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牧野まきの貞久さだひさ

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牧野まきの貞久さだひさ
時代じだい 江戸えど時代じだい後期こうき
生誕せいたん 天保てんぽう6ねん12月5にち1836ねん1がつ22にち
死没しぼつ よしみひさし3ねん3月29にち1850ねん5がつ10日とおか
改名かいめい れいすすむ幼名ようみょう)、貞久さだひさ
戒名かいみょう 俊徳しゅんとくいん殿どの仁山にやまたかしよしだい居士こじ
墓所はかしょ 東京とうきょう墨田すみだ千歳ちとせよう津寺つでら
官位かんい したがえ越中えっちゅうもり
幕府ばくふ 江戸えど幕府ばくふ
はん 常陸ひたちこく笠間かさまはんあるじ
氏族しぞく 牧野まきの
父母ちちはは ちち牧野まきの貞一さだいちはは栄子えいこ野村のむら
養父ようふ牧野まきの貞勝さだかつ
つま 戸田とだただしむすめ
実子じっし:なし、養子ようしさだただし
養女ようじょまさおんな牧野まきの貞勝さだかつむすめ牧野まきのさだちょく正室せいしつ
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牧野まきの 貞久さだひさ(まきの さだひさ)は、常陸ひたち笠間かさまはんだい7だい藩主はんしゅなりさだけい牧野ぼくや10代。

生涯しょうがい

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天保てんぽう6ねん(1835ねん)12月5にちだい5だい藩主はんしゅ牧野まきの貞一さだいち長男ちょうなんとしてまれる。ちち死去しきょしたときは幼少ようしょうのため、家督かとく叔父おじ貞勝さだかつまましいだが、その貞勝さだかつが1ねん天保てんぽう12ねん1841ねん)に死去しきょしたため、その養子ようしとして家督かとくいだ。しかし幼少ようしょうのため、天保てんぽう13ねん1842ねん)には家臣かしん牧野まきの隼人はやとただし川崎かわさきよりゆきははらが主導しゅどうけんをめぐっての御家おいえ騒動そうどうこしたりしている。

よしみなが2ねん1849ねん)12月16にちしたがえ越中えっちゅうもり叙位じょい任官にんかんする。しかしよしみなが3ねん(1850ねん)3がつ29にち死去しきょした。享年きょうねん16。

はんでは貞久さだひさ夭折ようせつげんふううつりふうにつながることをおそれ、よくよしみなが4ねん1851ねん)2がつ10日とおか死去しきょしたと発表はっぴょうし(末期まっき養子ようし可能かのう年齢ねんれい下限かげんまで存命ぞんめいよそおった)、そのうえ一族いちぞくさだただし養子ようしとしてあとがせている。

系譜けいふ

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父母ちちはは

正室せいしつ

養子ようしおんな