りゅうひとし

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りゅう ひとし(りゅう じんき、拼音:Liú Rénguĭ、じん寿ことぶき2ねん602ねん) - たれ元年がんねん1がつ22にち685ねん3月2にち)は、中国ちゅうごくとう軍人ぐんじん正則せいそく汴州じょうけん出身しゅっしん

略歴りゃくれき[編集へんしゅう]

ずいじん寿ことぶき2ねん(602ねん)にまれる。わかころまずしく、学問がくもんきであったという。とう建国けんこく武徳ぶとく年間ねんかんいきしゅうさんぐんとなり、のちちんくらけんじょうてんずる。折衝せっしょうじょうの魯寧なるもの横暴おうぼうであったため、これを鞭打むちうって殺害さつがいした。ふとしむね詰問きつもんされると、「しんわたし)がはずかしめられたためにころしました」とおくせずにこたえたことから、かえってふとしむねられ、咸陽けんすすむにんぜられた。きゅうごとちゅうにまでのぼるが、ために権臣けんしんよしにくまれるようになり、あおしゅう刺史しし左遷させんされる。

さらにあらわけい5ねん660ねん)の遼東りゃおとん征伐せいばつにおいてこげうん失敗しっぱいしたつみせられ、59さいにしていち兵卒へいそつとされた。このとし定方さだかたひきいるとうぐん百済くだら泗沘じょうめ、配下はいかりゅうひとしねがい[1]慈王らえる功績こうせきげ、百済くだら滅亡めつぼうさせる。しかし、りゅうさく元年がんねん661ねん)に百済くだら遺臣いしんおにしつぶくしんらが泗沘じょう奪還だっかんこころみ、守将しゅしょうりゅうひとしねがい包囲ほういした。このさいりゅうひとし軌はみずか志願しがんして検校けんぎょうたいかたしゅう刺史ししはいして援軍えんぐんおもむく。

りゅうついたち3ねん663ねん)9がつ百済くだら残党ざんとう支援しえんするやまと日本にっぽん)の水軍すいぐん白村はくそんこう迎撃げいげきし、400せき軍船ぐんせんはらって大勝たいしょうする(白村はくそんこうたたか)。さらに百済くだらしょしろ平定へいていし、屯田とんでんいとな庶民しょみん安心あんしんさせたという。麟徳2ねん665ねんこうはじめ泰山たいざんふうぜんおこなったさいには、しん百済くだらふけやまと4こく首領しゅりょうひきいて参加さんかし、だいつかさけんはいし、みぎしょうけん検校けんぎょう太子たいしひだりちゅうまもるすすみ、らくぐすくけんおとこふうぜられた。

そうあきら元年がんねん668ねん)にはくまどうやすなで大使たいしけん浿江どうそうかんとなり、したがって高句麗こうくり平定へいていきむむらさきこうろく大夫たいふはいし、太子たいしひだり庶子しょし同中どうちゅうしょ門下もんかさんひんすすんだ。うえもと元年がんねん674ねん)にはにわとり林道りんどうだいそうかんにんぜられ、しん文武ぶんぶおうって(とうしん戦争せんそう大勝たいしょうし、うえもと2ねん675ねん)にはひだりぼくしゃとなって朝政ちょうせい参画さんかくした。ひかりたく元年がんねん684ねん)、らくぐすくぐんおおやけふうぜられた。たれ拱元ねん(685ねん正月しょうがつぶんあきらひだりしょうどうおおとりかく鸞台さんひんとして在職ざいしょくちゅうぼっした。享年きょうねん84。おくりな文献ぶんけん死後しご開府かいふどうさん并州だいとくおくられ、こうはじめ陵墓りょうぼであるいぬいりょうに陪葬された。

りゅう滔・りゅう濬があった。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 名前なまえりゅうひとし軌とているが、血縁けつえん関係かんけいはない。

伝記でんき史料しりょう[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]