沼澤ぬまさわかん一郎いちろう

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沼澤ぬまさわ かん一郎いちろう
基本きほん情報じょうほう
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
出身しゅっしん 北海道ほっかいどう函館はこだて
生年月日せいねんがっぴ 1930ねん8がつ15にち
ぼつ年月日ねんがっぴ (1989-05-18) 1989ねん5月18にち(58さいぼつ
身長しんちょう
体重たいじゅう
168 cm
69 kg
選手せんしゅ情報じょうほう
投球とうきゅう打席だせき みぎとうみぎ
ポジション 外野がいやしゅ捕手ほしゅ
プロ 1953ねん
はつ出場しゅつじょう 1953ねん
最終さいしゅう出場しゅつじょう 1959ねん
経歴けいれき括弧かっこないはプロチーム在籍ざいせき年度ねんど
選手せんしゅれき
コーチれき

沼澤ぬまさわ かん一郎いちろう(ぬまざわ こういちろう、1930ねん8がつ15にち - 1989ねん5月18にち)は、北海道ほっかいどう函館はこだて出身しゅっしんプロ野球やきゅう選手せんしゅ外野がいやしゅ捕手ほしゅ)・コーチ解説かいせつしゃ評論ひょうろん

つま国体こくたい出場しゅつじょうして最優秀さいゆうしゅう選手せんしゅ獲得かくとくしたこともあるバスケットボール選手せんしゅで、次男じなん沼澤ぬまさわしょうドラマー[1]

来歴らいれき人物じんぶつ[編集へんしゅう]

ルー・ゲーリッグあこがれ、野球やきゅう選手せんしゅ目指めざす。旧制きゅうせい函館はこだてちゅうでは4ばん一塁いちるいしゅとして活躍かつやくし、1946ねんにはぜんみち大会たいかい準決勝じゅんけっしょう帯広おびひろちゅうを17-16というだい乱戦らんせんすえくだすと、決勝けっしょうでも沼澤しょうたくが4長短打ちょうたんだ活躍かつやく札幌さっぽろこうぼしちゅうやぶ戦後せんごはつ優勝ゆうしょうかざった[2]戦後せんごはつ出場しゅつじょうとなったなつ甲子園こうしえんでも初戦しょせん山形やまがたちゅうくだして戦後せんごはつ勝利しょうりげたが[2]準々じゅんじゅん決勝けっしょうでエース平古ひらこじょう昭二しょうじようするなみはなしょう敗退はいたい

卒業そつぎょう1949ねん早稲田大学わせだだいがくだいいち法学部ほうがくぶ進学しんがくし、東京とうきょうろく大学だいがくリーグでは外野がいやしゅで1ばんったほか[3]捕手ほしゅとして在学ざいがくちゅうに5かい優勝ゆうしょう経験けいけん大学だいがく同期どうき岩本いわもとたかし荒川あらかわひろし、1ねん広岡ひろおか達朗たつろう小森こもり光生みつお福嶋ふくしま一雄かずおがいた。

大学だいがく卒業そつぎょう1953ねん毎日まいにちオリオンズ入団にゅうだんし、1ねん同年どうねん開幕かいまく2せんに1ばん左翼さよくしゅ抜擢ばってきされる。そのは16試合しあい先発せんぱつマスクをこうむるが、井垣いがきたけしかべやぶれずせい捕手ほしゅにはとどかなかった。同郷どうきょう後輩こうはいで、国鉄こくてつ入団にゅうだん予定よていであった橋本はしもとつとむかこんで入団にゅうだんさせ、のち俳優はいゆう転向てんこうする橋本はしもと沼澤しょうたく恩人おんじん敬愛けいあいしている。1ねんオフにスポーツ新聞しんぶん打者だしゃべつ投手とうしゅ成績せいせき特集とくしゅうしていたのをヒントに、ダッグアウトの片隅かたすみやネットうらで、オリオンズ投手とうしゅじんのピッチング内容ないようこまかくめるようになる[4]のちにメモようちいさな手帳てちょうは6さつ大学だいがくノートは3さつたまった[4]

2ねん1954ねんには土井どいかき東映とうえい移籍いせきするが、新入しんにゅうだんチャーリー・ルイス捕手ほしゅてい位置いち獲得かくとくしたためひかえにまわる。

その捕手ほしゅ外野がいやしゅねて起用きようされるが、1956ねんには退団たいだんしたルイスの後継こうけいつくだあきらただし鵜飼うかいあきらゆきあらそい、8がつにはせい捕手ほしゅく。同年どうねん自己じこ最多さいたの90試合しあい出場しゅつじょうで41試合しあい先発せんぱつマスクをこうむるが、1957ねん醍醐だいご猛夫たけおしん入団にゅうだん1958ねんには谷本たにもとみのる移籍いせき入団にゅうだんもあり出場しゅつじょう機会きかい減少げんしょう

1959ねん開幕かいまくまえには三平さんぺい晴樹はるき若生わこう智男ともお稲垣いながき忠美ただみ醍醐だいご谷本たにもとともにペナントレースへのミーティングをひらき、球団きゅうだん仮想かそうメンバーをつくり、かくチームのキャンプ、オープンせんうごきをつたえるスポーツ資料しりょうにして討論とうろん[4]醍醐だいご谷本たにもとにレギュラーのゆずったが、練習れんしゅうで、実戦じっせんで、えんした力持ちからもてきとしてなくてはならぬアドバイザーとなり、メモをポケットにしのばせてゲームを見守みまもった[4]同年どうねん引退いんたい

引退いんたい大毎だいまいぐんコーチ(1960ねん)を1ねんだけつとめ、大洋たいようとの日本にっぽんシリーズでは、本堂ほんどう保次やすじぐん監督かんとく三宅みやけたくさんスコアラーととも8がつから情報じょうほう収集しゅうしゅうしてメモを作成さくせい[5]。シリーズまえかおそろえたチームのぜん選手せんしゅにメモを発表はっぴょうしたが、かされず4連敗れんぱいわった[5]

退団たいだん日刊にっかんスポーツ記者きしゃ1961ねん - 1969ねん)となり、日本にほんテレビ1964ねん)→TBS1965ねん - 1969ねん)の解説かいせつしゃとしても人気にんきはくす。

1970ねん野村のむら克也かつや選手せんしゅ兼任けんにん監督かんとく根性こんじょう野球やきゅうではなく頭脳ずのう野球やきゅう理解りかいできる人材じんざいとして招聘しょうへいされ、南海なんかいホークス一軍いちぐん打撃だげきコーチに就任しゅうにん1971ねんにはおおきな交通こうつう事故じこうも奇跡きせきてき復活ふっかつし、在任ざいにんちゅう島野しまの育夫いくお富田とみたまさる藤原ふじわらみつる桜井さくらい輝秀てるひで門田かどた博光ひろみつそだて、7ねんぶりのリーグ優勝ゆうしょう貢献こうけんした1973ねん退任たいにん

1974ねんにはヤクルトスワローズ一軍いちぐん打撃だげきコーチに就任しゅうにんしし、監督かんとく荒川あらかわ、コーチの広岡ひろおか小森こもりともに「早稲田わせだカルテット[6]一角いっかくになう。投手とうしゅ部門ぶもんでも荒川あらかわのアドバイザーとして活躍かつやくし、14ねんぶりのAクラスりに貢献こうけん1975ねんからはヘッドコーチ専任せんにんとして「早稲田わせだカルテット」の中和ちゅうわざいてき役割やくわりつとめ、チームのムードづくりにてっしたが、1976ねんに1ねんだけスコアラーをつとめて退団たいだん在任ざいにんちゅうの1975ねんオフの11月8にちには東京とうきょうろく大学だいがく野球やきゅう連盟れんめい結成けっせい50周年しゅうねん記念きねん試合しあいプロOB紅白こうはくせん[7]メンバーに選出せんしゅつされ、荒川あらかわひきいるしろぐん選手せんしゅとして出場しゅつじょう

退団たいだんフリー評論ひょうろんとなり、東京とうきょう12チャンネル→テレビ東京てれびとうきょう1977ねん - 1989ねん)・ラジオ関東かんとう解説かいせつつとめた。アメリカミラーライトビールCF出演しゅつえん全米ぜんべいNo.1[なんの?]ったり、ソビエト連邦れんぽう大学生だいがくせい野球やきゅうおしえにったり[8]日本にほんテレビ「おはよう!こどもショー」の少年しょうねんチーム「モーニングス」監督かんとく1978ねん - 1980ねん)など多岐たきにわたり球界きゅうかい活躍かつやく。そのかたわらで、野球やきゅうかんする著述ちょじゅつとしても活動かつどう。「少年しょうねん野球やきゅう教室きょうしつ」「ぼくらの野球やきゅう教室きょうしつ」など「野球やきゅう上達じょうたつシリーズ」をがけ、おおくの野球やきゅう少年しょうねんけた著作ちょさくぶつ刊行かんこう。また、「日本にっぽんプロ野球やきゅう不滅ふめつめい勝負しょうぶ」「栄光えいこうのオールスターゲーム」「ちいさなだい打者だしゃ若松わかまつつとむ」「激闘げきとう日本にっぽんシリーズ30ねん」などのノンフィクションほんおお刊行かんこう

1989ねん5月18にちがんのため急逝きゅうせい。58さいぼつ

詳細しょうさい情報じょうほう[編集へんしゅう]

年度ねんどべつ打撃だげき成績せいせき[編集へんしゅう]

とし

たま

だん
ためし

ごう


せき


かず
とく

てん
やす


るい
さん
るい
ほん
るい
るい



てん
ぬすめ

るい
ぬすめ
るい




よん

たま
けい

とお


たま
さん


ころせ


りつ

るい
りつ
なが

りつ
O
P
S
1953 毎日まいにち
大毎だいまい
38 69 61 5 14 2 0 0 16 3 1 3 1 -- 6 -- 1 3 0 .230 .309 .262 .571
1954 43 61 52 9 15 1 0 1 19 4 3 0 0 0 9 -- 0 3 5 .288 .393 .365 .759
1955 69 112 98 9 20 1 0 1 24 14 0 2 1 1 12 0 0 18 2 .204 .291 .245 .536
1956 90 217 197 16 35 1 1 1 41 13 3 1 5 0 15 0 0 30 4 .178 .236 .208 .444
1957 46 79 66 10 15 3 1 0 20 8 2 0 2 2 9 0 0 15 1 .227 .320 .303 .623
1958 30 34 34 2 8 0 0 1 11 3 2 0 0 0 0 0 0 4 0 .235 .235 .324 .559
1959 10 6 5 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 0 1 0 0 0 0 .000 .167 .000 .167
通算つうさん:7ねん 326 578 513 51 107 8 2 4 131 45 11 7 9 3 52 0 1 73 12 .209 .283 .255 .538
  • 毎日まいにち毎日まいにちオリオンズ)は、1958ねん大毎だいまい毎日まいにち大映だいえいオリオンズ)に球団きゅうだんめい変更へんこう

背番号せばんごう[編集へんしゅう]

  • 4 (1953ねん - 1959ねん
  • 61 (1960ねん
  • 72 (1970ねん - 1975ねん

関連かんれん情報じょうほう[編集へんしゅう]

出演しゅつえん番組ばんぐみ[編集へんしゅう]

著書ちょしょ[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ "朝光ともみつゆみ「アリス」で初舞台はつぶたい 祖父そふはプロ野球やきゅう選手せんしゅ". ニッカンスポーツ・コム. 日刊スポにっかんすぽツ新聞社つしんぶんしゃ. 21 March 2020. 2020ねん3がつ22にち閲覧えつらん
  2. ^ a b 森岡もりおかひろしへんけんべつ全国ぜんこく高校こうこう野球やきゅう東京とうきょうどう出版しゅっぱんISBN 44902043612001ねん7がつ1にち、p3。
  3. ^ 森岡もりおか、p6。
  4. ^ a b c d 週刊しゅうかんベースボール1959ねん9がつ9にちごう「クローズ・アップ 沼沢ぬまさわかん一郎いちろう大毎だいまい)メモの秘密ひみつ」pp27-30
  5. ^ a b 週刊しゅうかんベースボール1960ねん11月9にちごう日本にっぽんシリーズ“なみだわらい”だい かされぬ三宅みやけたくさん(スコアラー)、沼沢ぬまさわかん一郎いちろう(コーチ)メモ」pp19-20
  6. ^ 世代せだいべつベストナイン】「1930ねん」テストせいから飛躍ひやくした“シンデレラボーイ”世代せだい
  7. ^ 昭和しょうわ43ねん~|球場きゅうじょう|明治めいじ神宮じんぐう野球やきゅうじょう
  8. ^ たき正男まさおぜん愛知大学あいちだいがく野球やきゅう野球やきゅう連盟れんめい選抜せんばつメンバーによるハバロフスク (ソ連それん) 親善しんぜん野球やきゅうについて」『中京大学ちゅうきょうだいがく教養きょうよう論叢ろんそうだい30かんだい3ごう、1990ねん2がつ 
  9. ^ 1983ねん4がつ30にち日本にほんハム-西武せいぶせんデーゲーム中継ちゅうけい出演しゅつえん出典しゅってん:同日どうじつ朝日新聞あさひしんぶん東京とうきょうはんテレビらん)。

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]