かわらづか古墳こふんぐん

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かわらづか古墳こふん
西側にしがわから
所属しょぞく かわらづか古墳こふんぐん[1]
所在地しょざいち 栃木とちぎけん宇都宮うつのみや長岡ながおかまち1188ほか[2]
位置いち 北緯ほくい3636ふん3.7びょう 東経とうけい13952ふん54.3びょう / 北緯ほくい36.601028 東経とうけい139.881750 / 36.601028; 139.881750座標ざひょう: 北緯ほくい3636ふん3.7びょう 東経とうけい13952ふん54.3びょう / 北緯ほくい36.601028 東経とうけい139.881750 / 36.601028; 139.881750
形状けいじょう 前方後円墳ぜんぽうこうえんふん[3][4]
規模きぼ 全長ぜんちょう 48 m×はば 38 m×たかさ 3.3 m[5][6]
埋葬まいそう施設しせつ 横穴よこあなしき石室いしむろ[3]
出土しゅつどひん 武器ぶきるい馬具ばぐるい装身具そうしんぐ土器どき[7]
築造ちくぞう時期じき 6世紀せいき後半こうはん[6]
史跡しせき 宇都宮うつのみや指定してい史跡しせき[1]
地図ちず
瓦塚古墳の位置(栃木県内)
瓦塚古墳
かわらづか古墳こふん
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かわらづか古墳こふんぐん(かわらづかこふんぐん)は、栃木とちぎけん宇都宮うつのみや長岡ながおかまちにある古墳こふんぐん[1][4]前方後円墳ぜんぽうこうえんふんであるかわらづか古墳こふんおもふんとし[1][3][4]、およそ40構成こうせいされた古墳こふんぐんである[1][4]

おもふん最初さいしょ発掘はっくつされたのは1898ねん明治めいじ31ねん)のことで、翌年よくねんには八木はちぼく三郎さぶろう論文ろんぶんにまとめて発表はっぴょうした[4]1991ねん平成へいせい3ねん)の作新学院さくしんがくいん高等こうとうげん作新学院さくしんがくいん高等こうとう学校がっこう)による測量そくりょう調査ちょうさて、1995ねん平成へいせい7ねん)に宇都宮うつのみや指定してい史跡しせきとなり、地域ちいき住民じゅうみんによる保護ほご継承けいしょう活動かつどうおこなわれている[1]

特徴とくちょう[編集へんしゅう]

かわらづか古墳こふんぐん宇都宮うつのみや長岡ながおかまち宇都宮うつのみや丘陵きゅうりょううえ分布ぶんぷする、えんふん主体しゅたいとするやく40古墳こふんぐんである[1]構成こうせいする古墳こふんかず宇都宮うつのみや最多さいたである[8]。ただしやく10開発かいはつにより滅失めっしつしたため、現存げんそんするのはやく30である[9]1983ねん昭和しょうわ58ねん)までに存在そんざい確認かくにんできたのは42であり、おもふんであるかわらづか古墳こふんだい24ごうふんである[10]

おもふんかわらづか古墳こふん6世紀せいき後半こうはんにできたもので[6]、そのおおくのえんふんは6世紀せいきまつから7世紀せいき初頭しょとう築造ちくぞうされた[6][11]

古墳こふんぐん展開てんかい範囲はんい東西とうざいやく550 m、南北なんぼくやく450 mで、標高ひょうこうは50 mある[12]。それぞれの古墳こふん尾根おね沿ってれつし、おもふん中央ちゅうおうとすると、南南西なんなんせいびるAささえぐんみなみびるBささえぐん、Bささえぐんひがしにあり平行へいこうするCささえぐん南東なんとうびるDささえぐん形成けいせいするが、一部いちぶ例外れいがいもある[13]かくささえぐん直径ちょっけい20 mをえる中型ちゅうがたふんすう多数たすう小型こがたふん構成こうせいされる[13]。このなか発掘はっくつ調査ちょうさおこなわれたのは、おもふんの24ごうふんと25・26・32ごうふんのみであり、かく古墳こふん築造ちくぞう順序じゅんじょささえぐん形成けいせい過程かてい解明かいめいされていない[14]

古墳こふん一覧いちらん[15]

番号ばんごう 現状げんじょう ささえぐん 形状けいじょう 直径ちょっけい(m) たかさ(m) 埋葬まいそう施設しせつ
1 消滅しょうめつ D     0.8  
2 一部いちぶ露出ろしゅつ D えんふん 8.5 0.8 横穴よこあなしき石室いしむろ
3 消滅しょうめつ D       T字形じけい横穴よこあなしき石室いしむろ
4 消滅しょうめつ D        
5 消滅しょうめつ D       横穴よこあなしき石室いしむろ
6 氏神うじがみ鎮座ちんざ D えんふん 16 2 横穴よこあなしき石室いしむろ
7 消滅しょうめつ 例外れいがい        
8 消滅しょうめつ 例外れいがい       横穴よこあなしき石室いしむろ
9 消滅しょうめつ 例外れいがい       横穴よこあなしき石室いしむろ
10 残存ざんそん C えんふん 12 2  
11 一部いちぶ露出ろしゅつ C えんふん 9.5 0.5 横穴よこあなしき石室いしむろ
12 一部いちぶ露出ろしゅつ C えんふん 7.5 0.5 横穴よこあなしき石室いしむろ
13 残存ざんそん C えんふん 22 3  
14 残存ざんそん C えんふん 14 2  
15 残存ざんそん C えんふん 17 2.5  
16 残存ざんそん B えんふん 10 1  
17 残存ざんそん B えんふん 20 2.5  
18 残存ざんそん B えんふん 23 2  
19 神社じんじゃ鎮座ちんざ B えんふん 20 2  
20 一部いちぶ露出ろしゅつ A えんふん 15 1.5 横穴よこあなしき石室いしむろ
21 現存げんそん A えんふん 29 4  
22 現存げんそん A えんふん 16 1.4  
23 現存げんそん A えんふん 22 2  
24 現存げんそん おもふん 前方後円墳ぜんぽうこうえんふん 48 3.3 横穴よこあなしき石室いしむろ
25 現存げんそん A えんふん 18 1.4 横穴よこあなしき石室いしむろ
26 現存げんそん 独立どくりつ えんふん 40 5 横穴よこあなしき石室いしむろ
27 消滅しょうめつ B えんふん 14 1  
28 消滅しょうめつ B えんふん 12 1  
29 現存げんそん B えんふん 20 3  
30 消滅しょうめつ B        
31 一部いちぶ欠損けっそん D えんふん 18 1.5  
32 現存げんそん D えんふん 14   T字形じけい横穴よこあなしき石室いしむろ
33 一部いちぶ欠損けっそん D えんふん 10 2  
34 現存げんそん D えんふん 9.5 0.5  
35 一部いちぶ欠損けっそん D えんふん 13 2.5  
36 現存げんそん D えんふん 30 6  
37 一部いちぶ欠損けっそん D えんふん 7 1  
38 現存げんそん D えんふん 10.5 1.5  
39 現存げんそん D えんふん 14 2.5  
40 一部いちぶ露出ろしゅつ D えんふん 18 3 横穴よこあなしき石室いしむろ
41 現存げんそん C えんふん 8 0.5  
42 現存げんそん B えんふん 12 1.5  

おもふん[編集へんしゅう]

前方ぜんぽう
こうえん

宇都宮うつのみやにある古墳こふんおおくは、6世紀せいききずかれた「後期こうき古墳こふん」であり、かわらづか古墳こふんかわらづか古墳こふんぐん24ごうふん[13])もその1つである[16]。この時代じだいヤマト王権おうけんによる地方ちほう支配しはいすすみ、かく集落しゅうらくちょう地方ちほう役人やくにんとしての性格せいかくび、各々おのおの古墳こふん築造ちくぞうした時期じきたる[8]

前方ぜんぽう南西なんせいけた前方後円墳ぜんぽうこうえんふんであり[3]全長ぜんちょう48 m[5]たかさ3.3 mである[6]前方ぜんぽうこうえんたかさがおなじであるのが特徴とくちょうとなっている[6]。(厳密げんみつにはこうえんほうが0.8 mたか[5]。)前方ぜんぽう先端せんたんはばは38 m、こうえん直径ちょっけいは28 mである[5]1992ねん平成へいせい4ねん)の時点じてんでは、全長ぜんちょう45 m、たかさ3 m、前方ぜんぽうはば25 m、こうえん直径ちょっけい20 mとかんがえられていた[3]

古墳こふんは2だんちくなりで、葺石上段じょうだんにのみられる[6]。葺石は河原かわはら玉石ぎょくせきもちい、こうえんえん中心ちゅうしん基準きじゅんにして、玉石ぎょくせき放射状ほうしゃじょうたていしれつつくり、そのすきぶりないしめている[17]墳丘ふんきゅうには埴輪はにわならび、円筒えんとう埴輪はにわ形象けいしょう埴輪はにわ出土しゅつどしている[6]朝顔あさがおがた埴輪はにわふく円筒えんとう埴輪はにわは、平成へいせい調査ちょうさで60てん出土しゅつどしたが、こまかい破片はへん状態じょうたいであり、全体ぜんたいぞう復元ふくげんできるものはなかった[18]形象けいしょう埴輪はにわ人物じんぶついえがた馬形まがたさやがた大刀たちがたたてがたほこがたうつぼかたち出土しゅつどし、装飾そうしょく派手はでであるという特色とくしょくがある[19]

周囲しゅういしゅうみぞしゅう湟)にかこまれており[3]しゅうみぞ北西ほくせい顕著けんちょ残存ざんそんする[6]明治めいじ調査ちょうさでははば10 m・ふかさ1.3 mとされた[3][5]が、平成へいせい調査ちょうさでは場所ばしょによってはばは3.3 - 9.6 mとがあり、ふかさは1 m前後ぜんこうであることが判明はんめいした[5]

埋葬まいそう施設しせつこうえんにあり、横穴よこあなしき石室いしむろである[3][6]平成へいせい発掘はっくつによると、羨道せんどうながさは3.1 m、玄室げんしつながさは8.9 mであり、側壁そくへき凝灰岩ぎょうかいがん切石きりいしみでつくられていた[6]石室いしむろからは、明治めいじ発掘はっくつ武器ぶきるいちょくかたなかたなてつ)、馬具ばぐるいくつわくもたま〔うず〕)、装身具そうしんぐ金環きんかんかんだま切子きりこだまいとぐちしめだま小玉こだま)、土師器はじき須恵すえつかっている[6][7]平成へいせい発掘はっくつでは石室いしむろ攪乱かくらんおおきく、石室いしむろない危険きけん状態じょうたいであったため、外部がいぶからの調査ちょうさにとどまった[6]

発掘はっくつ保護ほご歴史れきし[編集へんしゅう]

1898ねん明治めいじ31ねん)に地元じもと住民じゅうみんらによっておもふんかわらづか古墳こふん発掘はっくつ調査ちょうさおこなわれた[4]。その成果せいかは、よく1899ねん明治めいじ32ねん)に八木はちぼくさんろうが「下野げやこく河内かわちぐん長岡ながおか古墳こふん」のだいで『東京とうきょう人類じんるい学会がっかい雑誌ざっしだい155ごう』に発表はっぴょう[4]学界がっかいひろつたえられた[1][4]

1973ねん昭和しょうわ48ねん)から1975ねん昭和しょうわ50ねん)にかけて、長岡ながおかニュータウン開発かいはつ企図きとされたことから、25ごう・26ごう・32ごうふん発掘はっくつされ、凝灰岩ぎょうかいがん横穴よこあなしき石室いしむろちょくかたなかたな金具かなぐなどの出土しゅつどがあった[9]

1991ねん平成へいせい3ねん)と1992ねん平成へいせい4ねん)に作新学院さくしんがくいん高等こうとうげん作新学院さくしんがくいん高等こうとう学校がっこう社会しゃかい研究けんきゅうかわらづか古墳こふん墳丘ふんきゅう測量そくりょう調査ちょうさおこない、墳丘ふんきゅうが2だんちくなりであることや葺石の存在そんざい発見はっけんし、円筒えんとう埴輪はにわれつ位置いち特定とくていした[1]。この調査ちょうさ時点じてんで、盗掘とうくつけたような攪乱かくらんられ、玄室げんしつ一部いちぶ露出ろしゅつしていた[20]

そして宇都宮うつのみや1995ねん平成へいせい7ねん)にかわらづか古墳こふん史跡しせき指定していした[1]史跡しせき指定していけて、地域ちいき住民じゅうみん1997ねん平成へいせい9ねん)にかわらづか古墳こふんぐん愛護あいごかい結成けっせいし、古墳こふん保護ほご継承けいしょう運動うんどう開始かいしした[1]当初とうしょ清掃せいそう活動かつどう中心ちゅうしんであったが、その活動かつどう規模きぼ年々ねんねん拡大かくだいし、中学生ちゅうがくせい参加さんかして、案内あんないばん設置せっち遊歩道ゆうほどう整備せいびなどにおよんだ[1]地域ちいき活動かつどう呼応こおうして、宇都宮うつのみやとしても将来しょうらい公園こうえん見据みすえた発掘はっくつ調査ちょうさおこなうことをめ、2001ねん平成へいせい13ねん)から2003ねん平成へいせい15ねん)にかけて発掘はっくつ調査ちょうさ実施じっしした[1]。この発掘はっくつ整備せいびのための確認かくにん調査ちょうさとの位置付いちづけだったため、出土しゅつどした埴輪はにわとうもと位置いちもどされた[21]

周辺しゅうへん環境かんきょう[編集へんしゅう]

かわらづか古墳こふんぐんのある宇都宮うつのみや丘陵きゅうりょうは、旧石器時代きゅうせっきじだい以降いこうかく時代じだい遺跡いせき集中しゅうちゅうする地域ちいきであり、戸祭とまつり大塚おおつか古墳こふん谷口たにぐちやま古墳こふん長岡ながおかひゃくあな古墳こふんなどの古墳こふんぐんがある[21]

交通こうつう[編集へんしゅう]

市営しえい無料むりょう駐車ちゅうしゃじょうがある長岡ながおかひゃくあな古墳こふんから長岡ながおか街道かいどうを400 m東進とうしんし、丁字ていじ左折させつ、700 m北進ほくしんすると右手みぎてかわらづか古墳こふんぐんのぼこうがある[22]山道さんどう中腹ちゅうふく以上いじょうに、かわらづか古墳こふんぐん構成こうせいするえんふんられる[4]頂上ちょうじょうまでのぼるとおもふんであるかわらづか古墳こふん到達とうたつする[4]古墳こふん標高ひょうこうやく180 mで、ふもと水田すいでんより50 mほどたか位置いちにある[21]

路線ろせんバス利用りようする場合ばあい宇都宮うつのみやえきのバスから帝京大学ていきょうだいがく宇都宮うつのみや美術館びじゅつかん方面ほうめんきの関東かんとうバス乗車じょうしゃし、帝京大学ていきょうだいがくバス停ばすてい下車げしゃし、南西なんせい方向ほうこうあるいていくとかわらづか古墳こふん到達とうたつする[4]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m 澁谷しぶや梁木りょうぼく清地せいじ 2019, p. 1.
  2. ^ 澁谷しぶや梁木りょうぼく清地せいじ 2019, 例言れいげん.
  3. ^ a b c d e f g h 宇都宮うつのみや へん 1992, p. 58.
  4. ^ a b c d e f g h i j k はなわ 2008, p. 110.
  5. ^ a b c d e f 澁谷しぶや梁木りょうぼく清地せいじ 2019, p. 8.
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m はなわ 2008, p. 111.
  7. ^ a b 宇都宮うつのみや へん 1992, pp. 58–59.
  8. ^ a b 宇都宮うつのみや へん 1992, p. 52.
  9. ^ a b 澁谷しぶや梁木りょうぼく清地せいじ 2019, p. 1, 6.
  10. ^ 澁谷しぶや梁木りょうぼく清地せいじ 2019, pp. 4–5.
  11. ^ 宇都宮うつのみや へん 1992, p. 59.
  12. ^ 澁谷しぶや梁木りょうぼく清地せいじ 2019, p. 4.
  13. ^ a b c 澁谷しぶや梁木りょうぼく清地せいじ 2019, p. 5.
  14. ^ 澁谷しぶや梁木りょうぼく清地せいじ 2019, p. 1, 5, 6.
  15. ^ 澁谷しぶや梁木りょうぼく清地せいじ 2019, pp. 5–6.
  16. ^ 宇都宮うつのみや へん 1992, pp. 52–53.
  17. ^ 澁谷しぶや梁木りょうぼく清地せいじ 2019, p. 9.
  18. ^ 澁谷しぶや梁木りょうぼく清地せいじ 2019, pp. 20–32.
  19. ^ 澁谷しぶや梁木りょうぼく清地せいじ 2019, pp. 37–40, 61–62.
  20. ^ 澁谷しぶや梁木りょうぼく清地せいじ 2019, p. 7.
  21. ^ a b c 澁谷しぶや梁木りょうぼく清地せいじ 2019, p. 2.
  22. ^ はなわ 2008, p. 108, 110.

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 澁谷しぶやあさ友子ゆうこ梁木りょうぼくまこと清地せいじ良太りょうた ちょ宇都宮うつのみや教育きょういく委員いいんかい へんかわらづか古墳こふん宇都宮うつのみや教育きょういく委員いいんかい宇都宮うつのみや埋蔵まいぞう文化財ぶんかざい調査ちょうさ報告ほうこくしょ104〉、2019ねん3がつ29にちdoi:10.24484/sitereports.71238NCID BB28934995https://sitereports.nabunken.go.jp/71238 
  • はなわ静夫しずお『うつのみや歴史れきし探訪たんぼう 史跡しせき案内あんないきゅうじゅうきゅうけい随想ずいそうしゃ、2008ねん9がつ27にち、287ぺーじISBN 978-4-88748-179-4 
  • 宇都宮うつのみや へん改訂かいてい うつのみやの歴史れきし宇都宮うつのみや、1992ねん3がつ31にち、418ぺーじNCID BN07977757 

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]