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全能ぜんのう逆説ぎゃくせつ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

全能ぜんのう逆説ぎゃくせつ(ぜんのうのぎゃくせつ、えい: omnipotence paradox全能ぜんのうのパラドックス)とは、論理ろんりがく哲学てつがく神学しんがくひとしにおいて、全能ぜんのう論理ろんりがくてき不可能ふかのうとの関係かんけいあつかった問題もんだい[1]。この逆説ぎゃくせつ全能ぜんのうしゃ論理ろんりがくてき矛盾むじゅんしめしており[2]極端きょくたんれいえば、全能ぜんのうしゃ自分じぶん自身じしんを《永遠えいえんにいかなる意味いみでも存在そんざいしない》ようにすることはできない[3]れいえば、全能ぜんのうしゃは「四角よつかどえん」や「7+5=75」を成立せいりつさせることができるようにえるが、それらは論理ろんりがくてき不可能ふかのうであり、全能ぜんのうしゃ矛盾むじゅんしている[4]全能ぜんのうしゃはどんなことでもなしる、とかんがえることは論理ろんりがくてきただしくない[3]

もし全能ぜんのうが《論理ろんりがく超越ちょうえつした能力のうりょく》である、または《かみ全能ぜんのうしゃ)の論理ろんり》であるとうなら、全能ぜんのうとは、「四角しかくまる」のようなかたちをも作成さくせいできる《論理ろんりがくてき能力のうりょく》である[5][ちゅう 1]。この場合ばあい全能ぜんのうについての主張しゅちょう議論ぎろんとうから論理ろんりがくてることになる[5]全能ぜんのうしゃが《論理ろんりがく超越ちょうえつしたもの》である(または《神秘しんぴてきな「論理ろんり」にもとづくもの》である)とすれば、論理ろんりがく外側そとがわもの全能ぜんのうしゃ)は、かみであっても、悪魔あくま妖精ようせいえざるピンクのユニコーンそらぶスパゲッティモンスターひとしであっても[5]。この場合ばあいの《全能ぜんのうしゃ》の意味いみ結局けっきょく、《論理ろんりがくてきもの》だからである[5]

一方いっぽう論理ろんりがく肯定こうていしたうえで、全能ぜんのう論理ろんりがく両立りょうりつするという前提ぜんていくことはできる[7]。この場合ばあい全能ぜんのうとは「論理ろんりてき可能かのうなことならなんでもできるが、論理ろんりてき不可能ふかのうなことはできない」という意味いみになる[7]

ただし、《論理ろんりがく肯定こうていする》ことは《論理ろんりがくせい否定ひていする》ことにひとしい[8]。そのため、論理ろんりがくせい神秘しんぴせい肯定こうていすることはできなくなる[8]懐疑かいぎ主義しゅぎ論理ろんりがくてき疑問ぎもん合理ごうり主義しゅぎてることもできない[8]。いいかえれば、論理ろんりがく合理ごうり主義しゅぎによって批判ひはんされた事柄ことがら神秘しんぴてき全能ぜんのうしゃ)について、「かみ」「奇跡きせき」「超越ちょうえつとう説明せつめいけたり擁護ようごしたりしても、そこに論理ろんりがくてき合理ごうりてきただしさは[8]。これらの存在そんざい論理ろんり学的がくてきには否定ひていされる。

かみには四角しかくまるつく能力のうりょくがない」と主張しゅちょうしてきた人々ひとびとは、かみろんものだけでなく、典型てんけいてき信仰しんこうものたとえばトマス・アクィナス)たちもり、かれらは全能ぜんのうしゃちから論理ろんりがくてき制限せいげんがあることをれていた[9]。また、かみ全能ぜんのうしゃとする場合ばあい伝統でんとうはんしたこたえがみちびかれる[10]たとえばかみ全能ぜんのうしゃとして存在そんざいしているとすると、かみ一切いっさいなに必要ひつようとせず存在そんざい可能かのうなため、かみにとって世界せかい造物ぞうぶつ必要ひつようでなく、なにかをあいする必要ひつようもない[10]

概要がいよう

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イブン=ルシュド (1126ねん98), 全能ぜんのう逆説ぎゃくせつんだ最初さいしょ哲人てつじんのひとり

基本きほんてき問題もんだいは、

全能ぜんのうしゃみずか全能ぜんのうであることを制限せいげんし、全能ぜんのうでない存在そんざいになることができるか

である。(訳注やくちゅう: 自分じぶん全能ぜんのうでなくすことが不可能ふかのうなら、その全能ぜんのうしゃには不可能ふかのうなことがあることになるので、全能ぜんのうとはいえない。一方いっぽう自分じぶん全能ぜんのうでなくすことが可能かのうならそれをおこなった時点じてん全能ぜんのうしゃ全能ぜんのうではなくなってしまう。)

一部いちぶ哲学てつがくしゃらはこの論議ろんぎをもって全能ぜんのうしゃ存在そんざいしない証左しょうさとした。べつ哲学てつがくしゃらはこの逆説ぎゃくせつを《全能ぜんのうであること》という概念がいねん以下いか全能ぜんのうせい)についての誤解ごかいないしは誤用ごようからきているとしている。また、なかには、《ある存在そんざい全能ぜんのうであるかかのどちらかでしかない》と仮定かていし、さまざまな段階だんかい全能ぜんのうせいがありることを無視むししたことからくるにせ逆説ぎゃくせつであるとする哲学てつがくしゃもいる (Haeckel)。

しばしば、この逆説ぎゃくせつアブラハムの宗教しゅうきょうけるかみ英語えいごでいう大文字おおもじYHWH)のかたりをもって記述きじゅつされるが、全能ぜんのうしゃをそれとかぎ必要ひつようはない。中世ちゅうせい以降いこう哲学てつがくしゃらは様々さまざま方法ほうほうでこの逆説ぎゃくせついてきた。古典こてんてきれいとして、

全能ぜんのうしゃは《おもすぎて何者なにものにもげられないいし》をつくることができるか

という表現ひょうげんられている(訳注やくちゅう: そのようないしつくれないなら全能ぜんのうではない、つくれるならそのいしげられないのでやはり全能ぜんのうではないことになる)。この表現ひょうげんにはわずかながら不備ふびがあるが(#哲学てつがくしゃ回答かいとうにて後述こうじゅつ)、有名ゆうめいでもあり、この逆説ぎゃくせつ分析ぶんせきされてきた様々さまざま方法ほうほう描写びょうしゃするのに都合つごうがよい。

全能ぜんのう逆説ぎゃくせつ厳密げんみつ分析ぶんせきするためには、全能ぜんのうせい精密せいみつ定義ていぎ必要ひつようである。全能ぜんのうせい定義ていぎ文化ぶんか宗教しゅうきょうによってことなり、哲学てつがくしゃ同士どうしでもことなる。通常つうじょう定義ていぎは「なんでもできる」 all-powerfull であるが、これでは力不足ちからぶそくである。たとえば、全能ぜんのうせいを《いかなる論理ろんり枠組わくぐみにも束縛そくばくされずにうごけること》と定義ていぎしてしまえば、この逆説ぎゃくせつ成立せいりつさせようがない。この問題もんだいたいするきん現代げんだいみは、意味いみろん研究けんきゅうすなわ言語げんご--したがって哲学てつがくも--全能ぜんのうせいそのものを有意ゆういあじ記述きじゅつすることができるのだろうか、というてんふくんでいる。しかし、はじめから全能ぜんのうしゃがすべてのことができると定義ていぎすれば、このぶん左右さゆうされずそのいしげられないことも、ひとつの能力のうりょくになる。

神学しんがく回答かいとう

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伝統でんとうまとには、かみ全知ぜんち全能ぜんのうちょんぜんとして理解りかいされてきた[2]。しかし、そのような理解りかいもろい(vulnerable)[2]たとえば、「かみあまりにおもぎてげられないいわ創造そうぞうできるか」という命題めいだいは、かみ論理ろんりてき自己じこ矛盾むじゅんしめしており、神学しんがく言語げんごがいかに論理ろんりてき脆弱ぜいじゃくかを暗示あんじしている[2]

ライプニッツ主張しゅちょうからかんがえると、かみ全能ぜんのうであれば、かみ人間にんげんあくいことをできる自由じゆうあたえると同時どうじに、わるいことをできない不自由ふじゆうあたえることが出来でき[10]。いいかえれば、全能ぜんのうしゃは「四角よつかどえん結婚けっこんしている独身どくしんおとこ創造そうぞうできる」ということであり、矛盾むじゅんしている(ごう義孝よしたかろん[10]

有神論ゆうしんろんには、全能ぜんのうしゃがなしることに不可能ふかのうはないという前提ぜんていふくまれている[11]。プランティンガによれば、この前提ぜんてい論理ろんりてきただしくない[12]たとえば、全能ぜんのうしゃが「四角しかくえん」を創造そうぞうすることや「7+5=75」にすることは一見いっけん可能かのうだが、それは論理ろんりてき不可能ふかのうだからである[4]

全能ぜんのうしゃはどんなことでもなしる、とかんがえることはできないとプランティンガは[3]極端きょくたんれいげれば、全能ぜんのうしゃ自分じぶんを、”永遠えいえんにいかなる意味いみでも存在そんざいしない”ようにすることはできない[3]

なに必要ひつようとせず存在そんざい可能かのう全能ぜんのうしゃ

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かみ全能ぜんのうであるなら、かみにとって世界せかい造物ぞうぶつ必要ひつようである、というかんがえも伝統でんとう神学しんがくなかにはあった[10]何故なぜならなにかを必要ひつようとするものは、全能ぜんのうではない ―― すなわち、無限むげん自存じそん必要ひつようとせず自力じりき存在そんざいできる状態じょうたい)ではない ―― とかんがえられるからである[10]

全能ぜんのうであるかみは、世界せかいあいする必要ひつようもない(バルトかんがえ)[10]かみ世界せかいあいするなら、そうするように自分じぶん決断けつだんしたからであって、かみはそれ以外いがいでもあり[10]何故なぜなら、存在そんざいするためになにかをあいする必要ひつようがあるもの ―― なにかをあいすることで存在そんざい可能かのうしゃ ―― は、全能ぜんのうではないからである[10]

論理ろんりない全能ぜんのうしゃ

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全能ぜんのうしゃですら論理ろんりてき矛盾むじゅんおかすことはできない」と前提ぜんていすれば、「論理ろんりてき限界げんかいない」の全能ぜんのうしゃ存在そんざいるとプランティンガはべている[13]

伝統でんとうてき回答かいとう(デカルトのれい

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リチャード・R・ラ=クロワはルネ・デカルトげ、「神聖しんせい全能ぜんのうせいについてのかれ説明せつめい支離滅裂しりめつれつである」[ちゅう 2]批判ひはんしている[14]

デカルトいわく、「数学すうがくてき真理しんり」は唯一ゆいいつかみ造物ぞうぶつであり、「完全かんぜん唯一ゆいいつかみ依存いぞんしている」もので、「ただいちかみちから」は人間にんげんには想像そうぞうがた[15]。「あなたが永遠えいえん数学すうがくてき真理しんりは、唯一ゆいいつしんによってさだめられたのであり、唯一ゆいいつかみ創造そうぞうしたものと同様どうように、完全かんぜん唯一ゆいいつかみ依存いぞんしている。 … われわれの想像そうぞうりょく唯一ゆいいつかみちからとどくとかんがえるのは軽率けいそつである」[15][ちゅう 3]

哲学てつがく

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全能ぜんのうせい定義ていぎ

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全能ぜんのう逆説ぎゃくせつ論議ろんぎする文脈ぶんみゃくでの全能ぜんのうせいにはいくつかの意味いみがある。ホフマンによると、それは「いかなる事態じたいでももたらしうる」りょくである(Hoffman)。しかし、その「事態じたい」がふくむものについては議論ぎろん対象たいしょうになる。デカルトはじめとする哲学てつがくしゃはこの定義ていぎぎ、論理ろんりてき不可能ふかのう出来事できごとをもたらす能力のうりょくふくめた。たとえば有限ゆうげん宇宙うちゅうなか立方体りっぽうたいかたちうしなったり、通常つうじょうすう体系たいけいで1が2とひとしくなったりすることは論理ろんりてき不可能ふかのうである。全能ぜんのうしゃかたちのない立方体りっぽうたいつくろうとすれば、それは可能かのうであることが証明しょうめいされようし、そのような全能ぜんのうしゃ論理ろんり法則ほうそく束縛そくばくされないことも証明しょうめいされよう。トマス・アクィナスのような哲学てつがくしゃ全能ぜんのうしゃ全能ぜんのうであるためには、論理ろんりてき不可能ふかのうなことをおこな必要ひつようはないと主張しゅちょうしている (Hoffman)。この場合ばあい全能ぜんのうしゃ論理ろんりてき可能かのうすべてのことをするちからつ。このふたつのかんがかたでは全能ぜんのうせい限界げんかいことなるので、全能ぜんのう逆説ぎゃくせつこうとおもうなら、両者りょうしゃ区別くべつすることが重要じゅうようである。

全能ぜんのうせい特定とくてい存在そんざい適用てきようする場合ばあい複数ふくすうことなった方法ほうほうがある。本質ほんしつてき全能ぜんのう essentially omnipotent な存在そんざいであるのか、偶発ぐうはつてき全能ぜんのう accidentally omnipotent な存在そんざいであるのかである。前者ぜんしゃつね全能ぜんのうであるのにたいし、後者こうしゃ一時いちじてき全能ぜんのうになり、その全能ぜんのうではなくなる存在そんざいである。全能ぜんのう逆説ぎゃくせつ両者りょうしゃあいだことなって適用てきようされる (Hoffman)。

哲学てつがくしゃ回答かいとう

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通例つうれい全能ぜんのう逆説ぎゃくせつは、「全能ぜんのうしゃは《自分じぶんげることのできないいし》をつくることができるか」といういとして表現ひょうげんされる。このいはつぎのように分析ぶんせきできる:

  1. ある存在そんざいは、《それ自身じしんげることのできないいし》をつくることができるか、できないかのどちらかである。
  2. もし、その存在そんざいが《それ自身じしんげることのできないいし》をつくることができるならば、その存在そんざい全能ぜんのうではない。
  3. もし、その存在そんざいが《それ自身じしんげることのできないいし》をつくることができないならば、その存在そんざい全能ぜんのうではない。

これはもうひとつの古典こてんてき逆説ぎゃくせつあらがうことのできないちから逆説ぎゃくせつ反映はんえいしている。その逆説ぎゃくせつは「あらがうことのできないちからと、不動ふどうのものが出会であったらどうなるか」というものである。それにたいするひとつの回答かいとうはこうなる。もしあるちからあらがうことのできないものであるなら、定義ていぎからしてしん不動ふどうのものは存在そんざいしない。ぎゃくに、不動ふどうのものが存在そんざいするならば、しんあらがうことのできないちからというものは存在そんざいしない。このあつかいは基本きほんてきにはただしいのだが、全能ぜんのうせい定義ていぎ問題もんだいには役立やくだたない。そればかりでなく、全能ぜんのう逆説ぎゃくせつはもうひとつの似通にかよった哲学てつがくてきいに関連かんれんしている。それはおじいさんの逆説ぎゃくせつである。全能ぜんのうせいについての日常にちじょうてき定義ていぎのなかにはしばしば時間じかん旅行りょこう能力のうりょくふくまれている。ではつぎのようにうたらどうだろう。「全能ぜんのうしゃ時間じかんさかのぼり、自分じぶん自身じしん祖父そふころすことはできるのか。」 しかしながら、これは全能ぜんのう逆説ぎゃくせつたいする論理ろんりてき十分じゅうぶん分析ぶんせきとはいえない。というのも、これは全能ぜんのうしゃ人間にんげんてき属性ぞくせいわせようとしているが、全能ぜんのうしゃ人間にんげんてき姿すがたをとっているとはかぎらないからである (Wierenga)。

つぎのような要請ようせいによって逆説ぎゃくせつ解消かいしょうしようという立場たちばもありうる。すなわち、全能ぜんのうせいは、つねすべてのことができることをかならずしも要求ようきゅうしない、という要請ようせいである。そうすれば、つぎのように理屈りくつをつけられる

  1. その存在そんざいは、つくった時点じてんではげられないいしつくることができる。
  2. しかし、その存在そんざい全能ぜんのうであるから、その存在そんざいからいつでも、げられる程度ていどいしかるくすることができる。したがって、その存在そんざい全能ぜんのうであるというのはなお合理ごうりてきである。

これは本質ほんしつてきに、1960ねん映画えいがふう遺産いさんen:Inherit the Wind登場とうじょう人物じんぶつであるマシュー・ハリソン・ブレイディ (Matthew Harrison Brady) が信奉しんぽうする観点かんてんおなじであり、ブレイディの観点かんてん大雑把おおざっぱにいってウィリアム・ジェニングス・ブライアンのっとっている。クライマックスシーンで「かみ自然しぜん法則ほうそく勝手かってえられる」とブレイディはろんずる。いし重量じゅうりょう変更へんこうするということは、すくなくともそのいしにかかわる重力じゅうりょく効果こうか変更へんこうするのと論理ろんりてき同値どうちである。このような説明せつめいたいしては、つぎのように反論はんろんできるだろう。全能ぜんのうしゃは《自分じぶんにもおもさをえられないくらい不変ふへんいし》をつくることができるか。さらに、このような状況じょうきょういしおもさをえること — が全能ぜんのうしゃ要件ようけんとして要請ようせいされるならば、全能ぜんのうしゃ自由じゆう意志いし制限せいげんすることになるのではないか、と。

J.L.マッキーは1955ねん哲学てつがく Mind論文ろんぶん発表はっぴょうし、全能ぜんのうせいふたつの段階だんかいもうけて区別くべつすることで、全能ぜんのう逆説ぎゃくせつ解消かいしょうしようとした。だいいち段階だんかい全能ぜんのうせいなにかをするための無限むげん能力のうりょく unlimited power to act)、だい段階だんかい全能ぜんのうせい(ものがなにかをするためにつべき能力のうりょく決定けっていするための無限むげん能力のうりょく unlimited power to determine what powers to act things shall have)である。ある時点じてん両方りょうほう全能ぜんのうせい存在そんざいは、自分じぶん自身じしん能力のうりょく制限せいげんし、それよりのち片方かたがた意味いみ全能ぜんのうであることをやめることもできるのであろう。

あらがうことのできないちから逆説ぎゃくせつについての古典こてんてき記述きじゅつほうは、近代きんだい物理ぶつりがく文脈ぶんみゃくると欠陥けっかんつことになる。というのも、進路しんろまったわらない砲弾ほうだんも、まった破壊はかいされない防壁ぼうへきも、同様どうよう無限むげんだい慣性かんせいつことになり、《両者りょうしゃともに》不可能ふかのうである。しかしながらこれは物理ぶつりはなしであって、論理ろんりには直接ちょくせつ関係かんけいするものではない。たん我々われわれがこのような描写びょうしゃれているので哲学てつがく問題もんだいれいとしてえらんでいるだけである。同様どうように、全能ぜんのう逆説ぎゃくせつについての古典こてんてき記述きじゅつほうおもすぎて全能ぜんのうなる創造そうぞうしゃげられないいし — はアリストテレス時代じだい科学かがく基盤きばんにしている。天動説てんどうせつたいらな地面じめん前提ぜんていにしているのである — せきをその惑星わくせい表面ひょうめんたいしてのみ「げ」うるのか? さらに、惑星わくせい公転こうてん考慮こうりょれれば、軌道きどう中心ちゅうしんにある太陽たいようたいし「つねに」いしがっているとなすこともできる。つまり、いしきょじょうかんする言説げんせつ選択せんたく貧弱ひんじゃくであると近代きんだい物理ぶつりがく示唆しさするわけである。だが、だからといって一般いっぱんてき全能ぜんのう逆説ぎゃくせつが「基礎きそから」無効むこうされたわけではない。思慮しりょふかスティーヴン・ホーキングによる創造そうぞうぬし自然しぜん法則ほうそくとの関係かんけいについての考察こうさつしたがい、古典こてんてき記述きじゅつほうつぎのようになおすことができるだろう:

  1. 全能ぜんのうしゃがアリストテレスの物理ぶつりがくしたが宇宙うちゅう創造そうぞうする。
  2. その宇宙うちゅうで、全能ぜんのうしゃ自分じぶん自身じしんげられないほどおもいしつくることができるであろうか。

科学かがくライターのジェイムズ・グリック (en:James Gleick) は自身じしんリチャード・P・ファインマンつてなかで、原子げんし実在じつざいせいかん議論ぎろんしていた科学かがくしゃが、全能ぜんのう逆説ぎゃくせついたよう記述きじゅつしている: 全能ぜんのうしゃ — この場合ばあいキリスト教きりすときょうかみとしていいだろう — は、かみ自身じしん分割ぶんかつすることのできない原子げんし創造そうぞうすることができたのだろうか、と。

偶発ぐうはつてき全能ぜんのうしゃ

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存在そんざい偶発ぐうはつてき全能ぜんのうである場合ばあい逆説ぎゃくせつ解消かいしょうできる:

  1. 全能ぜんのうしゃ自分じぶんげられないいし(あるいは分割ぶんかつできない原子げんしなど)をつくる。
  2. 全能ぜんのうしゃはそのいしげられず、全能ぜんのうでないものになる。

本質ほんしつてき全能ぜんのうであるものちがい、偶発ぐうはつてき全能ぜんのうであるもの全能ぜんのうでないものになることが可能かのうである。しかし、ここで問題もんだいしょうずる。その全能ぜんのうしゃ本当ほんとう全能ぜんのうだったのか、それともたん強大きょうだい能力のうりょくっていただけだったのか (Hoffman)。

本質ほんしつてき全能ぜんのうしゃ

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存在そんざい本質ほんしつてき全能ぜんのうである場合ばあい逆説ぎゃくせつ解消かいしょうできる:

  1. その全能ぜんのうしゃ本質ほんしつてき全能ぜんのうである、ゆえ全能ぜんのうでないものになることはできない。
  2. さらに、全能ぜんのうしゃ論理ろんりてき不可能ふかのうなことをすることはできない。
  3. 全能ぜんのうしゃげられないいし創造そうぞうすることは、上記じょうき論理ろんりてき不可能ふかのうせいにあたる。ゆえ全能ぜんのうしゃがそのようなことを要求ようきゅうされることはない。
  4. 全能ぜんのうしゃはそのようないし創造そうぞうすることはできないが、それでもなお全能ぜんのうせいたもつ。

このかんがえでは、必然ひつぜんてきに「全能ぜんのうしゃ論理ろんり法則ほうそくやぶることはできない」という論点ろんてんれることになり、たしかにこの逆説ぎゃくせつ全体ぜんたいがこのような論点ろんてん強力きょうりょく正当せいとうしている。このため、哲学てつがくしゃイブン=ルシュド全能ぜんのう逆説ぎゃくせつをさらにすすめ、そのかんがえはパリ司教しきょうであったエティエンヌ(ステファン)・タンピエ (en:Étienne Tempier) のはげしい糾弾きゅうだんびることになった(だいいちかいだいかい断罪だんざい (en:University of Paris (Condemnations) 参照さんしょう)。いしもちいた表現ひょうげんのかわりにイブン=ルシュドはつぎのようにうた。「かみ内角ないかく総和そうわが180ではない三角形さんかっけいつくることができるのだろうか。」

注意ちゅういしてしいのだが、ユークリッド幾何きかがく発見はっけんはこの逆説ぎゃくせつ解決かいけつするためには役立やくだたない。つぎのようにもうことができるからだ。「楕円だえん幾何きかがく公準こうじゅん成立せいりつするとして、そこで全能ぜんのうしゃ内角ないかく総和そうわが180えない三角形さんかっけいつくることができるか。」 いずれの場合ばあいも、本当ほんとう質問しつもんは、全能ぜんのうしゃ自分じぶん創造そうぞうした公理系こうりけいにおいて論理ろんりてきみちびかれる結果けっかやぶ能力のうりょくつのか、というてんである。[よう出典しゅってん]

このかんがえが定式ていしきされた歴史れきしてき文脈ぶんみゃく概観がいかんするためには、ジェームズ・バーク (en:James Burke (science historian)) の en:The Day the Universe Changed参照さんしょうされたい。テレビシリーズのだいまたはガイドブックのだいしょうである。レコンキスタのち、アラビアの科学かがくしょ哲学てつがくしょ — それらは古代こだいギリシア文献ぶんけん翻訳ほんやくであることがおおかった — が今度こんどはヨーロッパの言葉ことば翻訳ほんやくされて欧州おうしゅう文化ぶんかじんあいだられるようになった。イブン=ルシュドの難問なんもんがパリにとどくと、喧々囂々けんけんごうごう論議ろんぎこり、そのためパリ大学だいがく神学しんがくせいは6年間ねんかんのストライキに突入とつにゅうした。Burkeはこれをひょうして「この『かみ限界げんかい問題もんだいはダイナマイトだった」とっている。

カトリック神学しんがく主流しゅりゅうもレコンキスタによってられるようになったギリシャ、アラビアの素材そざい利用りようするのにあまんじることになった。おおくはトマス・アクィナスのおかげである。アクィナスの『神学しんがく大全たいぜん』は「かみ論理ろんり拒否きょひない」と断言だんげんしている。このてんで、12世紀せいきのユダヤじん哲学てつがくしゃにして医師いしであったモーシェ・ベン=マイモーンは『当惑とうわくしゃへの手引てびき』(en:The Guide for the Perplexed)のなかでアクィナスの思想しそうおな主張しゅちょうおこなっている。モーシェ・ベン=マイモーンは否定ひてい神学しんがくかみは《○○ではない》という否定ひていとおしてしか記述きじゅつできないという論法ろんぽう)の信奉しんぽうしゃであった。なにがしら神秘しんぴてき観点かんてんから、否定ひていてきなあるいは Apophatic (言葉ことばにすることができない、ほど)な神学しんがく根本こんぽんには、かみしんのエッセンスはかたりうるものではなく、かみについての肯定こうていてき記述きじゅつ訳註やくちゅう: かみは《××である》というような記述きじゅつ)はいかなるものであれ冒涜ぼうとくぼうとくてきであり、異端いたんであるリスクをうというかんがかたがある。

アメリカ独立どくりつ戦争せんそうのゲリラであったイーサン・アレン論文ろんぶん理性りせい: 人間にんげん唯一ゆいいつ神託しんたく』 (Reason: The Only Oracle of Man) をき、そのなかで原罪げんざいべんかみろんなどを古典こてんてき啓蒙けいもう運動うんどうスタイルでろんじた。だいさんしょうだいよんせつでアレンは、変化へんかぬことは動物どうぶつ定義ていぎする属性ぞくせいであり、「全能ぜんのうせいそのもの」も動物どうぶつすべき運命うんめいからすくうことはできないといている。アレンはろんずる、「たにのない密集みっしゅうした山々やまやま存在そんざいしたり、わたし存在そんざいすると同時どうじ存在そんざいしない〔ということがありない〕のとおなじように、一方いっぽう他方たほうなしであることはありないし、かみ自然しぜんかい矛盾むじゅんこすこともありない[ちゅう 4]。」友人ゆうじんしん論者ろんしゃばわりされながらもアレンは、『理性りせい』をとおしてではあるが、神聖しんせいなる存在そんざいですら論理ろんり束縛そくばくされるとろんじたのである。

論理ろんりてき不可能ふかのう

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一部いちぶ哲学てつがくしゃは、全能ぜんのうせい定義ていぎにデカルトの観点かんてんふくめればこの逆説ぎゃくせつ解消かいしょうするという姿勢しせいくずしていない。その観点かんてんとは全能ぜんのうしゃ論理ろんりてき不可能ふかのうなことをなしるというものである:

  1. 全能ぜんのうしゃ論理ろんりてき不可能ふかのうなことをすることができる。
  2. 全能ぜんのうしゃみずからがげられないいしつくることができる。
  3. 全能ぜんのうしゃいでそのいしげる。

このような存在そんざい数学すうがくてき2す2を5にすることもできるし、四角しかくえんつくることもできるかもしれない。この場合ばあいその存在そんざいの「全能ぜんのうせい」とは、本来ほんらいてき矛盾むじゅんであるこれらの記述きじゅつえる能力のうりょくす。ハリー・G・フランクファート (en:Harry Frankfurt) のげんもちいれば、「もし全能ぜんのうしゃ論理ろんりてき不可能ふかのうなことをすことができるならば、かれかれ自身じしんあつかうことのできない状況じょうきょう創造そうぞうすることができるばかりか、一貫いっかんせいという限界げんかいえて、みずかあつかうことのできない状況じょうきょうあつかうことができる。」

しかし、この方法ほうほう逆説ぎゃくせつ解消かいしょうすることは問題もんだいはらんでいる。定義ていぎそれ自体じたい論理ろんりてき一貫いっかんせいしてしまうというてんである。逆説ぎゃくせつ解決かいけつできるかもしれない。だが、それには痛手いたでともなう。そのような存在そんざい論理ろんり超越ちょうえつしてしまうので、論理ろんりはガラクタになり、無意味むいみなものになってしまうのだ。アレンの『理性りせい』は、論理ろんり放棄ほうきすることで逆説ぎゃくせつ解消かいしょうする人々ひとびと風刺ふうししている。アレンはつぎのようにいている。

「もしかれらが理性りせいreason 理由りゆう論理ろんりきで議論ぎろんしているなら──というのも、かれ自身じしん一貫いっかんせいつにはそう議論ぎろんせねばならないから──かれらは合理ごうりてき説得せっとくりょくrational conviction 理性りせいてき確信かくしん超越ちょうえつしているし、かれらは合理ごうりてき議論ぎろん〔rational argument 理性りせいてき論拠ろんきょあたいしない。[ちゅう 5]

論理ろんりがく

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ポップカルチャーとユーモア

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全能ぜんのう逆説ぎゃくせつは、大衆たいしゅう文化ぶんかなかにも浸透しんとうしている。様々さまざまなメディアのなかで、全能ぜんのう逆説ぎゃくせつ全能ぜんのうしゃ存在そんざいかんする議論ぎろん参照さんしょうされる。

  • ザ・シンプソンズ』のあるかいで、ホーマーネッド・フランダースにこう質問しつもんしている。「イエスブリート自分じぶんべられないほどあつチンすることができるだろうか。」 この表現ひょうげん前述ぜんじゅつのものとことなり物理ぶつりがく方面ほうめんからの苦情くじょうがこないことに注目ちゅうもくしてしい。ブリートの定義ていぎには慣性かんせい相対そうたいせいなどといった近代きんだいてき概念がいねん関係かんけいしてこないからである。
  • ネットじょう話題わだいチャック・ノリス・ファクト」のなかに「チャック・ノリス自分じぶんでもげられないほどおもいしをつくることができる。そしてそれをげてしまうのだ。クソったれである証明しょうめいに。」とある。
  • スティーヴン・ホーキングは『時間じかん概説がいせつen:A Brief History of Time において、自然しぜん法則ほうそく関連かんれんした創造そうぞうぬし役割やくわりろんじたより一般いっぱんてき議論ぎろんなかで、全能ぜんのう逆説ぎゃくせつ紹介しょうかいしている。著作ちょさく『ブラックホールとベビーユニバース』 Black Holes and Baby Universesなか冗談じょうだんめかして、これらの宗教しゅうきょうてき憶測おくそくをもりこんだ御陰おかげで─最後さいごくだりの「そのときわれらはかみ御意ぎょいるであろう。」 "for then we would know the mind of God" をふくんで─おそらく問題もんだいほんきがばいくらいになったとかたっている。
  • SFテレビドラマ『しんスタートレック』に、Qという名前なまえられる全能ぜんのうしゃ登場とうじょうする。Qに関係かんけいしたいくつかのかいなかで、おもにユーモラスな筆致ひっち逆説ぎゃくせつてき結果けっか追求ついきゅうされる。
  • SFテレビドラマ『バビロン5』で、二人ふたり登場とうじょう人物じんぶつがこの逆説ぎゃくせつについてかたっている:(台詞せりふ引用いんようにつき訳出やくしゅつせず)
  • ジョージ・カーリンはナイトクラブに出演しゅつえんするさいよく「おもいし」の疑問ぎもん言及げんきゅうする。近所きんじょあくガキどもが教会きょうかい質問しつもんするらしい。[1]
  • サムシング・オーフル」もこの疑問ぎもんげかけた。「神様かみさまは、値段ねだんたかすぎて自分じぶんにもえないゲームつくれるの?」 編集へんしゅうしゃこたえはこうだった。「おつくりになれる。そのゲームというのはXbox 360だよ。」
  • 山田やまだ正紀まさきは『かみ』のなか直接的ちょくせつてきにこの逆説ぎゃくせつ導入どうにゅうしている。
  • 田中たなか芳樹よしきは『銀河ぎんが英雄えいゆう伝説でんせつ』のなか登場とうじょう人物じんぶつ一人ひとりに「全能ぜんのうかみ自分じぶんうことをかないおんなつくれるか」という表現ひょうげんでこの逆説ぎゃくせつ言及げんきゅうさせている。

脚注きゃくちゅう

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注釈ちゅうしゃく

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  1. ^ 以下いかはバジーニの著書ちょしょからの引用いんよう[6]
    まる四角しかくにする信仰しんこう理性りせいえるか? ―

    中略ちゅうりゃく

    かみには四角しかくまるつく能力のうりょくがないといたてるのは、かみろんしゃかみあざけっているだけだろうとおもわれないように指摘してきしておきたいのだが、典型てんけいてき信仰しんこうしゃ、たとえばトマス・アクィナスなどは、かみちから制限せいげんがあることをれていた。[6]
  2. ^ "his account of divine omnipotence is incoherent"[14].
  3. ^ "The mathematical truths which you call eternal have been laid down by God and depend on Him entirely no less than the rest of his creatures. ... It would be rash to think that our imagination reaches as far as His power"[15].
  4. ^ "the one cannot be without the other, any more than there could be a compact number of mountains without valleys, or that I could exist and not exist at the same time, or that God should effect any other contradiction in nature."
  5. ^ “if they argue without reason, (which, in order to be consistent with themselves, they must do,) they are out of the reach of rational conviction, nor do they deserve a rational argument.”

出典しゅってん

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  1. ^ バジーニ 2012, pp. 111–112.
  2. ^ a b c d さと 2001, p. 43.
  3. ^ a b c d 三宅みやけ 2006, p. 40.
  4. ^ a b 三宅みやけ 2006, p. 39.
  5. ^ a b c d バジーニ 2012, p. 112.
  6. ^ a b バジーニ 2012, pp. 110–111.
  7. ^ a b バジーニ 2012, pp. 112–113.
  8. ^ a b c d バジーニ 2012, p. 113.
  9. ^ バジーニ 2012, p. 111.
  10. ^ a b c d e f g h i さと 2001, p. 54.
  11. ^ 三宅みやけ 2006, p. 38.
  12. ^ 三宅みやけ 2006, pp. 38–39.
  13. ^ 三宅みやけ 2006, p. 39-40.
  14. ^ a b La Croix 1984, p. 475.
  15. ^ a b c La Croix 1984, p. 457.

参考さんこう文献ぶんけん

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  • さと, 義孝よしたか宗教しゅうきょうてき実在じつざい:プロセス神学しんがくかみという実在じつざい」『テオロギア・ディアコニア』だい35かん、2001ねん、41-73ぺーじ 
  • バジーニ, ジュリアン しる向井むかい和美かずみ やく『100の思考しこう実験じっけん:あなたはどこまでかんがえられるか』(だい4さつ紀伊國屋きのくにや書店しょてん、2012ねんISBN 978-4314010917 
  • 三宅みやけ, じん改革かいかく認識にんしきろんあく論理ろんりてき問題もんだい」『基督教きりすときょう研究けんきゅうだい67かんだい2ごう、2006ねん、31-45ぺーじ 
    • Where relevant, external links in the following were last verified 19 April 2006.
  • Allen, Ethan. Reason: The Only Oracle of Man. J.P. Mendum, Cornill; 1854. Originally published 1784, available online.
  • Burke, James. The Day the Universe Changed. Little, Brown; 1995 (paperback edition). ISBN 0-316-11704-8.
  • Gleick, James. Genius. Pantheon, 1992. ISBN 0-679-40836-3.
  • Haeckel, Ernst. The Riddle of the Universe. Harper and Brothers, 1900.
  • Hoffman, Joshua, Rosenkrantz, Gary. "Omnipotence" The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Summer 2002 Edition). Edward N. Zalta (ed.) [2]
  • La Croix, Richard R. (1984). “Descartes on God's Ability to Do the Logically Impossible”. Canadian Journal of Philosophy 14 (3): 455–475. ISSN 0045-5091. https://www.jstor.org/stable/40231381. 
  • Mackie, J.L., "Evil and Omnipotence." Mind LXIV, No, 254 (April 1955).
  • Wierenga, Edward. "Omnipotence" The Nature of God: An Inquiry into Divine Attributes. Cornell University Press, 1989. [3][リンク]
  • Wittgenstein, Ludwig. Tractatus Logico-Philosophicus. Available online via Project Gutenberg.

関連かんれん項目こうもく

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