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パリ万国博覧会ばんこくはくらんかい (1925ねん)

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パリ万国博覧会ばんこくはくらんかい > パリ万国博覧会ばんこくはくらんかい (1925ねん)
会期かいきちゅうおこなわれたシトロエン提供ていきょうエッフェル塔えっふぇるとうのイルミネーション

現代げんだい産業さんぎょう装飾そうしょく芸術げいじゅつ国際こくさい博覧はくらんかい(げんだい・さんぎょう・そうしょくげいじゅつ・こくさいはくらんかい、Exposition internationale des arts décoratifs et industriels modernes)とは、1925ねん4がつ28にちから11月8にち当初とうしょ予定よていでは10がつまつ)までフランスパリ開催かいさいされた国際こくさい博覧はくらんかいである。現代げんだい装飾そうしょく美術びじゅつ産業さんぎょう美術びじゅつ国際こくさい博覧はくらんかい(げんだい・そうしょくびじゅつ・さんぎょうびじゅつ・こくさいはくらんかい)とも。パリで開催かいさいされた国際こくさい博覧はくらんかいでは6かいとなる。

セーヌがわ左岸さがんアンヴァリッドまえひろがる広場ひろば(レスプラナード・デ・ザンヴァリッド)から、アレクサンドル3せいきょうて、セーヌがわ右岸うがんグラン・パレおよびプティ・パレまでのあいだ会場かいじょうとなり、パビリオンが林立りんりつした。開会かいかいしきは4がつ28にちひらかれ、閉会へいかいの10がつまつまでに1,600まんにん以上いじょうおとずれ、会期かいきは11月8にちまで延長えんちょうされている[1]

アール・デコ博覧はくらんかい[編集へんしゅう]

パビリオンがなら会場かいじょう風景ふうけい
会場かいじょう風景ふうけい

この博覧はくらんかいにはアール・デコ博覧はくらんかいとの略称りゃくしょうもある。これは、博覧はくらんかい名前なまえのうち「Arts Décoratifs」(装飾そうしょく芸術げいじゅつ)の部分ぶぶん短縮たんしゅくからきている[2]。この博覧はくらんかい出品しゅっぴんされた服飾ふくしょくひん建築けんちくにみられる、どう時代じだい精巧せいこう官能かんのうてき装飾そうしょく芸術げいじゅつやデザインをいいあらわすために、アール・デコ(Art Deco)という言葉ことば登場とうじょうした。

この博覧はくらんかい出品しゅっぴんされた装飾そうしょく芸術げいじゅつ作品さくひんは、古代こだいエジプトなど古典こてん古代こだい芸術げいじゅつ欧州おうしゅう各国かっこく植民しょくみんとなったアジア・アフリカ地域ちいき装飾そうしょくアステカ芸術げいじゅつ日本にっぽん装飾そうしょく文化ぶんかなどから特有とくゆうのモチーフや大胆だいたん幾何きかがくてき形象けいしょうれて異国いこくせい官能かんのうせい表現ひょうげんした。さらに自動車じどうしゃ豪華ごうか客船きゃくせん飛行船ひこうせんといった機械きかいや、ラジオ映画えいがというあらたなメディア普及ふきゅうにより生活せいかつ激変げきへんした、狂乱きょうらんの20年代ねんだい(années folles)とばれる時期じきのフランス社会しゃかいをも反映はんえいしていた。

純粋じゅんすい美術びじゅつ応用おうよう美術びじゅつ建築けんちく分野ぶんや次々つぎつぎ登場とうじょうしていた国際こくさいてき前衛ぜんえい様式ようしきたとえばキュビズム)やあらたなアイデアもアール・デコには反映はんえいした。一方いっぽう国際こくさいてき前衛ぜんえい様式ようしきたいする反動はんどうとしてこった、古典こてん主義しゅぎへの回帰かいきや、ヨーロッパ各国かっこく国民こくみんてき伝統でんとう様式ようしきへの回帰かいき反映はんえいしている。

ながれ線形せんけい使つかったストリームライン・モダン装飾そうしょくてきキュビズムはしはっする水晶すいしょう結晶けっしょうのようなめん構造こうぞう機械きかい速度そくどおもわせる放射状ほうしゃじょう直線ちょくせん大胆だいたん様式ようしきされた噴水ふんすい[3]稲妻いなづま模様もよう古代こだいエジプトやアステカのモチーフ、かえされる幾何きかがくてき形態けいたいなどはこの時代じだい代表だいひょうてきなデザインモチーフである。

ルネ・ラリック水晶すいしょう噴水ふんすい

展覧てんらんかい背景はいけい展示てんじ[編集へんしゅう]

20世紀せいき初頭しょとうのフランスでは、近隣きんりん諸国しょこくドイツ工作こうさく連盟れんめい代表だいひょうされるようなデザイン教育きょういく組織そしき工業こうぎょう大量たいりょう生産せいさんおうじたデザインの開発かいはつ進行しんこうする一方いっぽうで、フランスの産業さんぎょうデザインのこされることにたい危機ききかんたかまっていた。そこで装飾そうしょく芸術げいじゅつ振興しんこうのため、またフランス製品せいひん独自どくじせい優位ゆういせい内外ないがいしめすため、装飾そうしょく芸術げいじゅつ国際こくさい博覧はくらんかいおこなうべきだという主張しゅちょうこった[4]

1900ねんパリ万国博覧会ばんこくはくらんかい直後ちょくごから装飾そうしょく芸術げいじゅつ博覧はくらんかい計画けいかくはあったものの、装飾そうしょく芸術げいじゅつのありかためぐってデザイナー同士どうし対立たいりつや、大量たいりょう生産せいさんおこな商工しょうこう業者ぎょうしゃとデザイナーとの対立たいりつこり博覧はくらんかい方針ほうしんさだまらず、だいいち世界せかい大戦たいせん勃発ぼっぱつもあって博覧はくらんかい延期えんきとなり、戦後せんご1925ねんになりようやく開催かいさいされた。展示てんじは「建築けんちく」「家具かぐ調度ちょうど」「衣装いしょう装身具そうしんぐ」のさん分野ぶんやけることが戦前せんぜんからまっていたが、戦後せんご1919ねんに、博覧はくらんかい計画けいかくにはデザイン教育きょういく中心ちゅうしんとする「教育きょういく」と、イルミネーション広告こうこくショーウィンドウなどを対象たいしょうとする「劇場げきじょうとおり・庭園ていえん芸術げいじゅつ」の分野ぶんやくわえられた[5]

消費しょうひ博覧はくらんかい[編集へんしゅう]

この博覧はくらんかい意図いとされたものは、富裕ふゆうそうけのいちてん制作せいさくである従来じゅうらい装飾そうしょく芸術げいじゅつと、現代げんだい大量たいりょう生産せいさん社会しゃかい消費しょうひ社会しゃかいとの調和ちょうわをとることであった。しかし実際じっさい出展しゅってんされた作品さくひんおおくは、富裕ふゆうそう対象たいしょうとする市場いちばけたいちてんぶつのファッショナブルで贅沢ぜいたく服飾ふくしょくひん室内しつない装飾そうしょくであった。またエッフェル塔えっふぇるとうのような記念きねんてき建築けんちく鉄道てつどうなどの都市とし基盤きばん整備せいび抜本ばっぽんてき都市とし改造かいぞう計画けいかくはこの博覧はくらんかいのためにおこなわれることはなかった。かわりに、会場かいじょう周辺しゅうへんエッフェル塔えっふぇるとうなどパリのランドマークやとおりにたいして装飾そうしょくてきイルミネーションほどこされ、既存きそん都市とし表面ひょうめん建築けんちくファサードはなやかにいろどった[6]

毛皮けがわ、グラス、香水こうすい貴金属ききんぞくなどをあつかうパリの高級こうきゅう婦人ふじんふくてん宝飾ほうしょくひんてんによるショーウィンドウをアレクサンドル3せいきょううえ多数たすう仮設かせつし、最先端さいせんたん店舗てんぽデザインを披露ひろうした「ブティックどおり」は、生産せいさんでなく消費しょうひ文脈ぶんみゃく作品さくひん展示てんじし、ショッピングと博覧はくらんかい融合ゆうごうさせたこの博覧はくらんかい象徴しょうちょうする存在そんざいである。はしよるになるとイルミネーションとセーヌがわにつくられた噴水ふんすいいろどられ、各国かっこくからの裕福ゆうふく観客かんきゃくはしうえのショーウィンドウにかざられたオブジェや高級こうきゅう服飾ふくしょくひん堪能たんのうして、はなやかに照明しょうめいされたパリ各地かくち高級こうきゅう地区ちくものをしてかえってった。この展覧てんらんかいで、フランスおよびパリはだいいち世界せかい大戦たいせんもなお装飾そうしょく芸術げいじゅつ世界せかい的中てきちゅう心地ごこちであることを誇示こじした[6][5]

かくパビリオン[編集へんしゅう]

会場かいじょうには参加さんか各国かっこくやフランスの様々さまざま企業きぎょう団体だんたいによる150ほどのパビリオンがったが、会場かいじょうの3ぶんの2はフランスの様々さまざまなパビリオンがめ、それぞれ過去かこ作品さくひんではなく、現代げんだいにデザインされ製作せいさくされた最新さいしん製品せいひん展示てんじされた。パリのよっつの大手おおてデパート(ルーブル百貨店ひゃっかてんフランス語ふらんすごばんボン・マルシェギャラリー・ラファイエットプランタン)がそれぞれしたパビリオン、フランス装飾そうしょく芸術げいじゅつ協会きょうかいが「フランス大使館たいしかん」をテーマにし架空かくうのフランス大使たいし公邸こうてい想定そうていして展示てんじしたパビリオン、著名ちょめい家具かぐデザイナーのジャック=エリック・リュールマン(Émile-Jacques Ruhlmann)らが架空かくう美術びじゅつコレクターのいえをテーマに手掛てがけた「コレクショヌール・パビリオン」などはおもなものである。これらのパビリオンには贅沢ぜいたくなめらかな素材そざい手作業てさぎょうひとひと仕上しあげた高級こうきゅう家具かぐ衣服いふくならんだ。

各国かっこくのパビリオンは、それぞれのくに国民こくみんてき伝統でんとう強調きょうちょうしながら、前衛ぜんえいてき芸術げいじゅつやデザインを反映はんえいさせた展示てんじおこなった。オーストリアかんウィーン分離ぶんりウィーン工房こうぼう中心ちゅうしんメンバーの一人ひとりであったヨーゼフ・ホフマンがけ[7]フレデリック・キースラー展示てんじ参加さんかしている。オランダかん植民しょくみんインドネシア工芸こうげいひん由来ゆらいする異国いこくてきなデザインを展示てんじし、のヨーロッパ諸国しょこく同様どうようポーランドもナショナリズムや国民こくみんてき伝統でんとう背景はいけい民俗みんぞく芸術げいじゅつもとづくデザインを数多かずおおした。ポーランドのグラフィック・デザイナーはこの博覧はくらんかい躍進やくしんし、LOTポーランド航空こうくう現在げんざい使用しようするロゴを1929ねんにデザインしたタデウシュ・グロノフスキ(Tadeusz Gronowski)も受賞じゅしょうしている。

フランスがこの博覧はくらんかいおおきな存在そんざいかんしめしたことには、ドイツアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく不在ふざいがある。きゅう敵国てきこくドイツはこの博覧はくらんかい招待しょうたいされず、招待しょうたい通知つうちとどいた時期じきにはすでに準備じゅんびわず不参加ふさんかとなった。だいいち世界せかい大戦たいせん世界一せかいいち大国たいこくとなりつつあったアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく参加さんか辞退じたいした。

エスプリ・ヌーヴォーかんとソビエトかん[編集へんしゅう]

ル・コルビュジエ設計せっけいのエスプリ・ヌーヴォー・パヴィリオン
コンスタンチン・メーリニコフ設計せっけいソ連それんパヴィリオン

この展覧てんらんかい異彩いさいはなったのは、装飾そうしょくてきとはがた[8]モダニストであるル・コルビュジエがけたエスプリ・ヌーヴォー・パビリオンと、構成こうせい主義しゅぎしゃコンスタンチン・メーリニコフ設計せっけいしたソビエト連邦れんぽうソビエト・パビリオンであった。これらのかんにも家具かぐ絵画かいが展示てんじされていたが、建物たてもの自体じたい展示てんじひんもより簡素かんそでより前衛ぜんえいてきであった。コルビュジエとメーリニコフの装飾そうしょくはいした建築けんちくは、批判ひはん絶賛ぜっさん同時どうじびた。批判ひはんこえは、これらの建物たてものがリュールマンの「コレクショヌールかん」や装飾そうしょく芸術げいじゅつ協会きょうかいの「フランス大使館たいしかん」などとくらべ、あまりにも「むきし」であることに集中しゅうちゅうした[9]

コルビュジエのエスプリ・ヌーヴォー・パビリオンはしろはこがた建物たてもので、壁面へきめんにはおおきなガラスまど四角しかくい「あな」があった。なかにはおおきなまどのあるしろけの居間いま寝室しんしつ台所だいどころなどがあり、「あな」は居間いま連続れんぞくしてもうけられた、おな屋根やねしたにあるはん屋外おくがいのテラスをそとから姿すがただった。装飾そうしょくはなく幾何きかがくてき形状けいじょうしかもちいられていないが、そのぶん建物たてものそとからさい凹凸おうとつ内部ないぶ空間くうかん多様たようさで表情ひょうじょうあたえられていた[10]。このパビリオンはモダニズム建築けんちく簡素かんそさだけでなく、コルビュジエのとなえる幅広はばひろ思想しそう理論りろんがこのパビリオンに結集けっしゅうしていたことが今日きょうでも注目ちゅうもくされる。「エスプリ・ヌーヴォー」(「しん思潮しちょう」)はかれ1920ねん創刊そうかん建築けんちく思想しそうかんする論文ろんぶん掲載けいさいした雑誌ざっしである(これらの論文ろんぶんは1923ねん著書ちょしょ建築けんちくをめざして』へとまとめられた)。館内かんないでは「ヴォアザン計画けいかく」(Plan Voisin)が展示てんじされた。フランスの先駆せんくてき飛行ひこうガブリエル・ヴォアザンをとった[8]この計画けいかくは、同一どういつかたちをしたたかさ200mのガラス張がらすばりの摩天楼まてんろうぐんと、低層ていそう長方形ちょうほうけいのアパートが規則正きそくただしくならまちみにより、建物たてもの密集みっしゅうしたパリのセーヌがわ右岸うがん一帯いったい市街地しがいちえるという都市とし計画けいかくであった[11]のちに「かがや都市とし」へとつながったこの計画けいかくは、パリでは実現じつげんすることはなかったものの建築けんちくかいおおきな影響えいきょうあたえた。またこのパビリオン自体じたい一戸建いっこだてを構想こうそうしたものではなく、もとはかれが1922ねん発表はっぴょうした集合しゅうごう住宅じゅうたく「イムープルヴィラ」のいち単位たんいぶんであり、これとおなじものを多数たすうよこならべてよんだんみ、いちまち区分くぶんのアパートを構成こうせいする計画けいかくだった[10]。このパビリオンは、かれのよりおおきな都市とし計画けいかくなかの、アパートのいち単位たんいぶんだけが実現じつげんしたものである[12]

コンスタンチン・メーリニコフにより設計せっけいされたソビエト・パビリオンは、アレクサンドル・ロトチェンコ設計せっけいした「労働ろうどうしゃクラブ」とならび、ロシア構成こうせい主義しゅぎ建築けんちく代表だいひょうれいひとつとなった[13]。メーリニコフのソビエト・パビリオンはこの博覧はくらんかいでグランプリを獲得かくとくした。その、ソビエトぜいではヴァディム・メラー(Vadym Meller)の舞台ぶたい美術びじゅつきんメダルにかがやき、ヴフテマス(Vkhutemas、国立こくりつ高等こうとう美術びじゅつ工芸こうげい工房こうぼう)にぞくする学生がくせい作品さくひんもいくつかのしょうける[7]躍進やくしんせた。

日本にっぽんへの影響えいきょう[編集へんしゅう]

日本にっぽんパヴィリオン

日本にっぽんも、欧州おうしゅう列強れっきょう中心ちゅうしん外国がいこくパビリオンのなか唯一ゆいいつのアジアぜいとして和風わふうパビリオンをした。日本にっぽん関東大震災かんとうだいしんさい直後ちょくご復興ふっこう負担ふたんおもくのしかかっていたが、当時とうじ国産こくさんひん貿易ぼうえき不振ふしん打開だかい美術びじゅつ工芸こうげいひん輸出ゆしゅつ促進そくしんするため出展しゅってん決意けついした。日本にっぽん独自どくじパビリオンの建設けんせつおこなわない予定よていだったが、アメリカの出展しゅってん辞退じたいけたフランスのはたらけでアメリカかん予定よていだったいち等地とうち確保かくほした[14]

一方いっぽう国際こくさい審査しんさいんとして博覧はくらんかい招待しょうたいされていた津田つだ信夫しのぶ日本にっぽん展示てんじ作品さくひん展示てんじ方針ほうしん批判ひはんしている。日本にっぽんのデザインの非対称ひたいしょうせい大胆だいたんさがアール・デコにおおきな影響えいきょうあたえていた一方いっぽうで、日本にっぽんかんせいくらいんふう桃山ももやまふう緻密ちみつ精巧せいこうな、装飾そうしょく過多かた工芸こうげいひん出品しゅっぴんしたため来館らいかんしゃ評価ひょうかたかくなかった。またかくパビリオンがモデルルームふう展示てんじおこない、家具かぐ装飾そうしょくひん使つかってテーマに沿った一体いったい空間くうかん構成こうせいしていたなかで、作品さくひん雑多ざった順序じゅんじょ漫然まんぜん陳列ちんれつした日本にっぽんパビリオンの展示てんじおおきく見劣みおとりした。津田つだ信夫しのぶは、当時とうじ日本にっぽん作品さくひん技術ぎじゅつてきにはすぐれているにもかかわらず、デザインは懐古かいこ主義しゅぎてき停滞ていたい現代げんだい潮流ちょうりゅうから完全かんぜんのこされ、関係かんけいしゃ認識にんしきあまいことを批判ひはんした[15]

かれ帰国きこくわか工芸こうげいたちに発破はっぱをかけ、現代げんだいという時代じだい意識いしきして制作せいさくすることの必要ひつようせい強調きょうちょうした。1920年代ねんだい後半こうはんには日本にっぽんでも幾何きかがくてき意匠いしょう機械きかい時代じだいれた工芸こうげい作品さくひんが「構成こうせい」とばれ席巻せっけんすることになる。当時とうじ日本にっぽん急速きゅうそく産業さんぎょう関東大震災かんとうだいしんさい都市とし風景ふうけい激変げきへんしており、工芸こうげいたちは社会しゃかい背景はいけいちがうフランスのデザインをそのままれることには抵抗ていこうしたものの、あらたな都市とし風景ふうけいからかんったモダンな表現ひょうげんする手本てほんとしてアール・デコをかした[15]

にわ展示てんじ[編集へんしゅう]

1925ねん博覧はくらんかいでは装飾そうしょく美術びじゅつてきにわなど、ロベール・マレ=ステヴァンスガブリエル・ゲヴレキアンヴェラ兄弟きょうだいらが敷地しきちたいする表現ひょうげんをコンクリートやペルシャしきパラダイスガーデンで表出ひょうしゅつさせた。ゲヴレキアンのみずひかりにわは、デザインてきにも非常ひじょう際立きわだったもので、会場かいじょう中央ちゅうおう遊歩道ゆうほどうせっする三角形さんかっけい敷地しきちまれたそのにわは、その敷地しきち三角形さんかっけい主要しゅようなモチーフとしている。マレ=ステヴァンスのにわとちょうど敷地しきちたいになる位置いち、エバリ・ド・エスプラナードに沿ちいさな三角形さんかっけい敷地しきち位置いちした。ここに草花くさばなとガラスをもちいて、タブロージャルダンの傑作けっさくした。かれのいう絵画かいがてき模倣もほうから影響えいきょうされた同時どうじ生起せいき三角形さんかっけい幾何きかがくに、芝生しばふ斜面しゃめんいろあざやかな整然せいぜんはままりんでいる。これは回遊かいゆうにわではなく鑑賞かんしょうにわであり、傾斜けいしゃする花壇かだん形成けいせいする三角形さんかっけいのモチーフは分割ぶんかつされたいけやガラスのすりから実際じっさい視界しかいまですべてにみとめられる。さんだんかさなるプールのそこには、ロバート・デロネイのにより、あおしろあかえんえがかれ、おおきなハーレクイーンのはな模様もようは、除虫菊じょちゅうぎく朱色しゅいろとアジェラタムのあお色彩しきさい対比たいひつくす。このにわつくす2.5次元じげん空間くうかんにおいて、時間じかん運動うんどう多面体ためんたい硝子がらすだま回転かいてん噴水ふんすい補色ほしょく関係かんけいにあるいろめんのもたらす繊細せんさい視覚しかくてきらめきによってあらわれてくる。この幾何きかがく色彩しきさい作品さくひんは、ねんのノエールのノエイユてい三角形さんかっけいにわにおいてさらに探求たんきゅうされることになる。

近代きんだい庭園ていえん重要じゅうよう事例じれいはこの博覧はくらんかい以前いぜん以後いごにも制作せいさくされているが、この博覧はくらんかい無数むすう庭園ていえん関連かんれん出版しゅっぱんぶつあらわれ、庭園ていえんのデザイン領域りょういき重要じゅうよう展開てんかいあたえた。そのマレ=ステヴァンスらとともにこうした作品さくひん近代きんだいのアバンギャルドなジャルダン、レローズルージュとして脚光きゃっこうび、以降いこう注目ちゅうもくをうけた3つのキュビズムてき庭園ていえんはこうして、記憶きおくなかまんにんにとどまることとなる。

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 「パリ、1925現代げんだい産業さんぎょう装飾そうしょく芸術げいじゅつ国際こくさい博覧はくらんかいとルヴュー・ネーグル」、天野あまの知香ちか、「アール・デコてん - きらめくモダンのゆめ」カタログ p116-117、2005ねん読売新聞よみうりしんぶん
  2. ^ Theodore Menten, The Art Deco Style in Household Objects, Architecture, Sculpture, Graphics, Jewelry, Courier Dover, 1972, ISBN 048622824X
  3. ^ ルネ・ラリックみずからのパビリオンのまえ設置せっちしたクリスタルガラスせい噴水ふんすいはそのもっとも顕著けんちょれいである。
  4. ^ 「『アール・デコ』の位相いそう - 装飾そうしょく芸術げいじゅつ/ブラック・デコ/モダン・ガール」、天野あまの知香ちか前掲ぜんけいしょp15-
  5. ^ a b 「アール・デコと商業しょうぎょう建築けんちく商業しょうぎょう展示てんじ」、千葉ちば真智子まちこ前掲ぜんけいしょp15-
  6. ^ a b 「パリ1925 消費しょうひのモダニティー」、Tag Gronberg、前掲ぜんけいしょp29-
  7. ^ a b Penelope Curtis, Sculpture 1900-1945: After Rodin, Oxford University Press, 1999.
  8. ^ a b Dr Harry Francis Mallgrave, Modern Architectural Theory: A Historical Survey, 1673-1968, Cambridge University Press, 2005, page 258, ISBN 0521793068
  9. ^ Catherine Cooke, Russian Avant-Garde: Theories of Art, Architecture, and the City, Academy Editions, 1995, Page 143.
  10. ^ a b 「ル・コルビュジエをる」 越後えちごとう研一けんいち中公新書ちゅうこうしんしょ、2007ねんISBN 978-4-12-101909-7
  11. ^ Anthony Sutcliffe, Paris: An Architectural History, Yale University Press, 1993, Page 143, ISBN 0300068867
  12. ^ Christopher Green, Art in France, 1900-1940, Yale University Press, 2000, ISBN 0300099088
  13. ^ MoMA | exhibitions | Rodchenko | Worker's Club 1925
  14. ^ 東京とうきょう庭園ていえん美術館びじゅつかん:1925アール・デコはく パヴィリオン訪問ほうもん - だい14かい日本にっぽんかん』(最終さいしゅうかい
  15. ^ a b 「アール・デコと日本にっぽん工芸こうげい 構成こうせいばれた工芸こうげいたち」 木田きだ拓也たくや前掲ぜんけいしょ、p47-55

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]