(Translated by https://www.hiragana.jp/)
古方派 - Wikipedia コンテンツにスキップ

ふるかた

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
医方いほうから転送てんそう

ふるかた(こほうは)は、江戸えど時代じだいこった漢方かんぽう医学いがく一派いっぱである。医方いほう(こいほうは)ともいう。ふるかた観点かんてんいにしえ聖人せいじん医学いがくいま時代じだい再現さいげんするというてんにある。江戸えど時代じだいふるかたは、『傷寒しょうかんろん』・『きむ要略ようりゃく』の薬方やくほう重視じゅうししたが、かならずしもそれのみを使用しようしたということはできない。共通きょうつうしてえることは、程度ていどはあるものの、そうよりのちこった中国ちゅうごくやまいうめろん薬理やくりろんたいして批判ひはんてきであったということである。

概要がいよう

[編集へんしゅう]

名古屋なごやげん中国ちゅうごくこったえきすい学派がくは錯簡さっかん重訂じゅうてい学派がくは影響えいきょうをうけ、扶陽そもそもかげ治療ちりょう指針ししんとする独自どくじ生命せいめいかんって古典こてんへの回帰かいきいた。その延長線えんちょうせんじょうひとつに『傷寒しょうかんろん』・『きむ要略ようりゃく』があった。名古屋なごやげん日本にっぽん最初さいしょの『きむ要略ようりゃく注解ちゅうかいしょあらわした。名古屋なごやげんの『水子みずこ』には「あわ泗のあいだいにしえは楊墨ふさがる。盂子してこれを闢いてくるわ如たり。南陽なんようの岐、のちみちふさがものりゅうしゅにして、かげきょせつものなり。わがひそかに盂子にす」としるされる。この名古屋なごやげんによる学説がくせつ伊藤いとう仁斎じんさいがく古学こがく台頭たいとうそうまなぶそうだい儒学じゅがく)の代表だいひょうである理論りろんてき朱子学しゅしがくへの批判ひはん)とほぼ時期じきおなじくしている。

ふるかた医者いしゃとして、だれふくまれるかさまざまなせつがあり、一定いっていしていないが、江戸えど時代じだい代表だいひょうするふるかたよん大家たいかとしては、後藤ごとううしとらさん香川かがわおさむあん(香川かがわ修徳しゅうとくとも)・松原まつばらいち閑斎山脇やまわき東洋とうようの4めいげられる。(香川かがわおさむあん山脇やまわき東洋とうよう松原まつばらいち閑斎・吉益よします東洞とうどうよんめいふるかたよん大家たいかとするせつもある。)

後藤ごとううしとらさん一気留滞説提唱ていしょうした。食事しょくじ療法りょうほうやいと熊胆くまのい蕃椒とうがらし温泉おんせんかかじゅんざい民間みんかん療法りょうほうなどの多岐たきにわたる治療ちりょうほうおこなった。

後藤ごとううしとらさん門人もんじんである山脇やまわき東洋とうようは、『そとだいようかた復刻ふっこく努力どりょくした。東洋とうようは「いにしえみちっていまじゅつる」を目標もくひょうとした。東洋とうよう処方しょほうには、そとだいようかた由来ゆらい処方しょほうおおくみられる。

後藤ごとううしとらさん伊藤いとう仁斎じんさい門人もんじんである香川かがわおさむあんは、『傷寒しょうかんろん』をも批判ひはん対象たいしょうとした。おさむあんは「孔子こうしせいみち医術いじゅつほんひとつ」としていち本堂ほんどうごうした。『傷寒しょうかんろん』が太陽たいよう陽明ようめいしょう太陰たいいんしょうかげ・厥陰にやまいけてろんじているのを観念かんねん産物さんぶつとして批判ひはんし、信奉しんぽうするに古典こてん先人せんじんつい見出みいだなかったとして「自我じがさくいにしえ」のげんべた。

有馬ありま凉及にまなび、伊藤いとう仁斎じんさいの儒を批判ひはんてきいだのが並河なみかわ天民てんみんである。この並河なみかわ天民てんみん門人もんじんである松原まつばらいち閑斎は、「ふるかたよん大家たいか」とか「ふるかた大家たいか」のひとつにかぞえられた。いち閑斎の弟子でしとしてあつまったものはすうひゃくにんおよんだ。門人もんじんらはいつも著書ちょしょをしてしいとすすめたが、「ひと一知半解いっちはんかいにして、ひとあやまること甚じるしい」ときらい、終身しゅうしんいちしょあらわさなかった。

徳川とくがわ吉宗よしむね家重いえしげ時代じだい吉益よします東洞とうどうが『類聚るいじゅうかた』などをあらわして確立かくりつした。 名前なまえのついている薬方やくほう処方しょほう)は、吉益よします東洞とうどうの『類聚るいじゅうかた』でわずか200しゅあまりである。吉益よします処方しょほうは、後世こうせい薬方やくほうくらべると、発汗はっかん吐瀉としゃ下痢げりなどのはげしい反応はんのうこすことがよくあったが、吉益よしますはこうした「めんげん(つむまぶし反応はんのう」とよばれる現象げんしょうをかえって歓迎かんげいし、治療ちりょう実績じっせきげた。

後藤ごとう慕庵後藤ごとう椿つばきあん後藤ごとうりょう香川かがわけいあずか山脇やまわき東門ひがしもん福島ふくしまかおるおう合田あいだもとむわれ藤村ふじむらただしきゅうさつき松原まつばらたかし松原まつばら周治しゅうじ長井ながいしゅん栗山くりやまみゆきあん内藤ないとうのぞみあきら吉益よしますみなみ岑少おきな吉益よします羸斎吉益よしますきたしゅう和田東わだひがしかく中川なかがわふねてい村井むらい琴山きんざん中神なかがみことけい中西なかにしふかしとき宇津木うつきこんだい和田わだもといさお永富ながとみどく嘯庵難波なんばだきぶし亀井かめいみなみめいだいはんきょう矢知やちしろだいあさだけなどがこのふるかたながれをむものである。これらのひとには、折衷せっちゅうとされる人々ひとびとふくまれる。したがって、折衷せっちゅうにも個々ここによりかなりのがあり、厳密げんみつ区別くべつすることはむずかしい。さまざまないいかたがあるが実証じっしょう主義しゅぎ観点かんてんから蘭学らんがく要素ようそれたかんらん折衷せっちゅうかぞえられるはなおかあおしゅうもこのふるかたながれにぞくする。幕末ばくまつには、だいあさだけ弟子でしだいようどうすぐれたふるかたとしてられた。

外部がいぶリンク

[編集へんしゅう]