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佐藤さとうざいひろし」のはんあいだ差分さぶん

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2021ねん5がつ24にち (月)げつ 09:21時点じてんにおけるはん

さとう ざいかん

佐藤さとう ざいひろし
生誕せいたん 佐藤さとう 政次郎まさじろう
1876ねん8がつ17にち
徳島とくしまけん名西めいせいぐん高川原たかがわらむら
死没しぼつ (1956-10-09) 1956ねん10月9にち(80さいぼつ
死因しいん 胆石たんせきしょう
墓地ぼち 北海道ほっかいどう函館はこだて住吉すみよしまち 立待岬たちまちみさき
記念きねん 北海道ほっかいどう函館はこだて住吉すみよしまち 立待岬たちまちみさき大義たいぎ滅私めっしおや石碑せきひ
住居じゅうきょ 函館はこだて盲唖もうあいん 寄宿舎きしゅくしゃ
函館はこだて湯川ゆかわまち
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
出身しゅっしんこう 哲学てつがくかん
職業しょくぎょう うぐいすけい女学校じょがっこう 教頭きょうとう
函館はこだて商船しょうせん学校がっこう 教員きょういん
函館はこだて商業しょうぎょう学校がっこう 教員きょういん
函館はこだて盲唖もうあいん 院長いんちょう
北海道ほっかいどうりつ函館はこだて盲学校もうがっこう 校長こうちょう
活動かつどう期間きかん 1897ねん - 1950ねん
著名ちょめい実績じっせき 函館はこだて盲唖もうあいん再建さいけん
手話しゅわ教育きょういく推進すいしん
函館はこだて精神せいしん文化ぶんか向上こうじょう
影響えいきょうけたもの 新井あらい奥邃おうすい
活動かつどう拠点きょてん 東京とうきょう
北海道ほっかいどう函館はこだて函館はこだて
宗教しゅうきょう キリスト教きりすときょう
配偶はいぐうしゃ あり
子供こども あり
受賞じゅしょう 函館はこだて文化ぶんかしょう 人文じんぶん科学かがく部門ぶもん(1951ねん
北海道ほっかいどう文化ぶんかしょう 教育きょういく部門ぶもん(1953ねん
北海道新聞ほっかいどうしんぶん文化ぶんかしょう 社会しゃかい文化ぶんかしょう(1955ねん
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佐藤さとう ざいひろし(さとう ざいかん、1876ねん明治めいじ9ねん8がつ17にち[1] - 1956ねん昭和しょうわ31ねん10月9にち)は、日本にっぽんろう教育きょういくしゃ社会しゃかい教育きょういくしゃ北海道ほっかいどう函館はこだてろう学校がっこう北海道ほっかいどう函館はこだて)の前身ぜんしんである函館はこだて盲唖もうあいんだい3だい院長いんちょう[* 1]特殊とくしゅ教育きょういく功労こうろうしゃ函館はこだて教育きょういくかい元老げんろうとして函館はこだて市民しみん尊敬そんけい一身いっしんあつめ、ぜんみちめくら聾唖ろうあ教育きょういくちち北海道ほっかいどうペスタロッチともばれた[3][4]。「ざいひろし」のごうで、本名ほんみょう佐藤さとう 政次郎まさじろう(さとう まさじろう)。徳島とくしまけん名西めいせいぐん高川原たかがわらむら石井いしいまち出身しゅっしん

経歴けいれき

徳島とくしまでの生活せいかつ

徳島とくしま酒造しゅぞう長男ちょうなんとして誕生たんじょう名家めいかまれのために経済けいざいてきめぐまれた幼年ようねんすごし、名西めいせいぐん唯一ゆいいつ高等こうとう小学校しょうがっこうである名西めいせい高等こうとう小学校しょうがっこう漢籍かんせきなどの学問がくもんたのしんだ[5]。しかし11さいのとき、一家いっか大黒柱だいこくばしらであった祖父そふ死去しきょちちも15さいのときに失踪しっそうし、家計かけい一気いっきくるしくなった。佐藤さとう祖父そふの「生涯しょうがいまなしんわすれるな」との遺言ゆいごんまもって勉学べんがくのぞんだものの、家計かけい考慮こうりょして上級じょうきゅう学校がっこうへの進学しんがく断念だんねん官費かんぴまなべる徳島とくしまけん尋常じんじょう師範しはん学校がっこう入学にゅうがくし、教員きょういんへのみち目指めざした[4][6]

しかし当時とうじ師範しはん学校がっこうは、佐藤さとう予想よそう相反あいはんして、幕末ばくまつ志士しし気取きどった武士ぶしあがりの生徒せいとおおかった。また教育きょういくも、くに貢献こうけんする教師きょうしつくることが方針ほうしんであり、「ひとひととのしんいを大切たいせつにし、そこから子供こどもたちはおおくをまなぶ」という祖父そふおしえを大切たいせつにしていた佐藤さとうは、不満ふまんつのらせていた[6]のち佐藤さとうはこの学校がっこうを「人間にんげん向上心こうじょうしんあつそもそもして無理むりちいさな鋳型いがたれんとした[* 2]」、教師きょうしじんを「すこしも親切心しんせつしんもなければ先輩せんぱいらしきところもなく、地獄じごくあかおにあおおにのやうなひとばかり[* 3]」ときびしく批判ひはんしている[5]

師範しはん学校がっこう不満ふまんいた佐藤さとうではあったが、同校どうこう友人ゆうじんたちによる佐藤さとう評判ひょうばんかった。非常ひじょうにひょうきんで、たくみな風刺ふうしひとわらわせることを得意とくいとし、友情ゆうじょうにもあつく、ひと中傷ちゅうしょうするような陰険いんけんさはけっしてなかったという[4]

1897ねん明治めいじ30ねん)に師範しはん学校がっこう卒業そつぎょうし、訓導くんどうとして小学校しょうがっこう教壇きょうだんった[7]。 しかし在職ざいしょく1ねんはん徳島とくしまち、1899ねん明治めいじ32ねん)にわずか3えん元手もとで上京じょうきょうした[8][* 4]。これについて佐藤さとうのちに「は曾て小学校しょうがっこう教師きょうしとなったが町村ちょうそんちょう干渉かんしょうぐん視学しがく指図さしず不平ふへいおこしてやめた[* 5]」とかたっているが、当時とうじ実家じっか家屋かおく田畑たはた一切いっさい手放てばなして借家しゃくやまいになるほど家計かけい切迫せっぱくしていたことから、とぼしい給料きゅうりょう一家いっかやしなうことになった佐藤さとうが、このままでは先行さきゆきのめどがたないとかんがえ、教育きょういくしゃとしてよりちからをつけるべく上京じょうきょう決意けついしたときもある[4]

東京とうきょうでの生活せいかつ

上京じょうきょうした佐藤さとうどう1899ねん東洋大学とうようだいがく前身ぜんしんである哲学てつがくかん入学にゅうがくした。にちちゅう学業がくぎょうくわえ、自身じしん生活せいかつ学費がくひ家族かぞくへの仕送しおくりのため、夜間やかん玄関番げんかんばん仕事しごとや、出版しゅっぱん書肆しょし育成いくせいかいでの雑誌ざっし編集へんしゅうのアルバイトなどをこなし、睡眠すいみん時間じかんを2、3あいだめる日々ひびおくった。極貧ごくひん生活せいかつ苦学くがくにもこごめせず、東洋とうよう哲学てつがく西洋せいよう哲学てつがく宗教しゅうきょうなど勉学べんがくはげんだ[11]。また雑誌ざっし編集へんしゅう仕事しごとでは『倫理りんりがくしょ解説かいせつ』、『心理しんりがくしょ解説かいせつ』、『教育きょういくがくしょ解説かいせつかく12へん編集へんしゅう、『日本にっぽん倫理りんり彙編』10かん編集へんしゅう手伝てつだいとして参加さんかした[4][8]

1902ねん明治めいじ35ねん)に哲学てつがくかん卒業そつぎょう雑誌ざっし編集へんしゅう経験けいけんをいかし、教育きょういく雑誌ざっし実験じっけん教授きょうじゅ指針ししん』(1906ねんに『実験じっけん教育きょういく指針ししん』と改題かいだい[12])を発行はっこうした。東京とうきょう帝国ていこく大学だいがく文科ぶんか大学だいがく当時とうじ学長がくちょうである井上いのうえ哲次郎てつじろうら150めい賛助さんじょいんとしてつら[11]、その内容ないよう教授きょうじゅ要綱ようこう教授きょうじゅじょう注意ちゅうい現場げんば体験たいけんだん児童じどう心理しんりがく小児しょうに医学いがくなど多岐たきにわたった。とくに「教育きょういくとは社会しゃかいてき事業じぎょうであるべきにもかかわらず、今日きょう教育きょういく個性こせい自由じゆう発想はっそうみとめず、子供こどもたちを器械きかいのように教育きょういくするものであり、改正かいせいすべき」という佐藤さとう理論りろんは、おおくの支持しじあつめた[8]。また、ろう教育きょういくにまだかかわっていない当時とうじ、この雑誌ざっしなかですでに障害しょうがいしゃ聾唖ろうあについての記事きじ頻繁ひんぱん掲載けいさいしていた[13]。『実験じっけん教授きょうじゅ指針ししん』はだい1ごうから3はん4はん増刷ぞうさつという盛況せいきょうで、最盛さいせいには2まん発行はっこう部数ぶすうほこった[4]

新井あらい奥邃おうすいとの出逢であ

佐藤さとう哲学てつがくかん東洋とうよう西洋せいよう哲学てつがくまなうちに、当時とうじ哲学てつがく青年せいねん同様どうようなやくるしみにおちいっていた。その苦難くなんからだっしようと、当時とうじ教育きょういく雑誌ざっし主筆しゅひつ編集へんしゅう仲間なかまでもあった渡辺わたなべ英一ひでかず日本女子大にほんじょしだい学校がっこう教授きょうじゅ[14])ととも学者がくしゃ宗教しゅうきょうたずあるいたすえ1903ねん明治めいじ36ねん)に、キリスト教徒きりすときょうと教育きょういくしゃでもある新井あらい奥邃おうすい出逢であった[15]キリスト教きりすときょう博愛はくあいおしえを教育きょういくにいかすかれこころざし感銘かんめいけた佐藤さとうは、新井あらい門下もんかはいり、かれ終生しゅうせいあおいで教育きょういくしゃとしての心構こころがまえをまなんだ[8]新井あらいつうじ、佐藤さとう自身じしんキリスト教徒きりすときょうととなった[1]

新井あらい門下もんかにおいて、佐藤さとう渡辺わたなべともあきらしょうされ、新井あらい原稿げんこうなど重要じゅうよう仕事しごとまかされたことで、仲間なかまからは書記官しょきかんちょうともばれた。以来いらい佐藤さとう新井あらい死去しきょするとしまで、家族かぞくぐるみでおしえをつづ[* 6]つよ人格じんかくてき感化かんかけた[4]

佐藤さとうがいかに新井あらい心酔しんすいしていたかは、新井あらい死去しきょ葬儀そうぎ会葬かいそうしゃたちの帰宅きたくも、佐藤さとう1人ひとりはかのこり、ついには子供こどものようにした[15]」「その新井あらいからもらった衣服いふく自宅じたくゆかあいだき、こういて合掌がっしょうささげることをつねとしていた[4]」「77さいのとき、いたうえ病床びょうしょうでありながら上京じょうきょうし、新井あらいはか墓参ぼさんした[16]」とのエピソードにもあらわれている。

女学校じょがっこう開校かいこう

上野うえの女学校じょがっこう時代じだい左端ひだりはし佐藤さとう中央ちゅうおう女児じょじ佐藤さとう次女じじょ

実験じっけん教授きょうじゅ指針ししん』で活躍かつやくする佐藤さとうに、ある資産しさんをかけ、佐藤さとう理想りそうとする学校がっこう設立せつりつ資金しきん提供ていきょうちかけた。まだ女子じょし教育きょういくへの関心かんしんうすかった1904ねん明治めいじ37ねん)、佐藤さとう友人ゆうじんらとともに、上野うえの小規模しょうきぼながら5ねんせい女学校じょがっこう私立しりつ上野うえの女学校じょがっこう別名べつめいうぐいすけい女学校じょがっこう上野うえの高等こうとう女学校じょがっこう上野学園大学うえのがくえんだいがく[17])を設立せつりつよく1905ねん明治めいじ38ねん)に開校かいこうし、下町したまちやく50めい子女しじょ相手あいて教育きょういくにあたった[4][14]

上野うえの女学校じょがっこうでは、佐藤さとう当時とうじけん妻良めらはは主義しゅぎ反対はんたいし、女性じょせい自由じゆう自立じりつ尊重そんちょうした[13][14]生徒せいととも校内こうない新聞しんぶん発行はっこう、さらに観察かんさつという科目かもくもうけ、地域ちいき文化財ぶんかざい動物どうぶつえん図書館としょかん美術館びじゅつかん見学けんがくなどの課外かがい授業じゅぎょう完成かんせいたかめるという、ユニークなみもあった。このころ私生活しせいかつではつまむかえ、子供こどもにもめぐまれ、公私こうしともに充実じゅうじつ日々ひびおくっていた[8]

しかし、この学校がっこう増築ぞうちくにあたり、融資ゆうしをしていた銀行ぎんこうが「女子じょしおっとつかえるための花嫁はなよめ修業しゅうぎょうだけすればく、自由じゆう革新かくしんてき校風こうふう不要ふよう」と教育きょういく内容ないよう干渉かんしょうしてきた。1人ひとり1にん個性こせい大切たいせつにしたいとする佐藤さとう断固だんことして反対はんたいしたものの、銀行ぎんこうがわ意向いこうわらなかった。これが原因げんいんとなり、創立そうりつから10ねん1915ねん大正たいしょう4ねん)、佐藤さとうこころざしおなじくするおおくの教師きょうしたちとともに、しまれつつ学校がっこうった[8][17]

なお人気にんきほこった教育きょういく雑誌ざっし実験じっけん教授きょうじゅ指針ししん』も、のちには部数ぶすうが700から800減少げんしょうし、1910ねん明治めいじ43ねん)に廃刊はいかんした[4]。この雑誌ざっし衰退すいたい理由りゆうは、佐藤さとう次第しだい学校がっこう経営けいえい集中しゅうちゅうするようになり、雑誌ざっしへのちからいたといわれるが[14]社会しゃかい主義しゅぎ支持しじしゃ社説しゃせつや『平民へいみん新聞しんぶん』を支持しじする論文ろんぶん掲載けいさいするなど、はん権力けんりょく姿勢しせい垣間見かいまみえていたことから、当局とうきょく弾圧だんあつけたとのせつもある[11][14]

北海道ほっかいどうでの生活せいかつ

教師きょうしとして理想りそうかかげても、古来こらいからの日本にっぽん慣習かんしゅうはばまれるとかんがえた佐藤さとうは、新天地しんてんちもとめ、恩師おんし新井あらいのゆかりのである北海道ほっかいどう函館はこだてへわたることを決意けついした。それにあたって佐藤さとう新井あらいのもとをたずね、女子じょし教育きょういくささげた「佐藤さとう政次郎まさじろう」は退職たいしょくとともにえたとし、あらたな名前なまえもとめた。そんな佐藤さとう新井あらいは「どのような職務しょくむでもけっしておこたることなく、こういそがず、ひろしひろしをもってのぞみ、しずかにことるのをつ『ひろしれ』」との意味いみで「ざいひろし(ざいかん)」のごうあた[8]以来いらい佐藤さとう終生しゅうせい、「佐藤さとうざいひろし」を名乗なのった[1]

1916ねん大正たいしょう5ねん)、佐藤さとう妻子さいしとも北海道ほっかいどうへわたった。函館はこだて佐藤さとう生活せいかつのため、函館はこだて商船しょうせん学校がっこう北海道ほっかいどう函館水産はこだてすいさん高等こうとう学校がっこう)の教員きょういんとなるが、校内こうない流行りゅうこうしていた鉄拳てっけん制裁せいさい反抗はんこうしたことで衝突しょうとつこし、退職たいしょく[18]つづいて函館はこだて商業しょうぎょう学校がっこう北海道ほっかいどう函館はこだて商業しょうぎょう高等こうとう学校がっこう)の嘱託しょくたく教員きょういんとして1935ねん昭和しょうわ10ねん)まで教壇きょうだん[19]国語こくご漢文かんぶんおしえた。またこうつとむのみならず、生徒せいと自宅じたくぶなどして親身しんみにかかわっていた[18]

一方いっぽうでは紀元節きげんせつもよおされた函館はこだて教員きょういんたちによる講演こうえんかいで、佐藤さとう講演こうえん好評こうひょうたことが契機けいきとなり、佐藤さとう1917ねん大正たいしょう6ねん)に函館はこだて毎日新聞まいにちしんぶん入社にゅうしゃ[20]記者きしゃとして「彦左衛門ひこざえもん」または「彦左」のペンネームを名乗なのって教育きょういく時評じひょう執筆しっぴつした[1][18]東京とうきょうでの『実験じっけん教授きょうじゅ指針ししん』で手腕しゅわんるった佐藤さとう教育きょういく論文ろんぶんは、函館はこだてでもたか評価ひょうか函館はこだて教育きょういくかいにおける一服いっぷく清涼せいりょうざいともいえる存在そんざいであった[4]

当時とうじ新聞しんぶん教育きょういく時評じひょう社会しゃかい教育きょういくにおける唯一ゆいいつ読本とくほんであったため、佐藤さとう記事きじ教育きょういく現状げんじょうじょうおおきな指標しひょうとなり[4]佐藤さとう徐々じょじょひろまってった[21]教育きょういく以外いがいにも、1920年代ねんだいの「癩病らいびょう撲滅ぼくめつ運動うんどう」にさいしては、同紙どうし函館はこだて新聞しんぶん両紙りょうしで「帝国ていこく面目めんぼくにかかわるだい問題もんだい」とうったえ、函館はこだて市民しみん寄附きふびかけた[22]

ろう教育きょういくみち

立待岬たちまちみさき 谷地頭やじがしら共同きょうどう墓地ぼち大義たいぎ滅私めっしおや」の石碑せきひ
函館はこだて元町もとまち函館はこだて盲唖もうあいん跡地あとち昭和しょうわ中期ちゅうき函館はこだて盲学校もうがっこうろう学校がっこうとして別々べつべつ場所ばしょ移転いてんしたため、跡地あとちしめ看板かんばんのみがあり、盲唖もうあいん建物たてもの現存げんそんしない。

そんなおり佐藤さとう函館はこだて市長しちょうである函館はこだて教育きょういく会長かいちょう齋藤さいとう與一よいちろうから、函館はこだて盲唖もうあいん再建さいけん依頼いらいされた。特殊とくしゅ教育きょういくがまだ義務ぎむされていない当時とうじ同院どういん運営うんえい地元じもと有志ゆうしたちの寄付きふまかなわれていたために経営けいえいなんおちいり、大正たいしょう時代じだい後期こうきには廃校はいこう寸前すんぜんおちいっていたのである。くわえて火災かさいおお函館はこだてで、校舎こうしゃは2函館はこだて大火たいか暴風ぼうふう、および老朽ろうきゅうさらされ、生徒せいとたちものち佐藤さとうが「さんじゅうにんはかりの盲唖もうあがションボリとさびしくあつまってる」とかたっているような状況じょうきょうであった[20]初代しょだい院長いんちょう篠崎しのざき清次せいじは36さい死去しきょ[* 1]、そのあといだ伊東いとう松太郎まつたろう病気びょうき療養りょうよういられていた。そうした窮状きゅうじょうなか齋藤さいとういん再建さいけん函館はこだて図書館としょかんちょう岡田おかだ健蔵けんぞう相談そうだんし、岡田おかだ適任てきにんしゃとして、函館はこだて毎日新聞まいにちしんぶん教育きょういくろんろんじていた佐藤さとうすぐれた教育きょういくしゃとして推薦すいせんしたのだった[4][23]生徒せいとたちからは一切いっさい授業じゅぎょうりょうをとらない方針ほうしんのため無給むきゅうという悪条件あくじょうけんであったが[21]1922ねん大正たいしょう11ねん)、佐藤さとうはこの院長いんちょう就任しゅうにんした。

おりしも1922ねんは、佐藤さとうつまむすめ2にん死別しべつし、17さいから1さいまでけい7にん子供こどもかかえたとなり、院長いんちょう就任しゅうにんには恩師おんし新井あらい奥邃おうすい死去しきょし、人生じんせい最大さいだい試練しれんといっていい時期じきであった[24]逆境ぎゃっきょうにもかかわらず、このはなし快諾かいだくしたのは、教育きょういく金銭きんせんてき価値かちがあってはいけない、報酬ほうしゅう教育きょういくこそ自分じぶんのぞんだ校風こうふうだとのかんがえであった[20]。その意気込いきごみをあらたにするべく、立待岬たちまちみさき谷地頭やじがしら共同きょうどう墓地ぼちに「おのれてて社会しゃかいくすことはひとおこなうべきみちであり、私利しり私欲しよく感情かんじょうってはいけない」との意味いみで「大義たいぎ滅私めっしおや(たいぎししんをめっす)」ときざんだ石碑せきひ建立こんりゅうした[4]よく1923ねん大正たいしょう12ねん)には一家いっか離散りさんし、年少ねんしょう子供こども5にん親戚しんせき知人ちじんあづけ、年長ねんちょう子供こども2にんとともに盲唖もうあいん寄宿舎きしゅくしゃうつんで仕事しごとにあたった[24]

函館はこだて盲唖もうあいん院長いんちょう就任しゅうにんした佐藤さとうは、老朽ろうきゅうはげしいちく30ねん校舎こうしゃ改築かいちくにとりかかった。函館はこだて新聞しんぶん紙上しじょうでその現状げんじょううったえて寄付きふきんつのり、後援こうえん会員かいいんかずを4ばいにまで拡大かくだいした。さらに北海道ほっかいどうないしょう中学校ちゅうがっこうへ80まん慈善じぜんぶくろおくり、生徒せいとたちととも市内しない家々いえいえ戸別こべつ訪問ほうもんしたりと、募金ぼきん活動かつどうんだ[24]愛国あいこく婦人ふじんかいバザー慈善じぜん音楽おんがくかいなどの活動かつどうおこなわれた。雄弁ゆうべんでもあった佐藤さとううったえは、救済きゅうさい教育きょういく必要ひつようせいについておおくの市民しみん感銘かんめいあたえた[23]。この活動かつどう最中さいちゅう前述ぜんじゅつのとおり同院どういん院長いんちょうとしては無給むきゅうであり、生活せいかつ商業しょうぎょう学校がっこう嘱託しょくたく教員きょういんとしての給料きゅうりょうまかなわれていた。1925ねん大正たいしょう14ねん)には虫垂炎ちゅうすいえん病苦びょうくもあった[4]。このきびしい状況じょうきょうなか佐藤さとう子供こどもたち7にんのうち5にん盲唖もうあいん教員きょういんとなり、ちち公私こうしどもささえた。やがて寄付きふきん平成へいせいでいうところの7せんまんえんにまでたっし、どう1925ねん、ついにしん校舎こうしゃ完成かんせいした[25]。その佐藤さとう手腕しゅわんにより、安定あんていした経営けいえいたもつことができた[26]

3ねん1928ねん昭和しょうわ3ねん)には、日本にっぽん聾唖ろうあ教育きょういく総会そうかい盲唖もうあいん開催かいさいされた。このかい私立しりつ盲唖もうあいん開催かいさいされるのははじめてのことであり、地元じもと協力きょうりょくあおぎながら盲唖もうあいん再建さいけんげた佐藤さとう手腕しゅわんは、社会しゃかい事業じぎょうとして日本にっぽん全国ぜんこくてきてもたか評価ひょうかされ[4][25]函館はこだて盲唖もうあいん東京とうきょう以北いほくでの有数ゆうすう盲唖もうあいんとなった[7]

1924ねん大正たいしょう13ねん)には日本にっぽん聾唖ろうあ協会きょうかい評議ひょうぎいん任命にんめいされ、1935ねん昭和しょうわ10ねん)までつとげた。財政ざいせい緊縮きんしゅく影響えいきょうにより盲唖もうあ教育きょういく補助ほじょ大幅おおはば減額げんがくいられたさいには、委員いいんたちと協力きょうりょくし、補助ほじょ回復かいふくという結果けっかをもたらした。また、日本にっぽん聾唖ろうあ協会きょうかい北海道ほっかいどう支部しぶ結成けっせいにもちからくした[27]

また勉強べんきょう以外いがい教育きょういく理念りねんとして、校内こうないには用務員ようむいんかず、教師きょうしたちが率先そっせんして清掃せいそう活動かつどうにあたることで、子供こどもたちも一緒いっしょ校内こうないがい清掃せいそう活動かつどう参加さんかするようになった[28]老人ろうじんホームの訪問ほうもん奉仕ほうししんやしなったり、地元じもと商店しょうてん工場こうじょう協力きょうりょくもとめることで、子供こどもたちに和裁わさい洋裁ようさい洗濯せんたくくつ製造せいぞうなどを教授きょうじゅするといった活動かつどう展開てんかいした[29]

くち話法わほうとの対立たいりつ

この当時とうじ日本にっぽんのろう教育きょういくおおきな転機てんきむかえていた。それまでの手話しゅわほうかわあらたな教育きょういくほうとしてくち話法わほう言葉ことばこえして発音はつおんする方法ほうほう)が普及ふきゅうはじめ、手話しゅわ一切いっさいみとめないという運動うんどうにまで発展はってんしていた。1936ねん昭和しょうわ11ねん発行はっこう雑誌ざっし聾唖ろうあ教育きょういく』には、あずさけいなまなる人物じんぶつちょ[* 7]手話しゅわ聾唖ろうあしゃ同士どうし会話かいわ手段しゅだんであり、健常けんじょうしゃ会話かいわすることができない。かといって、健常けんじょうしゃ手話しゅわ学習がくしゅうし、多数たすうしゃ少数しょうすうしゃ犠牲ぎせいになる必要ひつようはない。手話しゅわくちばなし最大さいだいてきである[29][31]」「多数たすう教育きょういくのために少数しょうすう犠牲ぎせいはやむをない[31][32]」とろんじられ、全国ぜんこく聾唖ろうあ学校がっこう手話しゅわ学級がっきゅう廃止はいしし、手話しゅわ使つか子供こども全体ぜんたいの1わり以下いかにまでっていた。しかし、それまで手話しゅわ使つかっていた子供こどもたちにとってくちばなし大変たいへん苦痛くつうであり、補聴器ほちょうき当時とうじ聾唖ろうあしゃにとってただしい発音はつおん困難こんなんさは想像そうぞうぜっするものがあった[29][30]

これにたいして佐藤さとうは、『聾唖ろうあ教育きょういく』の翌々よくよくごうで、『理想りそう実際じっさい』とだいした9000以上いじょう長文ちょうぶんおよ教育きょういく論文ろんぶん発表はっぴょうし、くち話法わほうこうから対立たいりつした[30][32]論文ろんぶんない佐藤さとうは「くちばなし教育きょういく効果こうかげる生徒せいと全体ぜんたいの2、3わりぎず、聾唖ろうあしゃにとって手話しゅわ必要ひつよう不可欠ふかけつなものである」「くちばなし中心ちゅうしんとした聾唖ろうあ教育きょういくでは国語こくご中心ちゅうしんであり、単純たんじゅん会話かいわにほとんどの労力ろうりょくついやされるため、道徳どうとく地理ちり歴史れきし理科りか算術さんじゅつなどをまなひまがなくなるが、手話しゅわもちいれば簡単かんたん教育きょういく可能かのうとなる」という持論じろん展開てんかいした[32][33]。そして以下いかのようにむすび、少数しょうすうしゃ多数たすうしゃ犠牲ぎせいにすることへの疑問ぎもんと、愛情あいじょうめた教育きょういくでハンディをもつ児童じどう勇気ゆうき自信じしんあたえるべきとの主張しゅちょううったえた[29]

前略ぜんりゃく少数しょうすうしゃをして多数たすうしゃ犠牲ぎせいしゃたらしむることもまた人道じんどう趣旨しゅしにかなはぬとおもふ。これ功利こうりてき言説げんせつであり、覇者はしゃみちであり、どう(やや)もすれば強者きょうしゃ横暴おうぼうとならざるをないのである。(中略ちゅうりゃく教育きょういくあい精神せいしん根基こんきくべきであり、しかしてあい精神せいしん如何いかなる微細びさいものたいしても犠牲ぎせいつよふるものではない。(中略ちゅうりゃくしかるにひとり聾唖ろうあしゃたいしては、正常せいじょうしゃ立場たちばち、おのれ同様どうようになれとつよふるくちばなし主義しゅぎ教育きょういく根元ねもとおいだい疑問ぎもんをはさまざるをないのである。 — 佐藤さとう 1936, pp. 15–16より引用いんよう

この実践じっせんとして、函館はこだて盲唖もうあいんでは手話しゅわくちばなしを、それぞれ生徒せいと特性とくせいわせる教育きょういく実施じっしされた[* 8]。その結果けっか、ほかの学校がっこうでは3年生ねんせいになってから1年生ねんせい学習がくしゅう内容ないよう理解りかいされるところを、盲唖もうあいんでは普通ふつうこうおな学年がくねん対応たいおう授業じゅぎょうおこなうことができた[29]。また勉強べんきょう以外いがいにも、盲唖もうあいん学芸がくげいかいでは、能力のうりょくあわせたプログラムをんで手話しゅわくちばなし使つかけることで、子供こどもたちは人前ひとまえきと音楽おんがくげき披露ひろうすることができた。くちばなし能力のうりょく生徒せいと能力のうりょく評価ひょうかしない盲唖もうあいん教育きょういくは、地域ちいき人々ひとびとにも好意こういてきめられて感銘かんめいあたえ、『函館はこだて新聞しんぶん』でも生徒せいとたちが学芸がくげいかい喝采かっさいびたことがほうじられた[35]

生徒せいと1にん1にんゆたかな人生じんせいあゆむことのできる教育きょういくこそ、佐藤さとう目的もくてきであり、佐藤さとうはろう学校がっこうのことを「たんなる勉強べんきょうではなく、家庭かていであり、まち」「おや兄弟きょうだいとも会話かいわのできない子供こどもたちにとって、ひとができ、会話かいわはずむ、人生じんせい表現ひょうげんする愛情あいじょうのつまったいえ」と表現ひょうげんした。この主張しゅちょうには保護ほごしゃ地域ちいき住民じゅうみん教育きょういくかいまでもが感化かんかけ、盲唖もうあいん教育きょういく地域ちいき一丸いちがんとなって協力きょうりょくするまでになった[29]

同様どうようくち話法わほうつよ反対はんたいした教育きょういくしゃ大阪おおさか市立しりつ聾唖ろうあ学校がっこう大阪おおさか府立ふりつ中央ちゅうおう聴覚ちょうかく支援しえん学校がっこう校長こうちょう高橋たかはしきよしがおり、佐藤さとう高橋たかはしふか交流こうりゅうった。前述ぜんじゅつ日本にっぽん聾唖ろうあ教育きょういく総会そうかい開催かいさい以来いらい函館はこだて盲唖もうあいん沿革えんかくには大阪おおさか市立しりつ聾唖ろうあ学校がっこうとの交流こうりゅうしめ記事きじ登場とうじょうしており、また大阪おおさか市立しりつ聾唖ろうあ学校がっこう学校がっこうにも、函館はこだて大火たいかった盲唖もうあいん見舞みまいきんおくったことなどがしるされている。また高橋たかはし長女ちょうじょは、ちちがいつも手話しゅわについて佐藤さとうはなっていたとかたっており[30]佐藤さとう高橋たかはしつよきずなむすびついていたとられている[36]前述ぜんじゅつ佐藤さとう論文ろんぶんも、大阪おおさか市立しりつ聾唖ろうあ学校がっこうでは会報かいほう転載てんさいされ、ひろまれることになった[32]

ただし佐藤さとう自身じしん聾唖ろうあおしえたことや、手話しゅわ擁護ようごにもかかわらず佐藤さとう自身じしん手話しゅわ直接ちょくせつもちいて聾唖ろうあ教育きょういくにあたったことは確認かくにんされていない。佐藤さとう次女じじょも、ちち手話しゅわをあまり使つかわなかったと証言しょうげんしている。函館はこだて盲唖もうあいん無給むきゅうのために、生活せいかつるための函館はこだて商業しょうぎょう学校がっこうでの仕事しごとしゅう4にちめており、ほかにも講演こうえん新聞しんぶんしゃでの仕事しごと依頼いらいもあったため、これが盲唖もうあいんでの直接的ちょくせつてき指導しどう困難こんなんにさせた一因いちいんられている[27][37]

戦後せんご1947ねん昭和しょうわ22ねん)より、敗戦はいせんによる経済けいざいかい混乱こんらん物資ぶっし不足ふそく物価ぶっか高騰こうとうにともない佐藤さとう次第しだい健康けんこうがいした。同年どうねん函館はこだて盲唖もうあいん経営けいえいなんから市立しりつ移管いかんされて函館はこだて市立しりつ盲唖もうあ学校がっこうとなり、よく1948ねん昭和しょうわ23ねん)にはみちりつ移管いかん、さらに盲学校もうがっこうろう学校がっこうかれ、北海道ほっかいどうりつ函館はこだて盲学校もうがっこう北海道ほっかいどうりつ函館はこだてろう学校がっこうとして発足ほっそくした[4]佐藤さとう病気びょうきながら、両校りょうこう校長こうちょうとして発令はつれいされた。そのがんとして手話しゅわほう擁護ようごつづけ、じゅんくち話法わほうみとめることはなかった[37][* 8]

地域ちいき精神せいしん文化ぶんか向上こうじょう

ろう教育きょういく一方いっぽうで、佐藤さとう社会しゃかい教育きょういくしゃとして、いくつもの研修けんしゅう団体だんたい主宰しゅさい[7]地域ちいき青少年せいしょうねん教育きょういくにもちかられた。1925ねんまつごろより、佐藤さとうのもとに出入でいりしていた青年せいねん男女だんじょあつまり、盲唖もうあいん会場かいじょうとして、毎週まいしゅう土曜どよう古典こてん聖書せいしょなどを学習がくしゅうする「土曜会どようかい」が開催かいさいされた。1927ねん昭和しょうわ2ねん)には毎月まいつきだい2木曜もくよう青年せいねん教師きょうしつどう「木曜もくようかい」、1928ねんには毎年まいとしなつに1週間しゅうかんおこなわれる「夏季かき論語ろんごかい」が発足ほっそくし、1932ねん昭和しょうわ7ねん)にはこれらの参加さんかしゃたちの要望ようぼうこたえて「なおともかい」が発足ほっそくした[38]

また、「希望きぼうしゃ学徒がくと連盟れんめい」や、その後身こうしんみどりせいかい」の学生がくせいたちも佐藤さとうしたい、佐藤さとうかれらの相談そうだん指導しどうにもあたった[38]佐藤さとうのもとにたかったものたちのなかで、思想しそうてき影響えいきょうけたものすうひゃくめいのぼった[25]佐藤さとうのもとではたらくことをのぞみ、盲唖もうあいん教員きょういんとなったものおお[38]。ただし、佐藤さとうあこがれて盲唖もうあいん就職しゅうしょくしたものの、聾唖ろうあとの意思いし疎通そつう困難こんなんさや盲唖もうあいん窮乏きゅうぼうから、短期間たんきかん盲唖もうあいん退職たいしょくしたものすくなくなかった[38]

やがてにちちゅう戦争せんそう勃発ぼっぱつし、戦争せんそう激化げきかすると、佐藤さとう青年せいねんたちをあつめて人生じんせい講座こうざひらき、「戦争せんそうではなに解決かいけつしません。戦争せんそうのない社会しゃかいにしなければなりません」とき、みなからは慈父じふのようにしたわれた[39]講演こうえんにおいても北海道ほっかいどうない人々ひとびとしたしまれ、晩年ばんねん病床びょうしょうにあっても、直前ちょくぜんまで後進こうしん指導しどうつづけていた[4]

晩年ばんねん

立待岬たちまちみさき 谷地頭やじがしら共同きょうどう墓地ぼち 佐藤さとうざいひろし墓碑ぼひ

1949ねん昭和しょうわ24ねん)4がつくんめくらいん初代しょだい院長いんちょう篠崎しのざき清次せいじ息子むすこである篠崎しのざき平和へいわ函館はこだてろう学校がっこう校長こうちょうき、めくらろう両校りょうこう校長こうちょうであった佐藤さとうは、盲学校もうがっこう専任せんにんとなった[3]よく1950ねん昭和しょうわ25ねん)、盲学校もうがっこう校長こうちょう退職たいしょくし、その教諭きょうゆとして後進こうしん指導しどうにあたった[4]同年どうねんみなれた校内こうない寄宿舎きしゅくしゃ函館はこだて湯川ゆかわまちうつんだ[37]

1951ねん昭和しょうわ26ねん)からよく1952ねん昭和しょうわ27ねん)にかけては、北海道新聞ほっかいどうしんぶんでコラムを連載れんさいした。実質じっしつより形式けいしきおもんじる当時とうじ宗教しゅうきょう教育きょういくかい皮肉ひにくたっぷりに批判ひはんした文章ぶんしょうや、古今ここん東西とうざい知識ちしきぜた教育きょういく人生じんせいろんなど、するど感覚かんかくとユーモアにちた多彩たさい内容ないようであり、函館はこだて郷土きょうど史家しかである神山かみやましげるとの教育きょういく論争ろんそう実名じつめいりの函館はこだて人物じんぶつひょう椴法華とどほっけむら旅行りょこうなど、地元じもとかんする興味深きょうみぶか記述きじゅつおおかった[40]

どう1951ねん函館はこだて文化ぶんかしょう人文じんぶん科学かがく部門ぶもん)を受賞じゅしょう[41]1953ねん昭和しょうわ28ねん)に北海道ほっかいどう文化ぶんかしょう教育きょういく部門ぶもん)、1955ねん昭和しょうわ30ねん)に北海道新聞ほっかいどうしんぶん文化ぶんかしょう社会しゃかい文化ぶんか部門ぶもん)を受賞じゅしょうした[4][42]

1956ねん昭和しょうわ31ねん)、「ただしんのまま」の一言ひとことだけをのこし、胆石たんせきしょうにより死去しきょ[4]ぼつ年齢ねんれい80さい。その遺骨いこつ前述ぜんじゅつした立待岬たちまちみさきの「大義たいぎわたしおやほろぼす」の石碑せきひした埋葬まいそうされた。晩年ばんねん親交しんこうのあった歌人かじん宮崎みやざき郁雨いくうは「小説しょうせつの『っちゃん』のモデル漱石そうせきにあらずばけだわかざいひろし[* 9]」「ひゃくにん弟子でしに歎かれせんにんともしまれてんされし[* 9]」など40しゅ短歌たんかみ、佐藤さとうしんだ[37]1960ねん昭和しょうわ35ねん)、門弟もんてい関係かんけいしゃらの寄付きふにより墓碑ぼひ建立こんりゅうされ、墓碑ぼひめい齋藤さいとう與一よいちろう手掛てがけた[16]

なお死去しきょ前後ぜんごして、市立しりつ函館はこだて図書館としょかん現在げんざい函館はこだて中央ちゅうおう図書館としょかん)は教育きょういく雑誌ざっし実験じっけん教授きょうじゅ指針ししん』をふく著作ちょさく新井あらい奥邃おうすいかんするきゅうぞう資料しりょう寄贈きぞうけ、これらを「ざいひろし文庫ぶんこ」の郷土きょうど資料しりょうくわえている[43]

評価ひょうか

函館はこだて文化ぶんかしょう受賞じゅしょうについて、齋藤さいとう與一よいちろうは「いまさらいうまでもないその人柄ひとがら」とだいし、佐藤さとう以下いかのようにたか評価ひょうかしている。

先生せんせい非常ひじょう経営けいえい困難こんなんとたたかいながらさんじゅう年間ねんかん函館はこだて盲唖もうあ教育きょういく従事じゅうじし、学校がっこう今日きょうあらしめた功労こうろうしゃですが、学校がっこう私立しりつから市営しえいみち営となるまでその苦心くしんはたいへんなものでした。しかも自分じぶん教育きょういく信条しんじょうをいささかもげずなにものにもこびることなくその所信しょしんつらぬいたことは現在げんざい函館はこだてめくら・ろう学校がっこう校風こうふういちだんの光彩こうさいをそえたのです。 — 佐藤さとうざいひろし先生せんせい顕彰けんしょうかい 1995, p. 23より引用いんよう

北海道ほっかいどう国際こくさい交流こうりゅうセンターの代表だいひょう理事りじであるだい総一郎そういちろうは、佐藤さとう以下いかのようにたか評価ひょうかしている。

佐藤さとうざいひろし政次郎まさじろう先生せんせいは、函館はこだてめくらろう両校りょうこうにとってのだい功労こうろうしゃであるばかりでなく、函館はこだてにおける偉大いだい教育きょういくしゃ思想家しそうかであり、秀逸しゅういつした指導しどうしゃでもありました。(中略ちゅうりゃく市民しみん意識いしき啓発けいはつ教育きょういく多大ただい影響えいきょうあたえていた。先生せんせい薫陶くんとうけて、いまもなお教育きょういくかい経済けいざいかいおおきく活躍かつやくし、函館はこだてのために貢献こうけんしているひとおおくおられるということは、ざいひろし先生せんせい偉大いだいさをしょうするものといえよう。 — 佐藤さとうざいひろし先生せんせい顕彰けんしょうかい 1995, p. 1より引用いんよう

東京とうきょう滞在たいざい出版しゅっぱんした教育きょういく雑誌ざっし実験じっけん教授きょうじゅ指針ししん』について、教育きょういく石戸谷いしとや哲夫てつお自著じちょで「教育きょういくかい開眼かいがん先駆せんくしゃたち」とだいし、「平民へいみんしゃ呼応こおうして、教員きょういん社会しゃかいてき開眼かいがんはたらいたのは、官学かんがく教育きょういく学者がくしゃたちではなく、『実験じっけん教授きょうじゅ指針ししん主筆しゅひつにんてん佐藤さとう政次郎まさじろうと、『教育きょういく実験じっけんかい主筆しゅひつ隈川くまがわ渡辺わたなべ英一ひでかずとであった[* 10]」とべている[44](『にんてん』は当時とうじ佐藤さとうごう[11]

上野うえの女学校じょがっこう退職たいしょくにあたっては、卒業生そつぎょうせいたちが総会そうかいひらき、同窓会どうそうかい母校ぼこうとの絶縁ぜつえん宣言せんげんした[14]。また、おおくのおしたちが佐藤さとう退職たいしょく抗議こうぎし、ぬるきゅうかい発足ほっそくさせ、佐藤さとうあおぎ、そのながきにわたって佐藤さとうおしえをつづけていた。佐藤さとう晩年ばんねんには彼女かのじょらの子供こども函館はこだて盲唖もうあいん寄宿きしゅくし、佐藤さとう生活せいかつともにしたケースもある[45]。これらのことから佐藤さとう影響えいきょうりょくおしたちにしたわれる佐藤さとう人間にんげんせい魅力みりょく評価ひょうかするこえもある[14][46]

佐藤さとうのもとで主宰しゅさいされた研修けんしゅう団体だんたいについて、函館はこだて盲唖もうあいん生徒せいとであった日本点字図書館にほんてんじとしょかん創立そうりつしゃ本間ほんま一夫かずおは「まち真面目まじめ青年せいねんたちが先生せんせいしたってあつまり(中略ちゅうりゃくわたし函館はこだてなな年間ねんかん特別とくべつに、薫陶くんとうけ、おおきな影響えいきょうけたわすれられないだい恩人おんじんです[* 11]」とかたっている。実際じっさい参加さんかしゃうち茨城大学いばらきだいがく明治大学めいじだいがく教授きょうじゅであるきりでんなおさくは、木曜もくようかいのことを「ってみたらとてもやさしいので安心あんしんした。(中略ちゅうりゃく)そのむしゃくしゃしたときに、先生せんせいのおたくでおいするとスーッと気持きもちがさわやかになるので、らずらずあしくようになりました[* 12]」、函館はこだて文化ぶんかかい会長かいちょうである棟方むなかたただし土曜会どようかいを「先生せんせい滅多めった結論けつろんめいたことはわれなかったが、聖書せいしょ論語ろんごなどを引用いんようし、あるいはたくみな比喩ひゆで、そのくべきみち示唆しさしてくれた。しまいには先生せんせいはたにいるだけで、むねのもやもやがぬぐられるようなかんじさえした[* 13]」とかたっている。

重複じゅうふく障害しょうがいしゃとしてられるアメリカ教育きょういくヘレン・ケラーは、1937ねん昭和しょうわ12ねん)に訪日ほうにちして函館はこだて盲唖もうあいん訪問ほうもんしたさい佐藤さとうを「たんなる教育きょういくでなく、人生じんせいにおけるノーマルなこうをつくる人格じんかくしゃ」ととなえた[23][47]。なお戦後せんご1948ねん昭和しょうわ23ねん)、ケラーは2度目どめ訪日ほうにちにおいて佐藤さとう面会めんかいもとめたが、佐藤さとう戦争せんそう責任せきにん痛感つうかんから会見かいけんせずにわった[4]

1999ねん平成へいせい11ねん)に佐藤さとう肖像しょうぞう函館はこだて盲学校もうがっこう寄贈きぞうされ、学校がっこう設立せつりつしゃであるシャーロット・ドレーパー肖像しょうぞうともかざられた。この寄贈きぞうにあたって、当時とうじ校長こうちょうである鈴木すずき重男しげおは「佐藤さとう先生せんせいがいなければ、いまこの学校がっこうはなかったかもしれない」とかたった[19]

佐藤さとう手話しゅわ擁護ようごについては、くちばなし推進すいしんしていた戦前せんぜんにあっては後進こうしんてきなものとしてとらえられていたらしく、評価ひょうかひくかった[35]。『聾唖ろうあ教育きょういく』において佐藤さとう執筆しっぴつした論文ろんぶんも、くちばなし主義しゅぎしゃたちからは黙殺もくさつちかあつかいをけていた[32]函館はこだてろう学校がっこうも、佐藤さとう校長こうちょう退しりぞいた翌日よくじつからはくちばなし教育きょういく実施じっしされている[37][* 14]。しかし戦後せんご佐藤さとうおし盲唖もうあいん教員きょういんとなった鈴木すずき忠光ただみつ二男じなん鈴木すずき重忠しげただ金沢大学かなざわだいがく医学いがく博士はかせ)は、「金沢かなざわ方式ほうしき」とばれる聴覚ちょうかく障害しょうがいへの言語げんご指導しどう実践じっせんし、手話しゅわ効果こうかてきもちいている。このほかに東京とうきょう奈良なら三重みえなどのろう学校がっこうでも幼稚ようちから手話しゅわ導入どうにゅうされ、効果こうかげている。このことから、佐藤さとうらの手話しゅわ擁護ようご主張しゅちょう平成へいせいにおいて確実かくじつひろがりはじめているときもある[48]

脚注きゃくちゅう

注釈ちゅうしゃく

  1. ^ a b 函館はこだて盲唖もうあいん前身ぜんしんである函館はこだてくんめくらかいふくめれば、篠崎しのざき清次せいじだい3だい院長いんちょうにあたるが、北海道ほっかいどう函館はこだてろう学校がっこう沿革えんかくでは篠崎しのざき函館はこだて盲唖もうあいん初代しょだい院長いんちょうとされており、佐藤さとうだい3だいとなる[2]
  2. ^ 播本はりもと 2002, p. 87より引用いんよう
  3. ^ 播本はりもと 2002, pp. 87–88より引用いんよう
  4. ^ 当時とうじ金銭きんせん価値かち参考さんこうとして、11899ねん明治めいじ32ねん)は鶏卵けいらん6が15せん雑誌ざっし中央公論ちゅうおうこうろん』が12ぜにだった[9](1ぜには0.01えん[10])。
  5. ^ 清野きよの 1998, p. 19より引用いんよう
  6. ^ 新井あらいから佐藤さとう家族かぞく直接ちょくせつてたしょのこされている[15]
  7. ^ あずさけいせい」は樋口ひぐちおさむまたは川本かわもと宇之かいのペンネームと指摘してきされている[30]
  8. ^ a b 佐藤さとう手話しゅわ擁護ようごではあったが、くちばなしをまったくみとめなかったわけではなく、しゅうに2,3あいだほどくちばなし学習がくしゅう時間じかんもうけ、英語えいごまなぶのとおな要領ようりょうくちばなしおしえていた[34]弟子でしくちばなし教育きょういく講習こうしゅうかい参加さんかさせた[27]、といった記録きろくのこっている。
  9. ^ a b 清野きよの 1998, p. 107より引用いんよう
  10. ^ 石戸谷いしとや 1967, p. 350より引用いんよう
  11. ^ 清野きよの 1998, pp. 48–49より引用いんよう
  12. ^ 清野きよの 1998, p. 39より引用いんよう
  13. ^ 清野きよの 1998, p. 61より引用いんよう
  14. ^ 高橋たかはしきよし校長こうちょうつとめていた大阪おおさか市立しりつ聾唖ろうあ学校がっこうも、高橋たかはし退職たいしょくにはくちばなし教育きょういく導入どうにゅうされている[37]

出典しゅってん

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  2. ^ 清野きよの 1998, p. 120.
  3. ^ a b 函館はこだて文化ぶんか・スポーツ振興しんこう財団ざいだん
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  • STVラジオへん へんほっかいどうひゃくねん物語ものがたり 北海道ほっかいどう歴史れきしきざんだ人々ひとびと──。だい6しゅう中西なかにし出版しゅっぱん、2005ねん11がつ10日とおかISBN 978-4-89115-145-4 
  • 佐藤さとうざいひろし先生せんせい顕彰けんしょうかいへん へん佐藤さとうざいひろし新聞しんぶんろんだんしゅう佐藤さとうざいひろし先生せんせい顕彰けんしょうかい、1995ねん8がつ17にちNCID BN13045721 
  • 函館はこだて編纂へんさんしつへん へん函館はこだて通説つうせつへんだい3かん函館はこだて、1997ねん3がつ31にちNCID BN01157761http://archives.c.fun.ac.jp/hakodateshishi/tsuusetsu_03/shishi_05-02/shishi_05-02-07-04-03-01.htm2017ねん6がつ17にち閲覧えつらん 

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