(Translated by https://www.hiragana.jp/)
小泉信吉 - Wikipedia コンテンツにスキップ

小泉こいずみ信吉のぶよし

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

小泉こいずみ信吉のぶよし

  1. 小泉こいずみ信吉のぶよし(こいずみ のぶきち、1849ねん2がつ25にちよしみひさし2ねん2がつ3にち) - 1894ねん明治めいじ27ねん12月8にち慶應義塾けいおうぎじゅくちょう横浜よこはま正金しょうきん銀行ぎんこう支配人しはいにん小泉こいずみ信三しんぞうちち
  2. 小泉こいずみ信吉のぶよし(こいずみ しんきち、1918ねん大正たいしょう7ねん1がつ17にち - 1942ねん昭和しょうわ17ねん10月22にち小泉こいずみ信三しんぞう長男ちょうなん。1.のまご海軍かいぐん主計しゅけい大尉たいいだい世界せかい大戦たいせんちゅう南太平洋みなみたいへいよう方面ほうめん戦死せんし墓所はかしょ多磨たま霊園れいえん

以下いか、1.について詳述しょうじゅつ


こいずみ のぶきち

小泉こいずみ 信吉のぶよし
生誕せいたん 1849ねん2がつ25にち
日本の旗 紀伊きいこくめいくさぐん宮村みやむら
げん和歌山わかやまけん和歌山わかやま
死没しぼつ (1894-12-08) 1894ねん12月8にち(45さいぼつ
出身しゅっしんこう 慶應義塾けいおうぎじゅく
職業しょくぎょう 慶應義塾けいおうぎじゅくちょう
横浜よこはま正金しょうきん銀行ぎんこう支配人しはいにん
配偶はいぐうしゃ 小泉こいずみ千賀ちか
子供こども 小泉こいずみ信三しんぞう
テンプレートを表示ひょうじ

小泉こいずみ 信吉のぶよし(こいずみ のぶきち、1849ねん2がつ25にちよしみひさし2ねん2がつ3にち) - 1894ねん明治めいじ27ねん12月8にち)は、慶應義塾けいおうぎじゅくちょう横浜よこはま正金しょうきん銀行ぎんこう支配人しはいにん小泉こいずみ信三しんぞうちち

人物じんぶつ

[編集へんしゅう]

紀伊きいこく紀州きしゅう藩士はんし紀州きしゅう徳川とくがわ侍医じいで250せき小泉こいずみ文庫ぶんことして紀伊きいこくめいくさぐんみやむら現在げんざい和歌山わかやま)にまれる。はは板谷いたや

たけよりもぶんにすぐれ、江戸えど1866ねん慶応けいおう2ねん)に当時とうじ鉄砲てっぽうしゅうにあった福澤ふくさわ諭吉ゆきちひらいてあいだもない蘭学らんがくじゅく(のちの慶應義塾けいおうぎじゅく)にはいり、洋学ようがくまなんだ[1]紀州きしゅうはんから慶應義塾けいおうぎじゅくへのはん留学生りゅうがくせい当時とうじおおたが、とく小泉こいずみ紀州きしゅうでも神童しんどうわれ、戊辰戦争ぼしんせんそうはじまるとおおくの藩士はんし帰郷ききょうするなか福澤ふくさわ諭吉ゆきち紀州きしゅうはん執政しっせいたのんで、江戸えどまることができた。

ながじて大阪おおさかしゃみつ学校がっこう大学南だいがくみなみこう開成かいせい学校がっこう教授きょうじゅ就任しゅうにん1874ねん明治めいじ7ねん)、紀州きしゅう徳川とくがわ援助えんじょけて、英国えいこくロンドン留学りゅうがくした[1]1878ねん明治めいじ11ねん)に帰朝きちょう井上いのうえかおる抜擢ばってきされて、大蔵省おおくらしょうそうにん御用ごようかけとなった[1]英国えいこくにおける生命せいめい保険ほけん事業じぎょうについて研究けんきゅう。1880ねん明治めいじ13ねん横浜よこはま正金しょうきん銀行ぎんこう設立せつりつされると、ふく頭取とうどりとなり経営けいえいたずさわる[1]。ロンドン支店してん設立せつりつのためにわたりすぐるしたのち[1]1880ねん明治めいじ15ねん)に大蔵省おおくらしょうもど[1]そうにん御用ごようかけ主税しゅぜいかん歴任れきにんする。また、1890ねん明治めいじ23ねん日本銀行にっぽんぎんこう取締役とりしまりやく就任しゅうにん日銀にちぎんだいだい総裁そうさい富田とみた鉄之助てつのすけが、横浜よこはま正金しょうきん銀行ぎんこう経営けいえい問題もんだいとき大蔵おおくら大臣だいじん松方まつかた正義まさよし意見いけんがあわずに辞職じしょくしたとき、松方まつかた大蔵省おおくらしょうから藤井ふじい佳久よしひさ長崎ながさきつよし一郎いちろう帝国ていこく海軍かいぐんから片岡かたおか直輝なおき外務省がいむしょうから河上かわかみ謹一きんいちつるはら定吉さだきち民間みんかんからは小泉こいずみ信吉のぶよし高橋たかはし是清これきよ山本やまもと達雄たつお日銀にちぎんれた。1892ねん明治めいじ25ねん)には横浜よこはま正金しょうきん銀行ぎんこう本店ほんてん支配人しはいにん就任しゅうにんした。

このあいだ交詢社こうじゅんしゃ設立せつりつ発起人ほっきにんとなり、1887ねん明治めいじ20ねん)に慶應義塾けいおうぎじゅく評議ひょうぎいんだいいちかい選挙せんきょ当選とうせんし、慶應義塾けいおうぎじゅくちょうとなる[1]。しかし、採点さいてんほう改正かいせいから普通ふつう生徒せいと同盟どうめい休校きゅうこうこり[1]福澤ふくさわとの大学だいがく運営うんえいめぐ齟齬そごしょうじたため[1]、わずか2ねん辞任じにんした[1]当時とうじおしやなぎ荘太そうたろう三井みつい銀行ぎんこう重役じゅうやく第一火災海上保険だいいちかさいかいじょうほけん会社かいしゃ社長しゃちょう)などがいた。辞任じにんの1891ねん明治めいじ24ねん)に横浜よこはま正金しょうきん銀行ぎんこう本店ほんてん支店してんちょう就任しゅうにん[1]

1894ねん明治めいじ27ねん)、腹膜炎ふくまくえんにより46さい死去しきょした[1]墓所はかしょ多磨たま霊園れいえん

福澤ふくさわ諭吉ゆきちからの信頼しんらいあつく、福澤ふくさわ小泉こいずみ伊藤いとう博文ひろぶみ井上いのうえかおるから要請ようせいされた政府せいふ新聞しんぶん公布こうふ日誌にっし発行はっこうけたことを極秘ごくひうらけていた。また、福澤ふくさわ小泉こいずみを『わが慶應義塾けいおうぎじゅく就学しゅうがくせい前後ぜんごいちまんちかきそのなかに、のうほんじゅく精神せいしん代表だいひょうして一般いっぱん模範もはんたるべき人物じんぶつは、きみを措てほかはなはおおからず』とひょうした[1]紀州きしゅうゆかりの徳川とくがわよりゆきりん山口やまぐち熊野くまの鳥山とりやまあきら和田わだ義郎よしお鎌田かまた栄吉えいきち吉川よしかわ泰次郎たいじろう滝本たきもと誠一せいいち松山まつやまとうあん山東さんとうただしとぎ三宅みやけ米吉よねきち下村しもむら房次ふさじろう森下もりしたいわくすのきせき直彦なおひこともに、和歌山わかやま学生がくせいかい結成けっせいして在京ざいきょう特別とくべつ会員かいいんとなった。

家族かぞく

[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう

[編集へんしゅう]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m 小泉こいずみ信吉のぶよし福澤ふくさわ諭吉ゆきちをめぐる人々ひとびと三田みた評論ひょうろんONLINE”. 三田みた評論ひょうろん. 2022ねん6がつ22にち閲覧えつらん

関連かんれん項目こうもく

[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]