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因島いんのしまそう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

因島いんのしまそう(いんのしまのしょう)は、備後びんごこく御調みつぎぐん因島いんのしまにあった荘園しょうえん

のちに、三津みつづそう(みつのしょう)・(因島いんのしまちゅうそう((いんのしま)なかのしょう)・重井しげいそう(しげいのしょう)に分割ぶんかつされるが、それ以後いごも3つの荘園しょうえん一括いっかつしてあつかわれる場合ばあいもあるため、分割ぶんかつの3そうについてもほん項目こうもくあつかう。

概要がいよう[編集へんしゅう]

因島いんのしまそう初出しょしゅつは、たてひさ2ねん1191ねん)に作成さくせいされた長講ちょうこうどうりょう目録もくろくである「長講ちょうこうどう所領しょりょう注文ちゅうもん」に“因島いんのしま”とあるのが最初さいしょとされている。長講ちょうこうどうりょうこう白河しらかわ法皇ほうおうによって整備せいびされたことから、因島いんのしまそうこう白河しらかわ法皇ほうおう関連かんれんした荘園しょうえんとしてたてそうされたと推定すいていされている。因島いんのしましまであるためにべいではなく、しおをもって年貢ねんぐとした(しお年貢ねんぐ)。

その鎌倉かまくら時代ときよ中期ちゅうきまでには3分割ぶんかつされ(さだおう元年がんねん1222ねん)に因島いんのしまちゅうそう初出しょしゅつ)、建治けんじ2ねん1276ねん作成さくせいの「備後びんごこく御調みつぎぐんないしょ荘園しょうえん領家りょうけ地頭じとう注文ちゅうもん」には、常光じょうこういんりょう三津みつづそうせんもんいんりょう因島いんのしまちゅうそう重井しげいはま重井しげいそう)にかれていた。常光じょうこういんこう白河しらかわ法皇ほうおう皇女おうじょ式子内親王しきしないしんのうゆかりの寺院じいんとされ、せんもんいんりょうおなじくこう白河しらかわ法皇ほうおう皇女おうじょ覲子内親王ないしんのうせんもんいん)のことで長講ちょうこうどうりょう別名べつめいであった(長講ちょうこうどうりょうこう白河しらかわ法皇ほうおうぼつせんもんいんゆずられ、さらにその没後ぼつごには後深草天皇ごふかくさてんのうおよびその子孫しそん持明院じみょういんみつる継承けいしょうしている)。また、地頭じとうしょく北条ほうじょうそうまさし北条ほうじょう一族いちぞく独占どくせんしており、時代じだいくだるにつれてきゅう因島いんのしまそうの3そうはその宗家そうけであるとく宗家そうけ独占どくせん状態じょうたいとなり、地頭じとうしょくのレベルでは一体いったいの“因島いんのしまそう”が復活ふっかつするかたちとなっていた。

元弘もとひろらん因島いんのしまそう地頭じとうしょくたてたけし政権せいけんぼつかんされ、たてたけし元年がんねん1334ねん)に後醍醐天皇ごだいごてんのう浄土寺じょうどじ地頭じとうしょく一括いっかつして寄進きしんした。たてたけし政権せいけん崩壊ほうかい足利尊氏あしかがたかうじ浄土寺じょうどじ一旦いったん安堵あんどしたものの、こよみおう元年がんねんのべもと3ねん/1338ねん)、あらためて東寺とうじ寄進きしんなおした。だが、現実げんじつ問題もんだいとして東寺とうじ因島いんのしまそう経営けいえい困難こんなんをきわめ、因島いんのしまちゅうそう公文こうぶんから台頭たいとうしたとわれている因島いんのしま村上むらかみ対岸たいがん小早川こばやかわ杉原すぎはらさら南朝なんちょうほう勢力せいりょく因島いんのしま進出しんしゅつはかってそうつとむさまたげられる事態じたいとなっている。15世紀せいき後半こうはん以後いご東寺とうじ史料しりょうからも因島いんのしま記述きじゅつえ、因島いんのしまそう(およびどうそう分割ぶんかつの3そう)は事実じじつじょう有名ゆうめい無実むじつしていった。

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 松井まつい輝昭てるあき因島いんのしまそう」(『国史こくしだい辞典じてん 15』(吉川弘文館よしかわこうぶんかん、1996ねんISBN 978-4-642-00515-9
  • すみしげるはじめ因島いんのしまそう」(『日本にっぽんだい事典じてん 1』(平凡社へいぼんしゃ、1992ねんISBN 978-4-582-13101-7
  • 外園ほかぞのゆたかもと因島いんのしまちゅうそう」「重井しげいそう」「三津みつづそう」『広島ひろしまけんだい百科ひゃっか事典じてん』(中国新聞社ちゅうごくしんぶんしゃ、1982ねん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]