リムノスとう

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レームノスとうから転送てんそう
リムノスとう
Λήμνος
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ミリナ
リムノス島の位置(ギリシャ内)
リムノス島
リムノスとう
リムノスとう位置いち
リムノス島の位置(エーゲ海内)
リムノス島
リムノスとう
リムノスとう (ゲ海げかい)
地理ちり
座標ざひょう 北緯ほくい3955ふん 東経とうけい2515ふん / 北緯ほくい39.917 東経とうけい25.250 / 39.917; 25.250 
面積めんせき 477.583 km2
行政ぎょうせい
くに ギリシャの旗 ギリシャ
地方ちほう きたエーゲ
けん リムノスけん
中心地ちゅうしんち ミリナ (Myrina, Greece
統計とうけい
人口じんこう 18,104にん (2001ねん現在げんざい)
人口じんこう密度みつど 38 /km2

リムノスとう(リムノスとう、ギリシア: ΛήμνοςLímnos英語えいご: Lemnos)は、ゲ海げかい北部ほくぶにあるしまレムノスとうなどの表記ひょうきもちいられる。面積めんせきやく477km2ひろく、ギリシャでは8番目ばんめおおきなしまである。

名称めいしょう[編集へんしゅう]

古典こてんギリシャではレームノスとう (古代こだいギリシア: Λらむだῆμνος Lêmnos)で、長音ちょうおんはぶいて「レムノスとう」とも表記ひょうきされる。トルコではリムニとうトルコ: Limni)とばれる。

地理ちり[編集へんしゅう]

だい部分ぶぶんやまだが、肥沃ひよくたにもいくつかある。

主要しゅようまちは、西海岸にしかいがんにあるミリナ (Μύρινα, Myrina, 別名べつめいカストロ Kastro) と、しま中部ちゅうぶみなみおおきく湾曲わんきょくしたマウドロスわん東岸とうがんにあるマウドロス (Μούδρος, Moudros) である。ミリナは素晴すばらしいみなとゆうしていて、そこはこのしま交易こうえき中心ちゅうしんとなっている。

気候きこう[編集へんしゅう]

リムノスとう気候きこうは、おおむ地中海ちちゅうかいせい気候きこうである。ふゆ通常つうじょうおだやかで、あきには強風きょうふうくのがこの地方ちほう特徴とくちょうである。

神話しんわ世界せかいのリムノス[編集へんしゅう]

古代こだいギリシア時代じだい、リムノスとう鍛冶たんやかみヘーパイストスささげられていた。『イリアス』(I.590ff)のなかでヘーパイトス自身じしんかたるには、ちちゼウスによってオリンポスさんからさかさまにとされて、ちた場所ばしょがリムノスとうだったということだ。『イリアス』によると、ヘーパイトスはシンティエスじん英語えいごばん(あるいは、アポロドーロスの『ビブリオテーケー』(邦訳ほうやくめい「ギリシア神話しんわ」。I.3.5)によると、女神めがみテティス)の看護かんごけ、トラキアニュンペー(ニンフ)のCabiro(プローテウスむすめ)とともにカベイロイばれる種族しゅぞくみ、かれらにささげる神聖しんせい儀式ぎしきしまおこなわれたということである。

ヘーパイストスの鍛冶たんやじょう火山かざんとう特徴とくちょうしめしているが、アイタレイア (Aethaleia)同様どうよう、このリムノスとうにも鍛冶たんやじょうがあり、時々ときどき利用りようされていたという。しまにあるやまの1つ、モシュクロスさん (Mosychlos) は時々ときどき噴火ふんかしたとわれている。古代こだい地理ちり学者がくしゃパウサニアスは、リムノスとうちかくにクリセ (Chryse) とばれる小島こじまがあったがうみしずんだと説明せつめいしている。しかし現在げんざいのリムノスとう山々やまやまはすべて死火山しかざんである。

レムノス (Lemnos) という名前なまえは、トラキアじんあいだではキュベレー称号しょうごうだったと、ミレトスのヘカタイオスべた。また、このしま最初さいしょんでいたのはトラキアじん部族ぶぞくで、ギリシアじんかれらのことを Sintians略奪りゃくだつしゃ)とんでいたとも。

アポロドーロスは、ディオニューソスナクソスとうりにされたアリアドネつけ、リムノスとうれてき、そこでトアース、スタピュロス、オイノピオーン、ペパレートスをんだとしている(『ビブリオテーケー(ギリシア神話しんわ)』摘要てきようI.9)。また、だいプリニウスは『博物はくぶつ』のなかで、リムノスとうラビリントスについてかたっているが、現在げんざいいたってもその実在じつざい確認かくにんされていない。

有名ゆうめいないいつたえでは、しまおっとたちがトラキアの女性じょせいたちに夢中むちゅうになって、相手あいてにされなくなったつまたちはその復讐ふくしゅう島中しまなか男性だんせいころしたという[1]。この蛮行ばんこうから、古代こだいギリシアじんたちのあいだに「Lemnian deeds」ということわざがまれた。そのまもなく、アルゴナウタイ上陸じょうりくしたときは、しまには女性じょせいしかおらず、トアースおうむすめヒュプシピュレー統治とうちしていた。アルゴナウタイとリムノスとう女性じょせいたちから、ミニュアースじん (Minyans) という部族ぶぞくまれた。イアソンとヒュプシピュレーのであるエウネーオスおうは、イリオス(トロイ)のアカエアじんたちにワインや食糧しょくりょうおくった[2]。しかし、アッティカからペラスゴイじん英語えいごばんによって、ミニュアースじんしまからされてしまった。

こうした伝説でんせつ基礎きそしている歴史れきしてき要素ようそは、おそらく、こういうことではないだろうか。つまり、トラキアじんたちは、ゲ海げかい点在てんざいする島々しまじま統一とういつするための航海こうかいじゅつはじめるにあたって、徐々じょじょにギリシアじんとの交流こうりゅうをするようになった。トラキアの住民じゅうみんたちはギリシアじん水夫すいふくらべると技術ぎじゅつてきには未開みかいだったのである。

キュベレー崇拝すうはいはトラキアの特徴とくちょうで、非常ひじょうはや時期じきしょうアジアからひろまったものである。ヒュプシピュレーもミリナ(主要しゅようまち名前なまえ)もアマゾン名前なまえで、アジアのキュベレー崇拝すうはいつね関係かんけいしている。

伝説でんせつでは、ピロクテテスはトロイに途中とちゅう、ギリシアじんによってリムノスとうりにされた、とある[3]オデュッセウスネオプトレモスむかえにるまで、ピロクテテスはあしったきずじゅう年間ねんかん、このしまくるしんだ。ソポクレスによれば、ピロクテテスがんでいたのは、アイスキュロスアルゴスにトロイ陥落かんらくしらせをげるかがり設置せっち場所ばしょの1つにした、ヘルマエウスさんのそばだったという。

歴史れきし[編集へんしゅう]

リムノスとうつかったテラコッタ(紀元前きげんぜん25ねんごろ
リムノスとうつかったテラコッタ

インド・ヨーロッパ語族ごぞくにはぞくさないぜんギリシアエトルリア諸語しょご)のリムノス痕跡こんせきが、紀元前きげんぜん6世紀せいき以前いぜん[4]墓碑ぼひ (レムノス碑文ひぶん) のめい[5]つかった。

ホメロスは、レムノスばれるしまに1つのまちがあったかのようにはなしているが、有史ゆうし時代じだいにはそうではなく、ミリナ(カストロ)と、主要しゅようまちであるヘファエスティア (Hephaestia) という2つのまち存在そんざいした。ヘファイステアのコインがきわめて大量たいりょう発見はっけんされていて、ふくろう一緒いっしょ女神めがみアテーナー土着どちゃく宗教しゅうきょうのシンボル、ディオスクロイ帽子ぼうしアポローンなど、さまざまな絵柄えがらがある。ミリナのコインはつかっていない。アテナイじん占領せんりょうされていた時代じだいには、アテネ様式ようしきのものがまれた。つかったコインはすくないが、どちらかのまち名前なまえよりもしま名前なまえがつけられている。

より検証けんしょう可能かのう時代じだいはいると、リムノスとうダレイオス1せい将軍しょうぐんオタネス (Otanes) によって征服せいふくされたことがわかっている。

ギリシャ[編集へんしゅう]

しかしすぐに、トラキア半島はんとう僭主せんしゅミルティアデスうばわれた(紀元前きげんぜん510ねん)。ミルティアデスはのち故郷こきょうのアテナイにもどって、それ以後いごマケドニア王国おうこく併合へいごうされるまで、リムノスとうはアテナイの領土りょうどとなった。

紀元前きげんぜん197ねん、ローマじんしまはどこの領土りょうどでもないと主張しゅちょうしたが、紀元前きげんぜん166ねんには、名目めいもくじょう所有しょゆうしゃであったアテナイにしまあたえた。

マ帝国まていこく[編集へんしゅう]

紀元前きげんぜん146ねんにギリシアがマ帝国まていこくぞくしゅうとなり、リムノスとうマ帝国まていこくりょうとなった。

ひがしマ帝国まていこく[編集へんしゅう]

マ帝国まていこく分裂ぶんれつは、リムノスとうひがしマ帝国まていこくのものとなった。

東部とうぶ地域ちいき同様どうように、リムノスとう所有しょゆうはギリシア、イタリア、トルコへとうつっていった。1476ねんヴェネツィア共和きょうわこくひがしマ帝国まていこくは、オスマン帝国ていこく包囲ほうい攻撃こうげきから Kotschinos むらまもった。

オスマン帝国ていこく[編集へんしゅう]

しかし、1657ねん、カストロ(ミリナ)が36日間にちかん包囲ほうい攻撃こうげきのち、トルコに占領せんりょうされた。

ロシア帝国ていこく[編集へんしゅう]

1770ねん、カストロはロシア貴族きぞくオルロフ伯爵はくしゃくによって占領せんりょうされた。戦争せんそう期間きかんには、ドミートリイ・セニャーヴィン英語えいごばん提督ていとくアトスの海戦かいせん英語えいごばん(リムノスの海戦かいせんともいう)に勝利しょうりした。

ギリシャ[編集へんしゅう]

1912ねんだいいちバルカン戦争せんそうあいだはリムノスとうギリシャ王国おうこく一部いちぶとなった。だいいちバルカン戦争せんそうちゅう1913ねん1がつ18にちには、ここでリムノスの海戦かいせん (Naval Battle of Lemnos) がおこなわれた。ギリシャのゲ海げかい制海権せいかいけん獲得かくとくを、オスマン帝国ていこく海軍かいぐん妨害ぼうがいしようとしたのである。Pavlos Kountouriotis提督ていとくひきいるギリシャ艦隊かんたいはマウドロスこうにいて、トルコ艦隊かんたい接近せっきんしらせる合図あいずった。ギリシャ艦隊かんたいはトルコ艦隊かんたい決定的けっていてき撃破げきはし、トルコ艦隊かんたいダーダネルス海峡かいきょう退却たいきゃくし、そのまま二度にど出撃しゅつげきしなかった。ギリシャ戦艦せんかんレムノス (Λήμνος) は、このたたかいから名付なづけられた。

ガリポリのたたかいの最中さいちゅう、リムノスとうおこなわれたイギリス海軍かいぐん訓練くんれん風景ふうけい

だいいち世界せかい大戦たいせんなか1915ねんのはじめ、連合れんごう国軍こくぐんはダーダネルス海峡かいきょう封鎖ふうさのために、50 kmの距離きょりにあったリムノスとう使用しようした。しゅとしてそれをおこなったのはイギリスで、ウィンストン・チャーチル熱心ねっしんだった。イギリス海軍かいぐんRosslyn Wemyss提督ていとくは、作戦さくせんのための使用しようおおきいみなと準備じゅんびするよう命令めいれいされ、マウドロスこうをその指揮しきいた。みなとおおきさはイギリス・フランスりょう艦隊かんたいには十分じゅうぶんだった。しかし、はやくからわかっていたことだが、適当てきとう軍事ぐんじ施設しせつがなかった。ガリポリのたたかけて軍隊ぐんたいエジプト訓練くんれんしなければならなかった。ガリポリのたたかいがはじまると、このみなとでは事故じこへいたちの対応たいおうむずかしいとわかった。1915ねん戦争せんそうあきらかな失敗しっぱいわった。戦争せんそうちゅう連合れんごうぐんのダーダネルス海峡かいきょう封鎖ふうさつづいたが、マウドロスこう重要じゅうようせいげんじた。 しかし、1918ねん10がつ下旬げじゅんに、トルコと連合れんごうこく休戦きゅうせん調印ちょういんむすんだのは、そのマウドロスだった(ムドロス休戦きゅうせん協定きょうてい参照さんしょう)。

クバン・コサック[編集へんしゅう]

ロシア内戦ないせん赤軍せきぐん勝利しょうり多数たすうクバン・コサックひとたちが、ロシア共産きょうさん党員とういん迫害はくがいけてくにからげだした。その亡命ぼうめいさきになったのがリムノスとうで、18,000にんがやってきた。しかし、おおくの人々ひとびと飢餓きが病気びょうきくなり、1ねんにはほとんどの亡命ぼうめいしゃしまった。

現代げんだいのリムノス[編集へんしゅう]

現在げんざい、リムノスとう(レムノスとう)には、やく30のむら居住きょじゅうがある。人口じんこうは2011ねん現在げんざいやく17,000にん。この行政ぎょうせいには、南西なんせいやく30 kmのところにあるアイオス・エフストラティオスとうふくまれる。このしまにはいくつかの素晴すばらしい海岸かいがんとヨーロッパでは唯一ゆいいつ砂漠さばくがある

リムノスとうゲ海げかい戦略せんりゃくじょう重要じゅうよう位置いちにあるために、ギリシャぐん基地きちかれている。2012ねんにはチェコゲームメーカーのスタッフが取材しゅざいちゅうスパイ容疑ようぎ拘束こうそくされる事件じけんきた[6]

産業さんぎょう[編集へんしゅう]

山腹さんぷくひつじ放牧ほうぼく利用りようされている。すこしのクワ果樹かじゅはあるものが、オリーブはない。マスカットひろ栽培さいばいされ、ドライでありながらつよいマスカット風味ふうみのこった独特どくとくテーブルワインつくられている。

文化ぶんか観光かんこう施設しせつ[編集へんしゅう]

ポリオクニおか建物たてもの[編集へんしゅう]

ポリオクニのおか南西なんせい斜面しゃめんに、ちょうあたりに2れつ階段かいだんじょうがある長方形ちょうほうけい建物たてものがある。青銅器せいどうき時代じだい初期しょきのもので、おそらくブーレウテリオン市民しみん立法りっぽう会議かいぎじょう)のるい使つかわれていたものとおもわれる。

著名ちょめい出身しゅっしんしゃ[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ アポロドーロス『ビブリオテーケー(ギリシア神話しんわ)』I.9.17
  2. ^ ホメロス『イリアス』IV.467
  3. ^ ホメロス『イリアス』II.722、アポロドーロス『ビブリオテーケー(ギリシア神話しんわ)』摘要てきよう3.27&5.8
  4. ^ 紀元前きげんぜん510ねんミルティアデスがリムノスとう侵攻しんこうし、ギリシャされた。(ヘロドトス. 6.136-140)
  5. ^ ギリシャ文字もじエトルリア文字もじ)でぎゅうこうしきによってかれている。
  6. ^ Σύλληψη Τσέχων σしぐまτたうηいーた Λήμνο γがんまιいおたαあるふぁ κατασκοπεία”. News247 (2012ねん9がつ10日とおか). 2021ねん5がつ14にち閲覧えつらん

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  •  この記事きじにはアメリカ合衆国あめりかがっしゅうこくうち著作ちょさくけん消滅しょうめつしたつぎ百科ひゃっか事典じてん本文ほんぶんふくむ: Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Lemnos". Encyclopædia Britannica (英語えいご). Vol. 16 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 412-413.

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]