全能 ぜんのう の逆説 ぎゃくせつ (ぜんのうのぎゃくせつ、英 えい : omnipotence paradox 、全能 ぜんのう のパラドックス )とは、論理 ろんり 学 がく ・哲学 てつがく ・神学 しんがく 等 ひとし において、全能 ぜんのう と論理 ろんり 学 がく 的 てき 不可能 ふかのう との関係 かんけい を扱 あつか った問題 もんだい 。この逆説 ぎゃくせつ は全能 ぜんのう 者 しゃ の論理 ろんり 学 がく 的 てき 矛盾 むじゅん を示 しめ しており、極端 きょくたん な例 れい で言 い えば、全能 ぜんのう 者 しゃ は自分 じぶん 自身 じしん を《永遠 えいえん にいかなる意味 いみ でも存在 そんざい しない》ようにすることはできない。他 た の例 れい で言 い えば、全能 ぜんのう 者 しゃ は「四角 よつかど い円 えん 」や「7+5=75」を成立 せいりつ させることができるように見 み えるが、それらは論理 ろんり 学 がく 的 てき 不可能 ふかのう であり、全能 ぜんのう 者 しゃ は矛盾 むじゅん している。全能 ぜんのう 者 しゃ はどんなことでもなし得 え る、と考 かんが えることは論理 ろんり 学 がく 的 てき に正 ただ しくない。
もし全能 ぜんのう が《論理 ろんり 学 がく を超越 ちょうえつ した能力 のうりょく 》である、または《神 かみ (全能 ぜんのう 者 しゃ )の論理 ろんり 》であると言 い うなら、全能 ぜんのう とは、「四角 しかく い丸 まる 」のような形 かたち をも作成 さくせい できる《非 ひ 論理 ろんり 学 がく 的 てき 能力 のうりょく 》である[注 ちゅう 1] 。この場合 ばあい 、全能 ぜんのう についての主張 しゅちょう ・議論 ぎろん 等 とう から論理 ろんり 学 がく を切 き り捨 す てることになる。全能 ぜんのう 者 しゃ が《論理 ろんり 学 がく を超越 ちょうえつ した者 もの 》である(または《神秘 しんぴ 的 てき な「論理 ろんり 」に基 もと づく者 もの 》である)とすれば、論理 ろんり 学 がく の外側 そとがわ に居 い る者 もの (全能 ぜんのう 者 しゃ )は、神 かみ であっても、悪魔 あくま ・妖精 ようせい ・見 み えざるピンクのユニコーン ・空 そら 飛 と ぶスパゲッティモンスター等 ひとし であっても良 よ い。この場合 ばあい の《全能 ぜんのう 者 しゃ 》の意味 いみ は結局 けっきょく 、《非 ひ 論理 ろんり 学 がく 的 てき な者 もの 》だからである。
一方 いっぽう 、論理 ろんり 学 がく を肯定 こうてい した上 うえ で、全能 ぜんのう と論理 ろんり 学 がく が両立 りょうりつ するという前提 ぜんてい を置 お くことはできる。この場合 ばあい 、全能 ぜんのう とは「論理 ろんり 的 てき に可能 かのう なことならなんでもできるが、論理 ろんり 的 てき に不可能 ふかのう なことはできない」という意味 いみ になる。
ただし、《論理 ろんり 学 がく を肯定 こうてい する》ことは《非 ひ 論理 ろんり 学 がく 性 せい を否定 ひてい する》ことに等 ひと しい。そのため、非 ひ 論理 ろんり 学 がく 性 せい や神秘 しんぴ 性 せい を肯定 こうてい することはできなくなる。懐疑 かいぎ 主義 しゅぎ ・論理 ろんり 学 がく 的 てき 疑問 ぎもん ・合理 ごうり 主義 しゅぎ を切 き り捨 す てることもできない。い換 いか えれば、論理 ろんり 学 がく ・合理 ごうり 主義 しゅぎ によって批判 ひはん された事柄 ことがら (神秘 しんぴ 的 てき 全能 ぜんのう 者 しゃ )について、「神 かみ 」「奇跡 きせき 」「超越 ちょうえつ 」等 とう と説明 せつめい 付 づ けたり擁護 ようご したりしても、そこに論理 ろんり 学 がく 的 てき ・合理 ごうり 的 てき 正 ただ しさは無 な い。これらの存在 そんざい は論理 ろんり 学的 がくてき には否定 ひてい される。
「神 かみ には四角 しかく い丸 まる を作 つく る能力 のうりょく がない」と主張 しゅちょう してきた人々 ひとびと は、無 む 神 かみ 論 ろん 者 もの だけでなく、典型 てんけい 的 てき な信仰 しんこう 者 もの (例 たと えばトマス・アクィナス )たちも居 お り、彼 かれ らは全能 ぜんのう 者 しゃ の力 ちから に論理 ろんり 学 がく 的 てき 制限 せいげん があることを受 う け入 い れていた。また、神 かみ を全能 ぜんのう 者 しゃ とする場合 ばあい 、伝統 でんとう に反 はん した答 こた えが導 みちび かれる。例 たと えば神 かみ が全能 ぜんのう 者 しゃ として存在 そんざい しているとすると、神 かみ は一切 いっさい 何 なに も必要 ひつよう とせず存在 そんざい 可能 かのう なため、神 かみ にとって世界 せかい や被 ひ 造物 ぞうぶつ は必要 ひつよう でなく、何 なに かを愛 あい する必要 ひつよう もない。
イブン=ルシュド (1126年 ねん –98 ), 全能 ぜんのう の逆説 ぎゃくせつ に取 と り組 く んだ最初 さいしょ 期 き の哲人 てつじん のひとり
基本 きほん 的 てき な問題 もんだい は、
※全能 ぜんのう 者 しゃ は自 みずか ら全能 ぜんのう であることを制限 せいげん し、全能 ぜんのう でない存在 そんざい になることができるか
である。(訳注 やくちゅう : 自分 じぶん を全能 ぜんのう でなくすことが不可能 ふかのう なら、その全能 ぜんのう 者 しゃ には不可能 ふかのう なことがあることになるので、全能 ぜんのう とはいえない。一方 いっぽう 自分 じぶん を全能 ぜんのう でなくすことが可能 かのう ならそれを行 おこな った時点 じてん で全能 ぜんのう 者 しゃ は全能 ぜんのう ではなくなってしまう。)
一部 いちぶ の哲学 てつがく 者 しゃ らはこの論議 ろんぎ をもって全能 ぜんのう 者 しゃ が存在 そんざい しない証左 しょうさ とした。別 べつ の哲学 てつがく 者 しゃ らはこの逆説 ぎゃくせつ を《全能 ぜんのう であること》という概念 がいねん (以下 いか 全能 ぜんのう 性 せい )についての誤解 ごかい ないしは誤用 ごよう からきているとしている。また、中 なか には、《ある存在 そんざい は全能 ぜんのう であるか否 ひ かのどちらかでしかない》と仮定 かてい し、さまざまな段階 だんかい の全能 ぜんのう 性 せい があり得 え ることを無視 むし したことからくる偽 にせ の逆説 ぎゃくせつ であるとする哲学 てつがく 者 しゃ もいる (Haeckel )。
しばしば、この逆説 ぎゃくせつ はアブラハムの宗教 しゅうきょう に於 お ける神 かみ (英語 えいご でいう大文字 おおもじ のYHWH )の語 かたり をもって記述 きじゅつ されるが、全能 ぜんのう 者 しゃ をそれと限 かぎ る必要 ひつよう はない。中世 ちゅうせい 以降 いこう 、哲学 てつがく 者 しゃ らは様々 さまざま な方法 ほうほう でこの逆説 ぎゃくせつ を書 か いてきた。古典 こてん 的 てき な例 れい として、
※全能 ぜんのう 者 しゃ は《重 おも すぎて何者 なにもの にも持 も ち上 あ げられない石 いし 》を作 つく ることができるか
という表現 ひょうげん も知 し られている(訳注 やくちゅう : そのような石 いし を作 つく れないなら全能 ぜんのう ではない、作 つく れるならその石 いし を持 も ち上 あ げられないのでやはり全能 ぜんのう ではないことになる)。この表現 ひょうげん にはわずかながら不備 ふび があるが(#哲学 てつがく 者 しゃ の回答 かいとう にて後述 こうじゅつ )、有名 ゆうめい でもあり、この逆説 ぎゃくせつ が分析 ぶんせき されてきた様々 さまざま な方法 ほうほう を描写 びょうしゃ するのに都合 つごう がよい。
全能 ぜんのう の逆説 ぎゃくせつ を厳密 げんみつ に分析 ぶんせき するためには、全能 ぜんのう 性 せい の精密 せいみつ な定義 ていぎ が必要 ひつよう である。全能 ぜんのう 性 せい の定義 ていぎ は文化 ぶんか や宗教 しゅうきょう によって異 こと なり、哲学 てつがく 者 しゃ 同士 どうし でも異 こと なる。通常 つうじょう の定義 ていぎ は「なんでもできる」 all-powerfull であるが、これでは力不足 ちからぶそく である。例 たと えば、全能 ぜんのう 性 せい を《いかなる論理 ろんり の枠組 わくぐみ にも束縛 そくばく されずに動 うご けること》と定義 ていぎ してしまえば、この逆説 ぎゃくせつ は成立 せいりつ させようがない。この問題 もんだい に対 たい する近 きん 現代 げんだい の取 と り組 く みは、意味 いみ 論 ろん の研究 けんきゅう 、即 すなわ ち言語 げんご --従 したが って哲学 てつがく も--全能 ぜんのう 性 せい そのものを有意 ゆうい 味 あじ に記述 きじゅつ することができるのだろうか、という点 てん を含 ふく んでいる。しかし、はじめから全能 ぜんのう 者 しゃ がすべてのことができると定義 ていぎ すれば、この文 ぶん に左右 さゆう されずその石 いし を持 も ち上 あ げられないことも、一 ひと つの能力 のうりょく になる。
伝統 でんとう 的 まと には、神 かみ は全知 ぜんち ・全能 ぜんのう ・全 ちょん 善 ぜん として理解 りかい されてきた。しかし、そのような理解 りかい は脆 もろ い(vulnerable)。例 たと えば、「神 かみ は余 あま りに重 おも 過 す ぎて持 も ち上 あ げられない岩 いわ を創造 そうぞう できるか」という命題 めいだい は、神 かみ の論理 ろんり 的 てき 自己 じこ 矛盾 むじゅん を示 しめ しており、神学 しんがく の言語 げんご がいかに論理 ろんり 的 てき に脆弱 ぜいじゃく かを暗示 あんじ している。
ライプニッツ の主張 しゅちょう から考 かんが えると、神 かみ が全能 ぜんのう であれば、神 かみ は人間 にんげん に悪 あく いことをできる自由 じゆう を与 あた えると同時 どうじ に、悪 わる いことをできない不自由 ふじゆう を与 あた えることが出来 でき る。い換 いか えれば、全能 ぜんのう 者 しゃ は「四角 よつかど い円 えん や結婚 けっこん している独身 どくしん の男 おとこ を創造 そうぞう できる」ということであり、矛盾 むじゅん している(郷 ごう 義孝 よしたか の論 ろん )。
有神論 ゆうしんろん には、全能 ぜんのう 者 しゃ がなし得 え ることに不可能 ふかのう はないという前提 ぜんてい が含 ふく まれている。プランティンガによれば、この前提 ぜんてい は論理 ろんり 的 てき に正 ただ しくない。例 たと えば、全能 ぜんのう 者 しゃ が「四角 しかく い円 えん 」を創造 そうぞう することや「7+5=75」にすることは一見 いっけん 可能 かのう だが、それは論理 ろんり 的 てき 不可能 ふかのう だからである。
全能 ぜんのう 者 しゃ はどんなことでもなし得 え る、と考 かんが えることはできないとプランティンガは言 い う。極端 きょくたん な例 れい を上 あ げれば、全能 ぜんのう 者 しゃ は自分 じぶん を、”永遠 えいえん にいかなる意味 いみ でも存在 そんざい しない”ようにすることはできない。
何 なに も必要 ひつよう とせず存在 そんざい 可能 かのう な全能 ぜんのう 者 しゃ [ 編集 へんしゅう ]
神 かみ が全能 ぜんのう であるなら、神 かみ にとって世界 せかい や被 ひ 造物 ぞうぶつ は不 ふ 必要 ひつよう である、という考 かんが えも伝統 でんとう 神学 しんがく の中 なか にはあった。何故 なぜ なら何 なに かを必要 ひつよう とする者 もの は、全能 ぜんのう ではない ―― すなわち、無限 むげん や自存 じそん (他 た を必要 ひつよう とせず自力 じりき で存在 そんざい できる状態 じょうたい )ではない ―― と考 かんが えられるからである。
全能 ぜんのう である神 かみ は、世界 せかい を愛 あい する必要 ひつよう もない(バルト の考 かんが え)。神 かみ が世界 せかい を愛 あい するなら、そうするように自分 じぶん で決断 けつだん したからであって、神 かみ はそれ以外 いがい でもあり得 え る。何故 なぜ なら、存在 そんざい するために何 なに かを愛 あい する必要 ひつよう がある者 もの ―― 何 なに かを愛 あい することで存在 そんざい 可能 かのう な者 しゃ ―― は、全能 ぜんのう ではないからである。
「全能 ぜんのう 者 しゃ ですら論理 ろんり 的 てき な矛盾 むじゅん を犯 おか すことはできない」と前提 ぜんてい すれば、「論理 ろんり 的 てき な限界 げんかい 内 ない 」の全能 ぜんのう 者 しゃ は存在 そんざい し得 え るとプランティンガは述 の べている。
リチャード・R・ラ=クロワはルネ・デカルト を取 と り上 あ げ、「神聖 しんせい な全能 ぜんのう 性 せい についての彼 かれ の説明 せつめい は支離滅裂 しりめつれつ である」[注 ちゅう 2] と批判 ひはん している。
デカルトいわく、「数学 すうがく 的 てき 真理 しんり 」は唯一 ゆいいつ 神 かみ の被 ひ 造物 ぞうぶつ であり、「完全 かんぜん に唯一 ゆいいつ 神 かみ に依存 いぞん している」もので、「唯 ただ 一 いち 神 かみ の力 ちから 」は人間 にんげん には想像 そうぞう し難 がた い。「あなたが永遠 えいえん と呼 よ ぶ数学 すうがく 的 てき 真理 しんり は、唯一 ゆいいつ 神 しん によって定 さだ められたのであり、唯一 ゆいいつ 神 かみ が他 た に創造 そうぞう したものと同様 どうよう に、完全 かんぜん に唯一 ゆいいつ 神 かみ に依存 いぞん している。 … われわれの想像 そうぞう 力 りょく が唯一 ゆいいつ 神 かみ の力 ちから に届 とど くと考 かんが えるのは軽率 けいそつ である」[注 ちゅう 3] 。
全能 ぜんのう の逆説 ぎゃくせつ を論議 ろんぎ する文脈 ぶんみゃく での全能 ぜんのう 性 せい には幾 いく つかの意味 いみ がある。ホフマンによると、それは「いかなる事態 じたい でももたらしうる」力 りょく である(Hoffman )。しかし、その「事態 じたい 」が含 ふく むものについては議論 ぎろん の対象 たいしょう になる。デカルト を初 はじ めとする哲学 てつがく 者 しゃ はこの定義 ていぎ を引 ひ き継 つ ぎ、論理 ろんり 的 てき に不可能 ふかのう な出来事 できごと をもたらす能力 のうりょく も含 ふく めた。例 たと えば有限 ゆうげん の宇宙 うちゅう の中 なか で立方体 りっぽうたい が形 かたち を失 うしな ったり、通常 つうじょう の数 すう 体系 たいけい で1が2と等 ひと しくなったりすることは論理 ろんり 的 てき に不可能 ふかのう である。全能 ぜんのう 者 しゃ が形 かたち のない立方体 りっぽうたい を作 つく ろうとすれば、それは可能 かのう であることが証明 しょうめい されようし、そのような全能 ぜんのう 者 しゃ は論理 ろんり 法則 ほうそく に束縛 そくばく されないことも証明 しょうめい されよう。トマス・アクィナス のような哲学 てつがく 者 しゃ は全能 ぜんのう 者 しゃ が全能 ぜんのう であるためには、論理 ろんり 的 てき に不可能 ふかのう なことを行 おこな う必要 ひつよう はないと主張 しゅちょう している (Hoffman )。この場合 ばあい 、全能 ぜんのう 者 しゃ は論理 ろんり 的 てき に可能 かのう な全 すべ てのことをする力 ちから を持 も つ。この二 ふた つの考 かんが え方 かた では全能 ぜんのう 性 せい の限界 げんかい が異 こと なるので、全能 ぜんのう の逆説 ぎゃくせつ を解 と こうと思 おも うなら、両者 りょうしゃ を区別 くべつ することが重要 じゅうよう である。
全能 ぜんのう 性 せい を特定 とくてい の存在 そんざい に適用 てきよう する場合 ばあい 、複数 ふくすう の異 こと なった方法 ほうほう がある。本質 ほんしつ 的 てき に全能 ぜんのう essentially omnipotent な存在 そんざい であるのか、偶発 ぐうはつ 的 てき に全能 ぜんのう accidentally omnipotent な存在 そんざい であるのかである。前者 ぜんしゃ は常 つね に全能 ぜんのう であるのに対 たい し、後者 こうしゃ は一時 いちじ 的 てき に全能 ぜんのう になり、その後 ご 全能 ぜんのう ではなくなる存在 そんざい である。全能 ぜんのう の逆説 ぎゃくせつ は両者 りょうしゃ の間 あいだ で異 こと なって適用 てきよう される (Hoffman )。
通例 つうれい 、全能 ぜんのう の逆説 ぎゃくせつ は、「全能 ぜんのう 者 しゃ は《自分 じぶん が持 も ち上 あ げることのできない石 いし 》を作 つく ることができるか」という問 と いとして表現 ひょうげん される。この問 と いは次 つぎ のように分析 ぶんせき できる:
ある存在 そんざい は、《それ自身 じしん が持 も ち上 あ げることのできない石 いし 》を作 つく ることができるか、できないかのどちらかである。
もし、その存在 そんざい が《それ自身 じしん が持 も ち上 あ げることのできない 石 いし 》を作 つく ることができるならば、その存在 そんざい は全能 ぜんのう ではない。
もし、その存在 そんざい が《それ自身 じしん が持 も ち上 あ げることのできない石 いし 》を作 つく ることができない ならば、その存在 そんざい は全能 ぜんのう ではない。
これはもう一 ひと つの古典 こてん 的 てき 逆説 ぎゃくせつ ・抗 あらが うことのできない力 ちから の逆説 ぎゃくせつ を反映 はんえい している。その逆説 ぎゃくせつ は「抗 あらが うことのできない力 ちから と、不動 ふどう のものが出会 であ ったらどうなるか」というものである。それに対 たい する一 ひと つの回答 かいとう はこうなる。もしある力 ちから が抗 あらが うことのできないものであるなら、定義 ていぎ からして真 しん に不動 ふどう のものは存在 そんざい しない。逆 ぎゃく に、不動 ふどう のものが存在 そんざい するならば、真 しん に抗 あらが うことのできない力 ちから というものは存在 そんざい しない。この扱 あつか いは基本 きほん 的 てき には正 ただ しいのだが、全能 ぜんのう 性 せい の定義 ていぎ 問題 もんだい には役立 やくだ たない。そればかりでなく、全能 ぜんのう の逆説 ぎゃくせつ はもう一 ひと つの似通 にかよ った哲学 てつがく 的 てき 問 と いに関連 かんれん している。それはおじいさんの逆説 ぎゃくせつ である。全能 ぜんのう 性 せい についての日常 にちじょう 的 てき な定義 ていぎ のなかにはしばしば時間 じかん 旅行 りょこう の能力 のうりょく が含 ふく まれている。では次 つぎ のように問 と うたらどうだろう。「全能 ぜんのう 者 しゃ が時間 じかん を遡 さかのぼ り、自分 じぶん 自身 じしん の祖父 そふ を殺 ころ すことはできるのか。」 しかしながら、これは全能 ぜんのう の逆説 ぎゃくせつ に対 たい する論理 ろんり 的 てき に十分 じゅうぶん な分析 ぶんせき とはいえない。というのも、これは全能 ぜんのう 者 しゃ に人間 にんげん 的 てき な属性 ぞくせい を負 お わせようとしているが、全能 ぜんのう 者 しゃ は人間 にんげん 的 てき な姿 すがた をとっているとは限 かぎ らないからである (Wierenga )。
次 つぎ のような要請 ようせい によって逆説 ぎゃくせつ を解消 かいしょう しようという立場 たちば もありうる。即 すなわ ち、全能 ぜんのう 性 せい は、常 つね に全 すべ てのことができることを必 かなら ずしも要求 ようきゅう しない、という要請 ようせい である。そうすれば、次 つぎ のように理屈 りくつ をつけられる
その存在 そんざい は、作 つく った時点 じてん では持 も ち上 あ げられない石 いし を作 つく ることができる。
しかし、その存在 そんざい は全能 ぜんのう であるから、その存在 そんざい は後 ご からいつでも、持 も ち上 あ げられる程度 ていど に石 いし を軽 かる くすることができる。従 したが って、その存在 そんざい を全能 ぜんのう であるというのは尚 なお も合理 ごうり 的 てき である。
これは本質 ほんしつ 的 てき に、1960年 ねん の映画 えいが 『風 ふう の遺産 いさん 』en:Inherit the Wind の登場 とうじょう 人物 じんぶつ であるマシュー・ハリソン・ブレイディ (Matthew Harrison Brady) が信奉 しんぽう する観点 かんてん と同 おな じであり、ブレイディの観点 かんてん は大雑把 おおざっぱ にいってウィリアム・ジェニングス・ブライアン に則 のっと っている。クライマックスシーンで「神 かみ は自然 しぜん 法則 ほうそく を好 す き勝手 かって に変 か えられる」とブレイディは論 ろん ずる。石 いし の重量 じゅうりょう を変更 へんこう するということは、少 すく なくともその石 いし にかかわる重力 じゅうりょく の効果 こうか を変更 へんこう するのと論理 ろんり 的 てき に同値 どうち である。このような説明 せつめい に対 たい しては、次 つぎ のように反論 はんろん できるだろう。全能 ぜんのう 者 しゃ は《自分 じぶん にも重 おも さを変 か えられないくらい不変 ふへん な石 いし 》を作 つく ることができるか。さらに、このような状況 じょうきょう — 後 ご で石 いし の重 おも さを変 か えること — が全能 ぜんのう 者 しゃ の要件 ようけん として要請 ようせい されるならば、全能 ぜんのう 者 しゃ の自由 じゆう 意志 いし を制限 せいげん することになるのではないか、と。
J.L.マッキー は1955年 ねん の哲学 てつがく 誌 し Mind に論文 ろんぶん を発表 はっぴょう し、全能 ぜんのう 性 せい に二 ふた つの段階 だんかい を設 もう けて区別 くべつ することで、全能 ぜんのう の逆説 ぎゃくせつ を解消 かいしょう しようとした。第 だい 一 いち 段階 だんかい の全能 ぜんのう 性 せい (何 なに かをするための無限 むげん の能力 のうりょく unlimited power to act)、第 だい 二 に 段階 だんかい の全能 ぜんのう 性 せい (ものが何 なに かをするために持 も つべき能力 のうりょく を決定 けってい するための無限 むげん の能力 のうりょく unlimited power to determine what powers to act things shall have)である。ある時点 じてん で両方 りょうほう の全能 ぜんのう 性 せい を持 も つ存在 そんざい は、自分 じぶん 自身 じしん の能力 のうりょく を制限 せいげん し、それより後 のち は片方 かたがた の意味 いみ で全能 ぜんのう であることをやめることもできるのであろう。
抗 あらが うことのできない力 ちから の逆説 ぎゃくせつ についての古典 こてん 的 てき な記述 きじゅつ 法 ほう は、近代 きんだい 物理 ぶつり 学 がく の文脈 ぶんみゃく で見 み ると欠陥 けっかん を持 も つことになる。というのも、進路 しんろ が全 まった く変 か わらない砲弾 ほうだん も、全 まった く破壊 はかい されない防壁 ぼうへき も、同様 どうよう に無限 むげん 大 だい の慣性 かんせい を持 も つことになり、《両者 りょうしゃ ともに》不可能 ふかのう である。しかしながらこれは物理 ぶつり の話 はなし であって、論理 ろんり には直接 ちょくせつ 関係 かんけい するものではない。単 たん に我々 われわれ がこのような描写 びょうしゃ に慣 な れているので哲学 てつがく の問題 もんだい の例 れい として選 えら んでいるだけである。同様 どうよう に、全能 ぜんのう の逆説 ぎゃくせつ についての古典 こてん 的 てき な記述 きじゅつ 法 ほう — 重 おも すぎて全能 ぜんのう なる創造 そうぞう 者 しゃ に持 も ち上 あ げられない石 いし — はアリストテレス 時代 じだい の科学 かがく を基盤 きばん にしている。天動説 てんどうせつ と平 たい らな地面 じめん を前提 ぜんてい にしているのである — 石 せき をその惑星 わくせい の表面 ひょうめん に対 たい してのみ「持 も ち上 あ げ」うるのか? 更 さら に、惑星 わくせい の公転 こうてん を考慮 こうりょ に入 い れれば、軌道 きどう の中心 ちゅうしん にある太陽 たいよう に対 たい し「常 つね に」石 いし は持 も ち上 あ がっていると見 み なすこともできる。つまり、石 いし 挙 きょ 上 じょう に関 かん する言説 げんせつ の選択 せんたく は貧弱 ひんじゃく であると近代 きんだい 物理 ぶつり 学 がく は示唆 しさ するわけである。だが、だからといって一般 いっぱん 的 てき な全能 ぜんのう の逆説 ぎゃくせつ が「基礎 きそ から」無効 むこう 化 か されたわけではない。思慮 しりょ 深 ふか いスティーヴン・ホーキング による創造 そうぞう 主 ぬし と自然 しぜん 法則 ほうそく との関係 かんけい についての考察 こうさつ に従 したが い、古典 こてん 的 てき 記述 きじゅつ 法 ほう を次 つぎ のように直 なお すことができるだろう:
全能 ぜんのう 者 しゃ がアリストテレスの物理 ぶつり 学 がく に従 したが う宇宙 うちゅう を創造 そうぞう する。
その宇宙 うちゅう で、全能 ぜんのう 者 しゃ は自分 じぶん 自身 じしん が持 も ち上 あ げられないほど重 おも い石 いし を作 つく ることができるであろうか。
科学 かがく ライターのジェイムズ・グリック (en:James Gleick ) は自身 じしん のリチャード・P・ファインマン 伝 つて の中 なか で、原子 げんし の実在 じつざい 性 せい に関 かん し議論 ぎろん していた科学 かがく 者 しゃ が、全能 ぜんのう の逆説 ぎゃくせつ に行 い き着 つ いた様 よう を記述 きじゅつ している: 全能 ぜんのう 者 しゃ — この場合 ばあい はキリスト教 きりすときょう の神 かみ としていいだろう — は、神 かみ 自身 じしん が分割 ぶんかつ することのできない原子 げんし を創造 そうぞう することができたのだろうか、と。
存在 そんざい が偶発 ぐうはつ 的 てき に全能 ぜんのう である場合 ばあい は逆説 ぎゃくせつ は解消 かいしょう できる:
全能 ぜんのう 者 しゃ は自分 じぶん に持 も ち上 あ げられない石 いし (あるいは分割 ぶんかつ できない原子 げんし など)を作 つく る。
全能 ぜんのう 者 しゃ はその石 いし を持 も ち上 あ げられず、全能 ぜんのう でない者 もの になる。
本質 ほんしつ 的 てき に全能 ぜんのう である者 もの と違 ちが い、偶発 ぐうはつ 的 てき に全能 ぜんのう である者 もの は全能 ぜんのう でない者 もの になることが可能 かのう である。しかし、ここで問題 もんだい が生 しょう ずる。その全能 ぜんのう 者 しゃ は本当 ほんとう に全能 ぜんのう だったのか、それとも単 たん に強大 きょうだい な能力 のうりょく を持 も っていただけだったのか (Hoffman )。
存在 そんざい が本質 ほんしつ 的 てき に全能 ぜんのう である場合 ばあい は逆説 ぎゃくせつ は解消 かいしょう できる:
その全能 ぜんのう 者 しゃ は本質 ほんしつ 的 てき に全能 ぜんのう である、故 ゆえ に全能 ぜんのう でない者 もの になることはできない。
さらに、全能 ぜんのう 者 しゃ は論理 ろんり 的 てき に不可能 ふかのう なことをすることはできない。
全能 ぜんのう 者 しゃ が持 も ち上 あ げられない石 いし を創造 そうぞう することは、上記 じょうき の論理 ろんり 的 てき 不可能 ふかのう 性 せい にあたる。故 ゆえ に全能 ぜんのう 者 しゃ がそのようなことを要求 ようきゅう されることはない。
全能 ぜんのう 者 しゃ はそのような石 いし を創造 そうぞう することはできないが、それでも尚 なお 全能 ぜんのう 性 せい を保 たも つ。
この考 かんが えでは、必然 ひつぜん 的 てき に「全能 ぜんのう 者 しゃ も論理 ろんり 法則 ほうそく を破 やぶ ることはできない」という論点 ろんてん を受 う け入 い れることになり、確 たし かにこの逆説 ぎゃくせつ 全体 ぜんたい がこのような論点 ろんてん を強力 きょうりょく に正当 せいとう 化 か している。このため、哲学 てつがく 者 しゃ イブン=ルシュド は全能 ぜんのう の逆説 ぎゃくせつ をさらに進 すす め、その考 かんが えはパリ司教 しきょう であったエティエンヌ(ステファン)・タンピエ (en:Étienne Tempier ) の激 はげ しい糾弾 きゅうだん を浴 あ びることになった(第 だい 一 いち 回 かい 、第 だい 二 に 回 かい 断罪 だんざい (en:University of Paris (Condemnations) 参照 さんしょう )。石 いし を用 もち いた表現 ひょうげん のかわりにイブン=ルシュドは次 つぎ のように問 と うた。「神 かみ は内角 ないかく の総和 そうわ が180度 ど ではない三角形 さんかっけい を作 つく ることができるのだろうか。」
注意 ちゅうい して欲 ほ しいのだが、後 ご の非 ひ ユークリッド幾何 きか 学 がく の発見 はっけん はこの逆説 ぎゃくせつ を解決 かいけつ するためには役立 やくだ たない。次 つぎ のようにも問 と うことができるからだ。「楕円 だえん 幾何 きか 学 がく の公準 こうじゅん が成立 せいりつ するとして、そこで全能 ぜんのう 者 しゃ は内角 ないかく の総和 そうわ が180度 ど を超 こ えない三角形 さんかっけい を作 つく ることができるか。」 いずれの場合 ばあい も、本当 ほんとう の質問 しつもん は、全能 ぜんのう 者 しゃ は自分 じぶん の創造 そうぞう した公理系 こうりけい において論理 ろんり 的 てき に導 みちび かれる結果 けっか を破 やぶ る能力 のうりょく を持 も つのか、という点 てん である。[要 よう 出典 しゅってん ]
この考 かんが えが定式 ていしき 化 か された歴史 れきし 的 てき な文脈 ぶんみゃく を概観 がいかん するためには、ジェームズ・バーク (en:James Burke (science historian) ) の en:The Day the Universe Changed を参照 さんしょう されたい。テレビシリーズの第 だい 二 に 話 わ またはガイドブックの第 だい 二 に 章 しょう である。レコンキスタ の後 のち 、アラビアの科学 かがく 書 しょ や哲学 てつがく 書 しょ — それらは古代 こだい ギリシア文献 ぶんけん の翻訳 ほんやく であることが多 おお かった — が今度 こんど はヨーロッパの言葉 ことば に翻訳 ほんやく されて欧州 おうしゅう の文化 ぶんか 人 じん の間 あいだ に知 し られるようになった。イブン=ルシュドの難問 なんもん がパリに届 とど くと、喧々囂々 けんけんごうごう の論議 ろんぎ が巻 ま き起 お こり、そのためパリ大学 だいがく の神学 しんがく 生 せい は6年間 ねんかん のストライキに突入 とつにゅう した。Burkeはこれを評 ひょう して「この『神 かみ の限界 げんかい 』問題 もんだい はダイナマイトだった」と言 い っている。
挙 あ げ句 く 、カトリック 神学 しんがく の主流 しゅりゅう 派 は もレコンキスタによって得 え られるようになったギリシャ、アラビアの素材 そざい を利用 りよう するのに甘 あま んじることになった。多 おお くはトマス・アクィナス のお陰 かげ である。アクィナスの『神学 しんがく 大全 たいぜん 』は「神 かみ は論理 ろんり を拒否 きょひ し得 え ない」と断言 だんげん している。この点 てん で、12世紀 せいき のユダヤ人 じん 哲学 てつがく 者 しゃ にして医師 いし であったモーシェ・ベン=マイモーン は『当惑 とうわく 者 しゃ への手引 てび き』(en:The Guide for the Perplexed )の中 なか でアクィナスの思想 しそう と同 おな じ主張 しゅちょう を行 おこな っている。モーシェ・ベン=マイモーンは否定 ひてい 神学 しんがく (神 かみ は《○○ではない》という否定 ひてい を通 とお してしか記述 きじゅつ できないという論法 ろんぽう )の信奉 しんぽう 者 しゃ であった。なにがしら神秘 しんぴ 的 てき な観点 かんてん から、否定 ひてい 的 てき なあるいは Apophatic (言葉 ことば にすることができない、程 ほど の意 い )な神学 しんがく の根本 こんぽん には、神 かみ の真 しん のエッセンスは語 かた りうるものではなく、神 かみ についての肯定 こうてい 的 てき な記述 きじゅつ (訳註 やくちゅう : 神 かみ は《××である》というような記述 きじゅつ )はいかなるものであれ冒涜 ぼうとく ( ぼうとく ) 的 てき であり、異端 いたん であるリスクを負 お うという考 かんが え方 かた がある。
アメリカ独立 どくりつ 戦争 せんそう のゲリラであったイーサン・アレン は論文 ろんぶん 『理性 りせい : 人間 にんげん の唯一 ゆいいつ の神託 しんたく 』 (Reason: The Only Oracle of Man) を書 か き、そのなかで原罪 げんざい 、弁 べん 神 かみ 論 ろん などを古典 こてん 的 てき な啓蒙 けいもう 運動 うんどう スタイルで論 ろん じた。第 だい 三 さん 章 しょう 第 だい 四 よん 節 せつ でアレンは、変化 へんか し死 し ぬことは動物 どうぶつ を定義 ていぎ する属性 ぞくせい であり、「全能 ぜんのう 性 せい そのもの」も動物 どうぶつ を死 し すべき運命 うんめい から救 すく うことはできないと書 か いている。アレンは論 ろん ずる、「谷 たに のない密集 みっしゅう した山々 やまやま が存在 そんざい したり、私 わたし が存在 そんざい すると同時 どうじ に存在 そんざい しない〔ということがあり得 え ない〕のと同 おな じように、一方 いっぽう が他方 たほう なしであることはあり得 え ないし、神 かみ が自然 しぜん 界 かい で他 た の矛盾 むじゅん を引 ひ き起 お こすこともあり得 え ない[注 ちゅう 4] 。」友人 ゆうじん に理 り 神 しん 論者 ろんしゃ 呼 よ ばわりされながらもアレンは、『理性 りせい 』を通 とお してではあるが、神聖 しんせい なる存在 そんざい ですら論理 ろんり に束縛 そくばく されると論 ろん じたのである。
一部 いちぶ の哲学 てつがく 者 しゃ は、全能 ぜんのう 性 せい の定義 ていぎ にデカルトの観点 かんてん を含 ふく めればこの逆説 ぎゃくせつ は解消 かいしょう するという姿勢 しせい を崩 くず していない。その観点 かんてん とは全能 ぜんのう 者 しゃ は論理 ろんり 的 てき に不可能 ふかのう なことをなし得 え るというものである:
全能 ぜんのう 者 しゃ は論理 ろんり 的 てき に不可能 ふかのう なことをすることができる。
全能 ぜんのう 者 しゃ は自 みずか らが持 も ち上 あ げられない石 いし を作 つく ることができる。
全能 ぜんのう 者 しゃ は次 つ いでその石 いし を持 も ち上 あ げる。
このような存在 そんざい は数学 すうがく 的 てき に2足 た す2を5に することもできるし、四角 しかく い円 えん を作 つく ることもできるかもしれない。この場合 ばあい その存在 そんざい の「全能 ぜんのう 性 せい 」とは、本来 ほんらい 的 てき に矛盾 むじゅん であるこれらの記述 きじゅつ を乗 の り越 こ える能力 のうりょく を指 さ す。ハリー・G・フランクファート (en:Harry Frankfurt ) の言 げん を用 もち いれば、「もし全能 ぜんのう 者 しゃ が論理 ろんり 的 てき に不可能 ふかのう なことを為 な すことができるならば、彼 かれ は彼 かれ 自身 じしん 扱 あつか うことのできない状況 じょうきょう を創造 そうぞう することができるばかりか、一貫 いっかん 性 せい という限界 げんかい を超 こ えて、自 みずか ら扱 あつか うことのできない状況 じょうきょう を扱 あつか うことができる。」
しかし、この方法 ほうほう で逆説 ぎゃくせつ を解消 かいしょう することは問題 もんだい を孕 はら んでいる。定義 ていぎ それ自体 じたい が論理 ろんり 的 てき な一貫 いっかん 性 せい を無 む 化 か してしまうという点 てん である。逆説 ぎゃくせつ は解決 かいけつ できるかもしれない。だが、それには痛手 いたで を伴 ともな う。そのような存在 そんざい が論理 ろんり を超越 ちょうえつ してしまうので、論理 ろんり はガラクタになり、無意味 むいみ なものになってしまうのだ。アレンの『理性 りせい 』は、論理 ろんり を放棄 ほうき することで逆説 ぎゃくせつ を解消 かいしょう する人々 ひとびと を風刺 ふうし している。アレンは次 つぎ のように書 か いている。
この節 ふし には内容 ないよう がありません。 加筆 かひつ して下 くだ さる協力 きょうりょく 者 しゃ を求 もと めています。(2021年 ねん 8月 がつ )
全能 ぜんのう の逆説 ぎゃくせつ は、大衆 たいしゅう 文化 ぶんか の中 なか にも浸透 しんとう している。様々 さまざま なメディアの中 なか で、全能 ぜんのう の逆説 ぎゃくせつ や全能 ぜんのう 者 しゃ の存在 そんざい に関 かん する議論 ぎろん が参照 さんしょう される。
『ザ・シンプソンズ 』のある回 かい で、ホーマー がネッド・フランダース にこう質問 しつもん している。「イエス はブリート を自分 じぶん で食 た べられない程 ほど 熱 あつ くチンする ことができるだろうか。」 この表現 ひょうげん は前述 ぜんじゅつ のものと異 こと なり物理 ぶつり 学 がく 方面 ほうめん からの苦情 くじょう がこないことに注目 ちゅうもく して欲 ほ しい。ブリートの定義 ていぎ には慣性 かんせい や相対 そうたい 性 せい などといった近代 きんだい 的 てき な概念 がいねん は関係 かんけい してこないからである。
ネット上 じょう の話題 わだい 「チャック・ノリス・ファクト 」の中 なか に「チャック・ノリス は自分 じぶん でも持 も ち上 あ げられない程 ほど 重 おも い石 いし をつくることができる。そしてそれを持 も ち上 あ げてしまうのだ。クソったれである証明 しょうめい に。」とある。
スティーヴン・ホーキング は『時間 じかん 史 し 概説 がいせつ 』 en:A Brief History of Time において、自然 しぜん 法則 ほうそく に関連 かんれん した創造 そうぞう 主 ぬし の役割 やくわり を論 ろん じたより一般 いっぱん 的 てき な議論 ぎろん の中 なか で、全能 ぜんのう の逆説 ぎゃくせつ を紹介 しょうかい している。後 ご の著作 ちょさく 『ブラックホールとベビーユニバース』 Black Holes and Baby Universes の中 なか で冗談 じょうだん めかして、これらの宗教 しゅうきょう 的 てき 憶測 おくそく をもりこんだ御陰 おかげ で─最後 さいご の行 くだり の「その時 とき 我 われ らは神 かみ の御意 ぎょい を知 し るであろう。」 "for then we would know the mind of God" を含 ふく んで─恐 おそ らく問題 もんだい の本 ほん の売 う れ行 ゆ きが二 に 倍 ばい くらいになったと語 かた っている。
SFテレビドラマ『新 しん スタートレック 』に、Q という名前 なまえ で知 し られる全能 ぜんのう 者 しゃ が登場 とうじょう する。Qに関係 かんけい した幾 いく つかの回 かい の中 なか で、主 おも にユーモラスな筆致 ひっち で逆説 ぎゃくせつ 的 てき 結果 けっか が追求 ついきゅう される。
SFテレビドラマ『バビロン5 』で、二人 ふたり の登場 とうじょう 人物 じんぶつ がこの逆説 ぎゃくせつ について語 かた っている:(台詞 せりふ の引用 いんよう につき訳出 やくしゅつ せず)
ジョージ・カーリン はナイトクラブに出演 しゅつえん する際 さい よく「重 おも い石 いし 」の疑問 ぎもん に言及 げんきゅう する。近所 きんじょ の悪 あく ガキどもが教会 きょうかい で質問 しつもん するらしい。[1]
「サムシング・オーフル 」もこの疑問 ぎもん を投 な げかけた。「神様 かみさま は、値段 ねだん が高 たか すぎて自分 じぶん にも買 か えないゲーム機 き を創 つく れるの?」 編集 へんしゅう 者 しゃ の答 こた えはこうだった。「お創 つく りになれる。そのゲーム機 き というのはXbox 360 だよ。」
山田 やまだ 正紀 まさき は『神 かみ 狩 か り 』の中 なか で直接的 ちょくせつてき にこの逆説 ぎゃくせつ を導入 どうにゅう している。
田中 たなか 芳樹 よしき は『銀河 ぎんが 英雄 えいゆう 伝説 でんせつ 』の中 なか で登場 とうじょう 人物 じんぶつ の一人 ひとり に「全能 ぜんのう の神 かみ は自分 じぶん の言 い うことを聞 き かない女 おんな を作 つく れるか」という表現 ひょうげん でこの逆説 ぎゃくせつ に言及 げんきゅう させている。
^ 以下 いか はバジーニの著書 ちょしょ からの引用 いんよう 。丸 まる を四角 しかく にする ―
信仰 しんこう と
理性 りせい は
折 お り
合 あ えるか? ―
(中略 ちゅうりゃく )
神 かみ には
四角 しかく い
丸 まる を
作 つく る
能力 のうりょく がないと
言 い いたてるのは、
無 む 神 かみ 論 ろん 者 しゃ が
神 かみ を
嘲 あざけ っているだけだろうと
思 おも われないように
指摘 してき しておきたいのだが、
典型 てんけい 的 てき な
信仰 しんこう 者 しゃ 、たとえばトマス・アクィナスなどは、
神 かみ の
力 ちから に
制限 せいげん があることを
受 う け
容 い れていた。
^ "his account of divine omnipotence is incoherent".
^ "The mathematical truths which you call eternal have been laid down by God and depend on Him entirely no less than the rest of his creatures. ... It would be rash to think that our imagination reaches as far as His power".
^ "the one cannot be without the other, any more than there could be a compact number of mountains without valleys, or that I could exist and not exist at the same time, or that God should effect any other contradiction in nature."
^ “if they argue without reason, (which, in order to be consistent with themselves, they must do,) they are out of the reach of rational conviction, nor do they deserve a rational argument.”
郷 さと , 義孝 よしたか 「宗教 しゅうきょう 的 てき 実在 じつざい :プロセス神学 しんがく の神 かみ という実在 じつざい 」『テオロギア・ディアコニア』第 だい 35巻 かん 、2001年 ねん 、41-73頁 ぺーじ 。
バジーニ, ジュリアン 著 しる 、向井 むかい 和美 かずみ 訳 やく 『100の思考 しこう 実験 じっけん :あなたはどこまで考 かんが えられるか』(第 だい 4刷 さつ )紀伊國屋 きのくにや 書店 しょてん 、2012年 ねん 。ISBN 978-4314010917 。
三宅 みやけ , 威 い 仁 じん 「改革 かいかく 派 は 認識 にんしき 論 ろん と悪 あく の論理 ろんり 的 てき 問題 もんだい 」『基督教 きりすときょう 研究 けんきゅう 』第 だい 67巻 かん 第 だい 2号 ごう 、2006年 ねん 、31-45頁 ぺーじ 。
Where relevant, external links in the following were last verified 19 April 2006.
Allen, Ethan . Reason: The Only Oracle of Man. J.P. Mendum, Cornill; 1854. Originally published 1784, available online .
Burke, James . The Day the Universe Changed . Little, Brown; 1995 (paperback edition). ISBN 0-316-11704-8 .
Gleick, James . Genius. Pantheon, 1992. ISBN 0-679-40836-3 .
Haeckel, Ernst . The Riddle of the Universe. Harper and Brothers, 1900.
Hoffman, Joshua, Rosenkrantz, Gary. "Omnipotence" The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Summer 2002 Edition) . Edward N. Zalta (ed.) [2]
La Croix, Richard R. (1984). “Descartes on God's Ability to Do the Logically Impossible” . Canadian Journal of Philosophy 14 (3): 455–475. ISSN 0045-5091 . https://www.jstor.org/stable/40231381 .
Mackie, J.L. , "Evil and Omnipotence." Mind LXIV, No, 254 (April 1955).
Wierenga, Edward. "Omnipotence" The Nature of God: An Inquiry into Divine Attributes . Cornell University Press, 1989. [3] [リンク切 き れ ]
Wittgenstein, Ludwig . Tractatus Logico-Philosophicus . Available online via Project Gutenberg .