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G1 (戦車せんしゃ)

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
Char G1
種類しゅるい Tank
はら開発かいはつこく France
しょもと
重量じゅうりょう ~20-35 metric tons, i.e. tonnes
全長ぜんちょう ~5.57 m
全幅ぜんぷく ~2.94 m
ぜんこう ~2.8 m
要員よういんすう 4

装甲そうこう 60 mm
おもへいそう high velocity gun
ふくへいそう two machine guns
エンジン petrol
出力しゅつりょく重量じゅうりょう unspecified
懸架けんか駆動くどう unspecified
行動こうどう距離きょり ~200-400 km
速度そくど 40 km/h
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G1は1930年代ねんだい後半こうはんルノーD2代替だいたいとして開発かいはつおこなわれていたちゅう戦車せんしゃである。シャールG1(Char G1,G1戦車せんしゃ)とも表記ひょうきされる。1936ねんから複数ふくすうのフランス企業きぎょうでそれぞれ別々べつべつ試作しさく車両しゃりょう開発かいはつされたが、1940ねんフランス降伏ごうぶくまでに完成かんせいした車両しゃりょうはなかった。これらの車両しゃりょう当時とうじのフランス戦車せんしゃとしてもっと先進せんしんてきなものであり、完成かんせいしていればソ連それんT-34アメリカM4シャーマンのようなだい世界せかい大戦たいせん中盤ちゅうばん以降いこう他国たこくもちいられた標準ひょうじゅんてきなか戦車せんしゃどう程度ていど性能せいのうになったとかんがえられている。またほう安定あんてい装置そうちはん自動じどう装填そうてん装置そうち光学こうがくはか距儀などの先進せんしんてき特徴とくちょうそなえていた。

開発かいはつ[編集へんしゅう]

20トン戦車せんしゃ[編集へんしゅう]

1935ねん時点じてんでいまだフランス歩兵ほへい満足まんぞくする性能せいのうなか戦車せんしゃっていなかった。高性能こうせいのうじゅう戦車せんしゃとしてルノーB1配備はいびされており、歩兵ほへい支援しえんようけい戦車せんしゃルノー R35オチキス H35およびFCM 36生産せいさん開始かいし目前もくぜんとなっていた。しかしちゅう戦車せんしゃかんしては完全かんぜんなる失敗しっぱいさくとなったルノーD1およびその多少たしょう改良かいりょうわってしまったルノーD2しか存在そんざいしていないため、新型しんがたちゅう戦車せんしゃ開発かいはつ必要ひつようとなった。[1] このなか戦車せんしゃ戦略せんりゃくてき攻勢こうせい作戦さくせん機動きどう防御ぼうぎょ中核ちゅうかくとなる5機械きかい歩兵ほへい師団しだんそれぞれの独立どくりつ戦車せんしゃ大隊だいたい充足じゅうそくさせるためにすくなくとも250りょう必要ひつようとされた。[2] フランスにはすでに騎兵きへいのために高性能こうせいのうソミュアS35開発かいはつされていたが、歩兵ほへいはこれを採用さいようしようとはしなかった。理由りゆうふたつあり技術ぎじゅつてき理由りゆうとして登坂とさかつとむひくさが指摘してきされており、もう片方かたがた理由りゆう歩兵ほへい戦車せんしゃ設計せっけいうえ騎兵きへいたい優越ゆうえつすることをのぞんでいたからである。[3]

1935ねん12月18にち最初さいしょ仕様しようしょが「20トン歩兵ほへい戦車せんしゃ」(Char Moyen d'Infanterie de 20 tonnes)としてまとめられた。おも要求ようきゅうされた性能せいのう整地せいちで50 km/h かつ整地せいちで 20 km/h の速度そくど航続こうぞく距離きょり400 km 、2 m の塹壕ざんごう超越ちょうえつ能力のうりょくふかさ 120 cm までの渡河とか能力のうりょくたかさ 80 cmかつ角度かくど 45° の登坂とさかつとむ、40 mmの装甲そうこう、47 mm 戦車せんしゃほうおよび 7.5 mm 機関きかんじゅう搭載とうさい化学かがく兵器へいきたいする防御ぼうぎょ無線むせん搭載とうさいなどであった。20 トンという制限せいげん鉄道てつどう輸送ゆそうはしポンツーン重量じゅうりょう制限せいげんなど輸送ゆそうじょう制約せいやくによるものである。全体ぜんたいてきにはソミュアS35とたような性能せいのうであった。[4]

あらたな要求ようきゅう[編集へんしゅう]

これにおうじて1936ねん5がつ兵器へいき諮問しもん委員いいんかい(Conseil Consultatif de l'Armement)はてき戦車せんしゃとの戦闘せんとう十分じゅうぶん火力かりょく装甲そうこうそなえ、かつていコストとこう機動きどうりょくのため20トン以下いか軽量けいりょう戦車せんしゃ開発かいはつ必要ひつようであるとフランスの軍需ぐんじゅ産業さんぎょうにむけて要望ようぼうした。[1]この時期じきにはルノーB1の問題もんだいてんとして鋳造ちゅうぞう溶接ようせつではなくリベット車体しゃたいだったために想定そうていより2トン重量じゅうりょう超過ちょうかしたことや複雑ふくざつ大型おおがたゆえにこうコストであるというてんつよ認識にんしきされるようになっていた。20トン戦車せんしゃはB1よりかる高速こうそくでコストもひく容易ようい生産せいさん可能かのう乗員じょういん訓練くんれん容易よういとなるとかんがえられたゆえに、新型しんがた20トン戦車せんしゃじゅう戦車せんしゃ代替だいたいする次世代じせだい戦車せんしゃとなりうる性能せいのうであるべきと決定けっていされた。[5]

10月に特別とくべつ委員いいんかいは「20トン戦車せんしゃ」の仕様しよう変更へんこう表明ひょうめいした。最高さいこう速度そくどすくなくとも40 km/h 、航続こうぞく距離きょり 200 km 、ルノーB1bisと同等どうとう防御ぼうぎょりょくぜんしゅうで60 mm の装甲そうこう)、 250 cm の塹壕ざんごう超越ちょうえつ能力のうりょく化学かがく兵器へいきたいする完全かんぜん防御ぼうぎょ鉄道てつどう輸送ゆそう支障ししょうをきたさない寸法すんぽう機関きかんじゅう2ちょうおよび想定そうていしうるあらゆるてきちゅう戦車せんしゃ撃破げきは可能かのうこう初速しょそくほう装備そうびというものである。[6]

その仕様しようはこの戦車せんしゃ従来じゅうらいのフランス戦車せんしゃえる強力きょうりょく先進せんしんてきなものになることを意味いみしていると同時どうじに、あまりにも意欲いよくてき要求ようきゅうゆえにすぐには完成かんせいしないだろうということもはっきりしていた。そのため当時とうじフランスでおこなわれていた歩兵ほへい戦車せんしゃ部隊ぶたい将来しょうらいぞうかんする議論ぎろん決着けっちゃくくまで開発かいはつつということはけられた。シャルル・ド・ゴールのような将校しょうこうたちは歩兵ほへい騎兵きへいけい機械きかい師団しだん(Divisions Légères Mécaniques)やドイツぐん装甲そうこう師団しだん(Panzerdivision)のように師団しだん自身じしん機械きかい歩兵ほへい自動車じどうしゃ砲兵ほうへい単独たんどくであらゆる任務にんむ柔軟じゅうなん対応たいおうできる戦車せんしゃ師団しだん創設そうせつすべきであると主張しゅちょうしていた。しかしそうでないほか将校しょうこうたちは騎兵きへい模倣もほうをすることは無駄むだであり、歩兵ほへい突破とっぱというみずからの任務にんむ専念せんねんするべきであると主張しゅちょうしていた。かぎられた予算よさん戦車せんしゃ師団しだん創設そうせつするよりも、十分じゅうぶんかず歩兵ほへい支援しえんけい戦車せんしゃ歩兵ほへい師団しだん内部ないぶ独立どくりつ戦車せんしゃ大隊だいたい配備はいびしたほうが効果こうかてきしょ兵科へいか連合れんごう実現じつげんできるとかんがえていたのである。なかにはじゅう戦車せんしゃのみを生産せいさんしたいとかんがえている将校しょうこうもいた。この新型しんがた戦車せんしゃたか機動きどうりょく突破とっぱ十分じゅうぶんじゅう装甲そうこう両立りょうりつすることが要求ようきゅうされていたが、この特性とくせいはドイツしき戦車せんしゃ師団しだん創設そうせつするときにこそ必要ひつようとされるものであり、完成かんせいしたとしてもだい規模きぼ量産りょうさんにはこの議論ぎろん決着けっちゃく必要ひつようだったのである。

このように実際じっさい採用さいようされるかの確実かくじつせいはあったとしても、フランスぐん将来しょうらい主力しゅりょくになりうる戦車せんしゃ開発かいはつ計画けいかくであったためだい規模きぼ受注じゅちゅうによる利益りえき期待きたいして世界せかい恐慌きょうこうしたくるしんでいた企業きぎょうがこぞって参加さんかした。1936ねんわりから1937ねん初頭しょとうまでに、Baudet-Donon-Roussel (BDR)FCM、フーガ、ロレーヌ・ディートリッヒルノーSociétéd'Etudes et d'ApplicationsMécaniques(SEAM)、ソミュアの7しゃ設計せっけいあん提出ていしゅつした。 [6] バティニョールも設計せっけいあん発表はっぴょうしたが、実際じっさいには提出ていしゅつしなかった。[7]

委員いいんかいは1937ねん2がつ20日はつか各社かくしゃ提案ていあんたいして報告ほうこくしょ発行はっこうした。設計せっけいあんのうち2つについては参加さんか企業きぎょうが1ねん以内いない排除はいじょされてしまったため、この報告ほうこくしょ主要しゅよう情報じょうほうげんとなっている。ソミュアあんはソミュア S40とSau 40はしほう中間ちゅうかんのようなもので、基本きほんてきにはS35の登坂とさかつとむ強化きょうかしたものだった。FCMあんについて詳細しょうさいはわかっていないが、おおむね20%大型おおがたしたFCM 36でじゅう防御ぼうぎょのFCM F4砲塔ほうとう搭載とうさいしていた。[8]

BDRあんフーガあんおよびロレーヌあんはその実現じつげん可能かのうせいについてさらに情報じょうほう提供ていきょうされるまでは検討けんとう段階だんかいにとどめかれた。SEAMとルノーの設計せっけいあんはその試作しさく車両しゃりょう製造せいぞう許可きょかりるまでに進行しんこうしており、またぐんとも密接みっせつ情報じょうほう交換こうかんをしたため正式せいしき仕様しよう公開こうかいされるまえであっても設計せっけいむことができていた。11月に委員いいんかいがSEAMと契約けいやくする設計せっけいしょ所長しょちょうであるPrince André Poniatowskiに影響えいきょうされて車体しゃたい搭載とうさいの75 mmほうおも武装ぶそうとすることを決定けっていしたことはルノーにとっては不利ふりであった。SEAMの試作しさく車両しゃりょうは1937ねん10がつ31にちまでに120まんフランスフラン単価たんか納入のうにゅうされ、うち20パーセントがくにによってすすめられた。[9]

この車体しゃたい装備そうびの75mほうというあらたな要求ようきゅう当初とうしょこの2トンもの重量じゅうりょう増加ぞうかにつながる大型おおがた火砲かほう設置せっちする容積ようせき考慮こうりょせず車体しゃたい設計せっけいしていた設計せっけいしゃたちにとっておおきな問題もんだいとなった。さらに装甲そうこうへの要求ようきゅうが50%上方かみがた修正しゅうせいされたためにさらに2トンの重量じゅうりょう増加ぞうか予想よそうされた。1937ねん2がつ20日はつか時点じてんでの設計せっけいあんはすべて20トンの重量じゅうりょう制限せいげんたすことができず、23〜25トンのあんになっていた。[5]

ルノーあんは75mmほう搭載とうさい車体しゃたいではなく砲塔ほうとうとすることで対応たいおうした。1936ねんにルノーはこれを代替だいたいあんとして提案ていあんし、評価ひょうかたかかった。これにはげまされてルノーは1937ねん仲介ちゅうかいじんとおして歩兵ほへい高官こうかん買収ばいしゅうし、委員いいんかい設計せっけい方針ほうしん転換てんかんはたらきかけさせPoniatowskiから主導しゅどうけんもどした。[10] かれ委員いいんかい砲塔ほうとうへの75mmほう搭載とうさいたんなる選択肢せんたくしひとつではなく必要ひつよう不可欠ふかけつだと納得なっとくさせたのである。これによりルノーは完全かんぜん新規しんき設計せっけいいられて大幅おおはば遅延ちえんしょうじさせられていたほかのライバルにたいする圧倒的あっとうてき優位ゆういることができた。[11]

1937ねん後半こうはんにこの計画けいかくは、Char G1改名かいめいされ、設計せっけいあんについてもロレーヌあんG1Lルノー あんG1RBDRあんG1BフーガあんG1F、SEAMあんG1P公式こうしき命名めいめいされた。ソミュアとFCMの設計せっけいあん曖昧あいまいぎるか新規しんきせいけたため拒絶きょぜつされ、この2しゃ生産せいさん能力のうりょく既存きそん戦車せんしゃ生産せいさんのために集中しゅうちゅうされた。

1938ねん2がつ1にち歩兵ほへいさん度目どめだい規模きぼ仕様しよう変更へんこうとして最大さいだい重量じゅうりょうを35トン、砲塔ほうとうに32口径こうけい75mmほう搭載とうさいとのあらたな仕様しよう発表はっぴょうした。[9]

これらのあらたな要望ようぼう参加さんか企業きぎょう設計せっけい遅延ちえんこした。見通みとお不透明ふとうめいなかでこれ以上いじょうこのような複雑ふくざつなシステムへの投資とうしつづけることをけはじめたのである。そのため、1938ねん6がつ8にちにフランス政府せいふ進捗しんちょく加速かそくさせるためリュエイユ工廠こうしょう(ARL,Atelier de Rueil)の軍事ぐんじ技術ぎじゅつしゃMaurice Lavirotteを派遣はけん参加さんか企業きぎょう支援しえんさせた。参加さんか企業きぎょう装甲そうこうばん入手にゅうしゅできなければ試作しさく車両しゃりょう段階だんかいではたんなる鋼板こうはんでも許可きょかした。[12] この時点じてんではルノーは製造せいぞう可能かのうとなる日程にっていについて一切いっさいしめすことができず、フーガとBDRの設計せっけいあんはかなり重量じゅうりょう増加ぞうかしており、 SEAMは1940ねん中頃なかごろ、ロレーヌは1941ねんないには製造せいぞう開始かいしできるようになるとかんがえていた。[13]

1938ねん7がつ12にちには仕様しようかんするはるかに詳細しょうさいなリストが提供ていきょうされた。がいして強力きょうりょく武装ぶそう対戦たいせんしゃほうえる防御ぼうぎょりょく、そして優秀ゆうしゅう戦略せんりゃく戦術せんじゅつ動力どうりょくつことを要求ようきゅうしている。詳細しょうさいには砲塔ほうとうちょう砲身ほうしんはん自動じどうしき75mm戦車せんしゃほうおよび対空たいくう火器かきとしても運用うんよう可能かのうな7.5mm機関きかんじゅう装備そうび、それとはべつ機関きかんじゅう車体しゃたい正面しょうめんもしくは砲塔ほうとう搭載とうさい主砲しゅほう弾薬だんやくすうは100はつ機関きかんじゅうのマガジン30搭載とうさい空虚くうきょ重量じゅうりょうで30トン、戦闘せんとう重量じゅうりょうが32トン。エンジンは電気でんきてきにも手動しゅどうでも始動しどうすることができなければならず、くつたい完全かんぜん接触せっしょく可能かのう整地せいち速度そくどで40 km/h、長距離ちょうきょり移動いどうでも平均へいきん速度そくどで30 km/h、整地せいちでも20 km/hで走行そうこう可能かのう。200kmないし整地せいちを8あいだ走行そうこう可能かのうとする2つの燃料ねんりょうタンク。乾燥かんそうたかさ90 cmかつ勾配こうばい85%まで、れた坂道さかみちでも勾配こうばい65%までの登坂とさかつとむ。250 cmの塹壕ざんごう超越ちょうえつ能力のうりょくふかさ120 cmまでの渡河とか能力のうりょく寸法すんぽう制限せいげんはじめて明確めいかく数値すうちとしてしめされ、鉄道てつどう輸送ゆそう都合つごうから戦闘せんとうしつたかさは120cmせんちめーとる未満みまんよこはばは294 cmをえてはならず[14]同時どうじ側面そくめんドアも十分じゅうぶんひらくことが可能かのうなことと設定せっていされた。[15]

化学かがく兵器へいき防御ぼうぎょおよび装甲そうこうあつ仕様しようは60mmのまま維持いじされたが追加ついか要求ようきゅうとして、アップリケ装甲そうこうとしないこと、および鋳造ちゅうぞうないし電気でんき溶接ようせつとすることがもとめられた。自動じどう消火しょうか装置そうち搭載とうさい要求ようきゅうされた。[15]

乗員じょういんには先進せんしんてき視界しかい装置そうちおよび射撃しゃげき管制かんせい装置そうち必要ひつようとされた。ふく武装ぶそうとして7.5mm機関きかんじゅう搭載とうさいされたキューポラは大型おおがたのエピスコープを装備そうびし、必要ひつようならくるまちょう砲手ほうしゅ兼任けんにんできるようにするため砲塔ほうとう連動れんどうして75mmほうてき指向しこうさせることを可能かのうとする。キューポラには光学こうがくはか装置そうち搭載とうさいされる。主砲しゅほうは32口径こうけいの75mmほうのち搭乗とうじょうする他国たこくなか戦車せんしゃくらべて砲身ほうしんみじかめだが,エドガー・ウィリアム・ブラント開発かいはつした口径こうけいよりほそタングステンたましんもちいたとおるかぶとだん(APCR)を使用しようすることでたかほうこう初速しょそく実現じつげんしていた。[16]

1938ねんなつにはどの設計せっけいあんだい規模きぼさい設計せっけいなしにこれらをたすことはできなかった。[14]

G1P[編集へんしゅう]

SEAMによってすすめられた G1Pは設計せっけいしゃのPoniatowskiの頭文字かしらもじをとって命名めいめいされた。SEAMは1935ねん時点じてん最初さいしょ仕様しようについてすでにっていた優位ゆういもあり、1936ねん12月3にちにヴィンセンヌの自動車じどうしゃ試験しけん委員いいんかい(Commission de Vincennes)にむけた試作しさく車両しゃりょう未完成みかんせいであったとはいえ実際じっさい製造せいぞうするのに十分じゅうぶんなだけ進捗しんちょくしていた唯一ゆいいつ企業きぎょうであった。[6]予定よていどおりのエンジンも武装ぶそう搭載とうさいしていない(ターレットリングのうえ大型おおがたのガラスまどがついた球形きゅうけいのダミー砲塔ほうとう設置せっち)にもかかわらず20トンの重量じゅうりょうがあり、現状げんじょう仕様しよう要求ようきゅうでは28トン以下いかにさえさえるのは不可能ふかのうだろうというARLの提言ていげん裏付うらづけられた。想定そうていされていた280馬力ばりきエンジンではなくイスパノの120馬力ばりきエンジンが搭載とうさいされた。理論りろんじょうはより効率こうりつよく出力しゅつりょく発揮はっきできるガス・エレクトリック方式ほうしき採用さいようしていたにもかかわらずかりきのエンジンそのもの馬力ばりきひくさにより12月3にちから10日とおか試験しけんでは整地せいちで14 km/h 、整地せいちでは10 km/hという失望しつぼうてき結果けっかわった。しかもトランスミッションだけで2.4トンあり、従来じゅうらい機械きかいしきトランスミッションより1.5トンの重量じゅうりょう増大ぞうだいまねいた。しかしステアリングは単純たんじゅんほかおおくの電気でんきしきとはことなり信頼しんらいせい問題もんだいはなかった。なめらかにカーブした鋳造ちゅうぞう傾斜けいしゃ装甲そうこう多用たようした設計せっけい採用さいようしていた。車体しゃたい右側みぎがわにはしゅ武装ぶそうとして75mmほう搭載とうさいされている。乗員じょういんくるまちょう機関きかん銃砲じゅうほうとう操作そうさ兼任けんにんし、運転うんてんしゅ砲手ほうしゅ通信つうしんしゅの4にんりだった。全長ぜんちょうは577 cmだった。[17]

完成かんせい状態じょうたいという結果けっかけて委員いいんかい最終さいしゅう決定けっていくだすことはできないと判断はんだん。より車体しゃたいちょう延長えんちょうし、より柔軟じゅうなんなサスペンションを装備そうびし、防火ぼうかかべを95 mm 後退こうたいさせ戦闘せんとうしつひろくし75mmほう運用うんようがしやすくしたあらたな試作しさく車両しゃりょうつくることをSEAMへ勧告かんこくした。[18]

1937ねん6がつ6にちにはこの計画けいかく最高さいこう司令しれいである陸軍りくぐん高等こうとう会議かいぎ(Conseil Supérieurde la Guerre)にとって歩兵ほへい戦車せんしゃ師団しだん(Divisions Cuirassées)が将来しょうらい装備そうびする戦車せんしゃとなりうるとかんがえていた[19] 1937ねんから1938ねんにかけて、同社どうしゃはARLと協力きょうりょくしてさい設計せっけいしサスペンションを変更へんこう、280馬力ばりきのイスパノスイザせいエンジンへとかわそうした。このさい設計せっけいされた車両しゃりょう片側かたがわ6つづつのてん装備そうびしていたことがわかる写真しゃしんのこされている。1938ねん5がつ24にち委員いいんかい砲塔ほうとうを47 mm SA35戦車せんしゃほうそなえたAPX 4砲塔ほうとうをその無線むせんとともにかわそう車体しゃたい主砲しゅほう以外いがい武装ぶそう装備そうびすることをめいじた。[13]試作しさく車両しゃりょう寸法すんぽうわりはばは2.94 m から2.92 m へ減少げんしょうくるまだかも2.76 m から 2.73 m となった。より大型おおがた砲塔ほうとうとなったことをおぎなうため車体しゃたいたかさも183 cmから147 cmとなっている。

1939ねん初頭しょとう段階だんかいになっても委員いいんかいはまだやく250りょう発注はっちゅうすべきかどうか検討けんとうしていた。しかし、このあいだにSEAMは深刻しんこく財政難ざいせいなんとなっていた。1938ねん7がつ主砲しゅほうの75 mm ほう砲塔ほうとう搭載とうさいするというあらたな仕様しようさだめられたときにこの企業きぎょうはもはや完全かんぜんさい設計せっけい必要ひつよう費用ひよう捻出ねんしゅつできない状態じょうたいで、既存きそん試作しさく車両しゃりょうもすでに重量じゅうりょう過多かたであり容易よういには適合てきごうさせられそうにはなかった。同社どうしゃはARLに支援しえんもと兵器へいき諮問しもん委員いいんかいも1がつ19にちにARLへこれにおうじるようめいじ。SEAMは試作しさく車両しゃりょうわたしARLが大型おおがた砲塔ほうとうのARL 3砲塔ほうとう搭載とうさいさせることとなった。1939ねん9がつ10日とおか戦争せんそう勃発ぼっぱつするとこの開発かいはつ中断ちゅうだんされてしまう。1939ねん12月22にち再開さいかいされましたがたん技術ぎじゅつ実証じっしょうとしてのものであった。フランスが降伏ごうぶくしたとき車両しゃりょう完成かんせいのまま砲塔ほうとうなしの状態じょうたいでしかなかったが、G1計画けいかく設計せっけいあん唯一ゆいいつ走行そうこう試験しけんまでこぎつけたあんだった。[20]

G1F[編集へんしゅう]

1937ねんまつにもフーガはまだ詳細しょうさい設計せっけいあん提出ていしゅつしていなかった。図面ずめん現存げんそんしていないが初期しょきあんではルノーB1と同様どうよう車体しゃたい固定こてい主砲しゅほう車体しゃたい停止ていしさせたままステアリングさせることで指向しこうするもので、B1に搭載とうさいされた高価こうかなNaederトランスミッションではなく英国えいこくのウィルソンしきプレセレクタギアボックスを装備そうびする予定よていだった。委員いいんかいはカーデンロイドしきくつたい脆弱ぜいじゃくすぎると拒絶きょぜつする。[21] にもかかわらず、フーガは試作しさく車両しゃりょう製造せいぞう命令めいれいけた。1938ねんには砲塔ほうとうに75 mmほう搭載とうさいさだめられると重量じゅうりょうは35トンへ増加ぞうかすると見込みこまれた。[14]1939ねん設計せっけいあんより早期そうき開発かいはつ中止ちゅうしされた。[22]

G1B[編集へんしゅう]

BDR上部じょうぶてんたか配置はいちされたくつたいなどおおまかにはルノーB1を参考さんこうにした設計せっけいだったが、毎日まいにちグリースしが必要ひつようなB1とことなり密封みっぷうされたボールベアリング使つかったてん片側かたがわ7つづつそなえていた。[23]このくつたいはライナーとしてひとつながりの連続れんぞくしたゴム(Pendelastic) で内張うちばりされている。[7] この設計せっけいあん寸法すんぽう全長ぜんちょう 556 cm、全幅ぜんぷくは 280 cm でたかさは 285 cmである。これは提案ていあんなかもっとおおきく重量じゅうりょうも28.5トンではもっとおもかった。くつたいはばは35 cm。渡河とか能力のうりょく通常つうじょうふかさ145 cmまでであり、BDRは堤防ていぼうえて渡河とかできるように完全かんぜん防水ぼうすいすることを可能かのうにできるともかんがえていた。[24] 動力どうりょく車体しゃたい横向よこむきに搭載とうさいされたポテ空冷くうれい12気筒きとう320馬力ばりきエンジンが予定よていされていた。トランスミッションはガスエレクトロリックしきおよびGebus-Roussin方式ほうしき燃料ねんりょうタンクは容量ようりょう520リットル。主砲しゅほう要求ようきゅうわせて75 mm SA35を車体しゃたい装備そうび装弾そうだんすうは70はつ。1937ねん設計せっけいでは砲塔ほうとうは47 mm SA35を装備そうびするAPX4砲塔ほうとう搭載とうさい装弾そうだんすう102はつ[25] 車体しゃたい砲塔ほうとう左側ひだりがわにずらせば75 mm 戦車せんしゃほう中央ちゅうおう配置はいちするだけの十分じゅうぶんはばがあったが、この設計せっけいあんではそれを採用さいようしなかった。[7]

委員いいんかいが75 mmほう砲塔ほうとう搭載とうさいするよう仕様しよう変更へんこうしたときBDRはこのあん車体しゃたいがすでに大型おおがたゆえに砲塔ほうとう大型おおがたすると重量じゅうりょう過大かだいとなると警告けいこくした。委員いいんかいは1938ねんなつにこれをどうにかして改善かいぜんするようにBDRにうながしたが、問題もんだい克服こくふくできないことがわかった。この重量じゅうりょう過多かたによる機動きどうりょく低下ていか多少たしょうなりともおぎなうため、より強力きょうりょくなルノーの350馬力ばりきエンジンへのかわそう提案ていあんされた。1939ねん4がつ13にちにARL3砲塔ほうとう搭載とうさいこころみられたとき試作しさく車両しゃりょうくるまだかは325 cmとなり鉄道てつどう輸送ゆそう困難こんなんにするほど車体しゃたいひろくしなければ搭載とうさいできず、さらに重量じゅうりょうかんしても37.5トンとポンツーン輸送ゆそう制限せいげん超過ちょうかすることがあきらかとなった。[20] 試作しさく車両しゃりょうが1939ねん3がつ国防省こくぼうしょうによって発注はっちゅうされていたが、1939ねん9がつ10日とおか中断ちゅうだんされた。保安ほあんじょう理由りゆうから密閉みっぺいされた部屋へやてたために出口でぐちからすことができず委員いいんかい提出ていしゅつさえされていない木製もくせいのモックアップしか完成かんせいせず、完全かんぜん試作しさく車両しゃりょう製造せいぞうされていない。しかし、そのにG1BをもとにしたARL 40駆逐くちく戦車せんしゃ開発かいはつされている。[26]

G1L[編集へんしゅう]

ロレーヌの設計せっけいあん1933ねんけい歩兵ほへい戦車せんしゃ設計せっけいもとづいており、 これはながひく車体しゃたいたか塹壕ざんごう超越ちょうえつ能力のうりょくそなえていた。しかしそのために車体しゃたいに75mmほう搭載とうさいする空間くうかん確保かくほできず、よりしょう口径こうけいの47mm戦車せんしゃほうとしたがAPX4砲塔ほうとうにも同一どういつほう搭載とうさいしていることをかんがみると余分よぶんなものにえた。くつたいはカーデンロイドしきでG1Fと同様どうよう脆弱ぜいじゃくさを理由りゆうもどされた。トランスミッションも当初とうしょはクリーブランドしき提案ていあんされていたが拒絶きょぜつされ、わりにプレセレクタしきのCotalギアボックスが搭載とうさいされた。[18]エンジンは230馬力ばりきのイスパノスイザせい予定よていされていた。[26] 全長ぜんちょうは550 cm、全幅ぜんぷくは 250 cmである。[17]

このあん鋳造ちゅうぞう装甲そうこうだけでなく溶接ようせつ鋼板こうはん多用たようするというてん設計せっけいあんことなっていた。[25] 1937ねんには鋳造ちゅうぞう装甲そうこう品質ひんしつ管理かんりむずかしく生産せいさん設備せつびかぎられており、おおくのフランス戦車せんしゃ鋳造ちゅうぞう多用たようしているため生産せいさんすう制限せいげんされそうだということがあきらかになった。また、ロレーヌあん電気でんき機械きかいしきトランスミッションはすでにロレーヌ 37Lトラクターに採用さいようされ量産りょうさんもされており開発かいはつつまず危険きけんすくなかった。この時期じきには国際こくさいてき緊張きんちょうたかまりつづけており、警戒けいかいのため近代きんだいてき装備そうび導入どうにゅう必要ひつようせいつよまった。その結果けっか、1937ねんまつにこの設計せっけいあんみとめられロレーヌと260まんフランの全面ぜんめんてき開発かいはつ契約けいやくむすばれ、1938ねんまつまでに試作しさく車両しゃりょう納入のうにゅうをすることになった。[9]

1938ねんなつには普通ふつうこうつくられたモックアップが完成かんせいし、同社どうしゃは1941ねん生産せいさん開始かいしできるかもしれないとかんがえていた。しかし1939ねん仕様しよう変更へんこうによりこの見込みこみは崩壊ほうかいした。G1Lを75mmほう装備そうび砲塔ほうとう設計せっけい変更へんこうしたとき重量じゅうりょうは36トンへと増大ぞうだいした。最初さいしょ提案ていあん時点じてんでは車体しゃたい空虚くうきょ重量じゅうりょうは16トンと見積みつもられていた。重量じゅうりょう増大ぞうだいおぎなうため強力きょうりょくなパナールの450馬力ばりきエンジンへかわそうすることが計画けいかくされたが、当初とうしょ想定そうていされたエンジンより大型おおがたのエンジンを車体しゃたい搭載とうさいするために車体しゃたい後部こうぶたかさが大型おおがたのFCM砲塔ほうとう完全かんぜん旋回せんかいさまたげることになった。エンジンと砲塔ほうとうかわそうによりくるまだかは290 cmに増大ぞうだいした。くつたい接地せっちあつ平方へいほうセンチあたり60 kg にもなり許容きょようりょうの3ばいになるなどサスペンションも負荷ふかになるおそれがしょうじた。[26] 1939ねん初頭しょとうにロレーヌは砲塔ほうとうをARL3砲塔ほうとう派生はせいがたとすることで計画けいかく存続そんぞくさせることにしたが、モックアップ段階だんかいでもARL3砲塔ほうとう搭載とうさいされたことはなかった。このロレーヌ砲塔ほうとうかる重量じゅうりょう削減さくげん役立やくだったが、小型こがたのため俯角ふかく制限せいげんされた。[20] 1939ねん4がつ13にち委員いいんかいはG1Lの開発かいはつ放棄ほうき勧告かんこくしたが、これは国防省こくぼうしょうにより拒否きょひされた。最終さいしゅうてきには戦争せんそう勃発ぼっぱつの9がつ10日とおか中断ちゅうだんされた。[22]

G1R[編集へんしゅう]

ルイ・ルノーみずからのルノーD2および製造せいぞう多大ただいにかかわっているルノーB1と競合きょうごうする脅威きょういとしてこの計画けいかく注目ちゅうもくしていたが、もう一方いっぽうでは失敗しっぱいわったAMC34およびAMC35とのルノーせい戦車せんしゃへの信頼しんらいせいへの不満ふまんからきずつけられたフランスでもっとも著名ちょめい戦車せんしゃ製造せいぞうしゃとしての名声めいせいもど機会きかいとしてもっていた。[27]

1936ねん12がつ10日とおかにルノーは最初さいしょ設計せっけいあん委員いいんかい提出ていしゅつした。その直後ちょくご会社かいしゃ軍事ぐんじ部門ぶもん国有こくゆうされ、その工場こうじょう名称めいしょうがAMXに変更へんこうされた。ルノーはそれでも兵器へいき開発かいはつ軍用ぐんよう車両しゃりょう製造せいぞう分野ぶんやにおいて自社じしゃのこされた部分ぶぶんもちいて非常ひじょう精力せいりょくてき活動かつどうした。すぐにG1計画けいかく戦車せんしゃのルノーばんモックアップが完成かんせいし、工場こうじょう内部ないぶでの名称めいしょうルノーACK1だった。この名称めいしょうたんユンにルノーの軍用ぐんよう試作しさくしゃたいして年代ねんだいじゅん付与ふよされるるいのものでそれ以上いじょう意味いみ存在そんざいしない。

ルノーの当初とうしょ設計せっけいあんルノーR35もとづいていた。この歩兵ほへい戦車せんしゃなめらかに婉曲えんきょくした鋳造ちゅうぞう車体しゃたいだがかなり大型おおがたしており、片側かたがわ6まいづつのてんと、新型しんがた幅広はばひろくつたい開発かいはつけるためのじゅうくつたいそなえていた。これは近代きんだいてきトーションバーサスペンションだったが、同時どうじにG1Lの初期しょきあんのように時代遅じだいおくれのクリーブランドしきトランスミッションであった。[28] サスペンションを保護ほごする装甲そうこうばん車体しゃたいしゅ装甲そうこうばん一体いったい部品ぶひんとなっている。[29]

車体しゃたい一見いっけんすると円形えんけい従来じゅうらいがた砲塔ほうとうている、鋳造ちゅうぞうされたたいらなドームがた上部じょうぶ構造こうぞうがかぶせられていた。Balland大佐たいさによるあんだが主砲しゅほうである47mmみりめーとるほう車体しゃたい底部ていぶから旋回せんかいのための中心ちゅうしんじくびており、トーチカにかくされた火砲かほうのように水平すいへいられたスリットをとおして旋回せんかいすることになっていたが、しかし現実げんじつてきにはこの初期しょきあん修正しゅうせいせまられた 。Jean Restany技師ぎし設計せっけいしただいあんでは「疑似ぎじ砲塔ほうとう」は電動でんどうほうもちいて主砲しゅほうまわすことで旋回せんかいする設計せっけいとなった。この設計せっけいのため砲塔ほうとうおもぼうたて装備そうびする必要ひつようがなく、ほう重量じゅうりょうささえる必要ひつようもなくなり軽量けいりょう見込みこまれた。上部じょうぶ構造こうぞう右側みぎがわ垂直すいちょくシリンダー構造こうぞうていて、その上部じょうぶ連装れんそう機関きかんじゅう装備そうびされたくるまちょうようのキューポラがそなわっていた。上部じょうぶ構造こうぞう右側みぎがわ砲手ほうしゅ兼任けんにん尾車おぐるまちょう左側ひだりがわには装填そうてんぬし配置はいちされており、標準ひょうじゅんてきなAPX1,APX4砲塔ほうとう搭載とうさいの47mm SA35よりもかなり強力きょうりょくなシュナイダーの47mmたい戦車せんしゃほう搭載とうさいする空間くうかんてき余裕よゆうがあった。このすぐれた火力かりょくはルノーあん優位ゆういてんであり過去かこのルノーの経験けいけんのように早期そうき生産せいさん契約けいやくにつながると期待きたいされたが、Poniatowskiのロビー活動かつどうによって仕様しよう変更へんこうされ75mmほう車体しゃたい装備そうびすることになったのはルノーにとっては不幸ふこうなことであった。ACK1の車体しゃたいはこれを実現じつげんするにはひらぎたのである。計画けいかくすくうためルノーは強力きょうりょくなカウンターロビー活動かつどうおこなった。1936ねん12がつ10日とおかにすでに部分ぶぶんてきおこなわれており砲塔ほうとうすくなくとも29口径こうけいよりちょう砲身ほうしんの75 mm ほう搭載とうさいすることを提案ていあんしている。[30] しゅ武装ぶそう単一たんいつにすることで24トンの計画けいかくが19.6トンにまで減少げんしょうさせることも可能かのうかもしれないと主張しゅちょうしていた。

委員いいんかいは1937ねんにトーションバーしきサスペンションの採用さいようについて躊躇ちゅうちょしており、またクリーブランドしきトランスミッションとじゅうくつたい構造こうぞうについてはもどした。重量じゅうりょうすくなくとも25トンになると結論けつろんけたが、革新かくしんてき武装ぶそう搭載とうさい方式ほうしきかんがみて試作しさく車両しゃりょう発注はっちゅうされた。[29]

1938ねん2がつ1にち仕様しよう変更へんこうあたらしい要求ようきゅうたすために企業きぎょう設計せっけいあん大幅おおはば設計せっけい変更へんこういられる一方いっぽうで、大型おおがた車体しゃたいのルノーあんにとっては比較的ひかくてき容易よういであったためルノーとしては歓迎かんげいできた。ルノーはG1Rを1940ねん生産せいさん開始かいしできると約束やくそくしたので、1ねんおそ生産せいさんされるG1Lから主要しゅよう生産せいさんがたとしての立場たちばうばることができた。

しかしこのとき委員いいんかい見積みつもられていた重量じゅうりょう買収ばいしゅうされた歩兵ほへい将校しょうこう意図いとてき欺瞞ぎまん工作こうさくであり、実際じっさいには最善さいぜん場合ばあいでも28トンになることにづいた。また主張しゅちょうされた生産せいさん開始かいし予定よていもかなり楽観らっかんてきなものであることものちにあきらかになった。1938ねん4がつ、ルノーはトーションバーしきサスペンションは重量じゅうりょう削減さくげん有用ゆうようであり、また乗員じょういんを4にん削減さくげん車内しゃない砲弾ほうだん搭載とうさいすうおさえることで軽量けいりょうできると主張しゅちょうした。しかし委員いいんかい車体しゃたい側面そくめん装甲そうこう(サスペンション外側そとがわの50mm装甲そうこうばん内側うちがわ)が10mmみりめーとるという要求ようきゅううすすぎたとし、他社たしゃ同様どうよう重量じゅうりょう制限せいげんを30トンとすることを決定けっていした。そのため、競合きょうごうあん比較ひかくして重量じゅうりょうじょう優位ゆういはほとんどなくなった。[26]

1938ねんなつにはルノーあんにさらなる問題もんだいしょうじた。あらたな要求ようきゅうとして砲塔ほうとうたか安定あんていせいはか装置そうち搭載とうさいがったが、鋳造ちゅうぞう砲塔ほうとう容易よういにはそのような改造かいぞうができなかった。[31] 2.5トンの疑似ぎじ砲塔ほうとう砲身ほうしん駆動くどうにより旋回せんかいすると照準しょうじゅんみだれやすい傾向けいこうがあった。この問題もんだいは1939ねんにAPXのたすけをりて解決かいけつされ、ほう垂直すいちょくじく砲塔ほうとう屋根やね直接ちょくせつ接続せつぞくされる設計せっけいとなった。同時どうじにクリーブランドトランスミッションは放棄ほうきされました。[32] 1938ねんと1939ねんにかけてルノーあん進捗しんちょく非常ひじょうおそかった。

1939ねん9がつ10日とおか設計せっけいあん中断ちゅうだんされてしまったがG1Rは開発かいはつ継続けいぞくされた。おそらくルノーしゃ企業きぎょうことなりいまだ生産せいさん能力のうりょく余裕よゆうがあったためとかんがえられている。[22]

砲塔ほうとう設計せっけい[編集へんしゅう]

30年代ねんだいのフランスでは基本きほんてき砲塔ほうとう車体しゃたい設計せっけい別々べつべつおこなわれ、砲塔ほうとうおおくの車両しゃりょう搭載とうさいできる汎用はんようてきなものとして開発かいはつされていた。1938ねん6がつ1にち委員いいんかいあらたな要求ようきゅうしたでG1戦車せんしゃ搭載とうさいする砲塔ほうとう開発かいはつチームとして、ARL、FCM、ルノーの3くみ招集しょうしゅうした。[33] かれらの役目やくめ必要ひつようとされる変更へんこうおこなうことと、既存きそんないし新型しんがた75mmだか初速しょそくほうかんする研究けんきゅうであった。[31]

1939ねん7がつにARLは砲塔ほうとうバスケットをそなえた重量じゅうりょう5.7トン、ターレットリンクみち188 cm のARL3砲塔ほうとう、およびFCM F1計画けいかくのためにももちいる主砲しゅほう両方りょうほう開発かいはつした。FCMは先進せんしんてきはん自動じどう装填そうてん装置そうち搭載とうさいのため巨大きょだいなFCM F1のふく砲塔ほうとうとして開発かいはつされていた溶接ようせつ砲塔ほうとう使用しようすることも検討けんとうしており、これははち角形かくがた溶接ようせつされ重量じゅうりょう7.5トン、ターレットリンクみち185 cmだった。[14]さらに予備よびプランとして標準ひょうじゅんてきな75mm野砲やほうそなえているFCM 2Cのために開発かいはつされたF4砲塔ほうとう考慮こうりょされていた。[31]

戦術せんじゅつてき役割やくわり[編集へんしゅう]

1939ねん仕様しようはもはやG1計画けいかく歩兵ほへい師団しだん内部ないぶ独立どくりつ歩兵ほへい大隊だいたい充足じゅうそくさせるという目的もくてきのものではなくなっていたことを意味いみした。この随伴ずいはん戦車せんしゃ(Char d'accompagnement)の役割やくわりとしてはAMX 38が開発かいはつされており、これはおよそ20トンで47 mmほう装備そうび以前いぜんの「20トン戦車せんしゃ」のコンセプトにちかいものであった。戦争せんそう脅威きょういせまっており既存きそん戦車せんしゃ増産ぞうさんちからがそそがれたためG1がルノーB1を代替だいたいするということもなくなった。将来しょうらいてきにG1がどのような戦術せんじゅつてき役割やくわりたすのかということについて公式こうしきべられたことはなかった。戦略せんりゃくてき観点かんてんからのみG1の配備はいび正当せいとうすることができ、それはドイツをたおすため計画けいかくされた戦略せんりゃくてき攻勢こうせいだいさん段階だんかいのためのものだった。すなわち1940ねん既存きそん戦車せんしゃもちいてドイツぐん攻勢こうせいったのちに、41ねんちょうじゅう戦車せんしゃFCM F1によりジークフリートせん突破とっぱ、そして42ねんから43ねん技術ぎじゅつてきすぐれた新型しんがた戦車せんしゃG1が戦果せんか拡大かくだい最終さいしゅうてき勝利しょうりるのである。[34]

将来しょうらい戦車せんしゃ[編集へんしゅう]

1939ねん9がつ戦争せんそう勃発ぼっぱつしたことによりすべての設計せっけいあん影響えいきょうけた。12月15にち戦車せんしゃ検査けんさだんはこの戦争せんそうでは新型しんがたちゅう戦車せんしゃとしての随伴ずいはん戦車せんしゃ(Char d'Accompagnement)、新型しんがたじゅう戦車せんしゃ(Char de Bataille)、そしてちょうじゅう戦車せんしゃ(Char de Fortification)の3タイプを例外れいがいとして既存きそん戦車せんしゃのみが生産せいさんされるべきだと決定けっていした。これら3つのタイプを研究けんきゅうするためにあらたな戦車せんしゃ研究けんきゅう委員いいんかい設立せつりつされ1940ねん2がつ28にち最初さいしょ会合かいごうひらかれた。委員いいんかいはこの随伴ずいはん戦車せんしゃを47mm砲塔ほうとう装備そうびじゅう戦車せんしゃすくなくとも90 mmほう車体しゃたい装備そうびとした。[35] よって、この2車種しゃしゅ中間ちゅうかん位置いちするG1は生産せいさんされないこととなった。

当然とうぜん、ルノーはこの決断けつだんくつがえすために最善さいぜんくした。1940ねん4がつ1にちしょう委員いいんかいはG1計画けいかく完成かんせい間近まぢかせまっており今更いまさらこれを中断ちゅうだんするのは愚策ぐさくであるとするルノーの主席しゅせきエンジニアであるSerreをれた。最初さいしょ装甲そうこうセットが1940ねん7がつシュナイダーによって製造せいぞうされることとなっており、サスペンションとギアボックスはほぼ完成かんせいしている。そしてあらたに350馬力ばりきのエンジンが試験しけんされている。(ただしかれはこのエンジンが既存きそんのルノーB1のエンジンで十分じゅうぶんだとかんがえていたルイ・ルノーから抵抗ていこうされていたことには言及げんきゅうしなかった。) 重量じゅうりょうは35トンから削減さくげんされおそらく32トンにおさえられるはずである。すべての理論りろんてき研究けんきゅうは5月に完了かんりょうし、そして最初さいしょ車両しゃりょうが9月に完成かんせいできるようになった。この委員いいんかいはルノーによる誤魔化ごまかしが判明はんめいする以前いぜんときのように簡単かんたんには承諾しょうだくせず、たとえ試作しさく車両しゃりょうでなく生産せいさんがた命令めいれいどおりに完成かんせいしたとしても、その先進せんしんてき技術ぎじゅつてき特徴とくちょうにかかわりなく排除はいじょするとこたえた。[33] 1940ねん6がつ停戦ていせんにより開発かいはつのすべては終了しゅうりょうした。

しかし、2008ねんにフランスの戦車せんしゃ史家しかの Stéphane Ferrardは解釈かいしゃくしめした。ルノーあん唯一ゆいいつ開発かいはつ継続けいぞくみとめられたあんであった事実じじつは、フランスの敗北はいぼくきなければG1Rは上記じょうき決定けっていにもかかわらず量産りょうさん命令めいれいけていた可能かのうせいたかいことをしめしており、おそらくARL3砲塔ほうとうで400馬力ばりきエンジンというかたちであっただろうと主張しゅちょうする。[36] その場合ばあいはさらに40口径こうけい75mmほう搭載とうさいさんにん砲塔ほうとうのARL42砲塔ほうとうへのかわそうおこなわれ、その結果けっかとして1942ねんには当時とうじ他国たこく生産せいさんされていたT-34やM4シャーマンとほぼ同等どうとう性能せいのうったなか戦車せんしゃとなっただけでなく、戦後せんごのAMX 30を彷彿ほうふつとさせるはか装置そうちほう安定あんてい装置そうちのようなさら先進せんしんてき要素ようそ戦車せんしゃとなっていただろうと主張しゅちょうする。[37]

登場とうじょう作品さくひん[編集へんしゅう]

ゲーム[編集へんしゅう]

World of Tanks
フランスちゅう戦車せんしゃRenault G1として開発かいはつ可能かのう

引用いんようもと[編集へんしゅう]

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  3. ^ Stéphane Ferrard, 2007a, p. 39
  4. ^ Stéphane Ferrard, 2007a, p. 40
  5. ^ a b Stéphane Ferrard, 2007a, p. 44
  6. ^ a b c Pierre Touzin, 1979, p. 166
  7. ^ a b c StéphaneFerrard、2007b、p.67
  8. ^ Stéphane Ferrard, 2007a, p. 43
  9. ^ a b c Stéphane Ferrard, 2008a, p. 48
  10. ^ Jean-Gabriel Jeudy, 1997, p. 55
  11. ^ StéphaneFerrard、2007b、p.71
  12. ^ Stéphane Ferrard, 2008a, p. 49
  13. ^ a b Stéphane Ferrard, 2008a, p. 50
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  15. ^ a b Stéphane Ferrard, 2008a, p. 54
  16. ^ Stéphane Ferrard, 2008a, p. 55
  17. ^ a b Stéphane Ferrard, 2008b, p. 73
  18. ^ a b Stéphane Ferrard, 2007a, p. 46
  19. ^ Jean-Gabriel Jeudy, 1997, p. 56
  20. ^ a b c Stéphane Ferrard, 2008b, p. 74
  21. ^ Stéphane Ferrard, 2007b, p. 70
  22. ^ a b c Stéphane Ferrard, 2008b, p. 78
  23. ^ Stéphane Ferrard, 2007a, p. 42
  24. ^ StéphaneFerrard、2007b、p.66
  25. ^ a b Pierre Touzin, 1979, p. 167
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  27. ^ Stéphane Ferrard, 2007b, p. 62
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  29. ^ a b StéphaneFerrard、2007b、p.65
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  31. ^ a b c Stéphane Ferrard, 2008a, p. 52
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  35. ^ Pierre Touzin, 1979, p. 186-190
  36. ^ Stéphane Ferrard, 2008b, p. 79
  37. ^ Stéphane Ferrard, 2008b, p. 77

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • Pierre Touzin, Les véhicules blindés français, 1900-1944. EPA, 1979
  • Jean-Gabriel Jeudy, Chars de France, E.T.A.I., 1997
  • Stéphane Ferrard, 2007, "Le Futur Char G1, 1re partie 1935-1938: Le Char de 20 Tonnes", Histoire de Guerre, Blindés & Matériel, N° 78, pp. 38–47
  • Stéphane Ferrard, 2007, "Le Futur Char G1, 1re partie 1935-1938 (2): La <<Bombe>> Renault et les autres 20 T", Histoire de Guerre, Blindés & Matériel, N° 79, pp. 62–71
  • Stéphane Ferrard, 2008, "Le Futur Char G1, 2e partie 1938-1940 (1): 35 tonnes maximum pour un 75 en tourelle", Histoire de Guerre, Blindés & Matériel, N° 81, pp. 48–55
  • Stéphane Ferrard, 2008, "Le Futur Char G1, 2e partie 1938-1940 (2): Vers le Char de 35 tonnes de Série", Histoire de Guerre, Blindés & Matériel, N° 83, pp. 72–80