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大迫おおさこ明伸あきのぶ

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大迫おおさこ 明伸あきのぶ
基本きほん情報じょうほう
ラテン文字もじ Akinobu Osako
原語げんご表記ひょうき おおさこ あきのぶ
くに 日本の旗 日本にっぽん
出生しゅっしょう 宮崎県の旗宮崎みやざきけん
生年月日せいねんがっぴ (1960-11-27) 1960ねん11月27にち(63さい
身長しんちょう 178cm
体重たいじゅう 86kg
選手せんしゅ情報じょうほう
階級かいきゅう 男子だんし86kgきゅう
段位だんい はちだん
獲得かくとくメダル
日本の旗 日本にっぽん
柔道じゅうどう
オリンピック
どう 1988 ソウル 86kgきゅう
テンプレートを表示ひょうじ

大迫おおさこ 明伸あきのぶ(おおさこ あきのぶ、1960ねん11月27にち - )は、日本にっぽん柔道じゅうどう。8だん取得しゅとく宮崎みやざきけん西諸県にしもろかたぐん野尻のじりまち(のちの小林こばやし出身しゅっしん身長しんちょう178cm[1]

1988ねんソウルオリンピック男子だんし86kgきゅうどうメダリストで、のちに全日本ぜんにほん柔道じゅうどう連盟れんめい強化きょうかコーチをつとめる。

経歴けいれき

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23さい強化きょうか選手せんしゅ

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宮崎みやざきけん中央ちゅうおう位置いちする西諸県にしもろかたぐん野尻のじりまちで、 農林のうりんぎょういとな大迫おおさこ5にんあねけいすえとしてまれる[2]柔道じゅうどうは、地元じもと紙屋かみや中学校ちゅうがっこう時代じだいはじめた[3]中学ちゅうがく時代じだい無名むめい選手せんしゅだったが、県立けんりつ宮崎みやざき商業しょうぎょう高校こうこう藤井ふじいいのいさお監督かんとく当時とうじ)にさそわれ[3]1976ねん同校どうこう入学にゅうがく高校こうこう時代じだい藤井ふじいいえ下宿げしゅくしながら3年間ねんかんごし[3]高校こうこう3ねんにはインターハイ団体だんたいせんでベスト8にはいる。

1979ねん天理大学てんりだいがく進学しんがくすると、2ねんよりレギュラーとして活躍かつやく[2]、このあいだどう大学だいがく全日本ぜんにほん学生がくせい優勝ゆうしょう大会たいかいにおいて、1980ねん381ねん優勝ゆうしょう82ねんじゅん優勝ゆうしょうという好成績こうせいせきおさめている。1983ねんはるどう大学だいがく卒業そつぎょう

大学だいがく卒業そつぎょう旭化成あさひかせいせきき、23さいにしてはじめて強化きょうか選手せんしゅ[3]大会たいかいでも、得意とくいわざ背負投せおいなげ武器ぶき講道館こうどうかんはい全日本ぜんにほん実業じつぎょう選手権せんしゅけんとう活躍かつやくし、徐々じょじょ頭角とうかくあらわす。 1985ねんには体重たいじゅう無差別むさべつ全日本ぜんにほん選手権せんしゅけんはつ出場しゅつじょうたすと、緒戦しょせん中国ちゅうごく地区ちく代表だいひょう板本はんぽん健三けんぞうやぶり、つづく2回戦かいせん当時とうじ199連勝れんしょうちゅう山下やました泰裕やすひろ対戦たいせん試合しあいやぶれたものの、試合しあいちゅう山下やました背負せおいちゅうかせ、会場かいじょうかせた[3]

うしなわれた背負投せおいなげ

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山下やましたとの善戦ぜんせんえた大迫おおさこは、選手権せんしゅけんにはつぎ目標もくひょう五輪ごりんえると、国際こくさい大会たいかいでの実績じっせきむために北朝鮮きたちょうせんでの国際こくさい大会たいかい出場しゅつじょうした[3]。86kgきゅうじゅん優勝ゆうしょうあまんじたため差別さべつきゅうにもエントリーした大迫おおさこだが、決勝けっしょうせん身長しんちょう2mを北朝鮮きたちょうせん代表だいひょう選手せんしゅわきかた[注釈ちゅうしゃく 1]ひだりひじ脱臼だっきゅう。これにより、背負投せおいなげがた選手せんしゅにとってもっと大事だいじを、大迫おおさこ使つかえなくなってしまった。

スポーツ外科げかという分野ぶんや未熟みじゅくだった当時とうじ、「なおかくりつ五分五分ごぶごぶ」とわれた手術しゅじゅつけるかどうか、大迫おおさこなやんでいた[3]医者いしゃから「成功せいこうしても1年間ねんかん柔道じゅうどうをできない」とげられたため、年齢ねんれいてきこうのない大迫おおさこは、手術しゅじゅつをせずに手負ておいの状態じょうたい柔道じゅうどうつづける決断けつだんをする。これはすなわち、十八番じゅうはちばん背負投せおいなげてること意味いみしていた[3]

再起さいきのため背負投せおいなげわる得意とくいわざとして一本いっぽん背負投せおいなげみがくが、ひじいたみとたたかいながらの稽古けいこ熾烈しれつきわめた。いつえるともわからないひじ故障こしょうくわえ、ときおなじくして腰椎ようつい分離ぶんりしょう併発へいはつした大迫おおさこは、国際こくさい大会たいかい出場しゅつじょうしてもかずばずの成績せいせきつづき、1987ねん世界せかい選手権せんしゅけん選考せんこうかいで3わったのちに、旭化成あさひかせい柔道じゅうどう監督かんとく引退いんたい相談そうだんした[3]監督かんとく説得せっとくもあり一旦いったん引退いんたいおもとどまったものの、そのすぐに全柔連ぜんじゅうれん強化きょうか選手せんしゅからはずされ一気いっき脱力だつりょく。このとき心境しんきょう大迫おおさこは「なにもかもわりだとおもった」と述懐じゅっかいする[3]

復活ふっかつ念願ねんがん五輪ごりん出場しゅつじょう

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九州きゅうしゅう代表だいひょうとしてのぞ1988ねん全日本ぜんにほん選手権せんしゅけん、この大会たいかい最後さいご引退いんたいすることめていた大迫おおさこは、つま実父じっぷ東京とうきょう日本武道館にほんぶどうかんせた[3]不運ふうんにも下痢げりなやまされながらのぞんだ大会たいかいではあったが、初戦しょせん若手わかてのホープ・吉田よしだ秀彦ひでひこを、2回戦かいせん前年ぜんねん世界せかい選手権せんしゅけん差別さべつきゅう王者おうじゃ小川おがわ直也なおやを、3回戦かいせんではベテランの日蔭ひかげとおるねんやぶり、ベスト4に進出しんしゅつ準決勝じゅんけっしょうせんでは正木まさき嘉美よしみしょうそとかけちゅううも、この大会たいかいの3入賞にゅうしょうという実績じっせきみとめられ、ふたた強化きょうか選手せんしゅ指定していされた。 この大会たいかいについて大迫おおさこは「体調たいちょう最悪さいあくだったにもかかわらず活躍かつやくできたのは、“全国ぜんこくひとおれ最後さいご見届みとどけてしい”とひらなおれたから」とかえ[3]

現役げんえき続行ぞっこうめた大迫おおさこ直後ちょくご全日本ぜんにほん体重たいじゅうべつ選手権せんしゅけん優勝ゆうしょうし、同年どうねん9がつ開催かいさい1988ねんソウルオリンピックへの切符きっぷにした。どう大会たいかいでは準決勝じゅんけっしょうせんオーストリアペーター・ザイゼンバッハーやぶれたが、3決定けっていせん前年ぜんねん世界せかい王者おうじゃであるフランスのファビアン・カヌーを僅差きんさ退しりぞけ、どうメダル獲得かくとく[1]。 また、よく89ねん全日本ぜんにほん体重たいじゅうべつ選手権せんしゅけん連覇れんぱ達成たっせいすると、ベオグラード世界せかい選手権せんしゅけんでも日本にっぽん代表だいひょう選出せんしゅつされた。しかし世界せかい選手権せんしゅけんでは敗者はいしゃ復活ふっかつせんの1回戦かいせん敗退はいたいし、メダルにはとどかなかった。

1990ねん旭化成あさひかせいのメンバーとして出場しゅつじょうした団体だんたいせん日本一にっぽんいちかがやき、直後ちょくご現役げんえき引退いんたい。このとき30さいであった。

競技きょうぎしゃから指導しどうしゃ

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引退いんたいは、旭化成あさひかせいのコーチに就任しゅうにん。2005ねんから2008ねんまでは旭化成あさひかせいアミダス所属しょぞく。また、全柔連ぜんじゅうれんにおいてもジュニアヘッドコーチ、専任せんにんコーチとう歴任れきにんし、現在げんざいはシニア強化きょうかコーチを担当たんとう。このあいだ井上いのうえ康生やすおらを担当たんとうした[3]自身じしんのコーチ就任しゅうにん当初とうしょ失敗しっぱい経験けいけん[注釈ちゅうしゃく 2]とおし、指導しどうしゃとして“選手せんしゅおな目線めせんった指導しどう”を心掛こころがけている[3]2012ねんロンドンオリンピックでは審判しんぱんいんつとめた[4]2016ねんリオデジャネイロオリンピックでも審判しんぱんいん選出せんしゅつされた[5]。2017ねんIJF審判しんぱんあいだ意見いけんちが微妙びみょうなジャッジとなったさい最終さいしゅう判断はんだんくだすスーパーバイザーの役職やくしょくもうけたが、そのにんけた5にんのうちの1人ひとりとなった[6]

おも戦績せんせき

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 姿勢しせいからたおわきかたであったため、いわゆる「反則はんそくわざ」にたる。
  2. ^ 旭化成あさひかせいのコーチ就任しゅうにん当初とうしょ大迫おおさこきびしい指導しどう方法ほうほうり、選手せんしゅ1人ひとりからB4用紙ようし3-4まい抗議こうぎ文書ぶんしょったことがある。内容ないようは8わりかた大迫おおさこたいする苦言くげんで、要約ようやくすると“大迫おおさこ先輩せんぱいうえからの立場たちばになりぎている”とのことだった。

出典しゅってん

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  1. ^ a b Akinobu Osako Bio, Stats, and Results”. Olympics at Sports-Reference.com. 2020ねん4がつ17にち時点じてんオリジナルよりアーカイブ。2023ねん4がつ19にち閲覧えつらん
  2. ^ a b “テクニカル・セミナーだい29かい”. Sports Click (スボすぼル・マガジン社るまがじんしゃ). (2010ねん8がつ29にち) 
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n 転機てんき-あの試合しあい、あの言葉ことば だい24かい-大迫おおさこ明伸あきのぶ-”. 近代きんだい柔道じゅうどう(2003ねん12がつごう (スボすぼル・マガジン社るまがじんしゃ). (2003ねん12月20にち) 
  4. ^ 物議ぶつぎかもすジュリー制度せいど選手せんしゅ審判しんぱん当惑とうわくひろがる-柔道じゅうどう五輪ごりん柔道じゅうどう アーカイブ 2016ねん3がつ4にち - ウェイバックマシン時事通信じじつうしん)2012ねん8がつ2にち
  5. ^ きんメダル”きゅう公平こうへい判定はんてい 宮崎みやざき在住ざいじゅう唯一ゆいいつ日本人にっぽんじん審判しんぱんいん大迫おおさこさん /宮崎みやざき
  6. ^ 国際こくさい柔道じゅうどうスーパーバイザー 小林こばやし出身しゅっしん大迫おおさこさん就任しゅうにん[リンク] 読売新聞よみうりしんぶん 2017ねん6がつ26にち

外部がいぶリンク

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