きょずみはん

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きょずみはん
岐城はん
くに 朝鮮ちょうせん
領地りょうち きょずみ
いえ はん

きょずみはん(コジェバンし、朝鮮ちょうせん: 거제반씨)は、朝鮮ちょうせん氏族しぞくひとつ。ほんぬき慶尚南道けいしょうなんどうきょずみである。2015ねん調査ちょうさでは、5,183にんである(どう系列けいれつ岐城はんは7,631にん[1]

起源きげん[編集へんしゅう]

はんは、しゅうぶんおう息子むすこであり、たけおうおとうとで、たけおう時代じだいいん征伐せいばつに畢公にふうじらたひめだかである。なりおうかんおうまでさんだい補佐ほさし、ふとしとなり、ひめだか息子むすこはんふうじられ、子孫しそんはん名乗なのった。はんは、春秋しゅんじゅう時代じだいのち儒学じゅがくしゃ宰相さいしょうおお輩出はいしゅつした。

歴史れきし[編集へんしゅう]

始祖しそはんみなみそうむね時代じだい文科ぶんか首席しゅせき合格ごうかく翰林かんりん学士がくして吏部尚書しょうしょつとめた。はんは、もと征伐せいばつ懇願こんがんしたが、賈似どうかれきらってもとひそかに使節しせつおく殺害さつがいするよう仕向しむけた。もとはん阜のざいしみ、臣下しんかにしようとしたが、はん阜は拒否きょひした。そのころちゅうれつおう人質ひとじちとして、もとにおり、かれたか評価ひょうか家臣かしんかねかたけいこううららくようたのんだ。そして、かれのちただしれつおう降嫁こうかされたそうきよしおうきさき師父しふとしてこううららにやってた。元宗もとむねちゅうれつおう時代じだいせいどう文学ぶんがくつとめ、また、かねかたけいしたがい、もとにも参戦さんせんした。さむらいちゅう、岐城府じょうふいんくんふうぜられた[2]。岐城は、きょずみ旧名きゅうめいである。はん阜は65さい官職かんしょく辞職じしょくし、きょずみくだ精舍しょうじゃ余生よせいえた。始祖しそはん阜の墓地ぼちは、慶尚南道けいしょうなんどうきょずみ国土こくどにある。

2せい次男じなんはんゆうこうれい尚書しょうしょ、3さいはんひさしげんちゅう粛王時代じだいみつ直上ちょくじょうしょつとめた。

4せいまごはんえきあつし禑王時代じだい門下もんかひょうみぎさむらいちゅうつとめてちゅうじょうおおやけぼうした。はんえきじゅん息子むすこはんふくかいおう門下もんか賛成さんせいごととなり、推忠あきらぶし翊戴いのち輔理功臣こうしんごうけた[3]

6せいまごはんけん裴克れん婿むことして高麗こうらいまつ朝鮮ちょうせんはじめに吏曹ばんしょれい曹判しょひだり賛成さんせいなどを歴任れきにんし、えいたいらくんふうぜられた。

9せいまごはんたすくとおるは1474ねん文科ぶんか合格ごうかくして、だいつかさけんつとめ、ちゅうむねはんせい参加さんかし、靖国やすくに功臣こうしんとして岐城くんふうぜられた。

分派ぶんぱ[編集へんしゅう]

7代目だいめから分派ぶんぱ開始かいしされた。長男ちょうなんはん濬がぐんもりつとめ、きょずみとなり、はん濡は察訪をつとめ醴泉、吏曹参議さんぎおくしょくされたはん珽が淸道きよみちとなった。

行列ぎょうれつ[編集へんしゅう]

せいまご 32 33 34 35 36 37 38 39 40 41 42 43 44 45 46 47
行列ぎょうれつ[4] 렬(れつ 재( 석(すず 문(汶) 휴(きゅう 형(炯) 배(つちかえ 금(にしき 순(あつし 수(しゅう 영(さかえ 규(奎) 용(鎔) 원(沅) 권(けん 호(ひろし

しゅうせいむら[編集へんしゅう]

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

過去かこ及第きゅうだいしゃ[編集へんしゅう]

きょずみはん光州こうしゅうはんは、朝鮮ちょうせん時代じだい文科ぶんか及第きゅうだいしゃ5にんたけ及第きゅうだいしゃ5にん輩出はいしゅつした。[5]

文科ぶんか

はん悌老 はんたすくとおる はんせき はんじゅん沂 はんいんまもる

たけ

はんけいぶく はんかんうみ はんいたるうみ はん渾 はんゆめせつ

なまいんためし

はんたすくけい はんひとし はんじゅん

進士しんしためし

はんさかえ はんたすくとおる はんひろし はんあきらさかえ

人口じんこう[編集へんしゅう]

  • 2000ねん10,063にん
  • 2015ねん岐城はん7,631めい+きょずみはん5,183にん= 12,814にん

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]