(Translated by https://www.hiragana.jp/)
日の出 (雑誌) - Wikipedia コンテンツにスキップ

(雑誌ざっし)

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

(ひので)は、新潮社しんちょうしゃ発行はっこうした大衆たいしゅう雑誌ざっし。1932ねん昭和しょうわ7ねん創刊そうかん。1945ねん昭和しょうわ20ねん)12月に廃刊はいかん

歴史れきし

[編集へんしゅう]

新潮社しんちょうしゃでは文学ぶんがく投稿とうこう雑誌ざっし文章ぶんしょう倶楽部くらぶ』、それにわって『新潮しんちょう』を大衆たいしゅうてきにしたような『文学ぶんがく時代じだい』を1929ねんから刊行かんこうしていた。さらにこれにえて、講談社こうだんしゃ大衆たいしゅう雑誌ざっしキング』のだい成功せいこうならい、経営けいえい向上こうじょうのために同様どうよう雑誌ざっし発行はっこう目論もくろんだ。新潮社しんちょうしゃ顧問こもんをしていた加藤かとう武雄たけおが、『キング』創刊そうかんたずさわっていた編集へんしゅうしゃ広瀬ひろせあきら太郎たろう西にし文夫ふみおき、1932ねん8がつ創刊そうかんごう発行はっこうまき逸馬いつま吉川よしかわ英治えいじ中村なかむら武羅夫むらおなどの連載れんさい小説しょうせつ掲載けいさい。しかし創刊そうかんごうは30まんって半分はんぶん返品へんぴんという状況じょうきょうだった。

当初とうしょは『キング』に対抗たいこうするために付録ふろくけていたが(33ねん10がつごうの「世界せかいかがや日本にっぽんえらさはここだ」など)、これにより赤字あかじ累積るいせきし、2ねん付録ふろく廃止はいししたが発行はっこう部数ぶすうちなかった。1934ねんには、1931ねん新潮社しんちょうしゃ入社にゅうしゃして『日本にっぽん文学ぶんがくだい辞典じてん』の編集へんしゅうたずさわっていて、のちに直木賞なおきしょう作家さっかとなる和田わだ芳恵よしえ編集へんしゅうはいる(1941ねん退社たいしゃ)。

1935ねんには角田つのだ喜久雄きくお原稿げんこう「妖棋でん」を連載れんさい角田つのだ一躍いちやく流行りゅうこう作家さっかとなった。1935ねんまき逸馬いつま(=長谷川はせがわうみ太郎たろう)「都会とかい怪異かいい ななさんふん」を掲載けいさい予定よていだったが、原稿げんこう途中とちゅうまき急死きゅうしし、のこ部分ぶぶんはあらかじめすじいていた和田わだ芳恵よしえのこりをして掲載けいさいされた。また長谷川はせがわしんにはかつてたのんだ原稿げんこうかえしたことから関係かんけいわるくなっていたが、和田わだまき葬式そうしき骨折ほねおりをしたことを新妻にいづまふといからいていたことで、短編たんぺんたびからすとま蒲団ふとん」の原稿げんこうをもらい、以後いご執筆しっぴつするようになった。

1936ねん海音寺かいおんじ潮五郎ちょうごろう直木賞なおきしょう受賞じゅしょうさく武道ぶどう伝来でんらい」を掲載けいさい、また山岡やまおか荘八しょうはちおとここい掲載けいさいつづいて「浅草あさくさあめ」も好評こうひょうだったため、「りく波止場はとば連載れんさいとなった。山岡やまおか紹介しょうかい梶野かじのとくさんの「おれ水兵すいへい」などを掲載けいさい。1937ねん久米くめ正雄まさお芥川あくたがわ龍之介りゅうのすけ自殺じさつれるものを予定よていだったが、どうしてもけず、山岡やまおかわりに「折鶴おりづる」をいて久米くめ名義めいぎ掲載けいさいした。また1937ねんからは純文学じゅんぶんがく作家さっか作品さくひん毎号まいごうせることになり、新年しんねんごうでは尾崎おざき士郎しろう吹雪ふぶきあさ」をせた。5月ごうでは藤沢ふじさわ桓夫「佯わらぬおんな」、6がつごうでは武田たけだ麟太郎りんたろう葉桜はざくら」。はやし芙美子ふみこもかつて「放浪ほうろう」の原稿げんこう新潮社しんちょうしゃんでかえされて以来いらいいてなかったが、説得せっとくして9がつごうに「大阪おおさかかり」を掲載けいさいはやしは、わかひとけの「青春せいしゅん叢書そうしょ」の企画きかく提案ていあんし、これを1940ねん新潮社しんちょうしゃ実現じつげんして石坂いしざか洋次郎ようじろうなどが執筆しっぴつしたが、陸軍りくぐん情報じょうほうきょく鈴木すずき少佐しょうさがこれの新聞しんぶん広告こうこくいかり、叢書そうしょ中止ちゅうしとなった。

浪曲ろうきょく作詞さくしをしていた正岡まさおかひろし小島こじま政二郎まさじろう弟子でしになって小説しょうせつこうとしていたが、1940ねん古川緑波ふるかわろっぱ公演こうえん予定よていの「まどか太郎たろう馬車ばしゃ」を掲載けいさいした。1940ねんには時局じきょく反映はんえいして、獅子しし文六ぶんろくにじ工場こうじょう」、竹田たけだ敏彦としひこわか未亡人みぼうじん」などが連載れんさいされた。

埋草うめくさ記事きじ常連じょうれんには高橋たかはしてつ永見ながみ七郎しちろう大久保おおくぼ康雄やすお八幡はちまん良一りょういちなどがいた。八幡やはた柔道じゅうどう石黒いしぐろ敬七けいしちについていた「欧州おうしゅう武勇ぶゆうでん」に登場とうじょうする怪力かいりきのエジプトじんを、名前なまえわすれておもいつきでアブダラ・ハンデーといたが、のちにこれが本当ほんとう名前なまえのように流布るふされた。八幡やはたはその編集へんしゅうはいり、1941ねん退社たいしゃして日本にっぽん放送ほうそう出版しゅっぱん協会きょうかい移籍いせきした。

新潮社しんちょうしゃでは、1945ねん昭和しょうわ20ねん)11月に『新潮しんちょう』を復刊ふっかんし、わるように12月に『』は廃刊はいかんとなる。かつて『編集へんしゅうしゃだった和田わだ芳恵よしえは1947ねん中間ちゅうかん小説しょうせつ嚆矢こうしわれる『日本にっぽん小説しょうせつ』を創刊そうかんし、新潮社しんちょうしゃでも同年どうねんに『小説しょうせつ新潮しんちょう』を創刊そうかんした。

連載れんさい小説しょうせつ

[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]