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内村うちむら静子しずこ

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内村うちむら 静子しずこ(うちむら しずこ、1874ねん明治めいじ7ねん5がつ20日はつか - 1945ねん昭和しょうわ20ねん2がつ8にち)は、内村うちむら鑑三かんぞう最後さいごつま(4番目ばんめ)であり、内村うちむら活動かつどうもっと充実じゅうじつした時期じき(1892ねん - 1930ねん)を内助ないじょこうささえた人物じんぶつである。むすめルツ死後しご結成けっせいされたモアブ婦人ふじんかい会長かいちょう終生しゅうせいつとめた。

鑑三かんぞうつまについて「従順じゅうじゅん謙遜けんそん柔和にゅうわそなえた守護しゅご天使てんしである」とべている。また、「しずは内村うちむらいえぶくってた。」とも常々つねづねべていた。[1]「しず」[2]、「シズ」[3]せい[4]とも表記ひょうきされる。

生涯しょうがい

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初期しょき

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1874ねん明治めいじ7ねん京都きょうときゅう岡崎おかざきはん裁判所さいばんしょ判事はんじちち岡田おかだとおるはは好子よしこ次女じじょとして、静岡しずおかまれる。[5]その父親ちちおや転勤てんきんともな京都きょうとむ。

結婚けっこん

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おっとかんさんとも

あに岡田おかだひろし紹介しょうかい内村うちむら鑑三かんぞう見合みあいをし、1892ねん明治めいじ25ねん)のクリスマス、18さいときに、内村うちむら結婚けっこんした。おっと鑑三かんぞうは32さいであった。静子しずこおだやかでやさしい女性じょせいで、以後いご38年間ねんかん内村うちむら鑑三かんぞうの、内助ないじょしゃになった。よく1893ねん1がつおっととも教会きょうかい学校がっこう開催かいさいした。[6]4がつより熊本くまもとえい学校がっこう教師きょうし就任しゅうにんしたおっととも熊本くまもとった。熊本くまもと時代じだいおっと2人ふたり撮影さつえいした写真しゃしんのこされている。[7]8がつまつにまたおっととも京都きょうともどり、1894ねん明治めいじ27ねん)より京都きょうと日曜にちよう学校がっこう再開さいかいした。

1894ねん明治めいじ27ねん)3がつ19にち静子しずこ長女ちょうじょルツ京都きょうとんだ。おっと鑑三かんぞう二女じじょとして役所やくしょとどける。そのときはじめて最初さいしょつま浅田あさだタケとの長女ちょうじょノブの存在そんざいる。[8]おっととも名古屋なごや居住きょじゅうした。おっとが『まんあさほう』の記者きしゃ就任しゅうにんしたのをきっかけに1896ねん明治めいじ29ねん)9がつ東京とうきょうかくはず転居てんきょした。おっとは、かくはず聖人せいじんばれ、聖書せいしょ研究けんきゅう没頭ぼっとうすることになる。1897ねん明治めいじ30ねん)11月11にち東京とうきょう祐之ひろゆきんだ。

1900ねん明治めいじ33ねん)におっと鑑三かんぞう個人こじん雑誌ざっし聖書せいしょ研究けんきゅう』を創刊そうかんする。『聖書せいしょ研究けんきゅう』とかんさん著書ちょしょ発行はっこうする出版しゅっぱんしゃとして聖書せいしょ研究けんきゅうしゃ設立せつりつすると、静子しずこ事務じむいんとしてはたらいた。

モアブ婦人ふじんかい

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1907ねん明治めいじ40ねん)11月には一家いっか淀橋よどばし町内ちょうないかくはずから、柏木かしわぎ転居てんきょした。柏木かしわぎ長女ちょうじょルツ女学校じょがっこう卒業そつぎょうした直後ちょくごの1911ねん原因げんいん不明ふめいやまいたおれた。静子しずこ不眠ふみん不休ふきゅう看病かんびょうにもかかわらず、1912ねん明治めいじ45ねん)1がつ12にちにルツは18さい夭折ようせつした。ルツ静子しずこおっと鑑三かんぞう大変たいへんかなしませたが、ルツ闘病とうびょうとおして静子しずこ信仰しんこうつよまった。[9]

1929ねんクリスマスのモアブ婦人ふじんかい

ルツ死後しご、1913ねん大正たいしょう2ねん)1がつ12にちの召命記念きねんに、聖書せいしょ研究けんきゅうかい会員かいいん夫人ふじん姉妹しまいなど内村うちむらにゆかりのある婦人ふじんあつまり、かんさん主唱しゅしょうモアブ婦人ふじんかい結成けっせいされた。静子しずこはモアブかい会長かいちょうとして、かい終生しゅうせいリードした。[10]

1917ねん大正たいしょう6ねん実家じっかはは好子よしことおる死去しきょする。実家じっか両親りょうしんもとあづけられていた、たおとうと八雲やくも遺児いじ八郎はちろう花枝はなえる。[11]岡田おかだ整理せいりして資金しきん内村うちむら東南とうなんがわしつててまわせた。

1923ねん大正たいしょう12ねん)9がつ1にちおっと在中ざいちゅう柏木かしわぎ関東大震災かんとうだいしんさい被災ひさいするが、静子しずこ留守るすちゅう家族かぞく無事ぶじで、いえ被害ひがいはわずかだった。1924ねん11月に長男ちょうなん祐之ひろゆき美代子みよこ結婚けっこんする。

静子しずこ前列ぜんれつみぎ)とおっと鑑三かんぞう前列ぜんれつひだり)、息子むすこ祐之ひろゆき後列こうれつみぎ)とそのつま美代子みよこ後列こうれつひだり)、1924ねん12月

1927ねん昭和しょうわ2ねん)9がつ息子むすこ祐之ひろゆき北海道大学ほっかいどうだいがく医学部いがくぶ教授きょうじゅ就任しゅうにんすると、おっと鑑三かんぞう単身たんしん北海道ほっかいどうわたる。翌年よくねん、1928ねん昭和しょうわ3ねん)に静子しずこ女中じょちゅうともなって7がつから9がつまで滞在たいざいする。 1930ねん昭和しょうわ5ねん)3がつ28にち長男ちょうなん祐之ひろゆき夫妻ふさいとも柏木かしわぎ自宅じたくおっと臨終りんじゅう見守みまもった。おっと死後しご静子しずこ大病たいびょうわずら入院にゅういんする。

晩年ばんねん

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1931ねん昭和しょうわ6ねんおっとから1ねん札幌さっぽろいえてて、みの看護かんご生活せいかつする。1936ねん昭和しょうわ11ねん)に息子むすこ祐之ひろゆき一家いっか東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく転勤てんきんして、目白めじろいえててむ。[12]静子しずこ東京とうきょう同居どうきょする。[13]

1944ねん昭和しょうわ19ねん早春そうしゅんに、空襲くうしゅうけるために埼玉さいたまけん毛呂けろ病院びょういんげん埼玉さいたま医大いだい)の傾斜地けいしゃちにあった住宅じゅうたく疎開そかいする。1945ねん昭和しょうわ20ねん)2がつ4にちさむあさ高血圧こうけつあつたおれた。祐之ひろゆき病院びょういんひとたちの看病かんびょうのかいもなく、2がつ8にち死去しきょした。遺体いたい飯能はんのう火葬かそうじょう荼毘だびされた。2月17にち東京とうきょう葬儀そうぎおこなわれるが、前日ぜんじつ東京とうきょうはつ空襲くうしゅう厳戒げんかい態勢たいせいなか葬儀そうぎおこなわれた。空襲くうしゅう合間あいまに、遺骨いこつ多磨たま霊園れいえん内村うちむら鑑三かんぞうはか埋葬まいそうされた。[14]

死後しご

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1945ねん昭和しょうわ20ねん)4がつ25にちだい空襲くうしゅう目白めじろにあった自宅じたく消失しょうしつする。

人物じんぶつ

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  • 自分じぶん国語こくご以外いがいなにをもかたることをのうはず、自分じぶんくに風俗ふうぞく習慣しゅうかんそとほからず」とおっと鑑三かんぞうひょうするように、クリスチャンであること以外いがいには純然じゅんぜんたる日本にっぽん婦人ふじんであった。[6]

家族かぞく

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  • 岡田おかだとおるちち)--岡田おかだ関ヶ原せきがはらたたか武功ぶこうをたててやりたまわった三河みかわ武士たけし家系かけいであった。三河みかわ岡崎おかざきはん本多ほんだつかえて石高こくだかは300せきだった。明治維新めいじいしん法曹界ほうそうかいはいり、静岡しずおか山陰さんいん浜田はまだ出雲いずも京都きょうとなどを転勤てんきんする。京都きょうとでは京都きょうと地方ちほう判事はんじつとめ、室町むろまちいえかまえる。京都きょうと武徳たけのり殿どの弓道きゅうどう師範しはんになった。福島ふくしま正則まさのり使用しようしていた弓矢ゆみやかまえた写真しゃしんパリ万国博覧会ばんこくはくらんかい出品しゅっぴんされた。1917ねん京都きょうと死去しきょする。
  • 岡田おかだ好子よしこ(こうこ:はは)--三河そうご岡崎おかざきはん伊藤いとうふとし兵衛ひょうえむすめ同志社どうししゃ茶道さどうおしえていた。
  • 岡田おかだひろしあに)--
  • 岡田おかだ浜子はまこいもうと)--松江まつえはん旧家きゅうか高橋たかはし慶太郎けいたろうとつぐ。高橋たかはしほしとおる秘書ひしょつとめる。ほし暗殺あんさつされたのちは、きょうじょうげん韓国かんこくソウル)ののべ禧専もん学校がっこう教授きょうじゅとして赴任ふにんする。ソウルで1919ねん死去しきょする。息子むすこである高橋たかはしはじめだい高等こうとう学校がっこう東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく野球やきゅう投手とうしゅとして活躍かつやくする。東大とうだい卒業そつぎょう銀行ぎんこうかいはいり、日本輸出入銀行にほんゆしゅつにゅうぎんこう理事りじなどをつとめる。
  • 岡田おかだ八雲やくもおとうと)--琵琶湖びわこ一周いっしゅう遠泳えんえいをしたという伝説でんせつがある。逝し、二人ふたり遺児いじ花枝はなえ八郎はちろう)はちち岡田おかだとおる夫妻ふさいられる。その内村うちむら鑑三かんぞうった。はなえだ長崎大学ながさきだいがく病理びょうりがく教授きょうじゅになる梅田うめだかおる結婚けっこんする。岡田おかだ八郎はちろう明治めいじ学院がくいん卒業そつぎょう出版しゅっぱんかいはい世界文化社せかいぶんかしゃ重役じゅうやくになる。
  • 内村うちむら鑑三かんぞうおっと)--1891ねん明治めいじ24ねん内村うちむら鑑三かんぞう不敬ふけい事件じけん第一高等学校だいちこうとうがっこう教職きょうしょくわれて、やまいつま横浜よこはま加寿子かずこくしたのち京都きょうと宮川みやがわけいてる校長こうちょうをしていた泰西たいせいがくかん教師きょうしとして赴任ふにんした。1892ねん明治めいじ25ねんごろ京都きょうと旅宿りょしゅく築山つきやまもと結婚けっこんしたがすぐに離婚りこんした。京都きょうと時代じだい内村うちむら鑑三かんぞう岡田おかだとおる息子むすこ岡田おかだひろしいになる。岡田おかだいもうと静子しずこ結婚けっこんする。
  • 内村うちむらルツ長女ちょうじょ)--18さい病死びょうしした。長女ちょうじょ内村うちむら夫妻ふさいおおきな影響えいきょうあたえた。
  • 内村うちむら祐之ひろゆき長男ちょうなん)--のち精神せいしんになり、東京大学とうきょうだいがく医学部いがくぶ部長ぶちょうになり、プロ野球やきゅうのコンミッショナーを2つとめた。

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 内村うちむら美代子みよこ晩年ばんねんちち内村うちむら鑑三かんぞう』(1985ねん), 207ページ
  2. ^ 鈴木すずき範久のりひさ内村うちむら鑑三かんぞう』61、163ページ
  3. ^ 関根せきね正雄まさお内村うちむら鑑三かんぞう』72ページ
  4. ^ 聖書せいしょ研究けんきゅう』の発行はっこうじんは「内村うちむらしず」とかれていた。:内村うちむら美代子みよこ晩年ばんねんちち内村うちむら鑑三かんぞう』139ページ
  5. ^ 内村うちむら美代子みよこ晩年ばんねんちち内村うちむら鑑三かんぞう』(1985)、205ページ
  6. ^ a b 関根せきね正雄まさお内村うちむら鑑三かんぞう』73ページ
  7. ^ 関根せきね正雄まさお内村うちむら鑑三かんぞう』72ページ
  8. ^ のちにノブは上京じょうきょうするたびに、しばしば内村うちむら逗留とうりゅうすることがあったとう。
  9. ^ 重平じゅうへい友美ゆみ内村うちむら鑑三かんぞう』157ページ
  10. ^ 毎月まいつきだい3水曜日すいようび会員かいいんいえ順繰じゅんぐりにまわってかいひらいて、聖書せいしょ研究けんきゅうかんばなしいのりをした。創立そうりつ会員かいいんすうは34めいだった。また一方いっぽうおっと鑑三かんぞうはルツにより再臨さいりん信仰しんこう目覚めざめ、死後しご6ねんの1918ねんから中田なかた重治しげはる木村きむら清松きよまつらと再臨さいりん運動うんどうはじめた。:内村うちむら美代子みよこ(1983ねん)231ページ
  11. ^ 内村うちむら美代子みよこ、207ページ
  12. ^ 柏木かしわぎにあった預言よげんてら目白めじろ移築いちくした自宅じたく
  13. ^ 内村うちむら美代子みよこ晩年ばんねんちち内村うちむら鑑三かんぞう』141ページ
  14. ^ 内村うちむら美代子みよこ(1985ねん), 214-215ページ

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 高野たかの勝夫かつお『キリストきょう逸話いつわ例話れいわしゅう神戸こうべキリスト教書きょうしょてん、1997ねん
  • 中村なかむらさとし著名ちょめいじんクリスチャンの結婚けっこん生活せいかつファミリー・フォーラム・ジャパン
  • 内村うちむら美代子みよこ晩年ばんねんちち内村うちむら鑑三かんぞうきょうぶんかん 1985ねん
  • 重平じゅうへい友美ゆみ内村うちむら鑑三かんぞう』(近代きんだい日本にっぽん福音ふくいん指導しどうしゃ)、教会きょうかい新報しんぽうしゃ、1982ねん
  • 鈴木すずき範久のりひさ内村うちむら鑑三かんぞう』(岩波いわなみ新書しんしょ)、1984ねん
  • 関根せきね正雄まさお内村うちむら鑑三かんぞう』、清水しみず書院しょいん、1967ねん