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はやし正義まさよし (海軍かいぐん軍人ぐんじん)

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
はやし 正義まさよし
生誕せいたん 1906ねん2がつ14にち
日本の旗 日本にっぽん 熊本くまもとけん飽託ほうたくぐん池上いけがみむら
死没しぼつ (1980-09-26) 1980ねん9月26にち(74さいぼつ
所属しょぞく組織そしき  大日本帝国だいにっぽんていこく海軍かいぐん
ぐんれき 1929ねん - 1933ねん
最終さいしゅう階級かいきゅう 海軍かいぐん中尉ちゅうい
除隊じょたい かそけあらわじゅく塾長じゅくちょう
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はやし 正義まさよし(はやし まさよし、1906ねん明治めいじ39ねん2がつ14にち - 1980ねん昭和しょうわ55ねん9月26にち)は、日本にっぽん海軍かいぐん軍人ぐんじんいち事件じけん連座れんざし、反乱はんらん予備よびざい有罪ゆうざいとなった海軍かいぐん中尉ちゅういである。かそけあらわじゅく塾長じゅくちょう

生涯しょうがい

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熊本くまもとけん出身しゅっしん祖父そふ横井よこい小楠しょうなん親交しんこうがあった人物じんぶつ[1]ちち刀工とうこうははかみ風連ふうれんかかわった人物じんぶつむすめである。島田しまだすうゆう上海しゃんはい日報にっぽう主筆しゅひつ)は叔父おじ[2]つまいち事件じけん首相しゅしょう官邸かんてい襲撃しゅうげきした海軍かいぐん士官しかん一人ひとり村山むらやまかくこれめい

略歴りゃくれき

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済々黌せいせいこう中学ちゅうがく卒業そつぎょう福村ふくむら利明としあき同級生どうきゅうせいで、刎頚ふんけいなかであった[3]。2ねん浪人ろうにん海軍兵学校かいぐんへいがっこう56入校にゅうこう高橋たかはし赫一田辺たなべわたるはちさん上作じょうさくおっとのほか、 古賀こが清志きよしいち事件じけんかかわる3めい同期生どうきせいである。卒業そつぎょう席次せきじは111ちゅう107ばん[4]遠洋えんよう航海こうかいから帰国きこくじゅつ講習こうしゅうちゅう健康けんこうがいしている。砲術ほうじゅつ学校がっこう在校ざいこうちゅうに、福村ふくむらとともに王師おうしかい加盟かめいした[5]。このかい海軍かいぐん革新かくしん行動こうどう組織そしきとしては最初さいしょのものである[6]じゅう巡洋艦じゅんようかん足柄あしがら乗組のりくみとなり、1929ねん昭和しょうわ4ねん)12月少尉しょうい任官にんかん健康けんこう回復かいふくせず、佐世保させぼ鎮守ちんじゅつけとなり静養せいようした。半年はんとしあまり佐世保させぼ海兵かいへいだんながうけたまわいのち服務ふくむとして復帰ふっきし、衛兵えいへいふく司令しれいつとめる。

古武士こぶしごと人物じんぶつあつまるところと期待きたいしたへい学校がっこうであったが、はやしには期待きたいはずれであった。大陸たいりく浪人ろうにんこころざすが教官きょうかん説得せっとくされおもいとどまる。どう県人けんじんかたらい、「同心どうしんかい」 をつくりへい学校がっこう教育きょういくなおしをはかろうとしたが有耶無耶うやむやわる。この活動かつどうなか藤井ふじいひとしとつながりができた[7]

1931ねん昭和しょうわ6ねん)のじゅうがつ事件じけんでは藤井ふじい三上みかみたくらと協議きょうぎ抜刀ばっとうたいとして参加さんかめたが、陸軍りくぐん関係かんけいしゃ不信ふしんいだ離脱りだつした。12月、中尉ちゅうい進級しんきゅう国家こっか革新かくしん目指めざ意思いしわりはく、井上いのうえ日召にっしょう藤井ふじい計画けいかくした1932ねん昭和しょうわ7ねん)2がつ決起けっき参加さんかめ、使用しよう予定よてい手榴弾しゅりゅうだんあずかり自室じしつかくしていた。決起けっき間近まぢか同年どうねん1がつだいいち上海しゃんはい事変じへん生起せいきし、同志どうしおおくは出征しゅっせいはやしは「事変じへん結末けつまつがつき、国民こくみん国内こくない関心かんしんけたときのほう影響えいきょうおおきい」と藤井ふじい説得せっとく[8]藤井ふじい決起けっき延期えんき同意どういした。しかし民間みんかん同志どうしであった井上いのうえらは単独たんどく決起けっき血盟けつめいだん事件じけん発生はっせいした。藤井ふじい上海しゃんはい事変じへん搭乗とうじょう撃墜げきついされ戦死せんしし、はやし藤井ふじいのノートを処分しょぶん証拠しょうこ隠滅いんめつはかっている[9]

血盟けつめいだん事件じけんつづなかはやし海軍かいぐん法務ほうむ関係かんけいしゃ調査ちょうさけたが、藤井ふじいらとの関係かんけい否定ひていさんじょう古賀こがらと決起けっきはかる。5月15にち決起けっき予定よていとしていたが、 陸軍りくぐん協力きょうりょく期待きたいできないとわかり、はやし延期えんき主張しゅちょうした。はやし佐世保させぼ三上みかみ古賀こが東京とうきょう方面ほうめんにあり連絡れんらく電報でんぽうによっていたが、古賀こが返事へんじは「てぬ」というものであった。はやし大庭おおば春雄はるお派遣はけん計画けいかく延期えんきするよう説得せっとくはかる。しかし大庭おおばゆるされた休暇きゅうかは16にちからで、古賀こが三上みかみらは15にちいぬやしなえあつし首相しゅしょう射殺しゃさつした(いち事件じけん)。

はやし保護ほご検束けんそくされ、東京とうきょう軍法ぐんぽう会議かいぎ高須たかす四郎しろう裁判さいばんちょう)に起訴きそされる。同期生どうきせい浅水あさみず鉄男てつお特別とくべつ弁護人べんごにん清瀬きよせ一郎いちろうらの弁護べんごおこなわれ、禁固きんこ6ねん求刑きゅうけいたい判決はんけつ懲役ちょうえき2ねん執行しっこう猶予ゆうよ5ねんとなり、はやししつかんした。これによりしたがえなな返上へんじょうめいじられ[10]大礼たいれい記念きねんあきら昭和しょうわ褫奪ちだつされた[11]

裁判さいばん世話せわになった頭山とうやまみつる田中たなかひかりあきららにれいべてまわり、また艦隊かんたい加藤かとう寛治かんじ面会めんかいしている。このさい田中たなかは「今後こんごやるとき師団しだんうごかせ」とかた[12]、また加藤かとうは「どくでならぬ。ぼくがやらねばならぬことであった」とかたった[13]

真崎まさき勝次かつじ当時とうじ大佐たいさ)が就職しゅうしょく世話せわしようとしたがことわ[14]浪人ろうにん生活せいかつおくった。海軍かいぐんしょうはやし更生こうせい資金しきんとして500えんわたしている[13]伊東いとう亀城かめしろ同志どうし関係かんけいたもちつつ小林こばやし省三郎しょうさぶろう山下やました知彦ともひこだいきしよりゆきこのみらとしたしい関係かんけいった。古賀こが依頼いらい古賀こがとの結婚けっこん志願しがんした女性じょせいうため秋田あきたけんおもむいている最中さいちゅう二・二六事件ににろくじけん勃発ぼっぱつ急遽きゅうきょ帰京ききょうしたが短期間たんきかん警察けいさつ留置りゅうちされている。1937ねん昭和しょうわ7ねん)12月に厚木あつぎかそけあらわじゅく設立せつりつ青年せいねん指導しどう戦後せんご活動かつどうつづけた。

いち事件じけん関連かんれん年譜ねんぷ

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  • 1925ねん大正たいしょう14ねん)4がつ海軍兵学校かいぐんへいがっこう入校にゅうこう
  • 1927ねん昭和しょうわ2ねん) - 同心どうしんかい結成けっせい
  • 1928ねん昭和しょうわ3ねん) – 海兵かいへい卒業そつぎょう王師おうしかい参加さんか
  • 1930ねん昭和しょうわ5ねん) – 藤井ふじい憂国ゆうこく慨言」を配布はいふ
  • 1931ねん昭和しょうわ6ねん)5がつさんじょう井上いのうえ日召にっしょう面識めんしき
    • 9月 – じゅうがつ事件じけんへの参加さんか決意けつい
  • 1932ねん昭和しょうわ7ねん
    • 1がつ28にち井上いのうえ日召にっしょうらとの決起けっき藤井ふじい協議きょうぎし、計画けいかく延期えんき一致いっち
    • 2がつ5にち藤井ふじい戦死せんし
    • 2がつ9にち小沼おぬまただし井上いのうえ準之助じゅんのすけ射殺しゃさつ
    • 3月5にち菱沼ひしぬま五郎ごろうだん琢磨たくま射殺しゃさつ
    • 3月11にち井上いのうえ日召にっしょう自首じしゅ
    • 4がつ21にちごろ – 西田にしだみつぐ暗殺あんさつ決定けってい
    • 5月8にち – 5がつ15にち決起けっき決定けってい
    • 5月13にちごろ - はやし計画けいかく延期えんきはかり、大庭おおば春雄はるお東京とうきょう派遣はけんめる
    • 5月14にち大庭おおば休暇きゅうかが16にちからとまり、古賀こがにそのむね連絡れんらく
    • 5月15にちいち事件じけん発生はっせいはやし保護ほご検束けんそくける
    • 7がつ24にち公判こうはん開始かいし
    • 8がつ18にちりん陳述ちんじゅつ
    • 11月9にち - 判決はんけつ懲役ちょうえき2ねん執行しっこう猶予ゆうよ5ねん

出典しゅってん

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  1. ^ 『5・15事件じけん』p.86
  2. ^ 『5・15事件じけん』p.226
  3. ^ 『5・15事件じけん』p.29
  4. ^ 『5・15事件じけん』p.12
  5. ^ 『5・15事件じけん』p.17
  6. ^ 昭和しょうわ軍人ぐんじんたち』p.249
  7. ^ 『5・15事件じけん』p.11
  8. ^ 昭和しょうわ軍人ぐんじんたち』p.253
  9. ^ 『5・15事件じけん』p.41
  10. ^ 官報かんぽう 1935ねん11月5にち なないちぺーじ
  11. ^ 官報かんぽう 1935ねん11月7にち いちさんさんぺーじ
  12. ^ 『5・15事件じけん』p.195
  13. ^ a b 昭和しょうわ縦走じゅうそうする』「艦隊かんたい条約じょうやく
  14. ^ 『5・15事件じけん』p.191

参考さんこう文献ぶんけん

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  • 池田いけだきよし日本にっぽん海軍かいぐんした)』朝日あさひソノラマ、1987ねんISBN 4-257-17084-0 
  • 高橋たかはし正衛まさえ昭和しょうわ軍閥ぐんばつ講談社こうだんしゃ学術がくじゅつ文庫ぶんこ、2003ねんISBN 4-06-159596-2 
  • 外山とやまみさおへん陸海りくかいぐん将官しょうかん人事じんじ総覧そうらん 海軍かいぐんへん芙蓉ふよう書房しょぼう出版しゅっぱん、1981ねんISBN 4-8295-0003-4 
  • はやし正義まさよし『5・15事件じけんいち海軍かいぐん士官しかん青春せいしゅん新人物往来社しんじんぶつおうらいしゃ、1974ねん 
  • はたいく昭和しょうわ軍人ぐんじんたち』文藝春秋ぶんげいしゅんじゅう、1982ねん 
  • はたいく彦『昭和しょうわ縦走じゅうそうする』グラフしゃ、1984ねんISBN 4-7662-0068-3 
  • はたいく彦『日本にっぽん陸海りくかいぐん総合そうごう事典じてん東京大学とうきょうだいがく出版しゅっぱんかい