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正木まさき嘉美よしみ

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獲得かくとくメダル
日本の旗 日本にっぽん
柔道じゅうどう
世界せかい柔道じゅうどう選手権せんしゅけん
きむ 1985 ソウル 差別さべつ
アジア大会たいかい
きむ 1986 ソウル 差別さべつ

正木まさき 嘉美よしみ(まさき よしみ、男性だんせい1962ねん8がつ20日はつか - )は、大阪おおさか忠岡ただおかまち出身しゅっしん日本にっぽん柔道じゅうどう、スポーツ科学かがく研究けんきゅうしゃ天理大学てんりだいがく体育たいいく学部がくぶ体育たいいく学科がっか教授きょうじゅ

来歴らいれき

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実家じっか牛乳ぎゅうにゅう販売はんばいぎょういとなんでいたことから子供こどもころ配達はいたつ手伝てつだいをしていたという。柔道じゅうどう小学校しょうがっこう5ねんとき米田よねだ道場どうじょうはじめた[1]

春木はるき中学ちゅうがく3ねんときには全国ぜんこく中学校ちゅうがっこう柔道じゅうどう大会たいかい団体だんたいせんで3になった。関西かんさい柔道じゅうどう名門めいもんこうとしてられる天理てんり高校こうこう進学しんがくすると、1ねんときには高校こうこう選手権せんしゅけん団体だんたいせん優勝ゆうしょうかざった。2ねんときにはインターハイ団体だんたいせんでも優勝ゆうしょうすると、高校こうこう選手権せんしゅけんでも2連覇れんぱたした。3ねんときにはインターハイ団体だんたいせんで2連覇れんぱすると、個人こじんせん重量じゅうりょうきゅうでも優勝ゆうしょうして2かん達成たっせいした[1]

1981ねん天理大学てんりだいがく進学しんがくすると、1ねんときには学生がくせい優勝ゆうしょう大会たいかいでチームの優勝ゆうしょう貢献こうけんして優秀ゆうしゅう選手せんしゅえらばれた(そのこん大会たいかいでは3ねん連続れんぞくして2にとどまるが、4ねん連続れんぞく優秀ゆうしゅう選手せんしゅ選出せんしゅつされた。この記録きろく歴代れきだいでも山下やました泰裕やすひろ斎藤さいとうせいつよしむねでん康幸やすゆき高井たかい洋平ようへいのみが達成たっせいしている)[2]。2ねんからは差別さべつ全日本ぜんにほん学生がくせい選手権せんしゅけんで3ねん連続れんぞく優勝ゆうしょうげた。これは山下やましたでさえ達成たっせいできなかった記録きろくである。正力しょうりき国際こくさいでは個人こじんせん決勝けっしょうソ連それんグリゴリー・ベリチェフはらえこしやぶって優勝ゆうしょうすると、団体だんたいせんでも優勝ゆうしょうかざった。3ねんときには全日本ぜんにほん選手権せんしゅけんで3はいると、正力しょうりきはいでは優勝ゆうしょうした。4ねんときには全日本ぜんにほん選手権せんしゅけんで3だったが、アジア選手権せんしゅけん差別さべつでは優勝ゆうしょうした。ロサンゼルスオリンピック補欠ほけつ選出せんしゅつされたが、現地げんちおもむくことはなかった。一方いっぽうで、正力しょうりきはいでは2連覇れんぱたすと、世界せかい学生がくせい無差別むさべつでも優勝ゆうしょうかざった。さらに2ねんぶりに出場しゅつじょうした正力しょうりき国際こくさいでも個人こじんせん無差別むさべつ団体だんたいせんの2かん達成たっせいした[1]

1985ねんには天理大学てんりだいがく研究生けんきゅうせいとなると、全日本ぜんにほん選手権せんしゅけんでは準決勝じゅんけっしょう山下やましたよこ四方しほうかたやぶれて3ねん連続れんぞくの3にとどまった。神戸こうべ開催かいさいされたユニバーシアードでは個人こじんせん差別さべつ団体だんたいせんで2かん達成たっせいした。韓国かんこくソウル開催かいさいされた世界せかい選手権せんしゅけんには補欠ほけつとして出向でむいたものの、95 kgちょうきゅう決勝けっしょう国士舘大学こくしかんだいがく教員きょういん斉藤さいとうひとし地元じもとちょうひろしとおる反則はんそくともれるうでくじけわきかた負傷ふしょうして差別さべつには出場しゅつじょうできなくなったために、急遽きゅうきょ無差別むさべつ起用きようされることになった。その決勝けっしょうではエジプトのモハメド・ラシュワン開始かいしわずか15びょう出足であしはらいやぶ世界せかいチャンピオンにかがやいた。山下やました斉藤さいとうさん番手ばんてという評価ひょうか日本にっぽん代表だいひょう選出せんしゅつされる機会きかいがなかなかまわってこなかったものの、おもいがけないかたちでチャンスをものにすることになった[3]

1986ねん全日本ぜんにほん選手権せんしゅけんでは準決勝じゅんけっしょう斉藤さいとうを2-1の判定はんていやぶった新日鉄しんにってつ藤原ふじわらたかしせいごうわざやぶり、天理大学てんりだいがく出身しゅっしんしゃとしていま大会たいかいはつ優勝ゆうしょうった[4]選抜せんばつ体重たいじゅうべつでも優勝ゆうしょうかざった。ソウルで開催かいさいされたアジア大会たいかい差別さべつでは決勝けっしょう地元じもとちょうひろしてっ指導しどうやぶ優勝ゆうしょうした[1]

1987ねんには天理大学てんりだいがく教員きょういんとなった。全日本ぜんにほん選手権せんしゅけんには斉藤さいとう出場しゅつじょうしていなかったものの、準々じゅんじゅん決勝けっしょうで78 kg世界せかいチャンピオンである岩手いわて県警けんけい日蔭ひかげとおるねんだいそと準決勝じゅんけっしょうではこのとし世界せかい選手権せんしゅけん78 kgきゅう優勝ゆうしょうすることになる筑波大学つくばだいがく3ねん岡田おかだ弘隆ひろたかはらいこしやぶるなどオール一本いっぽんちで決勝けっしょうまですすむと、大阪おおさか府警ふけい元谷もとたに金次郎きんじろう判定はんていやぶって2連覇れんぱたした。しかし、1979ねん山下やました達成たっせいして以来いらい史上しじょう2にんとなるオール一本いっぽんちでの優勝ゆうしょうはならなかった[5]。その西にしドイツのエッセン開催かいさいされた世界せかい選手権せんしゅけんには当初とうしょ2種目しゅもくでの出場しゅつじょう予定よていしていた。しかしながら、95 kgちょうきゅう初戦しょせんでベリチェフにすみかえし有効ゆうこうやぶれたさいこし負傷ふしょうしたため、差別さべつには出場しゅつじょうできなくなった。そのため、差別さべつには代役だいやくとして明治大学めいじだいがく2ねん小川おがわ直也なおや出場しゅつじょうして史上しじょう最年少さいねんしょうとなる19さい7ヶ月かげつでの優勝ゆうしょうげた。この結果けっか、2ねんまえ世界せかい選手権せんしゅけんまったおな光景こうけいひろげられることになった。ちがてんは、代役だいやくえんじるがわだった正木まさきが、今回こんかい代役だいやくてられるがわまわったことだった[6]

1988ねん全日本ぜんにほん選手権せんしゅけんでは決勝けっしょうでケガから復帰ふっきしてきた斉藤さいとう判定はんていやぶれて3連覇れんぱはならなかった。選抜せんばつ体重たいじゅうべつでも準決勝じゅんけっしょう小川おがわ効果こうかやぶれたことで、ソウルオリンピック出場しゅつじょうたすことはできなかった[1]

それ以降いこう試合しあいからとおざかっていたが、1991ねんには全日本ぜんにほん選手権せんしゅけんに3ねんぶりに出場しゅつじょうした。準々じゅんじゅん決勝けっしょう綜合そうごう警備けいび保障ほしょう金野こんのじゅん対戦たいせんすると、出足であしはらいわざありを先取せんしゅしながらかにはさみ逆転ぎゃくてんけをきっした[7]

その引退いんたいすると、天理大学てんりだいがくでスポーツ科学かがく研究けんきゅうむことになった。また、どう大学だいがく柔道じゅうどう監督かんとく全日本ぜんにほんシニア代表だいひょうコーチをもつとめた。現在げんざい全柔連ぜんじゅうれん強化きょうか委員いいんつとめる[8][9]

なお、天理大学てんりだいがく在籍ざいせきしている長男ちょうなん正木まさききよしさとるも2015ねんジュニア体重たいじゅうべつ81 kgきゅうで2になるなど活躍かつやくしている[10]

柔道じゅうどうスタイル

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  • 現役げんえき時代じだいは180 cm、150 kg。いわゆるアンコがた柔道じゅうどうであった。
  • 左組さぐみしゅ
  • 得意とくいわざはらいこし足技あしわざ(とりわけ出足であしはらいはセンスがあると自認じにんするくらい得意とくいにしていた)[1][4]

戦績せんせき

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(無差別むさべつ以外いがいすべ重量じゅうりょうきゅうないしは95 kgちょうきゅうでの成績せいせき)

役職やくしょく

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  • 日本にっぽん体育たいいく学会がっかい
  • 日本にっぽん武道ぶどう学会がっかい
  • JOCエリートコーチングスタッフ
  • 全日本ぜんにほん柔道じゅうどう連盟れんめい強化きょうか委員いいん
  • 全日本ぜんにほん柔道じゅうどう連盟れんめい男子だんし強化きょうかコーチ
  • 全日本ぜんにほん柔道じゅうどう連盟れんめいAきゅう審判しんぱんいん
  • 関西かんさい学生がくせい柔道じゅうどう連盟れんめい常任じょうにん理事りじ

など多数たすう

著書ちょしょ

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  • スポーツと健康けんこう道和みちかず書院しょいん、1993ねん
  • 武道ぶどう関係かんけい年表ねんぴょう(むさし書房しょぼう、1998ねん

論文ろんぶん

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  • 柔道じゅうどう選手せんしゅ体重たいじゅう減量げんりょうかんする研究けんきゅう」(天理大学てんりだいがくがくむくい、1988ねん
  • 企業きぎょう運動うんどう研究けんきゅう(3)-引退いんたい職務しょくむ昇進しょうしん仕事しごと満足まんぞくなどについて」(天理大学てんりだいがくがくむくい、1988ねん
  • 「オリンピックにたいする意識いしき調査ちょうさ―ソウルオリンピック日本にっぽん代表だいひょう選手せんしゅ調査ちょうさから―」(天理大学てんりだいがくがくむくい、1989ねん
  • 「オリンピックにたいする意識いしき調査ちょうさ一般いっぱん大学生だいがくせい調査ちょうさから―」(天理大学てんりだいがくがくむくい、1990ねん
  • 柔道じゅうどうかんする意識いしき分析ぶんせき―フランス柔道じゅうどうじん中心ちゅうしんにして―」(天理大学てんりだいがくがくむくい、1993ねん
  • 沖縄おきなわ角力すもうについて」(天理大学てんりだいがくがくむくい、1994ねん
  • 本部ほんぶ御殿ごてんしゅ武術ぶじゅつについて」(天理大学てんりだいがくがくむくい、1995ねん
  • 江戸えど柔術じゅうじゅつ伝書でんしょにみられる「呼吸こきゅう」についての考察こうさつ」(身体しんたい運動うんどう文化ぶんか研究けんきゅう、1995ねん
  • 柔道じゅうどう選手せんしゅ苦手にがて意識いしきについて―高校生こうこうせい対象たいしょうとして―」(奈良工業高等専門学校ならこうぎょうこうとうせんもんがっこう研究けんきゅう紀要きよう
  • 柔道じゅうどう競技きょうぎりょく心身しんしん指標しひょうとの関連かんれん重心じゅうしん動揺どうようあわせバランス・UKデータから」(大阪おおさか武道ぶどうがく研究けんきゅう、2001ねん
  • 柔道じゅうどうかんする意識いしき分析ぶんせき日本にっぽん・フランス・ロシア強化きょうか選手せんしゅ意識いしき特徴とくちょうについて―」(大阪おおさか武道ぶどうがく研究けんきゅう、2003ねん
  • ほね強度きょうど指数しすう分析ぶんせき」(関西学院大学かんせいがくいんだいがくスポーツ科学かがく健康けんこう科学かがく研究けんきゅうしつ、2004ねん

脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b c d e f 「ZOOM IN 素顔すがお 正木まさき嘉美よしみ近代きんだい柔道じゅうどう ベースボールマガジンしゃ、1989ねん3がつごう
  2. ^ 全日本ぜんにほん学生がくせい柔道じゅうどう優勝ゆうしょう大会たいかい男子だんし
  3. ^ だい14かい世界せかい選手権せんしゅけん特集とくしゅう近代きんだい柔道じゅうどう ベースボールマガジンしゃ、1985ねん11がつごう
  4. ^ a b 昭和しょうわ61ねん全日本ぜんにほん柔道じゅうどう選手権せんしゅけん近代きんだい柔道じゅうどう ベースボールマガジンしゃ、1986ねん6がつごう
  5. ^ 昭和しょうわ62ねん全日本ぜんにほん柔道じゅうどう選手権せんしゅけん近代きんだい柔道じゅうどう ベースボールマガジンしゃ、1987ねん6がつごう
  6. ^ 特集とくしゅう 男女だんじょ世界せかい選手権せんしゅけん大会たいかい近代きんだい柔道じゅうどう ベースボールマガジンしゃ、1988ねん1がつごう
  7. ^ 平成へいせい3ねん全日本ぜんにほん柔道じゅうどう選手権せんしゅけん近代きんだい柔道じゅうどう ベースボールマガジンしゃ、1991ねん6がつごう
  8. ^ 正木まさき嘉美よしみ 天理大学てんりだいがく教授きょうじゅ全日本ぜんにほん柔道じゅうどう連盟れんめい男子だんし強化きょうか委員いいん
  9. ^ 強化きょうか委員いいんかい | 全日本ぜんにほん柔道じゅうどう連盟れんめい
  10. ^ 全日本ぜんにほんジュニア柔道じゅうどう体重たいじゅうべつ選手権せんしゅけん大会たいかい近代きんだい柔道じゅうどう ベースボールマガジンしゃ、2015ねん11がつごう

外部がいぶリンク

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