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詭弁 きべん (詭辯 きべん 、きべん、希 まれ : σοφιστική )とは、主 おも に説得 せっとく を目的 もくてき として、命題 めいだい の証明 しょうめい の際 さい に実際 じっさい には誤 あやま っている論理 ろんり の展開 てんかい が用 もち いられている「推論 すいろん 」である。誤 あやま っていることを正 ただ しいと思 おも わせるように仕向 しむ けた議論 ぎろん 。奇弁 きべん 、危弁 とも。意図 いと 的 てき ではない「誤謬 ごびゅう 」とは異 こと なる概念 がいねん である。
日本語 にほんご で日常 にちじょう 的 てき に使 つか われる「詭弁 きべん 」とは、「故意 こい に行 おこな われる虚偽 きょぎ の議論 ぎろん [1] 」、「道理 どうり に合 あ わないことを強引 ごういん に正当 せいとう 化 か しようとする弁論 べんろん 、論理 ろんり 学 がく で外見 がいけん ・形式 けいしき をもっともらしく見 み せかけた虚偽 きょぎ の論法 ろんぽう [2] 」、「実質 じっしつ において論理 ろんり 上 じょう 虚偽 きょぎ あるいは誤謬 ごびゅう でありながら、故意 こい に誤 あやま りのある論理 ろんり 展開 てんかい を用 もち いて、間違 まちが った命題 めいだい を正 ただ しいかのように装 よそお い、思考 しこう の混乱 こんらん や欺瞞 ぎまん を目的 もくてき としておこなう謬論[3] 」、「命題 めいだい や推理 すいり に関 かん する論理 ろんり 的 てき 操作 そうさ によって生 しょう ずる、一見 いっけん もっともらしい推論 すいろん (ないしはその結論 けつろん )で、何 なん らかの誤謬 ごびゅう を含 ふく むと疑 うたが われるもの。相手 あいて をあざむいたり、困 こま らせる議論 ぎろん の中 なか で使 つか われる[4] 」を指 さ す。発言 はつげん 者 しゃ の「欺 あざむ く意志 いし 」があってこその「詭弁 きべん 」であり、必 かなら ずしも意図 いと 的 てき にではなく導 みちび かれる誤謬 ごびゅう とは区別 くべつ される。日本 にっぽん では「詭」が漢字 かんじ 制限 せいげん により当用漢字 とうようかんじ ・常用漢字 じょうようかんじ に含 ふく まれないため、新聞 しんぶん などでは奇弁 きべん 、論理 ろんり 学 がく などでは危弁 と書 か かれることもある。
英語 えいご では sophism 「詭弁 きべん 、こじつけ、詭弁 きべん 法 ほう 」[5] 「詭弁 きべん 、こじつけ、へ理屈 りくつ 、詭弁 きべん 法 ほう 」[6] を指 さ す。sophistryとも言 い う。
詭弁 きべん には、論理 ろんり 展開 てんかい が明 あき らかに誤 あやま っている場合 ばあい もあれば一見 いっけん 正 ただ しいように見 み える場合 ばあい もある。そして論理 ろんり 展開 てんかい が正 ただ しいように見 み える場合 ばあい 、論理 ろんり 的 てき には違反 いはん しており、誤 あやま った結論 けつろん でも説得 せっとく 力 りょく が増 ま してしまう。上記 じょうき の現象 げんしょう は不完全 ふかんぜん な数学 すうがく 的 てき 帰納 きのう 法 ほう による、この記事 きじ においても以降 いこう で解説 かいせつ される早 はや まった一般 いっぱん 化 か や前後 ぜんご 即 そく 因果 いんが の誤謬 ごびゅう によって起 お こりやすい。協 きょう 働 はたらけ 関係 かんけい や社会 しゃかい 的 てき 合意 ごうい においては、論理 ろんり 的 てき 推論 すいろん の整合 せいごう 性 せい よりも話者 わしゃ が対象 たいしょう とするき手 きて や大衆 たいしゅう に対 たい しての言説 げんせつ 上 じょう の説得 せっとく (説明 せつめい )力 りょく (ヒューリスティクス を用 もち いた限定 げんてい 合理 ごうり 性 せい への対応 たいおう )がしばしば効果 こうか 的 てき であり、このため、説得 せっとく や交渉 こうしょう 、プロパガンダ やマインドコントロール のテクニックとして用 もち いられることがある。
「詭弁 きべん 」という語 かたり は、『史記 しき 』に見 み ることができる。「屈 こごめ 原 げん 賈生列伝 れつでん 」で「設 しつらえ 詭辯 きべん 於懐王 おう 之 の 寵姫 ちょうき 鄭 てい 袖 そで (詭弁 きべん を懐 ふところ 王 おう の寵姫 ちょうき 鄭 てい 袖 そで に設 しつらえ く)」との用例 ようれい がある[7] 。「五 ご 宗 むね 世 よ 家 か 」で「好 こう 法律 ほうりつ 持 じ 詭辯 きべん 以中人 じん (法律 ほうりつ を好 この み詭弁 きべん を持 もた して、以 もっ て人 ひと に中 なか つ)」との用例 ようれい があり[8] 、『史記 しき 索 さく 隠 かくれ 』は詭弁 きべん の語義 ごぎ について「詭誑ノ弁 べん 」(あざむき、たぶらかす言葉 ことば )と注 さ している。中国 ちゅうごく の諸子 しょし 百 ひゃく 家 いえ のうち「詭弁 きべん 」を学問 がくもん に発展 はってん させたのが恵 めぐみ 施 ほどこせ や公孫 こうそん 竜 りゅう などの名家 めいか である。
古代 こだい ギリシャの時代 じだい においても詭弁 きべん が飛躍 ひやく 的 てき に発展 はってん し後世 こうせい の論理 ろんり 学 がく の発展 はってん へとつながっていった。この時代 じだい は、弁舌 べんぜつ に長 なが じた哲学 てつがく 者 しゃ 達 たち を多 おお く輩出 はいしゅつ し、日本語 にほんご で「詭弁 きべん 家 か 」とも称 しょう されるソフィスト を生 う んだ。ゼノンやプロタゴラスは紀元前 きげんぜん 400年 ねん 以前 いぜん のギリシア のアテナイ などで活躍 かつやく し、哲学 てつがく の分類 ぶんるい では名家 めいか やソフィストなどを含 ふく めて詭弁 きべん 学派 がくは と呼 よ ぶことがある。
ピタゴラス は、4と10という数字 すうじ に神秘 しんぴ 性 せい を感 かん じており、弟子 でし のひとりに、両手 りょうて の指 ゆび を、1本 ほん 、2本 ほん 、3本 ほん 、4本 ほん と回数 かいすう ごとに1本 ほん ずつ多 おお く曲 ま げさせてゆき、最後 さいご に4本 ほん 曲 ま げたところで10本 ほん すべての指 ゆび が曲 ま がると「お前 まえ が4だと思 おも ったのは実 じつ は10だった」と説 と いたというエピソードがある。これは典型 てんけい 的 てき な詭弁 きべん とされる。
ギリシャ、ローマの時代 じだい では、為政者 いせいしゃ 、立候補者 りっこうほしゃ が高 たか い地位 ちい につくために、人心 じんしん を得 え る演説 えんぜつ をする必要 ひつよう があった。そのためには、正当 せいとう な弁論 べんろん 術 じゅつ よりも、詭弁 きべん 、強弁 きょうべん 、争 そう 論 ろん が有用 ゆうよう であったため、ソフィストが台頭 たいとう することとなった。
古典 こてん 的 てき な詭弁 きべん の例 れい として、古代 こだい 中国 ちゅうごく の思想家 しそうか 公孫 こうそん 竜 りゅう による「堅 けん 白 しろ 異同 いどう 」[3] や「白馬 はくば は馬 うま に非 ひ ず 」がある。公孫 こうそん 竜 りゅう の「白馬 しろうま 非 ひ 馬 うま 」の論法 ろんぽう を以下 いか に示 しめ す(詳細 しょうさい は公孫 こうそん 竜 りゅう を参照 さんしょう )。これは論点 ろんてん のすり替 か え、連続 れんぞく 性 せい の虚偽 きょぎ と誤 あやま った二分 にぶん 法 ほう を含 ふく んでいる。
「白馬 はくば 」という概念 がいねん は、「白 しろ 」という色 いろ についての概念 がいねん と「馬 うま 」という形 かたち についての概念 がいねん とが合 あ わさったものであるから、もはや純粋 じゅんすい な形 かたち の概念 がいねん である「馬 うま 」とは異 こと なる。したがって白馬 はくば は馬 うま ではない。
この種 たね の詭弁 きべん は単 たん に言説 げんせつ 上 じょう の遊 あそ びとして軽 かる んじられることがあるが、法 ほう (文字 もじ )による社会 しゃかい 規範 きはん を重視 じゅうし する社会 しゃかい では重要 じゅうよう であり、例 たと えば「国民 こくみん は納税 のうぜい の義務 ぎむ を負 お う」の場合 ばあい 、国民 こくみん の定義 ていぎ があいまいであれば法 ほう の合意 ごうい や実 じつ 効力 こうりょく は極端 きょくたん に阻害 そがい される。公孫 こうそん 竜 りゅう の話題 わだい では、例 たと えば馬 うま 1頭 とう あたりに税 ぜい を課 か する場合 ばあい 、白馬 はくば は馬 うま ではないとの論証 ろんしょう に対 たい して馬 うま の定義 ていぎ があいまいであれば、その論証 ろんしょう は有効 ゆうこう である可能 かのう 性 せい がある[注 ちゅう 1] 。奴隷 どれい や小作 こさく 、未成年 みせいねん や女性 じょせい は「人頭 じんとう 」ではないとすれば人頭 じんとう 税 ぜい の及 およ ぶ範囲 はんい は極端 きょくたん に制限 せいげん されるかもしれない。
真 しん の命題 めいだい の対偶 たいぐう は真 しん である、という形式 けいしき を使 つか う詭弁 きべん
「犯罪 はんざい が起 お きれば、警察 けいさつ は出動 しゅつどう する」は真 しん である。このため、対偶 たいぐう の「警察 けいさつ が出動 しゅつどう しなければ、犯罪 はんざい は起 お きない」は真 しん である。
「他国 たこく が軍事 ぐんじ 侵略 しんりゃく すれば、自衛隊 じえいたい は防衛 ぼうえい する」は真 しん である。このため、対偶 たいぐう の「自衛隊 じえいたい が防衛 ぼうえい しなければ、他国 たこく は軍事 ぐんじ 侵略 しんりゃく しない」は真 しん である。
「宝 たから くじが当 あ たれば、1億 おく 円 えん もらえる」は真 しん である。このため、対偶 たいぐう の「1億 おく 円 えん もらえなければ、宝 たから くじは当 あ たらない」は真 しん である。
これらの推論 すいろん は正 まさ しく、対偶 たいぐう も正 まさ しく作 つく られており、論理 ろんり 的 てき な誤 あやま りはない[13] 。結論 けつろん は奇異 きい に見 み えるが、正 ただ しい。「逆 ぎゃく 」や「裏 うら 」を使 つか う幼稚 ようち な詭弁 きべん は、論理 ろんり 的 てき 誤 あやま りがすぐに見 み つかるのに対 たい し、「対偶 たいぐう 」を使 つか う詭弁 きべん は論理 ろんり 的 てき 誤 あやま りがないため、強固 きょうこ である。
対偶 たいぐう を作 つく る際 さい に、日常 にちじょう 用語 ようご としてのニュアンスがずれることを利用 りよう している。「AならばB」が真 しん の場合 ばあい 、日常 にちじょう 用語 ようご ではAが「原因 げんいん 」、Bが「結果 けっか 」だと思 おも ってしまうが、論理 ろんり 的 てき にはそういう関係 かんけい にない。対偶 たいぐう の「BでないならばAでない」も、「Bでない」が「原因 げんいん 」、「Aでない」が「結果 けっか 」と思 おも ってしまうが、論理 ろんり 的 てき には「Bでない」ことを根拠 こんきょ として「Aでない」ことが言 い えるという意味 いみ である。
「警察 けいさつ が出動 しゅつどう していないならば、犯罪 はんざい は起 お きていない」
「自衛隊 じえいたい が防衛 ぼうえい していないならば、他国 たこく は軍事 ぐんじ 侵略 しんりゃく していない」
「1億 おく 円 えん もらえていないならば、宝 たから くじは当 あ たっていない」
とすれば、理解 りかい しやすい。
前件 ぜんけん 否定 ひてい の虚偽 きょぎ (denying the antecedent)[ 編集 へんしゅう ]
A「自分 じぶん がされて嫌 いや なことは、人 ひと にもするな(黄金 おうごん 律 りつ )」
B「なら自分 じぶん がされて嫌 いや でなければ、人 ひと にしても良 よ い んだな」
Aの発言 はつげん に対 たい するBの返答 へんとう は「XならばYである。故 ゆえ にXでなければYでない」という形式 けいしき の論理 ろんり であり、これは論理 ろんり 学 がく で前件 ぜんけん 否定 ひてい の虚偽 きょぎ と呼 よ ばれる。数学 すうがく でいうと「自分 じぶん がされて嫌 いや なこと」は「人 ひと にしてはいけないこと」であるための十分 じゅうぶん 条件 じょうけん である。命題 めいだい から論証 ろんしょう なく「裏 うら 」を導 みちび き、それを用 もち いる論証 ろんしょう 。このタイプの推論 すいろん は、XとYが論理 ろんり 的 てき に同値 どうち の時 とき のみ成立 せいりつ する為 ため 、恒 つね 真 ま 命題 めいだい ではない。
なおこの虚偽 きょぎ は、仮 かり 言 げん 的 てき 三段論法 さんだんろんぽう においても適用 てきよう される。「もしAがBならば、AはCである。しかしAはBでない。故 ゆえ にAはCでない」は、前件 ぜんけん 否定 ひてい の虚偽 きょぎ となる。「AがBならば」という仮定 かてい をX、「AはCである」という結論 けつろん をYと置 お けば、「XならYである。Xでない。故 ゆえ にYでもない」となり、前件 ぜんけん の否定 ひてい を前提 ぜんてい とする論理 ろんり となるからである。
後件 こうけん 肯定 こうてい の虚偽 きょぎ (affirming the consequent)[ 編集 へんしゅう ]
A「対象 たいしょう について無知 むち ならば人 ひと は恐怖 きょうふ を感 かん じる。つまり、怖 こわ がりな奴 やつ は無知 むち なんだよ」
Aの発言 はつげん は「XならばYである。故 ゆえ にYであればXである」という形式 けいしき の論理 ろんり であり、これは論理 ろんり 学 がく で後件 こうけん 肯定 こうてい の虚偽 きょぎ と呼 よ ばれる。命題 めいだい から論証 ろんしょう なく「逆 ぎゃく 」を導 みちび き、それを用 もち いる論証 ろんしょう 。このタイプの推論 すいろん も、前件 ぜんけん 否定 ひてい の虚偽 きょぎ と同 おな じように、XとYが論理 ろんり 的 てき に同値 どうち の時 とき にしか成立 せいりつ しないので、恒 つね 真 ま 命題 めいだい ではない。Aの発言 はつげん は、「シャチは哺乳類 ほにゅうるい である。故 ゆえ に哺乳類 ほにゅうるい はシャチである」という推論 すいろん と同 おな じ論理 ろんり 構造 こうぞう である。仮 かり に「無知 むち だから怖 こわ がる」という前提 ぜんてい が真 しん であったとしても、その前提 ぜんてい から「怖 こわ がりな人 ひと は無知 むち である」と結論 けつろん することは論理 ろんり 的 てき に誤 あやま りである。怖 こわ がりな人 ひと は無知 むち であるかもしれないし、無知 むち ではないかもしれないからである。(逆 ぎゃく は必 かなら ずしも真 しん ならず )
媒 なかだち 概念 がいねん 不 ふ 周延 しゅうえん の虚偽 きょぎ (fallacy of the undistributed middle)[ 編集 へんしゅう ]
A「頭 あたま の良 よ い人間 にんげん は皆 みな 、読書 どくしょ 家 か だ。そして私 わたし もまた、よく本 ほん を読 よ む。だから私 わたし は頭 あたま が良 よ い 」
Aの発言 はつげん は「XはYである。ZもYである。故 ゆえ にZはXである」という形式 けいしき の三段論法 さんだんろんぽう で、これは論理 ろんり 学 がく で媒 なかだち 概念 がいねん 不 ふ 周延 しゅうえん の虚偽 きょぎ と呼 よ ばれる。このタイプの推論 すいろん は、Z⊆X⊆Y(⊆:部分 ぶぶん 集合 しゅうごう )でない限 かぎ り成立 せいりつ しないので、恒 つね 真 ま 命題 めいだい ではない。Aの発言 はつげん は「カラスは生物 せいぶつ である。スズメバチも生物 せいぶつ である。故 ゆえ にスズメバチはカラスである(あるいはカラスはスズメバチである)」という発言 はつげん と論理 ろんり 構造 こうぞう が等 ひと しい。また、Aの発言 はつげん について、「頭 あたま の良 よ い人間 にんげん は皆 みな 、読書 どくしょ 家 か だ」が真 しん であったとしても、「読書 どくしょ 家 か は頭 あたま がいい」はそれの逆 ぎゃく となるため、必 かなら ずしも真 しん であるとは限 かぎ らない。
媒 なかだち 概念 がいねん 曖昧 あいまい の虚偽 きょぎ (fallacy of the ambiguous middle)[ 編集 へんしゅう ]
A「塩 しお は水 みず に溶 と ける。あなた方 かた は地 ち の塩 しお である。ゆえにあなた方 かた は水 みず に溶 と ける 」[14] [注 ちゅう 2]
B「車 くるま (自動車 じどうしゃ )は運転 うんてん 免許 めんきょ が必要 ひつよう な乗 の り物 もの だ。自転車 じてんしゃ は車 くるま (車両 しゃりょう )である。ゆえに自転車 じてんしゃ は運転 うんてん 免許 めんきょ が必要 ひつよう な乗 の り物 もの だ 」
Aの発言 はつげん は「MはPである。SはMである。故 ゆえ にSはPである」と一見 いっけん 第 だい 一 いち 格 かく の三段論法 さんだんろんぽう に見 み えるが、文脈 ぶんみゃく によって異 こと なる意味 いみ を持 も つ単語 たんご を媒 なかだち 概念 がいねん に使用 しよう しており、「大前提 だいぜんてい M-Pの文脈 ぶんみゃく におけるM」と「小前提 しょうぜんてい S-Mの文脈 ぶんみゃく におけるM」が異 こと なるため、命題 めいだい は成立 せいりつ しない。
論点 ろんてん 先取 せんしゅ (petitio principii)[ 編集 へんしゅう ]
A「Bさんは勤勉 きんべん な人 ひと だから 、仕事 しごと を怠 なま けるはずがないよ。」
Aの発言 はつげん は、前提 ぜんてい の中 なか に結論 けつろん を導 みちび く事 こと が出来 でき る情報 じょうほう を「あらかじめ」含 ふく めている。このように、見掛 みか け上 じょう は『論理 ろんり 』の形 かたち になっているものの実際 じっさい は同義 どうぎ 反復 はんぷく の推論 すいろん を論点 ろんてん 先取 せんしゅ と呼 よ ぶ。同義 どうぎ 反復 はんぷく (「XはXである」という演繹 えんえき )は恒 つね 真 ま 命題 めいだい であるが、何 なに かを証明 しょうめい する内容 ないよう ではない。Aの発言 はつげん は、「ルノワール は偉大 いだい な画家 がか である。何故 なぜ なら、素晴 すば らしい画家 がか だからだ」と論理 ろんり 構造 こうぞう が等 ひと しい(このように発言 はつげん するだけでは、ルノワールについて何 なに も証明 しょうめい した事 こと にならない)。論点 ろんてん 回避 かいひ の一 ひと つ。先決 せんけつ 問題 もんだい 要求 ようきゅう の虚偽 きょぎ 。
論理 ろんり 構造 こうぞう としては、「(勤勉 きんべん な人 ひと はすべて仕事 しごと を怠 なま けないと仮定 かてい する。Bさんは勤勉 きんべん な人 ひと であると仮定 かてい する。すると)Bさんは勤勉 きんべん な人 ひと である。故 ゆえ にBさんは怠 なま けない。」「(素晴 すば らしい画家 がか は偉大 いだい な画家 がか であると仮定 かてい する。ルノワール は素晴 すば らしい画家 がか であると仮定 かてい する。すると)ルノワール は素晴 すば らしい画家 がか である。故 ゆえ に偉大 いだい な画家 がか である。」仮定 かてい の部分 ぶぶん の論点 ろんてん を先取 さきど り(回避 かいひ )した論理 ろんり 構成 こうせい となっている。
(1)すべての人間 にんげん には寿命 じゅみょう がある。(2)Cは人間 にんげん だ。(3)よってCには寿命 じゅみょう がある
大前提 だいぜんてい (1)は、寿命 じゅみょう のない人間 にんげん の例 れい が、これまでに一 ひと つも知 し られていないことから導 みちび かれたものであり、寿命 じゅみょう のない人間 にんげん が見 み つかれば(1)は成立 せいりつ しない。このため、「Cに寿命 じゅみょう がない」ならば(1)は成立 せいりつ せず、(1)が成立 せいりつ するには「Cに寿命 じゅみょう がある」ことが前提 ぜんてい になり、結局 けっきょく 「Cに寿命 じゅみょう がある」ことを前提 ぜんてい として「Cに寿命 じゅみょう がある」ことを導 みちび き出 だ している。
循環 じゅんかん 論証 ろんしょう (circular reasoning)[ 編集 へんしゅう ]
A「B君 くん の言 い っている事 こと は詭弁 きべん だ(屁理屈 へりくつ だ・揚 あ げ足 あし 取 と りだ)。だから間 あいだ 違 ちが っている 。」
論点 ろんてん 先取 せんしゅ の中 なか でも、「前提 ぜんてい が結論 けつろん の根拠 こんきょ となり、結論 けつろん が前提 ぜんてい の根拠 こんきょ となる」という形式 けいしき の推論 すいろん を、循環 じゅんかん 論証 ろんしょう と呼 よ ぶ。Aがこの発言 はつげん の後 のち に、どのような理由 りゆう から詭弁 きべん (または屁理屈 へりくつ )と言 い えるのか説明 せつめい 出来 でき なければ、Aの発言 はつげん は「B君 くん の言 い っている事 こと は詭弁 きべん だ。何故 なぜ なら間違 まちが っているからだ。何故 なぜ 間違 まちが っているかというと、詭弁 きべん だからだ」と述 の べているだけの内容 ないよう となるので、循環 じゅんかん 論証 ろんしょう になる。こういった循環 じゅんかん 論証 ろんしょう を、英語 えいご では"that's a fallacy" fallacyという。論点 ろんてん 回避 かいひ の一 ひと つ。
誤 あやま った二分 にぶん 法 ほう (false dilemma)[ 編集 へんしゅう ]
A「君 きみ は僕 ぼく の事 こと を『嫌 きら いではない』と言 い ったじゃないか。それなら、好 す き って事 こと だろう」
Aの発言 はつげん には、「君 きみ は必 かなら ず僕 ぼく の事 こと が『好 す き』か『嫌 きら い』かのどちらか だ」という大前提 だいぜんてい が隠 かく されている。したがって論理 ろんり 構造 こうぞう としては「Xは必 かなら ず YかZのいずれかである。然 しか るに、XはYではない。故 ゆえ にXはZである」という形式 けいしき の三段論法 さんだんろんぽう となるが、仮 かり に「Xは必 かなら ずYかZのいずれかである」という前提 ぜんてい が偽 にせ であるなら (い換 いか えると「XがYでもZでもないケースが存在 そんざい する場合 ばあい 」)、このような推論 すいろん は誤謬 ごびゅう となり、「誤 あやま った二分 にぶん 法 ほう 」と呼 よ ぶ。Aの発言 はつげん の場合 ばあい 、実際 じっさい には「好 す きでも嫌 きら いでもない」や「無 む 関心 かんしん 」などの「好 す き」「嫌 きら い」以外 いがい の状況 じょうきょう も考 かんが えられるため、この大前提 だいぜんてい は偽 にせ である。
B「このまま借金取 しゃっきんと りに悩 なや まされる人生 じんせい を送 おく るか、自殺 じさつ するか、二 ふた つに一 ひと つだ 」
Bが借金 しゃっきん の返済 へんさい が不可能 ふかのう な状態 じょうたい に陥 おちい っていても、自己 じこ 破産 はさん が可能 かのう である場合 ばあい 、その選択肢 せんたくし を除外 じょがい しているので、誤 あやま った二分 にぶん 法 ほう となる。
なお、「XはYかZのいずれかである。然 しか るに、XはYではない。故 ゆえ にXはZである」という推論 すいろん において、非 ひ ZがY、Zが非 ひ Yと論理 ろんり 的 てき に同値 どうち である場合 ばあい 、それは矛盾 むじゅん 原理 げんり および排中 はいちゅう 原理 げんり に従 したが った恒 つね 真 ま 命題 めいだい となる(例 れい 「あらゆる自然 しぜん 数 すう は素数 そすう か素数 そすう ではないかのいずれかである。2は「素数 そすう ではない」ではない。故 ゆえ に2は素数 そすう である」)。「誤 あやま ったジレンマ」またはただ単 たん に「二分 にぶん 法 ほう 」とも呼 よ ばれる。英語 えいご では false dilemma の他 ほか に false dichotomy、excluded middle、bifurcation などとも言 い う。
「人 ひと は皆 みな 死 し ぬ」とは言 い えない。そう主張 しゅちょう する人 ひと は、単 たん に「過去 かこ 死 し んだ人 ひと は、皆 みな 死 し んだ」と同義 どうぎ 反復 はんぷく しているだけで、今 いま 生 い きている人 ひと について何 なに も証明 しょうめい していない。
「海水 かいすい は塩辛 しおから い」とは限 かぎ らない。そう主張 しゅちょう する人 ひと は、単 たん に「過去 かこ 海水 かいすい を舐 な めたとき塩辛 しおから かった」と言 い っているだけで、現在 げんざい および将来 しょうらい の海水 かいすい の味 あじ について何 なに も証明 しょうめい していない。
この詭弁 きべん は、論理 ろんり 的 てき 誤 あやま りを含 ふく まず、ある意味 いみ 「正 ただ しい」批判 ひはん とも言 い える。同様 どうよう の手法 しゅほう で、どのような経験 けいけん 則 そく も否定 ひてい することができる。
これが詭弁 きべん となる理由 りゆう は、むしろ経験 けいけん 則 そく の側 がわ にある。現実 げんじつ 世界 せかい の経験 けいけん 則 そく (物理 ぶつり 学 がく 、化学 かがく 、生物 せいぶつ 学 がく などの法則 ほうそく )は、完全 かんぜん な証明 しょうめい が不可能 ふかのう であり、それでも繰 く り返 かえ しの実験 じっけん 、検証 けんしょう と、その有用 ゆうよう 性 せい により法則 ほうそく として通用 つうよう しているものである。完全 かんぜん な証明 しょうめい がないことを理由 りゆう に経験 けいけん 則 そく を否定 ひてい すると、その有用 ゆうよう 性 せい も否定 ひてい することになる。
未知 みち 論証 ろんしょう (ad ignorantiam)[ 編集 へんしゅう ]
A「B氏 し は地底 ちてい 人 じん がいないと断言 だんげん している。しかし、そんな証拠 しょうこ はないので地底 ちてい 人 じん はいる ことになる」
Aの発言 はつげん は、「XがYでない事 こと は誰 だれ にも証明 しょうめい 出来 でき ない。故 ゆえ に XはYである」(存在 そんざい しない根拠 こんきょ が無 な いということは「それが有 あ る」ことの証明 しょうめい にはならない)という形式 けいしき の推論 すいろん で、これは未知 みち 論証 ろんしょう という。「結論 けつろん できない」という前提 ぜんてい から「結論 けつろん 」を推論 すいろん しているので、前提 ぜんてい と結論 けつろん が矛盾 むじゅん する。排中律 はいちゅうりつ を前提 ぜんてい としない論証 ろんしょう においては、証拠 しょうこ がないことを根拠 こんきょ に物事 ものごと を証明 しょうめい することはできない。この種 たね の論証 ろんしょう がもし有効 ゆうこう であれば、部屋 へや のなかにいるだけで宇宙 うちゅう のありとあらゆることが証明 しょうめい 可能 かのう になってしまう(「宇宙 うちゅう には果 は てがあるというが、そんな証拠 しょうこ はない。よって宇宙 うちゅう には果 は てが無 な い」「引力 いんりょく は宇宙 うちゅう のすべての場所 ばしょ で機能 きのう しているというが、そんな証拠 しょうこ はない。よって万有引力 ばんゆういんりょく の法則 ほうそく は間違 まちが っている」等々 とうとう )。これは「A氏 し は地底 ちてい 人 じん がいると断言 だんげん しているようだが、そんな証拠 しょうこ はない。地底 ちてい 人 じん はいない」という一見 いっけん すると常識 じょうしき 的 てき な論証 ろんしょう についても同様 どうよう であり、地底 ちてい 人 じん の存在 そんざい について何 なん らかの論証 ろんしょう 的 てき な判断 はんだん を下 くだ そうとする場合 ばあい には、「証拠 しょうこ の有無 うむ 」に対 たい して「証拠 しょうこ がある場合 ばあい は十分 じゅうぶん な吟味 ぎんみ により結論 けつろん が推定 すいてい され」「証拠 しょうこ が無 な い場合 ばあい は論証 ろんしょう 的 てき には何 なに も言 い えない」とするのが正 ただ しい。科学 かがく 的 てき 方法 ほうほう においてしばしば未知 みち 論証 ろんしょう が重大 じゅうだい な誤謬 ごびゅう の原因 げんいん となる。消極 しょうきょく 的 てき 事実 じじつ の証明 しょうめい ともいう。
A「B氏 し はC氏 し をこの事件 じけん の犯人 はんにん だと推理 すいり しているようだが、そんな証拠 しょうこ はない。C氏 し はきっと犯人 はんにん ではない 」
法廷 ほうてい においては、未知 みち 論証 ろんしょう の誤謬 ごびゅう は例外 れいがい 的 てき に証明 しょうめい 責任 せきにん により代替 だいたい される。原告 げんこく ・被告 ひこく ともに十分 じゅうぶん に立証 りっしょう 活動 かつどう を尽 つ くしても、裁判官 さいばんかん が争点 そうてん になった事実 じじつ があるのかないのか確信 かくしん できない場合 ばあい があり、科学 かがく の立場 たちば ではそれぞれの意見 いけん を仮説 かせつ として両論 りょうろん 併記 へいき することが可能 かのう であっても法廷 ほうてい では裁判 さいばん を拒否 きょひ することはできず、結論 けつろん を出 だ さなければならない。そのため真偽 しんぎ が不明 ふめい であるにもかかわらず、争点 そうてん となった事実 じじつ の有無 うむ を擬制 ぎせい して裁判 さいばん をする必要 ひつよう 性 せい が生 しょう じ、結果 けっか 生 しょう じる一 いち 方 ぽう の当事 とうじ 者 しゃ の不利益 ふりえき が証明 しょうめい 責任 せきにん である。法廷 ほうてい においてはB氏 し に挙証 きょしょう 責任 せきにん があり、B氏 し が法廷 ほうてい に対 たい しC氏 し が犯人 はんにん であると確信 かくしん するに足 た る証拠 しょうこ を挙 あ げることができなければ、未知 みち 論証 ろんしょう であるにもかかわらず、Aの主張 しゅちょう のようにCは犯人 はんにん ではないものとして扱 あつか われる。法 ほう 格言 かくげん ではこれを「証明 しょうめい は主張 しゅちょう する者 もの にあり、否定 ひてい する者 もの になし」という。
早 はや まった一般 いっぱん 化 か (hasty generalization)[ 編集 へんしゅう ]
A「私 わたし が今 いま まで付 つ き合 あ った4人 にん の男 おとこ は、皆 みな 私 わたし に暴力 ぼうりょく を振 ふ るった。男 おとこ というものは暴力 ぼうりょく を好 この む生 い き物 もの なのだ 」
Aの発言 はつげん は、少 すく ない例 れい から普遍 ふへん 的 てき な結論 けつろん を導 みちび こうとしており、早 はや まった一般 いっぱん 化 か となる[注 ちゅう 3] 。仮 かり に「男 おとこ というものは暴力 ぼうりょく が好 す きなのかもしれない 」と断定 だんてい を避 さ けていれば、その発言 はつげん は帰納 きのう となる(帰納 きのう は演繹 えんえき ではないので、厳密 げんみつ には論理 ろんり 的 てき に正 ただ しくない)。Aの発言 はつげん を反証 はんしょう するためには、暴力 ぼうりょく が好 す きでない男 おとこ の存在 そんざい (ある男 おとこ は暴力 ぼうりょく 的 てき でない)を示 しめ せばよい。Aの発言 はつげん は、「1は60の約数 やくすう だ。2も60の約数 やくすう だ。3も60の約数 やくすう だ。4も60の約数 やくすう だ。5も60の約数 やくすう だ。6も60の約数 やくすう だ。つまり、全 すべ ての自然 しぜん 数 すう は60の約数 やくすう なのだ」と論理 ろんり 構造 こうぞう は等 ひと しい。
この種 たね の話法 わほう 例 れい は容易 ようい であり「ある貧困 ひんこん 者 もの が努力 どりょく により成功 せいこう した」「ある障害 しょうがい 者 もの が努力 どりょく により成功 せいこう した」などの論調 ろんちょう により統計 とうけい 的 てき な検証 けんしょう を待 ま たずして真 しん の命題 めいだい として認証 にんしょう される誤謬 ごびゅう の原因 げんいん となる可能 かのう 性 せい がある。ある貧困 ひんこん 者 しゃ や障害 しょうがい 者 しゃ が「努力 どりょく 」を要因 よういん として成功 せいこう したとしても、それは問題 もんだい の解決 かいけつ にとって論証 ろんしょう 的 てき に有効 ゆうこう な提示 ていじ となりえるかどうかは分 わ からない。都合 つごう の良 よ い事例 じれい や事実 じじつ あるいは要因 よういん のみを羅列 られつ し、都合 つごう の悪 わる い論点 ろんてん への言及 げんきゅう を避 さ け、誤 あやま った結論 けつろん に誘導 ゆうどう する手法 しゅほう は「つまみぐい (チェリー・ピッキング )」と呼 よ ばれる。また、極 ごく 稀 まれ な例 れい を挙 あ げ、それをあたかも一般 いっぱん 的 てき であるように主張 しゅちょう することもこの一種 いっしゅ となる。
合成 ごうせい の誤謬 ごびゅう (fallacy of composition)[ 編集 へんしゅう ]
A「Bさんの腕時計 うでどけい はロレックス で、財布 さいふ とサングラスはグッチ だった。きっと彼 かれ はお金持 かねも ちに違 ちが いない 」
これは「ある部分 ぶぶん がXだから、全体 ぜんたい もX」という議論 ぎろん で、合成 ごうせい の誤謬 ごびゅう と呼 よ ばれる。この例 れい では金持 かねも ちでなくても他 た の部分 ぶぶん で節約 せつやく しつつ、いくつかの高級 こうきゅう ブランド品 ひん を購入 こうにゅう して着用 ちゃくよう している可能 かのう 性 せい もあるため必 かなら ずしも真 しん ではない。
早 はや まった一般 いっぱん 化 か との違 ちが いは、最初 さいしょ に着目 ちゃくもく するものが「全体 ぜんたい に対 たい しての部分 ぶぶん 」であるという点 てん 。この種 たね の論証 ろんしょう は必 かなら ずしも真 しん ともならないが必 かなら ずしも偽 にせ ともならない。もしこの種 たね の論法 ろんぽう がつねに有効 ゆうこう であるとすれば、「Bさんは白 しろ ワインが大好 だいす きだ。他 ほか にもエビフライ、アロエのヨーグルト、カスタードクリームが好 す きだと聞 き いた。なら、白 しろ ワインとカスタードクリームを混 ま ぜたアロエのヨーグルトをエビフライにかけた物 もの も喜 よろこ んで食 た べるに違 ちが いない 」といった推論 すいろん がつねに正 ただ しいことになる[注 ちゅう 4] 。
経済 けいざい 学 がく では、ミクロ経済 けいざい で通用 つうよう する法則 ほうそく がマクロ経済 けいざい でも通用 つうよう するとは限 かぎ らない、という論旨 ろんし で使 つか われる。自然 しぜん 科学 かがく や社会 しゃかい 科学 かがく では、複雑 ふくざつ 系 けい では還元 かんげん 主義 しゅぎ 的 てき 手法 しゅほう が通用 つうよう するとは限 かぎ らない、という論旨 ろんし で使 つか われる。
分割 ぶんかつ の誤謬 ごびゅう (fallacy of division)[ 編集 へんしゅう ]
A「○○国 こく のGDPは高 たか い。だから○○国民 こくみん は経済 けいざい 的 てき に豊 ゆた かだ。」
これは「全体 ぜんたい がXだから、ある部分 ぶぶん もX」という議論 ぎろん で、分割 ぶんかつ の誤謬 ごびゅう と呼 よ ばれる。合成 ごうせい の誤謬 ごびゅう とは逆 ぎゃく のパターンの詭弁 きべん 。Aの発言 はつげん は「Bさんはカレーライスが大 だい 好物 こうぶつ だ。だからニンジンやジャガイモや米 べい やカレー粉 こ をそのまま与 あた えても喜 よろこ んで食 た べるだろう」と論理 ろんり 構造 こうぞう が等 ひと しい。
誰 だれ が言 い っているかを問題 もんだい とするもの。「対人 たいじん 論証 ろんしょう 」「連座 れんざ の誤謬 ごびゅう 」「状況 じょうきょう 対人 たいじん 論証 ろんしょう 」「権威 けんい 論証 ろんしょう 」「多数 たすう 論証 ろんしょう 」などを言 い う。
対人 たいじん 論証 ろんしょう (ad hominem abusive)[ 編集 へんしゅう ]
A「私 わたし は生活 せいかつ 必需 ひつじゅ 品 ひん の消費 しょうひ 税 ぜい を廃止 はいし するべきだと思 おも う」
B「A氏 し はそんな事 こと を主張 しゅちょう しているが、彼 かれ は過去 かこ に傷害 しょうがい 事件 じけん を起 お こしている。 そんな者 もの の意見 いけん を取 と り入 い れる事 こと はできない」
Bの発言 はつげん は、Aの主張 しゅちょう そのものではなくA自身 じしん に対 たい して個人 こじん 攻撃 こうげき することで反論 はんろん しているため、対人 たいじん 論証 ろんしょう となる。「Aが傷害 しょうがい 事件 じけん を起 お こした」という事 こと は、A自身 じしん の信用 しんよう を失墜 しっつい させる効果 こうか はあるが、Aの主張 しゅちょう の論理 ろんり 的 てき な正否 せいひ とは無関係 むかんけい であるため、論理 ろんり 的 てき には正 ただ しい反論 はんろん ではない。このように、論敵 ろんてき を貶 おとし めて信用 しんよう を失 うしな わせようとする目的 もくてき で行 おこな われるのが対人 たいじん 論証 ろんしょう で、人身 じんしん 攻撃 こうげき の一種 いっしゅ 。同時 どうじ に、相手 あいて の主張 しゅちょう の正否 せいひ から「相手 あいて を信用 しんよう できるか」への論点 ろんてん のすり替 か えでもある。
連座 れんざ の誤謬 ごびゅう (guilt by association)[ 編集 へんしゅう ]
A「科学 かがく 者 しゃ Bの学説 がくせつ に対 たい し、C教 きょう が公式 こうしき に賛同 さんどう を表明 ひょうめい した。しかしC教 きょう は胡乱 うろん なペテン集団 しゅうだん だ。B氏 し の学説 がくせつ もきっと信用 しんよう には値 あたい しない 」
これも対人 たいじん 論証 ろんしょう の一種 いっしゅ で、「その主張 しゅちょう を支持 しじ する者 もの の中 なか にはろくでもない連中 れんちゅう がいる。故 ゆえ に その主張 しゅちょう は間違 まちが った内容 ないよう である」というタイプの推論 すいろん である。どのような個人 こじん または集団 しゅうだん に支持 しじ されているか、という事柄 ことがら は数学 すうがく 的 てき ・論理 ろんり 学 がく 的 てき な正 ただ しさとは無関係 むかんけい なので、これは演繹 えんえき にならない。
状況 じょうきょう 対人 たいじん 論証 ろんしょう (circumstantial ad hominem)[ 編集 へんしゅう ]
A「そろそろ新 あたら しいデジタルカメラ が欲 ほ しいって話 はなし をC君 くん としたら、D社 しゃ の新 しん 製品 せいひん を勧 すす められたよ」
B「C君 くん のお父 とう さんはD社 しゃ に勤 つと めている んだから、C君 くん がそう答 こた えるのは当然 とうぜん さ。買 か わない方 ほう がいい」
Aに対 たい するBの発言 はつげん は、特定 とくてい の人間 にんげん が置 お かれている『状況 じょうきょう 』を論拠 ろんきょ としている。「D社 しゃ に勤 つと める家族 かぞく を持 も つ者 もの 」は「D社 しゃ に都合 つごう の良 よ い嘘 うそ を述 の べる者 もの 」と論理 ろんり 的 てき に同値 どうち でもなければ包含 ほうがん 関係 かんけい にもないので、「C君 くん のお父 とう さんはD社 しゃ に勤 つと めている。故 ゆえ に D社 しゃ のデジタルカメラは買 か わない方 ほう がいい商品 しょうひん である」は演繹 えんえき にならない。このように、「その人 ひと がそんな事 こと を言 い うのは、そういう状況 じょうきょう に置 お かれているからに過 す ぎない(故 ゆえ に信用 しんよう に値 あたい しない)」というタイプの対人 たいじん 論証 ろんしょう を指 さ して、「状況 じょうきょう 対人 たいじん 論証 ろんしょう 」と呼 よ ぶ。
権威 けんい 論証 ろんしょう (ad verecundiam)[ 編集 へんしゅう ]
A「人間 にんげん はBを敬 うやま うべきだ。哲学 てつがく 者 しゃ のCもそう言 い っているだろう 」
Aの発言 はつげん は「専門 せんもん 家 か (または著名 ちょめい 人 じん )も私 わたし と同 どう 意見 いけん だ。故 ゆえ に私 わたし の意見 いけん は正 ただ しい」というタイプの推論 すいろん 。権威 けんい に訴 うった える論証 ろんしょう とも。『専門 せんもん 家 か 』や『著名 ちょめい 人 じん 』は『常 つね に真理 しんり を述 の べる者 もの 』と論理 ろんり 的 てき に同値 どうち でもなければ包含 ほうがん 関係 かんけい にもないので、権威 けんい ある者 もの の引用 いんよう は厳密 げんみつ な証明 しょうめい にならない。反論 はんろん として対立 たいりつ する権威 けんい が引用 いんよう され、同 おな じ権威 けんい 論証 ろんしょう で対抗 たいこう されることもしばしばである。
A「B君 くん も早 はや くCを買 か うべきだ。もう皆 みな そうしている 」
Aの発言 はつげん は「Xは多数 たすう 派 は である。多数 たすう 派 は は正 ただ しい。故 ゆえ にXは正 ただ しい」というタイプの推論 すいろん 。『多数 たすう 派 は 』は『正 ただ しい側 がわ 』と論理 ろんり 的 てき に同値 どうち ではなく包含 ほうがん 関係 かんけい にもないので、この論理 ろんり は演繹 えんえき にならない。むしろこの論理 ろんり は、多数 たすう 派 は に属 ぞく しないと不利 ふり になるという脅迫 きょうはく 論証 ろんしょう の一種 いっしゅ といえる。また、Aが「多数 たすう 派 は は正 ただ しい。故 ゆえ に多数 たすう 派 は ではなければ(少数 しょうすう 派 は であれば)正 ただ しくない」という意味 いみ で発言 はつげん しているならそれは前件 ぜんけん 否定 ひてい の虚偽 きょぎ でもある。また、Aの多数 たすう 論証 ろんしょう は、規範 きはん 文 ぶん (そうするべき)の根拠 こんきょ が記述 きじゅつ 文 ぶん (そうしている)になっているため、自然 しぜん 主義 しゅぎ の誤謬 ごびゅう (前述 ぜんじゅつ )にもなっている[注 ちゅう 5] 。
なお、厳密 げんみつ には「全員 ぜんいん 」ではないにもかかわらず「皆 みな 」「誰 だれ も」という言葉 ことば が使 つか われているような場合 ばあい 、これを誇張 こちょう 法 ほう (hyperbole) という。誇張 こちょう 法 ほう は詭弁 きべん ではなくレトリック 。無論 むろん 、計数 けいすう 可能 かのう な「皆 みな 」「誰 だれ も」が肯定 こうてい しているからといってその命題 めいだい が正 ただ しいかどうかは分 わ からない[注 ちゅう 6] 。
A 「私 わたし は子 こ どもが道路 どうろ で遊 あそ ぶのは危険 きけん だと思 おも う。」
B 「そうは思 おも わない、子 こ どもが外 そと で遊 あそ ぶのは良 よ いことだ。A氏 し は子 こ どもを一日中 いちにちじゅう 家 か に閉 と じ込 こ めておけ というが、果 は たしてそれは正 ただ しい子育 こそだ てなのだろうか。」
わら人形 にんぎょう 、わら人形 にんぎょう 論法 ろんぽう 、架空 かくう の論法 ろんぽう ともいう。Aが主張 しゅちょう していないことを自分 じぶん の都合 つごう の良 よ いように表現 ひょうげん しなおし、さも主張 しゅちょう しているかのように取 と り上 あ げ論破 ろんぱ することでAを論破 ろんぱ したかのように見 み せかける。燻製 くんせい ニシンの虚偽 きょぎ (red herring)。論理 ろんり 性 せい が未熟 みじゅく なため相手 あいて の主張 しゅちょう を誤解 ごかい している場合 ばあい は誤謬 ごびゅう であるが、意図 いと 的 てき に歪曲 わいきょく している場合 ばあい は詭弁 きべん となる。議論 ぎろん が過熱 かねつ し論点 ろんてん が見 み えにくくなると起 お きやすい。社会 しゃかい 生活 せいかつ 上 じょう よく見 み られる。
論点 ろんてん のすりかえ (Ignoratio elenchi)[ 編集 へんしゅう ]
A「スピード違反 いはん の罰金 ばっきん を払 はら えというが、世間 せけん を見 み てみろ。犯罪 はんざい であふれ返 かえ っている。君 きみ たち警察官 けいさつかん は私 わたし のような善良 ぜんりょう な納税 のうぜい 者 しゃ を悩 なや ませるのではなく、犯罪 はんざい 者 しゃ を追 お いかけているべきだろう 。」
B「トマス・ジェファーソン は、奴隷 どれい 制度 せいど は間違 まちが いであり廃止 はいし すべきだと主張 しゅちょう した。しかしジェファーソン 自身 じしん が奴隷 どれい を所有 しょゆう したことから明 あき らかなように、奴隷 どれい 制 せい そのもの は間違 まちが いではなかった。」
論 ろん じている内容 ないよう とはちがう話題 わだい (主題 しゅだい )を提示 ていじ することで論点 ろんてん をそらすもの。論理 ろんり 性 せい が未熟 みじゅく なために陥 おちい る場合 ばあい は誤謬 ごびゅう であるが、意識 いしき 的 てき におこなう場合 ばあい は詭弁 きべん となる。燻製 くんせい ニシンの虚偽 きょぎ (red herring) とも。Bの例 れい ではジェファーソン個人 こじん の言動 げんどう の不一致 ふいっち をもって「奴隷 どれい 制度 せいど そのもの」を話題 わだい にしており「Whataboutism 」「お前 まえ だって論法 ろんぽう 」(tu quoque) ないしは人身 じんしん 攻撃 こうげき を利用 りよう した論点 ろんてん のすりかえである。
ただし論点 ろんてん そのものが複数 ふくすう 存在 そんざい している場合 ばあい 、論点 ろんてん のすりかえは必 かなら ずしも成 な りたず、その場合 ばあい 詭弁 きべん としては合成 ごうせい ・分割 ぶんかつ の誤謬 ごびゅう に分類 ぶんるい される。
論点 ろんてん 回避 かいひ (Begging the question)[ 編集 へんしゅう ]
「喫煙 きつえん 者 しゃ はいつでも禁煙 きんえん できます。彼 かれ に必要 ひつよう なのは禁煙 きんえん する能力 のうりょく なのです。」
推論 すいろん の前提 ぜんてい となる命題 めいだい の真偽 しんぎ を問 と わず結論 けつろん を真 しん とする。あるいは前提 ぜんてい に仮定 かてい を置 お いて得 え られた結論 けつろん を真 しん とする。上 うえ の例 れい では「禁煙 きんえん する能力 のうりょく 」について問 と うことなく「いつでも禁煙 きんえん できる(結論 けつろん )」を主張 しゅちょう している。倒置 とうち 法 ほう となっているが、論理 ろんり 構造 こうぞう は「もし禁煙 きんえん する能力 のうりょく があれば、喫煙 きつえん 者 しゃ はいつでも禁煙 きんえん できる」である[注 ちゅう 7] 。
含 ふく みのある言葉 ことば (loaded language)[ 編集 へんしゅう ]
A「私 わたし 達 たち は、罪 つみ なき善良 ぜんりょう な社会 しゃかい 的 てき 弱者 じゃくしゃ により一層 いっそう の苦痛 くつう と不幸 ふこう を強 し いるだけの B知事 ちじ の冷酷 れいこく で残酷 ざんこく で無慈悲 むじひ で恥知 はじし らずな政策 せいさく に、知性 ちせい と良識 りょうしき ある善人 ぜんにん なら当然 とうぜん そうするように反対 はんたい の意 い を表明 ひょうめい しました。」
B「今般 こんぱん の軍事 ぐんじ 作戦 さくせん により、我 わ が国 くに はかつての海外 かいがい 領土 りょうど を回復 かいふく した。なんと素晴 すば らしい事 こと ではないか! 」
C「現状 げんじょう の国難 こくなん を打開 だかい するには大人 おとな の成熟 せいじゅく した判断 はんだん が必要 ひつよう とされる」
これも論点 ろんてん 先取 せんしゅ の一種 いっしゅ で、読 よ み手 て (き手 きて )に話題 わだい ・論題 ろんだい への先験的 せんけんてき な感情 かんじょう を惹起 じゃっき させようとする文章 ぶんしょう を言 い う。論理 ろんり 性 せい ではなく「語調 ごちょう 」に頼 たよ った主張 しゅちょう を、loaded language(または emotionally charged words)と呼 よ ぶ。必 かなら ずしも例 れい Aのように感情 かんじょう 的 てき ・攻撃 こうげき 的 てき ・侮蔑 ぶべつ 的 てき な形容 けいよう 句 く で装飾 そうしょく された文章 ぶんしょう のみを指 さ すものではなく、常用 じょうよう 語 ご を用 もち いた文章 ぶんしょう も含 ふく む。たとえば例 れい Bは「獲得 かくとく ・征服 せいふく 」ではなく「回復 かいふく 」という言葉 ことば で獲得 かくとく した領土 りょうど が本来 ほんらい 自国 じこく に帰属 きぞく するものだったと思 おも わせようとしており、例 れい Cでは「大人 おとな ・成熟 せいじゅく 」という術語 じゅつご を用 もち いることで根拠 こんきょ なく「反対 はんたい 者 しゃ は子供 こども っぽい意見 いけん の持 も ち主 ぬし だ」と先験的 せんけんてき な価値 かち 判断 はんだん (ラベル・レッテル)を貼 は っている。このタイプの詭弁 きべん は、情報 じょうほう 操作 そうさ やプロパガンダ の手法 しゅほう として使 つか われる[注 ちゅう 8] 。受 う け手 て の感情 かんじょう や価値 かち 判断 はんだん を暗黙 あんもく に刺激 しげき するkey wordを文中 ぶんちゅう にひそませ、ちりばめることで論理 ろんり によらずに受 う け手 て を操作 そうさ する。論点 ろんてん 回避 かいひ の一 ひと つ。
多重 たじゅう 尋問 じんもん (complex question)[ 編集 へんしゅう ]
A「(万引 まんび きをした事 こと が明 あき らかではない人 ひと に対 たい し) もう 万引 まんび きはやめたの?」
複 ふく 問 とい の虚偽 きょぎ とも。『実際 じっさい に万引 まんび きをした事 こと がある人 ひと 』ではない人 ひと にこう質問 しつもん すると、多重 たじゅう 尋問 じんもん となる。「はい」と答 こた えれば、過去 かこ に万引 まんび きをしたと認 みと める事 こと になり、「いいえ」と答 こた えれば、現在 げんざい も継続 けいぞく して万引 まんび きをしていると認 みと めた事 こと になってしまうので、万引 まんび きをした事 こと が一切 いっさい 無 な い人 ひと にとっては、どちらで答 こた えても不都合 ふつごう な結果 けっか になる恐 おそ れがある。これは、この多重 たじゅう 尋問 じんもん がこれまでに 彼 かれ が万引 まんび きをしていた事 こと を暗黙 あんもく の前提 ぜんてい としているためである。
質問 しつもん 者 しゃ は修辞 しゅうじ 的 てき にこのような質問 しつもん を行 おこな い、特 とく に返答 へんとう を期待 きたい していないことが多 おお い。複 ふく 層 そう ・混乱 こんらん した尋問 じんもん として因果 いんが 関係 かんけい や相関 そうかん 関係 かんけい の証明 しょうめい がない命題 めいだい を列記 れっき してそれに質問 しつもん をおこなう形式 けいしき がある。
B「政治 せいじ は変 か わらなければならない。C党首 とうしゅ に全 ぜん 権力 けんりょく を集中 しゅうちゅう させなければならない。このままでいいんですか ?」
D「さあ、よくこの商品 しょうひん を見 み てくださいよ。もう誰 だれ もあなたが美 うつく しくなる事 こと をとめることは出来 でき ない。誰 だれ ができるというんですか ?」 (buttering-up)
Bは第 だい 一 いち 命題 めいだい と第 だい 二 に 命題 めいだい に論理 ろんり 上 じょう の関連 かんれん がない場合 ばあい 、第 だい 一 いち 命題 めいだい について「このままでは良 よ くない」と結論 けつろん することは第 だい 二 に 命題 めいだい には何 なん ら影響 えいきょう はない(第 だい 二 に 命題 めいだい に対 たい しても同様 どうよう )。Dは「(あなたが)この商品 しょうひん を見 み ること(をとめることは誰 だれ も出来 でき ない)(第 だい 一 いち 命題 めいだい )」と「あなたが(この商品 しょうひん で)美 うつく しくなることをとめることは誰 だれ にもできない(第 だい 二 に 命題 めいだい :おべっか (buttering-up))」が錯綜 さくそう した構造 こうぞう になっており、これに多重 たじゅう 尋問 じんもん を行 おこな うことで第 だい 一 いち 命題 めいだい ・第 だい 二 に 命題 めいだい とも否定 ひてい することができない構造 こうぞう となっている(商品 しょうひん に注目 ちゅうもく させる効果 こうか )。
脅迫 きょうはく 論証 ろんしょう (ad baculum)[ 編集 へんしゅう ]
A「黙 だま って私 わたし に従 したが え ないなら、ここから出 で て行 い け」(※「裁判所 さいばんしょ 法 ほう 第 だい 七 なな 十 じゅう 一 いち 条 じょう (法廷 ほうてい の秩序 ちつじょ 維持 いじ )の規定 きてい に従 したが い、法廷 ほうてい の秩序 ちつじょ を乱 みだ す者 もの は、ここから出 で て行 い け」 )
B「国境 こっきょう 線 せん はここだと主張 しゅちょう しているが、そんなことは許 ゆる さ(れ)ない 。国境 こっきょう 線 せん はあちらだ。」
Aの発言 はつげん は、「あなたがXしないなら、私 わたし はYをする。故 ゆえ に あなたはXすべきである」という形式 けいしき の推論 すいろん で、脅迫 きょうはく 論証 ろんしょう という。前件 ぜんけん の仮 かり 言 げん 的 てき 命題 めいだい と後件 こうけん の命題 めいだい は、論理 ろんり 的 てき に同値 どうち でもなければ包含 ほうがん 関係 かんけい にもないので、この推論 すいろん は演繹 えんえき にならない。Aの脅迫 きょうはく 論証 ろんしょう は「お前 まえ がすべき事 こと は黙 だま って私 わたし に従 したが うか、ここから出 で て行 い くかのいずれかである。しかし、お前 まえ は黙 だま って私 わたし に従 したが わない。故 ゆえ にお前 まえ はここから出 で て行 い くべきである」という論旨 ろんし なので、脅迫 きょうはく 論証 ろんしょう であると同時 どうじ に「誤 あやま った二分 にぶん 法 ほう 」(前述 ぜんじゅつ )にもなっている。
Bは「(なぜなら)○○条約 じょうやく によれば〜」などと論証 ろんしょう すべきところを脅迫 きょうはく や威嚇 いかく の文言 もんごん で置 お き換 か えており有効 ゆうこう な演繹 えんえき 推論 すいろん となっていない。「ゆるされ ない」と自発 じはつ の助動詞 じょどうし を挿入 そうにゅう する事 こと で、主語 しゅご ・主体 しゅたい を曖昧 あいまい にすることで、あるかどうか分 わ からない根拠 こんきょ を暗示 あんじ ・示唆 しさ する(未知 みち 論証 ろんしょう )なり、権威 けんい 論証 ろんしょう (上述 じょうじゅつ )、あるいは多数 たすう 論証 ろんしょう (みなが許 ゆる さないといっている)なりに持 も ち込 こ む方法 ほうほう がある。たとえば「規則 きそく ですから」という漠然 ばくぜん とした言 い いまわしは、その規則 きそく を制定 せいてい した意志 いし 主体 しゅたい を曖昧 あいまい にするもので、この方法 ほうほう の一種 いっしゅ といえる。制定 せいてい 法 ほう は議会 ぎかい によるものであれ主君 しゅくん (主権 しゅけん )の命令 めいれい によるものであれある種 しゅ の脅迫 きょうはく 論証 ろんしょう をつねに含 ふく んでおり、正当 せいとう 性 せい の契機 けいき (法 ほう 源 げん )が重要 じゅうよう となる。
連続 れんぞく 性 せい の虚偽 きょぎ (Continuum fallacy)[ 編集 へんしゅう ]
A「砂山 すなやま から砂粒 さりゅう を一 ひと つ取 と り出 だ しても、砂山 すなやま のままである。さらにもう一 いち 粒 つぶ 取 と り出 だ しても砂山 すなやま である。したがって砂山 すなやま からいくら砂粒 さりゅう を取 と り出 だ しても砂山 すなやま は砂山 すなやま である。」
B「建築 けんちく 契約 けいやく には高額 こうがく の追加 ついか 費用 ひよう の発生 はっせい の際 さい には事前 じぜん に承認 しょうにん を求 もと めよとあるが、10万 まん 円 えん は高額 こうがく ではない 。」
術語 じゅつご の曖昧 あいまい 性 せい から生 しょう じる砂山 すなやま のパラドックス を利用 りよう した弁証法 べんしょうほう 。ハゲのパラドックス (fallacy of the bald)、あごひげのパラドックス (fallacy of the beard) とも。Aは「砂山 すなやま 」の定義 ていぎ が、Bは「高額 こうがく 」の定義 ていぎ が、その量 りょう に関 かん して曖昧 あいまい であるため詭弁 きべん が成立 せいりつ する。閑散 かんさん とした食堂 しょくどう を「繁盛 はんじょう 店 てん 」と広告 こうこく する(何人 なんにん の客 きゃく が入 はい っていれば繁盛 はんじょう と呼 よ べるのか不明 ふめい 確 かく )などこの種 たね の弁論 べんろん は容易 ようい であり、社会 しゃかい 生活 せいかつ 上 じょう しばしば見 み られる。
隙間 すきま の神 かみ (God of the gaps)[ 編集 へんしゅう ]
A「この現象 げんしょう は科学 かがく では説明 せつめい できない。だから神 かみ の仕業 しわざ としか考 かんが えられない 」
未知 みち 論証 ろんしょう の一 ひと つ。創造 そうぞう 科学 かがく やオカルト的 てき な主張 しゅちょう でよく用 もち いられる論法 ろんぽう である。神 かみ は自然 しぜん 現象 げんしょう の未 み 解明 かいめい の部分 ぶぶん (隙間 すきま )に住 す んでいて、新 あら たな事実 じじつ が解 と き明 あ かされ、未 み 解明 かいめい な部分 ぶぶん が減 へ っていくと神 かみ の住 す むところもどんどん狭 せま くなっていくという皮肉 ひにく が込 こ められた呼称 こしょう 。
たばこ を吸 す うことは健康 けんこう に悪 わる い。
したがって、たばこを吸 す ってはならない[15] 。
この推論 すいろん では、事実 じじつ 命題 めいだい (英語 えいご 版 ばん ) (「XはYである」という形式 けいしき の文 ぶん (英語 えいご 版 ばん ) )から規範 きはん 命題 めいだい (英語 えいご 版 ばん ) (「XはYすべきである」という形式 けいしき の文 ぶん )を導 みちび いている。この推論 すいろん は誤 あやま りである。この推論 すいろん を受 う け入 い れると、あらゆる制度 せいど の改革 かいかく が許容 きょよう されなくなり、不 ふ 合理 ごうり (英語 えいご 版 ばん ) であるからである。例 たと えば、「人類 じんるい は多 おお くの戦争 せんそう と殺戮 さつりく を繰 く り返 かえ してきた。だからこれからもそうするべきである」という推論 すいろん を受 う け入 い れなければならなくなる。
このことをヒュームの法則 ほうそく [16] またはIs-Ought問題 もんだい (英語 えいご : is-ought problem )[17] と呼 よ ぶ。デイヴィッド・ヒューム は『人間 にんげん 本性 ほんしょう 論 ろん 』で、倫理 りんり に関係 かんけい のない(non-moral)前提 ぜんてい から倫理 りんり 的 てき な結論 けつろん を導 みちび くことはできないと主張 しゅちょう した。
自然 しぜん 主義 しゅぎ 的 てき 誤謬 ごびゅう (naturalistic fallacy)[ 編集 へんしゅう ]
ビールを飲 の むことは快 こころよ い(pleasant)。
したがって、ビールを飲 の むことは善 よ い(good)[19] 。
自然 しぜん 主義 しゅぎ 的 てき 誤謬 ごびゅう は、ある対象 たいしょう の持 も つ属性 ぞくせい (「自然 しぜん である」「快 こころよ い」「神 かみ によって命 めい じられた」など)から、その対象 たいしょう が「善 よ い」という評価 ひょうか を導出 どうしゅつ する誤謬 ごびゅう である[15] [19] 。
ジョージ・エドワード・ムーア は、倫理 りんり に関係 かんけい のない(non-moral)述語 じゅつご で倫理 りんり 的 てき な述語 じゅつご (特 とく に「善 よ い」)を定義 ていぎ することはできないと主張 しゅちょう した。
道徳 どうとく 主義 しゅぎ の誤謬 ごびゅう (moralistic fallacy)[ 編集 へんしゅう ]
A「人間 にんげん は皆 みな 生 う まれながらに平等 びょうどう であるべきだ。だから能力 のうりょく が遺伝 いでん するという研究 けんきゅう 結果 けっか は間違 まちが っている 。」
規範 きはん 文 ぶん の前提 ぜんてい から記述 きじゅつ 文 ぶん の結論 けつろん を導 みちび く場合 ばあい に生 しょう じる誤謬 ごびゅう 。道徳 どうとく 律 りつ は定言的 ていげんてき 命 いのち 法 ほう により記述 きじゅつ されるため、その定 てい 言 げん 命題 めいだい が真 しん の場合 ばあい は得 え られる結論 けつろん に倫理 りんり 的 てき 強制 きょうせい 力 りょく をもつ構造 こうぞう がある。Aの主張 しゅちょう が「遺伝 いでん に関 かん する研究 けんきゅう を行 おこな うべきではない 」である場合 ばあい 、これは倫理 りんり 上 じょう の課題 かだい として妥当 だとう な推論 すいろん である可能 かのう 性 せい がある。しかし「研究 けんきゅう 結果 けっか 」そのものを否定 ひてい している場合 ばあい 、その結果 けっか が事実 じじつ であったとすれば、規範 きはん により観察 かんさつ 事実 じじつ を曲 ま げてしまっている。この主張 しゅちょう は「人 ひと を殺 ころ してはいけない。だから殺人 さつじん 事件 じけん はおこらない(人 ひと は殺 ころ されない)」と論理 ろんり 構造 こうぞう が等 ひと しい。倫理 りんり 的 てき な指針 ししん を主張 しゅちょう することで「危険 きけん な知識 ちしき 」の収集 しゅうしゅう を規制 きせい しようと意図 いと する場合 ばあい に見 み られる。アメリカの微生物 びせいぶつ 学 がく 者 もの バーナード・デイビス が自然 しぜん 主義 しゅぎ の誤謬 ごびゅう をもじり命名 めいめい した。ought-is problem。
同情 どうじょう 論証 ろんしょう (ad misericordiam)[ 編集 へんしゅう ]
A「そんなふうに言 い うもんじゃない。B君 くん がかわいそうだよ 」
Aの発言 はつげん は、「XをYするのはかわいそう。故 ゆえ に XはYすべきではない」という形式 けいしき の推論 すいろん で、これは同情 どうじょう 論証 ろんしょう という。同時 どうじ に、かわいそうであるか、そうでないかという論点 ろんてん へのすりかえでもある。
伝統 でんとう に訴 うった える論証 ろんしょう (Appeal to tradition)[ 編集 へんしゅう ]
A「ぜいたくはだめだよ。昔 むかし から節約 せつやく は美徳 びとく とされていたからね」
Aの発言 はつげん は、「過去 かこ から使 つか われている意見 いけん は正 ただ しい」という形式 けいしき の推論 すいろん 。不測 ふそく の事態 じたい の発生 はっせい を防 ふせ ぐという先例 せんれい 主義 しゅぎ という考 かんが え方 かた もあるが、「過去 かこ にその意見 いけん は正 ただ しいから採用 さいよう されたのか」「関係 かんけい する状況 じょうきょう は現在 げんざい と過去 かこ で変 か わっていないか」の二 に 点 てん が立証 りっしょう されないと根拠 こんきょ にはならない。
新 あたら しさに訴 うった える論証 ろんしょう (Appeal to novelty)[ 編集 へんしゅう ]
A「そのやり方 かた はもう古 ふる いよ。最新 さいしん の方法 ほうほう を使 つか うべきだ 」
伝統 でんとう に訴 うった える論証 ろんしょう とは逆 ぎゃく に、過去 かこ と現在 げんざい では状況 じょうきょう が変 か わっているとすることを前提 ぜんてい にした推論 すいろん 。科学 かがく の発展 はってん や流行 りゅうこう の推移 すいい 、社会 しゃかい 事情 じじょう の変化 へんか などで説得 せっとく 力 りょく を持 も たせようとしているが、新 あたら しいだけでは根拠 こんきょ にはならない。
詭弁 きべん と似 に たものにパラドックス がある。パラドックスは詭弁 きべん に比 くら べて、より正確 せいかく で厳密 げんみつ な推論 すいろん を進 すす めることに特徴 とくちょう がある。パラドックスの例 れい としては、ゼノンのパラドックス のように論理 ろんり 展開 てんかい が正 ただ しいように見 み えて結論 けつろん が誤 あやま っているものや、双子 ふたご のパラドックス や誕生 たんじょう 日 び のパラドックス のように結論 けつろん が誤 あやま っているように見 み えるが正 ただ しいもの、自己 じこ 言及 げんきゅう のパラドックス のように矛盾 むじゅん に関連 かんれん したものなどがある。
^ 韓非子 かんぴし 外 そと 儲 もうか 説 せつ にこれにもとづく説話 せつわ がある
^ 「地 ち の塩 しお 」は福音 ふくいん 書 しょ の一節 いっせつ 。
^ つまり、暴力 ぼうりょく が好 す きな男 おとこ が存在 そんざい する(ある男 おとこ は暴力 ぼうりょく 的 てき である)という個別 こべつ の事実 じじつ から、暴力 ぼうりょく が好 す きでない男 おとこ が存在 そんざい するはずがない(すべての男 おとこ は暴力 ぼうりょく 的 てき である)という全 ぜん 称 しょう 判断 はんだん (断定 だんてい )を引 ひ き出 だ しており、誤 あやま りを犯 おか していることになる。
^ 逆 ぎゃく に「Bさんはエビフライとトンカツとカレーライスが大好 だいす きだ。だからエビフライとトンカツをカレーライスに載 の せたものも喜 よろこ んで食 た べるに違 ちが いない」といった推論 すいろん がつねに偽 にせ であるとすることもできない。合成 ごうせい の誤謬 ごびゅう の典型 てんけい 的 てき な例 れい についてはコモンズの悲劇 ひげき も参照 さんしょう 。
^ ちなみに、この論証 ろんしょう は、「あなたはサムライでありたいならば、あなたも刀 かたな をもつべきだ。なぜならば、すべてのサムライが刀 かたな をもっているからだ」という論法 ろんぽう と同型 どうけい である。かりにこの論法 ろんぽう を認 みと めたとしても、これまでのすべてのサムライが刀 かたな をもっていたことが、これからのサムライが刀 かたな をもつべき理由 りゆう とはならないため、やはり自然 しぜん 主義 しゅぎ の誤謬 ごびゅう を犯 おか していることになる。
^ またレトリックとして見 み た場合 ばあい 、Aの発言 はつげん は、「これから皆 みな がそうしてほしい」という発言 はつげん 者 しゃ の願望 がんぼう を表現 ひょうげん している可能 かのう 性 せい もある。
^ なお、「できる」「能力 のうりょく 」という語 かたり 自体 じたい が、後述 こうじゅつ される含 ふく みのある言葉 ことば に該当 がいとう する。(たとえば老 ろう 人力 じんりき など)
^ その他 た にもたとえば一時 いちじ 的 てき に引 ひ き上 あ げられていた課税 かぜい 率 りつ を下 さ げることを「減税 げんぜい 」と呼 よ ぶ、臨時 りんじ の減税 げんぜい 措置 そち を解除 かいじょ することを「増税 ぞうぜい 」と呼 よ ぶような場合 ばあい 、あるいは販売 はんばい 予定 よてい 価格 かかく に割 わ り増 ま した額 がく を最初 さいしょ に提示 ていじ し「今日 きょう は特別 とくべつ に値引 ねび きします」などと提案 ていあん する場合 ばあい 、それぞれ「減税 げんぜい 」「増税 ぞうぜい 」「値引 ねび き」などがloaded languageである。
小野田 おのだ 博一 ひろかず 『正論 せいろん なのに説得 せっとく 力 りょく のない人 ひと ムチャクチャでも絶対 ぜったい に議論 ぎろん に勝 か つ人 ひと -正々堂々 せいせいどうどう の詭弁 きべん 術 じゅつ 』日本 にっぽん 実業 じつぎょう 出版 しゅっぱん 社 しゃ 、2004年 ねん 。ISBN 9784534038128 。
野崎 のさき 昭弘 あきひろ 『詭弁 きべん 論 ろん 理学 りがく 』中央公論 ちゅうおうこうろん 新 しん 社 しゃ 〈中公新書 ちゅうこうしんしょ 〉、1976年 ねん 。ISBN 9784121004482 。
三浦 みうら 俊彦 としひこ 『論理 ろんり 学 がく がわかる事典 じてん 』日本 にっぽん 実業 じつぎょう 出版 しゅっぱん 社 しゃ 、2004年 ねん 。ISBN 9784534037107 。
Pigden, Charles (2018). “No-Ought-From-Is, the Naturalistic Fallacy, and the Fact/Value Distinction: The History of a Mistake” (英語 えいご ). The Naturalistic Fallacy (Cambridge University Press ): 73-95. doi :10.1017/9781316717578.006 .