永野ながのおさむ

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永野ながの おさむ(ながの おさむ、1911ねん明治めいじ44ねん10月9にち[1] - 1998ねん平成へいせい10ねん2がつ22にち[2])は、日本にっぽん航空こうくう技術ぎじゅつしゃ実業じつぎょうもと海軍かいぐん技術ぎじゅつ少佐しょうさもと石川島播磨重工業いしかわじまはりまじゅうこうぎょう(IHI)ふく社長しゃちょう国産こくさんジェットエンジン開発かいはつした技術ぎじゅつしゃ

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 永野ながの小佐しょうさ衛門えもん
   (つねきよし)
    ┃
   (りゃく)
    ┃
   法城ほうじょう 弘願寺こうがんじ11だいいでいない)
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 まもる  重雄しげお おとこ(早世そうせい) 俊雄としお どう輝雄てるお 鎮雄しずお 
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いむつよし    けん      ただし
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一郎いちろう こう あきら  健二けんじ 今村いまむら雅樹まさき 康之やすゆき  ひろし

広島ひろしまけん広島ひろしままれ[3]戦後せんご日本にっぽん政経せいけい財界ざいかいそろって活躍かつやくした、永野ながのろく兄弟きょうだい末弟ばっていもっと著名ちょめい永野ながの重雄しげおうえから番目ばんめあにである。瀬戸内海せとないかい広島ひろしまけんくれおきかぶ下蒲刈島しもかまがりじま浄土真宗じょうどしんしゅう本願寺ほんがんじ名刹めいさつ弘願寺こうがんじ実家じっかちち法城ほうじょうてらこときら判事はんじとなって中国ちゅうごく地方ちほう裁判所さいばんしょすうしょ転勤てんきんしたのちしょく広島ひろしま市内しない弁護士べんごし事務所じむしょ開業かいぎょうしたときまれたのがである。なお実際じっさい兄弟きょうだいは10にん

生後せいごまもなくちちようしょう(ようしょう=悪性あくせいもの)でに、その一家いっか長男ちょうなん永野ながのまもる並外なみはずれた献身けんしんのおかげで、みな大学だいがくまでいった。まもる東大とうだい時代じだい親友しんゆう財界ざいかい巨頭きょとう渋沢しぶさわ栄一えいいち子息しそくだったため勉強べんきょう相手あいてという名目めいもく謝礼しゃれいいただきそれが郷里きょうりへの仕送しおくりとなった。

広島ひろしま高等こうとう師範しはん学校がっこう附属ふぞく小学校しょうがっこう中学校ちゅうがっこうげん広島大学ひろしまだいがく附属ふぞく小学校しょうがっこう広島大学ひろしまだいがく附属ふぞく中学校ちゅうがっこう高等こうとう学校がっこう[3]旧制きゅうせい第一高等学校だいちこうとうがっこう[3]東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく機械きかい工学科こうがっか卒業そつぎょう[3]学費がくひ免除めんじょ特典とくてんがあったため、東京帝大とうきょうていだいでは海軍かいぐん委託いたく学生がくせいとなった。3ねん在学ざいがくちゅう1933ねんなつ実家じっかからもちかくれこう海軍かいぐん工廠こうしょう実習じっしゅうったとき当時とうじ指導しどうかんだった種子島たねがしまきゅう(のち海軍かいぐん大佐たいさ戦後せんご日産自動車にっさんじどうしゃ顧問こもん)の講義こうぎけた。後年こうねんジェットエンジン開発かいはつともおこなこととなる。

そらわざしょうへの入隊にゅうたい~ネ-20の開発かいはつ[編集へんしゅう]

1934ねん卒業そつぎょう横須賀よこすか追浜おっぱまにあった海軍かいぐん航空こうくうしょう(のち航空こうくう技術ぎじゅつしょうだいいち技術ぎじゅつしょう)にはい以降いこう発動はつどう一筋ひとすじみちあゆむことになる。このとき面接めんせつかん当時とうじ海軍かいぐん航空こうくう本部ほんぶちょう山本やまもと五十六いそろく中将ちゅうじょうただいちにんだった。航空こうくうしょう開設かいせつあいだもないため大卒だいそつ永野ながの一人ひとりだった。発動はつどう勤務きんむとなり実施じっし部隊ぶたい発生はっせいするさまざまなエンジントラブルの対策たいさくがけた。りく海軍かいぐん大陸たいりく進攻しんこう作戦さくせん南洋なんよう諸島しょとう進攻しんこう作戦さくせんにも参加さんかして現地げんちきゅうろくしき陸上りくじょう攻撃こうげきれいしき艦上かんじょう戦闘せんとう双発そうはつ戦闘せんとう月光げっこうなどのエンジン対策たいさく改良かいりょうがけた。

1938ねん種子島たねがしま少佐しょうさ永野ながのおな発動はつどう配属はいぞくされた。種子島たねがしま実験じっけん工場こうじょう工場こうじょうちょうになり本来ほんらいレシプロエンジン研究けんきゅう開発かいはつらず、自分じぶんきなジェットエンジンの開発かいはつ実験じっけんはじめた。目標もくひょう当時とうじ海軍かいぐん極秘ごくひ試作しさくとして開発かいはつすすめていたガスタービン駆動くどう大型おおがた飛行ひこうていH7Y1であった。設計せっけいうつった永野ながの種子島たねがしまのグループとはべつ官民かんみん合同ごうどうターボきゅう研究けんきゅうかい発足ほっそくさせて三菱みつびし日立ひたち石川いしかわとうなどにきゅう試作しさくをさせていた。1942ねん5月、大尉たいいながら中佐ちゅうさ後釜あとがま技術ぎじゅついん参議さんぎかん航空こうくう本部ほんぶ部員ぶいんとして異例いれい転出てんしゅつさら1943ねん11月に陸海りくかいぐん統一とういつして発足ほっそくされた軍需ぐんじゅしょうではエンジン試作しさく担当たんとう軍需ぐんじゅかん兼任けんにんした。1939ねん以降いこう欧米おうべいでのジェット機じぇっとき開発かいはつ当時とうじはロケットんでいた)の情報じょうほうつたえられるにつれて、1942ねん1がつ、ジェット推進すいしんほうせんもん研究けんきゅうする研究けんきゅう発動はつどうもうけられ、ますます研究けんきゅう拍車はくしゃがかかった。海軍かいぐん以外いがいでも陸軍りくぐん東京帝大とうきょうていだい技術ぎじゅついん航空こうくう技術ぎじゅつ協会きょうかいでもジェットエンジンの研究けんきゅう開発かいはつはじまった。日本にっぽん一般いっぱんひとがジェットエンジンをったのは、雑誌ざっし航空こうくう朝日あさひ』1942ねん10がつごう誌上しじょうイタリアカプロニ・カンピーニ N.1プロペラ特異とくい飛行ひこう写真しゃしんにしたのがはじめてだった。苦闘くとうすえ、こういったわずかにもたらされる欧米おうべい技術ぎじゅつ情報じょうほうたよりに開発かいはつすすめた。

1943ねん7がつ巌谷いわや英一ひでかず技術ぎじゅつ中佐ちゅうさが、連合れんごうこく警戒けいかいもうくぐり92日間にちかんかけて、ドイツとの連絡れんらく便びんごうだいきゅう潜水せんすいかんなどでジェットエンジンの資料しりょうって帰国きこく。しかし別便べつびんんだ詳細しょうさい資料しりょう連合れんごうぐん雷撃らいげき消失しょうしつ巌谷いわや持参じさんしたのはドイツ空軍くうぐんジェット戦闘せんとうメッサーシュミット Me262搭載とうさいされたユンカースユモ004およびBMWせい003Aはちだんじくりゅうターボジェットエンジン、ヴァルターHWK-109/509Aにかんするいちさつ見聞けんぶんノート、ぶんいち縮小しゅくしょうされたキャビネはん断面だんめん写真しゃしんロケット迎撃げいげきメッサーシュミット Me163コメート」の組立くみたて、Me262およびMe163の取扱とりあつかい説明せつめいしょだけであった。Uボート日本にっぽんまねかれる途中とちゅう連合れんごうぐん拿捕だほされたメッサーシュミットの技術ぎじゅつしゃは「資料しりょうだけでは製造せいぞう出来できないであろう」と証言しょうげんした。

同月どうげつりく海軍かいぐん、「TR10(ジェットエンジン)」製作せいさく会社かいしゃ6しゃによる合同ごうどう研究けんきゅうかいがもたれ、ジェットエンジンを海軍かいぐんが、推進すいしんロケットを陸軍りくぐん中心ちゅうしんとなって開発かいはつすすめることとなった。日増ひましに悪化あっかたびふかめる戦況せんきょうに、軍部ぐんぶあせりのいろくしB-29対抗たいこう出来でき戦闘せんとう出現しゅつげんつよはやのぞまれた。同年どうねん8がつ上層じょうそう意向いこうけて永野ながのふたた種子島たねがしまのグループに首席しゅせき部下ぶかとしてくわわった。かく分野ぶんやのエキスパートをあつめ「TR10」から「ネ-10」に名称めいしょうえたエンジンを改良かいりょうし「ネ-12」を設計せっけい横須賀よこすか造機ぞうき北辰ほくしん電機でんきげん横河電機よこかわでんき)、石川いしかわとう芝浦しばうら石川いしかわとう重工じゅうこう東芝とうしば共同きょうどう設立せつりつ)、正田しょうだ飛行機ひこうき荏原製作所えばらせいさくしょなどで、このとし年末ねんまつから量産りょうさんはじめたが故障こしょう相次あいついだ。このころ永野ながの愛児あいじ疫痢えきりにかかったが、高熱こうねついきえであったにかかわらず、つま懇願こんがんって仕事しごと出向でむいた。死体したい安置あんちしょいちばんちゅうつめたくなった息子むすこ全身ぜんしんでまわし「痛恨つうこん一夜いちやわすれることは出来できない」とやんだ。結局けっきょくこのとし10がつ種子島たねがしま大佐たいさが「「ネ-12」エンジンは中途半端ちゅうとはんぱなので一切いっさい破算はさんにし、出直でなおほう賢明けんめいである」と主張しゅちょうしたあん採用さいよう。BMWエンジンのいちまい断面だんめん写真しゃしん参考さんこうただちに設計せっけい開始かいしされ、あらたな「ネ-20」(推力すいりょく475kg)の開発かいはつ着手ちゃくしゅ不眠ふみん不休ふきゅう苦闘くとうつづく。ただしBMWエンジンの図面ずめん永野ながのは、ネ-12エンジンの開発かいはつ方向ほうこうせい間違まちがっていなかったとして、かえって自信じしんもどしたという。実際じっさいにもネ-20開発かいはつはゼロからのやりなおしではなく、ネ-12開発かいはつ経験けいけんかされており、外部がいぶ技術ぎじゅつ参考さんこうにした開発かいはつ計画けいかく継続けいぞくえる。1945ねん3月、そらわざしょうのある横須賀よこすかグラマンばくげき秦野はたの丹沢山地たんざわさんち南端なんたん作業さぎょうしょ移動いどう。4月、種子島たねがしま秦野はたの出張所しゅっちょうしょちょうとなり転勤てんきん永野ながの開発かいはつ責任せきにんしゃとなり永野ながの以下いか技術ぎじゅつじん全力ぜんりょくくして苦心くしん苦心くしんかさねたすえ同年どうねん6がつようやく完成かんせいぎつけた[4]

中島なかじま飛行機ひこうき(現在げんざいSUBARU)で試作しさく開発かいはつした特殊とくしゅ攻撃こうげきたちばなはないち号機ごうき木更津きさらづ基地きちはこび、そのてを7がつためし飛行ひこう8がつ7にち到来とうらいした。丁度ちょうど、その前日ぜんじつべい空軍くうぐんのB-29が広島ひろしま高性能こうせいのうばくだん投下とうかしたとほうじた。快晴かいせいとなった当日とうじつテストパイロットよこそら審査しんさいん高岡たかおかすすむ少佐しょうさ操縦そうじゅう桿をにぎは、ジェットエンジン特有とくゆうのタービンおんとともに始動しどう、しだいに速度そくどはやめ800mあたりで、すうかい前後ぜんこうれたのち離陸りりくそらんだ。高岡たかおかはあまりにもしずぎて、エンジンがうごいているかどうかなんもメーターを見直みなおしたとう。あししたままみぎ旋回せんかいして東京とうきょうわんうえ一周いっしゅうし、無事ぶじゆっくりと着陸ちゃくりくした。わずか11ふんだったが、プロペラのない飛行機ひこうき日本にっぽん上空じょうくうはじめてぶことに成功せいこうした。しかし8がつ11にちかい飛行ひこうでは操縦そうじゅう失敗しっぱい大破たいはあらたな試作しさく用意よういしているあいだ終戦しゅうせんむかえた。

戦後せんご[編集へんしゅう]

戦後せんごGHQ日本にっぽんのあらゆる軍事ぐんじ施設しせつ兵器へいき接収せっしゅうされてつくず同然どうぜんとなって破棄はきされた。さらに日本にっぽん航空機こうくうき生産せいさん加工かこう禁止きんし関連かんれん会社かいしゃ解散かいさんさせられた。1952ねん3月、サンフランシスコ講和こうわ条約じょうやくにより戦後せんご7ねんたって航空機こうくうき関連かんれん事業じぎょう再開さいかいされた。戦時せんじちゅう全力ぜんりょくった永野ながのは、なにもやるこらず北辰ほくしん電機でんき帝国ていこくミシン(げんじゃ目ミシン工業めみしんこうぎょう)、小松製作所こまつせいさくしょなどしょく転々てんてんとした[5]。しかしつまかえり、「ジェットエンジンに専念せんねんすることがみち」と決意けついした。日比谷ひびやにあったアメリカ占領せんりょうぐん情報じょうほう教育きょういくきょく(CIE)で欧米おうべいあたらしいジェットエンジンの技術ぎじゅつまなんだ。ここは日本にっぽん航空こうくう関係かんけいしゃ自動車じどうしゃ関係かんけいしゃおおくがあしはこんだ。1952ねん航空こうくう解禁かいきんとし、ジェットエンジンのみに熱心ねっしんだった土光どこう敏夫としお石川いしかわとう重工じゅうこうに、かつての部下ぶかつうじてさそわれ入社にゅうしゃ[6]1953ねん7がつ通商産業省つうしょうさんぎょうしょう通達つうたつ欧米おうべいからおおきく出遅でおくれた航空こうくう工業こうぎょう挽回ばんかい石川いしかわとう重工じゅうこう富士重工業ふじじゅうこうぎょう富士ふじ精密せいみつ工業こうぎょうしん三菱重工みつびしじゅうこう共同きょうどう日本にっぽんジェットエンジン株式会社かぶしきがいしゃ(NJE)を設立せつりつ(のち川崎かわさき航空機こうくうき参加さんかし5しゃ)。永野ながの研究けんきゅう研究けんきゅう部長ぶちょう就任しゅうにんした。

1955ねん1がつ防衛庁ぼうえいちょう航空こうくう自衛隊じえいたい本格ほんかくてき体制たいせいづくりに着手ちゃくしゅ同年どうねん3がつ石川いしかわとう重工じゅうこうない非公式ひこうしきのプロジェクトチーム「航空こうくうエンジン準備じゅんびしつ」が設置せっちされ永野ながの室長しつちょうとなる。チームはわずか4にん事務所じむしょは4つぼひろさだった。このとし3がつ永野ながのはNJEの研究けんきゅう部長ぶちょう正式せいしきメンバーからはず技術ぎじゅつ顧問こもんとなっていた。これはさい重要じゅうよう人物じんぶつ永野ながの社内しゃない温存おんぞんさせる、という土光どこう戦略せんりゃくだった。NJEのほう防衛庁ぼうえいちょうT-1 中等ちゅうとう練習れんしゅう60にNJEが開発かいはつした国産こくさんの「J3」ジェットエンジンの搭載とうさい決定けっていした。しかしハイテク頂点ちょうてんきわめるジェットエンジンの開発かいはつには10ねん・100おくようす(当時とうじ石川いしかわとう重工じゅうこう資本しほんきんの4ばい)、といわれるように簡単かんたんにはいかず、故障こしょう相次あいつぎ1ぶんおよび2ぶんけい40輸入ゆにゅうした英国えいこくブリストルしゃせいオルフェースエンジンの搭載とうさいとなった。これにいたりNJEではないがもたれ、膨大ぼうだいなコストはかかるジェットエンジン開発かいはつを、石川いしかわとう重工じゅうこう以外いがいの4しゃ見切みきりをつけるかたちき、ジェットエンジン開発かいはつ石川いしかわとう重工じゅうこう1しゃつづけることとなり、NJEは6ねん9かげつ悪戦苦闘あくせんくとう歴史れきしまくじた。石川いしかわとう重工じゅうこう単独たんどくとなった理由りゆう永野ながの存在そんざいがあったものといわれた。

多難たなんきわめるジェットエンジン開発かいはつ石川いしかわとう重工じゅうこうどう部門ぶもんは7年間ねんかん赤字あかじつづく。他社たしゃより規模きぼちいさいため機体きたい部門ぶもん進出しんしゅつせず、エンジン分野ぶんやだけにけた同社どうしゃのリスクはとてもおおきなものだった。1956ねん6がつ石川いしかわとう重工じゅうこうべいぐんF-86ジェット戦闘せんとうようエンジン「J47」を開発かいはつしていたGEしゃ技術ぎじゅつ提携ていけいむすんだ。傑作けっさくといわれたこの「J47」エンジンのデータはきわめてスムーズ、かつ早期そうきの「J3」エンジンの開発かいはつをもたらした。1958ねん永野ながのは「J3」の生産せいさん先行せんこうがた「YJ3」開発かいはつプロジェクトの指揮しきり、1959ねん10月、幾多いくたのトラブルや障害しょうがいえ1号機ごうき完成かんせいよく1960ねん5月17にち富士重工ふじじゅうこう製作せいさくしたT1F1試作しさく搭載とうさいされ、同社どうしゃ宇都宮うつのみや飛行場ひこうじょうはつ飛行ひこう成功せいこう戦後せんご15ねんにして国産こくさんジェットエンジン搭載とうさいそらんだ。しかし燃料ねんりょうコントロールだけは国産こくさん製作せいさく出来できず、アメリカウッドワードガバナーしゃのものを採用さいようすることとなった(5ねん国産こくさん)。「YJ3」エンジンは、最終さいしゅう納期のうきい31だいがT-1練習れんしゅう搭載とうさいされ、その改良かいりょうしたものを1980ねんまでけい247だい製造せいぞうした。

1960ねん12月、石川いしかわとう重工じゅうこう播磨はりま造船ぞうせん合併がっぺい石川島播磨重工業いしかわじまはりまじゅうこうぎょう現在げんざいIHI)となった。永野ながの取締役とりしまりやく航空こうくうエンジン事業じぎょう部長ぶちょう就任しゅうにん会社かいしゃ飛躍ひやく社員しゃいん一挙いっきょえ1200にんちかくにたっした。防衛庁ぼうえいちょうの「F-X整備せいび構想こうそう」で採用さいよう決定けっていしたロッキードF-104搭載とうさいする「J79」エンジンの量産りょうさんにも成功せいこう、ジェットエンジンのげも110おくほどに急増きゅうぞうした。1964ねんさんじゅうねんわたたずさわった現場げんばはなふく社長しゃちょう就任しゅうにん1978ねん相談役そうだんやく退しりぞいたが、翌年よくねん日本にっぽんのジェットエンジン工業こうぎょう悲願ひがん海外かいがい進出しんしゅつとなるえいロールス・ロイスしゃとの提携ていけいにも尽力じんりょくした[7]。これはのち1983ねん、5かこく共同きょうどう開発かいはつ事業じぎょう発展はってんした。1982ねん航空機こうくうきようファンジェットエンジンの研究けんきゅう開発かいはつ日本にっぽんガスタービン学会がっかいだい1かい学会がっかいしょう授賞じゅしょう[8][9]永野ながの航空こうくうエンジン事業じぎょう部長ぶちょうだった時代じだい、「お荷物にもつ事業じぎょう」と揶揄やゆされたジェットエンジン部門ぶもんは1980年代ねんだい後半こうはんには同社どうしゃトップの売上うりあげとなった。その永野ながの勉強べんきょうかいつづ技術ぎじゅつしゃ指導しどうたった。

ほねずいからの技術ぎじゅつ金儲かねもうけにまったく無頓着むとんじゃくで、社内しゃないのみならず業界ぎょうかい関係かんけい各省かくしょうでも有名ゆうめいだった。「J79」エンジンを生産せいさんしたとき防衛庁ぼうえいちょうからさきにもらった開発かいはつ費用ひよう予想よそうよりやす出来できた、とあまったぶん防衛庁ぼうえいちょうかえしてきた。こういう場合ばあい不足ふそくぶん請求せいきゅうしても、あまったぶん帳尻ちょうじりわせてふところれてしまうのが常識じょうしき防衛庁ぼうえいちょうは「そんなはなしいたことがない」とおおいにおどろいたという。また全日空ぜんにっくうボーイング727旅客機りょかくき導入どうにゅうしたとき三菱みつびしにエンジンの発注はっちゅうさきまったにもかかわらず、石川いしかわとう営業えいぎょうマンが、全日空ぜんにっくう幹部かんぶにジェットエンジンの主幹しゅかん工場こうじょうだった田無たなし工場こうじょうせると「素晴すばらしい」と感動かんどうして逆転ぎゃくてん決定けっていしたという。このとき永野ながのは「そもそも、これだけの技術ぎじゅつっているところ仕事しごと発注はっちゅうしないのがそんなのであって、なにもこちらから仕事しごとくださいとあたまげる必要ひつようはないんだ」と、しかりとばし営業えいぎょうマンをこまらせたという。

1978ねん英国えいこく王立おうりつ航空こうくう学会がっかいから東洋とうようじんとしてはじめて名誉めいよ会員かいいん推挙すいきょされた。

なお「ネ-20」エンジンは、前述ぜんじゅつした戦後せんご接収せっしゅう命令めいれい国内こくないのものはすべ破壊はかいされたが、アメリカにわたり、ノースロップ工科こうか大学だいがく倉庫そうこほこりにかぶっていたものさとかえりし1973ねん埼玉さいたまけん入間いるま基地きち開催かいさいされただい4かい国際こくさい航空こうくう宇宙うちゅうショー公開こうかいされた。その紆余曲折うよきょくせつがあってアメリカにはもどさず、ノースロップ工科こうか大学だいがく好意こういによる永久えいきゅう無償むしょう貸与たいよというかたち国内こくないにとどまることになった。現在げんざい東京とうきょう昭島あきしまにあるIHI (きゅう社名しゃめい 石川島播磨重工業いしかわじまはりまじゅうこうぎょう)の昭島あきしま事業じぎょうしょ保管ほかんされている。一般いっぱん公開こうかいはしていないが、4ねんいちひらかれる国際こくさい航空こうくう宇宙うちゅうてんにて展示てんじされる。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 全日本ぜんにほん紳士録しんしろく昭和しょうわ34年版ねんばん人事じんじ興信所こうしんじょへん、1959ねん、な-49ぺーじ
  2. ^ 現代げんだい物故ぶっこしゃ事典じてん 1997~1999』(日外にちがいアソシエーツ、2000ねん)p.426
  3. ^ a b c d 短期たんき集中しゅうちゅうしん連載れんさい東京とうきょうなか郷土きょうど】(1) 広島ひろしまけんまき この30にんはなとりそよぐかぜ 永野ながのおさむ」『週刊しゅうかん読売よみうり』1975ねん11月1にちごう読売新聞社よみうりしんぶんしゃ、39ぺーじ 
  4. ^ 戦時せんじのジェットエンジン開発かいはつ - 土光どこう敏夫としお―「改革かいかく共生きょうせい」の精神せいしんある
  5. ^ コマツ社友しゃゆうかい おもなど会員かいいん寄稿きこう
  6. ^ 活況かっきょうのなかできた「造船ぞうせん疑獄ぎごく」 - 土光どこう敏夫としお―「改革かいかく共生きょうせい」の精神せいしんある5~7ねんあれば戦闘せんとうようつくれる:日経にっけいビジネスオンライン
  7. ^ まるジェットエンジン繁盛はんじょう大盛おおもりきょうでもふかまる矛盾むじゅん(1) | 産業さんぎょう業界ぎょうかい
  8. ^ 過去かこ学会がっかいしょう受賞じゅしょう一覧いちらんPDF - 日本にっぽんガスタービン学会がっかい
  9. ^ 永野ながのおさむ, 松木まつき正勝まさかつ, 鳥崎とりざき忠雄ただお, 「1.航空機こうくうきようファンジェットエンジンの研究けんきゅう開発かいはつ日本にっぽんガスタービン学会がっかい』 10かん 37ごう p.8-9, 1982-06-30, NAID 110002765106, 日本にっぽんガスタービン学会がっかい

参考さんこう文献ぶんけん・ウェブサイト[編集へんしゅう]

  • ぜんあいだ孝則たかのり『ジェットエンジンにかれたおとこ じょう 国産こくさんジェット機じぇっときたちばなはな」』(講談社こうだんしゃ+αあるふぁ文庫ぶんこ、2003ねんISBN 4-06-256713-X
  • いかり義朗よしろう海軍かいぐんそらわざしょう ほこたか頭脳ずのう集団しゅうだん栄光えいこう出発しゅっぱつ』(光人みつひとしゃ、1996ねん新装しんそうばんISBN 4-7698-0447-4
  • 石澤いしざわ和彦かずひこ海軍かいぐん特殊とくしゅ攻撃こうげき たちばなはな 日本にっぽんはつのジェットエンジン・ネ20の技術ぎじゅつ検証けんしょう』(三樹みき書房しょぼう、2006ねん増補ぞうほしんていばんISBN 4-89522-468-6
  • 永野ながのおさむ, 「戦時せんじちゅうのジェット・エンジン事始ことはじ」『てつはがね』 64かん 5ごう 1978ねん p.659-663, 日本にっぽん鉄鋼てっこう協会きょうかい, doi:10.2355/tetsutohagane1955.64.5_659

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]