トルダの勅 みことのり 令 れい (Aladár Körösfői-Kriesch画 が ) ヤーノシュ2世 せい (左 ひだり )の前 まえ でダーヴィド・フェレンツ(中央 ちゅうおう )が演説 えんぜつ している。
トルダの勅 みことのり 令 れい もしくはトゥルダの勅 みことのり 令 れい (ハンガリー語 ご : tordai ediktum 、ルーマニア語 ご : Edictul de la Turda ) は、東 ひがし ハンガリー王国 おうこく のヤーノシュ2世 せい が発 はっ した、信教 しんきょう の自由 じゆう を認 みと める勅 みことのり 令 れい 。三 さん 国民同盟 こくみんどうめい (ハンガリー人 じん 貴族 きぞく 、ザクセン人 じん 、セーケイ人 じん )が宮廷 きゅうてい の反 はん 三位一体 さんみいったい 派 は (英語 えいご 版 ばん ) (ユニテリアン )の説教 せっきょう 師 し ダーヴィド・フェレンツ の進言 しんげん を容 い れる形 かたち で、1568年 ねん 1月 がつ 28日 にち にトルダ(現 げん ルーマニア ・トゥルダ )で発布 はっぷ された。個々人 ここじん の信教 しんきょう の自由 じゆう までは認 みと めていないものの、宗教 しゅうきょう 改革 かいかく と反 はん 宗教 しゅうきょう 改革 かいかく が吹 ふ き荒 あ れるヨーロッパにおいてカトリック 、プロテスタント 、さらにはユニテリアン までもその存在 そんざい を認 みと める、当時 とうじ としては極 きわ めて革新 かくしん 的 てき な宗教 しゅうきょう 寛容 かんよう 政策 せいさく だった。
宗教 しゅうきょう 改革 かいかく 期 き の各 かく プロテスタント宗派 しゅうは の伝播 でんぱ 域 いき 。東 ひがし ハンガリー王国 おうこく が支配 しはい したトランシルヴァニア では改革 かいかく 初期 しょき にフス派 は の影響 えいきょう を受 う け、後 のち にルター派 は (青 あお )、カルヴァン派 は (水色 みずいろ )、ユニテリアン(黄色 おうしょく )が勢力 せいりょく を伸 の ばした。旧来 きゅうらい のカトリックや東方 とうほう 正教会 せいきょうかい の勢力 せいりょく も残存 ざんそん しており、さらに王国 おうこく はイスラーム王朝 おうちょう であるオスマン帝国 ていこく の政治 せいじ 的 てき 影響 えいきょう 下 か にあった。
中世 ちゅうせい ハンガリー南部 なんぶ ・東部 とうぶ では、数 かず 世紀 せいき にわたりカトリック教会 きょうかい と東方 とうほう 正教会 せいきょうかい が共存 きょうぞん していた。しかしカトリック教会 きょうかい はカトリック内 ない から発生 はっせい した異端 いたん には不 ふ 寛容 かんよう で、1523年 ねん にハンガリー議会 ぎかい がルター派 は を迫害 はくがい する法律 ほうりつ を制定 せいてい し、1430年代 ねんだい には国内 こくない のフス派 は を追放 ついほう した。しかし1526年 ねん のモハーチの戦 たたか い でラヨシュ2世 せい が敗 はい 死 し しハンガリーが内戦 ないせん 状態 じょうたい に陥 おちい って以降 いこう 、プロテスタント迫害 はくがい の法 ほう は意味 いみ をなさなくなっていった。1541年 ねん にオスマン帝国 ていこく が旧 きゅう ハンガリー王国 おうこく の中部 ちゅうぶ を併合 へいごう し、残 のこ りのうちハプスブルク家 か の支配 しはい 域 いき を除 のぞ く東部 とうぶ を半 はん 属国 ぞっこく の東 ひがし ハンガリー王国 おうこく に任 まか せた。東 ひがし ハンガリー王国 おうこく は新生児 しんせいじ のヤーノシュ2世 せい を「ハンガリー王 おう 」とし、その母 はは イザベラ・ヤギェロンカ が摂政 せっしょう として政権 せいけん を握 にぎ っていた。この1540年代 ねんだい 前半 ぜんはん に、東 ひがし ハンガリー議会 ぎかい は、三 さん 国民 こくみん (マジャール人 じん 、ザクセン人 じん 、セーケイ人 じん )の権利 けんり を次々 つぎつぎ と承認 しょうにん していった。ルター派 は の多 おお いザクセン人 じん は、宗教 しゅうきょう 問題 もんだい は国内 こくない 問題 もんだい であると主張 しゅちょう し、1544年 ねん から1545年 ねん にかけて入植 にゅうしょく してきた人々 ひとびと の中 なか でのルター派 は 導入 どうにゅう を認 みと めるよう要求 ようきゅう した。1557年 ねん 、議会 ぎかい はカトリックとルター派 は の信仰 しんこう の併存 へいそん を認 みと めた。
1559年 ねん にイザベラ・ヤギェロンカが死去 しきょ したことで親政 しんせい を開始 かいし したヤーノシュ2世 せい は、プロテスタント内 ない の諸 しょ 宗派 しゅうは 間 あいだ で繰 く り広 ひろ げられていた神学 しんがく 的 てき な論争 ろんそう に関心 かんしん を持 も っていた。彼 かれ 自身 じしん 、1562年 ねん にカトリックからルター派 は へ、さらに1564年 ねん にはカルヴァン派 は へ改宗 かいしゅう している。それにとどまらず、1567年 ねん には医師 いし として宮廷 きゅうてい に入 はい っていたジョルジオ・ブランドラタ とダーヴィド・フェレンツに説得 せっとく されて、ヨーロッパのほとんどのキリスト教 きりすときょう の根幹 こんかん を成 な す三位一体 さんみいったい 概念 がいねん の是非 ぜひ を議論 ぎろん することまで認 みと めている。
こうした流 なが れの集大成 しゅうたいせい として発 はっ されたトルダの勅 みことのり 令 れい は、「信仰 しんこう は神 かみ の贈 おく り物 もの である」として、宗教 しゅうきょう を理由 りゆう に個人 こじん を攻撃 こうげき することを禁 きん じるというものであった。実際 じっさい に存在 そんざい を公認 こうにん されたのはカトリック、ルター派 は 、カルヴァン派 は 、反 はん 三位一体 さんみいったい 派 は の4派 は のみで、その他 た の改革 かいかく 派 は はヤーノシュ2世 せい の次代 じだい バートリ・イシュトヴァーン の時代 じだい に禁止 きんし された。とはいえ、トルダの勅 みことのり 令 れい で規定 きてい された宗教 しゅうきょう 的 てき 寛容 かんよう は、近世 きんせい ヨーロッパにおいて東 ひがし ハンガリー王国 おうこく とその後継 こうけい 国 こく トランシルヴァニア公国 こうこく を際立 きわだ たせる特徴 とくちょう となった。
フス派 は 聖書 せいしょ ・ミュンヘン写本 しゃほん の1ページ目 め
中世 ちゅうせい 末期 まっき のハンガリー王国 おうこく において、カトリック教会 きょうかい は深刻 しんこく な危機 きき に直面 ちょくめん していた。14世紀 せいき 後半 こうはん には、各地 かくち の小 しょう 都市 とし でカトリックこそ異端 いたん であるという主張 しゅちょう が主流 しゅりゅう となっていった。 また1430年代 ねんだい には、プラハ・カレル大学 だいがく に留学 りゅうがく した若 わか い市民 しみん たちが帰国 きこく 後 ご にフス派 は の教 おし えを広 ひろ めた。1430年代 ねんだい 前半 ぜんはん には2人 ふたり のフス派 は 説教 せっきょう 師 し がハンガリーでフス派 は 聖書 せいしょ を完成 かんせい させている。教皇 きょうこう エウゲニウス4世 せい は1436年 ねん にフランシスコ会 かい 士 し ジャコモ・デッラ・マルカ (英語 えいご 版 ばん ) をハンガリーのフス派 は 掃討 そうとう にあたらせた。弾圧 だんあつ から生 い き残 のこ ったフス派 は は、1439年 ねん にモルダヴィア公国 こうこく へ逃 のが れた。
1520年代 ねんだい 前半 ぜんはん 、上 うえ ハンガリー (ほぼ現在 げんざい のスロヴァキア にあたる)のドイツ人 じん 市民 しみん たちがマルティン・ルター の最初 さいしょ の信奉 しんぽう 者 しゃ になった。またハンガリー王 おう ラヨシュ2世 せい の妃 ひ で神聖 しんせい ローマ皇帝 こうてい カール5世 せい の妹 いもうと であるマリア・フォン・エスターライヒ のもとでは、数 すう 十 じゅう 人 にん の廷臣 ていしん が宗教 しゅうきょう 改革 かいかく に賛同 さんどう していた。しかし、オスマン帝国 ていこく との戦 たたか いのために教皇 きょうこう や皇帝 こうてい の支援 しえん を求 もと めていたハンガリー貴族 きぞく 層 そう はカトリックにとどまり、ルター派 は に敵対 てきたい し続 つづ けた。1523年 ねん 4月 がつ 24日 にち 、ハンガリー王国 おうこく 議会 ぎかい は、王国 おうこく 全土 ぜんど にルター派 は の迫害 はくがい と処刑 しょけい を命 めい じる法令 ほうれい を可決 かけつ した。
そして偉大 いだい なる陛下 へいか は、カトリックの王侯 おうこう として、すべてのルター派 は とその徒党 ととう 、そしてこのセクトの信者 しんじゃ を、公然 こうぜん たる異端 いたん として、最 もっと も神聖 しんせい な処女 しょじょ マリアの敵 てき として、恐 おそ れ多 おお くも死刑 しけい をもって罰 ばっ し、すべての財産 ざいさん を没収 ぼっしゅう なさるであろう。
—Article 48 (54):1523
1526年 ねん 、オスマン帝国 ていこく のスレイマン1世 せい は、モハーチの戦 たたか い でハンガリー軍 ぐん を壊滅 かいめつ させた。ラヨシュ2世 せい は敗走 はいそう 中 ちゅう に川 かわ で溺死 できし した。大 だい 多数 たすう のハンガリー貴族 きぞく は新 あたら しいハンガリー王 おう にサポヤイ・ヤーノシュ (ヤーノシュ1世 せい )を選出 せんしゅつ したが、ラヨシュ2世 せい の義兄弟 ぎきょうだい だったハプスブルク家 か のオーストリア大公 たいこう フェルディナント1世 せい もハンガリー王位 おうい を要求 ようきゅう し、ハンガリーは20年 ねん 近 ちか い内乱 ないらん に陥 おちい った。
1538年 ねん 、フェルディナント1世 せい とヤーノシュ1世 せい はナジヴァーラド条約 じょうやく を結 むす び、互 たが いの勢力 せいりょく 圏 けん における支配 しはい 権 けん を認 みと めたうえで、一方 いっぽう が死去 しきょ した際 さい にはもう一方 いっぽう の元 もと で再 さい 統一 とういつ されることで合意 ごうい した。しかし1539年 ねん にイザベラ・ヤギェロンカ と結婚 けっこん したヤーノシュ1世 せい のもとに、1540年 ねん にヤーノシュ・ジグモンド が誕生 たんじょう した。2週間 しゅうかん 後 ご にヤーノシュ1世 せい は死去 しきょ したが、彼 かれ の支持 しじ 者 しゃ は新生児 しんせいじ のヤーノシュ・ジグモンドをヤーノシュ2世 せい として従 したが うことを誓 ちか った。
こうしてハンガリーの内乱 ないらん が再発 さいはつ すると、オスマン帝国 ていこく のスレイマン1世 せい は1541年 ねん にハンガリーへ侵攻 しんこう し、ハンガリー中部 ちゅうぶ の広 ひろ い領域 りょういき を併合 へいごう するとともに、ティサ川 がわ 以東 いとう の領域 りょういき をヤーノシュ2世 せい の治 おさ めるオスマン帝国 ていこく の属国 ぞっこく とした。東 ひがし ハンガリーの人々 ひとびと はこの東 ひがし ハンガリー王国 おうこく を受 う け入 い れ、ヤーノシュ2世 せい と摂政 せっしょう イザベラに忠誠 ちゅうせい を誓 ちか った。
ハンガリー王国 おうこく 、特 とく にその東部 とうぶ は、カトリック教会 きょうかい 圏 けん と東方 とうほう 正教会 せいきょうかい 圏 けん の境界 きょうかい 地帯 ちたい であった。14世紀 せいき ごろにカトリックの王家 おうけ が正 せい 教徒 きょうと を差別 さべつ することはあったものの、両 りょう 教会 きょうかい は大 おお きな衝突 しょうとつ なく共生 きょうせい していた。南部 なんぶ や北東 ほくとう 部 ぶ の正教 せいきょう の領主 りょうしゅ は多 おお くの正教 せいきょう の修道院 しゅうどういん を建 た てた。トランシルヴァニアでは、14世紀 せいき 後半 こうはん から正教 せいきょう の聖職 せいしょく 者 しゃ が居住 きょじゅう する修道院 しゅうどういん の存在 そんざい が知 し られている。
東 ひがし ハンガリー王国 おうこく (1550年 ねん ごろ、茶 ちゃ )
モハーチの戦 たたか い以来 いらい の混乱 こんらん のために、ハンガリーではルター派 は など新 しん 教徒 きょうと の弾圧 だんあつ が困難 こんなん だった。むしろモハーチの戦 たたか いでのオスマン帝国 ていこく の勝利 しょうり が「神 かみ の怒 いか り」と受 う け取 と られ、宗教 しゅうきょう 改革 かいかく が支持 しじ され浸透 しんとう する状況 じょうきょう ができていた。ヤーノシュ1世 せい は1529年 ねん にオスマン帝国 ていこく と同盟 どうめい したことで教皇 きょうこう に破門 はもん され、以降 いこう ルター派 は の弾圧 だんあつ に消極 しょうきょく 的 てき になっていた。彼 かれ は1538年 ねん にシェースブルク(現 げん ルーマニア・シギショアラ )でカトリック聖職 せいしょく 者 しゃ とルター派 は 説教 せっきょう 師 し の公開 こうかい 討論 とうろん 会 かい を開催 かいさい している。
1541年 ねん から1545年 ねん にかけて東 ひがし ハンガリー王国 おうこく の議会 ぎかい は、1437年 ねん のナジ・アンタルのトランシルヴァニア農民 のうみん 反乱 はんらん (英語 えいご 版 ばん ) の際 さい に三 さん 国民 こくみん (ハンガリー人 じん 貴族 きぞく 、トランシルヴァニア・ザクセン人 じん 、セーケイ人 じん )が合意 ごうい した三 さん 国民同盟 こくみんどうめい の基本 きほん 法 ほう を再 さい 確認 かくにん した。これは、各 かく 「国民 こくみん 」が内部 ないぶ 問題 もんだい を個々 ここ の議会 ぎかい で独自 どくじ に解決 かいけつ できるとするものだった。ザクセン人 じん 議会 ぎかい は宗教 しゅうきょう 問題 もんだい を外 そと からの干渉 かんしょう を受 う けない内部 ないぶ 問題 もんだい であると考 かんが え、1544年 ねん から1545年 ねん にかけて領域 りょういき 内 ない の都市 とし や村 むら に宗教 しゅうきょう 改革 かいかく を積極 せっきょく 的 てき に広 ひろ め始 はじ めた。1540年代 ねんだい から、ルター派 は は貴族 きぞく 層 そう にも浸透 しんとう し始 はじ めた。1545年 ねん 、ヴァーラド(現 げん ルーマニア・オラデア)出身 しゅっしん の29人 にん のハンガリー人 じん 説教 せっきょう 師 し が、エルデード(現 げん ルーマニア・アルドゥド)でアウクスブルク信仰 しんこう 告白 こくはく に類似 るいじ した信条 しんじょう 宣言 せんげん を行 おこな った。
東 ひがし ハンガリー王国 おうこく を保護 ほご するオスマン帝国 ていこく はイスラーム教 きょう 国 こく であるが、人頭 じんとう 税 ぜい (ジズヤ )を支払 しはら えばキリスト教徒 きょうと でもユダヤ教徒 きょうと でも生活 せいかつ することを許 ゆる されていた。1548年 ねん 、ブディン(ブダ)を統括 とうかつ するパシャ が「すべての住民 じゅうみん が危険 きけん にさらされることなく神 かみ の言葉 ことば を聞 き けるべきである」として、トルナのカトリック教会 きょうかい に対 たい しルター派 は の迫害 はくがい を禁 きん じた。歴史 れきし 家 か のスーザン・J・リッチーは、この命令 めいれい がトルダの勅 みことのり 令 れい に影響 えいきょう を与 あた えた可能 かのう 性 せい があるとしている。ただし、勅 みことのり 令 れい の作成 さくせい 者 しゃ たちがパシャの命令 めいれい を知 し っていたという明確 めいかく な証拠 しょうこ は見 み つかっていない。 オスマン帝国 ていこく の宗教 しゅうきょう 面 めん での寛容 かんよう 政策 せいさく により、帝国 ていこく 内 ない には多様 たよう な宗教 しゅうきょう 共同 きょうどう 体 たい が併存 へいそん し、これがまたオスマン帝国 ていこく による多 た 文化 ぶんか 統治 とうち を支 ささ える大 おお きな要因 よういん となっていた。
1550年 ねん ごろ、スイスからカルヴァン派 は の思想 しそう が流入 りゅうにゅう してきた。ルター派 は のハンガリー人 じん 小 しょう 貴族 きぞく からはカルヴァン派 は への改宗 かいしゅう 者 しゃ が続出 ぞくしゅつ し、1553年 ねん にはコロジュヴァール(現 げん クルジュ=ナポカ )がカルヴァン派 は へ改宗 かいしゅう した。
1551年 ねん 、フェルディナント1世 せい が東 ひがし ハンガリー王国 おうこく を一時 いちじ 的 てき に制圧 せいあつ し、イザベラとヤーノシュ2世 せい は王国 おうこく を追 お われた。この年 とし 、デブレツェン市 し のルター派 は の市議会 しぎかい 議員 ぎいん たちが、聖餐 せいさん におけるキリストの出現 しゅつげん を否定 ひてい したとして、市 し の牧師 ぼくし マールトン・カールマーンチェヒ (英語 えいご 版 ばん ) を糾弾 きゅうだん した。この牧師 ぼくし は市 し から追 お い出 だ されたが、裕福 ゆうふく な貴族 きぞく ペトロヴィチ・ペーテル に匿 かくま われた。
その後 ご フェルディナント1世 せい に東 ひがし ハンガリーを防衛 ぼうえい する力 ちから が無 な いことが判明 はんめい してきたため、東 ひがし ハンガリー議会 ぎかい は1556年 ねん にイザベラとヤーノシュ2世 せい を呼 よ び戻 もど した。 この時 とき フェルディナント1世 せい と戦 たたか うなど大 おお きな功 こう を立 た てたペトロヴィチ・ペーテルは、ルター派 は とカルヴァン派 は の聖職 せいしょく 者 しゃ の間 あいだ での討論 とうろん 会 かい を開催 かいさい した。1557年 ねん 、議会 ぎかい は東 ひがし ハンガリーにおける宗教 しゅうきょう 寛容 かんよう 成文法 せいぶんほう の端緒 たんしょ となる布告 ふこく を出 だ した。これは独立 どくりつ したルター派 は の存在 そんざい を認知 にんち し、カトリックとルター派 は が暴力 ぼうりょく 的 てき な行動 こうどう をとらないよう促 うなが すものだった。
我 われ らとその高貴 こうき なる子 こ らが、領土 りょうど の諸 しょ 身分 みぶん の熱心 ねっしん な請願 せいがん への返答 へんとう として、礼拝 れいはい の慣習 かんしゅう において新 あたら しきも古 ふる きも含 ふく んだ己 おのれ の望 のぞ むあらゆる信仰 しんこう を保 たも つことを許 ゆる すと定 さだ めたがゆえに、我 われ らは信仰 しんこう の問題 もんだい を彼 かれ らの分別 ふんべつ に委 ゆだ ねたのである、それが(諸 しょ 身分 みぶん を)満足 まんぞく させるであろうから。この点 てん において、ただし、何人 なんにん に対 たい しても一切 いっさい の不正 ふせい が行 おこな われることは無 な いであろう。
—Decree of the Diet of 1557
同年 どうねん 、ヴァーラドのハンガリー人 じん カルヴァン派 は 聖職 せいしょく 者 しゃ たちが、厳格 げんかく な聖餐 せいさん 方式 ほうしき を確認 かくにん した。ルター派 は は彼 かれ らを「サクラメンタリアン 」と呼 よ んだ。しかしこのサクラメンタリアンは、1558年 ねん の議会 ぎかい で非合法 ひごうほう 化 か された。
ヤーノシュ2世 せい
1559年 ねん 11月15日 にち 、摂政 せっしょう イザベラ・ヤギェロンカが死去 しきょ し、ヤーノシュ2世 せい は親政 しんせい を開始 かいし した。彼 かれ はカトリック教徒 きょうと として育 そだ てられたが、宗教 しゅうきょう 改革 かいかく 期 き の神学 しんがく 的 てき 問題 もんだい に関心 かんしん を寄 よ せていた。1560年 ねん 1月 がつ と1661年 ねん 2月 がつ には、メディアシュでルター派 は とカルヴァン派 は の代表 だいひょう による討論 とうろん 会 かい を行 おこな わせている。 ルター派 は の宰相 さいしょう チャーキ・ミハーイ の説得 せっとく により、ヤーノシュ2世 せい は2派 は にそれぞれの主張 しゅちょう の要約 ようやく を文書 ぶんしょ で提出 ていしゅつ するよう命 めい じた。この文書 ぶんしょ は神 かみ 聖 きよし ロ ろ ーマ帝国 まていこく のルター派 は の中心 ちゅうしん 地 ち だったヴィッテンベルク やライプツィヒ など4つの都市 とし に送 おく られた。1562年 ねん 前半 ぜんはん にこのドイツの四 よん 都市 とし の学会 がっかい から返答 へんとう が送 おく られてくると、東 ひがし ハンガリーのルター派 は は同年 どうねん のうちに宗教 しゅうきょう 会議 かいぎ を開 ひら き、この返答 へんとう の内容 ないよう を取 と り入 い れた。間 あいだ もなく、ヤーノシュ2世 せい はカトリックからルター派 は に改宗 かいしゅう した。
ここでコロジュヴァール出身 しゅっしん の聖職 せいしょく 者 しゃ ダーヴィド・フェレンツ が登場 とうじょう し、東 ひがし ハンガリーにおける新教 しんきょう の発展 はってん に大 おお きな影響 えいきょう を与 あた えることになる。彼 かれ の経歴 けいれき から、その並外 なみはず れた宗教 しゅうきょう 的 てき 柔軟 じゅうなん 性 せい が見 み て取 と れる。1510年 ねん にザクセン系 けい の家 いえ に生 う まれたダーヴィドは、ヴィッテンベルク でマルティン・ルター やフィリップ・メランヒトン から直接 ちょくせつ 宗教 しゅうきょう 改革 かいかく の教 おし えを受 う け、トランシルヴァニアに帰 かえ ってからは熱心 ねっしん にルター派 は 宗教 しゅうきょう 改革 かいかく を推 お し進 すす めた。1557年 ねん 、ダーヴィドはハンガリーのルター派 は 教会 きょうかい の責任 せきにん 者 しゃ となった。彼 かれ はルター派 は とカルヴァン派 は の和解 わかい を試 こころ みたが、聖餐 せいさん に関 かん する両者 りょうしゃ の間 あいだ の溝 みぞ は埋 う めがたかった。ダーヴィドは、聖餐 せいさん の場 ば ではパンにもワインにも奇跡 きせき は起 お きないとするカルヴァン派 は に惹 ひ かれていった。一方 いっぽう で彼 かれ はデジデリウス・エラスムス やミシェル・セルヴェ らの業績 ぎょうせき を研究 けんきゅう する中 なか で、教義 きょうぎ や自 みずか らの信念 しんねん を発展 はってん させる批判 ひはん 的 てき 思考 しこう と宗教 しゅうきょう 選択 せんたく の自由 じゆう という思想 しそう を身 み に着 つ けた。
エラスムスは16世紀 せいき 前半 ぜんはん に、一般人 いっぱんじん にも聖書 せいしょ を読 よ むように促 うなが している。1516年 ねん に彼 かれ がギリシア語 ご 新約 しんやく 聖書 せいしょ を出版 しゅっぱん した際 さい 、彼 かれ はヨハネの手紙 てがみ 一 いち 第 だい 五 ご 章 しょう を無視 むし している。この文章 ぶんしょう は三位一体 さんみいったい の根拠 こんきょ であるとみなされ続 つづ けてきた。セルヴェは ヨセフ・キムヒ らユダヤ教 きょう 神学 しんがく 者 しゃ の反 はん 三位一体 さんみいったい 論 ろん を読 よ み、三位一体 さんみいったい 論 ろん がユダヤ教 きょう やイスラーム教 きょう と異 こと なる(欧州 おうしゅう )キリスト教 きょう の主要 しゅよう 部分 ぶぶん であると結論 けつろん 付 つ けた。反 はん 三位一体 さんみいったい 論 ろん を主張 しゅちょう したためセルヴェは故国 ここく スペイン を追 お われ、1553年 ねん にジュネーヴでカルヴァン派 は により火刑 かけい に処 しょ された。
イタリア人 じん のジョルジオ・ブランドラタがトランシルヴァニアの宗教 しゅうきょう 改革 かいかく 史 し に登場 とうじょう するのは、1563年 ねん に彼 かれ が宮廷 きゅうてい 医師 いし に任 にん じられてからである。セルヴェの影響 えいきょう を受 う け、ブランドラタは1550年代 ねんだい からイエス・キリスト の神性 しんせい に疑問 ぎもん を抱 いだ くようになり、ジャン・カルヴァン から「怪物 かいぶつ 」と評 ひょう された。1556年 ねん に己 おのれ の思想 しそう のためにイタリアを追 お われ、移 うつ り住 す んだジュネーヴ でも居心地 いごこち が悪 わる くなったブランドラタは、1558年 ねん にポーランド に活動 かつどう の場 ば を移 うつ して反 はん 三位一体 さんみいったい 派 は をカルヴァン派 は から独立 どくりつ させることに成功 せいこう した。折 おり しも東 ひがし ハンガリー王 おう ヤーノシュ2世 せい がポーランドで亡命 ぼうめい 生活 せいかつ を送 おく っていた頃 ころ であり、ここで反 はん 三位一体 さんみいったい 派 は の思想 しそう に触 ふ れたヤーノシュ2世 せい は、帰国 きこく 後 ご の1563年 ねん にブランドラタを宮廷 きゅうてい 医師 いし として招 まね いた。
1564年 ねん の宗教 しゅうきょう 会議 かいぎ で、ダーヴィドは新設 しんせつ されたカルヴァン派 は のトランシルヴァニア改革 かいかく 派 は 教会 きょうかい の責任 せきにん 者 しゃ となった。この時 とき 、ダーヴィドとすでにヤーノシュ2世 せい のお気 き に入 い りになっていたブランドラタは初 はじ めて出会 であ った。同年 どうねん 、ヤーノシュ2世 せい はルター派 は からカルヴァン派 は に再 さい 改宗 かいしゅう し、ダーヴィドを宮廷 きゅうてい 説教 せっきょう 師 し に任 にん じた。。ダーヴィドの人事 じんじ には、ブランドラタが影響 えいきょう 力 りょく を発揮 はっき していた。議会 ぎかい も独立 どくりつ したカルヴァン派 は 教会 きょうかい の存在 そんざい を認可 にんか した。1566年 ねん 、議会 ぎかい はカルヴァン派 は 牧師 ぼくし スンジェオルジウのゲオルゲ (英語 えいご 版 ばん ) をルーマニア人 じん の教会 きょうかい の長 ちょう とした。またカルヴァン派 は に改宗 かいしゅう しようとしない東方 とうほう 正教 せいきょう の聖職 せいしょく 者 しゃ の追放 ついほう を命 めい じる布告 ふこく も出 だ したが、これは実行 じっこう されなかった。
1565年 ねん 、ダーヴィドはブランドラタの影響 えいきょう で反 はん 三位一体 さんみいったい 神学 しんがく に転向 てんこう した。デブレツェンのカルヴァン派 は 聖職 せいしょく 者 しゃ ペーテル・メリウス・ユハース はダーヴィドを厳 きび しく非難 ひなん したが、コロジュヴァールの有力 ゆうりょく な市民 しみん たちのほとんどはダーヴィドの支持 しじ 者 しゃ であり続 つづ けた。むしろ彼 かれ らは、ダーヴィドの説 せつ にそぐわない説教 せっきょう を禁 きん ずるようになった。1566年 ねん 、ヤーノシュ2世 せい は宗教 しゅうきょう 的 てき 争点 そうてん を明 あき らかにするべく、ジュラフェヘールヴァール(現 げん アルバ・ユリア )で全 ぜん 国民 こくみん の討論 とうろん 会 かい を主催 しゅさい した。ダーヴィドも宮廷 きゅうてい 説教 せっきょう 師 し として反 はん 三位一体 さんみいったい 派 は を率 ひき いて参加 さんか したが、この時 とき は結論 けつろん に至 いた らなかった。
ヤーノシュ2世 せい は当初 とうしょ はメリウス・ユハースを支持 しじ していたが、宮廷 きゅうてい 内 ない の反 はん 三位一体 さんみいったい 派 は がヤーノシュ2世 せい に強 つよ い働 はたら きかけを行 おこな った。ヤーノシュ2世 せい は、1567年 ねん 初頭 しょとう にブランドラタとダーヴィドが宗教 しゅうきょう 会議 かいぎ を開 ひら くことを黙認 もくにん した。この宗教 しゅうきょう 会議 かいぎ は父 ちち なる神 かみ を単一 たんいつ の存在 そんざい とする反 はん 三位一体 さんみいったい 信条 しんじょう を採択 さいたく した。 ダーヴィドの兄弟 きょうだい の舅 しゅうと にあたるヘルタイ・ガーシュパール やカーロイ・ペーテル、その他 た 多 おお くのルター派 は ・カルヴァン派 は 聖職 せいしょく 者 しゃ がコロジュヴァールを去 さ ったが、それ以上 いじょう の数 かず のハンガリー貴族 きぞく はダーヴィドの主張 しゅちょう を自発 じはつ 的 てき に受 う け入 い れた。メリウス・ユハースは自 みずか らデブレツェンで宗教 しゅうきょう 会議 かいぎ を開 ひら き、三位一体 さんみいったい 論 ろん を採択 さいたく した。彼 かれ の支持 しじ 者 しゃ たちは、ダーヴィドを異端 いたん の罪 つみ で石 いし 打 う ち刑 けい に処 しょ すべきだと主張 しゅちょう した。
1567年 ねん と1568年 ねん に、ダーヴィドは自 みずか らの主張 しゅちょう をまとめた本 ほん をラテン語 らてんご とハンガリー語 ご で出版 しゅっぱん した。「アンチキリスト が真 しん の神 かみ の知恵 ちえ を曇 くも らせたことについての短 みじか い解説 かいせつ 」と題 だい した彼 かれ のハンガリー語 ご での最初 さいしょ の著作 ちょさく は、神 かみ の王国 おうこく を実現 じつげん させるために三位一体 さんみいったい 論 ろん を追放 ついほう することを主張 しゅちょう している。またダーヴィドは、従来 じゅうらい のキリスト教 きりすときょう が、救済 きゅうさい を受 う けるには位 い 格 かく などの複雑 ふくざつ な教義 きょうぎ を理解 りかい しなければならないと説 と いていることについて、それでは農民 のうみん は誰 だれ 一人 ひとり として救済 きゅうさい され得 え ないと批判 ひはん している。宗教 しゅうきょう 的 てき 自由 じゆう を守 まも るため、彼 かれ は使徒 しと 言行 げんこう 録 ろく 内 うち の、ガマリエル が捕 と らえられた使徒 しと に与 あた えた助言 じょげん を引用 いんよう した。ガマリエルは、使徒 しと たちの行 おこな いが「人間 にんげん の生 う み出 だ した」ものであれば罰 ばっ するまでもなく失敗 しっぱい するだろうし、「神 かみ の」ものであれば言 い うまでもなく判事 はんじ などには覆 くつがえ し得 え ぬものだから、どちらにせよ使徒 しと は刑 けい を科 か さず釈放 しゃくほう するべきだと述 の べたとされる。またダーヴィドは、イエスは麦畑 むぎばたけ の中 なか の毒 どく 麦 むぎ を収穫 しゅうかく 時 じ になって初 はじ めて刈 か り取 と って焼 や き捨 す てるという「毒 どく 麦 むぎ のたとえ」も利用 りよう した。
1567年 ねん 末 まつ までに、ブランドラタとダーヴィドはヤーノシュ2世 せい に反 はん 三位一体 さんみいったい 神学 しんがく を認 みと めさせることに成功 せいこう した。1568年 ねん 1月 がつ 6日 にち 、ヤーノシュ2世 せい はトルダ(現 げん ルーマニア・トゥルダ )で議会 ぎかい を招集 しょうしゅう した。ここで発 はっ された新 あら たな「トルダの勅 みことのり 令 れい 」は、国内 こくない で反 はん 三位一体 さんみいったい 派 は も三位一体 さんみいったい 派 は も自由 じゆう に教 おし え広 ひろ めて良 よ いというものだった。勅 みことのり 令 れい の内容 ないよう には、エフェソの信徒 しんと への手紙 てがみ 2:8の「信仰 しんこう は(中略 ちゅうりゃく )神 かみ の賜物 たまもの である」[83] という一文 いちぶん や、ローマの信徒 しんと への手紙 てがみ 10:17の「したがって、信仰 しんこう は聞 き くことによるのであり、聞 き くことはキリストの言葉 ことば から来 く るのである」[84] という一文 いちぶん が引用 いんよう されている。トルダの勅 みことのり 令 れい は、人々 ひとびと に宗教 しゅうきょう 上 じょう の理由 りゆう で攻撃 こうげき しあうことを禁 きん じた。
我 われ らの主 おも 、国王 こくおう 陛下 へいか 、陛下 へいか がその王国 おうこく (議会 ぎかい )と共 とも に、前回 ぜんかい の議会 ぎかい で、宗教 しゅうきょう に関 かん する事項 じこう を法律 ほうりつ で制定 せいてい したように、この議会 ぎかい においても、同 おな じように次 つぎ のことを再 ふたた び確認 かくにん する。説教 せっきょう 者 しゃ はあらゆる場所 ばしょ で、福音 ふくいん 書 しょ をその理解 りかい するところに従 したが って説教 せっきょう し説明 せつめい することが許 ゆる される。聖 ひじり 会 かい がそれを好 この ましいと思 おも うなら、問題 もんだい はないであろう。もしそれが好 この ましくないなら、人々 ひとびと の霊魂 れいこん が満足 まんぞく していないのだろうから、その人々 ひとびと を強制 きょうせい してはならない。しかしその人々 ひとびと が正 ただ しいと認 みと める説教 せっきょう 師 し を持 も つことは認 みと めらるべきである。それ故 ゆえ に、監督 かんとく 官 かん や他 た の人々 ひとびと も、説教 せっきょう 師 し を虐待 ぎゃくたい してはならないし、その人 ひと の宗教 しゅうきょう のゆえに、以前 いぜん の法律 ほうりつ のままにののしることも許 ゆる されない。いかなる人 ひと もその教 きょう 説 せつ のゆえに投獄 とうごく されたり、その地位 ちい から追 お われたりしてはならない。なぜなら信仰 しんこう は神 かみ の賜物 たまもの であり、それは聞 き くことから始 はじ まり、聞 き くことも神 かみ の言葉 ことば によるのである。
—トルダの勅 みことのり 令 れい
トルダの勅 みことのり 令 れい は個人 こじん の信教 しんきょう の自由 じゆう は認 みと めていなかった。その代 か わりに、各 かく 地域 ちいき 社会 しゃかい はどの宗派 しゅうは の牧師 ぼくし を自分 じぶん たちが擁 よう するか自由 じゆう に決 き めて良 よ いという内容 ないよう が強調 きょうちょう され、自 みずか らの信仰 しんこう を他 た 宗派 しゅうは から否定 ひてい されずに守 まも ることを許 ゆる された。勅 みことのり 令 れい による解放 かいほう が及 およ ぶ範囲 はんい はカトリック、プロテスタント、反 はん 三位一体 さんみいったい 派 は に限 かぎ られ、ルーマニア正教 せいきょう やユダヤ教 きょう 、イスラーム教 きょう は対象 たいしょう 外 がい だった。とはいえ、トルダの勅 みことのり 令 れい が示 しめ した宗教 しゅうきょう 的 てき 寛容 かんよう は、16世紀 せいき のヨーロッパにおいては傑出 けっしゅつ した業績 ぎょうせき である。キリスト教 きょう の諸派 しょは の併存 へいそん を公式 こうしき に明文化 めいぶんか したのはヨーロッパの国家 こっか で初 はじ めてである。これまでにダーヴィドとメリウス・ユハースの間 あいだ で繰 く り広 ひろ げられてきた反 はん 三位一体 さんみいったい 派 は と三位一体 さんみいったい 派 は の一連 いちれん の討論 とうろん の結果 けっか が、この勅 みことのり 令 れい に凝縮 ぎょうしゅく されている。ヤーノシュ2世 せい 自身 じしん は反 はん 三位一体 さんみいったい 派 は に傾倒 けいとう していたが、これを国教 こっきょう としたり他 た の宗派 しゅうは の排撃 はいげき に転 てん じたりすることはなかった。
バートリ・イシュトヴァーン
1568年 ねん の勅 みことのり 令 れい 布告 ふこく 後 ご 、ジュラフェヘールヴァールで2回 かい 目 め の大 だい 討論 とうろん 会 かい が召集 しょうしゅう された。今回 こんかい はダーヴィドが勝利 しょうり をおさめ、ユニテリアニズムを一般 いっぱん 的 てき 信仰 しんこう として確立 かくりつ した。1569年 ねん 、ナジヴァーラド で行 おこな われた3回 かい 目 め の宗教 しゅうきょう 討論 とうろん 会 かい は、ダーヴィド率 ひき いる反 はん 三位一体 さんみいったい 派 は に最終 さいしゅう 勝利 しょうり をもたらした決定的 けっていてき な討論 とうろん となったと評価 ひょうか されている。10月25日 にち 、ヤーノシュ2世 せい は彼 かれ の王国 おうこく において各 かく 宗教 しゅうきょう が自由 じゆう に議論 ぎろん されることを認 みと める勅 みことのり 令 れい を出 だ した。ヤーノシュ2世 せい は1571年 ねん 3月 がつ 14日 にち に死去 しきょ した。なお死 し の前年 ぜんねん に彼 かれ はシュパイアー条約 じょうやく でハンガリー王位 おうい を放棄 ほうき し、代 か わりにトランシルヴァニア公 こう を名乗 なの るようになった。この年 とし 、反 はん 三位一体 さんみいったい 派 は は約 やく 500の集会 しゅうかい を持 も ち、その普及 ふきゅう 度 ど は頂点 ちょうてん に達 たっ した。議会 ぎかい は新 しん トランシルヴァニア公 こう にカトリック教徒 きょうと の大 だい 貴族 きぞく バートリ・イシュトヴァーン (ステファン・バートリ)を選出 せんしゅつ した。バートリ・イシュトヴァーンはユニテリアンの活動 かつどう 自体 じたい は認 みと めたものの、彼 かれ らの宣教 せんきょう 運動 うんどう を禁止 きんし した。さらにバートリ・イシュトヴァーンは他 た 宗教 しゅうきょう への攻撃 こうげき を禁止 きんし するトルダの勅 みことのり 令 れい を無視 むし して、ザクセン人 じん にカルヴァン派 は やユニテリアンを迫害 はくがい するよう促 うなが したが、ザクセン人 じん は従 したが わなかった。
またバートリ・イシュトヴァーンは、トランシルヴァニア領内 りょうない のルーマニア人 じん に宗教 しゅうきょう 改革 かいかく が伝搬 でんぱん するのを阻止 そし しようとした。彼 かれ はモルダヴィアの正教 せいきょう 僧 そう のエフティミエ (英語 えいご 版 ばん ) なる人物 じんぶつ をルーマニア人 じん の主教 しゅきょう としたが、カルヴァン派 は の浸透 しんとう 阻止 そし に効果 こうか はなかった。トランシルヴァニア議会 ぎかい はバートリ・イシュトヴァーンにトルダの勅 みことのり 令 れい を尊重 そんちょう するよう求 もと めたが、バートリ・イシュトヴァーンはセルビア総 そう 主教 しゅきょう がエフティミエを主教 しゅきょう に任命 にんめい するのに同意 どうい を与 あた えてしまった。1572年 ねん 5月 がつ 、宗教 しゅうきょう 革新 かくしん を禁 きん ずる新 あら たな法令 ほうれい が議会 ぎかい を通過 つうか した。この法令 ほうれい は公 おおやけ に教会 きょうかい 間 あいだ の争 あらそ いにおける違法 いほう 行為 こうい 調査 ちょうさ 開始 かいし 権 けん を与 あた え、介入 かいにゅう を許 ゆる すものだった。
ダーヴィドはさらに自身 じしん の信条 しんじょう の改革 かいかく を進 すす めていったが、これがブランドラタとの対立 たいりつ を引 ひ き起 お こした。1579年 ねん 、ダーヴィドは幼児 ようじ 洗礼 せんれい やキリスト崇拝 すうはい を拒否 きょひ したことでトランシルヴァニア公 こう バートリ・クリシュトーフ に告訴 こくそ されて投獄 とうごく され、同年 どうねん 11月 がつ 15日 にち に獄死 ごくし した。こうした逆行 ぎゃっこう 的 てき な事件 じけん にもかかわらず、トランシルヴァニア公国 こうこく には宗教 しゅうきょう 的 てき に寛容 かんよう な風土 ふうど が残 のこ った。1588年 ねん に議会 ぎかい は、領主 りょうしゅ が自身 じしん の信仰 しんこう を農奴 のうど に強制 きょうせい することはできないとする法 ほう を制定 せいてい している。ローマ・カトリック、ルーテル教会 きょうかい 、カルヴァン改革 かいかく 派 は 、ユニテリアンの四 よっ つを国家 こっか が保護 ほご する状態 じょうたい も揺 ゆ るがなかった。
正教会 せいきょうかい は保護 ほご こそ受 う けなかったものの、その存在 そんざい は公認 こうにん されていた。トランシルヴァニア公 こう バートリ・ガーボル (在位 ざいい : 1608年 ねん - 1613年 ねん )は、正教 せいきょう の聖職 せいしょく 者 しゃ に対 たい するあらゆる封建 ほうけん 的 てき 義務 ぎむ を免除 めんじょ し、彼 かれ らの移動 いどう の自由 じゆう を守 まも った。バートリ・ガーボルを継 つ いだベトレン・ガーボル は1614年 ねん にバートリの法 ほう を再 さい 確認 かくにん するとともに、自 みずか らは熱心 ねっしん なカルヴァン派 は でありながらイエズス会 かい がトランシルヴァニアに復帰 ふっき するのを認 みと め、またヨーロッパ各地 かくち で迫害 はくがい されていた約 やく 200人 にん のアナバプテスト ・フッター派 は が公国 こうこく 内 ない に住 す むことを許 ゆる した。またベトレン・ガーボルはユダヤ人 じん に対 たい しても、彼 かれ らに対 たい するダビデの星 ほし の着用 ちゃくよう 強制 きょうせい などの規制 きせい を緩和 かんわ した。
トルダの勅 みことのり 令 れい は、多 た 宗教 しゅうきょう 国家 こっか である隣国 りんごく ポーランド・リトアニア共和 きょうわ 国 こく に大 おお きな影響 えいきょう を与 あた えた。 1573年 ねん 1月 がつ 28日 にち 、セイム は信教 しんきょう の自由 じゆう を掲 かか げたワルシャワ連盟 れんめい 協約 きょうやく を成立 せいりつ させた。
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