砂山すなやまのパラドックス

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哲学てつがくじょう解決かいけつ問題もんだい
すなやまから砂粒さりゅうっても依然いぜんとして砂山すなやまのままだが、それからなんつづけて最終さいしゅうてきいちつぶだけがのこったときに、そのいちつぶだけをして「これは砂山すなやまである」とえるのか。

砂山すなやまのパラドックス(すなやまのパラドックス、えい: paradox of the heap)は、述語じゅつご曖昧あいまいせいからしょうじるパラドックスである。古典こてんギリシアで"heap"を意味いみする「ソリテス」(σωρίτηςsōritēs)にちなんで[注釈ちゅうしゃく 1]ソリテス・パラドックスソライティーズ・パラドックスえい: sorites paradox)ともばれる。

定義ていぎ境界きょうかい明確めいかくでなく曖昧あいまい概念がいねんをどうあつかうかという問題もんだいであり、おも論理ろんりがく哲学てつがく言語げんご哲学てつがくにおいて問題もんだいになる。というのも、論理ろんりがく数学すうがくなどの科学かがくにおいては、すべての概念がいねん明確めいかくでなければならず、通常つうじょう方法ほうほうでは曖昧あいまい概念がいねんあつかえないからである。

歴史れきしとバリエーション[編集へんしゅう]

このパラドックスの起源きげんは、古代こだいギリシャ哲学てつがくしゃエウブリデスかえせられるハゲあたまのパラドックス (paradox of the bald man) にさかのぼ[1]

ハゲあたまのパラドックス[編集へんしゅう]

かみ一本いっぽんもないひとハゲである」(前提ぜんてい1)
「ハゲのひとかみ一本いっぽんしてもハゲである」(前提ぜんてい2)

ここで前提ぜんてい1に前提ぜんてい2をかえ適用てきようしていく(つまりツルッパゲのひとかみ一本いっぽんずつしていく)。そしてつぎ結論けつろんる。

「よってすべてのひとはハゲである」(結論けつろん

砂山すなやまのパラドックス[編集へんしゅう]

どうても砂山すなやまだ。
これは砂山すなやまなのか⁉︎

砂山すなやまから砂粒さりゅう個々ここ除去じょきょしていくことを想定そうていする。ここで、つぎのような前提ぜんていから論証ろんしょう構築こうちくする。

砂山すなやま膨大ぼうだいかず砂粒さりゅうからできている」(前提ぜんてい1)
砂山すなやまからいちつぶすなのぞいても、それは依然いぜんとして砂山すなやまのままである」(前提ぜんてい2)

前提ぜんてい2をかえ適用てきようしたとき(つまり、毎回まいかい砂山すなやま砂粒さりゅうすう徐々じょじょっていく)、最終さいしゅうてき砂山すなやま砂粒さりゅういちつぶだけになる。前提ぜんてい2 がしんであるなら、この状態じょうたいも「砂山すなやま」だが、前提ぜんてい1 がしんだとすれば、このような状態じょうたいは「砂山すなやま」ではない。これが矛盾むじゅんである。

このとき、このような結論けつろんふせ方法ほうほうがいくつか存在そんざいする。あるものは、砂粒さりゅう集積しゅうせき砂山すなやまとなること(あるいは、それを砂山すなやまぶこと)を否定ひていすることでだいいち前提ぜんてい反対はんたいする。またあるものは、砂山すなやまから砂粒さりゅうを1つのぞいたとき、かならずしも砂山すなやまのままではないと主張しゅちょうすることでだい前提ぜんてい反対はんたいする。さらにべつものは、一粒ひとつぶすなであっても砂山すなやまべると主張しゅちょうすることで結果けっか肯定こうていする。

ろばのパラドックス[編集へんしゅう]

ろば荷物にもつとしてわらげていることを想定そうていする。このとき、

わら追加ついかしなければ、ろばの背骨せぼねれることはない」(前提ぜんてい1)
わらを1ほん追加ついかするだけなら、ろばの背骨せぼねれることはない」(前提ぜんてい2)
わらを1ほん追加ついかすることをかえすことで、ろばのにはいくらでもわらむことができる」(結論けつろん

このパラドックスは、自明じめいえる2つの前提ぜんてい結論けつろんのうち、どれか1つをえらんであいだちがっていることを説明せつめいしなければならない。そういった意味いみで、巧妙こうみょうである。


解決かいけつさく[編集へんしゅう]

自明じめい解決かいけつさく[編集へんしゅう]

自明じめい解決かいけつさくは、砂粒さりゅうなんつぶあつまっても「砂山すなやま」にはならないとすることである。いいかえれば、「砂山すなやま」という言葉ことば検証けんしょう可能かのう明確めいかく条件じょうけんそなえていないから無意味むいみだとするのである。このかんがかたをつきつめれば、メレオロジーてき虚無きょむ主義しゅぎ到達とうたつする。

バートランド・ラッセルなどの哲学てつがくしゃたんに、あいまいな概念がいねんには論理ろんり適用てきようできないとする。

固定こてい境界きょうかい設定せってい[編集へんしゅう]

このパラドックスをいた大抵たいていひと最初さいしょかんがえることは、「砂山すなやま」とべる砂粒さりゅうかず下限かげん設定せっていすることである。たとえば、あるひとが1まんつぶ下限かげんとした場合ばあい砂山すなやまから砂粒さりゅうのぞいていって1まんつぶ未満みまんになった時点じてんで、「砂山すなやま」ではないとする。

しかし、この解決かいけつさく哲学てつがくにおいて公認こうにんされるようなものではない。なぜなら、9,999つぶと10,000つぶ差異さいはほとんどないからである。つまり、10,000つぶなら砂山すなやまで9,999つぶなら砂山すなやまでないという定義ていぎは、0つぶならで1つぶでもあれば砂山すなやまだとする解釈かいしゃく境界きょうかい意図いとてきえたにぎない。それにもかかわらず、このような明確めいかく線引せんひきが実社会じっしゃかいではよく見受みうけられる。たとえば、学力がくりょく検査けんさでは一般いっぱんにある点数てんすう以上いじょう成績せいせきげないと合格ごうかくとされない。ほかにも" That's the straw that broke the camel's back." (Straw that broke the camel's back(ラクダの背骨せぼねるのは最後さいごのワラ一本いっぽん)ということわざのように明確めいかく境界きょうかいがあるようにえるものもあるが、実際じっさいにはラクダの個体こたい選択せんたくなどいくつかのてん任意にんい選択せんたくがなされている。

多値たち論理ろんり[編集へんしゅう]

もう1つの手法しゅほうとして、多値たち論理ろんり使つか方法ほうほうがある。「砂山すなやま」か「砂山すなやまでない」かという2つの論理ろんり状態じょうたいわりに、たとえば「砂山すなやまである」/「確実かくじつ」/「砂山すなやまでない」という3体系たいけいもちいる。しかし、3体系たいけいはこのパラドックスのしん解決かいけつさくではない。なぜなら、「砂山すなやまである」と「確実かくじつ」の境界きょうかい、「確実かくじつ」と「砂山すなやまでない」の境界きょうかいという問題もんだい依然いぜんとしてのこっているからである。

ファジィ論理ろんりであれば、論理ろんり状態じょうたい連続れんぞくてき変化へんかあつかえる。たとえば、「砂山すなやまである」/「ほぼ砂山すなやまである」/「一部いちぶ砂山すなやまである」/「すこ砂山すなやまである」/「砂山すなやまでない」といった状態じょうたいにさらに中間ちゅうかん無数むすう状態じょうたいがあると、ファジィ集合しゅうごうではかんがえることができる。したがって、ファジィ理論りろん使つかえば、砂山すなやまのパラドックスはたんに「砂山すなやまである」から「砂山すなやまでない」へと連続れんぞくてき状態じょうたい変化へんかしているものとしてあらわされる。

履歴りれき現象げんしょう[編集へんしゅう]

この関数かんすうは、どのようにして現在げんざい状態じょうたいになったかに依存いぞんする多値たち関数かんすうである

もう1つの手法しゅほうとして履歴りれき現象げんしょう、すなわちすな集合しゅうごうたいがどういうかたちはじまったかという知識ちしき使つか手法しゅほうがある。あるりょうすな最初さいしょからあれば、それは砂山すなやまばれる(それ以前いぜん状態じょうたいわない)。おおきな砂山すなやまあきらかに砂山すなやまべるりょう)がすこしずつけずられていったとして、すうつぶすなにまでったとしても「砂山すなやま状態じょうたい」という属性ぞくせい保持ほじされる。

一方いっぽう砂粒さりゅうすこしずつあつめておなりょうになったとする。この場合ばあい出発しゅっぱつ地点ちてんことなるため、砂山すなやまとはなされない。

この手法しゅほう暗示あんじしているのは、「砂山すなやま」という言葉ことば意味いみけい状態じょうたいりょうではないということである。すなあつまりが「砂山すなやま」かかには、その履歴りれき関与かんよする。

集団しゅうだんてき合意ごうい[編集へんしゅう]

集団しゅうだん合意ごういによって「砂山すなやま」という言葉ことば意味いみめることもできる。この手法しゅほうは、砂粒さりゅうあつまりがどれだけのりょうになれば「砂山すなやま」とべるか、集団しゅうだん各人かくじん大半たいはん納得なっとくする定義ていぎ決定けっていすることである。いいかえれば、集団しゅうだん各人かくじんかんがかた分布ぶんぷ期待きたいで「砂山すなやま」の意味いみかくりつてきめるといえる。

たとえば、ある集団しゅうだんではつぎのようにめるかもしれない。

  • 一粒ひとつぶすな砂山すなやまではない。
  • 大量たいりょう砂粒さりゅう砂山すなやまである。

この2つのきょくあいだで、その集団しゅうだん各人かくじんかならずしも個々ここりょうすな砂山すなやまぶかかについて合意ごういできているとはかぎらない。各人かくじん意見いけん集約しゅうやくすれば、明確めいかくに「砂山すなやま」かかが決定けっていされるのではなく、あるりょうすなについてそれを「砂山すなやま」とかくりつが0と1のあいだなんらかのさだまるだけである。

この手法しゅほう用語ようご意味いみをしっかり定義ていぎするというてん便利べんりである。

明確めいかく言葉ことばは、その言葉ことば使用しよう妥当だとうかどうかを他人たにん納得なっとくできる機構きこうっている。曖昧あいまい言葉ことばはそのような機構きこうたない。あるひと身長しんちょう2メートルのおとこひくいとった場合ばあい、そのひとはプロのバスケットボール選手せんしゅ基準きじゅんとしているのかもしれない。曖昧あいまい言葉ことば合意ごうい形成けいせいされている場合ばあいには便利べんりだが、その範囲はんいがい使つかかたをすると混乱こんらんしょうじさせる。

砂山すなやまのパラドックスはたんに、ひと曖昧あいまい言語げんごをどのように使つかうのかについての論理ろんりてき分析ぶんせきしめしたものである。それは、曖昧あいまい言葉ことば定義ていぎまんにん合意ごういすると仮定かていすることが誤謬ごびゅうであることをしめしている。ある人々ひとびとはその使つかかたただしいと判断はんだんしたとしても、まんにんがそれに合意ごういするわけではない。合意ごうい形成けいせい手法しゅほうは、「砂山すなやま」の定義ていぎ主観しゅかんてき定義ていぎから客観きゃっかんてき定義ていぎえるものである。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 厳密げんみつにいえば、"heap" を意味いみする名詞めいし「ソロス」(σωρόςsōros)に、形容詞けいようし接尾せつび-ίτης-itēs)がされたうえで、それがまた名詞めいしした言葉ことばである。ちょう母音ぼいん発音はつおんするならソーロスおよびソーリテース。ソライティーズは英語えいごみ。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ Hyde, Dominic, "Sorites Paradox", The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Fall 2005 Edition), Edward N. Zalta (ed.)

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

関連かんれん文献ぶんけん[編集へんしゅう]

日本語にほんごのオープンアクセス文献ぶんけん

  • 一ノ瀬いちのせ正樹まさき 「『ソライティーズ・バラドックス』にあらわれる段階だんかいてき変化へんかについて」 日本にっぽん科学かがく哲学てつがくかい だい38かい大会たいかい(2005ねん)ワークショップⅣ「確実かくじつせい論理ろんりかくりつ曖昧あいまいせい―」発表はっぴょう資料しりょう PDF
  • 長澤ながさわ 英俊ひでとし曖昧あいまいせいひとし合性あいしょう哲学てつがく Vol.2005, No.56 (2005) pp.234-244 PDF

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]