ヤドランカ

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ヤドランカ
Jadranka
ヤドランカ(2011ねん
基本きほん情報じょうほう
生誕せいたん 1950ねん7がつ24にち
ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の旗 ユーゴスラビアボスニア・ヘルツェゴビナ社会しゃかい主義しゅぎ共和きょうわこく
サラエヴォ
死没しぼつ (2016-05-03) 2016ねん5月3にち(65さいぼつ
ボスニア・ヘルツェゴビナの旗 ボスニア・ヘルツェゴビナ
バニャ・ルカ
学歴がくれき フィロゾフスキー大学だいがく 卒業そつぎょう
サラエヴォ国立こくりつ美術びじゅつ大学だいがく 卒業そつぎょう
ジャンル ワールドミュージック環境かんきょう音楽おんがく
職業しょくぎょう シンガーソングライター画家がか
担当たんとう楽器がっき ボーカル
活動かつどう期間きかん 1972ねん - 2011ねん
公式こうしきサイト jadranka-jp.com

ヤドランカ・ストヤコヴィッチJadranka Stojaković / セルビアキリル Јадранка Стојаковић、1950ねん7がつ24にち - 2016ねん5月3にち[1])は、日本にっぽんでの活動かつどうでもられるユーゴスラビアげんボスニア・ヘルツェゴビナサラエヴォ出身しゅっしんシンガーソングライター歌手かしゅ

来歴らいれき[編集へんしゅう]

16さいときドイツんでいた叔父おじのジャズグループにくわわり、ベースとボーカルを担当たんとう。フィロゾフスキー大学だいがく心理しんりがく専攻せんこうし、卒業そつぎょうさらにサラエヴォ国立こくりつ美術びじゅつ大学だいがく絵画かいがまなぶ。

1984ねんサラエボオリンピックのメインテーマきょく作詞さくし作曲さっきょくみずからそのテーマきょくうたい、一躍いちやくユーゴスラビアの国民こくみんてき歌手かしゅとなる。

以前いぜんから日本にっぽん文化ぶんかとく浮世絵うきよえ俳句はいく興味きょうみいていた。1988ねん日本にっぽんレコーディングおこなうために来日らいにちするが、そのあいだ祖国そこくボスニア内戦ないせんひどくなり、それ以降いこう2011ねんまで日本にっぽん活動かつどう拠点きょてんとしていた。

おもなアルバムは『サラエボのバラード』『ベイビー・ユニバース』『ムーン・ウィル・ガイド・ユー』など。母国ぼこくセルビア・クロアチア以外いがいにも英語えいご日本語にほんごでもうたっており、NHK教育きょういくあつまれ!じゃんけんぽん』の主題歌しゅだいかTBSかみ々の』の挿入歌そうにゅうかなどもがけた。2001ねんには坂本さかもと龍一りゅういちびかけた「地雷じらいZERO」キャンペーンにもボーカリストとして参加さんか、TBS『NEWS23』にも出演しゅつえん注目ちゅうもくあつめる。歌手かしゅだけではなく画家がかとしても幅広はばひろ活躍かつやくした。

海外かいがいではイギリスの有名ゆうめい『SONGLiNES』でヤドランカのきょく代表だいひょうきょくとして収録しゅうろくされたCDが2007年度ねんど年間ねんかんベスト・アルバムにえらばれ、ヨーロッパで話題わだいになった。

2009ねん6がつには、くにから40年間ねんかんにわたって音楽おんがく分野ぶんや貢献こうけんしたことを評価ひょうかするしょうあたえられた(日本にっぽんでは文化ぶんか勲章くんしょうにあたる)。

国内こくないでは、映画えいがたましいえ!』の主題歌しゅだいかほか、2009ねん4がつからのテレビ東京てれびとうきょう系列けいれつ報道ほうどうドキュメンタリー番組ばんぐみルビコンの決断けつだん』のテーマソング(作曲さっきょく新井あらいまことこころざし 編曲へんきょく渡辺わたなべ俊幸としゆき)もうたった。映像えいぞう作家さっか高木たかぎ正勝まさかつのプロジェクトにも参加さんかし、7がつにはドキュメンタリー映画えいが渋谷しぶやユーロスペース皮切かわきりにカナダ・名古屋なごや各地かくち上映じょうえいされた。

2011ねん4がつには、NHK『みんなのうた』において母国ぼこくボスニアの民族みんぞく楽器がっきめいをタイトルにかんした「だれかがサズをいていた」がオンエアされた。

2011ねん3がつクロアチアでの仕事しごとのため帰国きこくしていたさいすじ萎縮いしゅくせいがわさく硬化こうかしょう診断しんだん[2]され、バニャ・ルカ養護ようごホームで闘病とうびょうしていた。すじ萎縮いしゅくせいがわさく硬化こうかしょうによる呼吸こきゅう不全ふぜんのため、2016ねん5月3にちよるおそくにバニャ・ルカの病院びょういん死去しきょ[3]。5月7にちにサラエヴォで追悼ついとうしきが、5月9にちにはバニャ・ルカで追悼ついとうしき葬儀そうぎおこなわれた[2]

ディスコグラフィ[編集へんしゅう]

スタジオ・アルバム[編集へんしゅう]

  • Svitanje (1981ねん、Diskoton Sarajevo)
  • Da odmoriš malo dušu (1982ねん、Diskoton Sarajevo)
  • Sve te više volim (1985ねん、Sarajevo disk)
  • Vjerujem (1987ねん、PGP RTB)
  • しんじているの』 - Vjerujem (1989ねん、Popsize) ※上記じょうきアルバムの日本語にほんごばん
  • はだかのドゥーシャ』 - Duša (1990ねん、Popsize)
  • 『アンジョ』 - Andjo (1991ねん、Popsize)
  • 『サラエボのバラード』 - Sarajevo balada (1994ねん、Omagatoki)
  • 『ベイビー・ユニバース』 - Baby Universe (1996ねん、Omagatoki)[4]
  • 『ムーン・ウィル・ガイド・ユー』 - Moon Will Guide You (2000ねん、Omagatoki)
  • 『ひとり』 (2003ねん、U-LEAG) ※EP
  • 音色ねいろ おといろ』 - Otoiro - Adriatic Muse On The Cruise (2007ねん、Omagatoki)
  • Daleko (2011ねん、Croatia)

コンピレーション・アルバム[編集へんしゅう]

  • Jadranka (1976ねん、PGP RTB)
  • Sve Smo Mogli Mi... I Drugi Hitovi (2000ねん、Taped Pictures, PGP)
  • Sevdalinka: Sarajevo Love Songs (2007ねん、Piranha)
  • Boje Zvuka / Kompilacija Sa Singl Ploča I Albuma 1973-2011 (2011ねん、МПРТРС)
  • The Best Of Collection (2015ねん、Croatia)
  • 『フヴァーラ〜ありがとう ヤドランカ・ベスト』 - Hvala (2016ねん日本にほんコロムビア)
  • 『シュトテネーマ〜あのうたこえる〜』 - Što Te Nema (2021ねん日本にほんコロムビア)

シングル[編集へんしゅう]

  • 「アラベスク」 (1989ねん)
  • はだかのドゥーシャ」 (1990ねん)
  • 「カレッジ・ブランジョ」 (1991ねん)
  • ふうよ!FORTISSIMO」 (1994ねん)
  • かなしみをやして」 (1996ねん)
  • 勇気ゆうき」 (2003ねん)
  • 「アマリア / リュビッツァ〜すみれ〜」 (2010ねん)

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ Preminula Jadranka Stojaković”. Blic (2016ねん5がつ4にち). 2016ねん5がつ5にち閲覧えつらん
  2. ^ a b 「ヤドランカ オフィシャルホームページ for japan」トップページより
  3. ^ [1]
  4. ^ Jadranka Stojaković Discography”. Discogs. 2016ねん10がつ19にち閲覧えつらん

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]