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ルノー D2

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
ルノーD2
種類しゅるい ちゅう戦車せんしゃ
はら開発かいはつこく フランス
運用うんよう
配備はいびさき フランス
関連かんれん戦争せんそう紛争ふんそう だい世界せかい大戦たいせん
しょもと

おもへいそう 47 mm SA 34戦車せんしゃほう
47 mm SA 35 戦車せんしゃほう (後期こうきがた)
ふくへいそう 2× 7.5 mm 機関きかんじゅう
エンジン ルノー6気筒きとう9.5リッターガソリンエンジン
出力しゅつりょく重量じゅうりょう 7.6 hp/tonne
懸架けんか駆動くどう 垂直すいちょくスプリング
行動こうどう距離きょり 100 km
速度そくど 23 km/h (14 mph)
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ルノー D2 (Renault D2) はせんあいだのフランスちゅう戦車せんしゃ

1930ねんルノーはいまだ量産りょうさんされていなかったルノー D1の装甲そうこう強化きょうかした改良かいりょうがたとしてルノー D2の生産せいさん同意どういした。旧来きゅうらいのリベットを多用たようした設計せっけいもちいないことで重量じゅうりょう削減さくげん期待きたいされていた。この戦車せんしゃはより大型おおがたじゅう戦車せんしゃであるルノーB1代替だいたい車両しゃりょうとなることが期待きたいされていたが、しかし軍備ぐんび制限せいげん協議きょうぎ失敗しっぱい結果けっかとして当初とうしょ計画けいかくより大幅おおはば製造せいぞうすう削減さくげんされ一時いちじてき採用さいようされた戦車せんしゃひとつになってしまった。ルノーの組織そしきじょう問題もんだいにより、初期しょき生産せいさんの50りょう生産せいさんは1936ねんから1937ねんおくれることになった。機械きかいてき信頼しんらいせいひくさがしめされていたにもかかわらず、歩兵ほへい戦車せんしゃ部隊ぶたい強化きょうかするために高価こうかなルノーB1よりも安価あんか選択肢せんたくしとして2度目どめ発注はっちゅうが1938ねんおこなわれた。ルノーの財政ざいせいじょう問題もんだいのため、この部分ぶぶんてき改良かいりょうされた後期こうき生産せいさんがたは1940ねん初頭しょとう少数しょうすう完成かんせいしただけでそう生産せいさんすうは100りょうにとどまった。

3りょう試作しさく車両しゃりょうはモックアップではルノーFT砲塔ほうとうけられていた。初期しょき生産せいさんがたたん砲身ほうしんの47mm SA34戦車せんしゃほう武装ぶそうしたAPX 1砲塔ほうとう装備そうび後期こうき生産せいさんがたではより強力きょうりょくな47mm SA35戦車せんしゃほう装備そうびしている。

1937ねん、この戦車せんしゃ精鋭せいえい部隊ぶたいとみなされていたシャルル・ド・ゴール指揮しきする連隊れんたい隷下れいか1個いっこ戦車せんしゃ大隊だいたい配備はいびされた。この部隊ぶたい通信つうしん使用しようなどをふく先進せんしんてき戦術せんじゅつ訓練くんれんされていた。1940ねんにはこの部隊ぶたい能力のうりょく戦車せんしゃ消耗しょうもう不十分ふじゅうぶん訓練くんれん乗員じょういんしかいないにもかかわらず3中隊ちゅうたい新設しんせつされたことで低下ていかしていた。それにもかかわらず、ルノーD2装備そうび戦車せんしゃ部隊ぶたいフランスのたたかにおいてねばづよたたかい、損失そんしつのほとんどはてき撃破げきはされたのではなく機械きかいてき故障こしょうだった。

開発かいはつ[編集へんしゅう]

ルノーD1の発注はっちゅう同時どうじにより近代きんだいてき戦車せんしゃ開発かいはつする計画けいかくがった。ルノーD1はすでに純粋じゅんすい歩兵ほへい支援しえん戦車せんしゃという枠組わくぐみからだっし、てき戦車せんしゃとも交戦こうせん可能かのうなか戦車せんしゃへと進化しんかしていた。国際こくさい連盟れんめいんでいた国際こくさいてき軍備ぐんび削減さくげんにより20トン以上いじょう装甲そうこう兵器へいき規制きせいされる可能かのうせいがあったため、その対象たいしょうとなる大型おおがたのルノーB1の役割やくわり代替だいたいする戦車せんしゃ候補こうほとなったのである。[1]

1930ねん1がつ23にち歩兵ほへい国防省こくぼうしょうへの書簡しょかんにて40mmの装甲そうこうばん装備そうびしかつ120 馬力ばりきのエンジンをそな時速じそく22km以上いじょう移動いどうする高性能こうせいのう戦車せんしゃ製造せいぞう提案ていあんした。同時どうじ重量じゅうりょうは14から15.5 トンにおさえなければならず、これは装甲そうこうをリベットめではなく溶接ようせつとすることで可能かのうとなるとされた。4月14にち計画けいかく承認しょうにんされ、5月にはのちにルノーD2およびその植民しょくみん配備はいびがたのルノー D3を受注じゅちゅうすることになるルイ・ルノー連絡れんらくった。

このあらたな鋳造ちゅうぞう技術ぎじゅつ導入どうにゅうには外国がいこく専門せんもんやとれる必要ひつようがあったが、これは非常ひじょうにコストがかかった。ルノーはこの導入どうにゅうをフランスぐん前払まえばらいすべきであると主張しゅちょうしたが、ぐんにそのような予算よさんはなかった。1931ねん12月8にち、この対立たいりつ打破だはするためにあらたな合意ごういむすばれ、ルノーは先立さきだってリベットめの車体しゃたい試作しさく車両しゃりょうつくることとなり1932ねん4がつルノーUZ完成かんせいした。この車両しゃりょう当初とうしょリュエイユ試験しけんされ、1933ねん5がつには だい503戦車せんしゃ連隊れんたいによって野外やがい試験しけんおこなわれた。1933ねん12月12にちには生産せいさん合意ごういけられ兵器へいき諮問しもん委員いいんかいConseil Consultatif de l'Armement)に承認しょうにんされた。

しかしドイツが国連こくれん連盟れんめい脱退だったいした瞬間しゅんかん軍備ぐんび制限せいげん交渉こうしょう意味いみをなさなくなり、そのフランスもこの交渉こうしょうからげてしまう。当初とうしょ予定よていされていた1935ねんから1939ねんまでのあいだ年間ねんかん150りょうのルノー D 2を生産せいさんするという計画けいかく[2] (12大隊だいたい配備はいびするための600りょう予備よびとして150りょう)はただちに削減さくげんされた。1934ねん1がつ14にち最高さいこう司令しれい承認しょうにんしたのは最初さいしょ発注はっちゅうした50りょうについてだけであった。この決定けっていはリベット装甲そうこう試作しさく車両しゃりょうられた経験けいけんもとづいておこなわれていたが、しかし当初とうしょ想定そうていどお溶接ようせつ装甲そうこう車両しゃりょうだったならべつ結論けつろんみちびされたかもしれないと認識にんしきされていた。

一方いっぽうで、1932ねん12月に溶接ようせつ装甲そうこう試作しさく車両しゃりょうが2りょう発注はっちゅうされていた。これらは1933ねん8がつ完成かんせいしていたが受領じゅりょうされたのは11月であった。1934ねん12月から1935ねんなつまでのあいだヴァンセンヌの自動車じどうしゃ試験しけん委員いいんかい(Commission de Vincennes)存在そんざいした3りょう試作しさく車両しゃりょうでそれぞれことなるエンジンを試験しけんした。リベットめの車体しゃたいは120馬力ばりきのガソリンンジンでの2りょうはディーゼルエンジンである。計画けいかくどおりの溶接ようせつ車体しゃたいとのわせを試験しけんするまでもなくガソリンエンジンが支持しじされた。

このような状況じょうきょうであったが、1934ねん12月29にちに50りょう車体しゃたいが41まんフランスフラン単価たんかでルノーに発注はっちゅうされた。砲塔ほうとう製造せいぞうはこれとはべつおこなわれた。最初さいしょST3砲塔ほうとうSchneider Tourelle 3、シュナイダー砲塔ほうとう3がた)が1933ねん試験しけんされたが、より大型おおがた戦車せんしゃへの搭載とうさい視野しやれたST2砲塔ほうとう検討けんとうされたうえで、最終さいしゅうてきには当初とうしょルノーB1のためにピュトー工廠こうしょう開発かいはつされていたAPX 1砲塔ほうとう搭載とうさい決定けっていされ単価たんかは610,000フランとなった。50りょうが1936ねん5がつになってようやく受領じゅりょうされた。

この生産せいさん遅延ちえんのために1935ねんそう生産せいさんすうを150りょうとの計画けいかくにもとづく100りょう生産せいさんはキャンセルされてしまった[2]。ルノーD2は戦車せんしゃ部隊ぶたい編成へんせいいそぐためにいますぐ生産せいさんうつれる暫定ざんていてき戦車せんしゃだとみなされていたからである。

構造こうぞう[編集へんしゅう]

本質ほんしつてきにはルノーD2はルノーD1の改良かいりょうがたである。搭載とうさいする砲塔ほうとうちがいによってくるまだか多少たしょう変化へんかするがおおむね266.6cmほどであり、車体しゃたいたかさは175.5cmである。車体しゃたいちょうそり塹壕ざんごう超越ちょうえつよう装備そうび)をのぞいて546cm。はば35cmのせませまくつたい装備そうびし、全幅ぜんぷくは222.3cmである。サスペンションは基本きほんてきにD1と同様どうようだがD1で問題もんだいとされたくつたい共振きょうしんふせぐために上部じょうぶてんにテンションホイールが追加ついかされ位置いちたかくされている。3つの垂直すいちょくコイルスプリングをおお装甲そうこうばんはパネルが8まいから6まいらされ、上部じょうぶてん下方かほうどろきのみぞ追加ついかされた。片側かたがわ3つづつボギーがあり、それぞれのボギーに4つの下部かぶてん、コイルスプリング、2つのショックアブソーバーがまとめられている。前方ぜんぽう機動きどう後部こうぶには、専用せんようのダンパーきテンションホイールがそなえられており、これは下部かぶてん同様どうよう機能きのうたすため下部かぶてんかず片側かたがわ14となる。もう1つの変更へんこうは、しゅ装甲そうこう一部いちぶのように誤認ごにんされがちな収納しゅうのうスペース兼用けんよう大型おおがたのフェンダーが追加ついかされたことである。

量産りょうさんしゃ当初とうしょ意図いとされていたより大幅おおはばすくない部分ぶぶんしか溶接ようせつ採用さいようされなかった。価格かかくげるためにルノーは、ボルトおよび過熱かねつはリベットとしての機能きのうたす大型おおがたさらねじを使用しようし、うすいひとつながりのはがねたいによってしゅ装甲そうこうばんたがいに結合けつごうする斬新ざんしん技術ぎじゅつ採用さいようした。この方法ほうほうならば車体しゃたい形成けいせいするためのうちけた不要ふようとなる。しゅ装甲そうこうばんは40mmあつである

ルノーD1と同様どうよう乗員じょういんは3にんだが、無線むせんしゅ指揮しきかんわりに運転うんてんしゅ右側みぎがわ配置はいちされており、ER52戦車せんしゃよう無線むせんのアンテナも無線むせんしゅとなり移動いどうしている。このスペースをけるため車体しゃたい機銃きじゅうのぞかれた。この構成こうせい戦闘せんとうしつをよりひろくするためにのものだった。製造せいぞう番号ばんごう2016および2049の2りょう指揮しき戦車せんしゃ左側ひだりがわにER51長距離ちょうきょり無線むせんのために2ほんのアンテナが搭載とうさいされていた。エンジン出力しゅつりょくはルノーV6 9.5リッターエンジンにかわそうすることで150馬力ばりき強化きょうかされた [3]が、同時どうじげん設計せっけいでの15.5トンから19.75トン、つまり20トンの要求ようきゅうギリギリまでに増加ぞうかしたので最高さいこう速度そくど増加ぞうか時速じそく23kmまでにとどまった。変速へんそくは4だん変速へんそくである。4つわせて352リットルの燃料ねんりょうタンクは100kmの航続こうぞく距離きょり実現じつげんしている。渡河とか能力のうりょく深度しんど120cmまで、塹壕ざんごう超越ちょうえつふかさ210cmまで、たかさ80cmまでの障害しょうがいぶつえ、勾配こうばい50%までの斜面しゃめん登坂とさか可能かのうであった。車体しゃたい右側みぎがわに7.5mm機関きかんじゅう装備そうびされている。

APX 1砲塔ほうとうにはくるまちょうしか搭乗とうじょうしておらず、限定げんていてき対戦たいせんしゃ能力のうりょくつ47mm SA34戦車せんしゃほうおよび7.5mm同軸どうじく機銃きじゅう砲手ほうしゅ装填そうてんしゅ兼務けんむしている。Obus Dばれる重量じゅうりょう1250 g,ほうこう初速しょそく490m/sの榴弾りゅうだんと、Obus Bとばれる重量じゅうりょう1410 g(炸薬さくやくりょう142 g),ほうこう初速しょそく480m/sのとおるかぶと榴弾りゅうだんの2種類しゅるい砲弾ほうだん発射はっしゃ可能かのうであった。貫通かんつうりょく距離きょり100mで25mmであり、これはけい装甲そうこう車両しゃりょうにどうにか有効ゆうこうあたえることができた。

2度目どめ発注はっちゅう[編集へんしゅう]

最初さいしょ生産せいさんされた製造せいぞう番号ばんごう2004から2053までの50りょう番号ばんごう2001から2003は試作しさくしゃ使用しよう)は1936ねん5がつ9にちから1937ねん2がつ23にちまでのあいだ受領じゅりょうされたが、国防省こくぼうしょうは1937ねん4がつ10日とおかあらたに50りょう発注はっちゅう決定けってい[4]兵器へいき諮問しもん委員いいんかいConseil Consultatif de l'Armement )にも1937ねん5がつ承認しょうにんされた。これは高価こうか陳腐ちんぷしつつあるルノー B1の製造せいぞうつづけられるべきかかという当時とうじおこなわれていた議論ぎろん関係かんけいしており、あらゆる選択肢せんたくしのこ目的もくてきでルノー D2の生産せいさん継続けいぞくされた。ルノーは年間ねんかん200りょう製造せいぞう可能かのうだと保証ほしょうした。実戦じっせん配備はいびされたこの戦車せんしゃについての1937ねん最初さいしょ報告ほうこくしょではあきらかに信頼しんらいせい車両しゃりょうであると警告けいこくしていた。にもかかわらず、1938ねん6がつ生産せいさん命令めいれいくだった。しかし、ルノーの深刻しんこく財政ざいせいてきおよび社会しゃかいてき問題もんだいのために、当初とうしょしばらくのあいだ生産せいさん実施じっしできなかった。予備よび部品ぶひん生産せいさんさえ遅延ちえんしたために既存きそん車両しゃりょう信頼しんらいせい問題もんだいはなおのこと悪化あっかした。

ルノーはどう時期じき生産せいさんしていた戦車せんしゃAMC35でもつまずいていた。AMC35への関心かんしんはベルギーのような他国たこく購入こうにゅうしゃからもおおかれすくなかれそそがれつづけており、ルノーD2でも類似るいじ事態じたい発生はっせいした。1936ねん9がつにフランス兵器へいき購入こうにゅうのために獲得かくとくした10おくフランの輸出ゆしゅつ信用しんようもちいてルノーD2の自国じこくでの生産せいさんすべきかどうかを調査ちょうさする委員いいんかいが1938ねん8がつポーランドから到着とうちゃくした。当初とうしょポーランドはより近代きんだいてきソミュアS35導入どうにゅうのぞんでいたが、フランスぐんへの配備はいび優先ゆうせんするために拒否きょひされていた。技術ぎじゅつ移転いてんとライセンス生産せいさん是非ぜひ問題もんだいによって複雑ふくざつした交渉こうしょう当初とうしょ頓挫とんざしてしまう。1939ねん初頭しょとうには後期こうき生産せいさんがたをポーランドにおくることが検討けんとうされたが、これはフランスの最高さいこう司令しれいかんモーリス・ガムリンによってめられてしまった。かれさき生産せいさんされた50りょう状態じょうたい非常ひじょうわるく、1個いっこ大隊だいたいにこの戦車せんしゃ実戦じっせん配備はいびさせつづけるにはあたらしい車両しゃりょう完全かんぜんえることが最善さいぜんだとかんがえていたのである。その引退いんたいさせた車両しゃりょう火炎かえん放射ほうしゃ戦車せんしゃへと改造かいぞうすることがかんがえられていた。

だい世界せかい大戦たいせんはじまったのちの1939ねん9がつ27にちエドゥアール・ダラディエはこの戦車せんしゃ将来しょうらいさらなる量産りょうさん見込みこまれた戦車せんしゃではないが、それでも以前いぜん製造せいぞうがた代替だいたいする必要ひつようみとめて2かい発注はっちゅう完遂かんすいしなければならないと決定けっていした。[5] また初期しょき生産せいさんがたのうち15りょう火炎かえん放射ほうしゃ戦車せんしゃにすることもめいじた。この事業じぎょうからられる収入しゅうにゅうによってルノーが製造せいぞう再開さいかいできるようになった。計画けいかくでは1940ねん2がつに5りょう、3月に8りょう、4がつから6がつ毎月まいつき10りょう、7がつ最後さいごの7りょう納入のうにゅうされることが見込みこまれていた。実際じっさいには2がつに6りょう、3月に17りょう、4がつに6りょう、5月に13りょう、6がつに8りょう納入のうにゅうされた。ぐんへの配備はいびは3がつ27にちに5りょう製造せいぞう番号ばんごう2054-2058)。4月22にちに8りょう(N°2059-2062と2065–2068)。5月6にちの10りょう(N°2069-2078)、5月25にちには12りょう(N°2079-2090)、6月6にちに2りょう(N°2063と2064)。のこりの13りょう(N°2091-2103)については配備はいびされたかわかっていないが、すくなくともルノーの工場こうじょうが6がつ12にち避難ひなんしなければならなくなったとき南方なんぽうへとおくられたことはわかっている。

2度目どめ生産せいさんつくられた車両しゃりょうにはいくつかの改良かいりょうほどこされていた。もっと重要じゅうようなのはちょう砲身ほうしんSA35戦車せんしゃほう搭載とうさいのAPX 4砲塔ほうとうへのかわそうで、やく2ばい装甲そうこう貫通かんつうでき対戦たいせんしゃ戦闘せんとう能力のうりょく劇的げきてき向上こうじょうした。砲弾ほうだんながさがびたため砲弾ほうだん搭載とうさいすうは108はつ減少げんしょうした。しん砲塔ほうとうでは単眼たんがんきょうわりにPPLR X 160エピスコープへとえられ、後部こうぶハッチ上方かみがた砲塔ほうとう上面うわつら対空たいくう火器かきとして機関きかんじゅうせるためのS 190 Gアタッチメントポイントが配置はいちされていた。ルノーB1の改良かいりょうがたがB1 bisと名付なづけられたのと同様どうように1940ねん内部ないぶ文書ぶんしょには "Char D2 bis"として記載きさいしたものもあったが、公式こうしきには改名かいめいされなかった。[6]

その変更へんこうてんとして下部かぶてんよう軸受じくうけの強化きょうかくつたいはずれにくくするために起動きどうゆう形状けいじょう変更へんこう泥除どろよけの縮小しゅくしょう、アンテナの軽量けいりょう、バッテリーの消費しょうひおさえるためエンジン起動きどう装置そうちなどの変更へんこうのよなあしまわりにかんする改良かいりょうほどこされている。

初期しょき生産せいさんがた改修かいしゅう[編集へんしゅう]

初期しょき生産せいさんがた火炎かえん放射ほうしゃ戦車せんしゃ改修かいしゅうすることが考慮こうりょされていたため1りょう試作しさくしゃとして改造かいぞうされた。1939ねん9がつ27にち最初さいしょの15りょう改修かいしゅう発注はっちゅうされ、1940ねん4がつ23にちにはすべて車両しゃりょう改修かいしゅうすることが決定けっていした。にもかかわらず、この計画けいかく両立りょうりつしない並行へいこう計画けいかく存在そんざいした。1939ねん9がつ中央ちゅうおう運転うんてん学校がっこう(ECC)で使用しようされていた5りょうのうち2りょう試験しけんてきちょう砲身ほうしんかわそうし、3りょう戦車せんしゃ訓練くんれん使用しようされた。[7]1940ねんふゆには有力ゆうりょく戦車せんしゃであるソミュアS35およびルノーB1の配備はいびすうは300りょう程度ていどぎず、フランスぐんみずからに十分じゅうぶん火力かりょくゆうする戦車せんしゃ欠如けつじょしていることを認識にんしきするにいたった。ここに49りょう火炎かえん放射ほうしゃ戦車せんしゃ改造かいぞうした1りょうもともどすのは手間てまのかかる作業さぎょうであるので除外じょがい)の戦車せんしゃ追加ついかすることができれば、すくなからぬ戦力せんりょく増強ぞうきょうになるはずである。このため初期しょき生産せいさんがたのAPX 1砲塔ほうとうをAPX 1Aにかわそうすることが決定けっていした。これは、ルノーB1として製造せいぞうされた戦車せんしゃルノーB1bisと同等どうとうのものアップグレードするときにおこなわれたのとおな作業さぎょうである。APX 1Aは原型げんけい同様どうよう単眼たんがんきょうそなえていた。

3月9にちから改修かいしゅうのために初期しょき生産せいさん車両しゃりょう砲塔ほうとうが5りょう3セットを1バッチとして15りょうずつリュエイユ工廠こうしょうAtelier de Rueil)おくられた。車体しゃたいのオーバーホールも計画けいかくされていたが予備よび部品ぶひん不足ふそくなどの影響えいきょうおく予定よていどおりにはいかなかった。砲塔ほうとう砲塔ほうとう別々べつべつけられたために即座そくざ戦闘せんとう配備はいびもどすことがむずかしくなった。だい19戦車せんしゃ大隊だいたいだい中隊ちゅうたいから3がつ11にち最初さいしょの5りょう離脱りだつした。このバッチには指揮しき戦車せんしゃ予備よび車両しゃりょうふくまれている。[8]4がつ12にちにはだい2バッチの15りょうおくられた。特筆とくひつすべきことに、この計画けいかく進行しんこうちゅうにもかかわらず火炎かえん放射ほうしゃ戦車せんしゃへの改造かいぞう計画けいかく公式こうしき中止ちゅうしされることはなく、書面しょめんじょうにおいてだけは進行しんこうちゅうであった。

運用うんようれき[編集へんしゅう]

ドゴールの精鋭せいえい部隊ぶたい[編集へんしゅう]

1937ねん4がつにルノーD2を最初さいしょ受領じゅりょうしたのは メス拠点きょてんとする精鋭せいえいだい507戦車せんしゃ連隊れんたい(507e RCC,Régiment de Chars de Combat)であった。[9]3中隊ちゅうたい編成へんせいするのに十分じゅうぶん乗員じょういん訓練くんれんされたのち同年どうねんの7がつ14にちバスティーユのパレードに新型しんがた戦車せんしゃ披露ひろうねて参加さんかした。そのなかもっと複雑ふくざつ塗装とそうされた車両しゃりょう工場こうじょうで8しょくくろ縁取へりとけられもので、ふかむらさきやライラックしょく空色そらいろなどの目立めだいろふくまれていた。1937ねん10がつ1にちだい507戦車せんしゃ連隊れんたいだい1戦車せんしゃ大隊だいたいが45りょうのルノーD2で編成へんせいされた。3りょう編成へんせい小隊しょうたい4つおよび指揮しき戦車せんしゃ2りょうからなる中隊ちゅうたい3つという構成こうせいでうち3りょう大隊だいたい予備よびであった。のこりの5りょう中央ちゅうおう運転うんてん学校がっこうへとまわされた。当時とうじ中佐ちゅうさであったドゴールは37ねんの9がつ5にちから大佐たいさ昇進しょうしんする1937ねん12月25にちまでのあいだこの部隊ぶたい指揮しきした。当時とうじのフランスの戦車せんしゃ専門せんもんもっと中心ちゅうしんてき人物じんぶつであったドゴールはとく無線むせん通信つうしん分野ぶんやにおいてみずからのかんがえを実証じっしょうするためにこの戦車せんしゃもちいた。ルノーD1にくらべてあきらかに改良かいりょうされてはいたが欠点けってん存在そんざいし、あまりにも信頼しんらいせいひくとくにエンジンおよびトランスミッションと操行そうこう装置そうちそして冷却れいきゃくけい問題もんだいがありすぐに損耗そんこうしたため整備せいび労力ろうりょく過大かだい要求ようきゅうした。1937ねんなつ時点じてんでB1bisは月間げっかん3りょうペースの生産せいさんペースでしかなくS35にいたっては量産りょうさん段階だんかいはいってさえおらず、強力きょうりょくな47mmほう装備そうびする戦車せんしゃ十分じゅうぶん用意よういできているとはえない状態じょうたいであった。[4]

1938ねん6がつ26にち式典しきてんにおいてこのそれぞれの車両しゃりょうにフランスぐんによる戦勝せんしょうにおわった著名ちょめいたたかいにちなんだ個別こべつめいをつけられた。[10]ドゴールは式典しきてんちゅうにアウステルリッツ、ロクロワ、ヨークタウンに搭乗とうじょうしたが、体格たいかくおおきかったかれ運転うんてんしゅかたあしせる必要ひつようがあった。[11]

フォニーウォー[編集へんしゅう]

戦争せんそう脅威きょうい間近まぢかせまるにいたりフランスは動員どういんをかけた。動員どういん計画けいかくでは戦車せんしゃ連隊れんたい大隊だいたい分割ぶんかつされ、それら大隊だいたい独立どくりつ戦車せんしゃ旅団りょだんであるGroupements de Bataillons de Chars(GBC)のしたさい編成へんせいされ、ぐんあるいはぐん集団しゅうだん規模きぼでの装甲そうこう予備よび戦力せんりょくとして機能きのうすることになっていた。したがって、1939ねん8がつ27にちだい507戦車せんしゃ連隊れんたいだい1戦車せんしゃ大隊だいたい指揮しきかん(コマンダン)アイメの指揮しきだい19歩兵ほへい戦車せんしゃ大隊だいたい(19e BCC,Bataillon de Chars de Combat)に改名かいめいされだいぐん集団しゅうだん装甲そうこう予備よびせんりょくである507e Groupement de Bataillons de Charsへ編入へんにゅうされた[12]大隊だいたい動員どういんは9月1にち完了かんりょうし、翌日よくじつドゴールはだい5ぐん装甲そうこう予備よびたい指揮しきかんになる命令めいれい辞任じにんした。[13]戦争せんそう勃発ぼっぱつしフランスも9がつ3にち正式せいしき参戦さんせんするとだい規模きぼ改編かいへんおこなわれ、この大隊だいたいも9がつ6にちにはGBC510へ再割さいわてされ、8にちにはGBC511に、最終さいしゅうてきに13にちだい5ぐん装甲そうこう予備よびであるGBC517の一員いちいんとしてザール攻勢こうせい参加さんかした。[14]大隊だいたいは1940ねんきびしいふゆにも戦闘せんとう位置いちにまだとどまっていたが、この戦車せんしゃゆきこおりなどの冬季とうき環境かんきょう適応てきおうしていないことがすぐにあきらかになった。[15]くつばん平坦へいたんすぎたためにおおくの車両しゃりょう渓谷けいこくすべって重大じゅうだい事故じこまれた。[16]

この時点じてん訓練くんれんなどでもふくめて使用しようえていたためルノーD2は消耗しょうもう目立めだっていたため、[17]大隊だいたいだい製造せいぞうバッチの新造しんぞう車両しゃりょうで44りょう[18]初期しょき生産せいさんがた交換こうかんすることを熱望ねつぼうしていた。[8]しかし3がつおこなわれた既存きそん車両しゃりょうのアップグレードでませるという決定けっていはこの期待きたい裏切うらぎるものだった。また改修かいしゅうのために大隊だいたいから車両しゃりょうかれてしまうため、実際じっさい使つかえる車両しゃりょうかずはさらに減少げんしょうした。4月26にちに1中隊ちゅうたい大隊だいたいからかれてしまうにいた状況じょうきょうはさらに悪化あっかした。[17]この中隊ちゅうたいは5月7にち[7]ソ連それんとのふゆ戦争せんそうたたかっていたフィンランド支援しえんするため派遣はけんされる予定よてい編成へんせいされていたスカンディナヴィア遠征えんせい軍団ぐんだん一部いちぶとしてJean-Charles Idée大尉たいい指揮しきだい345独立どくりつ戦車せんしゃ中隊ちゅうたい再編さいへんされた。しかしこの時点じてんでフィンランドはすでに敗北はいぼく戦争せんそう終結しゅうけつしていたため、ヴェーザー演習えんしゅう作戦さくせんでドイツぐん侵攻しんこうけているノルウェー支援しえん方針ほうしん転換てんかんした。[19]だい19歩兵ほへい戦車せんしゃ大隊だいたいだい1中隊ちゅうたい(1/19 BCC)が派遣はけん部隊ぶたい一員いちいんえらばれた。この中隊ちゅうたい初期しょき生産せいさんがた装備そうびせず14りょうすべて後期こうき生産せいさんがただった。これ以後いごこの大隊だいたい状態じょうたいのいい新造しんぞう車両しゃりょうとどくことはなく、どう中隊ちゅうたいは 4がつ29にち交換こうかんよう車両しゃりょう受領じゅりょうしたが使用しようにもかかわらず劣悪れつあく状態じょうたい受領じゅりょうのほとんど直後ちょくご故障こしょうした。原因げんいんはわかっていないが、この時期じき蔓延まんえんしていただいれつへの警戒けいかいかんのためにルノーが納入のうにゅういそいだことによる品質ひんしつ不足ふそくとはみなされずサボタージュによるものとかんがえられた。[20]しかしルノーD2が寒冷かんれいでの使用しようてきさないことがあきらかになったために中隊ちゅうたい派遣はけんはすぐに中止ちゅうしされた。[21]

フランスのたたか[編集へんしゅう]

ほんのすうねんまえまでフランスでもっと近代きんだいされた戦車せんしゃ部隊ぶたいであっただい19歩兵ほへい戦車せんしゃ大隊だいたいも1940ねん5がつ10日とおかドイツ侵攻しんこうときには上記じょうきのような状況じょうきょうのために弱体じゃくたいしてしまっていた[10]だい1中隊ちゅうたいふたたもどってきたが交換こうかん部品ぶひんまったとどかないために比較的ひかくてきふる戦車せんしゃ主砲しゅほう照準しょうじゅんのコネクタボックスをよりあたらしい戦車せんしゃへの交換こうかん部品ぶひんとして使つかうためにはずしてしまったため後期こうき生産せいさんがたでもすうりょう使用しよう不能ふのうになっていた。[20]の2中隊ちゅうたい戦車せんしゃのうち21りょうだい中隊ちゅうたいが6りょうだい中隊ちゅうたいの6りょう)はちょう砲身ほうしんほうかわそうされたが、そのうち車体しゃたいのオーバーホールまで完了かんりょうしていたのは5りょうぎなかった。だい3中隊ちゅうたいのこりの9りょう改装かいそうちゅう砲塔ほうとうがついていなかった。[22]また、新造しんぞう車両しゃりょう新設しんせつされる2独立どくりつ戦車せんしゃ中隊ちゅうたい(10りょうだい346と12りょうだい350)へ配備はいびすることとなったために、新造しんぞう車両しゃりょう受領じゅりょうする見込みこみもなかった。しかし最終さいしゅうてき新造しんぞうしゃはすべてこの大隊だいたいることができた。

5月15にちにドイツぐんセダン近郊きんこう戦争せんそう決定けっていとなりうる突破口とっぱこうひらいたとき、フランスぐん司令しれいはこの危機ききてき状況じょうきょう対応たいおうするために急遽きゅうきょ保有ほゆうする予備よび戦力せんりょくをすべてここを進撃しんげきするドイツぐん投入とうにゅうする命令めいれいくだした。このときだい19歩兵ほへい戦車せんしゃ大隊だいたいおよびだい345独立どくりつ戦車せんしゃ中隊ちゅうたいはともに新設しんせつされたドゴール指揮しきだい戦車せんしゃ師団しだん(4 DCR)に配備はいびされていた。3月17にちから20日はつかにかけてだい345独立どくりつ戦車せんしゃ中隊ちゅうたいがドイツぐん突破とっぱ部隊ぶたい側面そくめん打撃だげきするため単独たんどく突入とつにゅう発生はっせいしたモンコメのたたかいや、だい19歩兵ほへい戦車せんしゃ大隊だいたい戦闘せんとう参加さんかできる状態じょうたいではなく3がつ17にちから19にちにかけてだい4戦車せんしゃ師団しだんラン近郊きんこうおこなった反撃はんげき作戦さくせんからもはなれていたことなどのように、りょう部隊ぶたいとも当初とうしょ師団しだんほか戦力せんりょく協同きょうどうして戦闘せんとうできていなかった[23]

5月17にちだい346独立どくりつ戦車せんしゃ中隊ちゅうたいあらたな車両しゃりょうだい106戦車せんしゃ大隊だいたい (ルノーB1 bisの使用しよう指導しどうする訓練くんれん部隊ぶたい)からの乗員じょういん創設そうせつされた。この乗員じょういん簡易かんいてき車種しゃしゅ転換てんかん訓練くんれんけることになったが、その短期間たんきかん訓練くんれんでは必要ひつよう能力のうりょく習得しゅうとくすることができないことがすぐあきらかになり乗員じょういんはとどめかれ、新造しんぞう車両しゃりょうだい19歩兵ほへい戦車せんしゃ大隊だいたい損耗そんこうおぎなうために使つかわれた。

5月18にちにはすでに正式せいしき指揮しきはいっていたが、5月21にちには[24] だい345独立どくりつ戦車せんしゃ中隊ちゅうたい名目めいもくじょうだい19歩兵ほへい戦車せんしゃ大隊だいたい統合とうごうされだい中隊ちゅうたいとなり大隊だいたい戦力せんりょく増強ぞうきょうした。ほかにもだい1中隊ちゅうたい部品ぶひんりに使つかわれて使用しよう不能ふのうになっていた2りょうあらたな部品ぶひん復帰ふっきさせ、だい3中隊ちゅうたい砲塔ほうとうがなかった4りょうあらたな砲塔ほうとう装備そうびされた。これらの措置そちにより大隊だいたい戦闘せんとう可能かのう状態じょうたいになり5がつ24にちアミアン近郊きんこうはじめてたたかった、24りょう戦車せんしゃ戦場せんじょうあつかえた翌日よくじつまでが戦力せんりょくのピークであった。

しかしすぐに状況じょうきょうふたた悪化あっかしてしまう。だい4戦車せんしゃ師団しだんがアミアンのソンムきょうあたま打撃だげきするためだい規模きぼ反撃はんげきってたとき、大隊だいたいは17りょうにまでってしまった。前進ぜんしんちゅう少数しょうすうしか生産せいさんされてない戦車せんしゃだったためドイツぐん戦車せんしゃ誤認ごにんしたフランス歩兵ほへい退却たいきゃくさせてしまい、歩兵ほへい支援しえんけないままドイツぐん正面しょうめんへと前進ぜんしんしたため7りょう対戦たいせんしゃほうによって撃破げきはされた。

予期よきされるフランス本土ほんどへの全面ぜんめん進攻しんこう赤色あかいろ作戦さくせん)へ対応たいおうできる装甲そうこう予備よび戦力せんりょくとしての機能きのうたすことができるよう大隊だいたいふたた増強ぞうきょうするためのこころみがくだりれ、6月2にちだい346独立どくりつ戦車せんしゃ中隊ちゅうたいだい19歩兵ほへい戦車せんしゃ大隊だいたい一部いちぶとなったが、その13りょう戦車せんしゃ老朽ろうきゅうしており乗員じょういん未熟みじゅくだった[17]

。6月8にちだい350独立どくりつ戦車せんしゃ中隊ちゅうたい12りょう新造しんぞう車両しゃりょう編成へんせいされ、19にちだい19歩兵ほへい戦車せんしゃ大隊だいたい隣接りんせつした。その時点じてん大隊だいたい悲惨ひさん状態じょうたいにありフランスぐん戦線せんせん崩壊ほうかいきている状況じょうきょうだい4戦車せんしゃ師団しだん後退こうたい援護えんごしなければならなかった。ひろ範囲はんいをカバーせねばならないうえにメンテナンスの時間じかんれていないために運用うんよう可能かのう戦車せんしゃ急激きゅうげき減少げんしょうした。停戦ていせんの2にちまえの6がつ23にち大隊だいたいふたただい350独立どくりつ戦車せんしゃ中隊ちゅうたいからはなされ、すべての戦車せんしゃうしな機械きかい歩兵ほへい大隊だいたいBataillon de Chasseurs portés)となっていた

部隊ぶたい実戦じっせん配備はいびされた84りょうのうち、戦闘せんとうてき撃破げきはされ損失そんしつした戦車せんしゃは21りょうであった。6月25にち時点じてんでまだ利用りよう可能かのうだったのは7りょうですべてだい350独立どくりつ戦車せんしゃ中隊ちゅうたいのものだった。のこりの38りょう故障こしょうのために放棄ほうきされ、12りょう倉庫そうこおくられ、戦闘せんとう参加さんかしなかったヴァンヌのだい507戦車せんしゃ連隊れんたい倉庫そうこ保管ほかんされていた3りょうのうち2りょう行方ゆくえ不明ふめいで1りょう峡谷きょうこく落下らっかした。

ドイツぐんはフランスぐんからった9りょうと、戦場せんじょう放棄ほうきされ乗員じょういん破壊はかい処置しょちをとらなかった12りょうけい21りょうのルノーD2を鹵獲ろかくした。ドイツぐんでの名称めいしょうとしてPanzerkampfwagen 733(f)があたえられたが鹵獲ろかく直後ちょくご一時いちじてき運用うんようされた車両しゃりょうがあっただけでドイツぐんへの部隊ぶたい配備はいびおこなわれなかった。[25]いくつかの車両しゃりょう砲塔ほうとうバルカン半島ばるかんはんとう運用うんようされる装甲そうこう列車れっしゃへと転用てんようされた。ドイツのわたらなかった車両しゃりょうのそのははっきりとわかっていないが、すくなくとも1りょう戦争せんそう後半こうはんにヴィシー政府せいふ秘密裏ひみつり戦車せんしゃ設計せっけいきょくであるCDM(Service du Camouflage du Matériel )によって研究けんきゅうされた。[26]

しょ計画けいかく[編集へんしゅう]

2つのわずかにことなるルノーD2、および試作しさく車両しゃりょう1りょうわった姉妹しまい計画けいかくのルノーD3をのぞいて、これに関連かんれんした2つの計画けいかく存在そんざいした。

ひとつは火炎かえん放射ほうしゃ戦車せんしゃ設計せっけいである。これは元々もともと通常つうじょう火炎かえん放射ほうしゃ戦車せんしゃのようにてきトーチカなどを破壊はかいする目的もくてきかんがえられたのではなく、スペイン内戦ないせんにおいて戦車せんしゃ歩兵ほへいよう火炎かえん放射ほうしゃによる攻撃こうげき脆弱ぜいじゃくだったせんくんから着想ちゃくそうたものだった。このことから、火炎かえん放射ほうしゃ戦車せんしゃてき戦車せんしゃ部隊ぶたい攻撃こうげきから防御ぼうぎょ陣地じんち支援しえんするための、てき戦車せんしゃたいする強力きょうりょく防御ぼうぎょ兵器へいきとしての役割やくわり期待きたいされた。

1938ねんからリュエイユ工廠こうしょうはChaubeyre工場こうじょう共同きょうどう初期しょき生産せいさんがたをもとに1りょう試作しさく車両しゃりょうたてて、1939ねん12月5にち完成かんせいした。砲塔ほうとうはずされ、2せんリットルの ベンゾール軽油けいゆ混合こんごう燃料ねんりょう充填じゅうてんされたしょうえびすざいタンクが車体しゃたいてんばんすこじょうした戦闘せんとうしつ配置はいちされ、そのしたにはまいぶん1800リットルを投射とうしゃできるポンプがいた噴射ふんしゃノズルが車体しゃたい前面ぜんめん固定こてい配置はいちされている。射程しゃていはおよそ50mであった。テスト結果けっか良好りょうこうで1940ねん3がつ28にちに50りょう階層かいそうキットが発注はっちゅうされた。これらは元々もともと砲塔ほうとう噴射ふんしゃノズルのために使用しようするため試作しさくしゃよりも小型こがたの900リットルのしょうえびすざいタンクを装備そうびするものだった。4月23にち初期しょき生産せいさんがたの50りょうすべてを改装かいそうするよう決定けっていされたが、しかし上述じょうじゅつのようにこれは実際じっさいにはおこなわれなかった。

だいのものはそり計画けいかくである。だいいち世界せかい大戦たいせんにおいて戦車せんしゃ設置せっちされたスキッドは塹壕ざんごう対戦たいせんしゃごう超越ちょうえつするために非常ひじょう有効ゆうこうであることが実証じっしょうされていた。とくにフランスで多用たようされており他国たこくではあまり使つかわれておらず、フランスでも年代ねんだいには塹壕ざんごうせん遺物いぶつとして時代遅じだいおくれのものとみなされていた。しかし、戦争せんそう脅威きょういせまったとき、フランスの歩兵ほへい戦車せんしゃのうちとく全長ぜんちょうみじか車両しゃりょうにとってはみぞというものが重大じゅうだい障害しょうがいぶつとなることが認識にんしきされ、これをおぎな機材きざい要求ようきゅうされることになった。

1939ねん8がつ25にちリュエイユ工廠こうしょうは、自動車じどうしゃ試験しけん委員いいんかい牽引けんいんようフックと内蔵ないぞうしきのジャッキをそなえたルノーD2よう先進せんしんてきそり試作しさく提出ていしゅつした。9月2にちそりはリベットでけられ11にちから試験しけんされた。しかし、3にち以内いないそり返送へんそうされた。このような構造こうぞうそりけることが設計せっけい想定そうていされていなかったために、結合けつごうのリベットに戦車せんしゃぜん重量じゅうりょう負荷ふかとしてかかりきちぎられてしまったのである。溶接ようせつとボルトをつかいけるふた試作しさくそりが2がつ5にち完成かんせい製造せいぞう承認しょうにんされたが、フランスの敗戦はいせんにより配備はいびおこなわれなかった。

ルノーD2に現存げんそん車両しゃりょう存在そんざいしない。

登場とうじょう作品さくひん[編集へんしゅう]

ゲーム[編集へんしゅう]

World of Tanks
フランスちゅう戦車せんしゃD2として開発かいはつ可能かのう
War Thunder
フランスのなか戦車せんしゃD2として登場とうじょう
トータル・タンク・シミュレーター
フランスとポーランドのあらためちゅう戦車せんしゃD2として使用しよう可能かのう。またフランスのなか戦車せんしゃとしてD1も使用しよう可能かのう

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • Pascal Danjou, 2008, Renault D2, Éditions du Barbotin, ISBN 978-2-917661-02-4

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^
    François Vauvillier, 2007, "Produire le Char B: Défi ou Chimère?", Histoire de Guerre, Blindés et Matériel, N° 76, p. 37
  2. ^ a b
    François Vauvillier, 2006, "Nos Chars en 1940: Pourquoi, Combien", Histoire de Guerre, Blindés & Matériel N° 74, p.47
  3. ^
    Pierre Touzin, 1979, Les Véhicules Blindés Français 1900-1944, EPA, p. 138
  4. ^ a b
    Pierre Touzin, 1979, Les Véhicules Blindés Français 1900-1944, EPA, p. 139
  5. ^
    François Vauvillier, 2006, "Nos Chars en 1940: Pourquoi, Combien", Histoire de Guerre, Blindés & Matériel N° 74, p.48
  6. ^
    François Vauvillier, 2008, "D 2 de la 2e Série: vous avez dit <<D 2bis>>?, Histoire de Guerre, Blindés et Matériel, N° 83, p. 14
  7. ^ a b
    François Vauvillier, 2006, "Nos Chars en 1940: Pourquoi, Combien", Histoire de Guerre, Blindés & Matériel N° 74, p.46
  8. ^ a b
    Stéphane Bonnaud, 2007, "Le 19e BCC en Campagne — de la mobilisation à la veille des opérations actives", Histoire de Guerre, Blindés et Matériel, N° 80, p. 64
  9. ^
    Stéphane Bonnaud, 2007, "Au 507e RCC sous de Gaulle, Metz 1937-1939", Histoire de Guerre, Blindés & Matériel N° 79, p.19
  10. ^ a b
    Stéphane Bonnaud, 2007, "Au 507e RCC sous de Gaulle, Metz 1937-1939", Histoire de Guerre, Blindés & Matériel N° 79, p. 21
  11. ^
    Stéphane Bonnaud, 2007, "Au 507e RCC sous de Gaulle, Metz 1937-1939", Histoire de Guerre, Blindés & Matériel N° 79, p. 28
  12. ^
    Stéphane Bonnaud, 2007, "Le 19e BCC en Campagne — de la mobilisation à la veille des opérations actives", Histoire de Guerre, Blindés et Matériel, N° 80, p. 54
  13. ^
    Stéphane Bonnaud, 2007, "Le 19e BCC en Campagne — de la mobilisation à la veille des opérations actives", Histoire de Guerre, Blindés et Matériel, N° 80, p. 55
  14. ^
    Stéphane Bonnaud, 2007, "Le 19e BCC en Campagne — de la mobilisation à la veille des opérations actives", Histoire de Guerre, Blindés et Matériel, N° 80, p. 60
  15. ^
    Stéphane Bonnaud, 2007, "Le 19e BCC en Campagne — de la mobilisation à la veille des opérations actives", Histoire de Guerre, Blindés et Matériel, N° 80, p. 62
  16. ^
    Stéphane Bonnaud, 2007, "Le 19e BCC en Campagne — de la mobilisation à la veille des opérations actives", Histoire de Guerre, Blindés et Matériel, N° 80, p. 6
  17. ^ a b c
    Stéphane Bonnaud, 2007, "Le 19e BCC en Campagne — de la mobilisation à la veille des opérations actives", Histoire de Guerre, Blindés et Matériel, N° 80, p. 66
  18. ^
    François Vauvillier, 2006, "Nos Chars en 1940: Pourquoi, Combien", Histoire de Guerre, Blindés & Matériel N°74, p.46
  19. ^
    Stéphane Bonnaud, 2008, "La 345e CACC au Combat I — de Versailles à Montcornet 27 avril-17 mai 1940", Histoire de Guerre, Blindés et Matériel, N° 83, p. 10
  20. ^ a b
    Stéphane Bonnaud, 2008, "La 345e CACC au Combat I — de Versailles à Montcornet 27 avril-17 mai 1940", Histoire de Guerre, Blindés et Matériel, N° 83, p. 12
  21. ^
    Stéphane Bonnaud, 2008, "La 345e CACC au Combat I — de Versailles à Montcornet 27 avril-17 mai 1940", Histoire de Guerre, Blindés et Matériel, N° 83, p. 14
  22. ^
    Stéphane Bonnaud, 2007, "Le 19e BCC en Campagne — de la mobilisation à la veille des opérations actives", Histoire de Guerre, Blindés et Matériel, N° 80, p. 67
  23. ^
    Stéphane Bonnaud, 2008, "La 345e CACC au Combat I — de Versailles à Montcornet 27 avril-17 mai 1940", Histoire de Guerre, Blindés et Matériel, N° 83, p. 16
  24. ^
    Stéphane Bonnaud, 2008, "La 345e CACC au Combat I — de Versailles à Montcornet 27 avril-17 mai 1940", Histoire de Guerre, Blindés et Matériel, N° 83, p. 2
  25. ^
    Pierre Touzin, 1979, Les Véhicules Blindés Français 1900-1944, EPA, p. 140
  26. ^
    Pierre Touzin, 1979, Les Véhicules Blindés Français 1900-1944, EPA, p. 141