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人間にんげん関係かんけい

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人脈じんみゃくから転送てんそう

人間にんげん関係かんけいにんげんかんけいえい: interpersonal relationship)は、人間にんげん人間にんげん関係かんけいのこと。文脈ぶんみゃくによっては対人たいじん関係かんけいともう。

概説がいせつ

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人間にんげん関係かんけいとはひとひと関係かんけいのことであり、たとえば「ひとりのひと たい ひとりのひと」のような個人こじんてき、あるいはグループうち集団しゅうだんうち組織そしき、さらにうならひろくは社会しゃかいにおける、感情かんじょうてきめんふくめたひとひと関係かんけいのことである。

ひとりのひと誕生たんじょうしたときに すでに両親りょうしんとの人間にんげん関係かんけいち、さらにその兄弟きょうだい姉妹しまい)・親戚しんせき知人ちじん友人ゆうじん恋人こいびと配偶はいぐうしゃなどとの関係かんけいつうじて様々さまざま人間にんげん関係かんけいいとなんでゆく。ひとりのひと人生じんせいは、人間にんげん関係かんけい歴史れきしそのものである。そのなかには良好りょうこう関係かんけいもあれば険悪けんあく関係かんけいもある。また、人間にんげん関係かんけい長期間ちょうきかんにわたり継続けいぞくされることもあるが、せっかくきずきあげた関係かんけい短期間たんきかん崩壊ほうかいしてしまうこともある[1]

人間にんげん関係かんけいというものは しばしばなやみごとの筆頭ひっとうげられるものであり、人間にんげん関係かんけいという問題もんだい歴史れきしながさは人類じんるい歴史れきしながさとおなじほどだとかんがえられている。大昔おおむかしひとたとえば古代こだいギリシャじんによる人間にんげん関係かんけい描写びょうしゃなかには、現代げんだいじんんでも、まるで今日きょう人間にんげん関係かんけいのことのようにおもえるようなものが多々たたある。それはつまり、人間にんげん関係かんけい問題もんだいというのがある意味いみ進歩しんぽい、いわば「永遠えいえん問題もんだい」だということをしめしている。(#問題もんだいとしての人間にんげん関係かんけい変化へんかしないめん変化へんかしためんふし解説かいせつ

ただし人間にんげん関係かんけいは、時代じだいとともに変化へんかしているめんもあり、きん現代げんだい社会しゃかい構造こうぞう変化へんか社会しゃかい学者がくしゃのテニエスなどが指摘してきしている。かつての農業のうぎょう社会しゃかいでの地縁ちえん血縁けつえんによる関係かんけいから、地縁ちえん血縁けつえんによらない関係かんけいへと移行いこうしてきているのである。それは肯定こうていてきにとらえられることもあるが、問題もんだいとして戸惑とまどいとともにめられていることもある。(#問題もんだいとしての人間にんげん関係かんけい変化へんかしないめん変化へんかしためんふし解説かいせつ

人間にんげんには共感きょうかんする能力のうりょくがあり、共感きょうかんがつみかさねられてゆけばゆくほど人間にんげん関係かんけいふかくなってゆく。人間にんげん関係かんけいはコミュニケーションの累積るいせきであり、たがいに記号きごう、すなわち言語げんごてき記号きごう言語げんごてき記号きごう言葉ことば)を交換こうかんすることで成立せいりつしている。(#コミュニケーションと人間にんげん関係かんけいふし解説かいせつ

人間にんげん関係かんけいいがむとさまざまな症状しょうじょうあらわれることがある。家庭かていない夫婦ふうふ関係かんけい親子おやこ関係かんけいいがむと離婚りこん家庭かていない暴力ぼうりょくとなってあらわれることがある。学校がっこうにおいてさまざまな要因よういんにより人間にんげん関係かんけいいがむと、校内こうない暴力ぼうりょく・いじめ・登校とうこう拒否きょひなどとなってあらわれることがある。(#人間にんげん関係かんけい病理びょうりふし解説かいせつ

2021ねんハーバード大学だいがく学校がっこう研究けんきゅうしゃ Kelly Bilodeauは、ポジティブな人間にんげん関係かんけいひと健康けんこう増進ぞうしんすることができるが、ぎゃく問題もんだいのある人間にんげん関係かんけい健康けんこうがいおよぼすことがあり、慢性まんせいてき感情かんじょうてきストレスはおおくの健康けんこう問題もんだいのリスクをたかめる、と指摘してきした。ストレスのおお対人たいじん関係かんけい心臓しんぞうびょうなどの健康けんこうじょう問題もんだいにつながる、という。また、人間にんげん関係かんけい精神せいしんてき健康けんこうのうにも影響えいきょうし、良質りょうしつ人間にんげん関係かんけいはぐくむことはメンタルヘルスのう健康けんこうまもるのにも役立やくだつ、と指摘してきした[2]

健全けんぜん人間にんげん関係かんけいにつながる健康けんこうなパーソナリティの規準きじゅんとして、オルポートは(1)自己じこ意識いしき拡大かくだい (2)他人たにんとのあたたかい人間にんげん関係かんけい確立かくりつ (3)情緒じょうちょてき安定あんてい (4)現実げんじつてき知覚ちかく技能ぎのうおよび課題かだい (5)自己じこ客観きゃっかん洞察どうさつとユーモア (6)人生じんせい統一とういつする人生じんせい哲学てつがく、 をげた。(#人間にんげん関係かんけい健康けんこうなパーソナリティふし解説かいせつ

問題もんだいとしての人間にんげん関係かんけい変化へんかしないめん変化へんかしためん

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人間にんげん関係かんけいは、大抵たいていひとにとってなやみのタネでありなんらかの「問題もんだい」である[3]現代げんだいじんはしばしば、自分じぶん人間にんげんとの関係かんけい調整ちょうせい神経しんけいをすりらしており[3]各人かくじんそれぞれ体験たいけんてき人間にんげん関係かんけいのめんどくささをっている[4]近年きんねんひとがかかえるなやみの内容ないようについてのアンケート調査ちょうさおこなわれることがしばしばあるが、「人間にんげん関係かんけい」はほとんどの場合ばあいそのさい上位じょうい位置いちする。つまり一般いっぱんろんとしてえば人間にんげん関係かんけいひとにとって最大さいだいなやみともえる状態じょうたいなのである。

人間にんげん関係かんけい問題もんだいがいつから存在そんざいしていたのか?これについては、おそらく人類じんるい社会しゃかい歴史れきしおなじほどになが歴史れきしっているとかんがえられている。そして、人間にんげん関係かんけい問題もんだいにはあまり進歩しんぽがない。たとえばみずいといったような問題もんだいならば井戸いどるとか貯水池ちょすいちつくるなどといったことで、ある世代せだいにおいて解決かいけつし、つぎ世代せだいはあらためて直面ちょくめんすることはすくなくなる。ところが人間にんげん関係かんけいという問題もんだいでは、問題もんだい解決かいけつかさねがかず、古代こだい人々ひとびと現代げんだいじんはほとんど類似るいじした事態じたいなかきている[3]という。むかしから、人間にんげん関係かんけいにはにくしみねたみそねみ疑心暗鬼ぎしんあんき、へつらいなどがられるのであり、そういったてん人間にんげん関係かんけいというのは古代こだいから変化へんかしていないとえるのである。人間にんげん関係かんけいとはいわば「永遠えいえん問題もんだい」なのである[5]。また、いつの時代じだいにも人間にんげんは、人間にんげん関係かんけいについてはおなじような知恵ちえしかもっていないともされる[3]たとえば、古代こだいギリシャ社会しゃかいき、人間にんげん関係かんけいをシニカルにながめ、そのおろかしさを風刺ふうし文学ぶんがくふういたテオフラストス文章ぶんしょう(『ひとさまざま』)が現在げんざいまでつたわっているが、そこにえがかれている人間にんげん関係かんけい観察かんさつ描写びょうしゃ有力ゆうりょくしゃへのへつらい、お世辞せじ 等々とうとう)はそのまま現代げんだいにおける人間にんげん関係かんけいのカリカチュア(風刺ふうし)として100%通用つうようしてしまう[6]。また、権力けんりょくちたがっている人間にんげん政略せいりゃく結婚けっこんによってあるしゅ人間にんげん関係かんけいつくってしまう、などというのは藤原ふじわら道長みちなが時代じだいから現代げんだいにいたるまで連綿れんめんつづいている方法ほうほうであり変化へんか進歩しんぽ[5][ちゅう 1]

もっとも、時代じだいとともに変化へんかしているめんもある。

農業のうぎょう社会しゃかい農村のうそんでは、とりむすばれる人間にんげん関係かんけい必然ひつぜんてきであり宿命しゅくめいてきであった。そこにまれてそこでそだちそこにむということは、わば「まれるまえから用意よういされていた人間にんげん関係かんけい自動的じどうてきまれる」ということである。基本きほんてきにそこからのがれることはできない[5]

しかし、現代げんだい都市としらす人々ひとびとだい部分ぶぶんはそういう必然ひつぜんせい背負せおっていない[注釈ちゅうしゃく 1]。ある年齢ねんれいたっしたらおやからはなれて都会とかいる。血縁けつえん自体じたいれないが、物理ぶつりてきにははなれる。としに1か2ぼん正月しょうがつ故郷こきょうかえることはあっても、普段ふだんはおおむねはなれている。農村のうそんではんでいるところが作業さぎょうであったので、地縁ちえん仕事しごとめんでも必然ひつぜんてき人間にんげん関係かんけいむすんだ。都市としでの地縁ちえんはというと、居住きょじゅう職場しょくば無関係むかんけいである[7]。そのことは、大都市だいとし中心ちゅうしんでの夜間やかん人口じんこう昼間ひるま人口じんこうおどろくべき相違そういとなってあらわれている。

ドイツの社会しゃかい学者がくしゃテニエス(テンニース)は、血縁けつえん地縁ちえん中心ちゅうしんにした社会しゃかいからしゃえん中心ちゅうしんにした社会しゃかいへの歴史れきしてき移行いこうゲマインシャフト共同きょうどう社会しゃかい)からゲゼルシャフト利益りえき社会しゃかい)へ、という二分にぶんほうろんじた。これはアメリカの社会しゃかい学者がくしゃクーリーが「いちてき集団しゅうだん」と「てき手段しゅだん」とにけてろんじたことともかさなっている。人類じんるい学者がくしゃ米山よねやま俊直としなおは、血縁けつえん地縁ちえんによらない人為じんいてき組織そしきでの人間にんげん関係かんけい原理げんり結社けっしゃえんりゃくして「しゃえん」とづけた。そして、テニエスやクーリーろんじた20世紀せいきはじめのころよりも、現在げんざい事態じたいははるかに進展しんてんしている[8]

現代げんだいじんおおくは、あるしゅ必然ひつぜんせいをもってのしかかってくる地縁ちえん血縁けつえん原理げんりによる人間にんげん関係かんけい意識いしきてきけて、「他人たにん」との関係かんけい力点りきてんをかける。たとえば、係累けいるいのない人間にんげんのほうを結婚けっこん相手あいてとしてえら傾向けいこうえたことなどもげられる。また、日本にっぽんだい世界せかい大戦たいせんおこなわれた家族かぞくかん変化へんかも、親子おやこという血縁けつえん関係かんけいから、夫婦ふうふという「しゃえん」への力点りきてんのうつしかえであった、となすことも可能かのうである[9]

必然ひつぜんからのがれること、つまり自由じゆうになることは素晴すばらしい、と現代げんだいじん素朴そぼくおもう。だが同時どうじに、自由じゆうであることにいささか当惑とうわくしている。だれとどのように人間にんげん関係かんけいむすんでもいいとされても、かえってどうしていいのかわからなくなる。どうしたら人間にんげん関係かんけいめるのかからない[9]。また、都市とし生活せいかつはにぎやかで活気かっきがあっていいなどといもするが、また他方たほうで、都市とし孤独こどくかんじている。たとえば一人ひとり大都市だいとし交差点こうさてん一隅いちぐうすうふん(あるいはすうじゅう分間ふんかん)もっていても、めったなことでは知人ちじんにはわない。眼前がんぜんながれゆく群集ぐんしゅう凝視ぎょうしし、おびただしいかず人間にんげんみな自分じぶん関係かんけいい「他人たにん」だとしんでかみしめたりすると、さびしさをかんじることになる。ネオンのまたたきや自動車じどうしゃおとなどが、かえってさびしさをかきたてる効果こうかしかもっていないことに現代げんだいじんづいている[9]

地縁ちえん血縁けつえんてき原理げんり喪失そうしつしてしまったひとでも、その喪失そうしつ解決かいけつする方法ほうほういわけではない。それは、他人たにんをあたかも血縁けつえんであるかのようにあつかい、血縁けつえん関係かんけいになぞらえたしゃえん構築こうちくする方法ほうほうである。たとえば「親分おやぶん子分こぶん」の関係かんけいがそれである。しかるべきひとを「親分おやぶん」にして忠誠ちゅうせいをつくし「可愛かわいいがられ」て「身内みうち同様どうよう」につきあってもらう。そんな方法ほうほうをとれば人生じんせいはそれなりに安定あんていして幸福こうふくになる可能かのうせいもあるのかもれない。また「大家たいかえばおや同然どうぜん店子たなこ(たなこ)とえば同然どうぜん」として、不動産ふどうさん貸借たいしゃく関係かんけい血縁けつえんてき擬制ぎせいもちいられることもある[10]。このような、しゃえん関係かんけい血縁けつえん原理げんり応用おうようするという方法ほうほう簡便かんべん便利べんり方法ほうほうである。

このような簡便かんべん方法ほうほうでも「どうにも抜差ぬきさしのならぬ面倒めんどうなこと」になる可能かのうせいがあり、めんどうなことにならずにらない人間にんげん同士どうし自由じゆうにまじわってゆく方法ほうほうはないのか[11]などといかけがおこなわれることもある。

コミュニケーションと人間にんげん関係かんけい

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イヌネコも、それなりにコミュニケーションをおこない、たがいの関係かんけいきずいてはいるが、人間にんげんのようにこまやかな関係かんけいをつくることはできない。「刎頚ふんけいまじわり」という言葉ことばがあるが、これはくびられてもいがいようなしたしい友人ゆうじん関係かんけいのことである。このような言葉ことばがあるほどに人間にんげん親密しんみつになることも可能かのうである。なぜこのようなことが可能かのうなのか? それは、人間にんげんが「ことば」を使つかえるからであり[12]、おたがいに「わかる」ことができ、共感きょうかん(empathy)をつこと、共感きょうかんすることができるからである[13]

ひとりの人間にんげん内部ないぶ発生はっせいしている状態じょうたいときわめてよく状態じょうたいがもうひとりの人間にんげん内部ないぶしょうずる過程かてい、それが共感きょうかんである。たとえば、だれかが「いた」とう。その「いたい」という言葉ことばいたときいたひと内部ないぶではひとつの過程かてい発生はっせいする。「いたい」という言葉ことばによって表現ひょうげんされたからだの状態じょうたい状態じょうたいを、ききてはみずからの体験たいけんそくして想像そうぞうする。ききてはべつだんその部分ぶぶんいたみをかんじるわけではないが、「いたい」という言葉ことばによって表現ひょうげんしようとしている身体しんたい状態じょうたいがどのような性質せいしつであるかをっているのである[14]。また、共感きょうかんはしばしば生理せいりてき次元じげんでもこる。たとえば、母親ははおや子供こどもといったこまやかな関係かんけいにおいてはいたみはただ想像そうぞうじょう経験けいけんされるだけでなく、実際じっさい生理せいりてきいたみとして体験たいけんされることもある。子供こどもが「いたい」とうたびに母親ははおやもその箇所かしょ実際じっさいいたくなったりするのである[14]共感きょうかんは「同一どういつ」(Identification)と表現ひょうげんされるプロセスとかさなりあっている部分ぶぶんおおく、たとえばひと映画えいがているときなどでは登場とうじょう人物じんぶつ危機ききてき場面ばめんおちいるとハラハラしたりあるいはむねがドキドキしたり(つまり実際じっさい心拍しんぱくすうがったり)あせをにぎったりする。人間にんげん映画えいがのなかの登場とうじょう人物じんぶつ自分じぶん自身じしんえるとえる。人間にんげんは「相手あいてになる」能力のうりょくっているのである[14][注釈ちゅうしゃく 2]

ところで、ことばをもちいた共感きょうかんについてであるが、これは日常にちじょうてきおこなわれている平凡へいぼんなことであるが、よくよく考察こうさつすると奇妙きみょうなものなのである。たとえば、小説しょうせつんでいるときの人間にんげんしんのうごきを分析ぶんせきしてみると、前述ぜんじゅつのごとく、読者どくしゃ作品さくひんのなかの登場とうじょう人物じんぶつの「になって」物語ものがたりう。これは平凡へいぼん現象げんしょうである。だがしかし、よくよく分析ぶんせきすると、この物語ものがたりとはなにかというと、かみうえ点々てんてんくろくしみついているインクのシミのあつまりにすぎぬ。人間にんげんはそれを文字もじというぶが、物質ぶっしつてきえば(実在じつざいという観点かんてんからは)、ただのかみとインクをつめているだけなのである。たとえば、かり文字もじらない地球ちきゅうがい生命せいめいでもいて人間にんげんのやっていることをたら、人間にんげん珍奇ちんき生物せいぶつおも可能かのうせいはある。なにしろ、かみうえのインクのシミをてニヤニヤとわらったりシクシクといたりしているのだから[15]。つまり人間にんげんというのは、実在じつざいてき世界せかい速記そっきほうとしての記号きごう世界せかいおよ能力のうりょくっているのである。[ちゅう 2]

人間にんげん記号きごうによってうごき、人間にんげん人間にんげん記号きごうもちいてたがいに共感きょうかんしあうことができる。この共感きょうかん過程かていがコミュニケーションだとえよう[16]

共感きょうかんがつみかさねられてゆけばゆくほど、人間にんげん関係かんけいふかくなってゆく。人間にんげん関係かんけいはコミュニケーションの累積るいせきだとってさしつかえないのであり、おたがいに記号きごう交換こうかんしあうことなしに成立せいりつする人間にんげん関係かんけいというのは、ほとんど想定そうていできない。なん往復おうふくする手紙てがみメールかえされるデートおしゃべり会議かいぎなど、友人ゆうじん関係かんけい恋愛れんあい関係かんけいであれ、師弟してい関係かんけいであれ、取引とりひき関係かんけいであれ、およそ人間にんげん関係かんけいというのは記号きごう言葉ことば交換こうかんつうじて成立せいりつしており、「ことばをかける」ということは人間にんげん関係かんけい基本きほんてき条件じょうけんである[17]

言語げんごコミュニケーション(NVC)

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人間にんげんはコミュニケーションをおこなとき言葉ことば使つかたがいの感情かんじょう意思いしつたえあってもいるが、「くちほどにものをいう」といったことわざにもしめされているように、言葉ことばよりもかお表情ひょうじょう視線しせん身振みぶりなどが より重要じゅうよう役割やくわりをになっていることがある。

日常にちじょうてき人間にんげん複数ふくすう言語げんごてきがかりを使つかいメッセージを伝達でんたつしあっている。これを言語げんごてきコミュニケーション(nonverbal communication: NVC)という[18]。この言語げんごてきなコミュニケーションは、意識いしきしてもちいていることもあれば、無意識むいしきてきもちいていることもある[18]

かお表情ひょうじょう顔色かおいろ視線しせん身振みぶ手振てぶり、からだ姿勢しせい相手あいてとの物理ぶつりてき距離きょりかたなどによって、人間にんげん言語げんごてきコミュニケーションをおこなっている[19]

コミュニケーションのむずかしさ

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人間にんげんはいくらことばをたくさん使つかっても、理解りかいしあうことがむずかしい。対話たいわは「人間にんげん内部ないぶ」できているからである[20]

ひとりの人間にんげん内部ないぶには"もうひとりの自分じぶん"がいる。それはべつ表現ひょうげんでいえば、"とりこまれた他人たにん"ということでもある。ふたりの人間にんげんのあいだで進行しんこうしているようにみえるコミュニケーションは、じつは、ひとりの人間にんげん内部ないぶでのコミュニケーションでもある。ある学者がくしゃは、この人間にんげん内部ないぶのコミュニケーションを「個体こたいないコミュニケーション Intrapersonal communication」とんで、「対人たいじんてきコミュニケーション Interpersonal communication」と区別くべつした[21]

個体こたいないコミュニケーションがうまくいっていないれいをひとつげると、世間せけんで「ワンマンてき」とわれる社会しゃかい関係かんけいつまり社会しゃかい学者がくしゃうところの「権威けんい主義しゅぎてき社会しゃかいでは、独裁どくさいしゃ(ワンマン)は "もうひとりの自分じぶん"をっておらず、いわゆる「わからず」であり、理解りかい能力のうりょくのないひとと(かげでこっそり)ばれる存在そんざいである。多数たすうひとは "もうひとりの自分じぶん" におしひしがれてしまっている。独裁どくさいしゃ(ワンマン)のほうにはなんらかの自己じこ満足まんぞくがあるのにたいして、内心ないしんで「ハイハイかりました」などとっているがわ人々ひとびと(つまり独裁どくさいしゃ忖度そんたくしているがわ人々ひとびと)にはなんよろこびもない[22]

共通きょうつうこうさが

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まったく見知みしらぬ人間にんげん同士どうしがいわゆる「初対面しょたいめんづまり」をえてちとけてゆくプロセスでは、おたがいの共通きょうつうこうをさがしそうとする努力どりょくられる[23]

現代げんだいでは、人間にんげん人生じんせい経験けいけんはひどく多様たようである。家庭かてい環境かんきょうちがい、学校がっこうちがい、職業しょくぎょうちがう。職業しょくぎょうなどは、かつて職業しょくぎょう分化ぶんか比較的ひかくてき単純たんじゅん時代じだいではたいていの職業しょくぎょう常識じょうしきてき理解りかいできた。「大工だいくです」とけばいえをつくるひとだと見当けんとうがついた。しかし現代げんだいでは、名刺めいし肩書かたがきをんでも、ん?このひとなにをしているのだろう? などかんがえることが頻繁ひんぱんきるくらいに、その分野ぶんや人間にんげんでないとまったくわかりかねる職業しょくぎょう多数たすう出現しゅつげんしている。総理府そうりふ職業しょくぎょう分類ぶんるいひょうには1960年代ねんだいですでにすうせん職業しょくぎょう登場とうじょうしていた[24]。(そのもさらに増加ぞうかつづけている。)

このようにして人間にんげんは、たがいの接点せってんがどこにあるのかさっぱり見当けんとうがつかなくなり、戸惑とまど状況じょうきょうになった。そのどうしていいかわからない状態じょうたいが、いわゆる「社交しゃこうじゅつ発展はってんさせた。ひとつの古典こてんともなされるデール・カーネギー著書ちょしょひとうごかす』には「相手あいて趣味しゅみ嗜好しこうれ」というこうがある。ひととうときには、あらかじめ相手あいて関心かんしんちそうな話題わだいをさがしておき、その話題わだいをきっかけに人間にんげん関係かんけいをつくれ、というものである[25]。カーネギーのほんのあとをぐように、おおくの社交しゃこうじゅつほんがアメリカでもヨーロッパでも日本にっぽんでも出版しゅっぱんされた[26]

現代げんだい都市とし中産ちゅうさん階級かいきゅう日本にっぽんのサラリーマン社会しゃかいなどでは「話題わだいのゆたかさ」にあこがれるひとおおい(おおかった)。この「話題わだいがゆたか」ということはどういうことかとうと、それは、たいていのことを共通きょうつう話題わだいにする能力のうりょくをもっている、ということである。相手あいてりの趣味しゅみっているとわかればりを共通きょうつうこうにし、サッカーならそくサッカーではなしをあわせ、映画えいが絵画かいが演劇えんげきなら... となににでもはなしわせられること。それは「家族かぞく」が血縁けつえんからしゃえんへとおおきく転換てんかんしたことを明確めいかくしめしてくれている。「常識じょうしき」にかんする試験しけんおこなわれることがあるが、今日きょう常識じょうしき」とは他人たにんとの普遍ふへんてき共通きょうつうこうということなのかもれず、「常識じょうしきゆたか」ということは、とりもなおさず、様々さまざま種類しゅるい他人たにんとわかちあうことのできる共通きょうつうこう豊富ほうふ用意よういしているひとだれとでもなめらかにつきあってゆける人物じんぶつ、ということになる。そして、「ひとつのことに偏執へんしゅうてき(モノマニアック)に集中しゅうちゅうして、ほかのことには興味きょうみしめさないようなひとは、現代げんだいでは、一般いっぱん毛嫌けぎらいされるような傾向けいこうあらわれるようになった」[27]と1960年代ねんだいには指摘してきされる状態じょうたいになっていた。[注釈ちゅうしゃく 3]

共通きょうつうこうつく

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共通きょうつう話題わだいを「さがす」立場たちばのほかに、共通きょうつうあたらしい経験けいけんを「つくる」という立場たちばかんがえられる[28]

ひとつの目的もくてきにむかって、ふたり以上いじょう人間にんげん協同きょうどう作業さぎょうをする場合ばあいのことである。どんな目的もくてきであれ、とにかくひとりではできないことを、何人なんにんかで知恵ちえいやれば、そこではその作業さぎょうとその成果せいかが、そのままあたらしい共通きょうつうこうになる[28]

かわ喜田きた二郎じろうは『パーティがく』において、そのような種類しゅるい共同きょうどう作業さぎょうのなかで共通きょうつう経験けいけんを「つくる」ための方法ほうほうろん社会しゃかい工学こうがく提示ていじした。かわ喜田きた[28]

「わずか数日すうじつのチームワークであろうと、ふつうのおつきあいのすうねん以上いじょうしんのふれあいがしょうじたこともあります。かような体験たいけんをしたひとは、いたずらに長年ながねんがつのおつきあいのみがチームワークに必要ひつようひとつくるものではないことをるでしょう」

コミュニティづく

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現代げんだいでは、都会とかいのマンションではおなかいひとたちでさえたがいにかお名前なまえらない、とわれるほどに、地域ちいき社会しゃかい空洞くうどうすすんだ。このような状況じょうきょうのなかで、コミュニティづくりがさけばれ、さまざまなかたち運動うんどう展開てんかいされるようになっている[29]

コミュニティの概念がいねんは、人間にんげん関係かんけい心理しんりがく注目ちゅうもくされているが、その理由りゆうは、住民じゅうみん同士どうしのインフォーマルな関係かんけい仲間なかま)が、しん健康けんこう増進ぞうしんおおきな意義いぎつことがられるようになってきたからである[29]

(1)日常にちじょう生活せいかつ緊張きんちょうをときほぐす「息抜いきぬき」、(2)心情しんじょうてき共感きょうかんによる「はげまし」、(3)適切てきせつ行動こうどう基準きじゅん提示ていじ、(4)適度てきど距離きょりった「ヨコの関係かんけい」、これらのてんで、コミュニティは精神せいしん衛生えいせいのうえで、援助えんじょてき機能きのうつと安藤あんどう指摘してきした[30][29]

人間にんげん関係かんけい病理びょうり

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家庭かてい

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夫婦ふうふ関係かんけい親子おやこ関係かんけい様々さまざまなひずみがきる場合ばあいがあり、夫婦ふうふ関係かんけい親子おやこ関係かんけいのひずみは離婚りこん家庭かていない暴力ぼうりょくにつながることがある。

また、しゅとしてわか女性じょせいでは、極度きょくど体重たいじゅう減少げんしょう月経げっけいなどの症状しょうじょうる「思春期ししゅんきやせしょう」をこす場合ばあいがある。これについては諸説しょせつある。清水しみずによると、思春期ししゅんきやせしょう背景はいけいにはだい2性徴せいちょう目立めだ身体しんたいになりたくないという成熟せいじゅく拒否きょひ女性じょせいせい拒否きょひ)の心理しんりはたらいていて、月経げっけい停止ていしが必発症状しょうじょうだという[31][32]下坂しもさかによると、そのような女性じょせいには家庭かていない母親ははおやたいして反抗はんこう依存いぞんアンビバレントな態度たいど関係かんけいられるという[32]

学校がっこう

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校内こうない暴力ぼうりょくいじめ登校とうこう拒否きょひなどが社会しゃかい問題もんだいとしてげられるようになってひさしい。学校がっこうでの問題もんだい行動こうどうについては、その量的りょうてき増減ぞうげん云々うんぬんすることよりも、問題もんだい行動こうどう背景はいけい発生はっせいのメカニズムの質的しつてき変化へんか焦点しょうてんをあてる必要ひつようがあるという[33]

つる元春もとはるによると、学校がっこう病理びょうりてき問題もんだい要約ようやくするとおおよそつぎのようになるという[34]

  • 1.知的ちてき教育きょういくへの偏重へんちょう作業さぎょうぜん人格じんかく発達はったつをうながす教育きょういくおこなわれにくいこと。
  • 2.進学しんがく中心ちゅうしん教育きょういく体制たいせい就職しゅうしょく希望きぼうしゃには場違ばちがいなかんあたえること。偏差へんさによる序列じょれつ
  • 3.過度かど受験じゅけん競争きょうそうにより、ライバル意識いしきのみがそだち、友情ゆうじょう連帯れんたいかんそだたない。教師きょうし生徒せいとあいだには、評価ひょうかするもの評価ひょうかされるもの関係かんけいのみが強調きょうちょうされ、あたたかいのかよった関係かんけいそだちにくい。
  • 4. 教師きょうし威信いしん低下ていか教師きょうし生徒せいと関係かんけい希薄きはくし、学校がっこう管理かんり体制たいせい強化きょうかされ、おおくの禁止きんし事項じこうけられている。

対人たいじん恐怖症きょうふしょう

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人生じんせい青年せいねんになると進学しんがく就職しゅうしょくなどの局面きょくめんむかえることになり、あらたな対人たいじん関係かんけいけることになる。この時期じきひと対人たいじん恐怖症きょうふしょうがしばしば発生はっせいする。

対人たいじん恐怖症きょうふしょうについての理解りかいのしかたはいくつかある。対人たいじん恐怖症きょうふしょうは「対人たいじん場面ばめん不当ふとうつよ不安ふあん緊張きんちょうしょうじ、その結果けっかじんからいやがられたり、へんおもわれることをおそれて、対人たいじん関係かんけいけようとする神経症しんけいしょうである」ともされる[35][36]

対人たいじん恐怖症きょうふしょうには、赤面せきめん恐怖きょうふ視線しせん恐怖きょうふ表情ひょうじょう恐怖きょうふ発汗はっかん恐怖きょうふなど様々さまざま種類しゅるいがある。赤面せきめん恐怖きょうふとは、人前ひとまえ赤面せきめんするのではないかとおそれる症状しょうじょうであり、視線しせん恐怖きょうふとは、他人たにん視線しせんおそれる症状しょうじょうである。

対人たいじん恐怖症きょうふしょうなかでも、妄想もうそうてき確信かくしんいだ恐怖症きょうふしょうを「重症じゅうしょう対人たいじん恐怖症きょうふしょう」もしくは「思春期ししゅんき妄想もうそうしょう」とひともいる。ただし、このような恐怖症きょうふしょう妄想もうそうともなっているので、対人たいじん恐怖症きょうふしょうにはふくめずべつのカテゴリーであつかったほうがよいとかんがえるひともいる[36]

対人たいじん恐怖症きょうふしょうひとは、初対面しょたいめん相手あいてやすっかりけた相手あいてには不安ふあんかんじず、「中途半端ちゅうとはんぱったひと」に出会であったりすると不安ふあんをおぼえるという[36]。ただし、最近さいきん対人たいじん恐怖きょうふ恐怖きょうふ対象たいしょう顔見知かおみしりであるとはかぎらないという[36]

対人たいじん恐怖症きょうふしょうきるしくみについて、西園にしぞの昌久まさひさは、はじ心理しんり関係かんけいあるのかそれともおそれの心理しんり関係かんけいがあるのかについて調しらべている。西園にしぞの研究けんきゅうによると、男子だんし場合ばあいは「周囲しゅういから圧迫あっぱくかんじる漠然ばくぜんとした対人たいじん恐怖きょうふ」あるいは「視線しせん恐怖きょうふ」がほとんどで、他者たしゃ対立たいりつする自己じこへの不安ふあんがみられるという。それにたいして女子じょし場合ばあい対人たいじん恐怖きょうふ視線しせん恐怖きょうふみにく恐怖きょうふ赤面せきめん恐怖きょうふ関連かんれんしており「他人たにんにさらされる自己じこ身体しんたいぞう」へのこだわりがあるという[36]

鍋田なべたきょうこう分析ぶんせきでは、自意識じいしき過剰かじょうを「私的してき自己じこ意識いしき」と「公的こうてき自己じこ意識いしき」という用語ようごによってけている。私的してき自己じこ意識いしきとは、内面ないめん感情かんじょう気分きぶんなどの他人たにんから直接ちょくせつ観察かんさつされない自己じこ側面そくめん注意ちゅういけることである。公的こうてき自己じこ意識いしきとは、服装ふくそう容姿ようし言動げんどうなど、他人たにん観察かんさつされる側面そくめんにこだわることである。対人たいじん過敏かびんせい正常せいじょう範囲はんいないであれば、まわりからの評価ひょうか視線しせんへの(過剰かじょうな)づかいは、公的こうてき自己じこ意識いしきたかまることによってまれ、年齢ねんれいたかまるとともに消失しょうしつしてゆく。それにたいして、対人たいじん恐怖症きょうふしょう患者かんじゃ場合ばあいは、自己じこ評価ひょうかのほうをひくめて自己じこ嫌悪けんおかんいているにもかかわらず、こうあるべきだというたか自我じが理想りそう無理むりしめそうとして公的こうてき自我じが意識いしきつよめることで、それらの乖離かいりなやんでいるのだという[37][38]

人間にんげん関係かんけい健康けんこうなパーソナリティ

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パーソナリティの概念がいねん規定きてい様々さまざまありはするが、人間にんげん関係かんけいにかかわり、実際じっさいてき活用かつようできるそれとしては「パーソナリティとは、人間にんげん特徴とくちょうてき行動こうどうかんがえとを決定けっていする精神せいしん身体しんたいてき体系たいけい力動りきどうてき組織そしき」とするオルポートの定義ていぎであろう[39][40]。そしてさらに「性格せいかく気質きしつ興味きょうみ態度たいど価値かちかんなどをふくむ、個人こじん統合とうごうたいである」としておくとよい[39]

マズローは、自己じこ実現じつげん原動力げんどうりょくとなる欲求よっきゅうとして<生理せいりてき欲求よっきゅう安全あんぜん欲求よっきゅう所属しょぞくおよび愛情あいじょう欲求よっきゅう尊重そんちょう欲求よっきゅう自己じこ実現じつげん欲求よっきゅう>をげたうえで、左側ひだりがわ下位かい欲求よっきゅうから上位じょうい欲求よっきゅうへとたしてゆき、最終さいしゅうてき高次こうじ動機どうき(メタモティベーション)にたっするとした。つまり、下位かい欲求よっきゅうから充足じゅうそくされ最終さいしゅうてきもっと高次こうじ欲求よっきゅういたひとが、より健康けんこうてきなパーソナリティのひとだ、としているわけである[41]

ゴードン・オールポート健康けんこうなパーソナリティの規準きじゅんとして、つぎの6つをげた[41]

  • 1)  自己じこ意識いしき拡大かくだい自己じこ自身じしんだけに集中しゅうちゅうてきけられていた関心かんしんが、家族かぞく異性いせい趣味しゅみ政治せいじ宗教しゅうきょう仕事しごとへとひろがり、これにどれだけ積極せっきょくてき参加さんかし、自己じこをどれだけ拡大かくだいしてゆくか。いわば、他人たにん幸福こうふく自分じぶん幸福こうふく同一どういつできるほど重要じゅうようし、拡大かくだいできるか。
  • 2) 他人たにんとのあたたかい人間にんげん関係かんけい確立かくりつ家族かぞく友人ゆうじんたいして、どれほどふか愛情あいじょうともな親密しんみつさと、すべてのひと人間にんげんてき状態じょうたい敬意けいいはら理解りかいするという、共感きょうかんせいつことができるか。
  • 3) 情緒じょうちょてき安定あんてい欲求よっきゅう不満ふまん状況じょうきょうでもそれを受容じゅようするとともに、これをどれほど適切てきせつ冷静れいせい処理しょりし、安定あんていした精神せいしん状態じょうたいたもつことができるか。
  • 4) 現実げんじつてき知覚ちかく技能ぎのうおよび課題かだい歪曲わいきょくされない正確せいかく現実げんじつ認識にんしきと、真実しんじつせいへの認知にんちかまえをどれほどもっているか。基本きほんてき知的ちてき能力のうりょくだけでは不十分ふじゅうぶんで、むしろたか知的ちてき能力のうりょくをもちながら、情緒じょうちょてき均衡きんこうくために、健康けんこうなパーソナリティとなれないひと多数たすう存在そんざいする。
  • 5) 自己じこ客観きゃっかん洞察どうさつユーモア自分じぶん自身じしんとはなにか、自分じぶん自身じしんっているものはなにか、他人たにん自分じぶんなにっているとおもっているのか、といったことを客観きゃっかんてきり、洞察どうさつしているか。この洞察どうさつとユーモア感覚かんかくつよ関連かんれんしている[42]
  • 6) 人生じんせい統一とういつする人生じんせい哲学てつがく人生じんせいをいかにきてゆくか、という目標もくひょうへの指向しこうせいをどれほど明確めいかくにもっているか。そして、人生じんせい統一とういつあたえてくれる哲学てつがく、すなわち価値かちへの指向しこうをどれだけもっているか。[43]

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 心理しんり学者がくしゃハドレー・キャントリルは、老子ろうしから現代げんだいアメリカの風刺ふうし作家さっかジェームズ・サーバーまでの古今ここん東西とうざい著作ちょさくあつめて『人間にんげんのいとなみへの考察こうさつ』(Reflections on the Human Venture, 1960)というほんいていて、時代じだいてもわらないその様子ようすがそこにはみとれる(『人間にんげん関係かんけい 理解りかい誤解ごかい』p.8)
  2. ^ ここで記号きごうとはなにかとうと、C・モリスの定義ていぎのように「あるモノがのまえに存在そんざいしていないにもかかわらず、それが存在そんざいしているかのような反応はんのうをおこさせる刺激しげき」ということである。(『人間にんげん関係かんけい 理解りかい誤解ごかい』p.71)
  1. ^ これは都市とし多数たすう人々ひとびと、つまり都市とし自分じぶんだいしてきたひとのことをっている。(小数しょうすうだとしても)おやだい祖父母そふぼだいから都市としらしている人々ひとびとは、たとえ都市としんでいても「必然ひつぜんてき」「宿命しゅくめいてき」な人間にんげん関係かんけいにおおむねまれている
  2. ^ 関連かんれん項目こうもく -- しん理論りろん自閉症じへいしょう
  3. ^ 1960年代ねんだい指摘してきされていたこのような傾向けいこうかんしては、近年きんねんでは変化へんかまれている。最近さいきん若者わかものは、たとえばテレビ(つまりすべてのテーマをひろあさあつかうだけでませてしまうようなメディア)はほとんどていないということが統計とうけいあきらかになっており、日々ひびだい部分ぶぶん時間じかんは(1990年代ねんだい後半こうはんから普及ふきゅうした)インターネットのメディアつまり各人かくじん自分じぶん判断はんだん特定とくていのテーマを選択せんたくしてそれをげてゆけるメディアのほうをている。インターネットのソーシャルメディア多数たすう活用かつようして、各人かくじん興味きょうみがあることを徹底的てっていてきふかりしてゆくことをたのしみ、ソーシャルメディアで同一どういつのテーマに興味きょうみがある人々ひとびと同士どうしつながり交流こうりゅうたのしむ。ソーシャルメディアのおかげで、特定とくてい分野ぶんやしぼっていてもかなりの人数にんずう人々ひとびと交流こうりゅうたのしめるように社会しゃかい変化へんかしてきている。そしてそのような人的じんてき交流こうりゅうでは、ひとつのテーマをふかりしているひとこそが「あこがれのまと」であり、ちかづきたい対象たいしょうである。

出典しゅってん

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  1. ^ 人間にんげん関係かんけい心理しんり臨床りんしょう』 1995, p. 15.
  2. ^ Bilodeau, Kelly (2021ねん7がつ1にち). “Fostering healthy relationships” (英語えいご). Harvard Health. 2021ねん6がつ25にち閲覧えつらん
  3. ^ a b c d 人間にんげん関係かんけい 理解りかい誤解ごかい』 1966, p. 2.
  4. ^ 人間にんげん関係かんけい 理解りかい誤解ごかい』 1966, p. 5.
  5. ^ a b c 人間にんげん関係かんけい 理解りかい誤解ごかい』 1966, p. 8.
  6. ^ 人間にんげん関係かんけい 理解りかい誤解ごかい』 1966, p. 6.
  7. ^ 人間にんげん関係かんけい 理解りかい誤解ごかい』 1966, p. 23.
  8. ^ 人間にんげん関係かんけい 理解りかい誤解ごかい』 1966, pp. 24–25.
  9. ^ a b c 人間にんげん関係かんけい 理解りかい誤解ごかい』 1966, p. 29.
  10. ^ 人間にんげん関係かんけい 理解りかい誤解ごかい』 1966, p. 34.
  11. ^ 人間にんげん関係かんけい 理解りかい誤解ごかい』 1966, p. 35.
  12. ^ 人間にんげん関係かんけい 理解りかい誤解ごかい』 1966, p. 64.
  13. ^ 人間にんげん関係かんけい 理解りかい誤解ごかい』 1966, p. 65.
  14. ^ a b c 人間にんげん関係かんけい 理解りかい誤解ごかい』 1966, p. 66.
  15. ^ 人間にんげん関係かんけい 理解りかい誤解ごかい』 1966, p. 71.
  16. ^ 人間にんげん関係かんけい 理解りかい誤解ごかい』 1966, p. 74.
  17. ^ 人間にんげん関係かんけい 理解りかい誤解ごかい』 1966, p. 76.
  18. ^ a b 人間にんげん関係かんけい心理しんり臨床りんしょう』 1995, p. 22.
  19. ^ 人間にんげん関係かんけい心理しんり臨床りんしょう』 1995, pp. 25–27.
  20. ^ 人間にんげん関係かんけい 理解りかい誤解ごかい』 1966, p. 82.
  21. ^ 人間にんげん関係かんけい 理解りかい誤解ごかい』 1966, p. 83.
  22. ^ 人間にんげん関係かんけい 理解りかい誤解ごかい』 1966, p. 85.
  23. ^ 人間にんげん関係かんけい 理解りかい誤解ごかい』 1966, p. 48.
  24. ^ 人間にんげん関係かんけい 理解りかい誤解ごかい』 1966, p. 49.
  25. ^ 人間にんげん関係かんけい 理解りかい誤解ごかい』 1966, p. 50.
  26. ^ 人間にんげん関係かんけい 理解りかい誤解ごかい』 1966, p. 51.
  27. ^ 人間にんげん関係かんけい 理解りかい誤解ごかい』 1966, p. 53.
  28. ^ a b c 人間にんげん関係かんけい 理解りかい誤解ごかい』 1966, p. 55.
  29. ^ a b c 人間にんげん関係かんけい心理しんり臨床りんしょう』 1995, p. 63.
  30. ^ 安藤あんどう延男のぶお 1985「仲間なかまづくりとしん健康けんこう」(狩野かのろう現代げんだい社会しゃかい人間にんげん関係かんけい』)九州大学きゅうしゅうだいがく出版しゅっぱんかい pp.97-113)
  31. ^ 清水しみず将之まさゆき1975「青春せいしゅん以上いじょう心理しんり」(『現代げんだいのエスプリ 別冊べっさつ 現代げんだいじん異常いじょうせい -日本人にっぽんじん精神せいしん病理びょうり至文しぶんどう pp.141-157
  32. ^ a b 人間にんげん関係かんけい心理しんり臨床りんしょう』 1995, p. 130.
  33. ^ 人間にんげん関係かんけい心理しんり臨床りんしょう』 1995, p. 140.
  34. ^ つる元春もとはる青年せいねん問題もんだい行動こうどうとその指導しどう」(教育きょういく心理しんりがく概論がいろん北大路きたおおじ書房しょぼう pp.143-161)
  35. ^ 永田ながた法子のりこ1992「対人たいじん恐怖症きょうふしょう」(『心理しんり臨床りんしょうだい事典じてん』、培風館ばいふうかん、pp.800-801)
  36. ^ a b c d e 人間にんげん関係かんけい心理しんり臨床りんしょう』 1995, p. 138.
  37. ^ 鍋田なべたきょうこう1989「対人たいじん恐怖症きょうふしょう」(『性格せいかく心理しんりがく しん講座こうざ 3 適応てきおう不適ふてきおう金子かねこ書房しょぼう、pp.299-315)
  38. ^ 人間にんげん関係かんけい心理しんり臨床りんしょう』 1995, p. 139.
  39. ^ a b 人間にんげん関係かんけい心理しんり臨床りんしょう』 1995, p. 196.
  40. ^ Allport, G.W. 1937, "Personality ; A psychological interpretation.", NewYork : Holt, Rinehart & Winston
  41. ^ a b 人間にんげん関係かんけい心理しんり臨床りんしょう』 1995, p. 205.
  42. ^ 洞察どうさつとユーモアの評定ひょうじょう相関そうかんは0.89というたかである。(『人間にんげん関係かんけい心理しんり臨床りんしょう』p.206)
  43. ^ 人生じんせい意味いみにも関連かんれん記述きじゅつあり。

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 加藤かとう秀俊ひでとし人間にんげん関係かんけい 理解りかい誤解ごかい中公新書ちゅうこうしんしょ、1966ねん 
  • 高橋たかはし正臣まさおみ秋山あきやま俊夫としおつる元春もとはる上野うえの徳美とくみ人間にんげん関係かんけい心理しんり臨床りんしょう北大路きたおおじ書房しょぼう、1995ねん 

関連かんれん項目こうもく

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