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アガペー

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

アガペー古代こだいギリシア: ἀγάπη[注釈ちゅうしゃく 1])は、キリスト教きりすときょうにおける神学しんがく概念がいねんで、かみ人間にんげんたいする「あい」をあらわす。かみ無限むげんあい(アガペー)において人間にんげんあいしているのであり、かみ人間にんげんあいすることで、かみなにかの利益りえきわけではないので、「無償むしょうあい」とされる。また、それは不変ふへんあいなので、旧約きゅうやく聖書せいしょには、かみの「不朽ふきゅうあい」とてくる。新約しんやく聖書せいしょでは、キリストの十字架じゅうじかじょうでのにおいてあらわされたあいとしてられている。

またキリスト教きりすときょうにおいては、かみ人間にんげんをアガペーのあいにおいてあいするように、人間にんげん同士どうしは、たがいにあいうことがのぞましいとされており、キリスト教徒きりすときょうとのあいだでの相互そうごあいもまた、ひろ意味いみでアガペーのあいである(マタイ福音ふくいんしょ22、37–40)。

ただし、このかみ無限むげんあいとしてのアガペーは神学しんがく概念がいねんてられる言葉ことばであり、新約しんやく聖書せいしょ著者ちょしゃがアガペーを一様いちようにこのような意味いみもちいていたかは本文ほんぶん解釈かいしゃくじょう議論ぎろんがある。

アガペーの選択せんたく

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かみ人間にんげん無償むしょうにおいて、かぎりなくあいしていることは、『新約しんやく聖書せいしょ福音ふくいんしょ』において、イエズス弟子でしたちや人々ひとびとつたえていることである。『マタイ福音ふくいんしょ』にある著名ちょめいな「山上さんじょうたれくん」においても、「かみは、ぜんなるものにも、あくなるものにも、わることなく、太陽たいようひかりめぐみをあたえてくださる」というように、人間にんげんをその行為こうい社会しゃかいてき地位ちい身分みぶん性別せいべつなどによって区別くべつせず、めぐみをあたえてくれる存在そんざいとして宣明のぶあきされている。

またおなじ「山上さんじょうたれくん」において、イエズスは、知人ちじん友人ゆうじん家族かぞくなどをあいするだけでは十分じゅうぶんではない。そういうことは異邦いほうじんぜいじんもしている。わたしのおしえにしたがものは、みずからの「てき」さえもあいさねばならないとして、たんなる「隣人りんじんあい以上いじょう普遍ふへんてき人間にんげんあいかたっており、このようなあいつうじて、「かみ」となりえるのであるとしている。このことは、「きサマリアじんのたとえ」のなかでも示唆しさされている。ここでイエズスがべている「あいする」という言葉ことばは、ギリシア原文げんぶんでは αγαπειν という動詞どうしであり、この動詞どうし名詞めいしかたちが「アガペー」である。

古典こてんギリシアでのあい

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このようなかみ無限むげんあい人間にんげんたい普遍ふへんてき提供ていきょうされる「あい」を表現ひょうげんするため、『新約しんやく聖書せいしょ』の福音ふくいん書記しょきしゃたちは、ギリシアἀγάπη[注釈ちゅうしゃく 1]という言葉ことばえらんだ。えらんだというのは、ギリシアには「あい」を表現ひょうげんする言葉ことば基本きほんてきには4つあり、エロース (ἔρως[注釈ちゅうしゃく 2]性愛せいあい) 、フィリアー (φιλία[注釈ちゅうしゃく 3]隣人りんじんあい) 、アガペー (ἀγάπη自己じこ犠牲ぎせいてきあい) 、ストルゲー (στοργή[注釈ちゅうしゃく 4]家族かぞくあい) である。

エロース古代こだいギリシアにおける神聖しんせいかみであり、また「性愛せいあい」や「肉体にくたいあい」を典型てんけいてき意味いみした。エロースは文化ぶんか人類じんるいがくまとにもよくられるように、女性じょせい生殖せいしょく神秘しんぴであり驚異きょういであり、かみきよしなものであったため、かみ做されたのであり、それゆえ、生殖せいしょく前提ぜんていとなる肉体にくたい交渉こうしょうでのあいかなら含意がんいした。情欲じょうよくてきあい自己じこ中心ちゅうしんてきあい意味いみし、聖書せいしょではもちいられていない。

フィリアーは、親子おやこ兄弟きょうだい友人ゆうじんあいだ人間にんげんてきではあるがうるわしいあいあらわすのにもちいられている。

かみあいとしてのアガペー

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ヘブライ伝統でんとう原始げんしキリスト教きりすときょう信徒しんとたちは、教父きょうふたちがギリシア哲学てつがくとくプラトン哲学てつがく)を援用えんようしたとはいえ、初期しょきには、ギリシアてき伝統でんとうや、ローマ伝統でんとうとはべつかたちかれらの信仰しんこう表現ひょうげんしたいとかんがえたとおもえる。また「かみあい」は、エロースのあいのような「肉体にくたいあい」ではなく、「たましいれいあい」であるとかんがえられたので、「フィリアー」か「アガペー」がより適切てきせつであった。「フィリアー」は、友情ゆうじょう友愛ゆうあい意味いみち、この言葉ことばキリスト教きりすときょうの「あい」をしめ言葉ことばとして選択せんたくされても不自然ふしぜんではなかった。

しかし「アガペー」は家族かぞくあいのような意味いみち、それ以外いがいに、とく限定げんていされたつよ用例ようれいのある「あい」ではなかったので、原始げんしキリスト教きりすときょう福音ふくいんしょ記者きしゃたちやパウロは、この言葉ことばを「かみあい」を意味いみする言葉ことば採択さいたくしたとかんがえられる[注釈ちゅうしゃく 5]

英語えいごカトリックやくでは、loveやくすと「エロース」によってあらわされる情欲じょうよくてきあい誤解ごかいされることをけて、チャリティー (えい: charity: caritas、カリタス) の訳語やくごてている。そのcharity意味いみ変化へんかこって、現在げんざいでは「慈善じぜん」の意味いみもちいられるようになったので、ティンダルわけでは「アガペー」の訳語やくごとして loveもちいられるようになった。

無限むげんあい神学しんがく

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かみあい、すなわち「アガペー」は、無限むげんにして無償むしょうであるというのは、このの「あく」や「悲惨ひさん」の存在そんざいからして疑問ぎもんともかんがえられる。かみ無限むげん無償むしょう人間にんげんあいしてくださるのなら、何故なぜ、この世界せかいにはあく悲惨ひさん不幸ふこう差別さべつ貧困ひんこんや、様々さまざま矛盾むじゅん存在そんざいするのか。原始げんしキリスト教きりすときょう出現しゅつげんどう時期じき擡頭たいとうした、地中海ちちゅうかい世界せかいでのグノーシス主義しゅぎは、このあく原因げんいんは、このが「あくかみにせかみ」によって創造そうぞうされたためであるとした。

グノーシス主義しゅぎ主張しゅちょうは、その基本きほんてきな「あく実在じつざい」にかんして明晰めいせきであり、非常ひじょう説得せっとくりょくがある。このため、敬虔けいけんキリスト教徒きりすときょうとははもとまれながらも、思想しそうてきに、グノーシス主義しゅぎ主張しゅちょう共鳴きょうめいしたヒッポのせいアウグスティヌスは、東方とうほうグノーシス主義しゅぎ最大さいだい教派きょうはであるマニきょう信徒しんととなった。

ぜん欠如けつじょとしてのあく

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しかしのちにアウグスティヌスはキリスト教きりすときょう回心かいしん復帰ふっき)し、キリストきょう立場たちばより、マニきょう主張しゅちょう論駁ろんばくする。このに「あく現象げんしょう実在じつざい」する根拠こんきょ議論ぎろん前提ぜんていとして、アウグスティヌスは、かみ世界せかいぜんでもって創造そうぞうしたのであり、その世界せかいはまた多様たよう世界せかいであることを指摘してきした。

このゆえに、世界せかい具体ぐたいてき実在じつざいとして現象げんしょうするにおいて、ぜんあらわれがかけじょう濃淡のうたんのあるものとなり、あるぜん現象げんしょう実現じつげんするためには、べつ現象げんしょうにおいて、そのようなぜん実現じつげんしていないという事態じたいしょうじ、世界せかい全体ぜんたいとして、相対そうたいてきに、ぜんあく混合こんごうして存在そんざいするように認識にんしきされるのであって、「あくそのもの」はじつ実在じつざいしていないとの説明せつめいおこなった。

これを、キリスト教きりすときょう神学しんがくてきに「ぜん欠如けつじょとしてのあく」という。

アウグスティヌスのせつ詭弁きべん論法ろんぽうのようにもえ、マニきょう代表だいひょうてき思想家しそうかとのあいだの論争ろんそうはきわめてはげしいものであった。また、当時とうじ西にしマ帝国まていこくゲルマンぞく侵略しんりゃくによって荒廃こうはいした理由りゆうを、異教いきょうキリスト教きりすときょうがローマにひろがったためであるとして、キリストきょう非難ひなんする主張しゅちょう存在そんざいしたが、これにたいしても、アウグスティヌスは反駁はんばくして『かみくに』をあらわし、西にしマ帝国まていこく荒廃こうはいキリスト教きりすときょう興隆こうりゅう原因げんいんではなく、地上ちじょう歴史れきしは、かみ無限むげんぜんあい実現じつげんへとかう、かみくに歴史れきしいちめんであるとして、世界せかいてき歴史れきしかんきずいた。

トマスの存在そんざい恩寵おんちょう

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しかし、「ぜん欠如けつじょとしてのあく」とは常識じょうしきてき不可解ふかかいであり、合理ごうりてきとはおもえない。そもそも「かみ無限むげんあい」すなわちアガペーとはなにであるのか、哲学てつがくてき神学しんがくまとには、おおきな問題もんだいふくんでいた。

これにたいし、中世ちゅうせい西欧せいおうにおいては、教父きょうふ神学しんがくしゃたちがすうれぬ議論ぎろんおこなった。13世紀せいきせいトマス・アクィナスは、イブン・ルシュドのアラビア・スコラ哲学すこらてつがくをモデルに、その反論はんろんとしての壮大そうだい神学しんがく大系たいけいきずき、かみあいとは、事物じぶつレース)にたいする「存在そんざいエッセ、Esse)」の無償むしょう付与ふよにあるとする見解けんかい明示めいじした。世界せかい事物じぶつ人間にんげんは、存在そんざいするという事実じじつにおいて、かみよりの「エッセ(存在そんざい)」の無償むしょうめぐみをけているのである。 しかし、ひと存在そんざい信仰しんこうによって条件付じょうけんづけられる。

存在そんざいすることは、それ自体じたいが「ぜん」であり、存在そんざいぶつ(レース)における「エッセの欠如けつじょ」はすなわち「」である。最悪さいあくあくは「」であり、この現象げんしょうてきあく存在そんざいするとしても、それは存在そんざい恩寵おんちょううえで、かけの現象げんしょうとしてあらわれているものである。世界せかい事物じぶつ人間にんげんがまさに存在そんざいしているという事実じじつにこそ、かみ無限むげんあい恩寵おんちょう、すなわちアガペーの顕現けんげんられるのである。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ a b ラテン文字もじagápē
  2. ^ ラテン文字もじerōs
  3. ^ ラテン文字もじphilia
  4. ^ ラテン文字もじstorgē
  5. ^ 「フィリアーのあい」は、少年しょうねんあい意味いみする paidophilia などで、すでに限定げんていてき用法ようほう存在そんざいしたため、既存きそんのニュアンスをおおふくまない「あい」として、「アガペー」という言葉ことば適切てきせつであった。また「アガペー」が採択さいたくされたことには、プロティノス影響えいきょうもある。

関連かんれん項目こうもく

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外部がいぶリンク

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