まる毛利もうりひさし

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まるもう としつね(まるも としつね、よしみひさし4ねん12月28にち1852ねん1がつ19にち) - 明治めいじ38ねん1905ねん8がつ6にち)は、幕末ばくまつ幕臣ばくしんで、あきらたいたい幼名ようみょう貞三郎ていさぶろう通称つうしょうつねうつぼまけ(ゆきえ)とも。明治めいじ以後いごうしすけやぶゆう雅号がごうとしてきこりむらきこりほうきこり廼屋主人しゅじんなどと名乗なのる。

経歴けいれき[編集へんしゅう]

旗本はたもと大草おおくさ弥三郎やさぶろう三男さんなんとして江戸えどまれ、安政あんせい5ねん1858ねん)2がつ旗本はたもとまるもう彦三郎ひこさぶろう養子ようしとなる。剣術けんじゅつしんがたがたなりゅう小野おの一刀いっとうりゅう)・槍術そうじゅつ大島おおしまかたなりゅう)・馬術ばじゅつ高麗こうらいはちじょうりゅう)・柔術じゅうじゅつあげしんりゅう)をまなび、軍艦ぐんかんみさおねりしょ入所にゅうしょして科学かがく数学すうがくよう兵学へいがく、さらにこうたけしょ砲術ほうじゅつまなび、元治もとはる元年がんねん1864ねん)6がつべつぐみたいとなる。慶応けいおう2ねん1866ねん)、だい長州ちょうしゅう征伐せいばつさいには方面ほうめん出陣しゅつじんしたが、徳川とくがわ家茂いえもち薨去こうきょにより江戸えどもどった。慶応けいおう3ねん1867ねん)におくつめじゅうたい選抜せんばつされて7がつ上洛じょうらくして徳川とくがわ慶喜よしのぶ警護けいごつとめる。

鳥羽とば伏見ふしみたたかでは、慶喜よしのぶ護衛ごえいとしてだい坂城さかき待機たいき敗戦はいせんにともない江戸えど帰還きかんして、江戸えど開城かいじょうまるとおくつめじゅうたい脱走だっそうあきらたいくわわって組頭くみがしらかくく。上野うえの戦争せんそうでは伝令でんれいやくつとめてしょせんにおいて奮戦ふんせんする。上野うえの戦争せんそう敗走はいそう海軍かいぐんふく総裁そうさい榎本えのもと武揚ぶようひきいるきゅう幕府ばくふぐんとともに蝦夷えぞわたり、今度こんどはこかん戦争せんそうとうじる。はこかんではあきらたいやく頭取とうどりのち五稜郭ごりょうかく本営ほんえいめとなる。しん政府せいふぐん蝦夷えぞ上陸じょうりくすると敵陣てきじんである七重浜ななえはま襲撃しゅうげき積極せっきょくてき参加さんかした。

降伏ごうぶく謹慎きんしんちゅう明治めいじ3ねん1870ねん)3がつまでにはこかん戦争せんそう記録きろくとして、『きたしゅうしんはなし』をげる。同年どうねん4がつ静岡しずおかはんあずかりとなり釈放しゃくほう明治めいじ政府せいふ出仕しゅっししたのち横浜よこはま税関ぜいかんのう商務省しょうむしょうなどに勤務きんむのち横浜よこはま毎日新聞まいにちしんぶん記者きしゃしげるえいしゃ監事かんじしょくる。またのち台湾たいわん総督そうとく税関ぜいかんへも出張しゅっちょう

明治めいじ38ねん(1905ねん)8がつ6にち東京とうきょう自宅じたく病死びょうし享年きょうねん55。

著書ちょしょに『きたしゅうしんはなし』、『かんじきゅうわたし』、『きこりむら雑録ざつろく』など。

家族かぞく[編集へんしゅう]

むすめたちは、古河電気工業ふるかわでんきこうぎょう専務せんむ荻野おぎの元太郞げんたろう佐々木指月ささきしげつ水野みずの葉舟ようしゅうにそれぞれとついだ。