会期 かいき 中 ちゅう に行 おこな われたシトロエン 提供 ていきょう のエッフェル塔 えっふぇるとう のイルミネーション
現代 げんだい 産業 さんぎょう 装飾 そうしょく 芸術 げいじゅつ 国際 こくさい 博覧 はくらん 会 かい (げんだい・さんぎょう・そうしょくげいじゅつ・こくさいはくらんかい、Exposition internationale des arts décoratifs et industriels modernes)とは、1925年 ねん 4月 がつ 28日 にち から11月8日 にち (当初 とうしょ 予定 よてい では10月 がつ 末 まつ )までフランス のパリ で開催 かいさい された国際 こくさい 博覧 はくらん 会 かい である。現代 げんだい 装飾 そうしょく 美術 びじゅつ 産業 さんぎょう 美術 びじゅつ 国際 こくさい 博覧 はくらん 会 かい (げんだい・そうしょくびじゅつ・さんぎょうびじゅつ・こくさいはくらんかい)とも。パリで開催 かいさい された国際 こくさい 博覧 はくらん 会 かい では6回 かい 目 め となる。
セーヌ川 がわ 左岸 さがん のアンヴァリッド の前 まえ に広 ひろ がる広場 ひろば (レスプラナード・デ・ザンヴァリッド)から、アレクサンドル3世 せい 橋 きょう を経 へ て、セーヌ川 がわ 右岸 うがん のグラン・パレ およびプティ・パレ までの間 あいだ が会場 かいじょう となり、パビリオンが林立 りんりつ した。開会 かいかい 式 しき は4月 がつ 28日 にち に開 ひら かれ、閉会 へいかい の10月 がつ 末 まつ までに1,600万 まん 人 にん 以上 いじょう が訪 おとず れ、会期 かいき は11月8日 にち まで延長 えんちょう されている[1] 。
アール・デコ博覧 はくらん 会 かい [ 編集 へんしゅう ]
パビリオンが立 た ち並 なら ぶ会場 かいじょう 風景 ふうけい
会場 かいじょう 風景 ふうけい
この博覧 はくらん 会 かい にはアール・デコ博覧 はくらん 会 かい との略称 りゃくしょう もある。これは、博覧 はくらん 会 かい の名前 なまえ のうち「Arts Décoratifs」(装飾 そうしょく 芸術 げいじゅつ )の部分 ぶぶん の短縮 たんしゅく からきている[2] 。この博覧 はくらん 会 かい で出品 しゅっぴん された服飾 ふくしょく 品 ひん や建築 けんちく にみられる、同 どう 時代 じだい の精巧 せいこう で官能 かんのう 的 てき な装飾 そうしょく 芸術 げいじゅつ やデザインをい表 いあらわ すために、アール・デコ (Art Deco)という言葉 ことば が登場 とうじょう した。
この博覧 はくらん 会 かい で出品 しゅっぴん された装飾 そうしょく 芸術 げいじゅつ 作品 さくひん は、古代 こだい エジプト など古典 こてん 古代 こだい の芸術 げいじゅつ 、欧州 おうしゅう 各国 かっこく の植民 しょくみん 地 ち となったアジア・アフリカ地域 ちいき の装飾 そうしょく 、アステカ の芸術 げいじゅつ 、日本 にっぽん の装飾 そうしょく 文化 ぶんか などから特有 とくゆう のモチーフや大胆 だいたん で幾何 きか 学 がく 的 てき な形象 けいしょう を取 と り入 い れて異国 いこく 性 せい や官能 かんのう 性 せい を表現 ひょうげん した。さらに自動車 じどうしゃ ・豪華 ごうか 客船 きゃくせん ・飛行船 ひこうせん といった機械 きかい や、ラジオ ・映画 えいが という新 あら たなメディア の普及 ふきゅう により生活 せいかつ が激変 げきへん した、狂乱 きょうらん の20年代 ねんだい (années folles)と呼 よ ばれる時期 じき のフランス社会 しゃかい をも反映 はんえい していた。
純粋 じゅんすい 美術 びじゅつ ・応用 おうよう 美術 びじゅつ ・建築 けんちく の分野 ぶんや で次々 つぎつぎ と登場 とうじょう していた国際 こくさい 的 てき な前衛 ぜんえい 様式 ようしき (例 たと えばキュビズム )や新 あら たなアイデアもアール・デコには反映 はんえい した。一方 いっぽう で国際 こくさい 的 てき 前衛 ぜんえい 様式 ようしき に対 たい する反動 はんどう として起 お こった、古典 こてん 主義 しゅぎ への回帰 かいき や、ヨーロッパ各国 かっこく の国民 こくみん 的 てき 伝統 でんとう 様式 ようしき への回帰 かいき も反映 はんえい している。
流 ながれ 線形 せんけい を使 つか ったストリームライン・モダン 、装飾 そうしょく 的 てき キュビズム に端 はし を発 はっ する水晶 すいしょう や結晶 けっしょう のような彫 ほ 面 めん や構造 こうぞう 、機械 きかい の速度 そくど を思 おも わせる放射状 ほうしゃじょう の直線 ちょくせん 、大胆 だいたん に様式 ようしき 化 か された噴水 ふんすい [3] や稲妻 いなづま の模様 もよう 、古代 こだい エジプトやアステカのモチーフ、繰 く り返 かえ される幾何 きか 学 がく 的 てき な形態 けいたい などはこの時代 じだい の代表 だいひょう 的 てき なデザインモチーフである。
ルネ・ラリック の水晶 すいしょう の噴水 ふんすい
展覧 てんらん 会 かい の背景 はいけい と展示 てんじ [ 編集 へんしゅう ]
20世紀 せいき 初頭 しょとう のフランスでは、近隣 きんりん 諸国 しょこく でドイツ工作 こうさく 連盟 れんめい に代表 だいひょう されるようなデザイン教育 きょういく の組織 そしき 化 か や工業 こうぎょう の大量 たいりょう 生産 せいさん 化 か に応 おう じたデザインの開発 かいはつ が進行 しんこう する一方 いっぽう で、フランスの産業 さんぎょう デザイン が取 と り残 のこ されることに対 たい し危機 きき 感 かん が高 たか まっていた。そこで装飾 そうしょく 芸術 げいじゅつ の振興 しんこう のため、またフランス製品 せいひん の独自 どくじ 性 せい や優位 ゆうい 性 せい を内外 ないがい に示 しめ すため、装飾 そうしょく 芸術 げいじゅつ の国際 こくさい 博覧 はくらん 会 かい を行 おこな うべきだという主張 しゅちょう が起 お こった[4] 。
1900年 ねん パリ万国博覧会 ばんこくはくらんかい 直後 ちょくご から装飾 そうしょく 芸術 げいじゅつ 博覧 はくらん 会 かい 計画 けいかく はあったものの、装飾 そうしょく 芸術 げいじゅつ のあり方 かた を巡 めぐ ってデザイナー同士 どうし の対立 たいりつ や、大量 たいりょう 生産 せいさん を行 おこな う商工 しょうこう 業者 ぎょうしゃ とデザイナーとの対立 たいりつ が起 お こり博覧 はくらん 会 かい の方針 ほうしん が定 さだ まらず、第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 勃発 ぼっぱつ もあって博覧 はくらん 会 かい は延期 えんき となり、戦後 せんご の1925年 ねん になりようやく開催 かいさい された。展示 てんじ は「建築 けんちく 」「家具 かぐ 調度 ちょうど 」「衣装 いしょう ・装身具 そうしんぐ 」の三 さん 分野 ぶんや に分 わ けることが戦前 せんぜん から決 き まっていたが、戦後 せんご の1919年 ねん に、博覧 はくらん 会 かい 計画 けいかく にはデザイン教育 きょういく を中心 ちゅうしん とする「教育 きょういく 」と、イルミネーション や広告 こうこく やショーウィンドウ などを対象 たいしょう とする「劇場 げきじょう ・通 とお り・庭園 ていえん の芸術 げいじゅつ 」の分野 ぶんや が加 くわ えられた[5] 。
消費 しょうひ と博覧 はくらん 会 かい [ 編集 へんしゅう ]
この博覧 はくらん 会 かい で意図 いと されたものは、富裕 ふゆう 層 そう 向 む けの一 いち 点 てん 制作 せいさく である従来 じゅうらい の装飾 そうしょく 芸術 げいじゅつ と、現代 げんだい の大量 たいりょう 生産 せいさん 社会 しゃかい や消費 しょうひ 社会 しゃかい との調和 ちょうわ をとることであった。しかし実際 じっさい に出展 しゅってん された作品 さくひん の多 おお くは、富裕 ふゆう 層 そう を対象 たいしょう とする市場 いちば に向 む けた一 いち 点 てん 物 ぶつ のファッショナブルで贅沢 ぜいたく な服飾 ふくしょく 品 ひん や室内 しつない 装飾 そうしょく であった。またエッフェル塔 えっふぇるとう のような記念 きねん 碑 ひ 的 てき 建築 けんちく や鉄道 てつどう などの都市 とし 基盤 きばん 整備 せいび 、抜本 ばっぽん 的 てき な都市 とし 改造 かいぞう 計画 けいかく はこの博覧 はくらん 会 かい のために行 おこな われることはなかった。代 かわ りに、会場 かいじょう 周辺 しゅうへん やエッフェル塔 えっふぇるとう などパリのランドマークや通 とお りに対 たい して装飾 そうしょく 的 てき なイルミネーション が施 ほどこ され、既存 きそん の都市 とし の表面 ひょうめん や建築 けんちく のファサード を華 はな やかに彩 いろど った[6] 。
毛皮 けがわ 、グラス、香水 こうすい 、貴金属 ききんぞく などを扱 あつか うパリの高級 こうきゅう な婦人 ふじん 服 ふく 店 てん や宝飾 ほうしょく 品 ひん 店 てん によるショーウィンドウをアレクサンドル3世 せい 橋 きょう の上 うえ に多数 たすう 仮設 かせつ し、最先端 さいせんたん の店舗 てんぽ デザインを披露 ひろう した「ブティック通 どお り」は、生産 せいさん でなく消費 しょうひ の文脈 ぶんみゃく で作品 さくひん を展示 てんじ し、ショッピングと博覧 はくらん 会 かい を融合 ゆうごう させたこの博覧 はくらん 会 かい を象徴 しょうちょう する存在 そんざい である。橋 はし は夜 よる になるとイルミネーションとセーヌ川 がわ につくられた噴水 ふんすい で彩 いろど られ、各国 かっこく からの裕福 ゆうふく な観客 かんきゃく は橋 はし の上 うえ のショーウィンドウに飾 かざ られたオブジェや高級 こうきゅう 服飾 ふくしょく 品 ひん を堪能 たんのう して、華 はな やかに照明 しょうめい されたパリ各地 かくち の高級 こうきゅう 地区 ちく で買 か い物 もの をして帰 かえ って行 い った。この展覧 てんらん 会 かい で、フランスおよびパリは第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご もなお装飾 そうしょく 芸術 げいじゅつ の世界 せかい 的中 てきちゅう 心地 ごこち であることを誇示 こじ した[6] [5] 。
会場 かいじょう には参加 さんか 各国 かっこく やフランスの様々 さまざま な企業 きぎょう ・団体 だんたい による150ほどのパビリオンが建 た ったが、会場 かいじょう の3分 ぶん の2はフランスの様々 さまざま なパビリオンが占 し め、それぞれ過去 かこ の作品 さくひん ではなく、現代 げんだい にデザインされ製作 せいさく された最新 さいしん の製品 せいひん が展示 てんじ された。パリの四 よっ つの大手 おおて デパート(ルーブル百貨店 ひゃっかてん (フランス語 ふらんすご 版 ばん ) 、ボン・マルシェ 、ギャラリー・ラファイエット 、プランタン )がそれぞれ出 だ したパビリオン、フランス装飾 そうしょく 芸術 げいじゅつ 家 か 協会 きょうかい が「フランス大使館 たいしかん 」をテーマにし架空 かくう のフランス大使 たいし 公邸 こうてい を想定 そうてい して展示 てんじ したパビリオン、著名 ちょめい な家具 かぐ デザイナーのジャック=エリック・リュールマン(Émile-Jacques Ruhlmann)らが架空 かくう の美術 びじゅつ コレクターの家 いえ をテーマに手掛 てが けた「コレクショヌール・パビリオン」などは主 おも なものである。これらのパビリオンには贅沢 ぜいたく で滑 なめ らかな素材 そざい を手作業 てさぎょう で一 ひと つ一 ひと つ仕上 しあ げた高級 こうきゅう な家具 かぐ や衣服 いふく が並 なら んだ。
各国 かっこく のパビリオンは、それぞれの国 くに の国民 こくみん 的 てき 伝統 でんとう を強調 きょうちょう しながら、前衛 ぜんえい 的 てき 芸術 げいじゅつ やデザインを反映 はんえい させた展示 てんじ を行 おこな った。オーストリア 館 かん はウィーン分離 ぶんり 派 は やウィーン工房 こうぼう の中心 ちゅうしん メンバーの一人 ひとり であったヨーゼフ・ホフマン が手 て がけ[7] 、フレデリック・キースラー が展示 てんじ に参加 さんか している。オランダ 館 かん は植民 しょくみん 地 ち インドネシア の工芸 こうげい 品 ひん に由来 ゆらい する異国 いこく 的 てき なデザインを展示 てんじ し、他 た のヨーロッパ諸国 しょこく 同様 どうよう ポーランド もナショナリズムや国民 こくみん 的 てき 伝統 でんとう を背景 はいけい に民俗 みんぞく 芸術 げいじゅつ に基 もと づくデザインを数多 かずおお く出 だ した。ポーランドのグラフィック・デザイナー はこの博覧 はくらん 会 かい で躍進 やくしん し、LOTポーランド航空 こうくう が現在 げんざい も使用 しよう するロゴを1929年 ねん にデザインしたタデウシュ・グロノフスキ(Tadeusz Gronowski)も受賞 じゅしょう している。
フランスがこの博覧 はくらん 会 かい で大 おお きな存在 そんざい 感 かん を示 しめ したことには、ドイツ とアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく の不在 ふざい がある。旧 きゅう 敵国 てきこく ドイツはこの博覧 はくらん 会 かい に招待 しょうたい されず、招待 しょうたい 通知 つうち が届 とど いた時期 じき にはすでに準備 じゅんび が間 ま に合 あ わず不参加 ふさんか となった。第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご 、世界一 せかいいち の大国 たいこく となりつつあったアメリカ合衆国 あめりかがっしゅうこく は参加 さんか を辞退 じたい した。
コレクショヌール・パヴィリオン
コレクショヌール・パヴィリオンの内装 ないそう
ギャラリー・ラファイエット・パヴィリオン
ポーランド・パヴィリオン
エスプリ・ヌーヴォー館 かん とソビエト館 かん [ 編集 へんしゅう ]
ル・コルビュジエ 設計 せっけい のエスプリ・ヌーヴォー・パヴィリオン
コンスタンチン・メーリニコフ 設計 せっけい のソ連 それん パヴィリオン
この展覧 てんらん 会 かい で異彩 いさい を放 はな ったのは、装飾 そうしょく 的 てき とは言 い い難 がた い[8] 、モダニスト であるル・コルビュジエ が手 て がけたエスプリ・ヌーヴォー・パビリオン と、構成 こうせい 主義 しゅぎ 者 しゃ のコンスタンチン・メーリニコフ が設計 せっけい したソビエト連邦 れんぽう のソビエト・パビリオン であった。これらの館 かん にも家具 かぐ や絵画 かいが は展示 てんじ されていたが、建物 たてもの 自体 じたい も展示 てんじ 品 ひん もより簡素 かんそ でより前衛 ぜんえい 的 てき であった。コルビュジエとメーリニコフの装飾 そうしょく を排 はい した建築 けんちく は、批判 ひはん と絶賛 ぜっさん を同時 どうじ に浴 あ びた。批判 ひはん の声 こえ は、これらの建物 たてもの がリュールマンの「コレクショヌール館 かん 」や装飾 そうしょく 芸術 げいじゅつ 家 か 協会 きょうかい の「フランス大使館 たいしかん 」などと比 くら べ、あまりにも「むき出 だ し」であることに集中 しゅうちゅう した[9] 。
コルビュジエのエスプリ・ヌーヴォー・パビリオンは白 しろ い箱 はこ 型 がた の建物 たてもの で、壁面 へきめん には大 おお きなガラス窓 まど と四角 しかく い「穴 あな 」があった。中 なか には大 おお きな窓 まど のある真 ま っ白 しろ な吹 ふ き抜 ぬ けの居間 いま や寝室 しんしつ 、台所 だいどころ などがあり、「穴 あな 」は居間 いま に連続 れんぞく して設 もう けられた、同 おな じ屋根 やね の下 した にある半 はん 屋外 おくがい のテラスを外 そと から見 み た姿 すがた だった。装飾 そうしょく はなく幾何 きか 学 がく 的 てき 形状 けいじょう しか用 もち いられていないが、その分 ぶん 建物 たてもの を外 そと から見 み た際 さい の凹凸 おうとつ や内部 ないぶ 空間 くうかん の多様 たよう さで表情 ひょうじょう が与 あた えられていた[10] 。このパビリオンはモダニズム 建築 けんちく の簡素 かんそ さだけでなく、コルビュジエの唱 とな える幅広 はばひろ い思想 しそう や理論 りろん がこのパビリオンに結集 けっしゅう していたことが今日 きょう でも注目 ちゅうもく される。「エスプリ・ヌーヴォー」(「新 しん 思潮 しちょう 」)は彼 かれ が1920年 ねん に創刊 そうかん し建築 けんちく 思想 しそう に関 かん する論文 ろんぶん を掲載 けいさい した雑誌 ざっし の名 な である(これらの論文 ろんぶん は1923年 ねん に著書 ちょしょ 『建築 けんちく をめざして 』へとまとめられた)。館内 かんない では「ヴォアザン計画 けいかく 」(Plan Voisin)が展示 てんじ された。フランスの先駆 せんく 的 てき な飛行 ひこう 家 か ガブリエル・ヴォアザン の名 な をとった[8] この計画 けいかく は、同一 どういつ の形 かたち をした高 たか さ200mのガラス張 がらすば りの摩天楼 まてんろう 群 ぐん と、低層 ていそう の長方形 ちょうほうけい のアパートが規則正 きそくただ しく並 なら ぶ街 まち 並 な みにより、建物 たてもの が密集 みっしゅう したパリのセーヌ川 がわ 右岸 うがん 一帯 いったい の市街地 しがいち を置 お き換 か えるという都市 とし 計画 けいかく であった[11] 。後 のち に「輝 かがや く都市 とし 」へとつながったこの計画 けいかく は、パリでは実現 じつげん することはなかったものの建築 けんちく 界 かい に大 おお きな影響 えいきょう を与 あた えた。またこのパビリオン自体 じたい も一戸建 いっこだ てを構想 こうそう したものではなく、もとは彼 かれ が1922年 ねん に発表 はっぴょう した集合 しゅうごう 住宅 じゅうたく 「イムープルヴィラ」の一 いち 単位 たんい 分 ぶん であり、これと同 おな じものを多数 たすう 横 よこ に並 なら べて四 よん 段 だん に積 つ み、一 いち 街 まち 区分 くぶん のアパートを構成 こうせい する計画 けいかく だった[10] 。このパビリオンは、彼 かれ のより大 おお きな都市 とし 計画 けいかく の中 なか の、アパートの一 いち 単位 たんい 分 ぶん だけが実現 じつげん したものである[12] 。
コンスタンチン・メーリニコフにより設計 せっけい されたソビエト・パビリオンは、アレクサンドル・ロトチェンコ の設計 せっけい した「労働 ろうどう 者 しゃ クラブ」と並 なら び、ロシア構成 こうせい 主義 しゅぎ 建築 けんちく の代表 だいひょう 例 れい の一 ひと つとなった[13] 。メーリニコフのソビエト・パビリオンはこの博覧 はくらん 会 かい でグランプリを獲得 かくとく した。その他 た 、ソビエト勢 ぜい ではヴァディム・メラー(Vadym Meller)の舞台 ぶたい 美術 びじゅつ が金 きん メダルに輝 かがや き、ヴフテマス (Vkhutemas、国立 こくりつ 高等 こうとう 美術 びじゅつ 工芸 こうげい 工房 こうぼう )に属 ぞく する学生 がくせい の作品 さくひん もいくつかの賞 しょう を受 う ける[7] 躍進 やくしん を見 み せた。
日本 にっぽん への影響 えいきょう [ 編集 へんしゅう ]
日本 にっぽん パヴィリオン
日本 にっぽん も、欧州 おうしゅう 列強 れっきょう 中心 ちゅうしん の外国 がいこく パビリオンの中 なか で唯一 ゆいいつ のアジア勢 ぜい として和風 わふう パビリオンを出 だ した。日本 にっぽん は関東大震災 かんとうだいしんさい 直後 ちょくご で復興 ふっこう の負担 ふたん が重 おも くのしかかっていたが、当時 とうじ の国産 こくさん 品 ひん 貿易 ぼうえき 不振 ふしん を打開 だかい し美術 びじゅつ 工芸 こうげい 品 ひん の輸出 ゆしゅつ を促進 そくしん するため出展 しゅってん を決意 けつい した。日本 にっぽん は独自 どくじ パビリオンの建設 けんせつ は行 おこな わない予定 よてい だったが、アメリカの出展 しゅってん 辞退 じたい を受 う けたフランスの働 はたら き掛 か けでアメリカ館 かん の予定 よてい 地 ち だった一 いち 等地 とうち を確保 かくほ した[14] 。
一方 いっぽう 、国際 こくさい 審査 しんさ 員 いん として博覧 はくらん 会 かい に招待 しょうたい されていた津田 つだ 信夫 しのぶ は日本 にっぽん の展示 てんじ 作品 さくひん や展示 てんじ 方針 ほうしん を批判 ひはん している。日本 にっぽん のデザインの非対称 ひたいしょう 性 せい や大胆 だいたん さがアール・デコに大 おお きな影響 えいきょう を与 あた えていた一方 いっぽう で、日本 にっぽん 館 かん は正 せい 倉 くら 院 いん 風 ふう や桃山 ももやま 風 ふう の緻密 ちみつ で精巧 せいこう な、装飾 そうしょく 過多 かた な工芸 こうげい 品 ひん を出品 しゅっぴん したため来館 らいかん 者 しゃ の評価 ひょうか は高 たか くなかった。また各 かく パビリオンがモデルルーム風 ふう の展示 てんじ を行 おこな い、家具 かぐ や装飾 そうしょく 品 ひん を使 つか ってテーマに沿 そ った一体 いったい の空間 くうかん を構成 こうせい していた中 なか で、作品 さくひん を雑多 ざった な順序 じゅんじょ で漫然 まんぜん と陳列 ちんれつ した日本 にっぽん パビリオンの展示 てんじ は大 おお きく見劣 みおと りした。津田 つだ 信夫 しのぶ は、当時 とうじ の日本 にっぽん の作品 さくひん は技術 ぎじゅつ 的 てき には優 すぐ れているにもかかわらず、デザインは懐古 かいこ 主義 しゅぎ 的 てき で停滞 ていたい し現代 げんだい の潮流 ちょうりゅう から完全 かんぜん に取 と り残 のこ され、関係 かんけい 者 しゃ の認識 にんしき も甘 あま いことを批判 ひはん した[15] 。
彼 かれ は帰国 きこく 後 ご 、若 わか い工芸 こうげい 家 か たちに発破 はっぱ をかけ、現代 げんだい という時代 じだい を意識 いしき して制作 せいさく することの必要 ひつよう 性 せい を強調 きょうちょう した。1920年代 ねんだい 後半 こうはん には日本 にっぽん でも幾何 きか 学 がく 的 てき 意匠 いしょう や機械 きかい 時代 じだい の美 び を取 と り入 い れた工芸 こうげい 作品 さくひん が「構成 こうせい 派 は 」と呼 よ ばれ席巻 せっけん することになる。当時 とうじ の日本 にっぽん は急速 きゅうそく な産業 さんぎょう 化 か や関東大震災 かんとうだいしんさい で都市 とし 風景 ふうけい が激変 げきへん しており、工芸 こうげい 家 か たちは社会 しゃかい 背景 はいけい が違 ちが うフランスのデザインをそのまま受 う け入 い れることには抵抗 ていこう したものの、新 あら たな都市 とし 風景 ふうけい から感 かん じ取 と ったモダンな美 び を表現 ひょうげん する手本 てほん としてアール・デコを生 い かした[15] 。
1925年 ねん の博覧 はくらん 会 かい では装飾 そうしょく 美術 びじゅつ 的 てき な庭 にわ など、ロベール・マレ=ステヴァンス やガブリエル・ゲヴレキアン 、ヴェラ兄弟 きょうだい らが敷地 しきち に対 たい する表現 ひょうげん をコンクリートやペルシャ式 しき パラダイスガーデンで表出 ひょうしゅつ させた。ゲヴレキアンの水 みず と光 ひかり の庭 にわ は、デザイン的 てき にも非常 ひじょう に際立 きわだ ったもので、会場 かいじょう の中央 ちゅうおう 遊歩道 ゆうほどう に接 せっ する三角形 さんかっけい の敷地 しきち に押 お し込 こ まれたその庭 にわ は、その敷地 しきち の三角形 さんかっけい を主要 しゅよう なモチーフとしている。マレ=ステヴァンスの庭 にわ とちょうど敷地 しきち が対 たい になる位置 いち 、エバリ・ド・エスプラナードに沿 そ う小 ちい さな三角形 さんかっけい の敷地 しきち に位置 いち した。ここに草花 くさばな とガラスを用 もち いて、タブロージャルダンの傑作 けっさく を生 う み出 だ した。彼 かれ のいう絵画 かいが 的 てき 模倣 もほう から影響 えいきょう された同時 どうじ 生起 せいき の三角形 さんかっけい が織 お り成 な す幾何 きか 学 がく に、芝生 しばふ 斜面 しゃめん と色 いろ 鮮 あざ やかな地 ち 被 ひ が整然 せいぜん と嵌 はま まり込 こ んでいる。これは回遊 かいゆう の庭 にわ ではなく鑑賞 かんしょう の庭 にわ であり、傾斜 けいしゃ する花壇 かだん を形成 けいせい する三角形 さんかっけい のモチーフは分割 ぶんかつ された池 いけ やガラスの手 て すりから実際 じっさい の視界 しかい まですべてに認 みと められる。三 さん 段 だん に積 つ み重 かさ なるプールの底 そこ には、ロバート・デロネイの手 て により、青 あお 、白 しろ 、赤 あか の円 えん が描 えが かれ、大 おお きなハーレクイーンの花 はな 模様 もよう は、除虫菊 じょちゅうぎく の朱色 しゅいろ とアジェラタムの青 あお が色彩 しきさい 対比 たいひ を作 つく り出 だ す。この庭 にわ の作 つく り出 だ す2.5次元 じげん 空間 くうかん において、時間 じかん と運動 うんどう は多面体 ためんたい の硝子 がらす 球 だま の回転 かいてん や噴水 ふんすい 、補色 ほしょく 関係 かんけい にある色 いろ 面 めん のもたらす繊細 せんさい な視覚 しかく 的 てき 揺 ゆ らめきによって現 あらわ れてくる。この幾何 きか 学 がく と色彩 しきさい の作品 さくひん は、二 に 年 ねん 後 ご のノエールのノエイユ邸 てい の三角形 さんかっけい の庭 にわ においてさらに探求 たんきゅう されることになる。
近代 きんだい 庭園 ていえん の重要 じゅうよう 事例 じれい はこの博覧 はくらん 会 かい 以前 いぜん 以後 いご にも制作 せいさく されているが、この博覧 はくらん 会 かい 後 ご 無数 むすう の庭園 ていえん 関連 かんれん の出版 しゅっぱん 物 ぶつ が現 あらわ れ、庭園 ていえん のデザイン領域 りょういき に重要 じゅうよう な展開 てんかい を与 あた えた。その後 ご マレ=ステヴァンスらとともにこうした作品 さくひん が近代 きんだい のアバンギャルドなジャルダン、レローズルージュとして脚光 きゃっこう を浴 あ び、以降 いこう 注目 ちゅうもく をうけた3つのキュビズム的 てき 庭園 ていえん はこうして、記憶 きおく の中 なか に万 まん 人 にん にとどまることとなる。
^ 「パリ、1925現代 げんだい 産業 さんぎょう 装飾 そうしょく 芸術 げいじゅつ 国際 こくさい 博覧 はくらん 会 かい とルヴュー・ネーグル」、天野 あまの 知香 ちか 、「アール・デコ展 てん - きらめくモダンの夢 ゆめ 」カタログ p116-117、2005年 ねん 、読売新聞 よみうりしんぶん
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