久六島 きゅうろくじま (きゅうろくじま[ 1] [ 2] 、きゅうろくしま[ 3] )は、青森 あおもり 県 けん 西方 せいほう の日本海 にほんかい 上 うえ にある島 しま 。3つの岩礁 がんしょう からなる無人島 むじんとう で、行政 ぎょうせい 上 じょう は西津軽 にしつがる 郡 ぐん 深浦 ふかうら 町 まち に属 ぞく する。
周辺 しゅうへん 海域 かいいき は日本海 にほんかい 屈指 くっし の好 こう 漁場 ぎょじょう として知 し られる[ 4] 。このため、明治 めいじ 時代 じだい より所属 しょぞく と漁業 ぎょぎょう 権 けん をめぐって青森 あおもり 県 けん と秋田 あきた 県 けん が争 あらそ い、どこの県 けん にも属 ぞく さない状況 じょうきょう が続 つづ いた。1953年 ねん に青森 あおもり 県 けん に編入 へんにゅう されるとともに、秋田 あきた 県 けん に入会 にゅうかい 漁業 ぎょぎょう 権 けん が認 みと められることで係争 けいそう は決着 けっちゃく した。係争 けいそう 解決 かいけつ の過程 かてい で、地方 ちほう 自治 じち 法 ほう の一部 いちぶ 改正 かいせい や、この海域 かいいき での漁業 ぎょぎょう 法 ほう の特例 とくれい 法 ほう 制定 せいてい といった立法 りっぽう 措置 そち が取 と られた。
青森 あおもり 県 けん 深浦 ふかうら 町 まち 艫作 へなし ( へなし ) (舮作 へなし )[ 注釈 ちゅうしゃく 1] より西方 せいほう 約 やく 30キロメートル 沖 おき の日本 にっぽん 海上 かいじょう にあり、「上 うえ の島 とう 」(かみのしま[ 1] [ 2] )、「下 した の島 しま 」(しものしま)[ 2] 、「ジブの島 しま 」の三 みっ つの岩礁 がんしょう [ 11] [ 12] からなる無人島 むじんとう である。舮作 へなし 漁港 ぎょこう あるいは能代 のしろ 港 こう から船 ふね で約 やく 1時 じ 間 あいだ かけて到達 とうたつ することができる[ 4] 。
このうち最 もっと も大 おお きな島 しま は「上 うえ の島 とう 」で、東西 とうざい 40m、南北 なんぼく 15m、高 たか さ5m[ 13] 。「上 うえ の島 とう 」の北東 ほくとう に「下 した の島 しま 」、「上 うえ の島 とう 」の南東 なんとう 250mに「ジブの島 しま 」がある[ 4] 。「上 うえ の島 とう 」に1959年 ねん (昭和 しょうわ 34年 ねん )10月 がつ 20日 はつか に運用 うんよう を開始 かいし した久六島 きゅうろくじま 灯台 とうだい がある[ 3] 。「久六島 きゅうろくじま 」は3つの岩礁 がんしょう の総称 そうしょう であるが、灯台 とうだい のある「上 うえ の島 とう 」を「久六島 きゅうろくじま 」と呼称 こしょう することもある[ 4] [ 14] 。「上 うえ の島 とう 」に一等 いっとう 三角 さんかく 点 てん 「上 うえ の島 とう 」が設置 せっち されている[ 15] ほか、「下 した の島 しま 」にも三 さん 等 とう 三角 さんかく 点 てん 「下 した の島 しま 」が置 お かれている。このほか、浅瀬 あさせ には干潮 かんちょう 時 じ に露出 ろしゅつ する岩礁 がんしょう がある[ 16] 。
「下 した の島 しま 」周辺 しゅうへん には3つの岩礁 がんしょう があり、高 たか さ約 やく 3mの岩礁 がんしょう が下 した の島 しま である。その南東 なんとう と北東 ほくとう に高 たか さがその半分 はんぶん 程度 ていど の岩礁 がんしょう がある。「下 した の島 しま 」とその南東 なんとう の島 しま はさしわたし10mほどで、北東 ほくとう の島 しま は長 なが さ15m、幅 はば 3mで南西 なんせい ~南東 なんとう に細長 ほそなが い。「ジブの島 しま 」は「洗 あらい 岩 がん 」とも言 い われ、高 たか さが1mに満 み たない岩 いわ で、特 とく に日本海 にほんかい 中部 ちゅうぶ 地震 じしん 以降 いこう は、波 なみ に見 み え隠 かく れている[ 17] 。
久六島 きゅうろくじま は「3つの島 しま からなる」と表現 ひょうげん されることが少 すく なくないが、「ジブの島 しま 」と「下 した の島 しま 」の南東 なんとう の島 しま との混同 こんどう が見 み られる。「ジブの島 しま 」を「下 した の島 しま と同大 どうだい である」や「下 した の島 しま よりやや大 だい である」「ほぼ同 おな じ大 おお きさである」などの表現 ひょうげん がみられる。漁業 ぎょぎょう 関係 かんけい 者 しゃ がジブと呼 よ んでいる島 しま は、久六島 きゅうろくじま の南東 なんとう 約 やく 300m離 はな れた島 しま である[ 17] 。
久六島 きゅうろくじま は南北 なんぼく に伸 の びる背 せ 斜 はす (奥尻 おくしり 海嶺 かいれい )上 じょう に形成 けいせい された海底 かいてい 火山 かざん の頂 いただき 部 ぶ が海面 かいめん に出 で たもので、その頂 いただき 部 ぶ は海食 かいしょく により平坦 へいたん 化 か されている。周辺 しゅうへん の海底 かいてい 地形 ちけい は、かつての山 やま 体 たい 崩壊 ほうかい によって形成 けいせい されたとみられる幅 はば 約 やく 17 kmの西 にし 開 びら きの馬蹄 ばてい 形 がた カルデラ が火山 かざん 体 たい を取 と り囲 かこ んでおり、島 しま の西方 せいほう 約 やく 50kmにわたって高 たか さ100-200 m, 幅 はば 1 km程度 ていど の流 なが れ山 やま が点在 てんざい している。火山 かざん 体 たい には崩壊 ほうかい の跡 あと が認 みと められないことから、久六島 きゅうろくじま は古 ふる い火山 かざん 体 たい が崩壊 ほうかい した後 のち に活動 かつどう した新 あたら しい火山 かざん によって形成 けいせい されたとみられている[ 18] [ 19] 。
久六島 きゅうろくじま の高度 こうど に言及 げんきゅう した歴史 れきし 的 てき 史料 しりょう は多 おお い。まとめると1894年 ねん には約 やく 5.7m、1934年 ねん には約 やく 5.4m、1964年 ねん ~1982年 ねん には平均 へいきん 約 やく 5.3mであった。更 さら に、1983年 ねん の日本海 にほんかい 中部 ちゅうぶ 地震 じしん の際 さい に約 やく 0.3~0.4m沈降 ちんこう した。このように島 しま は日本海 にほんかい 中部 ちゅうぶ 地震 じしん に先立 さきだ つ90年 ねん の間 あいだ に、島 しま は少 すこ しずつ沈降 ちんこう していった。これに対 たい し、島 しま には高度 こうど 約 やく 3mと1~1.5mのところに過去 かこ の海食 かいしょく 棚 だな と思 おも われる平面 へいめん 台 だい が発達 はったつ していて、海水 かいすい 準 じゅん の変化 へんか を考慮 こうりょ すると過去 かこ 数 すう 1000年間 ねんかん を通 つう じた島 しま の合計 ごうけい の沈下 ちんか 量 りょう は小 ちい さいかあるいは、数 すう 1000年 ねん を通 つう じれば島 しま は隆起 りゅうき していると考 かんが えた方 ほう がよいかもしれない[ 17] 。
地名 ちめい は、この島 しま を発見 はっけん した発見 はっけん 者 しゃ の名 な [ 4] にちなむとも、この島 しま で遭難 そうなん してのちに救助 きゅうじょ された漁師 りょうし の名 な [ 1] にちなむともいう。発見 はっけん 者 しゃ の名 な は大屋 おおや 久 ひさ 六 ろく とされるが、この人物 じんぶつ や発見 はっけん の時期 じき についても諸説 しょせつ ある。
一説 いっせつ には、天正 てんしょう 年間 ねんかん (1573年 ねん - 1592年 ねん )[ 16] に「久 ひさ 六 ろく 」こと大屋 おおや 重 しげる 左衛門 さえもん (おおや しげざえもん)によって発見 はっけん されたという。大屋 おおや 重 しげる 左衛門 さえもん は七 なな 戸 こ 生 う まれの武士 ぶし で、森山 もりやま (現在 げんざい の深浦 ふかうら 町 まち 森山 もりやま )に領地 りょうち を持 も っていた小野 おの 茶 ちゃ 右 みぎ 衛門 えもん に仕 つか え、水軍 すいぐん の中心 ちゅうしん になっていた人物 じんぶつ という。彼 かれ は船 ふね に乗 の るときには「久 ひさ 六 ろく 」と呼 よ ばれていたという。
一方 いっぽう 、深浦 ふかうら 町 まち 松神 まつがみ 地区 ちく に元禄 げんろく から続 つづ く旧家 きゅうか [ 4] (庄屋 しょうや )・大屋 おおや 家 か には、2代目 だいめ 当主 とうしゅ (1714年 ねん 没 ぼつ 、七 なな 戸 こ 久 ひさ 六 ろく と称 しょう した)と6代目 だいめ 当主 とうしゅ (天明 てんめい 6年 ねん (1786年 ねん )没 ぼつ )に「久 ひさ 六 ろく 」がおり、久六島 きゅうろくじま に関 かん する絵図 えず を伝来 でんらい している[ 4] 。この大屋 おおや 家 か は初代 しょだい より津軽 つがる 藩 はん の水先案内 みずさきあんない 人 じん として、松前 まさき から新潟 にいがた にかけて交易 こうえき に従事 じゅうじ していたという。同家 どうけ 14代目 だいめ 当主 とうしゅ 大屋 おおや 重 しげる 兵衛 ひょうえ は、「久六島 きゅうろくじま 」の発見 はっけん は2代目 だいめ 七 なな 戸 こ 久 ひさ 六 ろく の時期 じき ではないかとしている。
また、この大屋 おおや 家 か [ 注釈 ちゅうしゃく 2] の6代目 だいめ 大屋 おおや 久 ひさ 六 ろく が島 しま を発見 はっけん して岩礁 がんしょう に「久 ひさ 六 ろく 」と名 な を刻 きざ んだともいう話 はなし も伝 つた わっている[ 注釈 ちゅうしゃく 3] 。18世紀 せいき の航海 こうかい 図 ず には「長 ちょう ろ(ちょうろ)」の名 な で載 の せるものがある[ 4] 。
1700年 ねん 台 だい 以降 いこう になると、全国 ぜんこく の航路 こうろ の概要 がいよう を示 しめ した木版 もくはん 刷 ず りの案内 あんない 書 しょ が大 だい 坂 さか や江戸 えど で発行 はっこう され、航海 こうかい 関係 かんけい 者 しゃ の間 あいだ に普及 ふきゅう した。これらの中 なか で、久六島 きゅうろくじま は「長 ちょう ろ」や「ちょうろ」として紹介 しょうかい されていた。1767年 ねん の「北海 ほっかい 湊 みなと 方角 ほうがく 之 の 図 ず 」では「長 ちょう ろ」という島 しま の記載 きさい がある。明治 めいじ 6年 ねん 以降 いこう に版 はん を重 かさ ねた「新 しん 増 ぞう ・大 だい 日本 にっぽん 航路 こうろ 細見 さいけん 記 き 」では航路 こうろ では「ちょうろ」と記載 きさい しているが、「海 うみ 上乗 じょうじょう 分 わ け」に該当 がいとう する部分 ぶぶん では「長路 ながみち 」と表記 ひょうき され「ながじ」とふりがなを振 ふ られている。年 とし 台 だい は不明 ふめい だが、福井 ふくい 県 けん 加賀 かが 市 し の四方 しほう (よも)政男 まさお 家 か には航路 こうろ を直線 ちょくせん で示 しめ した略図 りゃくず が伝 つた わっていて、そこでは久六島 きゅうろくじま に該当 がいとう する部分 ぶぶん には「長六 ちょうろく 」と記載 きさい されている[ 17] 。
久六島 きゅうろくじま の存在 そんざい が広 ひろ く知 し られるようになったのは、イギリス の調査 ちょうさ 船 せん ビタン号 ごう ならびに、サラセン号 ごう の1855年 ねん の調査 ちょうさ 以降 いこう である。このとき、久六島 きゅうろくじま は Bittern Rocks と名称 めいしょう で呼 よ ばれた。この資料 しりょう は、日本 にっぽん では勝 かつ 海舟 かいしゅう によって1867年 ねん により訳 やく され、「大 だい 日本国 にっぽんこく 沿海 えんかい 略図 りゃくず 」として印刷 いんさつ された。そこでは、「鵁鵲岩 がん (こうしゃくがん)18フィート」と記 しる されている[ 17] 。
1886年 ねん 日本 にっぽん の水路 すいろ 部 ぶ は「寰瀛(かんえい)水路 すいろ 誌 し ・第 だい 1巻 かん 下 か 」を発行 はっこう し、久六島 きゅうろくじま は Bittern Rocks ではなく「久 ひさ 六 ろく 礁島」としてイギリスの資料 しりょう を翻訳 ほんやく して記載 きさい している。このことから、既 すで に地元 じもと では久六島 きゅうろくじま の名 な が定着 ていちゃく していたことが分 わ かる[ 17] 。
明治 めいじ 時代 じだい 、この小 しょう 岩礁 がんしょう は「磁石 じしゃく 石 せき 」[ 注釈 ちゅうしゃく 4] と言 い われ、久六島 きゅうろくじま に漁 りょう に行 い って無事 ぶじ に帰 かえ った船 ふね は少 すく ないと伝 つた えられていた[ 12] 。島 しま を発見 はっけん した九 きゅう 六 ろく がこの島 しま に漁 りょう に出 で かけようとして遭難 そうなん したという伝説 でんせつ があり、西津軽 にしつがる 郡 ぐん の人々 ひとびと で探検 たんけん を企 くわだ てようとする人 ひと はいなかったという[ 24] 。ただ、男鹿半島 おがはんとう の漁民 ぎょみん は、時々 ときどき 偶然 ぐうぜん に風 ふう の都合 つごう で久六島 きゅうろくじま に流 なが され、そこでたまたま多 おお くの漁獲 ぎょかく を得 え る程度 ていど であった[ 24] 。
漁業 ぎょぎょう 開発 かいはつ と係争 けいそう の始 はじ まり[ 編集 へんしゅう ]
久六島 きゅうろくじま の状況 じょうきょう についての農 のう 商務省 しょうむしょう の安岡 やすおか 百 ひゃく 樹 じゅ の報告 ほうこく に、技手 ぎしゅ の山本 やまもと 由 ゆかり 方 かた が関心 かんしん を持 も った[ 12] 。1887年 ねん (明治 めいじ 20年 ねん )、山本 やまもと は深浦 ふかうら 港 こう に巡回 じゅんかい したが、時期 じき 的 てき に海 うみ が荒 あ れており久六島 きゅうろくじま への渡航 とこう は不可能 ふかのう であるといわれ帰京 ききょう した[ 12] 。
1890年 ねん (明治 めいじ 23年 ねん )、福島 ふくしま 県 けん 出身 しゅっしん で能代 のしろ で水産 すいさん 業 ぎょう を営 いとな んでいた新妻 にいづま 助左衛門 すけざえもん は、久六島 きゅうろくじま 探検 たんけん を決意 けつい した[ 24] 。新妻 にいづま は、千葉 ちば 県 けん 安房 あわ 郡 ぐん から招 まね いた潜水 せんすい 夫 おっと と機械 きかい 運転 うんてん 手 しゅ など、新 あたら しい漁具 ぎょぐ と漁夫 ぎょふ を率 ひき いていた[ 24] 。7月22日 にち 能代 のしろ を出航 しゅっこう した新妻 にいづま は、23日 にち 西風 せいふう に流 なが されて艫作 へなし に上陸 じょうりく 、そこで新妻 にいづま は久六島 きゅうろくじま の伝説 でんせつ と方向 ほうこう や位置 いち を漁民 ぎょみん から聞 き き、午後 ごご 6時 じ に艫作 へなし を再 さい 出航 しゅっこう して久六島 きゅうろくじま に到着 とうちゃく し、27日 にち にわたって大 おお いに漁獲 ぎょかく を得 え た[ 24] 。新妻 にいづま は午後 ごご 6時 じ に能代 のしろ に向 む けて出航 しゅっこう したものの、風 ふう に流 なが されて深浦 ふかうら 村 むら に上陸 じょうりく 、旅館 りょかん 嶋 しま 川 がわ で久六島 きゅうろくじま の魚 さかな 影 かげ の豊富 ほうふ さと、新 しん 漁法 ぎょほう と新 しん 漁具 ぎょぐ を村人 むらびと に話 はな した[ 24] 。漁具 ぎょぐ は千葉 ちば 県 けん 安房 あわ 郡 ぐん より潜水 せんすい 夫 おっと と機械 きかい 運転 うんてん 手 しゅ を取 と り寄 よ せたものである[ 24] 。以後 いご 、深浦 ふかうら の村人 むらびと たちも古 ふる い認識 にんしき を改 あらた めるようになった[ 24] 。以後 いご 、秋田 あきた や青森 あおもり の漁民 ぎょみん が久六島 きゅうろくじま を訪 おとず れるようになった[ 24] 。
1890年 ねん (明治 めいじ 23年 ねん )8月 がつ 28日 にち 午前 ごぜん 2時 じ 、山本 やまもと 由 ゆかり 方 かた 技手 ぎしゅ や青森 あおもり 県 けん 初代 しょだい 水産 すいさん 試験場 しけんじょう 長 ちょう の斉藤 さいとう 惣 そう 太郎 たろう らや村 むら の有力 ゆうりょく 者 しゃ 、計 けい 14人 にん が約 やく 10mの川崎 かわさき 型 がた の船 ふね で久六島 きゅうろくじま を探検 たんけん ・調査 ちょうさ をして、29日 にち 午前 ごぜん 1時半 じはん に深浦 ふかうら 港 こう に帰 かえ った[ 12] 。その後 ご 、新妻 にいづま 助左衛門 すけざえもん が密漁 みつりょう をしているという話 はなし が拡 ひろ がり、青森 あおもり 県 けん の東奥 ひがしおく 日報 にっぽう でも報道 ほうどう され、青森 あおもり 県 けん と秋田 あきた 県 けん の漁業 ぎょぎょう 紛争 ふんそう に発展 はってん した[ 12] 。「岩崎 いわさき 町 まち 史 し 」は東奥 ひがしおく 日報 にっぽう 紙 し の記事 きじ をまとめたもので、「伊豆 いず 園 えん 茶話 ちゃばなし 」は秋田 あきた 魁 いさお 新報 しんぽう 紙 かみ の記事 きじ をまとめたものである。
1891年 ねん (明治 めいじ 24年 ねん )9月 がつ 29日 にち 、一旦 いったん は青森 あおもり 県 けん が単独 たんどく で久六島 きゅうろくじま の漁業 ぎょぎょう 権 けん を得 え るものの、抗議 こうぎ を受 う けてそれが取 と り消 け される事件 じけん もあった[ 24] 。青森 あおもり 県 けん 側 がわ が地籍 ちせき 編入 へんにゅう をおこなったが、翌年 よくねん に内務 ないむ ・農 のう 商務 しょうむ 大臣 だいじん の訓令 くんれい により、潮 しお の干満 かんまん に水没 すいぼつ するもので区域 くいき 編入 へんにゅう の対象 たいしょう とならない」として編入 へんにゅう 手続 てつづき が取消 とりけ されたものである。明治 めいじ 時代 じだい には秋田 あきた 県 けん 側 がわ の方 ほう が盛 さか んに出漁 しゅつぎょ しており[ 16] 、1893年 ねん (明治 めいじ 26年 ねん )6月 がつ には青森 あおもり ・秋田 あきた の漁民 ぎょみん による騒乱 そうらん が発生 はっせい した[ 16] 。
青森 あおもり 県 けん と秋田 あきた 県 けん の間 あいだ で、久六島 きゅうろくじま の帰属 きぞく (地籍 ちせき )と漁業 ぎょぎょう 権 けん をめぐる係争 けいそう は続 つづ き、日本 にっぽん の漁業 ぎょぎょう 紛争 ふんそう の中 なか でも著名 ちょめい な案件 あんけん のひとつとされていた。このため、久六島 きゅうろくじま がどこの都道府県 とどうふけん にも属 ぞく していない事態 じたい が第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご まで続 つづ くこととなった。
第 だい 二 に 次 じ 世界 せかい 大戦 たいせん 後 ご の1950年 ねん (昭和 しょうわ 25年 ねん )3月 がつ 24日 にち 、新 しん 漁業 ぎょぎょう 法 ほう 及 およ び同 どう 施行 しこう 法 ほう が施行 しこう された。これは農地 のうち 改革 かいかく にも匹敵 ひってき すると評 ひょう される、漁業 ぎょぎょう 権 けん の再 さい 編成 へんせい をめざす政策 せいさく であった。旧 きゅう 漁業 ぎょぎょう 法 ほう は公布 こうふ 後 ご 2か年 ねん の猶予 ゆうよ 期間 きかん を置 お いて消滅 しょうめつ することとなり、漁業 ぎょぎょう 権 けん をめぐる問題 もんだい が浮上 ふじょう することとなった。
青森 あおもり 県 けん と秋田 あきた 県 けん は、久六島 きゅうろくじま 周辺 しゅうへん の漁業 ぎょぎょう 権 けん を共 とも に企画 きかく し、日本国 にっぽんこく 政府 せいふ は1951年 ねん (昭和 しょうわ 26年 ねん )1月 がつ 1日 にち まで、漁業 ぎょぎょう 権 けん の切 き り替 か えを延期 えんき するように申 もう し入 い れた[ 28] 。当時 とうじ 、秋田 あきた 県 けん は久六島 きゅうろくじま は帰属 きぞく 不明 ふめい であるから両 りょう 県 けん で共有 きょうゆう するべきと主張 しゅちょう 、青森 あおもり 県 けん は陸上 りくじょう の県境 けんきょう から西 にし へ延長 えんちょう した線 せん より北 きた にあるから、久六島 きゅうろくじま は青森 あおもり 県 けん に帰属 きぞく すると主張 しゅちょう していた。
1951年 ねん 10月 がつ 28日 にち 、青森 あおもり 県議会 けんぎかい は地方 ちほう 自治 じち 法 ほう 7条 じょう 1項 こう で定 さだ める「所属 しょぞく 未定 みてい 地 ち 」であるとして久六島 きゅうろくじま を西津軽 にしつがる 郡 ぐん 深浦 ふかうら 町 まち に編入 へんにゅう することを議決 ぎけつ した。これに対抗 たいこう して11月12日 にち 、秋田 あきた 県 けん も久六島 きゅうろくじま を山本 やまもと 郡 ぐん 岩館 いわだて 村 むら に編入 へんにゅう した。両 りょう 県 けん はそれぞれの手続 てつづ きを内閣 ないかく 総理 そうり 大臣 だいじん 吉田 よしだ 茂 しげる に提出 ていしゅつ し[ 28] 、吉田 よしだ 内閣 ないかく は対応 たいおう に苦慮 くりょ することとなった。なお当時 とうじ の農林 のうりん 大臣 だいじん は、秋田 あきた 県 けん 選出 せんしゅつ の根本 ねもと 竜太郎 りゅうたろう であった[ 注釈 ちゅうしゃく 5] 。
地方 ちほう 自治 じち 庁 ちょう は、両 りょう 県 けん に対 たい して「久六島 きゅうろくじま は所属 しょぞく 未定 みてい 地 ち に含 ふく まれない」として[ 注釈 ちゅうしゃく 6] 、二 ふた つの編入 へんにゅう 処分 しょぶん は無効 むこう であると通知 つうち した。12月25日 にち 、「久六島 きゅうろくじま の帰属 きぞく は両 りょう 県 けん に認 みと めず、漁業 ぎょぎょう については共同 きょうどう 漁業 ぎょぎょう 権 けん を認 みと める」ことが閣議 かくぎ で了承 りょうしょう された[ 28] [ 注釈 ちゅうしゃく 7] 。両 りょう 県 けん は、1951年 ねん 12月 がつ 20日 はつか の花巻温泉 はなまきおんせん での会議 かいぎ を皮切 かわき りに数 すう 回 かい 行 おこな われたが、折衝 せっしょう は膠着 こうちゃく 状態 じょうたい に陥 おちい った[ 28] 。
1952年 ねん 4月 がつ 24日 にち 、ホッケ 漁 りょう の最盛 さいせい 期 き に久六島 きゅうろくじま 周辺 しゅうへん 海域 かいいき を巡視 じゅんし 中 ちゅう の青森 あおもり 県 けん 監視 かんし 船 せん 瑞鳳 ずいほう 丸 まる が、秋田 あきた 県 けん 側 がわ の漁船 ぎょせん に包囲 ほうい される事件 じけん が起 お きた[ 28] 。25日 にち から青森 あおもり 県 けん は巡視 じゅんし 船 せん の白 しろ 鴎 かもめ 丸 まる 、はやかぜ丸 まる を追加 ついか して、秋田 あきた 県 けん 側 がわ の漁船 ぎょせん を密漁 みつりょう 船 せん として厳重 げんじゅう に取 と り締 し まった[ 28] 。これに対 たい して水産庁 すいさんちょう は、秋田 あきた 県 けん 側 がわ の漁船 ぎょせん に配慮 はいりょ を払 はら うように通達 つうたつ を出 だ した[ 28] 。青森 あおもり 県 けん 側 がわ は秋田 あきた 県 けん 岩館 いわだて 漁業 ぎょぎょう 組合 くみあい 長 ちょう を密漁 みつりょう で告発 こくはつ した、これに対 たい し同 どう 漁業 ぎょぎょう 長 ちょう は、青森 あおもり 県知事 けんちじ と監視 かんし 船 せん 船長 せんちょう を、威力 いりょく 業務 ぎょうむ 妨害 ぼうがい 罪 ざい で告訴 こくそ していた[ 28] 。
1952年 ねん 8月 がつ 15日 にち 公布 こうふ (9月 がつ 1日 にち 施行 しこう )の「地方 ちほう 自治 じち 法 ほう の一部 いちぶ を改正 かいせい する法律 ほうりつ 」(第 だい 九 きゅう 次 じ 改正 かいせい 。昭和 しょうわ 27年 ねん 法律 ほうりつ 第 だい 306号 ごう )により、未 み 所属 しょぞく 地域 ちいき の編入 へんにゅう に関 かん する「第 だい 7条 じょう の2」が加 くわ えられた[ 注釈 ちゅうしゃく 8] 。地方 ちほう 自治 じち 法 ほう にはこれまで「領 りょう 海外 かいがい の未 み 所属 しょぞく 地 ち 」[ 注釈 ちゅうしゃく 9] に関 かん する規定 きてい がなかった[ 注釈 ちゅうしゃく 10] 。「第 だい 7条 じょう の2」は久六島 きゅうろくじま の問題 もんだい を現実 げんじつ 的 てき に解決 かいけつ する手段 しゅだん として加 くわ えられたものとみられる。
1953年 ねん 3月 がつ 、等距離 とうきょり 線 せん 主義 しゅぎ から青森 あおもり 県 けん への帰属 きぞく が適当 てきとう と閣議 かくぎ 了解 りょうかい がなされ、7月 がつ に「久六島 きゅうろくじま 問題 もんだい の解決 かいけつ に関 かん する覚書 おぼえがき 」が両 りょう 県知事 けんちじ の間 あいだ によって調印 ちょういん された。帰属 きぞく は青森 あおもり 県 けん とするが、秋田 あきた 県 けん の漁船 ぎょせん にも漁業 ぎょぎょう 権 けん を認 みと めるものである。
1953年 ねん 8月 がつ 27日 にち 公布 こうふ (即日 そくじつ 施行 しこう )の「 久六島 きゅうろくじま 周辺 しゅうへん における漁業 ぎょぎょう についての漁業 ぎょぎょう 法 ほう の特例 とくれい に関 かん する法律 ほうりつ 」(昭和 しょうわ 28年 ねん 法律 ほうりつ 第 だい 253号 ごう )は、久六島 きゅうろくじま での漁業 ぎょぎょう に関 かん して定 さだ めた特例 とくれい 法 ほう であり、漁業 ぎょぎょう 法 ほう では漁場 ぎょじょう を管理 かんり する県知事 けんちじ が行 おこな う権限 けんげん を、久六島 きゅうろくじま 周辺 しゅうへん 海域 かいいき については農林 のうりん 水産 すいさん 大臣 だいじん が行 おこな うことができると規定 きてい されている[ 注釈 ちゅうしゃく 11] 。
1953年 ねん 10月15日 にち 、「久六島 きゅうろくじま を都道府県 とどうふけん の区域 くいき に編入 へんにゅう する処分 しょぶん 」(昭和 しょうわ 28年 ねん 総理府 そうりふ 告示 こくじ 第 だい 196号 ごう )において、地方 ちほう 自治 じち 法 ほう 第 だい 7条 じょう の2第 だい 1項 こう の規定 きてい により、同日 どうじつ から青森 あおもり 県 けん の区域 くいき に編入 へんにゅう することが定 さだ められた[ 12] 。
1959年 ねん に久六島 きゅうろくじま 灯台 とうだい が設置 せっち された。
1983年 ねん 5月 がつ 26日 にち の日本海 にほんかい 中部 ちゅうぶ 地震 じしん は震源 しんげん 域 いき はこの島 しま の近辺 きんぺん である。久六島 きゅうろくじま は約 やく 30 cm - 40 cm沈下 ちんか したと考 かんが えられ[ 14] 、露 ろ 岩 がん の一 ひと つは見 み えなくなったという[ 23] 。
島 しま は津軽 つがる 国定 こくてい 公園 こうえん に含 ふく まれる[ 1] 。
島 しま の周辺 しゅうへん はウミタナゴ 、クロマグロ 、マダイ 、ブリ 、ホッケ 、サザエ 、アワビ などの魚 さかな の宝庫 ほうこ として知 し られている。後述 こうじゅつ のとおり、久六島 きゅうろくじま はニホンアシカ の最後 さいご の時代 じだい の生存 せいぞん 記録 きろく が残 のこ る数少 かずすく ない場所 ばしょ の一 ひと つであり、そのほかの海 うみ 棲哺乳類 ほにゅうるい ではツチクジラ やシャチ 、イルカ 類 るい などの現在 げんざい では限 かぎ られた鯨 くじら 類 るい [ 34] やオットセイ などが現 あらわ れることがある。
また、久六島 きゅうろくじま は絶滅 ぜつめつ したニホンアシカ の竹島 たけしま 以外 いがい の繁殖 はんしょく 地 ち の一 ひと つで、1950年代 ねんだい まで少数 しょうすう の繁殖 はんしょく が確認 かくにん されていた[ 35] [ 36] 。
無人島 むじんとう であるため定期 ていき 航路 こうろ は存在 そんざい せず、漁船 ぎょせん をチャーターする必要 ひつよう がある。
^ 「艫 とも 」と「舮」は異体 いたい 字 じ であり、「へなし」の漢字 かんじ 表記 ひょうき には「艫作 へなし 」「舮作 へなし 」双方 そうほう がある。国土 こくど 地理 ちり 院 いん 地図 ちず では集落 しゅうらく を「舮作 へなし 」、岬 みさき を「舮作崎 へなしざき 」とするが[ 5] 、事典 じてん 類 るい では「艫作 へなし 崎 さき 」と記 しる すものがあり[ 6] 、鉄道 てつどう 駅 えき は「艫作 へなし 駅 えき 」が正式 せいしき 名称 めいしょう [ 7] であるなど、両者 りょうしゃ が混在 こんざい している[ 8] [ 9] [ 10] 。
^ 出典 しゅってん には「青森 あおもり 県 けん 岩崎 いわさき 村 むら の旧家 きゅうか 六 ろく 代目 だいめ ・大屋 おおや 久 ひさ 六 ろく 」とある。松神 まつがみ は岩崎 いわさき 村 むら (2005年 ねん に深浦 ふかうら 町 まち と合併 がっぺい )の一部 いちぶ であった。
^ 『百科 ひゃっか 事典 じてん マイペディア』に一説 いっせつ として、天明 てんめい 6年 ねん (1786年 ねん )に船問屋 ふなどんや によって発見 はっけん された[ 22] とあるのはこれを指 さ すか。
^ 行 い ったら戻 もど れない意 い [ 23]
^ 12月25日 にち に内閣 ないかく 改造 かいぞう が行 おこな われて交代 こうたい した
^ 地方 ちほう 自治 じち 法 ほう 7条 じょう でいう「所属 しょぞく 未定 みてい 地 ち 」は、「本来 ほんらい 市町村 しちょうそん の区域 くいき に属 ぞく しておると認 みと められるべき地域 ちいき 」すなわち「三 さん 海里 かいり の領海 りょうかい の区域 くいき 内 ない 」に、新 あら たに埋 う め立 た てを行 おこな ったり新島 にいじま が出現 しゅつげん した場合 ばあい を想定 そうてい しているという[ 29] 。
^ 12月24日 にち に各省 かくしょう 次官 じかん 会議 かいぎ で「久六島 きゅうろくじま の帰属 きぞく は両 りょう 県 けん に認 みと めず、漁業 ぎょぎょう については共同 きょうどう 漁業 ぎょぎょう 権 けん を認 みと める」と決定 けってい し、翌 よく 25日 にち の閣議 かくぎ で了承 りょうしょう 事項 じこう として承認 しょうにん した。
^ 「法律 ほうりつ で別 べつ に定 さだ めるものを除 のぞ く外 そと 、従来 じゅうらい 地方 ちほう 公共 こうきょう 団体 だんたい の区域 くいき に属 ぞく しなかつた地域 ちいき を都道府県 とどうふけん 又 また は市町村 しちょうそん の区域 くいき に編入 へんにゅう する必要 ひつよう があると認 みと めるときは、内閣 ないかく がこれを定 さだ める。この場合 ばあい において、利害 りがい 関係 かんけい があると認 みと められる都道府県 とどうふけん 又 また は市町村 しちょうそん があるときは、予 あらかじ めその意見 いけん を聴 き かなければならない」「2 前項 ぜんこう の意見 いけん については、関係 かんけい のある普通 ふつう 地方 ちほう 公共 こうきょう 団体 だんたい の議会 ぎかい の議決 ぎけつ を経 へ なければならない」「3 第 だい 一 いち 項 こう の規定 きてい による処分 しょぶん があつたときは、内閣 ないかく 総理 そうり 大臣 だいじん は、直 ただ ちにその旨 むね を告示 こくじ しなければならない。前条 ぜんじょう 第 だい 七 なな 項 こう の規定 きてい は、この場合 ばあい にこれを準用 じゅんよう する」[ 30] 。
^ 久六島 きゅうろくじま は20カイリ沖合 おきあい にあり、両 りょう 県 けん の海岸 かいがん からは領 りょう 海外 かいがい になってしまう。
^ 「実 じつ は一 ひと つの現行 げんこう 法 ほう の欠陥 けっかん と申 もう せば、欠陥 けっかん であるわけでございまして、最近 さいきん に起 おこ りました問題 もんだい といたしましては、青森 あおもり 県 けん と秋田 あきた 県 けん の中間 ちゅうかん に位 くらい しておりまする久六島 きゅうろくじま の問題 もんだい であります」(鈴木 すずき 俊一 しゅんいち 政府 せいふ 委員 いいん )[ 29] 。
^ 「1 農林 のうりん 大臣 だいじん は、久六島 きゅうろくじま (北緯 ほくい 四 よん 十 じゅう 度 ど 三 さん 十 じゅう 一 いち 分 ふん 、東経 とうけい 百 ひゃく 三 さん 十 じゅう 九 きゅう 度 ど 三 さん 十 じゅう 分 ふん 附近 ふきん の海面 かいめん にある島 しま しよをいう。)周辺 しゅうへん の農林 のうりん 大臣 だいじん が指定 してい する海域 かいいき における漁業 ぎょぎょう につき、漁業 ぎょぎょう 調整 ちょうせい 上 じょう 特 とく に必要 ひつよう があると認 みと めるときは、当該 とうがい 海域 かいいき 内 ない にある漁場 ぎょじょう を管轄 かんかつ する県知事 けんちじ の漁業 ぎょぎょう 法 ほう (昭和 しょうわ 二 に 十 じゅう 四 よん 年 ねん 法律 ほうりつ 第 だい 二 に 百 ひゃく 六 ろく 十 じゅう 七 なな 号 ごう )に基 もとづ く権限 けんげん の全部 ぜんぶ 又 また は一部 いちぶ を行 おこな うことができる」「2 農林 のうりん 大臣 だいじん は、前項 ぜんこう の規定 きてい により県知事 けんちじ の権限 けんげん を行 おこな う場合 ばあい には、その旨 むね を告示 こくじ しなければならない。」の2項 こう からなる[ 33]