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ルクトゥン - Wikipedia コンテンツにスキップ

ルクトゥン

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ルクトゥン
ลูกทุ่ง
様式ようしきてき起源きげん タイ歌謡かよう
文化ぶんかてき起源きげん 1938ねん
タイ王国の旗 タイ
使用しよう楽器がっき ボーカル, 西洋せいよう楽器がっき, タイ楽器がっき, 電子でんし楽器がっき
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ルクトゥン (ลูกทุ่ง)はタイ王国おうこく大衆たいしゅう歌謡かようのジャンルのひとつ。田舎いなかという意味合いみあいがつよい。ここでは「ルクトゥン」表記ひょうきだが、一般いっぱんてきには「ルークトゥン」が浸透しんとうしており、現地げんち発音はつおんちかい。

最初さいしょのルクトゥンとされる楽曲がっきょくがヘム・ウェッジャコーン(เหม เวชกร作詞さくし作曲さっきょく、カムロン・サムブンナノン(คำรณ สัมบุณณานนท์歌唱かしょうの「オー・ジャオサオチャーウライ(โอ้ เจ้าสาวชาวไร่‐おお、農家のうか花嫁はなよめ)」で、1938ねんのラジオドラマのげきちゅううただった。

ラーマ5せい治世ちせい末期まっきからラーマ6せいころ西洋せいよう音楽おんがくまなぼうとイタリアから西洋せいよう楽器がっきとその奏法そうほう音楽おんがく理論りろんれ、その影響えいきょうつくられた楽曲がっきょく(おもに歌謡かようきょく)を「ルククルン(ลูกกรุง)」とんだ。1931ねんころである。ルククルンが、それまでの民謡みんようなどと決定的けっていてきちがったのは、伴奏ばんそう西洋せいよう楽器がっき使つかうこと、12平均へいきんりつ旋法せんぽうもちいるなど西洋せいよう音楽おんがく理論りろんもとづいた曲調きょくちょうと、おおげさなコブシをはいした、いわゆるノン・ビブラート唱法にちか都会とかいてき歌唱かしょうだった。ルククルンという言葉ことばはルーク(ลูก‐子供こどもという意味いみ)+クルン(กรุง‐)で、都会とかい、といった意味いみになる。

これにおくれてあらわれた田舎いなかはルククルンと対照たいしょうてきペンタトニックスケール基調きちょうとなった「泥臭どろくさい」旋律せんりつや「こぶしかせた情緒じょうちょてきな」歌唱かしょうがタイの庶民しょみんしんつかみ、いつしかルーク(ลูก‐子供こども)+トゥン(ทุ่ง‐原野げんや)で「田舎いなか」、すなわちルクトゥンの人口じんこう膾炙かいしゃした。

現在げんざいルクトゥンはタイの音楽おんがく市場いちば売上うりあげのもっと主要しゅようなジャンルで、半期はんきで1,000‐1,500まんバーツちょう売上うりあげている。地域ちいきによる内訳うちわけ東北とうほくイーサーン地方ちほう)が50%、バンコクチェンマイなどをふく中央ちゅうおう北部ほくぶわせて35%、マレまれ半島はんとうぞくする南部なんぶが15%となる。

ルクトゥンの舞台ぶたい

概略がいりゃく

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初期しょき

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ルクトゥンの原型げんけいのひとつはタイ民謡みんようเพลงพื้นเมือง)で、ルクトゥンが黎明れいめいむかえるころまで1きょくごとの上演じょうえん時間じかん非常ひじょうながかった。これは当時とうじしょ外国がいこく音楽おんがく事情じじょう同様どうように、レコードやラジオの普及ふきゅうによってなんでもおなきょくかえくことができるようになったことにより、それまでのように執拗しつようしゅ旋律せんりつ反復はんぷくして聴衆ちょうしゅう印象いんしょうづける必要ひつようがなくなったことや、SPレコード(78rpm record)の収録しゅうろく時間じかん制約せいやくによってみじかくなったものとかんがえられる。さらに、もうひとつの原型げんけい演劇えんげきなどの舞台ぶたい音楽おんがくで、映画えいが一般いっぱん普及ふきゅうするまえは、げきちゅううたなんきょく挿入そうにゅうされることはめずらしいことではなかった。また、うたおどりだけで構成こうせいされる舞台ぶたいさかんで、王室おうしつ内外ないがいのタイじん人気にんきがあった。舞台ぶたい関係かんけい楽曲がっきょくも、民謡みんよう理由りゆうおなじくルクトゥンの黎明れいめいまで1きょく演奏えんそう時間じかん非常ひじょうながいものだった[1]

ルクトゥンという言葉ことばおおやけ使つかわれた記録きろく最初さいしょは、ルクトゥン登場とうじょうからおくれること四半世紀しはんせいきた1964ねん5がつ1にちで、チャムノン・ランシクン(จำนง รังสิกุล制作せいさくのラジオ番組ばんぐみめい「ルクトゥン歌謡かよう(เพลงลูกทุ่ง)」が初出しょしゅつである[2]

初期しょきは、ルクトゥンというあらわすように、農作業のうさぎょうかたわらで自然しぜん発生はっせいてきうたわれた労働ろうどうや、農作業のうさぎょううたにした楽曲がっきょくなどがおおくみられた。

競合きょうごう

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ルクトゥンの最初さいしょ競合きょうごうは1970-72で、競争きょうそう相手あいて前述ぜんじゅつのルククルンだった。どちらも映画えいが主題歌しゅだいか挿入歌そうにゅうかとして人気にんきはくし、この時期じきたくさんの名曲めいきょくつくられた。いくにんもの歌手かしゅ映画えいが出演しゅつえんし、さらに主演しゅえんもし、あまつさえ人気にんきはくするものまでいて、その競合きょうごう熾烈しれつきわめたが、優等生ゆうとうせいてきなルククルンよりも、庶民しょみんてきなルクトゥンのほうがタイ庶民しょみん支持しじけ、この競争きょうそうのあとルククルン人気にんき下火したびになる。[3]

世情せじょうとルクトゥン

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1973ねん10がつ14にち事件じけん日曜日にちようび事件じけん)ののち、タイの庶民しょみん一部いちぶはルクトゥンにしんやすらぎをもとめたのか、まるで事件じけんをきっかけにしたようにスラポン・ソムバッチャルーンはじめとするルクトゥン歌手かしゅ人気にんき急上昇きゅうじょうしょうした。特筆とくひつすべきは歌詞かし内容ないようで、それまで労働ろうどうや、映画えいがものてき作品さくひんおおかったのが、このころから実生活じっせいかつそくしたリアルな題材だいざい歌詞かしみ、また表現ひょうげん方法ほうほう押韻おういん暗喩あんゆ対句ついく擬人ぎじんほうなどの技法ぎほうむことが一般いっぱんてきになった。この風潮ふうちょうはのちにあらわれるタイポップ、ロックなどの歌詞かしにまで踏襲とうしゅうされることになり、タイの流行りゅうこうそうじて歌詞かし文芸ぶんげい水準すいじゅんたか[4]

1976ねん10がつ6にち事件じけん水曜日すいようび事件じけん)ののち労働ろうどうとしてのルクトゥンはりをひそめた。歌詞かし農民のうみん生活せいかつそのものよりも個々人ここじん心象しんしょううつくしさに焦点しょうてんわせ、歌詞かし対象たいしょう従来じゅうらい農民のうみんだけでなく、わか女性じょせい水商売みずしょうばい、マッサージじょう労働ろうどうしゃ従業じゅうぎょういんはじめアラブ諸国しょこくへの出稼でかせ労働ろうどうしゃ、ウェイトレス、愛人あいじん、トゥクトゥク運転うんてんしゅなど、弱者じゃくしゃったものになっていく[5]

1976ねんれから1977ねんにかけて、ルクトゥン業界ぎょうかい世情せじょう反映はんえい疲弊ひへいし、レコードやカセット・テープのげはんだ。

あたらしいなみ

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そして1977‐1985ねんあいだにはルクトゥンとルククルンをいてそだった世代せだいがデビューした。このころルクトゥン歌謡かよう発展はってん目覚めざましく、ルクトゥンの業界ぎょうかいにもさらに資本しほん投下とうかされ、ショーがもよおされ、きコンテストが開催かいさいされ、バックダンサーのおどりと衣装いしょう革命かくめいもたらされた。まさに成熟せいじゅくっていい。

この時期じき作詞さくし作曲さっきょくとしては、チョラティ・タントン(ชลธี ธารทอง)、チャロン・プーサワン(ฉลอง ภู่สว่าง)、カムピー・セントーン(คัมภีร์ แสงทอง)、チャヤポン・ムアンスパン(ชัยพร เมืองสุพรรณ)スチャーティー・ティアントーン(สุชาติ เทียนทอง)、チュワンチャイ・チンパウォン(ชวนชัย ฉิมพะวงศ์)、ドイ・インタノン(ดอย อินทนนท์)、ダオ・バーンドン(ดาว บ้านดอน)などがいる。

当時とうじ男性だんせい歌手かしゅ人気にんきだったのがサーヤン・サンヤーสายัณห์ สัญญา)、クリアンクライ・クルンサヤーム(เกรียงไกร กรุงสยาม)、スラチャイ・ソムバッチャルーン(สุรชัย สมบัติเจริญスラポン・ソムバッチャルーン息子むすこ)、ヨーッラック・サラックジャイ(ยอดรัก สลักใจ)、ソンチャイ・メイクウィチャイ(ศรชัย เมฆวิเชียร)、ソンペッ・ソンスパーン(ศรเพชร ศรสุพรรณ)、ポーン・プライソン(พร ไพรสณฑ์)などである。

さて、女性じょせい歌手かしゅ歌姫うたひめは、なんといってもプムプワン・ドゥワンチャン(พุ่มพวง ดวงจันทร์)で、プムプワンはルクトゥンという枠組わくぐみをえてタイの歌謡かよう史上しじょう不世出ふせいしゅつのスターであった。くわえてナンティダー・ゲーブワサイ(นันทิดา แก้วบัวสาย)、ダオタイ・ムントラン(ดาวใต้ เมืองตรัง)、ホントーン・ダーオウドン(หงษ์ทอง ดาวอุดร)、ソッシー・プロムセックサーン(สดศรี พรหมเสกสรร)、オーイティップ・パンヤートーン(อ้อยทิพย์ ปัญญาธรณ์)などがいた。

この時期じき、ルクトゥン人気にんきはタイにあまね定着ていちゃくした。1977‐1985のころ資本しほん投下とうかしたレコード・レーベルがラジオ・テレビといったメディア媒体ばいたい競争きょうそうはじめ、ルクトゥンは音楽おんがく産業さんぎょうようとして成長せいちょうしていった。

1985ねん以来いらい女性じょせい歌手かしゅによるコンサートはとしごとにファッショナブルになっている。もとはプムプワン・ドゥワンチャンがはじめたことで、彼女かのじょのコンサートは非常ひじょう人気にんきがあっただけではなく、ファッションにおいても革命かくめいをもたらした。なかでも有名ゆうめいなのは1986ねん中頃なかごろのセントラルプラザ(เซ็นทรัลพลาซ่า)でのコンサートだ[5]。この傾向けいこう歌手かしゅにもがれ、現在げんざいまでつづいている。

盛衰せいすい

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1988 - 1992ねんあいだ、これはルクトゥンかいにとっての停滞ていたいとなった。海外かいがいのポップミュージックの影響えいきょうけたあたらしいスタイルの音楽おんがくいくつも登場とうじょうし、もてはやされた。しかしルクトゥンかいにはなん目新めあたらしいうごきもなく、1992ねんまで雌伏しふくいられた。

まんもたしてインヨン・ヨードブアンガームยิ่งยง ยอดบัวงาม)が1992ねんに「ソムシー1992(สมศรี 1992)」をげて登場とうじょうした。西洋せいよう音楽おんがくふるいタイ歌唱かしょうとの融合ゆうごうといっていいあたらしいルクトゥンで、編曲へんきょく西洋せいよう音楽おんがくりで重厚じゅうこうつくられているにもかかわらず、歌唱かしょう従来じゅうらいプロフェッショナルのルクトゥン歌手かしゅによって確立かくりつされた安定あんていかん否定ひていするかのような、アマチュアの田舎いなか歌手かしゅのようにこえ裏返うらがえしたり、こぶしも不安定ふあんていかせたうえに、要所ようしょ音程おんてい微妙びみょうはずすといったもので、まさに先祖返せんぞがえりした唱法なのに、たか歌唱かしょう技術ぎじゅつ裏付うらづけされたもうぶんのないうただった。評論ひょうろんが、これをどう評価ひょうかすべきかかんがえあぐねているうちに、CDとカセット・テープ(当時とうじのタイではまだまだ現役げんえきだった)は爆発ばくはつてきげをばしていた。

ところで、たとえばニッタヤー・ブンスンヌーン(นิตยา บุญสูงเนิน)のターンマイ(ทางใหม่ーあたらしいみち)のように中華ちゅうか趨勢すうせいわせたようなしん機軸きじくは、これからもリリースされていくだろう。しかしそれはルクトゥンではない。ティーンエージャーにはやされるるいいの音楽おんがくもそうだが、1988 - 1992ねんあいだ登場とうじょうして一世いっせい風靡ふうびしたクロスオーバーや、フュージョンなどとばれた音楽おんがくは、ルクトゥンにくらべてはるかに多様たよう融合ゆうごうせたが、そのほとんどは姿すがたした。

ルクトゥンの現在げんざい

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1998ねんから現在げんざいいたるまでも、ルクトゥン業界ぎょうかい参入さんにゅうするものたない[6]。1990年代ねんだいなかばまでは新興しんこうレーベルのひとつにぎなかったRSプロモーションしゃ現在げんざいRサイアムしゃ)は、ときとも勢力せいりょく拡大かくだいし、いまではGMM GRAMMYしゃ双璧そうへきをなす芸能げいのう事務所じむしょ成長せいちょうした。いまでもRサイアムの主力しゅりょくはルクトゥンであるが、最近さいきん音楽おんがくだけにまらず、'93ねんからテレビ番組ばんぐみで「RS Loveドラマ(อาร์เอส รักละคร)」シリーズとばれるテレビドラマを制作せいさくするようになったのだが、このドラマと主題歌しゅだいかがセットになっていてヒットしている。それまでルクトゥンにさほど興味きょうみのなかった若年じゃくねんそうたくみに業績ぎょうせきばしている。きょくはもちろんルクトゥンだ。なかでも有名ゆうめい歌手かしゅはコーッ・ジャックラパン・アープコンブリー(ก๊อต จักรพรรณ์ อาบครบุรี)だろう。かれ従来じゅうらいのルクトゥンファンにくわえて都市としわかいリスナーまでんでRサイアムの経営けいえいじんよろこばせた。

かつてルクトゥンはラジオのAMだけでかれていたものだが、それがやがて映画えいが、テレビ、インターネットと、その媒体ばいたいひろげてきた。時代じだい方法ほうほうわっても、ルクトゥンはわたしたちのしん魅了みりょうつづける。

ルクトゥンの要素ようそ

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メロディとリズム

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黎明れいめい伝統でんとうてきなタイの民謡みんよう起源きげんとするのものがおおく、民謡みんよう旋律せんりつ歌詞かし一部いちぶ借用しゃくようするのが一般いっぱんてきだった。特徴とくちょうとして、中部ちゅうぶのルクトゥンは旋律せんりつ重視じゅうしした。チョイ(ฉ่อย)のうた、イーセウ(อีแซวースパンブリー民謡みんよう)のうた、タムラット(ลำตัดースパンブリー民謡みんよう)のうた、クロンヤーオ(กลองยาวービルマ起源きげんちょう太鼓たいこ伴奏ばんそううた民謡みんよう)のうた舟歌ふなうた(เพลงเรือーアユタヤなどの民謡みんよう)、収穫しゅうかく(เพลงเกี่ยวข้าวーアユタヤ民謡みんよう)などである。

東北とうほくではラム歌謡かよう(เพลงลำ)またはモーラム(มอลำ)とショーン(เซิ้ง )があり、なかでも人気にんきのあるのがラムトゥーイ(ลำเต้ย)、ラムプレーン(ลำเพลิน)、ラムサーンワン(ลำสารวัน)。メロディアスで人気にんきなのがセーンボンファイ(เซิ้งบ้องไฟ)で、これらを由来ゆらいとすることもある。中部ちゅうぶのルクトゥンにくらべ、つよいリズムが特徴とくちょうである。

また、すこ時代じだいくだって初期しょきから中期ちゅうきあたりになると、ルクトゥンの古典こてんてき名作めいさくからメロディーの借用しゃくようがなされることもおおくみられた。ブルーズなどのリフのようにみじか旋律せんりつ借用しゃくようした。よく使つかわれた原曲げんきょくには、フォン・ピーロム・ワイポット(พร ภิรมย์ ไวพจน์)、ペットスパーン(เพชรสุพรรณ)、シンナコン・クライラーッ(ชินกร ไกรลาศ)、ランジャックティーポーン(หลังจากที่พร)などがある。

いのはいることもあり、これはヒーゥ(ฮิ้ว)などとばれ、仏教ぶっきょう儀式ぎしき聖職せいしょくしゃうたなどにおおられた。今日きょうでは感極かんきわまった部分ぶぶんコールアンドレスポンスかたちもちいられることがおおく、西洋せいよう音楽おんがく影響えいきょうされたルククルン由来ゆらいとするせつもあるが、自然しぜん発生はっせいてきなものだとするせつもあり、はっきりしない。

外国がいこくのメロディーを歌曲かきょくれた作品さくひんもある。とくにアジア由来ゆらいきょくおおく、中国ちゅうごく、インド、ラオス、日本にっぽん韓国かんこくなどのメロディーがタイじんしたしまれている[7]

リズムパターンはさまざまで、初期しょきのゆっくりしたテンポ作品さくひんから、時代じだいすすむにつれテンポははやくなる傾向けいこうがある。現在げんざい、4拍子ひょうし楽曲がっきょくはあえてカテゴライズするならカリプソちかいものがおお見受みうけられる。また東北とうほくのモーラムに影響えいきょうされた楽曲がっきょくだと、はやい2拍子ひょうしでダウンビートにつよいアクセントをき、伴奏ばんそう打楽器だがっきなどはリズムがうらまわシンコペーションいたダンサブルな演奏えんそうとなる。これには導入どうにゅうのイントロがおそくゆったりしたテンポ・ルバートで、伴奏ばんそうのないアカペラうたげてから一転いってんして、つよいリズムをたたすこともあり、よくかんがえられた構成こうせいつものもおおい。

タイのダンス歌謡かようをサムチャー(สามช่า・3ช่า ー 3つのチャ)とび、これはチャチャチャを意味いみするのだが、リズムパターンの「チャチャチャ」とはまったくの別物べつものである。日本にっぽんでも歌謡かようきょくの「ブルース」が西洋せいようでいうブルースの形式けいしきまったちがうように、タイでサムチャーはおどれる楽曲がっきょく総称そうしょうになっている。

旋律せんりつは、さまざまなものがあるが、おおくの楽曲がっきょくペンタトニック・スケール(いわゆるヨナ音階おんかいなどの五音ごいん音階おんかい)の旋法せんぽう基本きほんつくられている。もっともこれはルクトゥンの特徴とくちょうということではなく、ペンタトニック・スケールの旋法せんぽうジャズロック、ブルース、各国かっこく民謡みんよう童謡どうようなどに幅広はばひろ使つかわれるため、タイ独自どくじ手法しゅほうということではない。

まれにタイの古典こてん音楽おんがくられる「7平均へいきんりつ」による歌曲かきょくもある。7平均へいきんりつというのは、西洋せいよう音楽おんがくが1オクターブ平均へいきんに12等分とうぶんするところを、タイの古典こてん音楽おんがくでは1オクターブを7等分とうぶんしたもので、ラナートระนาด)という木琴もっきんなどはこの音階おんかいつくられている。12平均へいきんりつとは音階おんかいもピッチもちがうので、西洋せいよう音楽おんがく絶対ぜったい音感おんかんまたは相対そうたい音感おんかんもの7平均へいきんりつ演奏えんそういて頭痛ずつうなどの不調ふちょううったえることはめずらしくない。プムプワン・ドゥワンチャンのうたの「หม้ายขันหมาก檳榔びろう未亡人みぼうじん)」などが7平均へいきんりつつくられた楽曲がっきょくで、あたらしいこころみというより、わすれられた伝統でんとうへの回帰かいきというべき歌曲かきょくであって、この音階おんかい周辺しゅうへん諸国しょこくにもられず(アフリカのモザンビークの一部いちぶ部族ぶぞくられる)、アジアではタイ独自どくじっていい。

ルクトゥンのメロディーと日本にっぽん演歌えんか近似きんじせいから、ルクトゥンを「タイの演歌えんかのようなもの」と形容けいようするきがあるが、共通きょうつうてん先述せんじゅつのペンタトニック・スケールの多用たようということと、歌唱かしょうほうこぶしかせることくらいで、この2てんはどちらも・タイの2こくかぎったことではなく、アジアはうにおよばず世界中せかいじゅうめずらしくないことである。また、日本にっぽん演歌えんか短音階たんおんかい旋律せんりつ主流しゅりゅうであるが、ルクトゥンでは長音階ちょうおんかい旋律せんりつ歌曲かきょくすくなくない。日本にっぽん演歌えんかちである演説えんぜつうたにした明治めいじ時代じだいのものと、現代げんだい日本にっぽん演歌えんかおおきくへだたっており、いまのスタイルになってから、せいぜい60ねんらずであるから、タイのルクトゥンのほう現在げんざいのスタイルの日本にっぽん演歌えんかより歴史れきしふるく、日本にっぽん演歌えんか模倣もほうして発生はっせいした音楽おんがくなどではないことは自明じめいである。

声調せいちょう旋律せんりつ

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タイ声調せいちょう

タイタイ・カダイ語族ごぞく言語げんごで、中国ちゅうごくなどと同様どうよう声調せいちょうがある。タイ場合ばあいは5種類しゅるい声調せいちょうがあり、発声はっせい音程おんていわることで意味いみわる言語げんごである。たとえば「あたらしい木材もくざいえない」はタイで「ใหม่ ไม้ ไม่ ไหม้」とい、これを片仮名かたかな表記ひょうきすると「マイ(あたらしい)マイ(木材もくざい)マイ(否定ひてい接頭せっとう)マイ(える)」であるが、それぞれの「マイ」は声調せいちょうちがい、タイ文字もじつづりと声調せいちょう記号きごうにより単語たんご意味いみ明確めいかくになり、ものはその単語たんご音程おんてい意味いみ把握はあくする。[8]

ところで、こういった性格せいかくつタイの言語げんごうたうたうときに、メロディーにタイせると、作曲さっきょくしゃ意図いとする旋律せんりつとはべつに、タイ単語たんご声調せいちょうしたがった音程おんてい上下じょうげくわわることになる。声調せいちょう犠牲ぎせいにしてメロディーを優先ゆうせんすると歌詞かし意味いみ不明ふめいになるばかりではなく、まったくちがった意味いみになってしまうので、声調せいちょう犠牲ぎせいになることは、ない[9]

したがって、もとになるメロディーの意図いとしない音程おんていはさまれることは一般いっぱん当然とうぜんのことで、この音程おんていアヴォイド・ノート回避かいひおん)になってしまうこともしばしばである。このアヴォイド・ノートの出現しゅつげん大胆だいたん特異とくい和音わおん解釈かいしゃくおもわせ、タイ歌謡かよう独特どくとくのフレージングのおおきな特徴とくちょうになっている。アヴォイド・ノートはおおくの場合ばあいテンション・ノートとして構成こうせいされる。しかし、近年きんねんではまれ構成こうせいおん転回てんかいさせて、いわゆる代理だいりコード解釈かいしゃくして演奏えんそうされることもあって、これは西暦せいれき2000ねん前後ぜんこうからタイの演奏えんそうしゃ水準すいじゅん劇的げきてき向上こうじょうし、音楽おんがく理論りろん理解りかいすすんだことによる。

このテンション・ノートや代理だいりコードの使用しよう相俟あいまって、タイの歌謡かようきょくはジャズとの親和しんわせいたかい。したがってジャズふうに編曲へんきょくした楽曲がっきょくおお見受みうけられる。しかしこれはルクトゥンにかぎったことではなく、タイ歌詞かしうたわれる歌曲かきょく共通きょうつうすることで、とくにルククルンなどはそのちもふくめジャズの影響えいきょう色濃いろこい。

歌詞かし

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ルクトゥンの歌詞かし使つかわれる言語げんごには2種類しゅるいあり、一方いっぽうはバンコクをはじめ中央ちゅうおう使つかわれる標準ひょうじゅんてきタイである。もうひとつは方言ほうげんで、標準ひょうじゅんでない場合ばあいはタイ東北とうほくのイーサーンこんじることがおおい。わずかながらチェンマイあたりの北部ほくぶなまりや、さらにわずかに南部なんぶなまりの歌詞かしこんじることもある。また、標準ひょうじゅんけんとはいえバンコク近郊きんこうのスパンブリーなまりの語彙ごいもちいた作品さくひんなどもある。標準ひょうじゅんうた作品さくひん多数たすうめるが、方言ほうげんじりでうたもの、また普段ふだん標準ひょうじゅんだが作品さくひんによって方言ほうげんじりの作品さくひんうたものもいる。

方言ほうげんじりでうた歌手かしゅとして著名ちょめいなのはチャイ・ムァンシン(ชาย เมืองสิงห์)、ルムペット・ラムシン(รุ่งเพชร แหลมสิงห์)ソンシリー・ピープラチュワッ(ศรคีรี ศรีประจวบ)、ソンペット・ソンスパン(ศรเพชร ศรสุพรรณ)、サーヤン・サンヤー(สายัณห์ สัญญา)、シーラパン・ウィーラポン(จีระพันธ์ วีระพงษ์)など。北部ほくぶなまりがこんじる歌手かしゅでは、ケット・ラッタカーン(แคท รัตกาล)などがいる。

歌詞かし内容ないようについては、農村のうそん伝統でんとう人間にんげん関係かんけいつづったものが基本きほんである。ほかに仏教ぶっきょうへのこだわり、信念しんねんもある。また民謡みんようなどの伝統でんとうまつり、四季しき折々おりおり風物詩ふうぶつし儀式ぎしきかんするものなどバリエーションはおおい。

ルクトゥンの歌詞かしは、タイの農民のうみん社会しゃかい生活せいかつ様式ようしき反映はんえいするだけでなく、タイの田舎いなか自然しぜん環境かんきょう描写びょうしゃ重要じゅうようだ。はたけかわ動物どうぶつふう太陽たいよう月明つきあかり、ほしなど。うた登場とうじょう人物じんぶつ農村のうそん人々ひとびとあるいはあいあふれるまずしい人々ひとびとだ。職業しょくぎょういえ居住きょじゅう着衣ちゃくい食事しょくじ娯楽ごらく。そしてときには迷信めいしん占星術せんせいじゅつのような信念しんねん体系たいけい価値かち体系たいけいうたわれる。国立こくりつ機関きかん宗教しゅうきょう君主くんしゅ価値かち富裕ふゆうへの渇望かつぼう権力けんりょく都市としでの生活せいかつ悪魔あくま女性じょせい。とくに女性じょせいのイメージは重要じゅうようで、純潔じゅんけつうしなうとかだまされるなどの状況じょうきょう、あるいは男性だんせい一緒いっしょにいる幸福こうふくなどがよくうたわれる[10]

楽器がっき

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ラナート
ソードゥアン

初期しょきのルクトゥンの録音ろくおんには西洋せいよう楽器がっき使つかわれました。ふるいタイのうた土着どちゃくうたなのに」と、クンウィチットマークラータイばん(1930年代ねんだい活躍かつやく作詞さくし作曲さっきょく)はった。

しかしその録音ろくおん機会きかいえるにつれ、その演奏えんそうには民族みんぞく音楽おんがくのための楽器がっき使用しようするようになった。ラナート (ระนาดー木琴もっきん) 、ソードゥアン (ซอด้วงーえびす)、チン (ฉิ่งーシンバル)、 トレー (แตรー管楽器かんがっき)、タフォーン (ตะโพนー太鼓たいこ)などなど。

やがて西洋せいよう楽器がっき共演きょうえんできるよう、ヂャケー (จะเข้ーフレットづけさんげんツィター)、 ラナート (ระนาดー木琴もっきん)など、西洋せいよう楽器がっきのピッチ(音程おんてい)や音階おんかいわせられるように改造かいぞうした楽器がっきつくられるようになった。

そして、これらの楽器がっき西洋せいよう楽器がっき使用しようして、かん弦楽器げんがっきとリズム楽器がっきからなる12〜18ピースバンドがルクトゥンの伴奏ばんそう基本きほんとなった[11]

おど

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おど衣装いしょう

ルクトゥンでは、コンサートやテレビ出演しゅつえん歌手かしゅうたっているうしろでおどおどたちがいるのが通常つうじょうである。

タイで最初さいしょにバックダンサーをれてうたったのはスラポン・ソムバッチャルーンで、1964ねんから1967ねんあいだのことだった。はじめは4にんだったのが6にんえ、人数にんずうおおければおおいほど豪華ごうかということになった。

このおどたちをしょうして「ハンクルアン(หางเครื่องー直訳ちょくやく機械きかい仕掛しかけの)」とぶのだが、これは最初さいしょおどたち出身しゅっしん全員ぜんいんチョンブリーけんサタヒップぐんバーンサレイ(บางเสร่)むらのハンクルアン集落しゅうらく(หมู่บ้านหางเครื่อง)の出身しゅっしんだったからである。この名前なまえからの連想れんそうでダンサーの衣装いしょう背後はいごおおきな羽根はねかざりをとしてけた。これが楽曲がっきょくわせてれることでリズムを強調きょうちょうできるという理屈りくつで、このダンスを「ケヤオ・ハンクルアン(เขย่าหางเครื่องー機械きかい仕掛しかけのる)」といった。リズムにわせて衣装いしょうかざりが派手はでうごくことで、よりリズムがかんじられ、あざやかでたのしいのだという。

当初とうしょおど男性だんせい女性じょせい半々はんはんで、現在げんざいのようなセクシーなおどりではなく、道化どうけやくがいる喜劇きげきてきなものだった。これは当時とうじフランスのパリにあったフォリー・ベルジェールFolies Bergère)の舞台ぶたい着想ちゃくそうて、発展はってんさせたものだった[12]おどりというより、楽曲がっきょくわせて羽根はねかざりのらしてあるいていた。衣装いしょう現在げんざいのようにはだ露出ろしゅつおおいものではなく、1966ねんまでは洋服ようふくけただけのものだった。ダンサーの手配てはいは、先駆せんくとなったスラポン・ソムバッチャルーンの死去しきょにより、未亡人みぼうじんのシームワン・ソムバッチャルーン(ศรีนวล สมบัติเจริญ )にがれ、ダンサーのかずは10にんにまでえ、ルクトゥン舞台ぶたい重要じゅうよう要素ようそとなった[13]

1974ねんごろから、ダンスは歌曲かきょくわせておどるという現在げんざいのスタイルになった。いつしか当然とうぜんのようにタイ伝統でんとう舞踊ぶよう西洋せいようのモダンダンスのうごきもくわわり、にぎやかしのものではなく観客かんきゃく魅了みりょうするものもあらわれた。

このころおどかず増加ぞうか[14]、1977ねんおど黄金おうごんになると、歌手かしゅ専属せんぞくのビッグバンドは専属せんぞくダンサーもかかえるようになり、そのかずやく60にんということもめずらしくなく、当時とうじ衣装いしょうだいは100まんバーツにもなったという。[13]

ダンサーの衣装いしょうは、あざやかな黄金おうごんくろ生地きじをはじめ、あかあおみどり、ピンクなどあかるいいろふくる。そしてネックレス、スパンコール、ブレスレット、 ピアスやはなかざてる。男性だんせいはブーツを着用ちゃくようすることもしばしばである。

現在げんざいおど民謡みんようなどの伝統でんとうとは無縁むえんになったものがおおく、西洋せいよう文化ぶんか影響えいきょうつよい。ともあれ、ビジネスめんではルクトゥンにおど不可欠ふかけつなものになっている。一般いっぱん観客かんきゃくおどたちおどりや衣装いしょうしんからあいし、歓喜かんきしている。[15]


事業じぎょうとしてのルクトゥン

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タイ国内こくない音楽おんがく市場いちばのレコード、カセットテープのげがはじめて記録きろくされるようになったのは1967ねんのことである。テレビというメディアが、この市場いちばおおきな役割やくわりたした。しかし、ルクトゥンは政治せいじ低迷ていめい反映はんえいしてか1977ねんいち下火したびになった。そのなおしたものの、1998ねんにはアジア通貨つうか危機きき見舞みまわれ、ふたた不況ふきょうあえいだ。いまではまた隆盛りゅうせいほこり、あらたな歌手かしゅたち続々ぞくぞくとデビューしてあたらしい事業じぎょうになっている。[16]

今日きょう、ルクトゥンはタイ王国おうこくにとってだい規模きぼ市場いちばで、大小だいしょうわせ多数たすうのレーベルが音楽おんがく市場いちばひろ基盤きばんっている。おも市場いちばシェアの割合わりあいは、はイーサーン(東北とうほく地方ちほうが50%をめ、きた中央ちゅうおうが35%、南部なんぶが15%である。会社かいしゃべつではグラミーゴールドしゃแกรมมี่โกลด์)が市場いちばシェアの65%をめ、いでRサイアムしゃอาร์ สยาม)の 19%。その合計ごうけいが16%である。[17]

2006ねん音楽おんがく市場いちばそう事業じぎょう売上うりあげは、2005ねんから9%増加ぞうかしてやく7,100まんバーツであり、タイのぜん市場いちばなかでも音楽おんがく市場いちば重要じゅうようなものの1つである。ぜん音楽おんがくのうち、ルクトゥンは45%で、その音楽おんがくわせて30%。歌詞かし(ルクトゥンふくむ)が20%、そのが5%という内訳うちわけである。[18]

今日きょう、ルクトゥンにかぎらず音楽おんがく産業さんぎょう問題もんだいになっているのは違法いほうコピーしたCDやカセット、違法いほうにダウンロードされる音源おんげん画像がぞうのデータなどが市場いちば廉価れんかあるいは無料むりょう大量たいりょう出回でまわっていることで、これにより売上うりあげ低迷ていめいしている。そのため、一部いちぶ音楽おんがくレーベルはきょく宣伝せんでんするわりにアーティストとそのステージを宣伝せんでんし、コンサートなどで収益しゅうえきげるようになってきている[19]

ラジオ、テレビ、映画えいが

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歌謡かようコンテストとタイちゅう学校がっこうのバンド活動かつどうで、ルクトゥン文化ぶんか新人しんじん獲得かくとくつづけてきた。

もともとルクトゥンはAMラジオによって放送ほうそうされていた。これは1997ねんにFMラジオ放送ほうそうきょく設立せつりつされるまでルクトゥンにとっても最大さいだいのメディアだった。しかしFMラジオ番組ばんぐみはじまって以来いらい、ルクトゥンの概念がいねんおおきくわった。

ルクトゥンFM(95MHz)は、それほど古風こふうではないスタイルの24あいだのルクトゥン・ラジオきょくで、手法しゅほうとしてはMTVを模倣もほうしたルクトゥンせんもんのラジオきょくだった。のちにこのきょく大人気だいにんきになり、2001ねん開催かいさいされたゴールデンリースアワードで大賞たいしょう獲得かくとくした。このルクトゥン放送ほうそうきょく誕生たんじょうは、DJに重点じゅうてんいたリスト形式けいしきのルクトゥン解放かいほう[24]であり、電話でんわのやりりを反映はんえいしてリスナーと友達ともだちになり、次々つぎつぎとヒットきょく紹介しょうかいするスタイルは、あっというにラジオのリスナーをみ、全国ぜんこくに30まんにん聴取ちょうしゅしゃ獲得かくとくした。それまでのラジオ番組ばんぐみ決定的けっていてきちがったのは、深夜しんやと、午前ごぜん3から午前ごぜん5までのあいだのリスナーが爆発ばくはつてきえたことだった。[20]

いっぽう、テレビ業界ぎょうかいでも、さまざまなバラエティーヒットショー番組ばんぐみつくられた。歌謡かよう番組ばんぐみ人気にんきだったが、なかでも人気にんきほこったのは新人しんじん発掘はっくつ番組ばんぐみで、これは本来ほんらい目的もくてき新人しんじん発掘はっくつだけでなく、番組ばんぐみ感情かんじょう移入いにゅうした視聴しちょうしゃ応援おうえんがあって、デビューのCDなどの売上うりあげつながるものだった。この新人しんじん歌手かしゅ発掘はっくつ番組ばんぐみには、トゥルー・アカデミー・ファンタジア(ทรู อะคาเดมี่ แฟนเทเชีย)、 スターをさがせ(เดอะสตาร์ ค้นฟ้าคว้าดาว)、ザ・シンガー(เดอะ ซิงเกอร์)ルクトゥン・タイ新星しんせいプロジェクト(โครงการดาวรุ่งลูกทุ่งไทยแลนด์)が有名ゆうめいである[21]

タイ映画えいがには、ルクトゥンに関連かんれんするコンテンツを作品さくひんもある。ペンエーク・ラッタナールアン(เป็นเอก รัตนเรือง監督かんとくの2001ねん作品さくひん「ムンラック・トランジスター(มนต์รักทรานซิสเตอร์ー邦題ほうだいわすれなうた)」[22] と、2002ねんサハモンコン・インターナショナル・シネマタイばんしゃ作品さくひんで「ムンプレーン・ルクトゥンFM(มนต์เพลงลูกทุ่ง เอฟ.เอ็ม.)」[23] など、タイのルクトゥン関連かんれん映画えいが作品さくひんは170ほんえる。なかにはイーサーン地方ちほう出身しゅっしんのルクトゥンの人気にんきグループであるポンラン・サオーン(โปงลางสะออน)を題材だいざいにした2007ねん映画えいがポンランサディン・ラムシンサイナータイばん」のようにそう収入しゅうにゅう7,500まんバーツといっただいヒット作品さくひんもある[24]

ルクトゥンと商品しょうひん

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M-150

ルクトゥン市場いちば変遷へんせんは、ルクトゥンにまつわる幾多いくた商品しょうひん登場とうじょうさせた。ルクトゥンをこの購買こうばいそうにはてい所得しょとくしゃすくなくなかったことから、ことさらてい価格かかく商品しょうひん消費しょうひしゃにアピールする戦略せんりゃくえた。こういった需要じゅように、ルクトゥンは非常ひじょうにうまく対応たいおうした。小回こまわりがいて判断はんだんはや中小ちゅうしょう規模きぼ製造せいぞう会社かいしゃ多数たすうあった。需要じゅよう多様たようだったから、製品せいひん多様たようした。また、だい企業きぎょう資本しほん裏打うらうちされた企画きかくすようになった。

エナジードリンクはもっともターゲットをしぼったしょうざいの1つで、たとえば「Mー150」をこの労働ろうどうしゃそう西暦せいれき2000ねんごろまで、タイでは栄養えいよう飲料いんりょう人前ひとまえむような行為こうい下品げひんとされ、購入こうにゅう人目ひとめにつかぬようこころがけるのが一般いっぱんてきだった)に、ルクトゥン業界ぎょうかい年間ねんかんおよそ7000まんバーツもの予算よさん使つかう。M-150だけでなく、他社たしゃのエナジードリンクもルクトゥン関連かんれん広告こうこくつ。歌詞かしにダイレクトに製品せいひんめいれたりもし、いまではプロ・スポーツとのタイアップなども積極せっきょくてきし、エナジードリンクのイメージはかつてと比較ひかくしてそれほどわるいものではない。

従来じゅうらい歌詞かしれいとして、「7にん善人ぜんにん必要ひつようがない」といったコンビニエンス・ストア・チェーンを連想れんそうさせる歌詞かしがあったが、いまでは「カールフールKFC彼女かのじょつ」といった歌詞かしのように、比喩ひゆ必要ひつようはなくなった。

また、45まんにんいるタイ王国おうこく携帯けいたい電話でんわ使用しようしゃのうち、AISしゃ携帯けいたい電話でんわ使用しようするひとは27まんにんいて、タイアップしているのはピー・サダーッ(พี สะเดิด)というフォーク歌手かしゅだ。結婚式けっこんしきのビデオはグラミーしゃ所属しょぞくのフォン・タナソントーン(ฝน ธนสุนธร)がタイアップしている。Rサイアムしゃのアジャリヤー・プムプック(อาจารียา พรหมพฤกษ์)にいたっては30バーツの音楽おんがく配信はいしんを4,000まんダウンロード達成たっせいするために、SIMカード関連かんれん会社かいしゃ提携ていけいしている。この売上うりあげトゥルー・コーポレーションそう収入しゅうにゅうの9.6%をめ、合計ごうけいで2おく2,300まんバーツにものぼる。

自動車じどうしゃ産業さんぎょうでは、トヨタはイーサーン地方ちほう歌姫うたひめチンタラー・プーンラープとタイアップし、いすゞはチャクラパン・コンブリティラコット(จักรพันธ์ ครบุรีธีรโชติ)と契約けいやくした[25]

啓発けいはつ活動かつどう

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労働ろうどうしゃ士気しきたかめるような上質じょうしつなルクトゥンの作者さくしゃ歌手かしゅみとめられたものには「ランワン・マーライ・トーン(รางวัลมาลัยทองー黄金おうごん花輪はなわしょう)」があたえられる。2001ねん以来いらい、タイ・ルクトゥンFM(สมาคมลูกทุ่ง เอฟ. เอ็ม.[26]MCOT FM協賛きょうさんしてきた[27]。MCOT FMは、国立こくりつ文化ぶんか委員いいんかいともに、ランワン・マハナコーン・アワード(รางวัลมหานครอวอร์ดส)[28]というチャリティー・イベントも開催かいさいした。

1989ねん国家こっか文化ぶんか委員いいんかいは9月16にちはつの「はん世紀せいきわたるルクトゥンしょう」を開催かいさいした。おりしもこのころはルクトゥン業界ぎょうかい低迷ていめいした時期じきだった。それでもおおくのタイ国民こくみんはルクトゥンをいているように見受みうけられたので、タイのテレビ局てれびきょく国立こくりつ文化ぶんか委員いいんかいはルクトゥンをサポートした。すでにだいスターだったプムプワン・ドゥワンチャンを招聘しょうへいし、そのライブを放送ほうそうし、国民こくみん好評こうひょうた。

よく1990ねんには「はん世紀せいきわたるルクトゥンしょう2」を開催かいさい前年ぜんねんつづいてプムプワン・ドゥワンチャンの受賞じゅしょうがあり、メダルの授与じゅよだけでなく、シリントーン王女おうじょ来駕らいがして、王女おうじょ作詞さくし作曲さっきょくとされる楽曲がっきょくソムタム(ส้มตำ)」をプムプワンにさづけた。このきょくだいヒットし、プムプワンの代表だいひょうさくの1つとなった。

さらによく1991ねん委員いいんかいスナリー・ラチャシマ[29]中心ちゅうしんにルクトゥン・コンテストを開催かいさい好評こうひょううらまくじた。

1991ー2012ねん当時とうじ国家こっか文化ぶんか委員いいんかい会長かいちょうソムサック・プリッサナーナンタクン(สมศักดิ์ ปริศนานันทกุล[30]もと文部省もんぶしょう大臣だいじん主導しゅどうにより音楽おんがく民俗みんぞく芸能げいのう舞台ぶたい芸術げいじゅつにおける国民こくみんてきアーティストにしょうあたえた[31]。ルクトゥン部門ぶもん受賞じゅしょうしゃつぎとおり。

論争ろんそう

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1940ねん前後ぜんこう、タイで最初さいしょのルクトゥン歌手かしゅ当初とうしょ俳優はいゆうとして有名ゆうめいだった)カムロン・サムブンナノン(คำรณ สัมบุณณานนท์)の人気にんきこころよおもわないひとたちがいた。当時とうじ独裁どくさい政権せいけんわれたプレーク・ピブーンソンクラーム首相しゅしょう(1957ねん革命かくめいのちトラートけんげ、そこからカンボジア亡命ぼうめい。その日本にっぽんうつ東京とうきょう亡命ぼうめい生活せいかつおくり、神奈川かながわけん相模原さがみはら一生いっしょうえた)ひきいる政府せいふ[33]である。政府せいふとしては、「プーテンクワーイ(ผู้แทนควายー野牛やぎゅう馬鹿ばかありーの代表だいひょう)」、「タレンカンアイトゥイ(แถลงการณ์ไอ้ทุยーなんてこった)」、「アスーンキンムアン(อสูรกินเมืองーがい悪魔あくま)」のようなくにへの不満ふまん表明ひょうめいする歌曲かきょく国民こくみんかせるべきではないとかんがえた。

2003ねん、タイ文部省もんぶしょう公序良俗こうじょりょうぞくはんしたとがめにより発売はつばい放送ほうそう禁止きんしした18きょく歌曲かきょくあきらかにした。「ミア・ピー・ミーチュー(เมียพี่มีชู้つま不倫ふりん)」のように公序良俗こうじょりょうぞくはんしながらなんじゅうねんものあいだうたわれてきたうたおおい。それでも文部省もんぶしょうは、道徳どうとく・タイの伝統でんとう貞操ていそうはんする歌曲かきょく発売はつばい放送ほうそう禁止きんしすると発表はっぴょうした。チャイ・ムアンシン(ชาย เมืองสิงห์)やカムロン・サムブンナノーン(คำรณ สัมบุญณานนท์)のように敬虔けいけん仏教徒ぶっきょうとは、行動こうどう規範きはんになる、ともかたった[34]

タイ軍事ぐんじクーデター前年ぜんねんのこと、歌手かしゅスクマー・マニガーン(สุขุมา มณีกาญจน์ー当時とうじ36さい)の広告こうこく写真しゃしんのドレスのむねおおきくはだけているのは道徳どうとくてきでないと、タイ文部省もんぶしょう非難ひなんした[35]。これを不服ふふくとしたスクマーだったが、文部省もんぶしょうは2007ねん発表はっぴょうのスクマーのきょく「おかあさん、ごめんね(ขอโทษแม่เฒ่า)」の歌詞かし老母ろうぼくのは間違まちがってるし、バンコクに一緒いっしょあつまるのも老母ろうぼくのと同様どうよう間違まちがってる(ลูกผิดที่เอากันก่อนที่จะมาสู่ขอแม่เฒ่า ลูกมาอยู่ กทม.ลูกผิดที่เอากันก่อนจะมาสู่ขอแม่เฒ่า)」の部分ぶぶん猥褻わいせつだとして放送ほうそう禁止きんしもとめた[36]。しかしながらほどなくして文部省もんぶしょうはこの禁止きんし要請ようせいげた。文部省もんぶしょう主張しゅちょうする「一緒いっしょあつまる(เอากัน)」の歌詞かし猥褻わいせつだとするのは、いくらなんでもいいがかりだとするのが世論せろんだったし、スクマーの出身しゅっしんのイーサーン地方ちほうでは「らす」くらいの意味いみしかないと判明はんめいしたからだった。またミュージックビデオの映像えいぞうても猥褻わいせつ表現ひょうげんはどこにもなく、このけんかんして論争ろんそう終結しゅうけつした[37]

最近さいきんでは、2017ねん6がつプラユット首相しゅしょうが「こしかた不埒ふらちである」と、モーラム/ルクトゥン歌手かしゅのラムヤイ・ハイトンカム(ลำไย ไหทองคำ)に苦言くげんていしたせいで、ぎゃく注目ちゅうもくび、人気にんき沸騰ふっとうしてしまったれいがあった。ラムヤイは早速さっそく新曲しんきょく「プーサオ・カー・フィヤオ(ผู้สาวขาเฟี้ยวー見事みごとあし少女しょうじょ)」をリリース。こしりの回数かいすうらして、はだ露出ろしゅつらしたとしたMV公開こうかいした。このMVでは3:25あたりで首相しゅしょう親指おやゆびてて肯定こうていする映像えいぞうがカットインされて、タイ国民こくみん話題わだいになった。[38]

代表だいひょうてきなルクトゥン歌手かしゅ

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参考さんこう文献ぶんけん

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ราชาและราชินีลูกทุ่ง สุรพล สมบัติเจริญ‐ผู้เขียนเลิศชาย คชยุทธ 

ISBN : 9786165085380