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メスディイェ (装甲そうこうかん)

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

近代きんだい改装かいそうの「メスディイェ」。
かんれき
発注はっちゅう テムズ造船ぞうせんしょ
起工きこう 1873ねん
進水しんすい 1874ねん10月28にち
就役しゅうえき 1875ねん12月
退役たいえき
その 1914ねん12月13にち戦没せんぼつ
除籍じょせき
性能せいのうしょもと竣工しゅんこう
排水はいすいりょう 常備じょうび:8,940トン
満載まんさい:9,120トン
全長ぜんちょう 101.3m
全幅ぜんぷく 17.98m
吃水きっすい 7.8m(満載まんさい
機関きかん テムズしき石炭せきたんせんしょうすみかん8
+テムズしきよこがたいちだん膨張ぼうちょうしき2気筒きとうレシプロ機関きかん11じく推進すいしん
最大さいだい出力しゅつりょく 6,580hp
最大さいだい速力そくりょく 13.7ノット機関きかん航行こうこう
航続こうぞく距離きょり -ノット/-うみさと石炭せきたん:600トン)
乗員じょういん 630めい
へいそう 1861ねんがた Marks II 25.4cm(14.5口径こうけいたんそうほう12
Marks III 17.8cm(16口径こうけいたんそうほう3
9.5cm(20ポンド)たんそうほう6(1891ねんに15cm(35口径こうけいたんそうほう3かわそう
装甲そうこう鉄製てつせい 舷側げんそく:102~254~305mm(しゅ水面すいめん
甲板かんぱん:なし
ほうかく:305mm(平面へいめん)、254mm(傾斜けいしゃ
ボックスシタデル:254mm(最大さいだいあつし
司令塔しれいとう:203mm(がわたて
性能せいのうしょもと(1903ねん近代きんだい改装かいそう
排水はいすいりょう 常備じょうび:9,190トン
満載まんさい:9,710トン
全長ぜんちょう 102.4m
全幅ぜんぷく 18m
吃水きっすい 7.9m
機関きかん ニクローズしき石炭せきたんせんしょうみずかんかん16
+アンサルドしきさんだん膨張ぼうちょうがたよん気筒きとうレシプロ機関きかん22じく推進すいしん
最大さいだい出力しゅつりょく おおやけためし:8,303hp
常用じょうよう:7,431hp
最大さいだい速力そくりょく おおやけためし:18.2ノット
常用じょうよう:17ノット
航続こうぞく距離きょり -ノット/-海里かいり石炭せきたん:-トン)
乗員じょういん 700めい
へいそう 23.4cm(40口径こうけいたんそうほう2搭載とうさい
1893ねんがた Marks VIII 15.2cm(45口径こうけいたんそう速射そくしゃほう12
1888ねんがた 7.62cm(40口径こうけいたんそう速射そくしゃほう14
5.7cm(43口径こうけいたんそう速射そくしゃほう10
1888ねんがた 4.7cm(43口径こうけいたんそう速射そくしゃほう2
装甲そうこう 舷側げんそく:254mm(水線すいせんさいあつ)、152~178mm(水線すいせんまつはし
甲板かんぱん:25.4mm(平坦へいたん)、76mm(傾斜けいしゃ
主砲しゅほうとう:280mm(さいあつ
バーベット:203mm(さいあつ
ふくほうほうかく:254mm(さいあつ
司令塔しれいとう:305.mm(さいあつ

メスディイェ (Mesudiye) は、オスマン帝国ていこく海軍かいぐん装甲そうこうかん (装甲そうこうフリゲート, Zırhlı fırkateyn)。メスディイェきゅうのネームシップである。

概要がいよう[編集へんしゅう]

ほんかん基本きほん構造こうぞうは3ほんのマストと2ほん煙突えんとつ装甲そうこうかんとしてイギリス建造けんぞうされた。船体せんたい中央ちゅうおうに102mmから305mmの装甲そうこうばんをリベットでてられたほうくるわ(ケースメート)をち、ほうくるわ内部ないぶに25.4cm(14.5口径こうけいこうそうほうたんそうほうかたふなばた6ずつけい12配置はいちした。ほうくるわ上方かみがたからたて方向ほうこうながはち角形かくがたをしており、船体せんたいほうくるわかいさまたげないようにほうくるわ左右さゆうななまえななうし方向ほうこう船体せんたいへこませている。

かんれき[編集へんしゅう]

ほんかん竣工しゅんこう直後ちょくご戦争せんそう参戦さんせんしたが、ほんかんふくめてオスマン帝国ていこく艦隊かんたい戦局せんきょくなん貢献こうけんできなかった。そのため、ときスルタンアブデュルハミト2せい1878ねんからやく20ねんあいだ艦隊かんたい主力しゅりょくかんきむかくわん係留けいりゅうさせたまま演習えんしゅう航海こうかいもさせずに放置ほうちさせた。艦艇かんてい補修ほしゅう作業さぎょうとどこおり、装備そうび次々つぎつぎ役立やくだたずとなり、どう時期じき列強れっきょうくらべてひく将官しょうかん水兵すいへい志気しき練度れんど低下ていかした。

理由りゆう国家こっか規模きぼともなわない装甲そうこうかん大量たいりょう購入こうにゅうによる借金しゃっきんでオスマン帝国ていこく財政ざいせい破綻はたん寸前すんぜんだい艦隊かんたい整備せいびする予算よさん捻出ねんしゅつできない有様ありさまであった。そして、そのだい艦隊かんたいうごかすにはイギリスからの「おやと外国がいこくじん」による機関きかんいん航海こうかいいんやイギリスけい企業きぎょうのサポートが必要ひつようであった。アブデュルハミト2せい即位そくいした時点じてんでおめしかん軍艦ぐんかんうごかすのはイギリスじん機関きかんちょうとイギリスじん航海こうかいちょうで、そのために軍艦ぐんかんうごかすための命令めいれいおも英語えいごおこなわれ、トルコじん艦長かんちょう下士官かしかんうごかすときにトルコ使つかわれた。さら艦艇かんてい維持いじするためのドックや工廠こうしょうはたらくのはイギリス企業きぎょうより派遣はけんされたイギリスじん技師ぎし工員こういんで200めい以上いじょうはたらいていた。だが、海軍かいぐん予算よさん削減さくげんともないイギリス企業きぎょうはオスマン帝国ていこく海軍かいぐんから次々つぎつぎ撤退てったい、おやと外国がいこくじんげて3ねんにはすうめいかぞえるだけとなった。オスマン帝国ていこくからのとみげるだけげてイギリスはさっさとったのである。そのため、艦船かんせん維持いじおもにトルコじん技師ぎし工員こういんおこなこととなり、ボイラーは急速きゅうそく機能きのう低下ていかテレグラフメーターなどの精密せいみつ機械きかい次々つぎつぎこわれてった。こわれた部品ぶひん修理しゅうりため国内こくない工場こうじょう四方八方しほうはっぽうバラバラにおくられ、おおくがもどってなかった。

さらに、時代じだいぜんいしゆみきゅう戦艦せんかん時代じだいはいったが、オスマン帝国ていこくかさねた度重たびかさなるイギリスからの借金しゃっきんによりオスマン帝国ていこく海軍かいぐん装備そうび更新こうしん艦艇かんてい維持いじはおろか、下士官かしかん水兵すいへい給与きゅうよ支払しはらいもとどこおるようになり志気しきがるだけであった。さらにギリシャの独立どくりつ海軍かいぐん水兵すいへい下士官かしかんおおくをギリシャじんたよっていた海軍かいぐん以後いごはトルコじんたよらざるをなくなり練度れんど低下ていかしてった。そのため、1890年代ねんだいにギリシャとの戦乱せんらんせまったときにようやく、海軍かいぐん予算よさんられて艦隊かんたい演習えんしゅう行動こうどうすること出来できたが、そのときにはかんにん兵器へいき、すべてが『役立やくだたずの艦隊かんたい』となっていたのである。

1891ねんにはギリシャ海軍かいぐんがフランスに発注はっちゅうした海防かいぼう戦艦せんかんイドラきゅう」3せきちゅうの2せきピレウス到着とうちゃくしたことをったスルタンは海軍かいぐん予算よさんめる権限けんげんだい宰相さいしょうカミル・パシャにたいし「新興しんこうこくのギリシャでさえ最新さいしん装甲そうこうかん購入こうにゅうできたとうのに、わがくに海軍かいぐん艦隊かんたい整備せいびできないのは何故なぜか?!」ときびしくめ、海軍かいぐん予算よさん値上ねあげを約束やくそくさせた。しかし、無闇むやみ海軍かいぐん予算よさんやせば国庫こっこ破壊はかいてき影響えいきょうあたえかねないのでだい宰相さいしょう海軍かいぐんに「当面とうめんあらたに戦艦せんかん巡洋艦じゅんようかん購入こうにゅうせず、現存げんそん装甲そうこうかん修理しゅうりもしくは近代きんだい改装かいそうおこなこと満足まんぞくし、これにより海防かいぼうつとめてもらいたい」と見解けんかいしめした。

この見解けんかいはスルタンのいかりをい、宮廷きゅうていよりだい宰相さいしょう文書ぶんしょにより叱責しっせきた。あわてただい宰相さいしょうは「あらゆる財政ざいせいてき手段しゅだんうったえて費用ひよう捻出ひねりだし、新式しんしき装甲そうこうかん巡洋艦じゅんようかん調達ちょうたつする。しかしながらいまから新造しんぞうしても完成かんせいには3、4ねんかかるため、迅速じんそく国防こくぼうにはわないため、海軍かいぐんには現有げんゆう装甲そうこうかん改装かいそうすること防衛ぼうえいじょう先決せんけつであるとのかんがえから今年度こんねんど予算よさん編成へんせいしたが、新型しんがたかん国債こくさいから捻出ねんしゅつする資金しきんによって、短期間たんきかん造船ぞうせんすることを条件じょうけん購入こうにゅうするべきであるとの見解けんかいしめした」と弁明べんめいしたが、どういいつくろっても旧式きゅうしきした装甲そうこうかんわる主力しゅりょくかん購入こうにゅうはまずなかった。

海軍かいぐんむをず、既存きそん装甲そうこうかん近代きんだい改装かいそうしてすこしでも戦力せんりょく維持いじしようとつとめた。この根拠こんきょ1883ねん10月9にち当時とうじ海軍かいぐん大臣だいじんハッサン・パシャがした艦隊かんたい維持いじかんする質問しつもんしょで、その回答かいとう
1.帝国ていこく艦隊かんたい装甲そうこうかん14せき装甲そうこうフリゲート(「オスマニイェ」「マフムディイェ」「オルハニイェ」「アジィズェ(きゅう:アブデュルアズィズ)」「アサル・テヴフィク」「メスディイェ(ほんかん)」)6せき装甲そうこうコルベット4せき(「アヴ・ニッラー」「ムイーニ・ザファー」「フェトヒ・ビュレント」「ムカッデメイ・ハユル」)、装甲そうこう海防かいぼうかん4せき[1]
2.帝国ていこく軍艦ぐんかんかんほうすべぜん装填そうてんしきなので、現在げんざい装填そうてんしきへのかわそう計画けいかくちゅうである。[2]
3.艦隊かんたい動力どうりょくげんとなる燃料ねんりょうげん段階だんかいすくないが、有事ゆうじさい国庫こっこ負担ふたん購入こうにゅう準備じゅんびされるであろう。[3]
4.常備じょうびへいかず減員げんいんされ、現在げんざい人員じんいんでは維持いじ手一杯ていっぱいである。しかし、ながら有事ゆうじには予備よびやく招集しょうしゅうし、正規せいきぐん編成へんせいする。[4]
という文書ぶんしょ参考さんこうにした。

かんほう前述ぜんじゅつとおぜん装填そうてんしきでしかなく、イギリスはアームストロングしゃもの優先ゆうせんして搭載とうさいしていた。しかし、フランスのカネーしゃやドイツのクルップしゃ操作そうさ簡単かんたん装填そうてん作業さぎょうらく射程しゃていながのち装填そうてんしき開発かいはつされていた。オスマン帝国ていこく海軍かいぐんはイギリスとのつながりもうすれたため、ドイツのクルップしゃから大砲たいほうのカタログをせ、かくかんごとに搭載とうさい可能かのう大砲たいほうおおきさとかず検討けんとうしリストアップした。それと同時どうじに、アームストロングしゃには既存きそん大砲たいほう改造かいぞうしてこう装填そうてんしきにできるか、出来できたとして費用ひようはどのくらいかを確認かくにんした。同社どうしゃは「改造かいぞう可能かのう改造かいぞうは300~450ポンドで出来できるが、自社じしゃどう口径こうけいのち装填そうてんしきよりも射程しゃていおとる」と返答へんとうした。そのため、海軍かいぐん当時とうじ建造けんぞうちゅうであった装甲そうこうかん「ハミディイェ」とリストにげられた6せき程度ていど装甲そうこうかんへはあたらしくクルップしゃのち装填そうてんしきほう購入こうにゅうしてけることとし[5]のこりの程度ていどひく軍艦ぐんかんには既存きそんのアームストロングほう改造かいぞう装填そうてんしきにしたもの搭載とうさいすることを決定けっていした。しかし、かわそう予算よさんなんから遅々ちちとしてすすまず、結局けっきょくかわそう計画けいかく頓挫とんざしてぜん装填そうてんほうをそのまま使つかつづけることとなった。

さらに、艦隊かんたい装甲そうこうかん装甲そうこう材質ざいしつてつであったが、時代じだいすで鋼鉄こうてつとなっており、改装かいそうのために帝国ていこく製鋼せいこうよう施設しせつあらたに外国がいこくより購入こうにゅうし、国産こくさん鋼鉄こうてつ装甲そうこう鋼鉄こうてつえることとなった。また、おおくのかんでボイラーが20ねんながきにわたって整備せいびもされずに酷使こくしされつづけたため航行こうこうえないとしてえることとなった。ほんかんでさえスペックじょうは13.7ノットが発揮はっきできるとあるが、この時代じだい主力しゅりょくかんおおくは15ノット程度ていどせるので、かり補修ほしゅうして延命えんめいしたとしても主力しゅりょくかんとしてはどんあしにはちがいなかった。

1897ねん海軍かいぐん装甲そうこうかん「オスマニイェ」「マフムディイェ」「オルハニイェ」「アジィズェ[6]」の近代きんだい改装かいそう計画けいかく1889ねん予算よさんくだり、ようやく許可きょかされたため、1890ねんにまず「オスマニイェ」「アジィズェ」の2せき近代きんだい改装かいそう開始かいしされた。しかし、1891ねん海軍かいぐんはドイツに駆逐くちくかん4せき発注はっちゅうしたため、改装かいそう使つかえる予算よさんすくなくなった。そのためのこり2せき改装かいそう中止ちゅうし改装かいそうちゅうの2せき工事こうじ延期えんきかさねて「オスマニイェ」は1892ねん改装かいそう終了しゅうりょう、「アジィズェ」は1894ねんまでかってしまった。そしあらたに海軍かいぐん装甲そうこうかんなかでも状態じょうたい装甲そうこうかん選出せんしゅつされ、そのなかでもとししきあたらしく大型おおがた改装かいそう余地よちもあったほんかんえらばれた。

だい改装かいそうと、その結果けっか[編集へんしゅう]

イタリア海軍かいぐんヴェットール・ピサニきゅう装甲そうこう巡洋艦じゅんようかん「カルロ・アルベルト」。

ほんかん近代きんだい改装かいそう1903ねんまでイタリアのアンサルドしゃおこなわれた。この当時とうじイタリア海軍かいぐんアドリア海あどりあかい東部とうぶ地中海ちちゅうかい覇権はけんオーストリア=ハンガリー帝国ていこく海軍かいぐんあらそっており、どう時代じだい日本にっぽん海軍かいぐんおなじくイギリスにはんをとった優秀ゆうしゅう艦船かんせんおお建造けんぞうしてきた経験けいけんもあってのことであった。

かんがた[編集へんしゅう]

近代きんだい改装かいそうの「メスディイェ」。

近代きんだい改装かいそう内容ないよう老朽ろうきゅうした機関きかん新型しんがた機関きかんかわそうし、速度そくど性能せいのう航続こうぞく性能せいのう改善かいぜんった。甲板かんぱんじょう帆走はんそう設備せつびすべ撤去てっきょされ、これにより甲板かんぱんじょうひろ使用しようすることが出来できたため、建造けんぞう当時とうじでさえ旧態きゅうたいしていた主砲しゅほう舷側げんそく配置はいちあらためた。しゅ武装ぶそうぜんいしゆみきゅう戦艦せんかんのように甲板かんぱんじょう前後ぜんご砲塔ほうとうおさめた。既存きそんほうくるわには主砲しゅほうえてふくほうとしてちゅう口径こうけい速射そくしゃほうおさめ、あらたに船体せんたい各所かくしょたい水雷すいらいてい搭載とうさいふく火砲かほう新型しんがたおこなわれた。船体せんたい形状けいじょう改正かいせいなどだい規模きぼ工事こうじおこなわれた結果けっかかんよう近代きんだいされてどう世代せだい装甲そうこう巡洋艦じゅんようかん見紛みまが外観がいかんとなった。

主砲しゅほうにはイギリスの装甲そうこう巡洋艦じゅんようかん主砲しゅほうとしてひろもちいられている23.4cmほうえらばれ、これを衝角のいたかんくびから前部ぜんぶ甲板かんぱんじょうもうけられたバーベットうえ楕円だえんとうがたたんそうしき主砲しゅほうとうで1配置はいち、その背後はいごから上部じょうぶ構造こうぞうぶつ開始かいしし、そのうえ司令塔しれいとうねた艦橋かんきょうりょうわきには船橋ふなばし(ブリッジ)が設置せっちされた。機関きかん配置はいち変更へんこうともない、ボイラーしつ位置いち前進ぜんしんしたために2ほん煙突えんとつ艦橋かんきょう真後まうしろにてられた。2ほん煙突えんとつ両側りょうがわキセルかた通風つうふうとうかたふなばた3ずつけい6ち、その下部かぶ推進すいしん機関きかんしつ配置はいちしたためにスペースを無駄むだにせず原型げんけいの2ばんマストと場所ばしょだん見張みはしょミリタリー・マストが1配置はいちされ、だん見張みはしょ左右さゆうにはたい水雷すいらいてい迎撃げいげきように4.7cm(43口径こうけいたんそう速射そくしゃほう2配置はいちされ、その周囲しゅうい艦載かんさいていとした。艦載かんさいてい後部こうぶミリタリーマストの基部きぶクレーン4と2ほん1くみのボート・ダビッドがかたふなばたに2くみずつけい4くみにより運用うんようされた。マストのうしろに後部こうぶ見張みはしょがあり、そこから甲板かんぱんいちだんぶんがって後部こうぶ甲板かんぱんはじまり、23.4cmたんそう主砲しゅほうとううしきに1配置はいちされた。

前述ぜんじゅつのとおり改装かいそうまえにあったほうくるわ(ケースメイト)は撤去てっきょされずにそのままふくほうとして15.2cm速射そくしゃほうおさめられ、たんそうほうかたふなばた6ずつけい12配置はいちされた。また、あらたにたい水雷すいらいていように57mmたんそう速射そくしゃほうが10装備そうびされたが、搭載とうさい位置いち艦載かんさいてい四隅よすみかたふなばた2ずつけい4、1ばん主砲しゅほうとう側面そくめんに1ずつけい2かんがわ左右さゆうに1ずつけい2、そして司令塔しれいとう天蓋てんがいに1後部こうぶ見張みはしょうしきに1配置はいちである。この武装ぶそう配置はいちにより前後ぜんご方向ほうこう最大さいだいで23.4cmほう1もん・15.2cmほう2もん・5.7cmほう4もん左右さゆう方向ほうこうに23.4cmほう2もん、15.2cmほう4もん・5.7cmほう5もんけることが出来でき設計せっけいであった。

しかし、当時とうじのオスマン帝国ていこく海軍かいぐん慢性まんせいてき予算よさんなんにあり、主砲しゅほう代金だいきん支払しはらいが竣工しゅんこうまでにわず、主砲しゅほうとうこそけられたものの、肝心かんじんしゅ砲身ほうしんけられなかった。そのため、見栄みばえの観点かんてんからしゅ砲身ほうしん木製もくせいダミー砲塔ほうとうけられたが結局けっきょくところ戦没せんぼつまでほんかんしゅ砲身ほうしんはダミーのままであった。そのためほんかんしゅ武装ぶそうふくへいそうの15.2cmたんそう速射そくしゃほう12であるとえるがそれでも船体せんたいおおきさをかんがえれば充分じゅうぶん火力かりょくである。

武装ぶそう[編集へんしゅう]

主砲しゅほう搭載とうさい[編集へんしゅう]

主砲しゅほうはイギリスのアームストロングしゃ開発かいはつの「1893ねんがた 23.4cm(40口径こうけいライフルほう」を採用さいようした。その性能せいのう重量じゅうりょう172.4kgの砲弾ほうだんを、最大さいだい仰角ぎょうかく15で11,745mまでとどかせられる性能せいのうであった。このほうたんそう砲塔ほうとう前後ぜんごに1ずつ配置はいちされた。ほう俯仰ふぎょう能力のうりょく仰角ぎょうかく15俯角ふかく5である。旋回せんかい角度かくど左右さゆう150旋回せんかい角度かくどつ、しゅ砲身ほうしん俯仰ふぎょう砲塔ほうとう旋回せんかい砲弾ほうだんあげだん装填そうてん電力でんりょくおこなわれ補助ほじょ人力じんりき必要ひつようとした。発射はっしゃ速度そくどは1分間ふんかんに2はつであった。

その備砲びほう水雷すいらいへいそう[編集へんしゅう]

ふくほうはイギリスのアームストロングしゃ開発かいはつの「1893ねんがた Marks VIII 15.2cm(45口径こうけいたんそう速射そくしゃほう」を採用さいようした。その性能せいのうは45.4kgの砲弾ほうだんを、最大さいだい仰角ぎょうかく20で13,350mまでとどかせられた。このほうたんそうほうかたふなばた6ずつけい12舷側げんそく配置はいちした。俯仰ふぎょう能力のうりょく仰角ぎょうかく20俯角ふかく7である。旋回せんかい角度かくどは160旋回せんかい角度かくどち、ほう俯仰ふぎょう旋回せんかい砲弾ほうだんあげだん装填そうてんおも人力じんりき必要ひつようとした。発射はっしゃ速度そくどは1分間ふんかんに5~6はつであった。

たい水雷すいらいてい迎撃げいげきように「7.62cm(40口径こうけいたんそう速射そくしゃほう14、5.7cm(43口径こうけいたんそう速射そくしゃほう10、1888ねんがた 4.7cm(43口径こうけいたんそう速射そくしゃほう2搭載とうさいした。

防御ぼうぎょ[編集へんしゅう]

ほんかん防御ぼうぎょりょく排水はいすいりょうわり優秀ゆうしゅうで、舷側げんそく装甲そうこう末端まったんでさえ152mmから178mm、中央ちゅうおうは254mmにもたっする重厚じゅうこう水線すいせん装甲そうこうっていた。砲塔ほうとうさいあつが280mm、甲板かんぱんじょうバーベットも200mmものあつさがあったが、甲板かんぱんからした砲弾ほうだんそうやくはこあげだんとう弾薬だんやくつづいているだけあった。

だいいち世界せかい大戦たいせん[編集へんしゅう]

ほんかんとB11の構図こうず

竣工しゅんこうほんかん主要しゅよう任務にんむ黒海こっかいうち沿岸えんがん警備けいび任務にんむであったが、最新さいしんがたのニクローズかんあつかいに不慣ふなれなオスマン帝国ていこく機関きかんへいにより1911ねんにはほんかん機関きかん調子ちょうしくずして復旧ふっきゅう困難こんなんとなり、バルカン戦争せんそう特筆とくひつすべき出撃しゅつげきかった。だいいち世界せかい大戦たいせんころにはダーダネルス海峡かいきょうのトルコがわくち停泊ていはくし、砲術ほうじゅついんとその保守ほしゅ要員よういんだけに減員げんいんされて港湾こうわん砲台ほうだいとして運用うんようされた。そして1914ねん12月13にち湾内わんない侵入しんにゅうしてきたイギリス海軍かいぐんBきゅう潜水せんすいかん「B11」の雷撃らいげきけ、魚雷ぎょらい1ほん命中めいちゅうにより撃沈げきちんされてしまった。しかし、港内こうないということもあり水深すいしんあさかったために完全かんぜんうみぼつせずにんだのが不幸ふこうちゅうさいわいであった。減員げんいんされていたため犠牲ぎせいしゃすくなくんだうえ一部いちぶ武装ぶそう回収かいしゅうされて陸上りくじょう砲台ほうだいまわされた。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 「フフズッラマーン」「アーサール・シヴシュケド」「ニジュミ・シヴシュケド」「イジャリィエ」))ちゅうのうち、有事ゆうじ出撃しゅつげき可能かのうなものは6せき装甲そうこうフリゲート「アサル・テヴフィク」「メスディイェ(ほんかん)」、装甲そうこうコルベット「アヴ・ニッラー」「ムイーニ・ザファー」「フェトヒ・ビュレント」「ムカッデメイ・ハユル」)のみである。(このときすで艦隊かんたいは3ねん以上いじょう機器きき手入ていれがなされておらず、夜間やかん攻撃こうげきそなえるためのサーチライトがない、魚雷ぎょらい攻撃こうげきから停泊ていはくする艦艇かんていまもるためのぼうかみなりもうがない、停泊ていはくから5ねん経過けいかしただけで、14せきもの装甲そうこうかんがありながら戦闘せんとう出撃しゅつげき可能かのうなのはたったの6せきということ
  2. ^ ぜん装填そうてんしきとは大砲たいほうまえから砲弾ほうだん炸薬さくやくれる形式けいしきこう装填そうてんしきとは現代げんだいかんほうおなじくてきほうこうけたまま大砲たいほう後部こうぶひらいて砲弾ほうだん炸薬さくやくれることの出来でき形式けいしきのこと
  3. ^ 艦隊かんたい燃料ねんりょう石炭せきたん石油せきゆ購入こうにゅうする予算よさんく、備蓄びちくさえしていない。燃料ねんりょうなどの重要じゅうよう軍事ぐんじ物資ぶっし有事ゆうじ迅速じんそく調達ちょうたつできるものではない
  4. ^ あんじょう召集しょうしゅうされた予備よびやくまった訓練くんれんけていなかったために現場げんばではなんやくにもたなく。ただ船内せんないのベッドをめ、食料しょくりょう消費しょうひしただけだった。きわめつけはいまっている乗員じょういん新兵しんぺいうみ経験けいけんいので、うみると船酔ふなよいのため航海こうかい砲術ほうじゅつ訓練くんれん出来できないという暗澹あんたんたる有様ありさまであった。
  5. ^ 「ハミディイェ」に24cmたんそうほう10と17cmたんそうほう2、「メスディイェ(ほんかん)」に26cmたんそうほう12など
  6. ^ きゅう:アブデュルアズィズ

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

参考さんこう図書としょ[編集へんしゅう]

  • 世界せかい艦船かんせん増刊ぞうかん だい30しゅう イギリス戦艦せんかん」(海人あましゃ
  • 「Conway All The World's Fightingships 1860-1905」(Conway)
  • 世界せかいリブレット 小松こまつ香織かおりちょ オスマン帝国ていこく近代きんだい海軍かいぐん」(山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ)2004ねん2がつ出版しゅっぱん
  • 山川やまかわ歴史れきしモノグラフ 小松こまつ香織かおりちょ オスマン帝国ていこく海運かいうん海軍かいぐん」(山川やまかわ出版しゅっぱんしゃ)2002ねん11月出版しゅっぱん

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]

  • Mesudiyeほんかん説明せつめい近代きんだい改装かいそう以前いぜんほんかん写真しゃしんられる。