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ドゥーンじょう

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出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ドゥーンじょう
Doune Castle
スコットランドの旗 スコットランド
スターリングドゥーン英語えいごばん
UK grid reference NN727010
ドゥーンじょうきたかべ
左側ひだりがわ領主りょうしゅとうえい: Lord's tower)、右側みぎがわ大広間おおひろまがある。
ドゥーン城の位置(スターリング内)
ドゥーン城
スターリングにおけるしろ所在地しょざいち
座標ざひょう北緯ほくい5611ふん07びょう 西経せいけい403ふん01びょう / 北緯ほくい56.185158 西経せいけい4.050253 / 56.185158; -4.050253
種類しゅるい中庭なかにわきの城砦じょうさい (Tower house
地上ちじょうだか領主りょうしゅとう頂点ちょうてんまで29メートル (95 ft)
施設しせつ情報じょうほう
所有しょゆうしゃヒストリック・スコットランド英語えいごばん
管理かんりしゃオールバニ公爵こうしゃく1420ねんまで)
スコットランドおう(17世紀せいきまで)
マリー伯爵はくしゃく
一般いっぱん公開こうかい一般いっぱん公開こうかいちゅう
現況げんきょう荒廃こうはい
歴史れきし
建設けんせつ1400ねんごろ
建設けんせつしゃオールバニ公爵こうしゃくロバート・ステュアート (オールバニ公爵こうしゃく)
建築けんちく資材しざい石造いしづくり(だい部分ぶぶん石積いしつみ、すみにはかざせき

ドゥーンじょう(ドゥーンじょう、えい: Doune Castle)は、スコットランド中心ちゅうしんスターリングむらドゥーン英語えいごばんにある中世ちゅうせい要塞ようさいである。しろアードッホがわ英語えいごばんティースがわ英語えいごばんながむ、樹木じゅもくおおわれたがりかどにある。スターリングから北西ほくせいに8マイル (13 km)の場所ばしょでは、ティースがわフォースがわなが[ちゅう 1]。さらに北西ほくせいへ8マイル (13 km)すすんだ上流じょうりゅう地点ちてんには、トロサックス英語えいごばんきし沿いに、ハイランド地方ちほう境界きょうかいたるまちカランダー英語えいごばんがある。

近年きんねん調査ちょうさによって、ドゥーンじょう13世紀せいきころてられ、スコットランド独立どくりつ戦争せんそうとき損傷そんしょうけたこと[1]、その14世紀せいきわりころに、オールバニ公爵こうしゃくロバート・ステュアート1340ねんごろ - 1420ねん)によって現在げんざいかたちなおされたことがかった。オールバニ公爵こうしゃくはスコットランドおうロバート2せい息子むすこで、1388ねんから死去しきょまでスコットランドの摂政せっしょうつとめていた。かれてた要塞ようさいがほとんど改築かいちくされずに完璧かんぺきなままのこされていたため、従来じゅうらいしろ全体ぜんたいがオールバニ公爵こうしゃくによる建築けんちく完成かんせいされたとかんがえられていた[2]実際じっさいのところ、石造いしづくりの建築けんちくはほとんどが14世紀せいきおそくにつくられたものだが、一部いちぶ1580年代ねんだい軽微けいび修理しゅうりおこなわれた部分ぶぶんがある。しろ1425ねんにオールバニ公爵こうしゃく息子むすこ処刑しょけいされたのをおうゆずわたされ、王立おうりつ狩猟しゅりょうよう別邸べってい英語えいごばん寡婦かふよう住宅じゅうたく英語えいごばんとして使つかわれていた。16世紀せいきおそくには、ドゥーンじょうマリー伯爵はくしゃく所有しょゆうとなる。しろ17世紀せいきなかばの清教徒せいきょうと革命かくめい (enグレンケルンのらん英語えいごばん、17世紀せいき後期こうきから18世紀せいきにかけてのジャコバイトのらん (enなどをたりにしている。1800ねんまでにはしろ破壊はかいされたが、1880年代ねんだいしろ修復しゅうふく事業じぎょうはじまった。この修復しゅうふくでは、板材いたざい屋根やねや、室内しつないゆかめん家具かぐるいなどが交換こうかんされている。20世紀せいきはいってからも修復しゅうふく事業じぎょうおこなわれ、現在げんざいじょうヒストリック・スコットランド英語えいごばんによって管理かんりされている。

建築けんちくしゃがオールバニ公爵こうしゃくだったことから、ドゥーンじょう当時とうじ王家おうけてていたしろ建築けんちく様式ようしき反映はんえいしたつくりになっている[3]建物たてものかくあたりわせたながさの中庭なかにわつくられる予定よていだったが、北側きたがわ北西ほくせいがわ部分ぶぶんしか完成かんせいしていない[4]。エントランスじょうにはおおきなタワー・ハウス英語えいごばんつくられ、領主りょうしゅとその家族かぞく部屋へやがあるほか、キッチンやゲスト・ルームをふくんだべつとうてられている。この2つは大広間おおひろまかいしてつながっている。

現在げんざいじょうはカテゴリAの指定してい文化財ぶんかざいえい: Category A listed building (Listed buildingとなっているほか、英国えいこく"Scheduled monument" (enにも指定していされている。

モンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイル』をはじめとした映画えいが・ドラマのロケとしても有名ゆうめいである(→#フィクションやドラマでの使用しよう)。

歴史れきし

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ティースがわ英語えいごばんうえにあるドゥーンじょう

しろ位置いちするアードッホがわ英語えいごばんティースがわ英語えいごばん合流ごうりゅう地点ちてんには、紀元きげん1世紀せいきブリタンニアによって要塞ようさいきずかれた[3]現在げんざいではこの要塞ようさい遺跡いせき地表ちひょうのこっていない。しろ南側みなみがわ現存げんそんする城壁じょうへきほりは、現在げんざいのドゥーンじょうよりもまえてられた要塞ようさい、ドゥーン(えい: Doune)のものである可能かのうせいがある[5]。このドゥーンとは、スコットランド・ゲールで「要塞ようさい」を意味いみする単語たんご "dùn" に由来ゆらいするとかんがえられている[5]城内じょうないもっと初期しょき建築けんちく13世紀せいきころのものと同定どうていされている[1]一方いっぽうで、現在げんざいのこっているしろ自体じたいは、スコットランド中世ちゅうせい建築けんちくもっと創造そうぞうてき生産せいさんてきだった1375ねんから1425ねんまでのあいだてられたとかんがえられており、おな時代じだいにはロージアンにあるダーレトンじょう英語えいごばんタンタロンじょう英語えいごばんラナークシャー英語えいごばんにあるボスウェルじょう英語えいごばんなど、おおくのしろ建築けんちく改築かいちくされている[6]

摂政せっしょう・オールバニ公爵こうしゃく

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スコットランド摂政せっしょうつとめたロバート・ステュアート (オールバニ公爵こうしゃく)印章いんしょう

1361ねんロバート・ステュアート1340ねんごろ - 1420ねん)は、メンティース伯爵はくしゃく英語えいごばん称号しょうごう現在げんざいドゥーンじょうっている土地とちあたえられた。かれはスコットランドおうロバート2せい在位ざいい1371ねん - 1390ねん)の息子むすこで、ロバート3せい在位ざいい1390ねん - 1406ねん)のおとうとだった。しろ建築けんちくはこの下賜かしはじまったとかんがえられ、おそくとも1381ねんまでには完成かんせいして勅許ちょっきょじょうあたえられた[3]。ロバートは1388ねん年老としおいたちちロバート2せい摂政せっしょうとなり、その病弱びょうじゃくだったあにロバート3せい治世ちせいあいだ影響えいきょうりょくつづけた。1398ねんにはオールバニ公爵こうしゃく地位ちいあたえられている。1406ねん、ロバート3せい後継こうけいしゃジェームズ1せいイングランドらえられると、オールバニ公爵こうしゃくはまたも摂政せっしょうについた。その、ドゥーンですうおおくの勅許ちょっきょじょう発行はっこうされたことから、ここが愛用あいよう居城きょじょうとなったことがうかがえる[3]

王立おうりつ保養ほようしょ

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ジェームズ3せいとその配偶はいぐうしゃマーガレット・オブ・デンマーク。マーガレットはドゥーンでやもめらしをした。

オールバニこう1420ねんくなり、オールバニこう公爵こうしゃくりょうだったドゥーンと摂政せっしょうしょく息子むすこマードック英語えいごばん1362ねん - 1425ねん)がいだ。1424ねんになって、ようやく身代金みのしろきんがイングランドへ支払しはらわれて帰国きこくしたジェームズ1せいは、そのすぐさま王国おうこく主導しゅどうけんにぎろうと画策かくさくした。マードックとかれ息子むすこ2にん反逆はんぎゃくざい理由りゆう投獄とうごくされ、1425ねん5月に処刑しょけいされた。ドゥーンじょう任命にんめいけた長官ちょうかん番人ばんにん管理かんりする王家おうけ保有ほゆうぶつとなり、スコットランド王国おうこく保養ほようしょ狩猟しゅりょうよう別邸べってい英語えいごばんとして使つかわれた。また、メアリー・オブ・グエルダース1434ねんごろ - 1463ねん)、マーガレット・オブ・デンマーク1456ねん - 1486ねん)、マーガレット・テューダー1489ねん - 1541ねん)の寡婦かふよう住宅じゅうたく英語えいごばんとしてももちいられた[2]。それぞれジェームズ2せいジェームズ3せいジェームズ4せい未亡人みぼうじんとなった王妃おうひである。

1528ねんおさな息子むすこジェームズ5せい摂政せっしょうとなったマーガレット・テューダーは、オールバニこう子孫しそんであるヘンリー・ステュアート (初代しょだいメスヴェンきょう)英語えいごばん結婚けっこんした。かれおとうとであるサー・ジェームズ・ステュアート(1513ねんごろ - 1554ねん)はドゥーンじょう長官ちょうかんえい: Captain of Doune Castle)となり、息子むすこ同名どうめいのジェームズ(1529ねんごろ - 1590ねん)は、1570ねんにドゥーンきょうえい: Lord Doune)の称号しょうごうあたえられている[2]。ドゥーンきょう息子むすこ同名どうめいジェームズ英語えいごばん1565ねんごろ - 1592ねん)は、1580ねんころエリザベス・ステュアート (だい2だいマリおんな伯爵はくしゃく)結婚けっこんし、マリ伯爵はくしゃく称号しょうごういでいる[7]しろ管理かんりおこなっていたマリ伯爵はくしゃくのものとなり、20世紀せいきいたるまでマリ伯爵はくしゃく所有しょゆうされていた[2]

スコットランド女王じょおうメアリー在位ざいい1542ねん - 1567ねん)はすうドゥーンじょうおとずれ、台所だいどころ上層じょうそうにあるいちつづきの部屋へや滞在たいざいした[8]。メアリー女王じょおう廃位はいいきたみじか内乱ないらんでは、彼女かのじょ忠臣ちゅうしんたちがドゥーンじょう占領せんりょうしたが、3日間にちかん封鎖ふうさのち1570ねん摂政せっしょうマシュー・ステュアート (だい4だいレノックスはく)しろわたされた[2]1570ねん10月4にちには、ジョージ・ブキャナン英語えいごばんとスターリングのふく判事はんじであるダンカン・ネアン(えい: Duncan Nairn)が、メアリー女王じょおうメアリー・シートン英語えいごばん手紙てがみとどけようとしていた使者ししゃのジョン・ムーンをドゥーンじょう拷問ごうもん尋問じんもんした[9]

ジェームズ6せい[ちゅう 2]もドゥーンじょう度々たびたびおとずれ、1581ねんにはしろ修繕しゅうぜん改築かいちくように300ポンドをあたえている[2]。この事業じぎょうは、"Master of Work to the Crown of Scotland"[訳語やくご疑問ぎもんてん] であるロバート・ドラモンド・オブ・カーノック英語えいごばん監修かんしゅうのもとに[10]熟練じゅくれん石工せっこうマイケル・エウィング(えい: Michael Ewing)のおこなわれた[5]1593ねんにはジェームズ6せいたおそうとする陰謀いんぼう発覚はっかくし、ジェームズはドゥーンじょう共謀きょうぼうしゃらを不意打ふいうちにしてらえた。そのなかには、モントローズ伯爵はくしゃく英語えいごばんガウリー伯爵はくしゃく英語えいごばんふくまれていた[2]

刑務所けいむしょそして要塞ようさいとして

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ジェームズ・グレアム、初代しょだいモントローズ侯爵こうしゃく
1844ねんられたドゥーンじょう写真しゃしん撮影さつえいしゃヘンリー・フォックス・タルボット

1607ねんきょう役者やくしゃでジェームズ4せい宗教しゅうきょう政策せいさく反対はんたいしたジョン・マンロー・オブ・テイン英語えいごばんは、同僚どうりょうきょう役者やくしゃともにドゥーンじょう投獄とうごくされた。マンローはその当時とうじ城主じょうしゅ計略けいりゃくしろ脱出だっしゅつし、この城主じょうしゅはマンローらをがしたことで投獄とうごくされている。おう党派とうはだった初代しょだいモントローズ侯爵こうしゃくジェームズ・グレアムは、清教徒せいきょうと革命かくめい最中さいちゅうである1645ねんにこのしろ占領せんりょうした。1654ねんオリバー・クロムウェルによるスコットランド侵攻しんこう反対はんたいするグレンケルンのらん英語えいごばんなかには、サー・マンゴ・マリー[ちゅう 3]ひきいるおう党派とうはと、トバイアス・ブリッジ英語えいごばん少佐しょうさひきいるクロムウェル支持しじとのあいだで、ドゥーンじょう舞台ぶたいとした小競こぜいがきている[2]1689ねんきた「うるわしのダンディー」[ちゅう 4]こと初代しょだいダンディー子爵ししゃくによるジャコバイトのらんさいには、国軍こくぐんによってしろ要塞ようさいされ修理しゅうりおこなわれた(1715ねんきたジャコバイトのらんさいにもおなごとおこなわれている)[8]1745ねんジャコバイトのらんさいには、ドゥーンじょうは「うるわしのチャーリー王子おうじ[ちゅう 5]ことチャールズ・エドワード・ステュアートや、かれ支持しじするジャコバイト軍勢ぐんぜい[ちゅう 6]によって占拠せんきょされた。1746ねんのフォールカークのたたか (Battle of Falkirk Muir[ちゅう 7]らえられた国軍こくぐんへいよう監獄かんごくとしても使つかわれた。台所だいどころ上層じょうそう部屋へや投獄とうごくされた囚人しゅうじんたちのなかには、ベッドシーツをむすけてロープとし、まどからして脱獄だつごくしたものもいる[2]逃亡とうぼうしゃなかには作家さっかジョン・ホーム英語えいごばん牧師ぼくしジョン・ウィザースプーンがおり、後者こうしゃのちにアメリカ植民しょくみんわたってアメリカ独立どくりつ宣言せんげん署名しょめいした[13]

荒廃こうはい修復しゅうふく作業さぎょう、そして保全ほぜん公開こうかい

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ドゥーンじょう北東ほくとうかく

しろ戦乱せんらんてどんどんと荒廃こうはいしていき[14][15]1800ねんまでには屋根やねのない廃墟はいきょになってしまった。マリー伯爵はくしゃく代々だいだいドゥーンじょう居城きょじょうにしていたが、だい10代マリー伯爵はくしゃく、フランシス・ステュアート(えい: Francis Stuart, 10th Earl of Moray1771ねん - 1848ねん)のだいちかくに屋敷やしきて、しろはらっている[ちゅう 8][18]しろ荒廃こうはいは、1880年代ねんだいだい14だいマリー伯爵はくしゃく、ジョージ・ステュアート(えい: George Stuart, 14th Earl of Moray1816ねん - 1895ねん)が修理しゅうり開始かいしするまでつづいた[2]板張いたばりの屋根やねえられ、領主りょうしゅかんえい: Lord's Hall)の羽目板はめいたなど、家具かぐ調度ちょうどひんけられた[5]

しろ1971ねん10月に、カテゴリAの指定してい文化財ぶんかざいえい: Category A listed building (Listed building指定していされている[19]。このカテゴリAとはスコットランドの重要じゅうよう建築けんちくぶつたいする最高さいこう保護ほごレベルである。また同時どうじに、しろ管理人かんりにんようコテージがカテゴリBの指定してい文化財ぶんかざいとなっている[20]

1984ねんダグラス・ステュアート (だい20だいマリー伯爵はくしゃく)英語えいごばんによって寄付きふされたことから、現在げんざいじょう寄付きふけたヒストリック・スコットランド英語えいごばんによって管理かんりされており、一般いっぱん公開こうかいおこなわれている。

2011ねんには、ドゥーンじょうとして英国えいこく"Scheduled monument" (en[ちゅう 9]指定していされた[21]

城内きうち詳細しょうさい

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1かい (Ground floor) と2かい (first floor) 部分ぶぶん図面ずめんドゥーンじょう北東ほくとうかくうつした写真しゃしんかるとおり、実際じっさいには北東ほくとうかくたる領主りょうしゅとうは3かいてになっているが、ここでは3かい部分ぶぶん割愛かつあいされている

ドゥーンじょうスコットランド地理ちりてき中心ちゅうしんちかく、「スコットランドの中心ちゅうしん[ちゅう 10]スターリングじょうからわずか5マイル (8.0 km)の、戦略せんりゃくじょう要衝ようしょうっている[5]。この場所ばしょは、三方さんぽうきゅう勾配こうばいかこまれ、東西とうざいに2つのかわはしり、自然しぜん要塞ようさいとなっている。城壁じょうへき不規則ふきそく五角形ごかっけいで、内部ないぶつくられた中庭なかにわ北側きたがわ北西ほくせいがわに、領主りょうしゅとうなどの建物たてものつくられている。くち北側きたがわにあり、廊下ろうかとおって、領主りょうしゅかんがあるとうしたからなかはいることになる。中庭なかにわには、からくわえられたとかんがえられている[22]3だん石段いしだんがあり、これはとう領主りょうしゅかん、それにめんする大広間おおひろま西側にしがわだい2とうにある台所だいどころへとつうじている。

北側きたがわからのメイン・アプローチは3つのほりふくるいと、りの城壁じょうへき両方りょうほうまもられている。城壁じょうへき外側そとがわには、ふるくからしろつながるものとかんがえられていたアーチがた通路つうろもあるが、これは実際じっさいには18世紀せいきつくられた氷室ひむろつうじるものである[22]上層じょうそうかいには比較的ひかくてきおおきなまどがあるものの、城壁じょうへき下部かぶにはエントランスや西側にしがわ裏門うらもんのぞいて開口かいこう存在そんざいしない。南側みなみがわまどからは、中庭なかにわ部分ぶぶんふくめ、べつ建物たてものてる計画けいかくがあったことがうかがえるが、これらはいずれも建設けんせつされなかった。石造いしづくりの建物たてもの砂岩さがん礎石そせきみしたもので、あかるいBallengeichいし使つかわれている[5][ちゅう 11]

領主りょうしゅとう

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このしろで1ばんとうであるゲートハウス領主りょうしゅとうえい: The Lord's tower)として使つかわれており、建物たてものは13メートル (43 ft) 四方しほう元々もともと計画けいかくでは18メートル (59 ft) 四方しほう)、およそ29メートル (95 ft) のたかさがある[2]。また北東ほくとうかくには、エントランスに隣接りんせつしてラウンドタワーしている。このとうには領主りょうしゅかんえい: The Lord's Hall、2かい部分ぶぶん)と3かい部分ぶぶん部屋へやがあり、これらはエントランスの通路つうろうえ位置いちしている。丸石まるいしかざられたヴォールトじょう[ちゅう 12]通路つうろは14メートル (46 ft)のながさで、以前いぜんは2くみ木製もくせいとびらまもられていたほか、現在げんざいでもイェット英語えいごばん蝶番ちょうつがいしきになった鉄格子てつごうしとびら)がのこされている[5]。パッセージの両側りょうがわえられた衛兵えいへいしょでは、銃眼じゅうがんとおして通路つうろ見渡みわたすことができ、領主りょうしゅとうもと底部ていぶである1かい部分ぶぶんもよくえる。またこの通路つうろけると中庭なかにわることができる。

修復しゅうふくされた領主りょうしゅかんえい: The Lord's Hall

中庭なかにわかう通路つうろふくまれる1かい部分ぶぶんと、その上層じょうそうにあって2かい部分ぶぶんすべてをめている領主りょうしゅかんあいだには直接ちょくせつ連絡れんらくがない。領主りょうしゅかんには、中庭なかにわからつながる石垣いしがきかこまれた階段かいだんから出入でいりすることができ、階段かいだんさきにはもんがある[ちゅう 13]領主りょうしゅかん広間ひろまはヴォールトになっており、めずらしいことに暖炉だんろが2えられている。ゆかめんのタイルや木製もくせい羽目板はめいたミンストレルズ・ギャラリー英語えいごばんは、1880年代ねんだいになって導入どうにゅうされたものである。以前いぜん大広間おおひろまつながるとびらも1880年代ねんだいのものとかんがえられていたが、現在げんざいでは建築けんちく当時とうじのものとかんがえられている[5]広間ひろまおなかいにはいくつかのわき部屋へやがあるが、ラウンドタワーの部屋へやには上方かみがたにくぐりがあるほか、みなみかべなかにあるしょう部屋へやからは広間ひろま中庭なかにわ両方りょうほう見渡みわたせる。広間ひろまきたまどにある、「殺人さつじんあな」(えい: "murder hole")ともばれる狭間はざまからは、パッセージにやってきた襲撃しゅうげきしゃたいして、ものげつけることができる[5]

大広間おおひろま上層じょうそう(3かい部分ぶぶん)にはだい2広間ひろまがあり、公爵こうしゃく夫人ふじんつづ部屋へや一部いちぶしている。みなみかべにあるしょう礼拝れいはいどう (Oratoryからは中庭なかにわ見渡みわたすことができ、なかにはせい水盤すいばん英語えいごばん祭器さいきたく英語えいごばん[ちゅう 14]おさめるかべがんへきがんがある。しょう礼拝れいはいどう壁面へきめんにある通路つうろは、しろカーテンウォール沿った通路つうろつながっている。公爵こうしゃく夫人ふじん広間ひろまえい: The Duchess' hall)にある木製もくせい天井てんじょうや、木製もくせいゆか屋根やねは、いずれも1880年代ねんだいのものである。上層じょうそう石造いしづく部分ぶぶんは、1580年代ねんだい修繕しゅうぜんけられたものである[5]

大広間おおひろま台所だいどころとう

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中庭なかにわから台所だいどころとう大広間おおひろまつながる階段かいだん写真しゃしん右手みぎてえる。

領主りょうしゅとう西側にしがわには大広間おおひろまがあり、おおきさは20メートル (66 ft)×8メートル (26 ft) で、木製もくせい屋根やねまで12メートル (39 ft) のたかさがある[2]。この屋根やねは19世紀せいき修繕しゅうぜんえられたものである[5]大広間おおひろまには暖炉だんろいが、セントラル・ファイアで部屋へやあたため、ルーバーもちいて換気かんきをしていたとかんがえられている。創建そうけん当時とうじ屋根やねがどのような構造こうぞうだったか詳細しょうさい不明ふめいだが、推測すいそくもと屋根やね修復しゅうふくされている[3]広間ひろまには複数ふくすうおおきなまどからひかりみ、また1かい部分ぶぶんにある3つの貯蔵庫ちょぞうこつながる階段かいだんもある。

広間ひろまには、中庭なかにわからつながる階段かいだんのぼってアクセスでき、階段かいだんさきには三角形さんかっけいのロビーがある。ロビーからは、この時代じだいにしてはめずらしい、楕円だえんがたのアーチがいた2つのおおきな配膳はいぜんまどつうじて、広間ひろま台所だいどころ両方りょうほうくことができる[24]台所だいどころとうは、実質じっしつてきにはタワー・ハウス英語えいごばんになっており、おおきさは17メートル (56 ft)×8メートル (26 ft)である。台所だいどころもまたヴォールトになっており、広間ひろまおなかい貯蔵庫ちょぞうこ真上まうえ位置いちしている。このしろ台所だいどころは、創建そうけん当時とうじのスコットランドではもっと充実じゅうじつした設備せつびのあるものの1つで[3]、オーブンや5.5-メートル (18 ft) はば暖炉だんろえられている。1581ねん木製もくせい階段かいだんえるかたちで増設ぞうせつされたとかんがえられる階段かいだんタレット[5]、ロビーから客間きゃくまのある2フロアへつうじている。客間きゃくまなかには「ロイヤル・アパートメント」(えい: "Royal Apartments")とばれる部屋へやふくまれ、これは2つのベッドルームと謁見えっけんしついたつづ部屋へやで、王室おうしつからの訪問ほうもんしゃにふさわしい間取まどりとなっている[2]

中庭なかにわとカーテンウォール

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台所だいどころとうみなみかべにある「タスキング」(えい: tuskings[ちゅう 15]としてられるいしや、みなみのカーテンウォールにある4つのとんがあたまアーチまどは、建物たてものさら拡張かくちょうする計画けいかくがあったことを示唆しさしている。建物たてものひがしはしにあるおおきなまどはチャペルようつくられた可能かのうせいがある。8世紀せいき修道しゅうどうせいフィラン英語えいごばんささげられた礼拝れいはいどうがドゥーンじょうにあったことは記録きろくされているが、しろ東部とうぶでは基礎きそ部分ぶぶんつかっていないことから、そこにはおおきな建物たてものはなかったものと推測すいそくされる[5]。2002ねん9がつには現存げんそんする基礎きそ部分ぶぶん発掘はっくつされ、みなみかべかって陶器とうきかま・オーブンとかんがえられる構造こうぞうつかった[22]。また中央ちゅうおう井戸いどはおよそ18メートル (59 ft) のふかさがある[2]

カーテンウォールあつさ2メートル (6.6 ft) 、たかさ12メートル (39 ft) である[2]かべうえ沿った通路つうろ両側りょうがわから欄干らんかん防御ぼうぎょされており、きゅう階段かいだん広間ひろま・ゲートハウス部分ぶぶん傾斜けいしゃのきつい屋根やねつながっている。おおいのない円形えんけいのタレットがかくごとにあり、かべ中間ちゅうかんには半円はんえんがた突出とっしゅつがある。狭間はざまきの四角しかくいタレットは、西にしかべ裏門うらもんじょうに1つだけ設置せっちされている[5]

間取まどりの解釈かいしゃく

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かわ土手どてのぼったさきにあるドゥーンじょうみなみかべ

領主りょうしゅとう部屋へや堅固けんご私的してき雰囲気ふんいきのあつらえで、領主りょうしゅとその家族かぞくのためだけに、自衛じえい目的もくてきとしてつくられたとかんがえられている。建築けんちく歴史れきしがくW・ダグラス・シンプソン英語えいごばんは、この配置はいちは14世紀せいき疑似ぎじ封建ほうけんせいえい: Bastard feudalism)の産物さんぶつだとしている[26]。この時代じだい領主りょうしゅは、自分じぶんしろぜん時代じだい封建ほうけんせいのようなふうしんではなく、傭兵ようへいもちいてまもるようもとめられており、このことからシンプソンは、ドゥーンじょうあるじ謀反むほんこしかねない自分じぶん傭兵ようへいから領主りょうしゅとうだけはまもれるように設計せっけいしたと示唆しさした。この解釈かいしゃく現在げんざい歴史れきし学者がくしゃあいだではまったれられておらず、わりにドゥーンじょうは、15世紀せいきから16世紀せいき初頭しょとうにかけててられたリンリスゴー・パレス英語えいごばんなど、より統一とういつされたデザインの中庭なかにわ建物たてものへの、発展はってん途上とじょうにあるものとなされている[5]。ドゥーンじょうのレイアウトは、タンタロンじょう英語えいごばんボスウェルじょう英語えいごばんなどの同年代どうねんだいしろ似通にかよっており、この時代じだいおおくの建物たてものでは、おおかれすくなかれこのしろたような構造こうぞうることができる[1][3]

フィクションやドラマでの使用しよう

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ドゥーンじょうえがいた1804ねん版画はんが。スコットの著書ちょしょウェイヴァリー英語えいごばん』に先立さきだって発行はっこうされたほん "Scotia Depicta" 所収しょしゅう

ドゥーンじょうは、17世紀せいきバラッド "The Bonnie Earl O' Moray" (enなど、複数ふくすう文学ぶんがく作品さくひん登場とうじょうする。このバラッドは、ハントリー伯爵はくしゃく英語えいごばんによる、1592ねんジェイムズ・ステュアート (だい2だいマリー伯爵はくしゃく)英語えいごばん殺人さつじんえがくものである[ちゅう 16][27]ウォルター・スコット処女しょじょさくウェイヴァリー英語えいごばん』(1814ねん)では、主役しゅやくのエドワード・ウェイヴァリーがジャコバイトたちによってドゥーンじょうれてかれる。スコットのロマンチックなこうで、ドゥーンじょうは「半分はんぶんこわれたタレットしょうとう)」(えい: "half-ruined turrets"きの、「陰鬱いんうつだがのようにうつくしい構造こうぞう」(えい: "gloomy yet picturesque structure")のしろとしてえがかれている[28]

このしろは、MGM1952ねん制作せいさくした歴史れきし映画えいがくろ騎士きし』のロケとして使つかわれた[29]。この作品さくひんはウォルター・スコットの『アイヴァンホー』を映像えいぞうしたもので、ロバート・テイラーエリザベス・テイラー出演しゅつえんしている。BBCによる1996ねんの『アイヴァンホー映像えいぞう作品さくひんでもこのしろがロケ使つかわれている[30]

ジョージ・R・R・マーティンの『こおりほのおうた』を原作げんさくとしたTVシリーズ『ゲーム・オブ・スローンズ』(2011ねん – 現在げんざい)では、ウィンターフェルのセットとしてもちいられた[31][32]

ダイアナ・ガバルドンによる小説しょうせつ「アウトランダー」シリーズ (en映像えいぞうしたテレビシリーズでは、架空かくうじょうリアフじょうえい: "Castle Leoch")として登場とうじょうしている[33][34][35]

『モンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイル』

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ドゥーンじょうひがしかべ。『ホーリー・グレイル』のオープニング・シーンはここで撮影さつえいされた。

アーサーおう伝説でんせつもとにした、モンティ・パイソンによる英国えいこくのコメディ・映画えいがモンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイル』は、スコットランド1974ねん撮影さつえいされ、よく1975ねん公開こうかいされた。映画えいがのプロデューサーたちは、ドゥーンじょう保有ほゆうするマリー伯爵はくしゃくからしろでの撮影さつえい許可きょかったほか、ナショナル・トラスト・フォー・スコットランド英語えいごばんから、ドゥーンじょう以外いがいのスコットランドにある複数ふくすうしろ撮影さつえいする許可きょかていた。ところが撮影さつえい直前ちょくぜんになって、ナショナル・トラストからの撮影さつえい許可きょかされてしまった[36]。プロデューサーたちにはあたらしいロケさが時間じかんかったため、わりにせまいアングルでドゥーンじょうのさまざまな箇所かしょ撮影さつえいし、作品さくひん登場とうじょうする架空かくう複数ふくすうしろ部分ぶぶんとしてせかけることをかんがえた。そうして多数たすうのシーンがドゥーンじょうけられた[ちゅう 17][29]

当時とうじパイソンズ・チームは、騎士きしうますら調達ちょうたつできなかったほどの資金しきんなんだったが、作品さくひんレッド・ツェッペリンピンク・フロイドなどの資金しきん提供ていきょうけて制作せいさくされ、そのアメリカだいヒットした[37]映画えいが批評ひひょうサイト Rotten Tomatoes で97%とのこう評価ひょうかているほか[38]2015ねんには英国えいこく公開こうかいから40周年しゅうねん記念きねんしたリバイバル上映じょうえいおこなわれるなど[39][40]現在げんざいでもたか人気にんきほこっている。

映画えいがのディスク特典とくてん映像えいぞうには、ペイリンジョーンズによる「ロケ案内あんない」(原題げんだい"In Search of the Holy Grail Filming Locations")がふくまれ、2人ふたりがドゥーンじょうやその撮影さつえいめぐるドキュメンタリーが収録しゅうろくされている[ちゅう 18]。ドゥーンじょうはパイソニアンや映画えいがのファンにとって聖地せいちになっており、2004ねんからは、毎年まいとし「モンティ・パイソン・デイ」としょうしたまつりがしろひらかれている[43]

また Historic Environment Scotland によるドゥーンじょうのページでは、テリー・ジョーンズがんだ、このしろのオーディオ・ツアーをくことができる[44]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ アードッホがわはドゥーンじょう位置いちする場所ばしょでティースがわながみ、このかわさら下流かりゅうでフォースがわ合流ごうりゅうする。スコットランドちゅう腹部ふくぶ東西とうざいはしるフォースがわは、東端ひがしばた北海ほっかいめんするフォースわんながかわだが、このフォースわんにはエディンバラめんする。
  2. ^ スコットランドおうとしてはジェームズ6せい、イングランドおうとしてはジェームズ1せい先述せんじゅつのメアリー女王じょおう息子むすこで、スコットランド・イングランド双方そうほう王位おういいだ。ここではしろがスコットランドに位置いちすることから、ジェームズ6せい呼称こしょうもちいる。
  3. ^ えい: Sir Mungo Murray
  4. ^ えい: "Bonnie Dundee"
  5. ^ えい: "Bonnie Prince Charlie"
  6. ^ 原文げんぶん"Jacobite Highlanders." ジャコバイトのスコットランド高地こうちじん、の意味いみハイランド地方ちほうはスコットランドの地方ちほうめいでもある。
  7. ^ "Battle of Falkirk Muir." フォールカーク (Falkirk) は1298ねんエドワード1せいウィリアム・ウォレスやぶったフォルカークのたたかきた場所ばしょである [11]今回こんかいたたかいはまたべつのもので、先述せんじゅつのチャールズ・エドワード・ステュアートがグレートブリテン王国おうこく勝利しょうりしたものである[11]。また "Muir" とは、スコットランドの方言ほうげんで「荒野あらの」をす(英語えいご"moor"同義どうぎ[12]たたかいの名前なまえやくすとすれば「フォールカーク荒野あらのたたかい」となる。
  8. ^ 屋敷やしき名前なまえは「ドゥーン・パーク」Doune Park という。だい20だいマリー伯爵はくしゃく、ダグラス・ステュアートや、だい21だい伯爵はくしゃく、ジョン・ステュアートもこのドゥーン・パークに居住きょじゅうしている[16][17]
  9. ^ 記念きねん保存ほぞんぶつリストに追加ついかされている建物たてものとの意味いみ日本にっぽんにおける指定してい文化財ぶんかざいなどのような制度せいど
  10. ^ えい: The "crossroads of Scotland."
  11. ^ "Ballengeich"とはスコットランドの地名ちめい。ドゥーンじょう程近ほどちかいスターリングじょうちかくにも同名どうめいとおりがある。
  12. ^ 「ヴォールト」とはアーチ形状けいじょう水平すいへいし、かまぼこじょう空間くうかんつくった構造こうぞうのこと。File:Doune Castle (8038782196).jpgではくち部分ぶぶんがかまぼこじょうかたちになっていることがかる。
  13. ^ 『モンティ・パイソン・アンド・ホーリー・グレイル』では、ランスロットきょう(ジョン・クリーズ)による結婚式けっこんしき乱入らんにゅうシーンで、クリーズがこの階段かいだんのぼるシーンをることができる。
  14. ^ キリスト教きりすときょうでミサ聖祭せいさいもちいるパンやぶどうしゅせるもの[23]
  15. ^ "Tusk"には「ゾウやイノシシのきば、ひと」との意味いみがあるほか、動詞どうしとしては「〜をきばでく」との意味いみがある[25]
  16. ^ かれはこのしろてたオールバニ公爵こうしゃく息子むすこである。
  17. ^ ほかにも映画えいがわりに登場とうじょうする「アアアアのしろ」(えい: "Castle Aaaaarrrrrrggghhh")のシーンはアーガイル英語えいごばんにある個人こじん所有しょゆうしろストーカーじょうおこなわれた。また、ウェールズにあるキドウェリーじょう英語えいごばん一瞬いっしゅん登場とうじょうしている。
  18. ^ このドキュメンタリーでは、ドゥーンじょうの「聖地せいち巡礼じゅんれい」におとずれるファンもおおく、しろがわ映画えいが脚本きゃくほん販売はんばいココナツからしをおこなっていることもかたられている[36]。ココナツからうま調達ちょうたつする資金しきんかったパイソンズが苦肉くにくさくとしてしたものだが[41][42]映画えいが有名ゆうめいシーンになっている。

出典しゅってん

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  6. ^ Fawcett (1994, p. 3)
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参考さんこう文献ぶんけん

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外部がいぶリンク

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座標ざひょう: 北緯ほくい5611ふん07びょう 西経せいけい403ふん01びょう / 北緯ほくい56.185158 西経せいけい4.050253 / 56.185158; -4.050253