勇払ゆうふつ

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勇払ゆうふつ
勇払の位置(北海道内)
勇払
勇払ゆうふつ
勇払ゆうふつ位置いち
北緯ほくい4237ふん38.38びょう 東経とうけい14143ふん43びょう / 北緯ほくい42.6273278 東経とうけい141.72861 / 42.6273278; 141.72861
くに 日本の旗 日本にっぽん
都道府県とどうふけん 北海道ほっかいどう
市町村しちょうそん 苫小牧とまこまい
人口じんこう
2017ねん平成へいせい29ねん)3がつ31にち現在げんざい[1]
 • 合計ごうけい 2,146にん
ひとしときおび UTC+9 (日本にっぽん標準時ひょうじゅんじ)
郵便ゆうびん番号ばんごう
059-1372
市外しがい局番きょくばん 0144[2]
ナンバープレート 苫小牧とまこまい

勇払ゆうふつ(ゆうふつ)は、北海道ほっかいどう苫小牧とまこまい

地理ちり[ソースを編集へんしゅう]

勇払ゆうふつ苫小牧とまこまい南東なんとう位置いちする。勇払平野ゆうふつへいやにあたり、きた沼ノ端ぬまのはた北東ほくとう柏原かしわばらひがし弁天べんてん西にし苫小牧とまこまい港南こうなんがわ真砂まさごまち苫小牧とまこまいこう北側きたがわ晴海はるみまち北西ほくせい道路どうろじょういちてんやなぎまち北西ほくせいでこのほか明野元あけのもとまちひらけいさむ西町にしまち隣接りんせつする。太平洋たいへいようめんする。苫小牧とまこまいこう工業こうぎょう地帯ちたい近接きんせつするため、労働ろうどうしゃのための下宿げしゅく旅館りょかんなどが30ちかくある。サーフィンスポットとしても有名ゆうめい。ただし沖合おきあいのある地点ちてんからきゅうふかくなるため注意ちゅういようし、また漂着ひょうちゃくぶつおおい。まち東側ひがしがわ勇払川ゆうふつがわながれている。入植にゅうしょく歴史れきしもあり、かつてはさかえていたが、行政ぎょうせい機関きかん移転いてん港湾こうわん苫小牧とまこまいこう存在そんざいにより市内しない中心ちゅうしんへの接続せつぞくむずかしくなり、現在げんざい小規模しょうきぼ市街地しがいちにとどまっている。一方いっぽうで、トヨタ自動車とよたじどうしゃ日本製紙にほんせいしアイシン北海道ほっかいどうなどの工場こうじょうつらなる経済けいざいてきには重要じゅうよう区域くいきである。

河川かせん[ソースを編集へんしゅう]

地名ちめい由来ゆらい[ソースを編集へんしゅう]

アイヌ由来ゆらいするが、由来ゆらいがはっきりしていない。

当地とうち地名ちめい記録きろくについて、江戸えどの『津軽つがる一統かずのりこころざし』(1670ねん)では「いふつ」、『元禄げんろくとう絵図えず』(1700ねん)では「いぶつ」と記載きさいされていたが、幕末ばくまつ以降いこうに「ゆうふつ」とまれるようになり、いま漢字かんじてられている[3]

このため、勇払ゆうふつ語源ごげんとなったアイヌについては「ユプッ(yu-put)」(温泉おんせん〔のかわの〕・くち)とかいするせつられるが、勇払川ゆうふつがわ沿いに温泉おんせんがあるわけでもなく、なぜそのようなせつたのかは不明ふめいである[3]

また、アイヌ研究けんきゅうしゃ山田やまだ秀三しゅうぞう鵡川むかわ地区ちくむアイヌの古老ころうから、「イプッ(i-put)」(それの・くち)あるいは「イプトゥ(i-putu)」(それの・そのくち)がアイヌでのであったというはなし採集さいしゅうしているが、ここでいう代名詞だいめいし「イ(i)」がなにすのかは、山田やまだいた時点じてんですでにからなくなってしまっている[3]山田やまだはこれについて、勇払ゆうふつ - ささえしゃく千歳ちとせ)- 石狩いしかり交通こうつう入口いりくち千歳ちとせ漁場ぎょじょう入口いりくち、ウトナイ美々びび川筋かわすじへの入口いりくち、の意味いみではないかとの推測すいそくをしているが、「判断はんだんができない」として断定だんていけている[3]

人口じんこう世帯せたい[ソースを編集へんしゅう]

2017ねん平成へいせい29ねん)3がつまつ現在げんざい勇払ゆうふつない全域ぜんいきでの人口じんこうかずおとこ1,081にんおんな1,065にんけい2,146にんであり、世帯せたいかずは1,079世帯せたいである[1]

歴史れきし[ソースを編集へんしゅう]

勇払ゆうふつ苫小牧とまこまい南東なんとう位置いちする歴史れきしふか土地とちである。アイヌ時代じだいから勇払川ゆうふつがわ石狩いしかり方面ほうめんへの交通こうつう手段しゅだんとして使つかわれていた。勇払川ゆうふつがわからは600ねんまえのものとされる丸木舟まるきぶね発掘はっくつされ、苫小牧とまこまい博物館はくぶつかん展示てんじされている。また、アイヌの集落しゅうらくあとからは和人わじんとの交流こうりゅうしめ通貨つうか漆器しっきなども発掘はっくつされている。比較的ひかくてきはや時期じき和人わじん入植にゅうしょくはじまった。この過酷かこく環境かんきょうなか入植にゅうしょくをした八王子はちおうじせんにん同心どうしん墓地ぼちがあり、勇武ゆうぶ資料しりょうかん隣接りんせつする。

江戸えど時代じだい後期こうき1800ねん寛政かんせい12ねん)には、北方ほっぽう警備けいび強化きょうか目指めざした江戸えど幕府ばくふ依頼いらいにより、はらたねあつし八王子はちおうじせんにん同心どうしん子弟していやく50にん移駐いちゅうして開拓かいたくたった[4]。(会所かいしょ設置せっちされた。)

1873ねん明治めいじ6ねん)、ジェームス・ワッソン(James Robert Wasson)らアメリカじん技師ぎし勇払ゆうふつ鵡川むかわ測量そくりょう基点きてんとなる石柱せきちゅう設置せっちりょう基点きてんむす勇払ゆうふつ基線きせん直線ちょくせん距離きょり14.86km)をき、北海道ほっかいどう測量そくりょうはじまるとなった。勇払ゆうふつ基点きてん石柱せきちゅう勇払ゆうふつ基点きてん)はながらくわすられていたが、後年こうねん発掘はっくつされ1962ねん北海道ほっかいどう指定してい史跡しせき[5]2016ねんには土木どぼく学会がっかい選奨せんしょう土木どぼく遺産いさん指定していされた。

明治めいじ時代じだい初期しょきにも勇払ゆうふつぐん開拓かいたく使出張所しゅっちょうしょ設置せっちされ、集落しゅうらく規模きぼこそおおきくはないが地域ちいき要衝ようしょうとなった。しかし1873ねん開通かいつうした札幌さっぽろ本道ほんどう日本にっぽんはつ馬車ばしゃどう)が、勇払ゆうふつ西方せいほう位置いちするとまほそ苫小牧とまこまい)を経由けいゆすることとなり開拓かいたく使出張所しゅっちょうしょとまほそ苫小牧とまこまい)へ移転いてん交通こうつう要衝ようしょうとしての役割やくわり低下ていかし、徐々じょじょ衰退すいたいした[6]

交通こうつう[ソースを編集へんしゅう]

勇払ゆうふつえき

鉄道てつどう[ソースを編集へんしゅう]

バス[ソースを編集へんしゅう]

みちみなみバス地区ちく苫小牧とまこまいえきとをむす路線ろせん運行うんこう

道路どうろ[ソースを編集へんしゅう]

施設しせつ[ソースを編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[ソースを編集へんしゅう]

  1. ^ a b 苫小牧とまこまい (2017ねん3がつ31にち). “人口じんこう資料しりょう市内しないまちべつ人口じんこう”. 苫小牧とまこまい. 2017ねん4がつ29にち閲覧えつらん
  2. ^ 市外しがい局番きょくばん一覧いちらん”. 総務そうむしょう. 2017ねん4がつ8にち閲覧えつらん
  3. ^ a b c d 山田やまだ秀三しゅうぞう北海道ほっかいどう地名ちめい』(2はんくさふうかん浦安うらやす〈アイヌ地名ちめい研究けんきゅう 別巻べっかん〉、2018ねん11月30にち、376ぺーじISBN 978-4-88323-114-0 
  4. ^ a b 苫小牧とまこまい 開拓かいたく移住いじゅうたいはか清掃せいそう”.毎日新聞まいにちしんぶん (毎日新聞社まいにちしんぶんしゃ). (2014ねん8がつ22にち)
  5. ^ 歴史れきし価値かち未来みらいに」 鵡川むかわ基点きてん記念きねん除幕じょまくしき”. 苫小牧とまこまいみんほう (2018ねん11月19にち). 2018ねん11月19にち閲覧えつらん
  6. ^ [苫小牧とまこまいのあゆみ(苫小牧とまこまい編集へんしゅう委員いいんかいかん1998ねん)p132]

関連かんれん項目こうもく[ソースを編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[ソースを編集へんしゅう]

勇武ゆうぶ資料しりょうかん