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橋本はしもとたけし

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はしもと たけし

橋本はしもと たけし
生誕せいたん 1912ねん7がつ11にち
京都きょうと宮津みやづ
死没しぼつ (2013-09-11) 2013ねん9月11にち(101さいぼつ
神戸こうべ中央ちゅうおう
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
出身しゅっしんこう 東京とうきょう高等こうとう師範しはん学校がっこうげん筑波大学つくばだいがく
職業しょくぎょう 国語こくご教師きょうし国文学こくぶんがくしゃ
著名ちょめい実績じっせき ぎんさじ授業じゅぎょう
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橋本はしもと たけし(はしもと たけし、1912ねん7がつ11にち - 2013ねん9月11にち)は、日本にっぽん国語こくご教師きょうし国文学こくぶんがくしゃもとなだ中学校ちゅうがっこう高等こうとう学校がっこう教頭きょうとう京都きょうと宮津みやづ出身しゅっしん中学ちゅうがくの3年間ねんかんをかけてなか勘助かんすけの『ぎんさじ』を1さつげる国語こくご授業じゅぎょうぎんさじ授業じゅぎょう」でられる。

人物じんぶつ[編集へんしゅう]

ぎんさじ授業じゅぎょう[編集へんしゅう]

生徒せいとしん生涯しょうがいのこり、きるかてとなる授業じゅぎょうをしたい」とのおもいから、1950ねん新制しんせいなだ中学校ちゅうがっこう新入生しんにゅうせい担当たんとうすることになった時点じてんから、「教科書きょうかしょ使つかわず、中学ちゅうがくの3年間ねんかんをかけてなか勘助かんすけの『ぎんさじ』を1さつげる」国語こくご授業じゅぎょう開始かいしする。たん作品さくひん精読せいどく熟読じゅくどくするだけでなく、作品さくひんちゅう出来事できごと主人公しゅじんこう心情しんじょうつい体験たいけんにも重点じゅうてんき、毎回まいかい配布はいふするガリ版がりばんりの手作てづくりプリントには、頻繁ひんぱん横道よこみちれる仕掛しかけがほどこされ、様々さまざま方向ほうこうへの自発じはつてき興味きょうみうなが工夫くふうらされていた。同年どうねん10がつ東京教育大学とうきょうきょういくだいがくげん筑波大学つくばだいがく教授きょうじゅ山岸やまぎし徳平とくひら授業じゅぎょう見学けんがくし、「横道よこみちはずれすぎではないか」との批判ひはんけたが、これこそがこの授業じゅぎょう最大さいだい目的もくてきとするところであった。

授業じゅぎょうながれは、通読つうどくする→みちする→つい体験たいけんする→徹底的てっていてき調しらべる→自分じぶんかんがえる(かくしょうのタイトルけ→要約ようやく自作じさくの『ぎんさじ』づくり)のじゅん[3]具体ぐたいてきには『ぎんさじ なか勘助かんすけ 橋本はしもとたけし案内あんない』(小学館しょうがくかん文庫ぶんこ、2012)にくわしい[3]

橋本はしもとがこうした授業じゅぎょうおもったきっかけは、小学校しょうがっこうさんねんとき真田さなだ幸村ゆきむらはなわだんみぎ衛門えもん直之なおゆき三好みよし清海きよみ入道にゅうどうなどの講談こうだんほん使つかった国語こくご授業じゅぎょうたのしかったことと、東京とうきょう高等こうとう師範しはん学校がっこう時代じだいに『だい漢和かんわ辞典じてん』の編集へんしゅう作業さぎょう手伝てつだい、じっくりかんがえる、きっちり調しらべるという漢文かんぶん学者がくしゃ諸橋もろはし轍次てつじ姿勢しせいにしたことによる[3]。また、終戦しゅうせん教科書きょうかしょくろりに直面ちょくめんしたことも教科書きょうかしょてるきっかけとなったという[3]

教材きょうざいとして『ぎんさじ』をえらんだ理由りゆうとしては、主人公しゅじんこうじゅうだい少年しょうねんであるので生徒せいとたちが自分じぶんかさわせてみやすい、夏目なつめ漱石そうせき激賞げきしょうしたほど日本語にほんごうつくしい、明治めいじ日本にっぽん緻密ちみつえがいているため時代じだい風俗ふうぞく考証こうしょう対象たいしょうにしやすい、新聞しんぶん連載れんさいであったためかくしょうみじか授業じゅぎょうあつかいやすい、やや散文さんぶんてきかれているためみちしやすいといったてんげている[3]

この授業じゅぎょうけた最初さいしょ生徒せいとたちが、6ねんはるには東京大学とうきょうだいがくに15めい合格ごうかく1956ねん新制しんせい8回生かいせい)、さらにその6ねんには東京大学とうきょうだいがくに39めい京都大学きょうとだいがくに52めい合格ごうかく1962ねん新制しんせい14回生かいせい)、またさらに6ねんには132めい東京大学とうきょうだいがく合格ごうかくし、東京とうきょう都立とりつ日比谷ひびや高等こうとう学校がっこういて東大とうだい合格者数ごうかくしゃすう全国ぜんこくいちとなる(1968ねん新制しんせい20回生かいせい)。そのも6ねんおきに120めい1974ねん)、131めい1980ねん)が東大とうだい合格ごうかくという快挙かいきょげる。「1教科きょうか1教師きょうしがり担当たんとうせいで6年間ねんかん中高なかだか一貫いっかん教育きょういくおこなう」なだこうにおいて、橋本はしもと信念しんねん実力じつりょく情熱じょうねつにより実現じつげんした授業じゅぎょうであったが、これら進学しんがく実績じっせき向上こうじょうは、当初とうしょからの目的もくてきとされたものではけっしてなく、あくまでその成果せいかひとつにぎない。

エピソード[編集へんしゅう]

  • 在職ざいしょくちゅうから宝塚歌劇団たからづかかげきだんのファン(本格ほんかくてきに「はまった」のは1973ねん3がつ)としてられ、どう劇団げきだん機関きかん歌劇かげき誌上しじょう随筆ずいひつ宝塚たからづか讃歌さんか」を連載れんさい1983ねん10月在職ざいしょく50ねんいわうパーティーには、当時とうじ現役げんえき生徒せいとであった、こうしおともえ若葉わかばひろみ黒木くろきひとみ総勢そうぜい60めいタカラジェンヌけつけはなえた。また、2010ねん7がつ、ライオンズクラブの白寿はくじゅいわかいでは、宝塚たからづか男役おとこやく出身しゅっしん上條かみじょうあきら(上条かみじょうあきら)が実行じっこう委員いいんちょうつとめ、12めいもとタカラジェンヌ東西とうざいから集合しゅうごうし、うたやパフォーマンスでいわった。
  • 1994ねん解離かいりせい大動脈だいどうみゃくこぶ緊急きんきゅう搬送はんそうされたさい救急きゅうきゅう救命きゅうめい活躍かつやくにより蘇生そせいたす。この救急きゅうきゅう救命きゅうめいは、おし黒岩くろいわ祐治ゆうじがキャスターをつとめていたフジテレビFNNスーパータイムうちで2年間ねんかんわたってった「救急きゅうきゅう医療いりょうキャンペーン」が契機けいきとなり、1991ねん制定せいていされた救急きゅうきゅう救命きゅうめいほうにより制度せいどされたものである。
  • 趣味しゅみは、宝塚たからづかほかにも、社交しゃこうダンス、8ミリカメラ、カメラ旅行りょこうのう歌舞伎かぶき鑑賞かんしょう茶道さどう郷土きょうど玩具おもちゃ収集しゅうしゅうかえるグッズ収集しゅうしゅうかずつづりほんづくり、ひとしがあるが、「趣味しゅみはあくまで「参加さんかするたのしさ」「興味きょうみをもってチャレンジしてみる面白おもしろさ」がポイントです。プロの研究けんきゅう仕事しごととはわけがちがうのですから、める必要ひつようなどありません。どこかで、自分じぶんとっうごかしてきた好奇心こうきしんたされれば、さっとく。これも、わたしりゅう趣味しゅみたのしみかたなのです」といている。
  • かえるグッズの収集しゅうしゅうながつづけており、自宅じたく表札ひょうさつは「青蛙あおがえる人形にんぎょうかん」、みずからつけた戒名かいみょうも「青蛙あおがえる居士こじ」である。
  • なだこう退職たいしょく直後ちょくご寿ことぶきそう生前せいぜんそう)を挙行きょこう。このとき、つけられた戒名かいみょうは「きょうほまれあいたから青蛙あおがえる居士こじ(きょうよあいほうせいあこじ)」である。
  • 2012ねん小学館しょうがくかんから発行はっこうされた、なか勘助かんすけちょぎんさじ小学館しょうがくかん文庫ぶんこ)』には、橋本はしもとによる案内あんない解説かいせつ)が全編ぜんぺんに併載されており、当時とうじの「『ぎんさじ授業じゅぎょう」の様子ようす活字かつじかたちつい体験たいけんすることが出来できる。おびのコピーは「奇跡きせき名文めいぶんが、もとなだこう教師きょうし(101さい)の全編ぜんぺん解説かいせつよみがえる。/なか勘助かんすけ×橋本はしもとたけし夏目なつめ漱石そうせき絶賛ぜっさんした、明治めいじ少年しょうねんのみずみずしい見聞けんぶんが、伝説でんせつ教師きょうし解説かいせつ全編ぜんぺんえ、あらたなとびらける――。」である。カバーうら解説かいせつでは「戦後せんごなだ中学ちゅうがくでこの作品さくひんさつを3年間ねんかんかけてみこむ授業じゅぎょう実践じっせん同校どうこう名門めいもんこうみちびいた、ちゅう本人ほんにんともふか交流こうりゅうした橋本はしもとたけし(1911ねんまれ、現在げんざい100さい)による当時とうじ授業じゅぎょう再現さいげんする[解説かいせつ]を全編ぜんぺんに併載。理解りかいふかめ、横道よこみちにそれる橋本はしもとりゅう知的ちてきヒントをちりばめた平成へいせいばんぎんさじ誕生たんじょう。」と紹介しょうかいされている。
  • エチオピア皇太子こうたいしているという理由りゆうから生徒せいとからエチ先生せんせいばれた[4]。1930年代ねんだいにエチオピア皇室こうしつのアラヤ・アババが日本人にっぽんじんとの結婚けっこんもとめたことから伯爵はくしゃく黒田くろだ雅子まさこ縁談えんだんしたが、エチオピアの利権りけん敏感びんかんだったイタリア干渉かんしょうによって破談はだんとなり、当時とうじ新聞しんぶんにぎわせていた(日本にっぽんとエチオピアの関係かんけい)。

著書ちょしょ[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 伊藤いとうとうと奇跡きせき教室きょうしつ:エチ先生せんせいと『ぎんさじ』のどもたち:伝説でんせつなだこう国語こくご教師きょうし橋本はしもとたけし流儀りゅうぎ』(小学館しょうがくかん 2010ねんISBN 9784093881630小学館しょうがくかん文庫ぶんこ、2012ねん
  • 伊藤いとうとうと奇跡きせき教室きょうしつ:エチ先生せんせいと『ぎんさじ』のどもたち:伝説でんせつなだこう国語こくご教師きょうし橋本はしもとたけし流儀りゅうぎ』(小学館しょうがくかん文庫ぶんこ 2012ねんISBN 9784094087734
  • 黒岩くろいわ祐治ゆうじなだちゅう 奇跡きせき国語こくご教室きょうしつ橋本はしもとたけしちょうスロー・リーディング』(中公新書ちゅうこうしんしょラクレ 2011ねんISBN 9784121503947
  • 橋本はしもとたけし『100さいからの幸福こうふくろん伝説でんせつなだこう教師きょうしかた奇跡きせき人生じんせい哲学てつがく』(牧野まきの出版しゅっぱん 2012ねんISBN 9784895001571
  • 橋本はしもとたけし『〈ぎんさじ〉の国語こくご授業じゅぎょう』(岩波ジュニア新書いわなみじゅにあしんしょ 2012ねんISBN 9784005007097
  • なか勘助かんすけぎんさじ』(小学館しょうがくかん文庫ぶんこ 2012ねんISBN 9784094087741橋本はしもとたけしによる解説かいせつ案内あんない
  • 人生じんせいわる1分間ふんかんふかイイばなし」(2011ねん2がつ28にち 日本にほんテレビ)

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 伝説でんせつ国語こくご教師きょうし 橋本はしもとたけし 101さい死去しきょ”. スポニチアネックス (2013ねん9がつ11にち). 2013ねん9がつ11にち閲覧えつらん
  2. ^ もとなだちゅうこう教諭きょうゆぎんさじ授業じゅぎょう 橋本はしもとたけしさん死去しきょ”. 神戸こうべ新聞しんぶんNEXT (2013ねん9がつ11にち). 2013ねん9がつ13にち閲覧えつらん
  3. ^ a b c d e 戦後せんご国語こくご教育きょういく実践じっせんについての研究けんきゅう橋本はしもとたけしなだ中学ちゅうがくにおける『ぎんさじ』(なか勘助かんすけ)の指導しどう実践じっせん中心ちゅうしん菅原すがわらみのる岡山大学おかやまだいがく大学院だいがくいん教育きょういくがく研究けんきゅう研究けんきゅう集録しゅうろくだい161ごう(2016)69−75
  4. ^ 伊藤いとうとうと『エチ先生せんせいと「ぎんさじ」のどもたち 奇跡きせき教室きょうしつ 伝説でんせつなだこう国語こくご教師きょうし橋本はしもとたけし流儀りゅうぎ小学館しょうがくかん文庫ぶんこ、2012

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]