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喜多きた孝治こうじ

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喜多きた孝治こうじ

喜多きた 孝治こうじ(きた こうじ、1878ねん明治めいじ11ねん2がつ15にち[1] - 1934ねん昭和しょうわ9ねん3月11にち)は、日本にっぽん逓信ていしん官僚かんりょう樺太からふとちょう長官ちょうかん衆議院しゅうぎいん議員ぎいん立憲りっけん政友せいゆうかい)。

経歴けいれき

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大阪おおさか北河内きたかわちぐん門真かどまむら現在げんざい門真かどま出身しゅっしん1902ねん明治めいじ35ねん)7がつ東京とうきょうほう学院がくいん現在げんざい中央大学ちゅうおうだいがく英語えいごほう学科がっか卒業そつぎょう同院どういん高等こうとうほう学科がっか国際こくさいほう専攻せんこうし、1904ねん明治めいじ37ねん)4がつ卒業そつぎょうした[1]

1903ねん明治めいじ36ねん)11月、文官ぶんかん高等こうとう試験しけん行政ぎょうせい試験しけん合格ごうかく[2]、1904ねん7がつ逓信ていしんしょう入省にゅうしょう経理けいりきょく検査けんさ検査けんさがかり事務じむ取扱とりあつかい就任しゅうにん通信つうしん事務じむかん逓信ていしん書記官しょきかん経理けいりきょく検査けんさ課長かちょうけん経理けいりきょく調度ちょうど課長かちょうけん電信でんしん灯台とうだい用品ようひん製造せいぞう所長しょちょう通信つうしんふく事務じむかん新潟にいがた郵便ゆうびん局長きょくちょう東京とうきょう中央ちゅうおう電話でんわ局長きょくちょう東部とうぶ逓信ていしんきょく経理けいり部長ぶちょうなどを歴任れきにん1918ねん大正たいしょう7ねん)3がつからいち年間ねんかん通信つうしん事業じぎょう研究けんきゅうのためアメリカイギリス留学りゅうがくした。1919ねん大正たいしょう8ねん)8がつ帰国きこくし、逓信ていしんしょう臨時りんじ調査ちょうさきょく事務じむかんけん逓信ていしん監察かんさつかんつとめた[1]

1919ねん11月、台湾たいわん総督そうとく秘書官ひしょかんけん台湾たいわん総督そうとく参事官さんじかんてんじた[1]1922ねん大正たいしょう11ねん)からどう殖産しょくさん局長きょくちょうを、1924ねん大正たいしょう13ねん)からたいみなみしゅう知事ちじつとめた。1927ねん昭和しょうわ2ねん)から樺太からふとちょう長官ちょうかんてんじ、1929ねん昭和しょうわ4ねん)まで在任ざいにんした。

1930ねん昭和しょうわ5ねん)、だい17かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょ出馬しゅつばし、当選とうせん1932ねん昭和しょうわ7ねん)のだい18かい衆議院しゅうぎいん議員ぎいんそう選挙せんきょでも再選さいせんされたが、1934ねん3がつ11にち議員ぎいん在職ざいしょくのまま死去しきょした[3]

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c d 喜多きた孝治こうじ位階いかいつい陞ノけん
  2. ^ 日本にっぽん官僚かんりょうせい総合そうごう事典じてん:1868 - 2000』183ぺーじ
  3. ^ 官報かんぽうだい2157ごう昭和しょうわ9ねん3がつ13にち

参考さんこう文献ぶんけん

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