近代 きんだい 化 か 改装 かいそう 後 ご の「メスディイェ」。
艦 かん 歴 れき
発注 はっちゅう
テムズ造船 ぞうせん 所 しょ
起工 きこう
1873年 ねん
進水 しんすい
1874年 ねん 10月28日 にち
就役 しゅうえき
1875年 ねん 12月
退役 たいえき
その後 ご
1914年 ねん 12月13日 にち 戦没 せんぼつ 。
除籍 じょせき
性能 せいのう 諸 しょ 元 もと (竣工 しゅんこう 時 じ )
排水 はいすい 量 りょう
常備 じょうび :8,940トン 満載 まんさい :9,120トン
全長 ぜんちょう
101.3m
全幅 ぜんぷく
17.98m
吃水 きっすい
7.8m(満載 まんさい 時 じ )
機関 きかん
テムズ式 しき 石炭 せきたん 専 せん 焼 しょう 角 すみ 缶 かん 8基 き +テムズ式 しき 横 よこ 置 お き型 がた 一 いち 段 だん 膨張 ぼうちょう 式 しき 2気筒 きとう レシプロ機関 きかん 1基 き 1軸 じく 推進 すいしん
最大 さいだい 出力 しゅつりょく
6,580hp
最大 さいだい 速力 そくりょく
13.7ノット (機関 きかん 航行 こうこう 時 じ )
航続 こうぞく 距離 きょり
-ノット/-海 うみ 里 さと (石炭 せきたん :600トン)
乗員 じょういん
630名 めい
兵 へい 装 そう
1861年 ねん 型 がた Marks II 25.4cm(14.5口径 こうけい )単 たん 装 そう 砲 ほう 12基 き Marks III 17.8cm(16口径 こうけい )単 たん 装 そう 砲 ほう 3基 き 9.5cm(20ポンド)単 たん 装 そう 砲 ほう 6基 き (1891年 ねん に15cm(35口径 こうけい )単 たん 装 そう 砲 ほう 3基 き に換 かわ 装 そう )
装甲 そうこう (鉄製 てつせい )
舷側 げんそく :102~254~305mm(主 しゅ 水面 すいめん 部 ぶ )甲板 かんぱん :なし砲 ほう 郭 かく 部 ぶ :305mm(平面 へいめん 部 ぶ )、254mm(傾斜 けいしゃ 部 ぶ ) ボックスシタデル:254mm(最大 さいだい 厚 あつし )司令塔 しれいとう :203mm(側 がわ 盾 たて )
性能 せいのう 諸 しょ 元 もと (1903年 ねん 近代 きんだい 化 か 改装 かいそう 後 ご )
排水 はいすい 量 りょう
常備 じょうび :9,190トン 満載 まんさい :9,710トン
全長 ぜんちょう
102.4m
全幅 ぜんぷく
18m
吃水 きっすい
7.9m
機関 きかん
ニクローズ式 しき 石炭 せきたん 専 せん 焼 しょう 水 みず 管 かん 缶 かん 16基 き +アンサルド式 しき 三 さん 段 だん 膨張 ぼうちょう 型 がた 四 よん 気筒 きとう レシプロ機関 きかん 2基 き 2軸 じく 推進 すいしん
最大 さいだい 出力 しゅつりょく
公 おおやけ 試 ためし :8,303hp常用 じょうよう :7,431hp
最大 さいだい 速力 そくりょく
公 おおやけ 試 ためし :18.2ノット常用 じょうよう :17ノット
航続 こうぞく 距離 きょり
-ノット/-海里 かいり (石炭 せきたん :-トン)
乗員 じょういん
700名 めい
兵 へい 装 そう
23.4cm(40口径 こうけい )単 たん 装 そう 砲 ほう 2基 き (未 み 搭載 とうさい ) 1893年 ねん 型 がた Marks VIII 15.2cm(45口径 こうけい )単 たん 装 そう 速射 そくしゃ 砲 ほう 12基 き 1888年 ねん 型 がた 7.62cm(40口径 こうけい )単 たん 装 そう 速射 そくしゃ 砲 ほう 14基 き 5.7cm(43口径 こうけい )単 たん 装 そう 速射 そくしゃ 砲 ほう 10基 き 1888年 ねん 型 がた 4.7cm(43口径 こうけい )単 たん 装 そう 速射 そくしゃ 砲 ほう 2基 き
装甲 そうこう
舷側 げんそく :254mm(水線 すいせん 最 さい 厚 あつ 部 ぶ )、152~178mm(水線 すいせん 末 まつ 端 はし 部 ぶ )甲板 かんぱん :25.4mm(平坦 へいたん 部 ぶ )、76mm(傾斜 けいしゃ 部 ぶ )主砲 しゅほう 塔 とう :280mm(最 さい 厚 あつ 部 ぶ )バーベット 部 ぶ :203mm(最 さい 厚 あつ 部 ぶ )副 ふく 砲 ほう 砲 ほう 郭 かく 部 ぶ :254mm(最 さい 厚 あつ 部 ぶ )司令塔 しれいとう :305.mm(最 さい 厚 あつ 部 ぶ )
メスディイェ (Mesudiye ) は、オスマン帝国 ていこく 海軍 かいぐん の装甲 そうこう 艦 かん (装甲 そうこう フリゲート, Zırhlı fırkateyn)。メスディイェ級 きゅう のネームシップである。
本 ほん 艦 かん の基本 きほん 構造 こうぞう は3本 ほん のマストと2本 ほん 煙突 えんとつ を持 も つ装甲 そうこう 艦 かん としてイギリス で建造 けんぞう された。船体 せんたい 中央 ちゅうおう 部 ぶ に102mmから305mmの装甲 そうこう 板 ばん をリベットで組 く み立 た てられた砲 ほう 廓 くるわ (ケースメート)を持 も ち、砲 ほう 廓 くるわ 内部 ないぶ に25.4cm(14.5口径 こうけい )後 こう 装 そう 砲 ほう を単 たん 装 そう 砲 ほう 架 か で片 かた 舷 ふなばた 6基 き ずつ計 けい 12基 き を配置 はいち した。砲 ほう 廓 くるわ は上方 かみがた から見 み て縦 たて 方向 ほうこう に長 なが い八 はち 角形 かくがた をしており、船体 せんたい は砲 ほう 廓 くるわ の射 い 界 かい を妨 さまた げないように砲 ほう 廓 くるわ の左右 さゆう の斜 なな め前 まえ と斜 なな め後 うし ろ方向 ほうこう の船体 せんたい を凹 へこ ませている。
本 ほん 艦 かん は竣工 しゅんこう 直後 ちょくご に露 ろ 土 ど 戦争 せんそう に参戦 さんせん したが、本 ほん 艦 かん を含 ふく めてオスマン帝国 ていこく 艦隊 かんたい は戦局 せんきょく に何 なん ら貢献 こうけん できなかった。そのため、時 とき のスルタン 、アブデュルハミト2世 せい は1878年 ねん から約 やく 20年 ねん の間 あいだ 、艦隊 かんたい の主力 しゅりょく 艦 かん を金 きむ 角 かく 湾 わん に係留 けいりゅう させたまま演習 えんしゅう 航海 こうかい もさせずに放置 ほうち させた。艦艇 かんてい の補修 ほしゅう 作業 さぎょう も滞 とどこお り、装備 そうび は次々 つぎつぎ と役立 やくだ たずとなり、同 どう 時期 じき の列強 れっきょう に比 くら べて低 ひく い将官 しょうかん や水兵 すいへい の志気 しき や練度 れんど も低下 ていか した。
理由 りゆう は国家 こっか 規模 きぼ に伴 ともな わない装甲 そうこう 艦 かん の大量 たいりょう 購入 こうにゅう による借金 しゃっきん でオスマン帝国 ていこく の財政 ざいせい は破綻 はたん 寸前 すんぜん で大 だい 艦隊 かんたい を整備 せいび する予算 よさん も捻出 ねんしゅつ できない有様 ありさま であった。そして、その大 だい 艦隊 かんたい を動 うご かすにはイギリス からの「お雇 やと い外国 がいこく 人 じん 」による機関 きかん 員 いん や航海 こうかい 員 いん やイギリス系 けい 企業 きぎょう のサポートが必要 ひつよう であった。アブデュルハミト2世 せい が即位 そくい した時点 じてん でお召 めし し艦 かん と軍艦 ぐんかん を動 うご かすのはイギリス人 じん の機関 きかん 長 ちょう とイギリス人 じん の航海 こうかい 長 ちょう で、そのために軍艦 ぐんかん を動 うご かすための命令 めいれい は主 おも に英語 えいご で行 おこな われ、トルコ人 じん の艦長 かんちょう や下士官 かしかん を動 うご かす時 とき にトルコ語 ご が使 つか われた。更 さら に艦艇 かんてい を維持 いじ するためのドックや工廠 こうしょう で働 はたら くのはイギリス企業 きぎょう より派遣 はけん されたイギリス人 じん の技師 ぎし や工員 こういん で200名 めい 以上 いじょう が働 はたら いていた。だが、海軍 かいぐん 予算 よさん の削減 さくげん に伴 ともな いイギリス企業 きぎょう はオスマン帝国 ていこく 海軍 かいぐん から次々 つぎつぎ と撤退 てったい 、お雇 やと い外国 がいこく 人 じん も引 ひ き上 あ げて3年 ねん 後 ご には数 すう 名 めい を数 かぞ えるだけとなった。オスマン帝国 ていこく からの富 とみ を吸 す い上 あ げるだけ吸 す い上 あ げてイギリスはさっさと去 さ ったのである。そのため、艦船 かんせん の維持 いじ は主 おも にトルコ人 じん の技師 ぎし や工員 こういん が行 おこな う事 こと となり、ボイラーは急速 きゅうそく に機能 きのう が低下 ていか 。テレグラフ やメーター などの精密 せいみつ 機械 きかい も次々 つぎつぎ と壊 こわ れて行 い った。壊 こわ れた部品 ぶひん は修理 しゅうり の為 ため に国内 こくない の工場 こうじょう へ四方八方 しほうはっぽう バラバラに送 おく られ、多 おお くが戻 もど って来 こ なかった。
更 さら に、時代 じだい は前 ぜん 弩 いしゆみ 級 きゅう 戦艦 せんかん の時代 じだい に入 はい ったが、オスマン帝国 ていこく が積 つ み重 かさ ねた度重 たびかさ なるイギリスからの借金 しゃっきん によりオスマン帝国 ていこく 海軍 かいぐん は装備 そうび の更新 こうしん や艦艇 かんてい の維持 いじ はおろか、下士官 かしかん や水兵 すいへい の給与 きゅうよ 支払 しはら いも滞 とどこお るようになり志気 しき も下 さ がるだけであった。さらにギリシャの独立 どくりつ で海軍 かいぐん の水兵 すいへい や下士官 かしかん の多 おお くをギリシャ人 じん に頼 たよ っていた海軍 かいぐん は以後 いご はトルコ人 じん に頼 たよ らざるを得 え なくなり練度 れんど も低下 ていか して行 い った。そのため、1890年代 ねんだい にギリシャとの戦乱 せんらん が押 お し迫 せま った時 とき にようやく、海軍 かいぐん の予算 よさん が割 わ り振 ふ られて艦隊 かんたい は演習 えんしゅう 行動 こうどう する事 こと が出来 でき たが、その時 とき には艦 かん ・人 にん ・兵器 へいき 、すべてが『役立 やくだ たずの艦隊 かんたい 』となっていたのである。
1891年 ねん にはギリシャ海軍 かいぐん がフランスに発注 はっちゅう した海防 かいぼう 戦艦 せんかん 「イドラ級 きゅう 」3隻 せき 中 ちゅう の2隻 せき がピレウス に到着 とうちゃく したことを知 し ったスルタンは海軍 かいぐん 予算 よさん を決 き める権限 けんげん を持 も つ大 だい 宰相 さいしょう カミル・パシャに対 たい し「新興 しんこう 国 こく のギリシャでさえ最新 さいしん の装甲 そうこう 艦 かん を購入 こうにゅう できたと言 い うのに、わが国 くに の海軍 かいぐん が艦隊 かんたい を整備 せいび できないのは何故 なぜ か?!」と厳 きび しく問 と い詰 つ め、海軍 かいぐん 予算 よさん の値上 ねあ げを約束 やくそく させた。しかし、無闇 むやみ に海軍 かいぐん 予算 よさん を増 ふ やせば国庫 こっこ に破壊 はかい 的 てき な影響 えいきょう を与 あた えかねないので大 だい 宰相 さいしょう は海軍 かいぐん に「当面 とうめん は新 あら たに戦艦 せんかん や巡洋艦 じゅんようかん を購入 こうにゅう せず、現存 げんそん の装甲 そうこう 艦 かん を修理 しゅうり もしくは近代 きんだい 化 か 改装 かいそう を行 おこな う事 こと で満足 まんぞく し、これにより海防 かいぼう に勤 つと めてもらいたい」と見解 けんかい を示 しめ した。
この見解 けんかい はスルタンの怒 いか りを買 か い、宮廷 きゅうてい より大 だい 宰相 さいしょう に文書 ぶんしょ により叱責 しっせき が来 き た。慌 あわ てた大 だい 宰相 さいしょう は「あらゆる財政 ざいせい 的 てき な手段 しゅだん に訴 うった えて費用 ひよう を捻出 ひねりだ し、新式 しんしき の装甲 そうこう 艦 かん と巡洋艦 じゅんようかん を調達 ちょうたつ する。しかしながら今 いま から新造 しんぞう しても完成 かんせい には3、4年 ねん かかるため、迅速 じんそく な国防 こくぼう には間 ま に合 あ わないため、海軍 かいぐん には現有 げんゆう の装甲 そうこう 艦 かん を改装 かいそう する事 こと が防衛 ぼうえい 上 じょう 先決 せんけつ であるとの考 かんが えから今年度 こんねんど 予算 よさん を編成 へんせい したが、新型 しんがた 艦 かん は国債 こくさい から捻出 ねんしゅつ する資金 しきん によって、短期間 たんきかん で造船 ぞうせん することを条件 じょうけん に購入 こうにゅう するべきであるとの見解 けんかい を示 しめ した」と弁明 べんめい したが、どうい繕 いつくろ っても旧式 きゅうしき 化 か した装甲 そうこう 艦 かん に換 か わる主力 しゅりょく 艦 かん の購入 こうにゅう はまずなかった。
海軍 かいぐん は止 や むを得 え ず、既存 きそん の装甲 そうこう 艦 かん を近代 きんだい 化 か 改装 かいそう して少 すこ しでも戦力 せんりょく を維持 いじ しようと努 つと めた。この根拠 こんきょ は1883年 ねん 10月9日 にち に当時 とうじ の海軍 かいぐん 大臣 だいじん ハッサン・パシャが出 だ した艦隊 かんたい の維持 いじ に関 かん する質問 しつもん 書 しょ で、その回答 かいとう は
1.帝国 ていこく 艦隊 かんたい の装甲 そうこう 艦 かん 14隻 せき (装甲 そうこう フリゲート (「オスマニイェ」「マフムディイェ」「オルハニイェ」「アジィズェ(旧 きゅう :アブデュルアズィズ)」「アサル・テヴフィク 」「メスディイェ(本 ほん 艦 かん )」)6隻 せき 、装甲 そうこう コルベット 4隻 せき (「アヴ・ニッラー」「ムイーニ・ザファー」「フェトヒ・ビュレント」「ムカッデメイ・ハユル」)、装甲 そうこう 海防 かいぼう 艦 かん 4隻 せき [1] 2.帝国 ていこく の軍艦 ぐんかん の艦 かん 砲 ほう は全 すべ て前 ぜん 装填 そうてん 式 しき なので、現在 げんざい 後 ご 装填 そうてん 式 しき への換 かわ 装 そう を計画 けいかく 中 ちゅう である。[2] 3.艦隊 かんたい の動力 どうりょく 源 げん となる燃料 ねんりょう は現 げん 段階 だんかい は少 すく ないが、有事 ゆうじ の際 さい は国庫 こっこ 負担 ふたん で購入 こうにゅう し準備 じゅんび されるであろう。[3] 4.常備 じょうび 兵 へい の数 かず は減員 げんいん され、現在 げんざい の人員 じんいん では維持 いじ で手一杯 ていっぱい である。しかし、ながら有事 ゆうじ には予備 よび 役 やく を招集 しょうしゅう し、正規 せいき 軍 ぐん を編成 へんせい する。[4] という文書 ぶんしょ を参考 さんこう にした。
艦 かん 砲 ほう は前述 ぜんじゅつ の通 とお り前 ぜん 装填 そうてん 式 しき でしかなく、イギリスはアームストロング社 しゃ の物 もの を優先 ゆうせん して搭載 とうさい していた。しかし、フランスのカネー社 しゃ やドイツのクルップ社 しゃ で操作 そうさ は簡単 かんたん ・装填 そうてん 作業 さぎょう が楽 らく ・射程 しゃてい も長 なが い後 のち 装填 そうてん 式 しき が開発 かいはつ されていた。オスマン帝国 ていこく 海軍 かいぐん はイギリスとの繋 つな がりも薄 うす れたため、ドイツのクルップ社 しゃ から大砲 たいほう のカタログを取 と り寄 よ せ、各 かく 艦 かん ごとに搭載 とうさい 可能 かのう な大砲 たいほう の大 おお きさと数 かず を検討 けんとう しリストアップした。それと同時 どうじ に、アームストロング社 しゃ には既存 きそん の大砲 たいほう を改造 かいぞう して後 こう 装填 そうてん 式 しき にできるか、出来 でき たとして費用 ひよう はどの位 くらい かを確認 かくにん した。同社 どうしゃ は「改造 かいぞう は可能 かのう で改造 かいぞう 費 ひ は300~450ポンドで出来 でき るが、自社 じしゃ の同 どう 口径 こうけい の後 のち 装填 そうてん 式 しき よりも射程 しゃてい は劣 おと る」と返答 へんとう した。そのため、海軍 かいぐん は当時 とうじ 建造 けんぞう 中 ちゅう であった装甲 そうこう 艦 かん 「ハミディイェ」とリストに挙 あ げられた6隻 せき の程度 ていど の良 よ い装甲 そうこう 艦 かん へは新 あたら しくクルップ社 しゃ の後 のち 装填 そうてん 式 しき 砲 ほう を購入 こうにゅう して取 と り付 つ ける事 こと とし[5] 、残 のこ りの程度 ていど の低 ひく い軍艦 ぐんかん には既存 きそん のアームストロング砲 ほう を改造 かいぞう し後 ご 装填 そうてん 式 しき にした物 もの を搭載 とうさい することを決定 けってい した。しかし、換 かわ 装 そう は予算 よさん 難 なん から遅々 ちち として進 すす まず、結局 けっきょく は換 かわ 装 そう 計画 けいかく は頓挫 とんざ して前 ぜん 装填 そうてん 砲 ほう をそのまま使 つか い続 つづ ける事 こと となった。
更 さら に、艦隊 かんたい の装甲 そうこう 艦 かん の装甲 そうこう の材質 ざいしつ は鉄 てつ であったが、時代 じだい は既 すで に鋼鉄 こうてつ となっており、改装 かいそう のために帝国 ていこく で製鋼 せいこう 用 よう の施設 しせつ を新 あら たに外国 がいこく より購入 こうにゅう し、国産 こくさん の鋼鉄 こうてつ で装甲 そうこう を鋼鉄 こうてつ に切 き り替 か えることとなった。また、多 おお くの艦 かん でボイラーが20年 ねん の長 なが きにわたって整備 せいび もされずに酷使 こくし され続 つづ けた為 ため に航行 こうこう に耐 た えないとして取 と り換 か える事 こと となった。本 ほん 艦 かん でさえスペック上 じょう は13.7ノットが発揮 はっき できるとあるが、この時代 じだい の主力 しゅりょく 艦 かん の多 おお くは15ノット程度 ていど は出 だ せるので、仮 かり に補修 ほしゅう して延命 えんめい したとしても主力 しゅりょく 艦 かん としては鈍 どん 足 あし には違 ちが いなかった。
1897年 ねん に海軍 かいぐん は装甲 そうこう 艦 かん 「オスマニイェ」「マフムディイェ」「オルハニイェ」「アジィズェ[6] 」の近代 きんだい 化 か 改装 かいそう を計画 けいかく 、1889年 ねん に予算 よさん が下 くだ り、ようやく許可 きょか が出 だ されたため、1890年 ねん にまず「オスマニイェ」「アジィズェ」の2隻 せき の近代 きんだい 化 か 改装 かいそう が開始 かいし された。しかし、1891年 ねん に海軍 かいぐん はドイツに駆逐 くちく 艦 かん 4隻 せき を発注 はっちゅう したため、改装 かいそう に使 つか える予算 よさん は少 すく なくなった。そのため残 のこ り2隻 せき は改装 かいそう を中止 ちゅうし 、改装 かいそう 中 ちゅう の2隻 せき の工事 こうじ は延期 えんき を重 かさ ねて「オスマニイェ」は1892年 ねん に改装 かいそう 終了 しゅうりょう 、「アジィズェ」は1894年 ねん まで掛 か かってしまった。そし新 あら たに海軍 かいぐん の装甲 そうこう 艦 かん の中 なか でも状態 じょうたい の良 よ い装甲 そうこう 艦 かん が選出 せんしゅつ され、その中 なか でも年 とし 式 しき が新 あたら しく大型 おおがた で改装 かいそう の余地 よち もあった本 ほん 艦 かん が選 えら ばれた。
大 だい 改装 かいそう と、その結果 けっか [ 編集 へんしゅう ]
イタリア海軍 かいぐん ヴェットール・ピサニ級 きゅう 装甲 そうこう 巡洋艦 じゅんようかん 「カルロ・アルベルト」。
本 ほん 艦 かん の近代 きんだい 化 か 改装 かいそう は1903年 ねん までイタリア のアンサルド社 しゃ で行 おこな われた。この当時 とうじ のイタリア海軍 かいぐん はアドリア海 あどりあかい と東部 とうぶ 地中海 ちちゅうかい の覇権 はけん をオーストリア=ハンガリー帝国 ていこく 海軍 かいぐん と争 あらそ っており、同 どう 時代 じだい の日本 にっぽん 海軍 かいぐん と同 おな じくイギリスに範 はん をとった優秀 ゆうしゅう な艦船 かんせん を多 おお く建造 けんぞう してきた経験 けいけん もあっての事 こと であった。
近代 きんだい 化 か 改装 かいそう 後 ご の「メスディイェ」。
近代 きんだい 化 か 改装 かいそう の内容 ないよう は老朽 ろうきゅう 化 か した機関 きかん を新型 しんがた 機関 きかん に換 かわ 装 そう し、速度 そくど 性能 せいのう と航続 こうぞく 性能 せいのう の改善 かいぜん に合 あ った。甲板 かんぱん 上 じょう の帆走 はんそう 設備 せつび は全 すべ て撤去 てっきょ され、これにより甲板 かんぱん 上 じょう を広 ひろ く使用 しよう することが出来 でき たため、建造 けんぞう 当時 とうじ でさえ旧態 きゅうたい 化 か していた主砲 しゅほう の舷側 げんそく 配置 はいち を改 あらた めた。主 しゅ 武装 ぶそう は前 ぜん 弩 いしゆみ 級 きゅう 戦艦 せんかん のように甲板 かんぱん 上 じょう の前後 ぜんご に砲塔 ほうとう に収 おさ めた。既存 きそん の砲 ほう 廓 くるわ 部 ぶ には主砲 しゅほう に換 か えて副 ふく 砲 ほう として中 ちゅう 口径 こうけい の速射 そくしゃ 砲 ほう を収 おさ め、新 あら たに船体 せんたい 各所 かくしょ に対 たい 水雷 すいらい 艇 てい の搭載 とうさい を含 ふく む火砲 かほう の新型 しんがた 化 か が行 おこな われた。船体 せんたい 形状 けいじょう の改正 かいせい など大 だい 規模 きぼ な工事 こうじ が行 おこな われた結果 けっか 、艦 かん 容 よう は近代 きんだい 化 か されて同 どう 世代 せだい の装甲 そうこう 巡洋艦 じゅんようかん と見紛 みまが う外観 がいかん となった。
主砲 しゅほう にはイギリスの装甲 そうこう 巡洋艦 じゅんようかん の主砲 しゅほう として広 ひろ く用 もち いられている23.4cm砲 ほう が選 えら ばれ、これを衝角の付 つ いた艦 かん 首 くび から前部 ぜんぶ 甲板 かんぱん 上 じょう に設 もう けられたバーベット の上 うえ に楕円 だえん 筒 とう 型 がた の単 たん 装 そう 式 しき 主砲 しゅほう 塔 とう で1基 き を配置 はいち 、その背後 はいご から上部 じょうぶ 構造 こうぞう 物 ぶつ が開始 かいし し、その上 うえ に司令塔 しれいとう を兼 か ねた艦橋 かんきょう の両 りょう 脇 わき には船橋 ふなばし (ブリッジ)が設置 せっち された。機関 きかん 配置 はいち の変更 へんこう に伴 ともな い、ボイラー室 しつ の位置 いち が前進 ぜんしん したために2本 ほん 煙突 えんとつ も艦橋 かんきょう の真後 まうし ろに立 た てられた。2本 ほん 煙突 えんとつ の両側 りょうがわ にキセル 型 かた の通風 つうふう 筒 とう が片 かた 舷 ふなばた 3基 き ずつ計 けい 6基 き 立 た ち、その下部 かぶ に推進 すいしん 機関 きかん 室 しつ を配置 はいち したためにスペースを無駄 むだ にせず原型 げんけい の2番 ばん マストと似 に た場所 ばしょ に二 に 段 だん の見張 みは り所 しょ を持 も つミリタリー・マスト が1基 き 配置 はいち され、二 に 段 だん 目 め の見張 みは り所 しょ の左右 さゆう には対 たい 水雷 すいらい 艇 てい 迎撃 げいげき 用 よう に4.7cm(43口径 こうけい )単 たん 装 そう 速射 そくしゃ 砲 ほう 2基 き が配置 はいち され、その周囲 しゅうい は艦載 かんさい 艇 てい とした。艦載 かんさい 艇 てい は後部 こうぶ ミリタリーマストの基部 きぶ のクレーン 4基 き と2本 ほん 1組 くみ のボート・ダビッドが片 かた 舷 ふなばた に2組 くみ ずつ計 けい 4組 くみ により運用 うんよう された。マストの後 うし ろに後部 こうぶ 見張 みは り所 しょ があり、そこから甲板 かんぱん 一 いち 段 だん 分 ぶん 下 さ がって後部 こうぶ 甲板 かんぱん が始 はじ まり、23.4cm単 たん 装 そう 主砲 しゅほう 塔 とう が後 うし ろ向 む きに1基 き 配置 はいち された。
前述 ぜんじゅつ のとおり改装 かいそう 前 まえ にあった砲 ほう 廓 くるわ (ケースメイト)は撤去 てっきょ されずにそのまま副 ふく 砲 ほう として15.2cm速射 そくしゃ 砲 ほう が収 おさ められ、単 たん 装 そう 砲 ほう 架 か で片 かた 舷 ふなばた 6基 き ずつ計 けい 12基 き が配置 はいち された。また、新 あら たに対 たい 水雷 すいらい 艇 てい 用 よう に57mm単 たん 装 そう 速射 そくしゃ 砲 ほう が10基 き 装備 そうび されたが、搭載 とうさい 位置 いち は艦載 かんさい 艇 てい 置 お き場 ば の四隅 よすみ に片 かた 舷 ふなばた 2基 き ずつ計 けい 4基 き 、1番 ばん 主砲 しゅほう 塔 とう の側面 そくめん に1基 き ずつ計 けい 2基 き 、艦 かん 尾 お 側 がわ の左右 さゆう に1基 き ずつ計 けい 2基 き 、そして司令塔 しれいとう の天蓋 てんがい に1基 き と後部 こうぶ 見張 みは り所 しょ に後 うし ろ向 む きに1基 き の配置 はいち である。この武装 ぶそう 配置 はいち により前後 ぜんご 方向 ほうこう に最大 さいだい で23.4cm砲 ほう 1門 もん ・15.2cm砲 ほう 2門 もん ・5.7cm砲 ほう 4門 もん 、左右 さゆう 方向 ほうこう に23.4cm砲 ほう 2門 もん 、15.2cm砲 ほう 4門 もん ・5.7cm砲 ほう 5門 もん を向 む けることが出来 でき る設計 せっけい であった。
しかし、当時 とうじ のオスマン帝国 ていこく 海軍 かいぐん は慢性 まんせい 的 てき な予算 よさん 難 なん にあり、主砲 しゅほう の代金 だいきん 支払 しはら いが竣工 しゅんこう までに間 ま に合 あ わず、主砲 しゅほう 塔 とう こそ据 す え付 つ けられた物 もの の、肝心 かんじん の主 しゅ 砲身 ほうしん は取 と り付 つ けられなかった。そのため、見栄 みば えの観点 かんてん から主 しゅ 砲身 ほうしん は木製 もくせい のダミー を砲塔 ほうとう に取 と り付 つ けられたが結局 けっきょく の所 ところ 、戦没 せんぼつ の日 ひ まで本 ほん 艦 かん の主 しゅ 砲身 ほうしん はダミーのままであった。そのため本 ほん 艦 かん の主 しゅ 武装 ぶそう は副 ふく 兵 へい 装 そう の15.2cm単 たん 装 そう 速射 そくしゃ 砲 ほう 12基 き であると言 い えるがそれでも船体 せんたい の大 おお きさを考 かんが えれば充分 じゅうぶん な火力 かりょく である。
主砲 しゅほう (未 み 搭載 とうさい )[ 編集 へんしゅう ]
主砲 しゅほう はイギリスのアームストロング社 しゃ の開発 かいはつ の「1893年 ねん 型 がた 23.4cm(40口径 こうけい )ライフル砲 ほう 」を採用 さいよう した。その性能 せいのう は重量 じゅうりょう 172.4kgの砲弾 ほうだん を、最大 さいだい 仰角 ぎょうかく 15度 ど で11,745mまで届 とど かせられる性能 せいのう であった。この砲 ほう を単 たん 装 そう 砲塔 ほうとう で前後 ぜんご に1基 き ずつ配置 はいち された。砲 ほう 架 か の俯仰 ふぎょう 能力 のうりょく は仰角 ぎょうかく 15度 ど ・俯角 ふかく 5度 ど である。旋回 せんかい 角度 かくど は左右 さゆう 150度 ど の旋回 せんかい 角度 かくど を持 も つ、主 しゅ 砲身 ほうしん の俯仰 ふぎょう ・砲塔 ほうとう の旋回 せんかい ・砲弾 ほうだん の揚 あげ 弾 だん ・装填 そうてん は電力 でんりょく で行 おこな われ補助 ほじょ に人力 じんりき を必要 ひつよう とした。発射 はっしゃ 速度 そくど は1分間 ふんかん に2発 はつ であった。
その他 た の備砲 びほう ・水雷 すいらい 兵 へい 装 そう [ 編集 へんしゅう ]
副 ふく 砲 ほう はイギリスのアームストロング社 しゃ の開発 かいはつ の「1893年 ねん 型 がた Marks VIII 15.2cm(45口径 こうけい )単 たん 装 そう 速射 そくしゃ 砲 ほう 」を採用 さいよう した。その性能 せいのう は45.4kgの砲弾 ほうだん を、最大 さいだい 仰角 ぎょうかく 20度 ど で13,350mまで届 とど かせられた。この砲 ほう を単 たん 装 そう 砲 ほう 架 か で片 かた 舷 ふなばた 6基 き ずつ計 けい 12基 き を舷側 げんそく 配置 はいち した。俯仰 ふぎょう 能力 のうりょく は仰角 ぎょうかく 20度 ど ・俯角 ふかく 7度 ど である。旋回 せんかい 角度 かくど は160度 ど の旋回 せんかい 角度 かくど を持 も ち、砲 ほう 架 か の俯仰 ふぎょう ・旋回 せんかい ・砲弾 ほうだん の揚 あげ 弾 だん ・装填 そうてん は主 おも に人力 じんりき を必要 ひつよう とした。発射 はっしゃ 速度 そくど は1分間 ふんかん に5~6発 はつ であった。
他 た に対 たい 水雷 すいらい 艇 てい 迎撃 げいげき 用 よう に「7.62cm(40口径 こうけい )単 たん 装 そう 速射 そくしゃ 砲 ほう 14基 き 、5.7cm(43口径 こうけい )単 たん 装 そう 速射 そくしゃ 砲 ほう 10基 き 、1888年 ねん 型 がた 4.7cm(43口径 こうけい )単 たん 装 そう 速射 そくしゃ 砲 ほう 2基 き 搭載 とうさい した。
本 ほん 艦 かん の防御 ぼうぎょ 力 りょく は排水 はいすい 量 りょう の割 わり に優秀 ゆうしゅう で、舷側 げんそく 装甲 そうこう は末端 まったん 部 ぶ でさえ152mmから178mm、中央 ちゅうおう 部 ぶ は254mmにも達 たっ する重厚 じゅうこう な水線 すいせん 部 ぶ 装甲 そうこう を持 も っていた。砲塔 ほうとう も最 さい 厚 あつ 部 ぶ が280mm、甲板 かんぱん 上 じょう のバーベット も200mmもの厚 あつ さがあったが、甲板 かんぱん から下 した は砲弾 ほうだん と装 そう 薬 やく を運 はこ ぶ揚 あげ 弾 だん 筒 とう が弾薬 だんやく 庫 こ に続 つづ いているだけあった。
第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん [ 編集 へんしゅう ]
本 ほん 艦 かん とB11の構図 こうず 。
竣工 しゅんこう 後 ご の本 ほん 艦 かん の主要 しゅよう 任務 にんむ は黒海 こっかい 内 うち の沿岸 えんがん 警備 けいび 任務 にんむ であったが、最新 さいしん 型 がた のニクローズ缶 かん の扱 あつか いに不慣 ふな れなオスマン帝国 ていこく の機関 きかん 兵 へい の手 て により1911年 ねん には本 ほん 艦 かん の機関 きかん は調子 ちょうし を崩 くず して復旧 ふっきゅう 困難 こんなん となり、バルカン戦争 せんそう で特筆 とくひつ すべき出撃 しゅつげき も無 な かった。第 だい 一 いち 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん の頃 ころ にはダーダネルス海峡 かいきょう のトルコ側 がわ の入 い り口 くち に停泊 ていはく し、砲術 ほうじゅつ 員 いん とその他 た の保守 ほしゅ 要員 よういん だけに減員 げんいん されて港湾 こうわん 砲台 ほうだい として運用 うんよう された。そして1914年 ねん 12月13日 にち に湾内 わんない に侵入 しんにゅう してきたイギリス海軍 かいぐん B級 きゅう 潜水 せんすい 艦 かん 「B11」の雷撃 らいげき を受 う け、魚雷 ぎょらい 1本 ほん の命中 めいちゅう により撃沈 げきちん されてしまった。しかし、港内 こうない という事 こと もあり水深 すいしん も浅 あさ かったために完全 かんぜん に海 うみ 没 ぼつ せずに済 す んだのが不幸 ふこう 中 ちゅう の幸 さいわ いであった。減員 げんいん されていたため犠牲 ぎせい 者 しゃ も少 すく なく済 す んだ上 うえ 、一部 いちぶ の武装 ぶそう は回収 かいしゅう されて陸上 りくじょう 砲台 ほうだい に回 まわ された。
^ 「フフズッラマーン」「アーサール・シヴシュケド」「ニジュミ・シヴシュケド」「イジャリィエ」))中 ちゅう のうち、有事 ゆうじ に出撃 しゅつげき 可能 かのう なものは6隻 せき (装甲 そうこう フリゲート 「アサル・テヴフィク」「メスディイェ(本 ほん 艦 かん )」、装甲 そうこう コルベット 「アヴ・ニッラー」「ムイーニ・ザファー」「フェトヒ・ビュレント」「ムカッデメイ・ハユル」)のみである。(この時 とき 既 すで に艦隊 かんたい は3年 ねん 以上 いじょう も機器 きき の手入 てい れがなされておらず、夜間 やかん 攻撃 こうげき に備 そな えるためのサーチライトがない、魚雷 ぎょらい 攻撃 こうげき から停泊 ていはく する艦艇 かんてい を守 まも るための防 ぼう 雷 かみなり 網 もう がない、停泊 ていはく から5年 ねん 経過 けいか しただけで、14隻 せき もの装甲 そうこう 艦 かん がありながら戦闘 せんとう 出撃 しゅつげき か可能 かのう なのはたったの6隻 せき という事 こと
^ 前 ぜん 装填 そうてん 式 しき とは大砲 たいほう の前 まえ から砲弾 ほうだん と炸薬 さくやく を入 い れる形式 けいしき 、後 こう 装填 そうてん 式 しき とは現代 げんだい の艦 かん 砲 ほう と同 おな じく敵 てき に砲 ほう 口 こう を向 む けたまま大砲 たいほう の後部 こうぶ を開 ひら いて砲弾 ほうだん と炸薬 さくやく を入 い れることの出来 でき る形式 けいしき のこと
^ 艦隊 かんたい の燃料 ねんりょう の石炭 せきたん ・石油 せきゆ を購入 こうにゅう する予算 よさん が無 な く、備蓄 びちく さえしていない。燃料 ねんりょう などの重要 じゅうよう 軍事 ぐんじ 物資 ぶっし は有事 ゆうじ に迅速 じんそく に調達 ちょうたつ できる物 もの ではない
^ 案 あん の定 じょう 、召集 しょうしゅう された予備 よび 役 やく は全 まった く訓練 くんれん を受 う けていなかったために現場 げんば では何 なん の役 やく にも立 た たなく。ただ船内 せんない のベッドを埋 う め、食料 しょくりょう を消費 しょうひ しただけだった。極 きわ めつけは今 いま 乗 の っている乗員 じょういん は新兵 しんぺい で海 うみ に出 で た経験 けいけん が無 な いので、海 うみ に出 で ると船酔 ふなよ いのため航海 こうかい ・砲術 ほうじゅつ 訓練 くんれん が出来 でき ないという暗澹 あんたん たる有様 ありさま であった。
^ 「ハミディイェ」に24cm単 たん 装 そう 砲 ほう 10基 き と17cm単 たん 装 そう 砲 ほう 2基 き 、「メスディイェ(本 ほん 艦 かん )」に26cm単 たん 装 そう 砲 ほう 12基 き など
^ 旧 きゅう :アブデュルアズィズ
「世界 せかい の艦船 かんせん 」増刊 ぞうかん 第 だい 30集 しゅう イギリス戦艦 せんかん 史 し 」(海人 あま 社 しゃ )
「Conway All The World's Fightingships 1860-1905」(Conway)
「世界 せかい 史 し リブレット 小松 こまつ 香織 かおり 著 ちょ オスマン帝国 ていこく の近代 きんだい と海軍 かいぐん 」(山川 やまかわ 出版 しゅっぱん 社 しゃ )2004年 ねん 2月 がつ 出版 しゅっぱん
「山川 やまかわ 歴史 れきし モノグラフ 小松 こまつ 香織 かおり 著 ちょ オスマン帝国 ていこく の海運 かいうん と海軍 かいぐん 」(山川 やまかわ 出版 しゅっぱん 社 しゃ )2002年 ねん 11月出版 しゅっぱん
Mesudiye 本 ほん 艦 かん の説明 せつめい 。近代 きんだい 化 か 改装 かいそう 以前 いぜん の本 ほん 艦 かん の写真 しゃしん が見 み られる。