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岡野おかのいさお

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岡野おかの いさお
岡野おかのいさお
基本きほん情報じょうほう
ラテン文字もじ Isao Okano
原語げんご表記ひょうき おかの いさお
くに 日本の旗 日本にっぽん
出生しゅっしょう 茨城県の旗茨城いばらきけん龍ケ崎りゅうがさき
生年月日せいねんがっぴ (1944-01-20) 1944ねん1がつ20日はつか(80さい
身長しんちょう 170cm
体重たいじゅう 80kg
選手せんしゅ情報じょうほう
階級かいきゅう 男子だんし80kgきゅう
段位だんい ろくだん
獲得かくとくメダル
日本の旗 日本にっぽん
柔道じゅうどう
オリンピック
きむ 1964 東京とうきょう 80kgきゅう
世界せかい柔道じゅうどう選手権せんしゅけん
きむ 1965 リオデジャネイロ 80kgきゅう
テンプレートを表示ひょうじ

岡野おかの いさお(おかの いさお、1944ねん昭和しょうわ19ねん1がつ20日はつか - )は、日本にっぽん柔道じゅうどう流通経済大学りゅうつうけいざいだいがく名誉めいよ教授きょうじゅ1964ねん昭和しょうわ39ねん東京とうきょうオリンピック柔道じゅうどう男子だんし80kgきゅうきんメダリスト。身長しんちょう170cm。体重たいじゅう80kg[1]

来歴らいれき人物じんぶつ

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茨城いばらきけん龍ケ崎りゅうがさき出身しゅっしん福井ふくい英一ひでかず漫画まんがイガグリくん[2]影響えいきょう中学ちゅうがくから柔道じゅうどうはじめる。茨城いばらき県立けんりつ竜ヶ崎りゅうがさき第一高等学校だいちこうとうがっこう卒業そつぎょう中央大学ちゅうおうだいがく法学部ほうがくぶ在学ざいがくちゅう1964ねん昭和しょうわ39ねん)、東京とうきょうオリンピックちゅうりょうきゅう日本にっぽん代表だいひょうとして出場しゅつじょうし、きんメダル獲得かくとくした[1]1965ねん昭和しょうわ40ねん)の世界せかい選手権せんしゅけんでも優勝ゆうしょうし、21さい柔道じゅうどうちゅうりょうきゅうにおける世界せかいのトップ選手せんしゅとなる。

1967ねん昭和しょうわ42ねん)には全日本ぜんにほん選手権せんしゅけん優勝ゆうしょうし、ちゅうりょうきゅう選手せんしゅとしては当時とうじ史上しじょうはつとなる柔道じゅうどうさんかん獲得かくとくした。しかし直後ちょくご親善しんぜん試合しあい右肩みぎかた負傷ふしょうしたため、同年どうねん8がつソルトレイクシティ開催かいさいされた世界せかい選手権せんしゅけんへの出場しゅつじょう辞退じたいした。1968ねん昭和しょうわ43ねん)、全日本ぜんにほん選手権せんしゅけんじゅん優勝ゆうしょうし、さらに1969ねん昭和しょうわ44ねん)では優勝ゆうしょうと、3年間ねんかん連続れんぞく体重たいじゅう無差別むさべつ全日本ぜんにほん選手権せんしゅけんにおいて決勝けっしょう進出しんしゅつしたことは、身長しんちょう170cm[3]、80kg以下いか体重たいじゅう考慮こうりょすれば特筆とくひつすべき偉業いぎょうである(80kg以下いか体重たいじゅうは、歴代れきだい全日本ぜんにほん選手権せんしゅけん優勝ゆうしょうしゃさい軽量けいりょう講道館こうどうかん機関きかん柔道じゅうどう」1969ねん5がつごう全日本ぜんにほん柔道じゅうどう選手権せんしゅけん出場しゅつじょうしゃのリストによれば、170cm、79kgとある)。マスコミから「昭和しょうわ三四郎さんしろう[3]しょうされた。

みぎこしから次第しだい背負投せおいなげひだりそでこしから次第しだい一本いっぽん背負投せおいなげ進化しんかさせ左右さゆうかつわざ得意とくいわざとした。おおきな相手あいてには、小内こうちりなどの足技あしわざ相手あいてあしすくげなどを武器ぶき体重たいじゅう克服こくふくした。また奥田おくだ義郎よしおやロシアの選手せんしゅ寝技ねわざやぶれた経験けいけんから、寝技ねわざ鍛錬たんれんし、ってし、しと当時とうじ柔道じゅうどうかい評価ひょうかされた。中央大学ちゅうおうだいがく卒業そつぎょうは、天理大学てんりだいがく助手じょしゅとなり当時とうじ交流こうりゅうすくない関西かんさい独特どくとく柔道じゅうどう修行しゅぎょうし、その日本武道館にほんぶどうかん移籍いせきして東京とうきょうもどった。特定とくてい学閥がくばつぞくさない姿勢しせいは、一線いっせんきゅう選手せんしゅたちには評価ひょうかされ、正気しょうきじゅくには派閥はばつ国籍こくせき関係かんけいなく塾生じゅくせいあつまった。ただし、その姿勢しせい日本にっぽん柔道じゅうどうかいからは異端いたんられることもおおく、実績じっせき功績こうせきかられば日本にっぽん柔道じゅうどうかいでは不遇ふぐうあつかいをされている(たとえば、おなじく柔道じゅうどうさんかんはる後輩こうはい上村うえむら春樹はるききゅうだん山下やました泰裕やすひろきゅうだんなどにたいして、柔道じゅうどうろくだんから昇段しょうだんまっている)。

1964ねん東京とうきょうオリンピック岡野おかの使つかった得意とくいわざ両者りょうしゃ横転おうてんするかたちめる十字じゅうじしぼがある。当時とうじこのわざられていなかったため、主審しゅしん相手あいて選手せんしゅおさみを宣誓せんせいするという珍事ちんじきている(相手あいて選手せんしゅ失神しっしんしたため主審しゅしん気付きづき、岡野おかの勝利しょうりとした)。これは奥田おくだ義郎よしお佐藤さとうせん試合しあいとした「ネズミ捕ねずみとり」という、相手あいてさえみにさそみ、自分じぶんしたになりながらめるわざ参考さんこう工夫くふうしたと本人ほんにんかたっている。なお、総合そうごう格闘技かくとうぎアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラ使つか有名ゆうめいになったスピニングチョークおなわざとの誤解ごかいがあるがちがわざである。岡野おかのわざ相手あいてえりめている。

とくに「さき」という、相手あいてんでわざけさせ、そのちから利用りようして一本いっぽんるという理念りねん実践じっせんし、後進こうしんにも指導しどうしている。

引退いんたい

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25さいで“体力たいりょく限界げんかい”として突如とつじょ引退いんたい[4]したのちは、1970ねん昭和しょうわ45ねん)に正気しょうきじゅく現在げんざい流通経済大学りゅうつうけいざいだいがく柔道じゅうどう合宿がっしゅく施設しせつ)を設立せつりつした。のちに世界せかいチャンピオンとなる二宮にのみや和弘かずひろさわ寿志ひさしらをそだげた。1973ねん昭和しょうわ48ねん)のスイス・ローザンヌの世界せかい選手権せんしゅけんでは日本にっぽん代表だいひょうチームのコーチとして参加さんかし、6かいきゅうすべてのきんメダル獲得かくとく貢献こうけんした。1976ねん昭和しょうわ51ねん)のモントリオールオリンピックでは、日本にっぽん柔道じゅうどうかい悲願ひがん差別さべつきゅうきんメダルを上村うえむら春樹はるき獲得かくとくし、6かいきゅうきんメダル3ぎんおよどうかく1個いっことなるも、大会たいかい日本にっぽん代表だいひょうチームのコーチを更迭こうてつされた[3]。その慶應義塾大学けいおうぎじゅくだいがく1989ねん平成へいせい元年がんねん[元号げんごうよう検証けんしょう] - 1998ねん平成へいせい10ねん))、東京大学とうきょうだいがく1989ねん平成へいせい元年がんねん[元号げんごうよう検証けんしょう] - 2000ねん平成へいせい12ねん))、中央大学ちゅうおうだいがく(2014ねん平成へいせい26ねん) - 現在げんざい)の柔道じゅうどう師範しはん歴任れきにんし、流通経済大学りゅうつうけいざいだいがくスポーツ健康けんこう科学かがく教授きょうじゅ体育たいいく指導しどうセンター所長しょちょうおよ柔道じゅうどう部長ぶちょうとして後進こうしん指導しどうにあたり、流通経済大学りゅうつうけいざいだいがく名誉めいよ教授きょうじゅ就任しゅうにんした。

『バイタル柔道じゅうどう

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全日本ぜんにほんのコーチ時代じだい出版しゅっぱんした2さつの『バイタル柔道じゅうどう』は、日本にっぽん柔道じゅうどう階級かいきゅうないてばよしとし、わざ単純たんじゅんする傾向けいこういた危機ききかんから執筆しっぴつした。空手からてやキックボクシングかい撮影さつえいをしていたカメラマン松永まつなが秀夫ひでお起用きようし、ひとつのわざあたり5まいから場合ばあいによっては10まい以上いじょう連続れんぞく写真しゃしん掲載けいさいし、解説かいせつ簡単かんたんなものにとどめた。そうして多少たしょうがたくずれていてもわざをかける一連いちれんながれを重視じゅうしした[3]

おも戦績せんせき

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著書ちょしょ

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  • 『バイタル柔道じゅうどうとうわざへんにち貿出版しゅっぱんしゃ (初版しょはん1972ねん昭和しょうわ47ねん)) 佐藤さとう哲也てつや共著きょうちょ
    • 当時とうじ柔道じゅうどう教本きょうほんでは背負しょげといえばつくり、くずし、けの3つの動作どうさを1・2種類しゅるい解説かいせつする程度ていどであったが、本書ほんしょではたとえば背負しょげだけでも7種類しゅるい連続れんぞくわざふくめればけたことなる動作どうさ説明せつめいし、それらがすべ当時とうじ一線いっせんきゅう選手せんしゅ得意とくいわざであり、かつその選手せんしゅ自身じしん実演じつえんするという内容ないようで、とく一線いっせんきゅう選手せんしゅせっする機会きかいのない地方ちほう大学だいがく高校こうこう指導しどうしゃおよ部員ぶいん必読ひつどくしょになった。
  • 『バイタル柔道じゅうどう寝技ねわざへんにち貿出版しゅっぱんしゃ (初版しょはん1975ねん昭和しょうわ50ねん))
    • 実践じっせんにおいて寝技ねわざ一本いっぽんるための、使つかえる寝技ねわざをパターンべつ解説かいせつしている。とうわざへんつづき、寝技ねわざ名手めいしゅである佐藤さとうせん柏崎かしわざき克彦かつひこなど一線いっせんきゅう選手せんしゅしむことなくその得意とくいわざ披露ひろうしている。
  • 柔道じゅうどうチャンピオン―剛力ごうりきをねじふす』 ベストセラーズ(ワニブック) (初版しょはん1977ねん昭和しょうわ52ねん))
    • 中学ちゅうがく高校生こうこうせいきの内容ないようで、著者ちょしゃちから柔道じゅうどうとの出会であい、選手せんしゅ生活せいかつから現役げんえき引退いんたいまでの自伝じでん
  • 底力そこぢから人生じんせいひらけ』 三笠みかさ書房しょぼう  (初版しょはん1982ねん昭和しょうわ57ねん)) 翻訳ほんやく ランス・ラーガーちょ 
    • アメリカじん実業じつぎょう著者ちょしゃが、いかに柔道じゅうどう精神せいしんをビジネスおよ日常にちじょう生活せいかつかすかをいたものである。
  • 『バイタル柔道じゅうどう』(「得意とくいわざ」「指導しどう上達じょうたつほう」「柔道じゅうどうにかける情熱じょうねつぜんさんかん 1996ねん平成へいせい8ねん発刊はっかん

出典しゅってん脚注きゃくちゅう

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  1. ^ a b Biography and Olympic Results[リンク]Archived 2020ねん4がつ17にち, at the Wayback Machine.
  2. ^ イガグリくん - マンガ図書館としょかんZ外部がいぶリンク)
  3. ^ a b c d 西にししょ正道せいどう岡野おかのいさおの『バイタル柔道じゅうどう』はかくれたロングセラー」『Sports Graphic Number』2010ねん9がつ16にちごう文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、2010ねん雑誌ざっし26853・9・16、56-57ぺーじ
  4. ^ DVD激闘げきとうわだち 全日本ぜんにほん柔道じゅうどう選手権せんしゅけん大会たいかい-昭和しょうわへん-(ざい)講道館こうどうかん、(ざい)全日本ぜんにほん柔道じゅうどう連盟れんめい、2010ねん

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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