(Translated by https://www.hiragana.jp/)
トルダの勅令 - Wikipedia コンテンツにスキップ

トルダのみことのりれい

この記事は良質な記事に選ばれています
出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
A grey-haired man in black in the middle of a crowd listening to him
トルダのみことのりれい(Aladár Körösfői-Kriesch) ヤーノシュ2せいひだり)のまえでダーヴィド・フェレンツ(中央ちゅうおう)が演説えんぜつしている。

トルダのみことのりれいもしくはトゥルダのみことのりれい (ハンガリー: tordai ediktumルーマニア: Edictul de la Turda) は、ひがしハンガリー王国おうこくヤーノシュ2せいはっした、信教しんきょう自由じゆうみとめるみことのりれいさん国民同盟こくみんどうめいハンガリーじん貴族きぞくザクセンじんセーケイじん)が宮廷きゅうていはん三位一体さんみいったい英語えいごばんユニテリアン)の説教せっきょうダーヴィド・フェレンツ進言しんげんれるかたちで、1568ねん1がつ28にちにトルダ(げんルーマニアトゥルダ)で発布はっぷされた。個々人ここじん信教しんきょう自由じゆうまではみとめていないものの、宗教しゅうきょう改革かいかくはん宗教しゅうきょう改革かいかくれるヨーロッパにおいてカトリックプロテスタント、さらにはユニテリアンまでもその存在そんざいみとめる、当時とうじとしてはきわめて革新かくしんてき宗教しゅうきょう寛容かんよう政策せいさくだった。

概要がいよう

[編集へんしゅう]
宗教しゅうきょう改革かいかくかくプロテスタント宗派しゅうは伝播でんぱいきひがしハンガリー王国おうこく支配しはいしたトランシルヴァニアでは改革かいかく初期しょきにフス影響えいきょうけ、のちにルターあお)、カルヴァン水色みずいろ)、ユニテリアン(黄色おうしょく)が勢力せいりょくばした。旧来きゅうらいのカトリックや東方とうほう正教会せいきょうかい勢力せいりょく残存ざんそんしており、さらに王国おうこくはイスラーム王朝おうちょうであるオスマン帝国ていこく政治せいじてき影響えいきょうにあった。

中世ちゅうせいハンガリー南部なんぶ東部とうぶでは、かず世紀せいきにわたりカトリック教会きょうかい東方とうほう正教会せいきょうかい共存きょうぞんしていた。しかしカトリック教会きょうかいはカトリックないから発生はっせいした異端いたんには寛容かんようで、1523ねんにハンガリー議会ぎかいがルター迫害はくがいする法律ほうりつ制定せいていし、1430年代ねんだいには国内こくないフス追放ついほうした。しかし1526ねんモハーチのたたかラヨシュ2せいはいしハンガリーが内戦ないせん状態じょうたいおちいって以降いこう、プロテスタント迫害はくがいほう意味いみをなさなくなっていった。1541ねんにオスマン帝国ていこくきゅうハンガリー王国おうこく中部ちゅうぶ併合へいごうし、のこりのうちハプスブルク支配しはいいきのぞ東部とうぶはん属国ぞっこくひがしハンガリー王国おうこくまかせた。ひがしハンガリー王国おうこく新生児しんせいじヤーノシュ2せいを「ハンガリーおう」とし、そのははイザベラ・ヤギェロンカ摂政せっしょうとして政権せいけんにぎっていた。この1540年代ねんだい前半ぜんはんに、ひがしハンガリー議会ぎかいは、さん国民こくみん(マジャールじん、ザクセンじん、セーケイじん)の権利けんり次々つぎつぎ承認しょうにんしていった。ルターおおいザクセンじんは、宗教しゅうきょう問題もんだい国内こくない問題もんだいであると主張しゅちょうし、1544ねんから1545ねんにかけて入植にゅうしょくしてきた人々ひとびとなかでのルター導入どうにゅうみとめるよう要求ようきゅうした。1557ねん議会ぎかいはカトリックとルター信仰しんこう併存へいそんみとめた。

1559ねんにイザベラ・ヤギェロンカが死去しきょしたことで親政しんせい開始かいししたヤーノシュ2せいは、プロテスタントないしょ宗派しゅうはあいだひろげられていた神学しんがくてき論争ろんそう関心かんしんっていた。かれ自身じしん、1562ねんにカトリックからルターへ、さらに1564ねんにはカルヴァン改宗かいしゅうしている。それにとどまらず、1567ねんには医師いしとして宮廷きゅうていはいっていたジョルジオ・ブランドラタとダーヴィド・フェレンツに説得せっとくされて、ヨーロッパのほとんどのキリスト教きりすときょう根幹こんかん三位一体さんみいったい概念がいねん是非ぜひ議論ぎろんすることまでみとめている。

こうしたながれの集大成しゅうたいせいとしてはっされたトルダのみことのりれいは、「信仰しんこうかみおくものである」として、宗教しゅうきょう理由りゆう個人こじん攻撃こうげきすることをきんじるというものであった。実際じっさい存在そんざい公認こうにんされたのはカトリック、ルター、カルヴァンはん三位一体さんみいったいの4のみで、その改革かいかくはヤーノシュ2せい次代じだいバートリ・イシュトヴァーン時代じだい禁止きんしされた。とはいえ、トルダのみことのりれい規定きていされた宗教しゅうきょうてき寛容かんようは、近世きんせいヨーロッパにおいてひがしハンガリー王国おうこくとその後継こうけいこくトランシルヴァニア公国こうこく際立きわだたせる特徴とくちょうとなった。

背景はいけい

[編集へんしゅう]
A decorated page from a codex
フス聖書せいしょ・ミュンヘン写本しゃほんの1ページ

中世ちゅうせい末期まっきのハンガリー王国おうこくにおいて、カトリック教会きょうかい深刻しんこく危機きき直面ちょくめんしていた[1]。14世紀せいき後半こうはんには、各地かくちしょう都市としでカトリックこそ異端いたんであるという主張しゅちょう主流しゅりゅうとなっていった[2]。 また1430年代ねんだいには、プラハ・カレル大学だいがく留学りゅうがくしたわか市民しみんたちが帰国きこくフスおしえをひろめた[2]。1430年代ねんだい前半ぜんはんには2人ふたりのフス説教せっきょうがハンガリーでフス聖書せいしょ完成かんせいさせている[3]教皇きょうこうエウゲニウス4せいは1436ねんフランシスコかいジャコモ・デッラ・マルカ英語えいごばんをハンガリーのフス掃討そうとうにあたらせた[2]弾圧だんあつからのこったフスは、1439ねんモルダヴィア公国こうこくのがれた[2]

1520年代ねんだい前半ぜんはんうえハンガリー(ほぼ現在げんざいスロヴァキアにあたる)のドイツじん市民しみんたちがマルティン・ルター最初さいしょ信奉しんぽうしゃになった[4]。またハンガリーおうラヨシュ2せい神聖しんせいローマ皇帝こうていカール5せいいもうとであるマリア・フォン・エスターライヒのもとでは、すうじゅうにん廷臣ていしん宗教しゅうきょう改革かいかく賛同さんどうしていた[5]。しかし、オスマン帝国ていこくとのたたかいのために教皇きょうこう皇帝こうてい支援しえんもとめていたハンガリー貴族きぞくそうはカトリックにとどまり、ルター敵対てきたいつづけた[6]。1523ねん4がつ24にちハンガリー王国おうこく議会ぎかいは、王国おうこく全土ぜんどにルター迫害はくがい処刑しょけいめいじる法令ほうれい可決かけつした[6][7]

そして偉大いだいなる陛下へいかは、カトリックの王侯おうこうとして、すべてのルターとその徒党ととう、そしてこのセクトの信者しんじゃを、公然こうぜんたる異端いたんとして、もっと神聖しんせい処女しょじょマリアのてきとして、おそおおくも死刑しけいをもってばっし、すべての財産ざいさん没収ぼっしゅうなさるであろう。
Article 48 (54):1523[7]

1526ねん、オスマン帝国ていこくスレイマン1せいは、モハーチのたたかでハンガリーぐん壊滅かいめつさせた[8]。ラヨシュ2せい敗走はいそうちゅうかわ溺死できしした[9][10]だい多数たすうのハンガリー貴族きぞくあたらしいハンガリーおうサポヤイ・ヤーノシュ(ヤーノシュ1せい)を選出せんしゅつしたが、ラヨシュ2せい義兄弟ぎきょうだいだったハプスブルクオーストリア大公たいこうフェルディナント1せいもハンガリー王位おうい要求ようきゅう[11][12]、ハンガリーは20ねんちか内乱ないらんおちいった。[12]

1538ねん、フェルディナント1せいとヤーノシュ1せいナジヴァーラド条約じょうやくむす[13][14]たがいの勢力せいりょくけんにおける支配しはいけんみとめたうえで、一方いっぽう死去しきょしたさいにはもう一方いっぽうもとさい統一とういつされることで合意ごういした[15]。しかし1539ねんイザベラ・ヤギェロンカ結婚けっこんしたヤーノシュ1せいのもとに、1540ねんヤーノシュ・ジグモンド誕生たんじょうした[16][17]。2週間しゅうかんにヤーノシュ1せい死去しきょしたが、かれ支持しじしゃ新生児しんせいじのヤーノシュ・ジグモンドをヤーノシュ2せいとしてしたがうことをちかった[16][17]

こうしてハンガリーの内乱ないらん再発さいはつすると、オスマン帝国ていこくのスレイマン1せいは1541ねんにハンガリーへ侵攻しんこう[15]、ハンガリー中部ちゅうぶひろ領域りょういき併合へいごうするとともに、ティサがわ以東いとう領域りょういきをヤーノシュ2せいおさめるオスマン帝国ていこく属国ぞっこくとした[18][15]ひがしハンガリーの人々ひとびとはこのひがしハンガリー王国おうこくれ、ヤーノシュ2せい摂政せっしょうイザベラに忠誠ちゅうせいちかった[18][19]

宗教しゅうきょうてき寛容かんよう形成けいせい

[編集へんしゅう]

ハンガリー王国おうこくとくにその東部とうぶは、カトリック教会きょうかいけん東方とうほう正教会せいきょうかいけん境界きょうかい地帯ちたいであった[20]。14世紀せいきごろにカトリックの王家おうけせい教徒きょうと差別さべつすることはあったものの、りょう教会きょうかいおおきな衝突しょうとつなく共生きょうせいしていた[21]南部なんぶ北東ほくとう正教せいきょう領主りょうしゅおおくの正教せいきょう修道院しゅうどういんてた[22]。トランシルヴァニアでは、14世紀せいき後半こうはんから正教せいきょう聖職せいしょくしゃ居住きょじゅうする修道院しゅうどういん存在そんざいられている。 

The Carpathian Basin divided into three parts
ひがしハンガリー王国おうこく(1550ねんごろ、ちゃ

モハーチのたたか以来いらい混乱こんらんのために、ハンガリーではルターなどしん教徒きょうと弾圧だんあつ困難こんなんだった[23]。むしろモハーチのたたかいでのオスマン帝国ていこく勝利しょうりが「かみいかり」とられ、宗教しゅうきょう改革かいかく支持しじされ浸透しんとうする状況じょうきょうができていた[24][25]。ヤーノシュ1せいは1529ねんにオスマン帝国ていこく同盟どうめいしたことで教皇きょうこう破門はもんされ、以降いこうルター弾圧だんあつ消極しょうきょくてきになっていた[26]かれは1538ねんにシェースブルク(げんルーマニア・シギショアラ)でカトリック聖職せいしょくしゃとルター説教せっきょう公開こうかい討論とうろんかい開催かいさいしている[26]

1541ねんから1545ねんにかけてひがしハンガリー王国おうこく議会ぎかいは、1437ねんのナジ・アンタルのトランシルヴァニア農民のうみん反乱はんらん英語えいごばんさいさん国民こくみんハンガリーじん貴族きぞくトランシルヴァニア・ザクセンじんセーケイじん)が合意ごういしたさん国民同盟こくみんどうめい基本きほんほうさい確認かくにんした[19]。これは、かく国民こくみん」が内部ないぶ問題もんだい個々ここ議会ぎかい独自どくじ解決かいけつできるとするものだった[27]。ザクセンじん議会ぎかい宗教しゅうきょう問題もんだいそとからの干渉かんしょうけない内部ないぶ問題もんだいであるとかんがえ、1544ねんから1545ねんにかけて領域りょういきない都市としむら宗教しゅうきょう改革かいかく積極せっきょくてきひろはじめた[28][29]。1540年代ねんだいから、ルター貴族きぞくそうにも浸透しんとうはじめた[30]。1545ねん、ヴァーラド(げんルーマニア・オラデア)出身しゅっしんの29にんのハンガリーじん説教せっきょうが、エルデード(げんルーマニア・アルドゥド)でアウクスブルク信仰しんこう告白こくはく類似るいじした信条しんじょう宣言せんげんおこなった[31][32]

ひがしハンガリー王国おうこく保護ほごするオスマン帝国ていこくはイスラームきょうこくであるが、人頭じんとうぜいジズヤ)を支払しはらえばキリスト教徒きょうとでもユダヤ教徒きょうとでも生活せいかつすることをゆるされていた[33][34]。1548ねん、ブディン(ブダ)を統括とうかつするパシャが「すべての住民じゅうみん危険きけんにさらされることなくかみ言葉ことばけるべきである」として、トルナのカトリック教会きょうかいたいしルター迫害はくがいきんじた[35][36]歴史れきしのスーザン・J・リッチーは、この命令めいれいがトルダのみことのりれい影響えいきょうあたえた可能かのうせいがあるとしている。ただし、みことのりれい作成さくせいしゃたちがパシャの命令めいれいっていたという明確めいかく証拠しょうこつかっていない[36]。 オスマン帝国ていこく宗教しゅうきょうめんでの寛容かんよう政策せいさくにより、帝国ていこくないには多様たよう宗教しゅうきょう共同きょうどうたい併存へいそんし、これがまたオスマン帝国ていこくによる文化ぶんか統治とうちささえるおおきな要因よういんとなっていた[34]

1550ねんごろ、スイスからカルヴァン思想しそう流入りゅうにゅうしてきた[37]。ルターのハンガリーじんしょう貴族きぞくからはカルヴァンへの改宗かいしゅうしゃ続出ぞくしゅつし、1553ねんにはコロジュヴァール(げんクルジュ=ナポカ)がカルヴァン改宗かいしゅうした[37]

1551ねん、フェルディナント1せいひがしハンガリー王国おうこく一時いちじてき制圧せいあつし、イザベラとヤーノシュ2せい王国おうこくわれた[38]。このとし、デブレツェンのルター市議会しぎかい議員ぎいんたちが、聖餐せいさんにおけるキリストの出現しゅつげん否定ひていしたとして、牧師ぼくしマールトン・カールマーンチェヒ英語えいごばん糾弾きゅうだんした[39][40]。この牧師ぼくしからされたが、裕福ゆうふく貴族きぞくペトロヴィチ・ペーテルかくまわれた[41][42]

そのフェルディナント1せいひがしハンガリーを防衛ぼうえいするちからいことが判明はんめいしてきたため、ひがしハンガリー議会ぎかいは1556ねんにイザベラとヤーノシュ2せいもどした[38][43]。 このときフェルディナント1せいたたかうなどおおきなこうてたペトロヴィチ・ペーテルは、ルターとカルヴァン聖職せいしょくしゃあいだでの討論とうろんかい開催かいさいした[44]。1557ねん議会ぎかいひがしハンガリーにおける宗教しゅうきょう寛容かんよう成文法せいぶんほう端緒たんしょとなる布告ふこくした[45][46]。これは独立どくりつしたルター存在そんざい認知にんちし、カトリックとルター暴力ぼうりょくてき行動こうどうをとらないよううながすものだった[46][47]

われらとその高貴こうきなるらが、領土りょうどしょ身分みぶん熱心ねっしん請願せいがんへの返答へんとうとして、礼拝れいはい慣習かんしゅうにおいてあたらしきもふるきもふくんだおのれのぞむあらゆる信仰しんこうたもつことをゆるすとさだめたがゆえに、われらは信仰しんこう問題もんだいかれらの分別ふんべつゆだねたのである、それが(しょ身分みぶんを)満足まんぞくさせるであろうから。このてんにおいて、ただし、何人なんにんたいしても一切いっさい不正ふせいおこなわれることはいであろう。
Decree of the Diet of 1557[46]

同年どうねん、ヴァーラドのハンガリーじんカルヴァン聖職せいしょくしゃたちが、厳格げんかく聖餐せいさん方式ほうしき確認かくにんした。ルターかれらを「サクラメンタリアン」とんだ[48]。しかしこのサクラメンタリアンは、1558ねん議会ぎかい非合法ひごうほうされた[49]

ヤーノシュ2せいとダーヴィドとブランドラタ

[編集へんしゅう]
A young man with a mustache
ヤーノシュ2せい

1559ねん11月15にち摂政せっしょうイザベラ・ヤギェロンカが死去しきょし、ヤーノシュ2せい親政しんせい開始かいしした[50]かれはカトリック教徒きょうととしてそだてられたが、宗教しゅうきょう改革かいかく神学しんがくてき問題もんだい関心かんしんせていた[51]。1560ねん1がつと1661ねん2がつには、メディアシュでルターとカルヴァン代表だいひょうによる討論とうろんかいおこなわせている[52]。 ルター宰相さいしょうチャーキ・ミハーイ説得せっとくにより、ヤーノシュ2せいは2にそれぞれの主張しゅちょう要約ようやく文書ぶんしょ提出ていしゅつするようめいじた[52]。この文書ぶんしょかみきよしマ帝国まていこくのルター中心ちゅうしんだったヴィッテンベルクライプツィヒなど4つの都市としおくられた[52]。1562ねん前半ぜんはんにこのドイツのよん都市とし学会がっかいから返答へんとうおくられてくると、ひがしハンガリーのルター同年どうねんのうちに宗教しゅうきょう会議かいぎひらき、この返答へんとう内容ないようれた[53]あいだもなく、ヤーノシュ2せいはカトリックからルター改宗かいしゅうした[51]

ここでコロジュヴァール出身しゅっしん聖職せいしょくしゃダーヴィド・フェレンツ登場とうじょうし、ひがしハンガリーにおける新教しんきょう発展はってんおおきな影響えいきょうあたえることになる[54]かれ経歴けいれきから、その並外なみはずれた宗教しゅうきょうてき柔軟じゅうなんせいれる[55]。1510ねんにザクセンけいいえまれたダーヴィドは、ヴィッテンベルクマルティン・ルターフィリップ・メランヒトンから直接ちょくせつ宗教しゅうきょう改革かいかくおしえをけ、トランシルヴァニアにかえってからは熱心ねっしんにルター宗教しゅうきょう改革かいかくすすめた[56]。1557ねん、ダーヴィドはハンガリーのルター教会きょうかい責任せきにんしゃとなった[46]かれはルターとカルヴァン和解わかいこころみたが、聖餐せいさんかんする両者りょうしゃあいだみぞめがたかった[54]。ダーヴィドは、聖餐せいさんではパンにもワインにも奇跡きせききないとするカルヴァンかれていった[56]一方いっぽうかれデジデリウス・エラスムスミシェル・セルヴェらの業績ぎょうせき研究けんきゅうするなかで、教義きょうぎみずからの信念しんねん発展はってんさせる批判ひはんてき思考しこう宗教しゅうきょう選択せんたく自由じゆうという思想しそうけた[57]

エラスムスは16世紀せいき前半ぜんはんに、一般人いっぱんじんにも聖書せいしょむようにうながしている[58]。1516ねんかれがギリシア新約しんやく聖書せいしょ出版しゅっぱんしたさいかれヨハネの手紙てがみいちだいしょう無視むししている[59][60]。この文章ぶんしょう三位一体さんみいったい根拠こんきょであるとみなされつづけてきた[59][60]。セルヴェは ヨセフ・キムヒユダヤきょう神学しんがくしゃはん三位一体さんみいったいろん[61]三位一体さんみいったいろんがユダヤきょうイスラームきょうことなる(欧州おうしゅう)キリストきょう主要しゅよう部分ぶぶんであると結論けつろんけた[62]はん三位一体さんみいったいろん主張しゅちょうしたためセルヴェは故国ここくスペインわれ[61]、1553ねんにジュネーヴでカルヴァンにより火刑かけいしょされた[61][63]

イタリアじんのジョルジオ・ブランドラタがトランシルヴァニアの宗教しゅうきょう改革かいかく登場とうじょうするのは、1563ねんかれ宮廷きゅうてい医師いしにんじられてからである[64]。セルヴェの影響えいきょう[65]、ブランドラタは1550年代ねんだいからイエス・キリスト神性しんせい疑問ぎもんいだくようになり、ジャン・カルヴァンから「怪物かいぶつ」とひょうされた[66]。1556ねんおのれ思想しそうのためにイタリアをわれ、うつんだジュネーヴでも居心地いごこちわるくなったブランドラタは、1558ねんポーランド活動かつどううつしてはん三位一体さんみいったいをカルヴァンから独立どくりつさせることに成功せいこうした[67]おりしもひがしハンガリーおうヤーノシュ2せいがポーランドで亡命ぼうめい生活せいかつおくっていたころであり、ここではん三位一体さんみいったい思想しそうれたヤーノシュ2せいは、帰国きこくの1563ねんにブランドラタを宮廷きゅうてい医師いしとしてまねいた[68]

1564ねん宗教しゅうきょう会議かいぎで、ダーヴィドは新設しんせつされたカルヴァントランシルヴァニア改革かいかく教会きょうかい責任せきにんしゃとなった[56][54][53]。このとき、ダーヴィドとすでにヤーノシュ2せいのおりになっていたブランドラタははじめて出会であった[56]同年どうねん、ヤーノシュ2せいはルターからカルヴァンさい改宗かいしゅうし、ダーヴィドを宮廷きゅうてい説教せっきょうにんじた[54][53]。。ダーヴィドの人事じんじには、ブランドラタが影響えいきょうりょく発揮はっきしていた[56]議会ぎかい独立どくりつしたカルヴァン教会きょうかい存在そんざい認可にんかした[53][69]。1566ねん議会ぎかいはカルヴァン牧師ぼくしスンジェオルジウのゲオルゲ英語えいごばんルーマニアじん教会きょうかいちょうとした[70]。またカルヴァン改宗かいしゅうしようとしない東方とうほう正教せいきょう聖職せいしょくしゃ追放ついほうめいじる布告ふこくしたが、これは実行じっこうされなかった[70]

1565ねん、ダーヴィドはブランドラタの影響えいきょうはん三位一体さんみいったい神学しんがく転向てんこうした[71][72]。デブレツェンのカルヴァン聖職せいしょくしゃペーテル・メリウス・ユハースはダーヴィドをきびしく非難ひなんした[72]が、コロジュヴァールの有力ゆうりょく市民しみんたちのほとんどはダーヴィドの支持しじしゃでありつづけた[73]。むしろかれらは、ダーヴィドのせつにそぐわない説教せっきょうきんずるようになった[73]。1566ねん、ヤーノシュ2せい宗教しゅうきょうてき争点そうてんあきらかにするべく、ジュラフェヘールヴァール(げんアルバ・ユリア)でぜん国民こくみん討論とうろんかい主催しゅさいした[74]。ダーヴィドも宮廷きゅうてい説教せっきょうとしてはん三位一体さんみいったいひきいて参加さんかしたが、このとき結論けつろんいたらなかった[74]

ヤーノシュ2せい当初とうしょはメリウス・ユハースを支持しじしていた[72]が、宮廷きゅうていないはん三位一体さんみいったいがヤーノシュ2せいつよはたらきかけをおこなった[75]。ヤーノシュ2せいは、1567ねん初頭しょとうにブランドラタとダーヴィドが宗教しゅうきょう会議かいぎひらくことを黙認もくにんした[76]。この宗教しゅうきょう会議かいぎちちなるかみ単一たんいつ存在そんざいとするはん三位一体さんみいったい信条しんじょう採択さいたくした[77]。 ダーヴィドの兄弟きょうだいしゅうとにあたるヘルタイ・ガーシュパールやカーロイ・ペーテル、そのおおくのルター・カルヴァン聖職せいしょくしゃがコロジュヴァールをったが、それ以上いじょうかずのハンガリー貴族きぞくはダーヴィドの主張しゅちょう自発じはつてきれた[78]。メリウス・ユハースはみずからデブレツェンで宗教しゅうきょう会議かいぎひらき、三位一体さんみいったいろん採択さいたくした[77]かれ支持しじしゃたちは、ダーヴィドを異端いたんつみいしけいしょすべきだと主張しゅちょうした[77]

トルダのみことのりれい

[編集へんしゅう]

1567ねんと1568ねんに、ダーヴィドはみずからの主張しゅちょうをまとめたほんラテン語らてんごとハンガリー出版しゅっぱんした[77][79]。「アンチキリストしんかみ知恵ちえくもらせたことについてのみじか解説かいせつ」とだいしたかれのハンガリーでの最初さいしょ著作ちょさくは、かみ王国おうこく実現じつげんさせるために三位一体さんみいったいろん追放ついほうすることを主張しゅちょうしている[79]。またダーヴィドは、従来じゅうらいキリスト教きりすときょうが、救済きゅうさいけるにはかくなどの複雑ふくざつ教義きょうぎ理解りかいしなければならないといていることについて、それでは農民のうみんだれ一人ひとりとして救済きゅうさいされないと批判ひはんしている[80]宗教しゅうきょうてき自由じゆうまもるため、かれ使徒しと言行げんこうろくうちの、ガマリエルらえられた使徒しとあたえた助言じょげん引用いんようした。ガマリエルは、使徒しとたちのおこないが「人間にんげんした」ものであればばっするまでもなく失敗しっぱいするだろうし、「かみの」ものであればうまでもなく判事はんじなどにはくつがえぬものだから、どちらにせよ使徒しとけいさず釈放しゃくほうするべきだとべたとされる[80]。またダーヴィドは、イエスは麦畑むぎばたけなかどくむぎ収穫しゅうかくになってはじめてっててるという「どくむぎのたとえ」も利用りようした[80]

1567ねんまつまでに、ブランドラタとダーヴィドはヤーノシュ2せいはん三位一体さんみいったい神学しんがくみとめさせることに成功せいこうした[81]。1568ねん1がつ6にち、ヤーノシュ2せいはトルダ(げんルーマニア・トゥルダ)で議会ぎかい招集しょうしゅうした[82]。ここではっされたあらたな「トルダのみことのりれい」は、国内こくないはん三位一体さんみいったい三位一体さんみいったい自由じゆうおしひろめていというものだった[82]みことのりれい内容ないようには、エフェソの信徒しんとへの手紙てがみ2:8の「信仰しんこうは(中略ちゅうりゃくかみ賜物たまものである」[83]という一文いちぶん[82]や、ローマの信徒しんとへの手紙てがみ10:17の「したがって、信仰しんこうくことによるのであり、くことはキリストの言葉ことばからるのである」[84]という一文いちぶん引用いんようされている[82]。トルダのみことのりれいは、人々ひとびと宗教しゅうきょうじょう理由りゆう攻撃こうげきしあうことをきんじた[85]

われらのおも国王こくおう陛下へいか陛下へいかがその王国おうこく議会ぎかい)とともに、前回ぜんかい議会ぎかいで、宗教しゅうきょうかんする事項じこう法律ほうりつ制定せいていしたように、この議会ぎかいにおいても、おなじようにつぎのことをふたた確認かくにんする。説教せっきょうしゃはあらゆる場所ばしょで、福音ふくいんしょをその理解りかいするところにしたがって説教せっきょう説明せつめいすることがゆるされる。ひじりかいがそれをこのましいとおもうなら、問題もんだいはないであろう。もしそれがこのましくないなら、人々ひとびと霊魂れいこん満足まんぞくしていないのだろうから、その人々ひとびと強制きょうせいしてはならない。しかしその人々ひとびとただしいとみとめる説教せっきょうつことはみとめらるべきである。それゆえに、監督かんとくかん人々ひとびとも、説教せっきょう虐待ぎゃくたいしてはならないし、そのひと宗教しゅうきょうのゆえに、以前いぜん法律ほうりつのままにののしることもゆるされない。いかなるひともそのきょうせつのゆえに投獄とうごくされたり、その地位ちいからわれたりしてはならない。なぜなら信仰しんこうかみ賜物たまものであり、それはくことからはじまり、くこともかみ言葉ことばによるのである。
トルダのみことのりれい[86][87]

トルダのみことのりれい個人こじん信教しんきょう自由じゆうみとめていなかった[88]。そのわりに、かく地域ちいき社会しゃかいはどの宗派しゅうは牧師ぼくし自分じぶんたちがようするか自由じゆうめていという内容ないよう強調きょうちょうされ[88]みずからの信仰しんこう宗派しゅうはから否定ひていされずにまもることをゆるされた。みことのりれいによる解放かいほうおよ範囲はんいはカトリック、プロテスタント、はん三位一体さんみいったいかぎられ、ルーマニア正教せいきょうやユダヤきょう、イスラームきょう対象たいしょうがいだった[88]。とはいえ、トルダのみことのりれいしめした宗教しゅうきょうてき寛容かんようは、16世紀せいきのヨーロッパにおいては傑出けっしゅつした業績ぎょうせきである[82]。キリストきょう諸派しょは併存へいそん公式こうしき明文化めいぶんかしたのはヨーロッパの国家こっかはじめてである[89]。これまでにダーヴィドとメリウス・ユハースのあいだひろげられてきたはん三位一体さんみいったい三位一体さんみいったい一連いちれん討論とうろん結果けっかが、このみことのりれい凝縮ぎょうしゅくされている[90]。ヤーノシュ2せい自身じしんはん三位一体さんみいったい傾倒けいとうしていたが、これを国教こっきょうとしたり宗派しゅうは排撃はいげきてんじたりすることはなかった。

その

[編集へんしゅう]
バートリ・イシュトヴァーン

1568ねんみことのりれい布告ふこく、ジュラフェヘールヴァールで2かいだい討論とうろんかい召集しょうしゅうされた[74]今回こんかいはダーヴィドが勝利しょうりをおさめ、ユニテリアニズムを一般いっぱんてき信仰しんこうとして確立かくりつした[74]。1569ねんナジヴァーラドおこなわれた3かい宗教しゅうきょう討論とうろんかいは、ダーヴィドひきいるはん三位一体さんみいったい最終さいしゅう勝利しょうりをもたらした決定的けっていてき討論とうろんとなったと評価ひょうかされている[74]。10月25にち、ヤーノシュ2せいかれ王国おうこくにおいてかく宗教しゅうきょう自由じゆう議論ぎろんされることをみとめるみことのりれいした[91]。ヤーノシュ2せいは1571ねん3がつ14にち死去しきょした[92]。なお前年ぜんねんかれシュパイアー条約じょうやくでハンガリー王位おうい放棄ほうきし、わりにトランシルヴァニアこう名乗なのるようになった[93]。このとしはん三位一体さんみいったいやく500の集会しゅうかいち、その普及ふきゅう頂点ちょうてんたっした[74]議会ぎかいしんトランシルヴァニアこうにカトリック教徒きょうとだい貴族きぞくバートリ・イシュトヴァーン(ステファン・バートリ)を選出せんしゅつした[92]。バートリ・イシュトヴァーンはユニテリアンの活動かつどう自体じたいみとめたものの、かれらの宣教せんきょう運動うんどう禁止きんしした[94]。さらにバートリ・イシュトヴァーンは宗教しゅうきょうへの攻撃こうげき禁止きんしするトルダのみことのりれい無視むしして、ザクセンじんにカルヴァンやユニテリアンを迫害はくがいするよううながした[95]が、ザクセンじんしたがわなかった[96]

またバートリ・イシュトヴァーンは、トランシルヴァニア領内りょうないのルーマニアじん宗教しゅうきょう改革かいかく伝搬でんぱんするのを阻止そししようとした[97]かれはモルダヴィアの正教せいきょうそうエフティミエ英語えいごばんなる人物じんぶつをルーマニアじん主教しゅきょうとしたが、カルヴァン浸透しんとう阻止そし効果こうかはなかった[97][98]。トランシルヴァニア議会ぎかいはバートリ・イシュトヴァーンにトルダのみことのりれい尊重そんちょうするようもとめたが、バートリ・イシュトヴァーンはセルビアそう主教しゅきょうがエフティミエを主教しゅきょう任命にんめいするのに同意どういあたえてしまった[97][98]。1572ねん5がつ宗教しゅうきょう革新かくしんきんずるあらたな法令ほうれい議会ぎかい通過つうかした[99][100]。この法令ほうれいおおやけ教会きょうかいあいだあらそいにおける違法いほう行為こうい調査ちょうさ開始かいしけんあたえ、介入かいにゅうゆるすものだった[101]

ダーヴィドはさらに自身じしん信条しんじょう改革かいかくすすめていったが、これがブランドラタとの対立たいりつこした[99]。1579ねん、ダーヴィドは幼児ようじ洗礼せんれいやキリスト崇拝すうはい拒否きょひしたことでトランシルヴァニアこうバートリ・クリシュトーフ告訴こくそされて投獄とうごくされ[100]同年どうねん11がつ15にち獄死ごくしした。こうした逆行ぎゃっこうてき事件じけんにもかかわらず、トランシルヴァニア公国こうこくには宗教しゅうきょうてき寛容かんよう風土ふうどのこった[101][102]。1588ねん議会ぎかいは、領主りょうしゅ自身じしん信仰しんこう農奴のうど強制きょうせいすることはできないとするほう制定せいていしている[103]。ローマ・カトリック、ルーテル教会きょうかい、カルヴァン改革かいかく、ユニテリアンのよっつを国家こっか保護ほごする状態じょうたいるがなかった[104]

正教会せいきょうかい保護ほごこそけなかったものの、その存在そんざい公認こうにんされていた[102]。トランシルヴァニアこうバートリ・ガーボル在位ざいい: 1608ねん - 1613ねん)は、正教せいきょう聖職せいしょくしゃたいするあらゆる封建ほうけんてき義務ぎむ免除めんじょし、かれらの移動いどう自由じゆうまもった[105]。バートリ・ガーボルをいだベトレン・ガーボルは1614ねんにバートリのほうさい確認かくにんするとともに[106]みずからは熱心ねっしんなカルヴァンでありながらイエズスかいがトランシルヴァニアに復帰ふっきするのをみとめ、またヨーロッパ各地かくち迫害はくがいされていたやく200にんアナバプテストフッター公国こうこくないむことをゆるした[107][101]。またベトレン・ガーボルはユダヤじんたいしても、かれらにたいするダビデのほし着用ちゃくよう強制きょうせいなどの規制きせい緩和かんわした[101][107]

トルダのみことのりれいは、宗教しゅうきょう国家こっかである隣国りんごくポーランド・リトアニア共和きょうわこくおおきな影響えいきょうあたえた[108]。 1573ねん1がつ28にちセイム信教しんきょう自由じゆうかかげたワルシャワ連盟れんめい協約きょうやく成立せいりつさせた。 

関連かんれん項目こうもく

[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ Engel 2001, p. 334.
  2. ^ a b c d Engel 2001, p. 264.
  3. ^ Kontler 1999, p. 109.
  4. ^ Daniel 1992, pp. 56–57.
  5. ^ Engel 2001, p. 369.
  6. ^ a b Kontler 1999, p. 150.
  7. ^ a b Daniel 1992, p. 58.
  8. ^ Daniel 1992, p. 49.
  9. ^ Molnár 2001, p. 85.
  10. ^ Kontler 1999, p. 136.
  11. ^ Daniel 1992, pp. 49, 51.
  12. ^ a b Molnár 2001, pp. 87–88.
  13. ^ Daniel 1992, p. 51.
  14. ^ Molnár 2001, p. 89.
  15. ^ a b c Cartledge 2011, p. 83.
  16. ^ a b Kontler 1999, p. 140.
  17. ^ a b Barta 1994, p. 252.
  18. ^ a b Barta 1994, p. 254.
  19. ^ a b Szegedi 2009, p. 101.
  20. ^ Keul 2009, p. 22.
  21. ^ Keul 2009, p. 28.
  22. ^ Engel 2001, pp. 337–338.
  23. ^ Daniel 1992, p. 59.
  24. ^ Tihany 1975, p. 57.
  25. ^ MacCulloch 2003, p. 251.
  26. ^ a b Keul 2009, p. 54.
  27. ^ Keul 2009, p. 62.
  28. ^ Keul 2009, p. 69.
  29. ^ Szegedi 2009, p. 231.
  30. ^ Keul 2009, p. 74.
  31. ^ Szegedi 2009, pp. 229–230.
  32. ^ Keul 2009, p. 77.
  33. ^ Sugar 1996, p. 5.
  34. ^ a b Ritchie 2014, p. 25.
  35. ^ Tihany 1975, p. 55.
  36. ^ a b Ritchie 2014, p. 32.
  37. ^ a b コーシュ 1991, p. 102.
  38. ^ a b Cartledge 2011, p. 84.
  39. ^ Keul 2009, p. 94.
  40. ^ Barta 1994, p. 288.
  41. ^ Barta 1994, pp. 288–289.
  42. ^ Keul 2009, p. 95.
  43. ^ Molnár 2001, pp. 92–93.
  44. ^ Keul 2009, pp. 95–96.
  45. ^ MacCulloch 2003, p. 252.
  46. ^ a b c d Keul 2009, p. 90.
  47. ^ Ritchie 2014, p. 24.
  48. ^ Keul 2009, p. 96.
  49. ^ Keul 2009, pp. 92, 96.
  50. ^ Barta 1994, p. 259.
  51. ^ a b Keul 2009, p. 100.
  52. ^ a b c Keul 2009, p. 103.
  53. ^ a b c d Keul 2009, p. 104.
  54. ^ a b c d Harris 2009, p. 139.
  55. ^ Keul 2009, p. 5.
  56. ^ a b c d e American Unitarianism Association 1890, p. 74.
  57. ^ Keul 2009, p. 107.
  58. ^ MacCulloch 2003, p. 88.
  59. ^ a b Ritchie 2014, p. 40.
  60. ^ a b Williams 1992, p. 43.
  61. ^ a b c Ritchie 2014, p. 16.
  62. ^ MacCulloch 2003, p. 183.
  63. ^ MacCulloch 2003, p. 238.
  64. ^ Harris 2009, p. 57.
  65. ^ Ritchie 2014, p. 23.
  66. ^ Harris 2009, pp. 56–57.
  67. ^ American Unitarianism Association 1890, p. 68.
  68. ^ American Unitarianism Association 1890, p. 73-74.
  69. ^ Sugar 1996, p. 153.
  70. ^ a b Keul 2009, p. 105.
  71. ^ Williams 1992, p. 1110.
  72. ^ a b c Keul 2009, p. 108.
  73. ^ a b Szegedi 2009, p. 235.
  74. ^ a b c d e f パーク 1978, p. 44.
  75. ^ MacCulloch 2003, p. 254.
  76. ^ Keul 2009, pp. 108–109.
  77. ^ a b c d Williams 1992, p. 1112.
  78. ^ Keul 2009, pp. 109–110.
  79. ^ a b Keul 2009, p. 110.
  80. ^ a b c Erdő 1993, p. 25.
  81. ^ Keul 2009, p. 111.
  82. ^ a b c d e Williams 1992, p. 1113.
  83. ^ ウィキソース出典 日本にっぽん聖書せいしょ協会きょうかいエペソじんへの手紙てがみ(口語こうごやく)#2:8』。ウィキソースより閲覧えつらん 
  84. ^ ウィキソース出典 日本にっぽん聖書せいしょ協会きょうかいローマじんへの手紙てがみ(口語こうごやく)#10:17』。ウィキソースより閲覧えつらん 
  85. ^ Harris 2009, p. 280.
  86. ^ Ritchie 2014, p. 22.
  87. ^ パーク 1978, p. 43.
  88. ^ a b c Molnár 2001, p. 110.
  89. ^ MacCulloch 2003, pp. 255–256.
  90. ^ Keul 2009, pp. 111–114.
  91. ^ Keul 2009, pp. 114–115.
  92. ^ a b Barta 1994, p. 260.
  93. ^ Barta 1994, p. 118.
  94. ^ American Unitarianism Association 1890, p. 75.
  95. ^ Keul.
  96. ^ Keul 2009, p. 118.
  97. ^ a b c Ghitta 2009, p. 261.
  98. ^ a b Keul 2009, p. 134.
  99. ^ a b Harris 2009, p. 469.
  100. ^ a b Keul 2009, pp. 121–122.
  101. ^ a b c d Lendvai 2003, p. 110.
  102. ^ a b Barta 1994, p. 290.
  103. ^ Cartledge 2011, p. 92.
  104. ^ Kontler 1999, p. 152.
  105. ^ Keul 2009, pp. 160–161.
  106. ^ Keul 2009, p. 168.
  107. ^ a b Keul 2009, pp. 176–177.
  108. ^ MacCulloch.

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]
  • American Unitarian Association (1890). Unitarianism: its origin and history : a course of sixteen lectures delivered in Channing Hall, Boston, 1888-89. Boston : American Unitarian Association 
  • Barta, Gábor (1994). “The Emergence of the Principality and its First Crises (1526–1606)”. In Köpeczi, Béla; Barta, Gábor; Bóna, István et al.. History of Transylvania. Akadémiai Kiadó. pp. 247–300. ISBN 963-05-6703-2 
  • Cartledge, Bryan (2011). The Will to Survive: A History of Hungary. C. Hurst & Co.. ISBN 978-1-84904-112-6 
  • Daniel, David P. (1992). “Hungary”. In Pettegree, Andrew. The early Reformation in Europe. Cambridge University Press. pp. 49–69. ISBN 0-521-39768-5 
  • Engel, Pál (2001). The Realm of St Stephen: A History of Medieval Hungary, 895–1526. I.B. Tauris Publishers. ISBN 1-86064-061-3 
  • Erdő, János (1993). “A tordai ediktum teológiai alapjai [The theological bases for the Edict of Torda ”] (ハンガリー). Keresztény Magvető 99 (1): 24–29. ISSN 1222-8370. http://eda.eme.ro/bitstream/handle/10598/18292/KM_1993_01_024.pdf?sequence=1. 
  • Ghitta, Ovidiu (2009). “The Orthodox Church of Transylvania (The 16th century–the second half of the 17th century)”. In Pop, Ioan-Aurel; Nägler, Thomas; Magyari, András. The History of Transylvania, Vol. II (From 1541 to 1711). Romanian Academy, Center for Transylvanian Studies. pp. 254–269. ISBN 973-7784-04-9 
  • Harris, Mark W. (2009). The A to Z of Unitarian Universalism. Scarecrow Press. ISBN 978-0-8108-6817-5 
  • Keul, István (2009). Early Modern Religious Communities in East-Central Europe: Ethnic Diversity, Denominational Plurality, and Corporative Politics in the Principality of Transylvania (1526–1691). Brill. ISBN 978-90-04-17652-2 
  • Kontler, László (1999). Millennium in Central Europe: A History of Hungary. Atlantisz Publishing House. ISBN 963-9165-37-9 
  • Lendvai, Paul (2003). The Hungarians: A Thousand Years of Victory in Defeat. Hurst & Company. ISBN 1-85065-682-7 
  • MacCulloch, Diarmaid (2003). The Reformation: A History. Viking. ISBN 0-670-03296-4 
  • Molnár, Miklós (2001). A Concise History of Hungary. Cambridge University Press. ISBN 978-0-521-66736-4. https://archive.org/details/concisehistoryof00moln 
  • Ritchie, Susan J. (2014). Children of the Same God: The Historical Relationship Between Unitarianism, Judaism, and Islam. Skinner House Books. ISBN 978-1-55896-725-0 
  • Sugar, Peter F. (1996). Southeastern Europe under Ottoman Rule, 1354-1804. A History of East Central Europe. 5. University of Washington Press. ISBN 0-295-96033-7. https://www.worldcat.org/title/south-eastern-europe-under-ottoman-rule-1354-1804/oclc/1120808279&referer=brief_results 
  • Szegedi, Edit (2009). “The Birth and Evolution of the Principality of Transylvania (1541–1690); The Reformation in Transylvania: New Denominational Identities; Confessionalization”. In Pop, Ioan-Aurel; Nägler, Thomas; Magyari, András. The History of Transylvania, Vol. II (From 1541 to 1711). Romanian Academy, Center for Transylvanian Studies. pp. 99–111, 229–254. ISBN 973-7784-04-9 
  • Tihany, Leslie C. (1975). “Islam and the Eastern Frontiers of Reformed Protestantism”. Reformed Review 29 (1): 52–71. ISSN 0034-3064. https://repository.westernsem.edu/pkp/index.php/rr/article/view/751/781. 
  • Williams, George Huntston (1992). The Radical Reformation. Truman State University Press. ISBN 978-0-94354-983-5 
  • コーシュ, カーロイ『トランシルヴァニア―その歴史れきし文化ぶんか恒文社こうぶんしゃ、1991ねんISBN 978-4770407436 
  • パーク, デーヴィド・B ちょ紺野こんの義継よしつぎ やく『ユニテリアン思想しそう歴史れきし』アポロンしゃ、1978ねん原著げんちょ1957ねん)。ISBN 978-4770407436