たい して名誉 めいよ 棄損 きそん となる言葉 ことば を述 の べ、嘘 うそ まで吐 は いた」と非難 ひなん し、トゥーケーシュの追放 ついほう を命 めい じた。カナダの『トロント・スター 』紙 し は、「この取材 しゅざい 映像 えいぞう の公開 こうかい が、1989年 ねん 12月の一連 いちれん の出来事 できごと を誘発 ゆうはつ する契機 けいき となった可能 かのう 性 せい がある」と書 か いた[ 9] 。ポップ司教 しきょう はトゥーケーシュを教会 きょうかい の集合 しゅうごう 住宅 じゅうたく から追 お い出 だ すため、民事 みんじ 訴訟 そしょう の手続 てつづ きを開始 かいし した。トゥーケーシュの自宅 じたく の電気 でんき は止 と められ、食糧 しょくりょう 配給 はいきゅう 手帳 てちょう も没収 ぼっしゅう されたが、教区 きょうく の住人 じゅうにん はトゥーケーシュを支援 しえん し続 つづ けた。ルーマニア政府 せいふ 当局 とうきょく は数 すう 人 にん を逮捕 たいほ し、殴打 おうだ した。1989年 ねん 9月14日 にち 、ハンガリー人 じん のエルノ・ウユヴァロシー (Ernő Ujvárossy )が、ティミショアラ郊外 こうがい の森 もり の中 なか で遺体 いたい で発見 はっけん され[ 10] [ 11] 、トゥーケーシュの父親 ちちおや も一時 いちじ 的 てき に身柄 みがら を拘束 こうそく された[ 12] 。エルノの死 し は、「治安 ちあん 部隊 ぶたい による政治 せいじ 的 てき 暗殺 あんさつ 」と見 み られている[ 10] 。1989年 ねん 7月 がつ にハンガリーが放送 ほうそう したトゥーケーシュへの取材 しゅざい 映像 えいぞう の中 なか で、トゥーケーシュは、「ルーマニア人 じん は自分 じぶん たちの人権 じんけん さえも知 し らないのだ」と発言 はつげん していた。2008年 ねん にドイツ で放送 ほうそう された鉄 てつ のカーテン を題材 だいざい にしたテレビ番組 ばんぐみ の中 なか で、トゥーケーシュは以下 いか のように語 かた っている[ 13] 。
「
この真意 しんい は、独裁 どくさい 者 しゃ であるニコラエ・チャウシェスクを支持 しじ する必要 ひつよう は無 な いのだ、と伝 つた えることにありました。チャウシェスクの仮面 かめん を剥 は ぎ取 と るために、どうしても必要 ひつよう であったのです。一般 いっぱん のルーマニア人 じん やセクリターテにも衝撃 しょうげき を与 あた えた模様 もよう です。あの当時 とうじ 、外国 がいこく のテレビ放送 ほうそう の視聴 しちょう は禁止 きんし されており、この映像 えいぞう はルーマニアとハンガリーの国境 こっきょう 付近 ふきん でのみ、視聴 しちょう できました。この映像 えいぞう を観 み た人 ひと は誰 だれ もが衝撃 しょうげき を受 う け、とりわけ、映像 えいぞう はトランスィルヴァニア で広 ひろ まり、ルーマニア国内 こくない の空気 くうき と世相 せそう に、思 おも いも寄 よ らぬ形 かたち で影響 えいきょう を及 およ ぼしたのです。
」
1989年 ねん 10月 がつ 20日 はつか 、ティミショアラ裁判所 さいばんしょ は、トゥーケーシュの立 た ち退 の きを命 めい じる評決 ひょうけつ を出 だ し、トゥーケーシュはこれに控訴 こうそ した。11月2日 にち 、刃物 はもの で武装 ぶそう した4人 にん の人物 じんぶつ がトゥーケーシュの自宅 じたく に押 お し入 い った[ 11] 。セクリターテの諜報 ちょうほう 員 いん が見守 みまも る中 なか 、トゥーケーシュとその友人 ゆうじん たちは襲撃 しゅうげき してきた者 もの たちを撃退 げきたい した。ルーマニアの特命 とくめい 全権 ぜんけん 大使 たいし はハンガリーの外務省 がいむしょう に召喚 しょうかん され、ハンガリー政府 せいふ にトゥーケーシュ・ラースローの身 み の安全 あんぜん を心配 しんぱい している趣旨 しゅし を告 つ げられた。11月12日 にち 、何者 なにもの かが教区 きょうく の建物 たてもの の窓 まど を割 わ った[ 11] 。11月28日 にち 、ティミショアラ裁判所 さいばんしょ はトゥーケーシュによる控訴 こうそ を棄却 ききゃく し、トゥーケーシュは1989年 ねん 12月15日 にち に正式 せいしき に立 た ち退 の くことになった[ 14] [ 12] 。
1989年 ねん 12月11日 にち 、トゥーケーシュは郡 ぐん の党 とう 委員 いいん 会 かい に呼 よ び出 だ され、「立 た ち退 の きの日 ひ が12月18日 にち の月曜日 げつようび に変更 へんこう されたことを教区 きょうく の住民 じゅうみん に伝 つた えるように」との指示 しじ を受 う けた。しかし、礼拝 れいはい が行 おこな われるのは日曜日 にちようび であり、12月15日 にち は金曜日 きんようび であったため、トゥーケーシュは立 た ち退 の きが延期 えんき された話 はなし を伝 つた えることができずにいた[ 14] 。12月15日 にち 夜 よる 8時 じ 頃 ごろ 、教会 きょうかい の建物 たてもの の前 まえ に、黒 くろ いダチア車 しゃ が止 と まり、ティミショアラの市長 しちょう 、ペトレ・モーツ (Petru Moţ )が現 あらわ れ、トゥーケーシュと対話 たいわ した。教 きょう 区民 くみん たちは、トゥーケーシュの自宅 じたく の外 そと で哨戒 しょうかい を始 はじ め、移動 いどう 命令 めいれい を受 う けるも拒否 きょひ した。教区 きょうく では「人間 にんげん の鎖 くさり 」が形成 けいせい され、民兵 みんぺい はこれに立 た ち入 い ることができなくなった。トゥーケーシュは教 きょう 区民 くみん たちに感謝 かんしゃ の言葉 ことば を述 の べたうえで、立 た ち去 さ るよう伝 つた えたが、トゥーケーシュの自宅 じたく 近 ちか くには、トゥーケーシュを守 まも ろうとする集団 しゅうだん ができあがっていた。トゥーケーシュの妻 つま ・エディートは妊娠 にんしん 中 ちゅう で、体調 たいちょう を崩 くず した。12月16日 にち 、かかりつけの医師 いし がエディートの診察 しんさつ に訪 おとず れ、そこから30分 ふん も経 た たないうちに、ペトレ・モーツが3人 にん の医師 いし を引 ひ き連 つ れて現 あらわ れ、エディートを病院 びょういん に連 つ れて行 い くように説得 せっとく するも、かかりつけの医師 いし はそれを拒否 きょひ するよう彼女 かのじょ に伝 つた えた[ 15] 。その後 ご 、作業 さぎょう 員 いん が到着 とうちゃく し、襲撃 しゅうげき 者 しゃ が壊 こわ した窓 まど と玄関 げんかん の扉 とびら を修理 しゅうり した。トゥーケーシュの元 もと を訪 おとず れる人々 ひとびと の数 かず はさらに増 ふ えていき、いつしかルーマニア人 じん も教 きょう 区民 くみん の群衆 ぐんしゅう に加 くわ わっていた。トゥーケーシュはペトレ・モーツと会話 かいわ したのち、再 ふたた び群衆 ぐんしゅう に去 さ るよう伝 つた えたが、教 きょう 区民 くみん たちはその場 ば に留 とど まっていた。一旦 いったん 去 さ ったのち、再 ふたた び戻 もど ってきたモーツは、「トゥーケーシュが立 た ち退 たい かされることは無 な い」趣旨 しゅし を約束 やくそく した。群衆 ぐんしゅう の中 なか には、トゥーケーシュの立 た ち退 の き命令 めいれい を書面 しょめん で撤回 てっかい するよう要求 ようきゅう した人物 じんぶつ も出 で た。ペトレ・モーツは一時 いちじ 間 あいだ 以内 いない にそうする趣旨 しゅし を約束 やくそく したが、彼 かれ が実際 じっさい にそうするつもりだったとしても、結局 けっきょく それは不可能 ふかのう であることが判明 はんめい した。立 た ち退 の き命令 めいれい についてはどうにもならなかった[ 14] [ 16] 。市長 しちょう や副 ふく 市長 しちょう との交渉 こうしょう や、複数 ふくすう の団体 だんたい が姿 すがた を見 み せたのち、ペトレ・モーツはトゥーケーシュに対 たい し、「午後 ごご 5時 じ までにこの群衆 ぐんしゅう を解散 かいさん させなければ、消防 しょうぼう 隊 たい による放水 ほうすい 銃 じゅう で攻撃 こうげき する」との最後 さいご 通告 つうこく を出 だ した。トゥーケーシュは群衆 ぐんしゅう に解散 かいさん するよう懇願 こんがん したが、トゥーケーシュがセクリターテから脅迫 きょうはく を受 う けている、と確信 かくしん したのか、群衆 ぐんしゅう は改 あらた めてそれを拒否 きょひ した。群衆 ぐんしゅう は、自宅 じたく から出 で て、通 とお りに姿 すがた を現 げん わすよう手招 てまね きするも、トゥーケーシュはこれを拒否 きょひ した。これについて、歴史 れきし 家 か のデニス・デリータント (英語 えいご 版 ばん ) は、「トゥーケーシュは、自分 じぶん が『抵抗 ていこう 組織 そしき 団体 だんたい の指導 しどう 者 しゃ 』と判断 はんだん されるのを恐 おそ れたのだろう」と書 か いた[ 17] 。
時刻 じこく は午後 ごご 5時 じ を迎 むか えたが、放水 ほうすい 銃 じゅう による攻撃 こうげき は行 おこな われなかった。午後 ごご 7時 じ までに、複数 ふくすう の区画 くかく に亘 わた って群衆 ぐんしゅう の規模 きぼ は拡大 かくだい していた。地元 じもと の工科 こうか 大学 だいがく の大学生 だいがくせい や、ハンガリー人 じん とルーマニア人 じん が手 て に手 て を取 と り合 あ い、「人間 にんげん の鎖 くさり 」を形成 けいせい していた。当初 とうしょ 、彼 かれ らは讃 さん 美歌 みか を合唱 がっしょう していたが、午後 ごご 7時 じ 30分 ふん 、ルーマニアの国歌 こっか である『Deşteaptă-te române! 』(「デシュタープタ=テ、ロムネ」、「目覚 めざ めよ、ルーマニア人 じん ! 」)の斉唱 せいしょう が始 はじ まった[ 18] [ 14] 。この国歌 こっか は1947年 ねん に斉唱 せいしょう 行為 こうい を禁止 きんし されており、1987年 ねん 11月15日 にち にブラショヴ で労働 ろうどう 者 しゃ たちが起 お こした反乱 はんらん (Revolta de la Brașov )の際 さい にもこれが歌 うた われた[ 19] 。
トゥーケーシュへの立 た ち退 の き命令 めいれい に抗議 こうぎ する意味 いみ で、蝋燭 ろうそく を灯 とも した人々 ひとびと が現 あら われ、抗議 こうぎ は拡大 かくだい を続 つづ けた。午後 ごご 9時 じ 、セクリターテの長官 ちょうかん 、ユリアン・ヴラード (ロシア語 ご 版 ばん ) はこの反乱 はんらん を鎮圧 ちんあつ するため、上級 じょうきゅう 作戦 さくせん 部隊 ぶたい をティミショアラに派遣 はけん した[ 20] 。抗議 こうぎ 者 しゃ たちはティミショアラ正教 せいきょう 大 だい 聖堂 せいどう (Catedrala Mitropolitană din Timişoara )の周辺 しゅうへん を移動 いどう し、市内 しない を行進 こうしん し、治安 ちあん 部隊 ぶたい と再 ふたた び対峙 たいじ した。いつしか群衆 ぐんしゅう は「チャウシェスクを倒 たお せ!」「政権 せいけん を倒 たお せ!」「共産 きょうさん 主義 しゅぎ を叩 たた き潰 つぶ せ!」と唱和 しょうわ し始 はじ めた。群衆 ぐんしゅう は別 べつ の場所 ばしょ へ移動 いどう し、橋 はし を渡 わた り、共産党 きょうさんとう 本部 ほんぶ の建物 たてもの がある市街地 しがいち へと向 む かい、石 いし を投擲 とうてき した。午後 ごご 10時 じ ごろ、民兵 みんぺい が彼 かれ らを教会 きょうかい へと追 お い返 かえ し、放水 ほうすい 銃 じゅう による水攻 みずぜ めが始 はじ まった。しかし、群衆 ぐんしゅう はそれを奪 うば い取 と って解体 かいたい し、その部品 ぶひん を、ベガ川 がわ (Râul Bega , ルーマニアとセルビア の間 あいだ を流 なが れる川 かわ )に投 な げ捨 す てた[ 21] 。午後 ごご 9時 じ から午後 ごご 11時 じ 30分 ふん にかけて、民兵 みんぺい 、警備 けいび 員 いん 、消防 しょうぼう 士 し 、国境警備隊 こっきょうけいびたい で構成 こうせい された部隊 ぶたい が180人 にん を逮捕 たいほ した[ 20] 。デニス・デリータントは、「このハンガリー人 じん の抗議 こうぎ 運動 うんどう は、今 いま やルーマニア人 じん の反乱 はんらん へと変 か わった」と書 か いた。
1989年 ねん 12月17日 にち 、ニコラエ・チャウシェスクはルーマニア共産党 きょうさんとう 中央 ちゅうおう 委員 いいん 会 かい 政治 せいじ 執行 しっこう 委員 いいん 会 かい の臨時 りんじ 会議 かいぎ を招集 しょうしゅう し、トゥーケーシュについて言及 げんきゅう し、「ある改革 かいかく 派 は の司祭 しさい が、彼 かれ 自身 じしん のせいで制裁 せいさい を受 う けた。ティミショアラから別 べつ の郡 ぐん に移 うつ り、住 す んでいた家 いえ を去 さ らねばならない、というものである。彼 かれ は自宅 じたく を明 あ け渡 わた すことを望 のぞ まなかった。司教 しきょう は裁判所 さいばんしょ に訴 うった え、裁判所 さいばんしょ は彼 かれ を立 た ち退 の かせる決定 けってい を下 くだ した。これには長 なが い時間 じかん を要 よう した。昨日 きのう 、裁判所 さいばんしょ 命令 めいれい が執行 しっこう されようとしたが、司祭 しさい は団体 だんたい を組織 そしき した。これはブダペスト を始 はじ めとする外国 がいこく の諜報 ちょうほう 組織 そしき による妨害 ぼうがい である。彼 かれ は外国 がいこく からの取材 しゅざい にも応 おう じているのだ」と述 の べた[ 22] 。午前 ごぜん 9時 じ 、陸軍 りくぐん 参謀 さんぼう 本部 ほんぶ の工作 こうさく 員 いん の集団 しゅうだん が市内 しない に到着 とうちゃく した。午前 ごぜん 11時 じ 、ティミショアラでの抗議 こうぎ 運動 うんどう の参加 さんか 者 しゃ は、いつしか数 すう 千 せん 人 にん にまで膨 ふく れ上 あ がっていた。中心 ちゅうしん 部 ぶ にある本屋 ほんや の窓 まど ガラスが割 わ られ、チャウシェスクを賛美 さんび する本 ほん は酷 ひど く損壊 そんかい された。国防 こくぼう 大臣 だいじん で将軍 しょうぐん のヴァスィーレ・ミーラ (Vasile Milea )は、ティミショアラ市内 しない にあるルーマニア共産党 きょうさんとう 本部 ほんぶ の建物 たてもの を、400人 にん の兵士 へいし で守 まも るよう命令 めいれい を出 だ した。午後 ごご 1時 じ 30分 ふん 、ミーラは「ティミショアラの状況 じょうきょう は悪化 あっか の一途 いっと を辿 たど っています。軍 ぐん による介入 かいにゅう 命令 めいれい をお願 ねが い致 いた します。軍 ぐん は戦闘 せんとう 状態 じょうたい に突入 とつにゅう します。ティミショアラ郡 ぐん にて非常 ひじょう 事態 じたい が進行 しんこう 中 ちゅう です」と報告 ほうこく した[ 20] 。軍隊 ぐんたい に対 たい して命令 めいれい を出 だ せるのは、法的 ほうてき にはニコラエ・チャウシェスクだけであった。チャウシェスクは、ユリアン・ヴラードに2回 かい 、ヴァスィーレ・ミーラに少 すく なくとも6回 かい 電話 でんわ し、ティミショアラでの暴動 ぼうどう を腕 うで ずくで迅速 じんそく に鎮圧 ちんあつ するよう指令 しれい を出 だ した[ 23] 。午後 ごご 1時 じ 45分 ふん 、ティミショアラの通 とお りに戦車 せんしゃ が現 あら われた。午後 ごご 4時 じ 頃 ごろ 、抗議 こうぎ 者 しゃ たちは郡 ぐん の党 とう 委員 いいん 会 かい の建物 たてもの に闖入 ちんにゅう し、党 とう の文書 ぶんしょ 、宣伝 せんでん 用 よう の小 しょう 冊子 さっし 、チャウシェスクの著書 ちょしょ 、共産党 きょうさんとう の権力 けんりょく の象徴 しょうちょう であるこれらを窓 まど から次々 つぎつぎ に投 な げ捨 す てた。彼 かれ らは建物 たてもの に火 ひ を付 つ けようとしたが、これは軍 ぐん の部隊 ぶたい に阻止 そし された。午後 ごご 4時 じ 30分 ふん 、チャウシェスクは、首都 しゅと ・ブクレシュティ (Bucureşti )にてルーマニア共産党 きょうさんとう 中央 ちゅうおう 委員 いいん 会 かい 政治 せいじ 執行 しっこう 委員 いいん 会 かい の臨時 りんじ 会議 かいぎ を招集 しょうしゅう し、ティミショアラでの出来事 できごと について、国防 こくぼう 大臣 だいじん たちと議論 ぎろん し始 はじ めた。チャウシェスクは、反乱 はんらん の鎮圧 ちんあつ を躊躇 ちゅうちょ したトゥドール・ポステルニク (ロシア語 ご 版 ばん ) 、ヴァスィーレ・ミーラ、ユリアン・ヴラードを非難 ひなん した[ 24] 。チャウシェスクはヴァスィーレ・ミーラに対 たい し、「ミーラよ、あなたの部下 ぶか は何 なに をしていたのか。なぜすぐに介入 かいにゅう しなかった? なぜ撃 う たなかった? 部下 ぶか に足元 あしもと を撃 う たれてもおかしくないはずだ」と質問 しつもん した。ミーラが「私 わたし はいかなる種類 しゅるい の弾薬 だんやく も与 あた えませんでした」と答 こた えると、チャウシェスクは「なぜ与 あた えなかったのか? そんなことなら、部下 ぶか を家 いえ に帰 かえ したほうがましだ」と非難 ひなん した[ 22] 。チャウシェスクは、治安 ちあん 部隊 ぶたい に対 たい して発砲 はっぽう 命令 めいれい を出 だ さなかったユリアン・ヴラードに対 たい し、怒 いか りを込 こ めて応酬 おうしゅう した。「あなたのやったことは、国家 こっか の利益 りえき 、人民 じんみん の利益 りえき 、社会 しゃかい 主義 しゅぎ の利益 りえき に対 たい する裏切 うらぎ りだ。責任 せきにん ある行動 こうどう を取 と らなかったのだ」「あなたにいかなる処罰 しょばつ を与 あた えるべきか、分 わ かるか? 銃殺 じゅうさつ 刑 けい だ。それこそがあなたにふさわしいのだ。あなたのやったことは、敵 てき と手 て を結 むす んだも同然 どうぜん の行為 こうい だからだ!」[ 23]
ヴァスィーレ・ミーラは、チャウシェスクから抗議 こうぎ 者 しゃ を撃 う てとの指令 しれい を受 う けたが、ミーラはこれを陸軍 りくぐん 部隊 ぶたい に伝令 でんれい するのを拒否 きょひ した。ミーラは「軍規 ぐんき を確認 かくにん しましたが、人民 じんみん 軍 ぐん は人民 じんみん を撃 う ち殺 ころ せ、との記述 きじゅつ がある項目 こうもく はどこにも見当 みあ たりませんでした」と発言 はつげん した[ 23] [ 25] 。
チャウシェスクは、反逆 はんぎゃく 者 しゃ を撃 う つよう命 めい じた。この命令 めいれい を出 だ したチャウシェスクに対 たい し、国防 こくぼう 大臣 だいじん 、内務 ないむ 大臣 だいじん 、セクリターテの長官 ちょうかん は初 はじ めて反対 はんたい を表明 ひょうめい した。チャウシェスクは、自分 じぶん に対 たい する彼 かれ らの忠誠 ちゅうせい と服従 ふくじゅう を疑 うたが い、3人 にん に対 たい して「役職 やくしょく を解任 かいにん する」と発言 はつげん したが、閣僚 かくりょう 評議 ひょうぎ 会 かい 議長 ぎちょう のコンスタンティン・ダスカレスクはこれに反対 はんたい し、彼 かれ ら3人 にん への支持 しじ を表明 ひょうめい した。チャウシェスクは怒 いか りを露 あら わにし、「ならば私 わたし は書記 しょき 長 ちょう を辞任 じにん する。別 べつ の人物 じんぶつ を書記 しょき 長 ちょう に選出 せんしゅつ するが良 よ い!」と言 い い、会議 かいぎ 室 しつ から出 で て行 い った。エミール・ボブ (ロシア語 ご 版 ばん ) とコンスタンティン・ダスカレスクがチャウシェスクのあとを追 お いかけ、部屋 へや に戻 もど るよう懇願 こんがん した[ 24] 。数 すう 分 ふん 後 ご 、チャウシェスクは会議 かいぎ 室 しつ に戻 もど り、会議 かいぎ を続 つづ けた。チャウシェスクは、ティミショアラの党 とう 代表 だいひょう と緊急 きんきゅう の電話 でんわ 会議 かいぎ を実施 じっし し、民間 みんかん 人 じん に対 たい する発砲 はっぽう 命令 めいれい を出 だ した[ 26] 。チャウシェスクは将軍 しょうぐん のイオン・コーマン (Ion Coman )を司令 しれい 官 かん に任命 にんめい し[ 24] 、12月17日 にち 午後 ごご 3時 じ 30分 ふん 、国防省 こくぼうしょう と内務省 ないむしょう の将官 しょうかん の代表 だいひょう 団 だん がティミショアラに派遣 はけん された。午後 ごご 6時 じ 、ジロクルイ (Girocului )にて、参謀 さんぼう 総長 そうちょう のシュテファン・グーシャ (Ştefan Guşă )の命令 めいれい により、道 みち を塞 ふさ がれた戦車 せんしゃ を回収 かいしゅう する名目 めいもく で、抗議 こうぎ 者 しゃ に対 たい して発砲 はっぽう が始 はじ まった。午後 ごご 6時 じ 45分 ふん ごろ、ティミショアラの部隊 ぶたい は、信号 しんごう 「Radu cel Frumos 」を受 う けた。これは「軍隊 ぐんたい に戦争 せんそう 弾薬 だんやく を装備 そうび させ、戦闘 せんとう 態勢 たいせい に切 き り替 か えよ」との指令 しれい であった[ 20] 。ティミショアラでは、国防省 こくぼうしょう の部隊 ぶたい による発砲 はっぽう がついに開始 かいし され、数時間 すうじかん で300人 にん を超 こ える人々 ひとびと が撃 う たれた。
12月18日 にち 午前 ごぜん 5時 じ 30分 ふん 、ティミショアラの部隊 ぶたい の司令 しれい 官 かん 、イオン・コーマンは、現地 げんち の状況 じょうきょう について「取 と り締 し まりの最中 さいちゅう にあります」とブクレシュティに報告 ほうこく した[ 20] 。この24時 じ 間 あいだ で、ティミショアラでは66人 にん が死亡 しぼう し、300人 にん 近 ちか くが負傷 ふしょう した。この日 ひ 、チャウシェスクはイラン を訪問 ほうもん する予定 よてい があった。午前 ごぜん 8時 じ 、チャウシェスクは「イランへの訪問 ほうもん を取 と り消 け す必要 ひつよう は無 な い」と判断 はんだん し、テヘラン に出発 しゅっぱつ した。午後 ごご 3時 じ から午後 ごご 4時 じ にかけて、抗議 こうぎ 者 しゃ が殺 ころ されたことに激怒 げきど した労働 ろうどう 者 しゃ の大 だい 規模 きぼ な集団 しゅうだん が、市内 しない の中心 ちゅうしん 部 ぶ に移動 いどう していた。午後 ごご 5時 じ から午後 ごご 7時 じ にかけて、蝋燭 ろうそく を手 て にした者 もの たちが大 だい 聖堂 せいどう の階段 かいだん に集結 しゅうけつ した。将軍 しょうぐん のミハイ・チツァック (ルーマニア語 ご 版 ばん ) は兵士 へいし たちに発砲 はっぽう を命 めい じ、自 みずか らも民間 みんかん 人 じん に向 む けて発砲 はっぽう した。7人 にん が死亡 しぼう し、98人 にん が負傷 ふしょう した。
12月17日 にち から18日 にち の夜 よる にかけて、ティミショアラの郡 ぐん 病院 びょういん にて、撃 う たれて死亡 しぼう した者 もの たちの遺体 いたい が安置 あんち された。12月19日 にち 、エレナ・チャウシェスク [ 21] とイオン・コーマンの命令 めいれい に基 もと づき、遺体 いたい 安置 あんち 所 しょ に安置 あんち されていた58体 たい の遺体 いたい のうち、43体 たい が冷凍 れいとう トラックに積 つ まれ、ブクレシュティに移送 いそう された。彼 かれ らの遺体 いたい は火葬 かそう され、その遺 のこ 灰 はい は水路 すいろ に投 な げ捨 す てられた。弾圧 だんあつ された痕跡 こんせき を残 のこ さないようにするのが目的 もくてき であった。エレナ・チャウシェスクはこれを「Operaţiunea Trandafirul 」(「バラ作戦 さくせん 」)と名付 なづ けた[ 20] 。午前 ごぜん 7時 じ から午後 ごご 12時 じ 、数 すう 千 せん 人 にん の労働 ろうどう 者 しゃ が街頭 がいとう に繰 く り出 だ していた。ティミショアラでの抗議 こうぎ 運動 うんどう はもはや止 と めることが不可能 ふかのう になっていた。午後 ごご 1時 じ 50分 ふん 、シュテファン・グーシャは兵士 へいし たちに対 たい し、兵舎 へいしゃ への撤退 てったい を命 めい じた。
12月20日 にち 午前 ごぜん 9時 じ 、抗議 こうぎ 者 しゃ の集団 しゅうだん は数 すう 万 まん 人 にん 規模 きぼ にまで膨 ふく らんでいた。ティミショアラの中心 ちゅうしん 部 ぶ にある劇場 げきじょう 広場 ひろば に集結 しゅうけつ した群衆 ぐんしゅう は「独裁 どくさい 者 しゃ を倒 たお せ!」「自由 じゆう を!」「神 かみ が御座 ぎょざ します!」「軍隊 ぐんたい は我々 われわれ の味方 みかた だ!」と唱和 しょうわ した。午後 ごご 12時 じ 、ティミショアラの中心 ちゅうしん 部 ぶ には、およそ15万 まん 人 にん の抗議 こうぎ 者 しゃ がいた。彼 かれ らは兵士 へいし に差 さ し入 い れを送 おく った。午後 ごご 12時 じ 30分 ふん 、抗議 こうぎ 者 しゃ 数 すう 人 にん が劇場 げきじょう の桟敷 さじき を開放 かいほう し、その直後 ちょくご に「主 おも の祈 いの り 」の唱和 しょうわ が始 はじ まった。拡声 かくせい 器 き を通 つう じて「ティミショアラは共産 きょうさん 主義 しゅぎ から解放 かいほう されたルーマニアの最初 さいしょ の都市 とし である」と宣言 せんげん された。午後 ごご 2時 じ 30分 ふん 、閣僚 かくりょう 評議 ひょうぎ 会 かい 議長 ぎちょう のコンスタンティン・ダスカレスク (ロシア語 ご 版 ばん ) がティミショアラに到着 とうちゃく した。抗議 こうぎ 者 しゃ たちは、国 くに の指導 しどう 者 しゃ の立場 たちば にある者 もの たち全員 ぜんいん の辞任 じにん 、自由 じゆう 選挙 せんきょ 、ティミショアラでの殺害 さつがい の責任 せきにん 者 しゃ を裁判 さいばん にかけるよう要求 ようきゅう した。
ティミショアラで始 はじ まった抗議 こうぎ 運動 うんどう は、12月20日 にち の時点 じてん で、暴動 ぼうどう へと発展 はってん していった[ 21] 。
ティミショアラ市 し の公式 こうしき サイトには、ティミショアラで犠牲 ぎせい となった者 もの たちの名前 なまえ が記録 きろく されている[ 27] 。
1989年 ねん 12月21日 にち 、チャウシェスクは首都 しゅと ・ブクレシュティにて集会 しゅうかい を開 ひら き、集 あつ まった群衆 ぐんしゅう の前 まえ で演説 えんぜつ を行 おこな ったが、この最中 さいちゅう に突如 とつじょ 騒 さわ ぎが勃発 ぼっぱつ した。チャウシェスクは郡 ぐん 党 とう 委員 いいん 会 かい の第 だい 一 いち 書記 しょき と電話 でんわ 会議 かいぎ を行 おこな い、「ここ数日 すうじつ の一連 いちれん の出来事 できごと は、国 くに を不安定 ふあんてい にさせ、ルーマニアの独立 どくりつ と主権 しゅけん に対 たい する組織 そしき 的 てき な策動 さくどう の結果 けっか である」と宣言 せんげん し、党 とう と国家 こっか 権力 けんりょく 、民兵 みんぺい 、治安 ちあん 部隊 ぶたい 、軍隊 ぐんたい を総動員 そうどういん するよう求 もと めたうえで、「我々 われわれ は、この出来事 できごと の正体 しょうたい を暴 あば き、断固 だんこ として拒否 きょひ し、始末 しまつ を付 つ けねばならない」と述 の べた。革命 かくめい 広場 ひろば から出 で た者 もの たちは恐慌 きょうこう 状態 じょうたい に陥 おちい り、革命 かくめい 広場 ひろば 周辺 しゅうへん の通 とお りに集 あつ まると、「独裁 どくさい 者 しゃ を倒 たお せ!」「チャウシェスクよ、お前 まえ は誰 だれ だ? - スコルニチェシュティ出身 しゅっしん の極悪 ごくあく 人 じん だ!」との唱和 しょうわ を始 はじ めた。
12月22日 にち 午後 ごご 12時 じ 6分 ふん 、大 だい 群衆 ぐんしゅう が見守 みまも る中 なか 、チャウシェスク夫妻 ふさい と護衛 ごえい の乗 の ったヘリコプターが、建物 たてもの の屋上 おくじょう から離陸 りりく していった[ 28] 。チャウシェスク夫妻 ふさい はこの日 ひ のうちにトゥルゴヴィシュテ (Târgoviște )にて軍隊 ぐんたい に捕 と らえられ、12月25日 にち に裁判 さいばん にかけられたのち、銃殺 じゅうさつ 刑 けい に処 しょ せられるに至 いた った[ 29] 。
チャウシェスクは、以下 いか の罪状 ざいじょう で死刑 しけい を宣告 せんこく された。
6万 まん 人 にん を殺害 さつがい した
国家 こっか と国民 こくみん に対 たい して武装 ぶそう 行動 こうどう を組織 そしき し、国家 こっか 権力 けんりょく を転覆 てんぷく させようとした
建物 たてもの の破壊 はかい ・損壊 そんかい 、都市 とし における爆発 ばくはつ で公共 こうきょう 財産 ざいさん を破壊 はかい した
国民 こくみん 経済 けいざい を弱体 じゃくたい 化 か させた
外国 がいこく の銀行 ぎんこう に10億 おく ドルを不正 ふせい に蓄財 ちくざい し、それを利用 りよう して国外 こくがい 逃亡 とうぼう を図 はか ろうとした
しかしながら、これらの告訴 こくそ 内容 ないよう が立証 りっしょう されたことは無 な い。
裁判 さいばん はわずか1時 じ 間 あいだ 20分 ふん で終了 しゅうりょう し、これらの罪状 ざいじょう は立証 りっしょう されないままチャウシェスクは処刑 しょけい された[ 30] 。
トゥーケーシュ・ラースロー(1993年 ねん 9月 がつ )
講演 こうえん を行 おこな うトゥーケーシュ・ラースロー(1993年 ねん 10月 がつ 17日 にち )
トゥーケーシュは改革 かいかく 派 は 教会 きょうかい 地区 ちく であるキライハゴマリーク (Királyhágómellék )の司教 しきょう に選出 せんしゅつ された。2004年 ねん 、トゥーケーシュは再選 さいせん され、6年間 ねんかん の任期 にんき を務 つと めた。1992年 ねん から欧州 おうしゅう 名誉 めいよ 上院 じょういん 議員 ぎいん 、世界 せかい ハンガリー人 じん 協会 きょうかい 、世界 せかい ハンガリー改革 かいかく 派 は 協会 きょうかい の会長 かいちょう を務 つと める。
彼 かれ は共産 きょうさん 主義 しゅぎ 者 しゃ に取 と り壊 こわ された教会 きょうかい の建物 たてもの の再建 さいけん に力 ちから を注 そそ ぎ、ハンガリー語 ご による教育 きょういく 、社会 しゃかい 的 てき 責任 せきにん 、宣教 せんきょう 活動 かつどう の重要 じゅうよう 性 せい を強調 きょうちょう した。オラダ (Oradea )にある「キリスト教 きょう パルティウム大学 だいがく 」(A Partiumi Keresztény Egyetem )は1999年 ねん に創設 そうせつ され、これにはトゥーケーシュが関 かか わっていた。オラダでは託児 たくじ 所 しょ も創設 そうせつ し、アレシュト (Aleșd )では孤児 こじ 院 いん 、アルドゼル (Arduzel )ではベテスダ医療 いりょう 施設 しせつ 、サロンタ (Salonta )ではピーテル改革 かいかく 派 は 小学校 しょうがっこう 、ティンカ (Tinca )では介護 かいご 施設 しせつ の建設 けんせつ に携 たずさ わった。1996年 ねん 、博物館 はくぶつかん 、講堂 こうどう 、社会 しゃかい 福祉 ふくし 施設 しせつ を備 そな えたハンガリー改革 かいかく 派 は 教会 きょうかい の建物 たてもの 「Lórántffy Zsuzsanna 」(「ロランティフィ・ジョジャンナ」)が開館 かいかん した。
2007年 ねん 、ハンガリーの政党 せいとう 、フィデス=ハンガリー市民 しみん 同盟 どうめい (Fidesz-Magyar Polgári Szövetség )からの支援 しえん を受 う けて、トゥーケーシュは欧州 おうしゅう 議会 ぎかい 議員 ぎいん に無所属 むしょぞく で立候補 りっこうほ した[ 31] 。2007年 ねん 11月にルーマニアで実施 じっし された選挙 せんきょ で、トゥーケーシュは充分 じゅうぶん な得票 とくひょう 数 すう を得 え て、議席 ぎせき を獲得 かくとく した。トゥーケーシュの立候補 りっこうほ により、同 どう 党 とう の党首 とうしゅ であるフルンダ・ギョルジ (英語 えいご 版 ばん ) から、「得票 とくひょう 数 すう が割 わ れた」と非難 ひなん された。フルンダは、「トゥーケーシュにとっても、フィデスにとっても、全体 ぜんたい の利益 りえき よりも個人 こじん の利益 りえき の方 ほう が重要 じゅうよう らしい」と述 の べた[ 32] 。フルンダはまた、「トゥーケーシュはトライアン・バセスク (Traian Băsescu )に助 たす けられた」と主張 しゅちょう し、ハンガリー人 じん がほとんど住 す んでいないルーマニアのワラキア (Wallachia )とモルダヴィア (Moldavia )から1万 まん 8000票 ひょう を獲得 かくとく した趣旨 しゅし を述 の べた[ 33] 。開票 かいひょう 日 び の夜 よる 、トゥーケーシュは「私 わたし は大 だい ルーマニア党 とう を破 やぶ った」と発言 はつげん した[ 34] 。トゥーケーシュが議席 ぎせき を獲得 かくとく した一方 いっぽう で、大 だい ルーマニア党 とう (Partidul România Mare )は5議席 ぎせき を全 すべ て失 うしな った[ 35] 。ジャーナリストのアティラ・トート・セネシー (Attila Tóth-Szenesi )は、「この選挙 せんきょ は、ハンガリー国内 こくない における政治 せいじ 闘争 とうそう の一部 いちぶ でもあった」と書 か いた[ 34] 。
2009年 ねん に実施 じっし された欧州 おうしゅう 議会 ぎかい 議員 ぎいん 選挙 せんきょ では、ハンガリー人 じん 民主 みんしゅ 同盟 どうめい (Romániai Magyar Demokrata Szövetség, RMDSZ )から出馬 しゅつば し、再選 さいせん された。2010年 ねん 5月、トゥーケーシュは、パール・シュミット (英語 えいご 版 ばん ) の後任 こうにん として、欧州 おうしゅう 議会 ぎかい 副 ふく 議長 ぎちょう の一人 ひとり に選 えら ばれた。賛成 さんせい 334票 ひょう 、棄権 きけん 287票 ひょう であった[ 36] 。トゥーケーシュは、「ヨーロッパの良心 りょうしん と共産 きょうさん 主義 しゅぎ に関 かん するプラハ宣言 せんげん 」の共同 きょうどう 署名 しょめい 者 しゃ でもある[ 37] 。
2010年 ねん 6月 がつ 、トゥーケーシュは欧州 おうしゅう 議会 ぎかい 選挙 せんきょ にて副 ふく 議長 ぎちょう に選出 せんしゅつ された[ 38] 。
2014年 ねん にハンガリーで実施 じっし された欧州 おうしゅう 議会 ぎかい 選挙 せんきょ で、トゥーケーシュはフィデス=ハンガリー市民 しみん 同盟 どうめい の党名 とうめい 簿 ぼ で3番目 ばんめ の候補者 こうほしゃ に選 えら ばれた[ 39] 。2019年 ねん の任期 にんき 終了 しゅうりょう 前 まえ 、トゥーケーシュは再選 さいせん に向 む けての立候補 りっこうほ はしない趣旨 しゅし を発表 はっぴょう した。トゥーケーシュによれば、「欧州 おうしゅう 人民 じんみん 党 とう はキリスト教 きりすときょう への信仰 しんこう を放棄 ほうき した」のだという[ 40] 。
トゥーケーシュ・ラースロー(2010年 ねん )
トム・ラントス研究所 けんきゅうじょ の落成 らくせい 式 しき の様子 ようす 。写真 しゃしん 左下 ひだりした の席 せき に座 すわ っているのがトゥーケーシュ。写真 しゃしん 中央 ちゅうおう の席 せき に座 すわ っているのはヒラリー・クリントン (2011年 ねん 6月 がつ 30日 にち 、ブダペスト にて)
トゥーケーシュは、1990年 ねん に信教 しんきょう の自由 じゆう における「4つの自由 じゆう 賞 しょう 」(The Four Freedoms Award )を受賞 じゅしょう した[ 41] 。
2009年 ねん 、トゥーケーシュはワシントンD.C. にて、「The Truman-Reagan Medal of Freedom 」(「トルーマン=リーガン自由 じゆう 勲章 くんしょう 」)を授与 じゅよ された。ルーマニアの共産 きょうさん 主義 しゅぎ に対 たい する彼 かれ の役割 やくわり に敬意 けいい を表 あらわ して贈 おく られた[ 42] 。
2009年 ねん 、トゥーケーシュはルーマニア政府 せいふ から「ルーマニア星 ぼし 勲章 くんしょう 」を受勲 じゅくん した[ 43] 。
しかし、2016年 ねん 、クラウス・ヨハニス (Klaus Iohannis )は、トゥーケーシュに授与 じゅよ した栄誉 えいよ を撤回 てっかい する趣旨 しゅし を発表 はっぴょう した。2013年 ねん 11月20日 にち 、ルーマニア星 ぼし 勲章 くんしょう 評議 ひょうぎ 会 かい は、賛成 さんせい 5票 ひょう 、棄権 きけん 1票 ひょう で、トゥーケーシュに授与 じゅよ した勲章 くんしょう を撤回 てっかい することを決定 けってい した。トゥーケーシュは2013年 ねん にハンガリーの首相 しゅしょう 、オルバーン・ヴィクトル (Orbán Viktor )に対 たい して「2013年 ねん 7月 がつ 27日 にち 、トゥーケーシュ・ラースローはハンガリーのオルバーン・ヴィクトル首相 しゅしょう に対 たい し、「オーストリア が南 みなみ ティロル に対 たい して行 い ったように、トランスィルヴァニアに『保護 ほご 領 りょう 』の地位 ちい を与 あた える『国家 こっか 協力 きょうりょく 制度 せいど 』を確立 かくりつ するよう、政府 せいふ とともに要請 ようせい した」ことが、受勲 じゅくん の取 と り消 け しの最大 さいだい の理由 りゆう であった[ 44] 。トゥーケーシュは、「トランスィルヴァニアに『保護 ほご 領 りょう 』の地位 ちい を与 あた えてはどうか」と提案 ていあん した、とされる発言 はつげん は「誤訳 ごやく だ」と主張 しゅちょう した[ 45] 。2016年 ねん 2月 がつ 29日 にち 、オルバーンは「ルーマニア政府 せいふ は、ルーマニア在住 ざいじゅう のハンガリー人 じん の指導 しどう 的 てき 立場 たちば にある人物 じんぶつ に対 たい して、『憲法 けんぽう 、合法 ごうほう 性 せい 、汚職 おしょく との闘 たたか い』を口実 こうじつ に、『政治 せいじ 的 てき 闘争 とうそう 』を展開 てんかい しようとしている」と批判 ひはん した[ 46] 。
2016年 ねん 3月4日 にち 、クラウス・ヨハニスは、「トゥーケーシュ・ラースローに授与 じゅよ したルーマニア星 ぼし 勲章 くんしょう を撤回 てっかい する」法令 ほうれい に署名 しょめい し、首相 しゅしょう のダチアン・チョロシュ (Dacian Cioloș )もこれに副署 ふくしょ した[ 47] 。この決定 けってい に対 たい し、トゥーケーシュは、裁判所 さいばんしょ に異議 いぎ 申 もう し立 た てを行 おこな い、ヨハニスとチョロシュを訴 うった えた。2016年 ねん 11月、ブクレシュティ上訴 じょうそ 裁判所 さいばんしょ は「事実 じじつ に基 もと づかない」として、トゥーケーシュの訴 うった えを棄却 ききゃく した[ 45] 。
2021年 ねん 5月12日 にち 、ルーマニア最高裁判所 さいこうさいばんしょ は、トゥーケーシュ・ラースローが提出 ていしゅつ した上訴 じょうそ を承認 しょうにん し、裁判 さいばん のやり直 なお しを命 めい じた[ 47] 。
トゥーケーシュは、ルーマニア国内 こくない におけるハンガリー人 じん による自治 じち 権 けん を拡大 かくだい させようと考 かんが えている。ルーマニアの法 ほう 執行 しっこう 機関 きかん 『Direcția de Investigare a Infracțiunilor de Criminalitate Organizată și Terorism, DIICOT 』(『組織 そしき 犯罪 はんざい ・テロ捜査 そうさ 局 きょく 』)の検察 けんさつ から、「トゥーケーシュはルーマニア憲法 けんぽう に違反 いはん し、国家 こっか 権力 けんりょく を弱体 じゃくたい 化 か させようとしている」として告発 こくはつ されたことがある[ 38] 。2010年 ねん 6月 がつ 、トゥーケーシュは「ハンガリー人 じん が多 おお く住 す む地域 ちいき では、ルーマニア人 じん もハンガリー語 ご を学 まな ぶ価値 かち はある」と発言 はつげん した[ 38] 。オラダの通 とお りにあるルーマニア語 ご による銘板 めいばん が、トゥーケーシュによる主導 しゅどう でハンガリー語 ご に変更 へんこう された。市議会 しぎかい はこれを取 と り替 か えたが、トゥーケーシュは再 ふたた びこれをハンガリー語 ご のものに置 お き換 か え、「撤去 てっきょ した場合 ばあい は抗議 こうぎ する」と脅迫 きょうはく した[ 38] 。
トゥーケーシュは政治 せいじ 的 てき 意図 いと を隠 かく すことなく、ハンガリー人 じん による自治 じち 権 けん の要求 ようきゅう を続 つづ けており[ 48] 、2022年 ねん 7月 がつ には、ハンガリーの首相 しゅしょう 、オルバーン・ヴィクトルに対 たい しても「ルーマニア国内 こくない におけるハンガリー人 じん による自治 じち に対 たい する支持 しじ を表明 ひょうめい して欲 ほ しい」と働 はたら きかけている[ 49] 。
2019年 ねん 12月、トゥーケーシュは、自分 じぶん を「ハンガリーのスパイ」と呼 よ んだ人物 じんぶつ に対 たい して名誉 めいよ 毀損 きそん 訴訟 そしょう を起 お こし、勝訴 しょうそ した[ 50] 。
1989年 ねん の時点 じてん で、トゥーケーシュの行動 こうどう を監視 かんし していた政府 せいふ 当局 とうきょく は -セクリターテと党 とう の公文書 こうぶんしょ で示 しめ されているように- 、トゥーケーシュを「ハンガリーのスパイ」と見 み 做していた[ 4] 。
妻 つま ・エディートとの間 あいだ に息子 むすこ が2人 ふたり 、娘 むすめ が1人 にん いる。
2010年 ねん 3月23日 にち 、エディートが離婚 りこん を申請 しんせい した。トゥーケーシュの不倫 ふりん が理由 りゆう であるという[ 51] 。司祭 しさい のバローグ・バルナバス(Balogh Barnabas ) は、2010年 ねん 11月に声明 せいめい を発表 はっぴょう し、「原告 げんこく は被告 ひこく から屈辱 くつじょく を受 う け、愚弄 ぐろう されたと言 い えるでしょう。様々 さまざま な機会 きかい や、記念 きねん 日 び に、被告 ひこく は原告 げんこく の前 まえ で、被告 ひこく は別 べつ の女性 じょせい の胸 むね の谷間 たにま について発言 はつげん したり、原告 げんこく は、おそらくは被告 ひこく の人生 じんせい において二 に 番目 ばんめ か三 さん 番目 ばんめ の存在 そんざい であり、一 いち 番目 ばんめ に来 く る女性 じょせい ではないことを示唆 しさ する言動 げんどう が見 み られました」と述 の べた。バルナバス司祭 しさい によれば、「トゥーケーシュはエディートを『愚 おろ かで粗野 そや な女 おんな 』と表現 ひょうげん した」という[ 52] 。また、エディートは1990年 ねん 6月 がつ 20日 はつか にクルージュ=ナポカにある病院 びょういん で娘 むすめ のイローナを出産 しゅっさん したとき、夫 おっと はその前後 ぜんご に見舞 みま いにすら来 こ なかった点 てん を始 はじ め、夫 おっと から冷遇 れいぐう された話 はなし を本 ほん にして出版 しゅっぱん した[ 53] 。トゥーケーシュは多 おお くの女性 じょせい と不倫 ふりん しており、親愛 しんあい の情 じょう を示 しめ す手紙 てがみ を綴 つづ っていた一方 いっぽう で、家族 かぞく に対 たい してはほとんど口 くち を利 き かなかったという[ 54] 。
トゥーケーシュは2013年 ねん に別 べつ の女性 じょせい と再婚 さいこん し、その女性 じょせい は「妊娠 にんしん 中 ちゅう 」と報道 ほうどう された[ 54] 。
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