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ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー

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ヘルダー

ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー(Johann Gottfried von Herder, 1744ねん8がつ25にち - 1803ねん12月18にち)は、ドイツの哲学てつがくしゃ文学ぶんがくしゃ詩人しじん神学しんがくしゃ

カント哲学てつがくなどに触発しょくはつされ、わかゲーテシュトゥルム・ウント・ドラング、ドイツ古典こてん主義しゅぎ文学ぶんがくおよびドイツロマン主義しゅぎ多大ただい影響えいきょうのこすなどドイツ文学ぶんがく哲学てつがく両面りょうめんにおいてわすれることの出来できない人物じんぶつである。すぐれた言語げんごろん歴史れきし哲学てつがくさくのこしたほか、一世いっせい風靡ふうびしていたカントの超越ちょうえつろんてき観念論かんねんろん哲学てつがく対決たいけつし、歴史れきしてき人間にんげん発生はっせいがくてき見地けんちから自身じしん哲学てつがく展開てんかいし、カントの哲学てつがくとはちがっためんで20世紀せいき哲学てつがく影響えいきょうあたえた人物じんぶつとしてもられている。

地質ちしつ学者がくしゃ鉱物こうぶつ学者がくしゃジギムント・アウグスト・ヴォルフガング・ヘルダー息子むすこで、植物しょくぶつ学者がくしゃフェルディナント・ゴットフリート・フォン・ヘルダーまごである。

生涯しょうがい

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ちからケーニヒスベルクまで

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ひがしプロイセンモールンゲン現在げんざいポーランドヴァルミア=マズールィけんオストルダぐんモロンク)に、織物おりもの職人しょくにんとしてまれる。家庭かてい裕福ゆうふくではなく、父親ちちおやオルガン奏者そうしゃ小学校しょうがっこう教員きょういんなどで家計かけい維持いじしていた。ヘルダーは学校がっこうでは抜群ばつぐん成績せいせきのこしていたが、貧困ひんこんのため大学だいがくには進学しんがくできずにいた。1761ねんななねん戦争せんそうからロシアへげる途中とちゅう、モールンゲンに駐在ちゅうざいしていた軍医ぐんいによってヘルダーの才能さいのう見出みいだされ、軍医ぐんいかれ外科げかにするためにケーニヒスベルクれていき、ケーニヒスベルク大学だいがく医学部いがくぶ入学にゅうがくさせた。しかし、医学部いがくぶ授業じゅぎょうには馴染なじめず神学しんがくてん。たまたまとう大学だいがく哲学てつがく担当たんとうしていたカントの講義こうぎき、おおいに刺激しげきけた(ただし、このころのカントは批判ひはん以前いぜんで、カントは物理ぶつりがくから地理ちりがくまで担当たんとうしており、この百科全書ひゃっかぜんしょてき知識ちしきにヘルダーはかれたらしい)。そのも、友人ゆうじん、ライバルとして、カントは生涯しょうがいつうじてヘルダーに影響えいきょうあたえた人物じんぶつであった。

当地とうちではカント以上いじょう親交しんこうふかかった人物じんぶつがいた。「きた博士はかせ」の異名いみょうをもつ思想家しそうかハーマンである。ハーマンはケーニヒスベルク出身しゅっしんで、ヘルダーが当地とうちまなんでいたときは、すでに「ロンドンの回心かいしん」ののちであり、当地とうちもどってえい文学ぶんがくやイスラムがく研究けんきゅうしていた。ハーマン代々だいだい眼科がんかで、ヘルダーがびょうわずらってハーマンの診療しんりょうしょとおったことが、かれ機縁きえんであったといわれている。敬虔けいけんなヘルダーにとってハーマンの存在そんざい魅力みりょくてきであり、ハーマンからシェイクスピア文学ぶんがくディヴィッド・ヒューム哲学てつがくなどをまなんだといわれている。そのヘルダーは大学だいがく卒業そつぎょう、ハーマンの紹介しょうかいでケーニヒスベルクよりさらに北方ほっぽうリガだい聖堂せいどう説教せっきょうことができた。

リガからフランス滞在たいざいまで

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当地とうちリガでは熱心ねっしん教育きょういくぶりがわれ、好評こうひょうであった。またハーマンの発行はっこうする文芸ぶんげい新聞しんぶんにハーマンの批評ひひょうをすることができた。この批評ひひょう好評こうひょうで、ヘルダーの文芸ぶんげい評論ひょうろん才能さいのう世間せけんみとめさせることになった。1766ねんからは文筆ぶんぴつ活動かつどう開始かいし、『現代げんだいドイツ文学ぶんがく断章だんしょう』を出版しゅっぱん。これは、ゴットホルト・エフライム・レッシングモーゼス・メンデルスゾーントマス・アプトらが中心ちゅうしんとなって編集へんしゅうしていた『最近さいきんのドイツ文学ぶんがくかんする文学ぶんがく書簡しょかん』という雑誌ざっしたいする見解けんかいもとになっており、文芸ぶんげい評論ひょうろんおおきな影響えいきょうあたえた。すでにこのなか歴史れきし主義しゅぎてき見解けんかいべられ、ヘルダーの言語げんご哲学てつがく歴史れきし哲学てつがく大元おおもと出来上できあがっている。この文芸ぶんげい評論ひょうろんによってたちまち著名ちょめいになったヘルダーであったが、改版かいはんどう評論ひょうろんにおける、ベルリン大学だいがく雄弁ゆうべんじゅつ教授きょうじゅクリスティアン・アドルフ・クロッツたいする評価ひょうか原因げんいんでクロッツによる非難ひなんはじまり、論争ろんそうになった。ついで出版しゅっぱんされた『批判ひはん論叢ろんそう』(あるいは批判ひはんもり。クロッツにたいする反論はんろん)や『ヘブライじん考古学こうこがく』など、歴史れきしとしてのヘルダーの著作ちょさくが、汎神論はんしんろんてき見解けんかいによってリガで聖職せいしょくしゃである人物じんぶつにふさわしくないと非難ひなんされる。これも一因いちいんとなってかれはリガをり、フランス文学ぶんがくたいする知見ちけんひろめようとフランスへけて旅立たびだった。1769ねんであった。リガから中継ちゅうけいて、パリにまでおもむいた記録きろくが『フランスへのたび日誌にっし』という著作ちょさくである。ヘルダーは、フランスの哲学てつがくしゃ著作ちょさくなどをみあさり、パリではディドロダランベール訪問ほうもんした。ほどなくして、ドイツの王子おうじ教養きょうよう旅行りょこう同伴どうはんしゃはなしがきて、またドイツへとかえった。1770ねんのことであった。

ゲーテとの出会であ

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わかころのゲーテの肖像しょうぞう。ヘルダーは、文芸ぶんげい評論ひょうろんとしてすでに有名ゆうめいであったのにたいして、当時とうじゲーテは、まだシュトラスブルクの無名むめい学生がくせいであった

ドイツへの帰路きろせん難破なんぱしたが、うんすくされ、九死きゅうし一生いっしょうた。途中とちゅうハンブルクではレッシングとうことができた。その任務にんむである王子おうじのおともをし、イタリアへと旅立たびだった。途中とちゅうまちで、つまになるカロリーネ・フラックスラントう。しかし、宮中きゅうちゅうほか人物じんぶつたちとうまがわず、なかなかおもうようにいかない旅行りょこうだった。そこへかれ性格せいかくてきした牧師ぼくしはなしとどき、シュトラスブルク滞在たいざいちゅう王子おうじ同伴どうはん辞退じたいもうれる。びょういやしながらその準備じゅんびをしていたとき当地とうち学生がくせいであったわかゲーテがヘルダーをたずねてくるという、ドイツ文学ぶんがく史上しじょう特筆とくひつすべき出会であいがあった。ゲーテはヘルダーからシュトゥルム・ウント・ドラングというあたらしい文学ぶんがくかんまれたのであった。1771ねんはるであった。

また、かねてからヘルダーの哲学てつがくにおいてつね関心かんしん中心ちゅうしんにあった言語げんご問題もんだいかんする懸賞けんしょう論文ろんぶん執筆しっぴつし、『言語げんご起源きげんろん』として1772ねん出版しゅっぱんした。ヨハン・ペーター・ジュスミルヒJohann Peter Süßmilch)の言語げんご神授しんじゅせつたいして、ヘルダーは言語げんご人間にんげんによってのみつくされたものであるとし、かみによる創造そうぞう徹頭徹尾てっとうてつび否定ひていしたのである。このしょは、神秘しんぴてき思想しそう師匠ししょうのハーマンには批判ひはんされたが、ヴィルヘルム・フォン・フンボルトなどにも影響えいきょうあたえ、近代きんだい言語げんごがくいしずえにもなった。

ヴァイマルへ

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シュトラスブルク滞在たいざい、かねてからのぞんでいた牧師ぼくししょくについた。場所ばしょは、ザクセン公国こうこくげんニーダーザクセンしゅう)のしょう都市としビュッケブルク(Bückeburg)である。文学ぶんがくだけでは生計せいけいがままならず、孤独こどく時期じきでもあった。1776ねんヴァイマル政治せいじをしていたゲーテの尽力じんりょくにより、ヴァイマル公国こうこく宗務しゅうむ管区かんくそう監督かんとくにつくことができ、学者がくしゃとしておおいに活躍かつやくすることができた。このころのゲーテは、すで疾風しっぷう怒濤どとう時代じだいはなれていた。1780年代ねんだいには、ヘルダーはゲーテと共同きょうどう当時とうじタブーであったスピノザ哲学てつがく研究けんきゅうする(スピノザ論争ろんそう機縁きえんになるとともに、現代げんだいにおけるスピノザ研究けんきゅういしずえになった)など、ドイツでも屈指くっし著名ちょめい学者がくしゃになっていた。1784ねんから1791ねんにかけて、未刊みかん大著たいちょ人類じんるい歴史れきし哲学てつがくこう』をあらわし、人類じんるい歴史れきし発展はってん過程かていを「人間にんげんせい」と「時代じだい精神せいしん」という概念がいねんじく論述ろんじゅつした。またフランス革命かくめい感銘かんめいけ、『人間にんげんせい促進そくしんのための書簡しょかん』(1793-95ねん)をあらわした。これはかの歴史れきしてき出来事できごとを、ヘルダーの依拠いきょした人間にんげんせい時代じだい精神せいしん観点かんてんから考察こうさつしたものである。いずれも古典こてん主義しゅぎ文学ぶんがくられるゲーテの美的びてき世界せかいかんたいする批判ひはんでもあった。これらのしょたいしては、ゲーテやシラー、カントらからきびしい評価ひょうかがなされる。

これへの応酬おうしゅうとして、ヘルダーは、かつての恩師おんし当時とうじドイツ哲学てつがくかい席巻せっけんしていたカントのとなえた批判ひはん哲学てつがくたいするさい批判ひはんしょ純粋じゅんすい理性りせい批判ひはんのメタ批判ひはん』(1799ねん)、『カリゴーネ』(1800ねん)をあらわす。ヘルダーによれば、カントの哲学てつがく人間にんげん意識いしき個々ここしょ能力のうりょく分解ぶんかいし、対象たいしょう世界せかいを「現象げんしょう」と「もの自体じたい」という生命せいめいてきなものに分断ぶんだんしており、「純粋じゅんすい理性りせい」や「ア・プリオリ認識にんしき」などは人間にんげん理性りせい本来ほんらい姿すがたをわきまえないたんなる「言葉ことば乱用らんよう」であり、カント哲学てつがく人間にんげん理性りせい本来ほんらい姿すがたである言語げんご問題もんだいをいっこうに直視ちょくししていないという。人間にんげんせい歴史れきしせい重視じゅうしするヘルダーの哲学てつがくらしい立場たちばをみせるが、これらのしょかれのカント哲学てつがくたいする誤解ごかい理解りかい不足ふそくみとめられたのも事実じじつであった。しかしヘルダーの哲学てつがくが、19世紀せいきから20世紀せいきにかけてカント以来いらいのドイツ観念論かんねんろん哲学てつがく批判ひはんてき検討けんとうされ、歴史れきし主義しゅぎ人間にんげんがくてき立場たちば旺盛おうせいになるにつれて、この先駆せんくをなすもののひとつとして評価ひょうかされていることも見逃みのがせない。 文化ぶんか中心地ちゅうしんちヴァイマルにおいて、ヘルダーにしてみれば、時代じだい自身じしんかんがえをれようとはせず、友人ゆうじん恩師おんしとも論争ろんそうかえさなければならないという苦悩くのう晩年ばんねんごしつつ、1803ねんに59さいぼっした。

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