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斉藤さいとうひとし

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
斉藤さいとう ひとし
1988ねん
基本きほん情報じょうほう
ラテン文字もじ Hitoshi Saitoh
原語げんご表記ひょうき さいとう ひとし
くに 日本の旗 日本にっぽん
出生しゅっしょう 青森県の旗青森あおもりけん青森あおもり
生年月日せいねんがっぴ (1961-01-02) 1961ねん1がつ2にち
ぼつ年月日ねんがっぴ (2015-01-20) 2015ねん1がつ20日はつか(54さいぼつ
身長しんちょう 180cm
体重たいじゅう 143kg
選手せんしゅ情報じょうほう
階級かいきゅう 男子だんし95kgちょうきゅう
段位だんい きゅうだん[1]
引退いんたい 1989ねん
獲得かくとくメダル
日本の旗 日本にっぽん
柔道じゅうどう
オリンピック
きむ 1984 ロサンゼルス 95kgちょうきゅう
きむ 1988 ソウル 95kgちょうきゅう
世界せかい柔道じゅうどう選手権せんしゅけん
きむ 1983 モスクワ 差別さべつきゅう
ぎん 1985 ソウル 95kgちょうきゅう
アジア大会たいかい
きむ 1986 ソウル 95kgちょうきゅう
アジア柔道じゅうどう選手権せんしゅけん
きむ 1981 ジャカルタ 95kgちょうきゅう
きむ 1984 クウェート 95kgちょうきゅう
2022ねん1がつ7にち現在げんざい
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斉藤さいとう ひとし (さいとう ひとし、1961ねん1がつ2にち - 2015ねん1がつ20日はつか)は、青森あおもりけん青森あおもり出身しゅっしん日本にっぽん柔道じゅうどうロサンゼルスオリンピックソウルオリンピック柔道じゅうどう男子だんし95kgちょうきゅうきんメダリスト。国士舘大学こくしかんだいがく体育たいいく学部がくぶ教授きょうじゅどう大学だいがく柔道じゅうどう監督かんとく全日本ぜんにほん代表だいひょう監督かんとくつとめた。段位だんい講道館こうどうかん9だん[1]位階いかいしたがえ二人ふたり息子むすこがおり[2]二男じなんひとし藤立ふじたて親戚しんせき同郷どうきょう青森あおもり出身しゅっしんもとWBA世界せかいフライきゅうチャンピオンのレパードだまぐま

経歴けいれき

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幼少ようしょう時代じだい

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1961ねん青森あおもり筒井つついはちきょう(のちの筒井つつい2丁目ちょうめ)でまれ[3]1967ねん市立しりつ筒井つつい小学校しょうがっこう入学にゅうがく小学校しょうがっこう時代じだいにはすでからだおおきく、相撲すもうをやっていて同級生どうきゅうせいらからは“みずデブ”などとあだされていた[4]TBSけいテレビドラマ『柔道じゅうどう一直線いっちょくせん』にて、主人公しゅじんこう一条いちじょう直也なおや)が特訓とっくんしておおきな相手あいてばしたりあしピアノいたりするシーンをて、「柔道じゅうどうをやれば、出来できないこともやれるようになるのではないか」とおもったのがきっかけとなり、ちちに「ぬまで柔道じゅうどうをやるから」とちかって柔道じゅうどうってもらい、柔道じゅうどうはじ[5][注釈ちゅうしゃく 1]、アニメ『アニメドキュメント ミュンヘンへのみち』の影響えいきょうでいつしか自然しぜん五輪ごりん目指めざすようになっていったという[7]

1973ねんには市立しりつ筒井つつい中学校ちゅうがっこう入学にゅうがくして柔道じゅうどう所属しょぞく[3]つづ相撲すもうちで柔道じゅうどう稽古けいこはげむも、中学ちゅうがく3年生ねんせいになったとき当時とうじ顧問こもん他校たこう転任てんにんすることとなり柔道じゅうどう休部きゅうぶ危機ききに。わりの顧問こもんつけること条件じょうけん休部きゅうぶまぬかれた斉藤さいとうたちは、なかとしのようなかたち同校どうこう教諭きょうゆ吉田よしだ顧問こもんけてもらこととなった。以後いご柔道じゅうどう経験けいけん吉田よしだ用意よういしてくれた夏井なついのぼるきちちょの『柔道じゅうどう入門にゅうもん』が先生せんせいわりとなり、当時とうじ14,5にん部員ぶいんたちほんくろくなるまで交代こうたいまわしたという[4]。この結果けっか斉藤さいとうは3ねん青森あおもりけん中学校ちゅうがっこう体育たいいく大会たいかい夏季かき大会たいかい重量じゅうりょうきゅう優勝ゆうしょうたした。

上京じょうきょう国士舘こくしかん

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1976ねん筒井つつい中学校ちゅうがっこう卒業そつぎょうして東京とうきょう国士舘こくしかん高校こうこう入学にゅうがくした。高校こうこう2ねんなつきむわしはた大会たいかいでは3わったもののインターハイでは団体だんたい決勝けっしょうせん代表だいひょうせん出場しゅつじょうしてこれに快勝かいしょうし、国士舘こくしかん高校こうこう東京とうきょうぜいはつ優勝ゆうしょうこうみちびいた。よく78ねんきむわしはた大会たいかいでこそ優勝ゆうしょうにはおよばなかったものの、インターハイでは団体だんたい優勝ゆうしょうして2連覇れんぱ達成たっせいしたほか、個人こじんせんでも大宮おおみや工業こうぎょう高校こうこう今川いまがわ直明なおあきじゅん優勝ゆうしょうという成績せいせきのこしている[3]1979ねん国士舘こくしかん高校こうこうから国士舘大学こくしかんだいがく体育たいいく学部がくぶ進学しんがくすると、同年どうねん10がつ全日本ぜんにほん学生がくせい選手権せんしゅけんでは1年生ねんせいながらに首尾しゅびよくすすみ、決勝けっしょうせんのちなが斉藤さいとうまえちはだかることとなる当時とうじ全日本ぜんにほん3連覇れんぱちゅう山下やました泰裕やすひろ5だん東海大学とうかいだいがく4年生ねんせい)とはじめて対戦たいせん。ポイントこそうばえなかったもののかえわざ山下やましたをグラつかせるなど善戦ぜんせんし、最後さいごくずしじょう四方しほうかたおさまれてやぶれた。それでも翌日よくじつ新聞しんぶんではいちめんで、その活躍かつやくりから“ポスト山下やました”や“山下やました2せい”といった具合ぐあいてられたという[8]

斉藤さいとう大学だいがく時代じだい1979ねんから81ねんまで全日本ぜんにほん新人しんじん体重たいじゅうべつ選手権せんしゅけん重量じゅうりょうきゅうを3連覇れんぱし、4ねん1982ねんには全日本ぜんにほん学生がくせい体重たいじゅうべつ選手権せんしゅけん獲得かくとくするなど当時とうじ学生がくせい柔道じゅうどうかいにおいてあたまひときん存在そんざいであった。シニアでも全日本ぜんにほん選抜せんばつ体重たいじゅうべつ選手権せんしゅけんで81ねん優勝ゆうしょうし、檜舞台ひのきぶたい全日本ぜんにほん選手権せんしゅけんでは81ねん・82ねん連続れんぞくして出場しゅつじょうして、それぞれ遠藤えんどう純男すみお6だん松井まついいさお5だんやぶれたもののその全国ぜんこくらしめた。また、団体だんたいせんでは国士舘大学こくしかんだいがくチームの主軸しゅじくとして全日本ぜんにほん学生がくせい優勝ゆうしょう大会たいかいで81ねんと82ねん同大どうだいじゅん優勝ゆうしょうと3みちびいている。

2世界せかい王者おうじゃ

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1983ねん大学だいがく卒業そつぎょうすると体育たいいく学部がくぶ助手じょしゅとして国士舘こくしかんのこり、直後ちょくご4がつ全日本ぜんにほん選手権せんしゅけんでは3回戦かいせんまでなんなくがって準決勝じゅんけっしょうせんでは天理大学てんりだいがく学生がくせい正木まさき嘉美よしみ3だんとの巨漢きょかん対決たいけつに。はげしい攻防こうぼうすえ両者りょうしゃとも決定的けっていてきなポイントはかったが、だいそとかり大内おおうちかりからだ背負投せおいなげ果敢かかんつづけた斉藤さいとう判定はんていしょうて、全日本ぜんにほん3度目どめ出場しゅつじょう自身じしんはつとなる決勝けっしょう進出しんしゅつたした。大会たいかい7連覇れんぱねら山下やました泰裕やすひろ5だんとの決勝けっしょうせんでは、だいそとかりとうめる山下やましたたいして斉藤さいとう必死ひっしこたえながら応戦おうせんして互角ごかく試合しあい展開てんかいするも、試合しあい終了しゅうりょう間際まぎわ斉藤さいとうだいそとかり山下やましたしょうそとかりかえして場外じょうがいながらも斉藤さいとうしりもちをかせたのが材料ざいりょうとなり、はた判定はんていでは山下やましたはたが2ほんがって斉藤さいとうじゅん優勝ゆうしょう大会たいかいえている。 それでも10がつモスクワ開催かいさいされた世界せかい選手権せんしゅけん差別さべつきゅう出場しゅつじょうすると優勝ゆうしょうたし、おなじく重量じゅうりょうきゅうせいした山下やましたとも世界せかいチャンピオンの栄冠えいかん[3]よく84ねんには、4がつ全日本ぜんにほん選手権せんしゅけん松井まついいさお5だんとの準決勝じゅんけっしょうせん以外いがいあぶなげがり、大方おおかた予想よそうどおり8連覇れんぱねら山下やました5だん世界せかい選手権せんしゅけんしゃ同士どうし決勝けっしょうせんに。試合しあい前年ぜんねん同様どうよう一進一退いっしんいったい攻防こうぼうとなるも最後さいご山下やました優勢ゆうせいしょうとなり、斉藤さいとうにとっては前年ぜんねん雪辱せつじょくにはいたらずまたもじゅん優勝ゆうしょうあまんじた。8月のロサンゼルス五輪ごりん日本にっぽん山下やました差別さべつきゅう斉藤さいとう95kgちょうきゅう代表だいひょうえてのぞんだ。斉藤さいとうぜん大会たいかい王者おうじゃアンジェロ・パリジやぶって優勝ゆうしょう世界せかい選手権せんしゅけん同様どうよう山下やました2人ふたりそろってのきんメダル獲得かくとくした[3]。 ただし斉藤さいとうは、世界せかい王者おうじゃに2かがやきながら山下やましたてず全日本ぜんにほん優勝ゆうしょうしていないこのころ心境しんきょうを「五輪ごりんきんメダルをりながら自分じぶん本当ほんとう世界一せかいいちではない、というわだかま(わだかま)りがしんなかつねのこっていた」「最初さいしょあこがれ・目標もくひょう存在そんざいであった山下やましたさんをたおこと自分じぶん宿命しゅくめいだと、次第しだいかんじるようになっていった」と著書ちょしょなか述懐じゅっかいしている[8][注釈ちゅうしゃく 2]。とりわけ“山下やました2せい斉藤さいとう”というように、自分じぶん名前なまえばれるときかならず“山下やました”の名前なまえ形容けいようされることには非常ひじょう抵抗ていこうがあったようである[8]

山下やました最後さいご激闘げきとう

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打倒だとう山下やました執念しゅうねんやした斉藤さいとうは、全日本ぜんにほん決勝けっしょうが10ぶん長丁場ながちょうばであることまえスタミナ対策たいさくいそしみ、また山下やました得意とくいわざであるだいそとかり対策たいさくとしてだいそとかえし特訓とっくんんで、1985ねん4がつ全日本ぜんにほん選手権せんしゅけんのぞんだ[8]大会たいかいでは初戦しょせん百田ひゃくだ秀明ひであき5だん、2回戦かいせん栗原くりはら三千男みちお4だん、3回戦かいせん渡辺わたなべひろしみのり3だん、4回戦かいせんとなる準決勝じゅんけっしょうせんたきよし直樹なおき4だんくだして決勝けっしょうせん進出しんしゅつ[10]決勝けっしょうさんたび山下やました対戦たいせんすると、中盤ちゅうばん山下やました仕掛しかけただいそとかりのフェイントからのささえつりこみあし空振からぶりさせたところ作戦さくせん特訓とっくんしていただいそとかえしにいったが、山下やましたわざだいそとかりではなかったのでできず、[注釈ちゅうしゃく 3]びせだお背中せなかから山下やましたたお格好かっこうとなったが、このわざ審判しんぱんから有効ゆうこうわざなされず、その山下やました攻勢こうせい斉藤さいとうがややまもりの姿勢しせいはいって試合しあい終了しゅうりょうした。びせだおわざとみなされていないので一本いっぽんれないがげのスコアはることが可能かのうであった。佐藤さとうせん斉藤さいとう国士こくしかん高校こうこう時代じだい監督かんとくであった川野かわの一成いっせいやNHKはスコアがあたえられなかったのは山下やましたのスリップ、自爆じばくとみなされたためであろう、とした。終了しゅうりょう同時どうじ勝利しょうり確認かくにんした斉藤さいとうがガッツポーズを場面ばめんもあったが、中盤ちゅうばんされた斉藤さいとうかえわざがどのように判断はんだんされるか注目ちゅうもくされるなか結局けっきょく判定はんていおおきな材料ざいりょうとはならず、ぎゃく試合しあい終了しゅうりょう間際まぎわまで物凄ものすご形相ぎょうそうわざつづけた山下やましたはた判定はんてい優勢勝ゆうせいがちして大会たいかい9連覇れんぱ達成たっせい主審しゅしん斉藤さいとう優勢ゆうせいとしたが副審ふくしん2めい山下やました優勢ゆうせいとした。結果けっかとして、この大会たいかいを以って引退いんたいした山下やましたとは8対戦たいせんしながら斉藤さいとういちてずにわっている[11]。それでも最初さいしょ一本いっぽんまけだったのがその指導しどう注意ちゅうい僅差きんさと、次第しだい山下やましたとの実力じつりょくちぢまっていったのも事実じじつであった。

なお、斉藤さいとう試合しあい山下やましたのこした「本当ほんとうはロス五輪ごりんのち引退いんたいしようとおもっていた。でも、最後さいご斉藤さいとう挑戦ちょうせんけてから引退いんたいしようとかんがなおした」との言葉ことば感激かんげきし、斉藤さいとうは「こんなじん出会であえた自分じぶんしあわせ」「山下やましたさんがいたからこそ、それにかう努力どりょくけん鑚というプロセスもまれた」と感謝かんしゃ言葉ことばべている[8]

ソウルでの屈辱くつじょく

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山下やました引退いんたい柔道じゅうどうかいのトップにつと期待きたいされた。85ねん9月にソウル開催かいさいされた世界せかい選手権せんしゅけん出場しゅつじょうすると、決勝けっしょうせん地元じもと韓国かんこくちょうひろしとおる対戦たいせん。この試合しあいではちょう開始かいしすぐった姿勢しせいからうでくじけわきかた仕掛しかけて一挙いっきょからだてる[よう出典しゅってん]と、「バキッ」というおととも斉藤さいとうである左腕さわんひじ脱臼だっきゅうして試合しあい続行ぞっこう不可能ふかのうとなり、棄権きけんまけとなった。これにたいして日本にっぽん選手せんしゅだんは、ちょうほどこした姿勢しせいからからだてる[よう出典しゅってん]うでくじけわきかたIJF試合しあい審判しんぱん規定きてい28じょうしめされているように警告けいこく該当がいとうする反則はんそくわざなのではないかとIJFに質問しつもんじょう提出ていしゅつしたが結果けっかとして徒労とろうわり[12][13]斉藤さいとうにとって2度目どめ世界せかい選手権せんしゅけん最悪さいあく結果けっかとなった。これについて斉藤さいとうのちに「(山下やました引退いんたいし)これから自分じぶん時代じだいだ、という気負きおいがぎゃくしんすきんだ」「相手あいてわざかえことかんがえてけの柔道じゅうどうになっていたこと最大さいだい敗因はいいん」と述懐じゅっかいしている[14]

ソウルでのだい怪我けがのちうでほそくなり左手ひだりてちからはいらない状態じょうたいであった。それでも斉藤さいとう柔道じゅうどうかい背負しょわなければという使命しめいかんからうでにチューブをいて練習れんしゅうんだが[14]全国ぜんこく猛者もさつど全日本ぜんにほん選手権せんしゅけんでは手負ておいの状態じょうたいてるはずもなく、よく86ねん大会たいかい準決勝じゅんけっしょうせん藤原ふじわらたかしせい5だんに1-2の判定はんてい惜敗せきはいし3にとどまった。 それでも同年どうねん10がつアジア大会たいかい嘉納かのうはいでは優勝ゆうしょうたしている[3]1987ねんには全日本ぜんにほんはつ制覇せいは意気込いきごんで練習れんしゅうはげむも、大会たいかい直前ちょくぜんの3がつみぎひざねじ半月はんつきばん損傷そんしょう十字じゅうじ靭帯じんたいおよび外側そとがわ靭帯じんたいだんきれというだい怪我けがをしてほん大会たいかい出場しゅつじょうかなわず。手術しゅじゅつけて療養りょうようのため群馬ぐんまけん上牧かんまき温泉おんせん病院びょういん入院にゅういんしたが、自暴自棄じぼうじきになってリハビリにもちからはいらず「周囲しゅういからたら不快ふかい患者かんじゃだったのではないか」と斉藤さいとう[14]。 そんななか不自由ふじゆう老人ろうじん懸命けんめいうごかす姿すがた斉藤さいとうは「本来ほんらいならば世界せかいチャンピオンの自分じぶん周囲しゅうい患者かんじゃはげます立場たちばじゃないか」と猛省もうせいし、そのはもう一度いちどたたみうえことちかってリハビリにはげんだという[14]

ソウルできんメダル

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度重たびかさなるだい怪我けが限界げんかいせつささやかれた斉藤さいとうだったが、懸命けんめいのリハビリのすえふたたみちころもけると直後ちょくご3がつ全日本ぜんにほん選手権せんしゅけん東京とうきょう予選よせん優勝ゆうしょうし、ソウル五輪ごりんへの出場しゅつじょうけん不退転ふたいてん決意けつい1988ねん全日本ぜんにほん選手権せんしゅけん出場しゅつじょうした。大会たいかい3連覇れんぱねら正木まさき嘉美よしみ5だん前年ぜんねんじゅん優勝ゆうしょう元谷もとたに金次郎きんじろう5だん学生がくせいながら前年ぜんねん世界せかい選手権せんしゅけん差別さべつきゅう王者おうじゃとなった小川おがわ直也なおや4だんに、すでにベテランのいきとなっていた斉藤さいとうくわえた4にん激突げきとつ注目ちゅうもくあつまり、大会たいかい本戦ほんせんではまずこのうちのもとたに小川おがわが3回戦かいせん姿すがたした。必然ひつぜんてき決勝けっしょうせん正木まさき斉藤さいとうとのあらそいとなり、会場かいじょう日本武道館にほんぶどうかんおおいになかでの決勝けっしょう試合しあい両者りょうしゃはげしい攻防こうぼうとなったが、復活ふっかつせんでの優勝ゆうしょうねら斉藤さいとう終始しゅうし気迫きはくめを展開てんかいし、試合しあい時間じかんいちはいはた判定はんていでは文句もんくしに斉藤さいとう優勢ゆうせいしょうせんせられて悲願ひがん全日本ぜんにほんはつ制覇せいはげた[15]つづく6がつ全日本ぜんにほん選抜せんばつ体重たいじゅうべつ選手権せんしゅけんでも決勝けっしょうせん小川おがわ効果こうかやぶり、これらの活躍かつやくを以って斉藤さいとうソウル五輪ごりん重量じゅうりょうきゅう代表だいひょう選出せんしゅつされた[3]

ソウル五輪ごりん本番ほんばんでは斉藤さいとう出場しゅつじょうする重量じゅうりょうきゅうまでの階級かいきゅう日本にっぽん代表だいひょう選手せんしゅ全員ぜんいんきんメダルのがしており、東京とうきょう五輪ごりんよりつづ日本にっぽん柔道じゅうどうきんメダル連続れんぞく獲得かくとく記録きろく斉藤さいとうたくされるという状況じょうきょうであった。その大変たいへん重圧じゅうあつなか準々じゅんじゅん決勝けっしょうせんまでの3試合しあい得意とくい寝技ねわざ一本いっぽんしょうすると、準決勝じゅんけっしょうせんでは因縁いんねん相手あいてである韓国かんこくちょうひろしとおる注意ちゅういやぶった。そしてむかえた決勝けっしょうせんではひがしドイツヘンリー・ストール警告けいこくくだして五輪ごりん重量じゅうりょうきゅう2連覇れんぱ達成たっせい[16]大会たいかい柔道じゅうどう競技きょうぎ日本人にっぽんじん唯一ゆいいつかねメダリストとなってお家芸いえげい日本にっぽん威信いしん一人ひとりまもかたちとなった[17]。 なお、中学ちゅうがく時代じだい斉藤さいとう柔道じゅうどう部員ぶいん熱意ねついって柔道じゅうどう代理だいり顧問こもんつと休部きゅうぶ危機きき阻止そししてくれた吉田よしだ教諭きょうゆが、斉藤さいとうのためにソウルまで応援おうえんけてくれていたという[4]

指導しどうしゃとして

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1989ねん3がつ現役げんえき引退いんたい[3]以後いご1990ねん8がつから2000ねん3がつまで国士舘大学こくしかんだいがく柔道じゅうどう監督かんとくつとめた。就任しゅうにんさいしての斉藤さいとう目論もくろみは自身じしん現役げんえき時代じだい練習れんしゅうほう学生がくせいたちたたんできたげるつもりだったが、はん国士舘こくしかんなが低迷ていめいおちいってしまう[18]。 2ねんほどしたある大学だいがく後輩こうはい山内やまうち直人なおと当時とうじ旭化成あさひかせい所属しょぞく)から「先輩せんぱい偉大いだいぎでこわぎ」「先輩せんぱい学生がくせいのレベルにわせないと」とらされて、ふとかえったという[18]。すなわち、学生がくせいたち体力たいりょく体格たいかく性格せいかく1人ひとり1にんちがうにもかかわらず自分じぶんのやりかたけたので、学生がくせいたち萎縮いしゅくしている現状げんじょうけられた。以後いご体力たいりょくべつ練習れんしゅうメニューをれたほか、学生がくせいたちはな時間じかんながって、またときには一緒いっしょさけんでバカをやって、コミュニケーションをるよう心掛こころがけたという[18]徐々じょじょにこうした試行錯誤しこうさくご成果せいかあらわれて、1999ねんには学生がくせい団体だんたいせんで3連覇れんぱ達成たっせい。とりわけおし1人ひとりである鈴木すずきかつらおさむについては、深夜しんや3までマンツー・マンで指導しどうするほどまでにけていたようである[19]

一方いっぽうで、1992ねんより山下やました泰裕やすひろ監督かんとくひきいる全日本ぜんにほん代表だいひょう重量じゅうりょうきゅう担当たんとうコーチを28ねんつとめ、さらシドニー五輪ごりん大会たいかいから山下やました後任こうにんとして監督かんとく重責じゅうせきを28ねんつとめた。斉藤さいとういわく、「コーチのとき空気くうきと、監督かんとくというはしらうえったとき空気くうきでは全然ぜんぜんちがう」「くちではえないぐらいの重圧じゅうあつ」とのことアテネ五輪ごりん2008ねん北京ぺきん五輪ごりんでは男子だんし日本にっぽん代表だいひょう全体ぜんたいてきけっしてかんばしいとはえない結果けっかであったが、それでもおし鈴木すずき石井いしいとしきんメダルにみちび[3]、かつてみずからがきずいた重量じゅうりょうきゅう世界一せかいいち系譜けいふ死守ししゅした。 北京ぺきん五輪ごりん代表だいひょう監督かんとくして全日本ぜんにほん強化きょうかふく委員いいんちょうとなり、2012ねんには強化きょうか委員いいんちょう昇格しょうかく[20]。 またこのあいだ2007ねんには講道館こうどうかん鏡開かがみびらさいかたち演武えんぶおこない「オリンピックより緊張きんちょうした」とコメントをのこしている[3]

発病はつびょう死去しきょ

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2013ねんきもないきもかんがん判明はんめいし、以後いご闘病とうびょう生活せいかつはいりながら指導しどうたった[21]次第しだいにやせほそっていく姿すがただれにもあきらかであったが、それでも周囲しゅうい心配しんぱいけまいと、体調たいちょうすぐれず稽古けいこ試合しあいかおせないときには胃潰瘍いかいようインフルエンザひとし気丈きじょうはなしていたという。 1ねん以上いじょう闘病とうびょう生活せいかつのち2015ねん1がつ20日はつか256ふんきもないきもかんがんにともながんせい胸膜炎きょうまくえんのため、大阪おおさか東大阪ひがしおおさかうち市立しりつ総合そうごう病院びょういん死去しきょ[21][22][23]。54さいぼつ2がつ17にち日本国にっぽんこく政府せいふぼつさかのぼってしたがえじょ旭日きょくじつしょう綬章じゅしょう追贈ついぞう。また講道館こうどうかんからは柔道じゅうどうかいたいする功績こうせきたたきゅう段位だんいれっせられた[24]

前日ぜんじつつま斉藤さいとうに「今日きょうは(どもたちに)稽古けいこやすませる? どもと一緒いっしょにいる?」とこえをかけたが、斉藤さいとうちからしぼって「け」とった。これがどもたちにかけた最後さいご言葉ことばとなった[7]

斉藤さいとう生前せいぜん指導しどうのモットーとして「チャンピオンは勝者しょうしゃだが、チャンピオンだけが勝者しょうしゃではない、3~4ねん活動かつどうなか自分じぶんちから努力どりょくげたひともまた勝者しょうしゃ」「たとえレギュラーになれなくても、柔道じゅうどうをやっていてかったとおもえる修行しゅぎょう仕方しかたをしてもらいたい」と著書ちょしょなかべていた[18][25]

3月15にち東京とうきょうプリンスホテルにてもよおした「おわかれのかい」には1,300にん参列さんれつした。会場かいじょうには斉藤さいとう座右ざゆうめいだった「剛毅ごうき木訥ぼくとつ」の文字もじかかげられ、かつてのライバル・山下やました泰裕やすひろ全柔連ぜんじゅうれんふく会長かいちょうおし国士大こくしだい監督かんとく鈴木すずきかつらおさむ全日本ぜんにほん柔道じゅうどう連盟れんめい会長かいちょうそうおか正二しょうじ弔辞ちょうじべた[26][27]

殿堂でんどう

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2018ねん9がつには国際こくさい柔道じゅうどう連盟れんめい(IJF)殿堂でんどうりをたした[28]

戦績せんせき

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(無差別むさべつ以外いがいすべ重量じゅうりょうきゅうないしは95kgちょうきゅうでの成績せいせき)

※は、山下やました泰裕やすひろ決勝けっしょう対戦たいせん相手あいて通算つうさん8せん8はい

著書ちょしょ

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  • 『じょっぱり柔道じゅうどう』(1989ねん2がつ国書刊行会こくしょかんこうかいISBN 4-336-02293-3
  • 『スポーツグラフィック 柔道じゅうどう』(1997ねん6がつ成美せいびどう出版しゅっぱんISBN 4-415-08519-9
  • 常勝じょうしょうりょく』(2008ねん7がつ幻冬舎げんとうしゃISBN 4-344-01536-3

エピソード

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脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ のちに『近代きんだい柔道じゅうどう』の対談たいだんで『柔道じゅうどう一直線いっちょくせん主演しゅえん桜木さくらぎ健一けんいち対談たいだんしたこともあり、親交しんこうふか[6]
  2. ^ 1983ねん世界せかい選手権せんしゅけん優勝ゆうしょうしたが全日本ぜんにほん選手権せんしゅけんでは山下やましたに3やぶれて優勝ゆうしょうのがしていることから、「エベレストにはのぼったが、富士山ふじさんにはのぼっていない」とかたっている[9]
  3. ^ 斉藤さいとうれば、山下やましたささえつりこみあしたいし、だいそとかりたものと勘違かんちがいして(本人ほんにんなかでは)作戦さくせんどおりのびせだおしにってた、というのが実情じつじょうである[8]

出典しゅってん

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  1. ^ a b 斉藤さいとうひとし「おわかれのかい」に1300にん. 日刊にっかんスポーツ. (2015ねん3がつ16にち). https://www.nikkansports.com/sports/news/1447433.html 2022ねん9がつ30にち閲覧えつらん 
  2. ^ 19さい斉藤さいとうがオール一本いっぽんV 柔道じゅうどうGS、増山ますやま優勝ゆうしょう”. 産経さんけいニュース (2021ねん11月8にち). 2021ねん11月8にち閲覧えつらん
  3. ^ a b c d e f g h i j k 追悼ついとう 斉藤さいとうひとし全日本ぜんにほん強化きょうか委員いいんちょう近代きんだい柔道じゅうどう、2015ねん3がつごう ベースボールマガジンしゃ
  4. ^ a b c 斉藤さいとうひとし (1997ねん6がつ). “コラム1 -ものをわない柔道じゅうどう教師きょうし-”. スポーツグラフィック 柔道じゅうどう、26ぺーじ (成美せいびどう出版しゅっぱん) 
  5. ^ Challenger 斉藤さいとうひとし DODAチャレンジ
  6. ^ 『パンダがまちにやってくる』毎日放送まいにちほうそうarchive 4 Aug 2012 06:03:25
  7. ^ a b 斉藤さいとうひとしさん息子むすこ最後さいご言葉ことば稽古けいこけ」”. 日刊にっかんスポーツ (日刊スポにっかんすぽツ新聞社つしんぶんしゃ). (2015ねん1がつ21にち). https://www.nikkansports.com/sports/news/p-sp-tp0-20150121-1424338.html 
  8. ^ a b c d e f 斉藤さいとうひとし (1997ねん6がつ). “コラム2 -打倒だとう山下やましたえた日々ひび!-”. スポーツグラフィック 柔道じゅうどう、66ぺーじ (成美せいびどう出版しゅっぱん) 
  9. ^ 毎日新聞まいにちしんぶん2014ねん3がつ9にち
  10. ^ 全日本ぜんにほん柔道じゅうどう選手権せんしゅけん大会たいかい記録きろく昭和しょうわ23ねん平成へいせい20ねん)”. 激闘げきとうわだち -全日本ぜんにほん柔道じゅうどう選手権せんしゅけん大会たいかい60ねんあゆみ-、154ぺーじ (財団ざいだん法人ほうじん講道館こうどうかん財団ざいだん法人ほうじん全日本ぜんにほん柔道じゅうどう連盟れんめい). (2009ねん4がつ29にち) 
  11. ^ 昭和しょうわ60ねん全日本ぜんにほん選手権せんしゅけん大会たいかい近代きんだい柔道じゅうどう ベースボールマガジンしゃ、1985ねん6がつごう
  12. ^ だい14かい世界せかい選手権せんしゅけん特集とくしゅう近代きんだい柔道じゅうどう ベースボールマガジンしゃ、1985ねん11がつごう
  13. ^ Cho Yong-Chul's illegal waki-gatame
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外部がいぶリンク

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