かんはか

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かん
かんはか埋葬まいそう模型もけい吉野よしのさと遺跡いせき展示てんじ

かんはか(かめかんぼ)とは、(かめ)やつぼ(つぼ)をかん(ひつぎ)として埋葬まいそうするはかをいう。歴史れきしてきはかせいとして世界せかい各地かくちられるが、乳幼児にゅうようじはかとしてもちいられるれいおおい。1個いっこ土器どきなどのぶたをするもの(たんかん)、2開口かいこうわせたもの(合口あいくちかん)などがある。気密きみつせい確保かくほするため、ぶた合口あいくち粘土ねんどなどで固定こていすることもおおい。かん内部ないぶでは、遺体いたいかがめる屈葬くっそう(くっそう)の形態けいたいがとられる。屈葬くっそうおよかん採用さいようには、死者ししゃたましい遺体いたいにとどめておこうとする思想しそう背景はいけいがあった、とかんがえる研究けんきゅうしゃもいる。考古こうこ学者がくしゃである小林こばやし謙一けんいちによるとかんはかはかせいより非常ひじょうつくりやすいため、アジア各地かくちあらわれたかんはかたがいに密接みっせつ関連かんれんはなく偶然ぐうぜん各地かくち自然しぜん発生はっせいした可能かのうせいたかいとう。[1]

日本にっぽんかんはか[編集へんしゅう]

解説かいせつ[編集へんしゅう]

日本にっぽんでは縄文じょうもん時代じだい以降いこうかんはかられる。

縄文じょうもん後期こうき晩期ばんき遺跡いせきからは、日本にっぽん各地かくち東北とうほく近畿きんき九州きゅうしゅう)でかんはか風習ふうしゅうがあったことがわかっている。その弥生やよい時代じだい前期ぜんきから中期ちゅうき北部ほくぶ九州きゅうしゅうにおいて最盛さいせいむかえる。北部ほくぶ九州きゅうしゅうなかでも福岡平野ふくおかへいや周辺しゅうへん一帯いったいは、弥生やよい早期そうきから前期ぜんき前半ぜんはんまでは成人せいじんおもかん埋葬まいそうされていたが、前期ぜんき後半こうはんになるとつぼかんわった。それまでは、小児しょうにかん埋葬まいそうされていた。中期ちゅうき後半こうはんには長崎ながさきけん熊本平野くまもとへいやまでひろがった。

墓地ぼち一般いっぱん集落しゅうらく構成こうせいいんはか有力ゆうりょくしゃそうはかとはべつつくられるようになった。青銅せいどう製品せいひんなどの副葬品ふくそうひんにもてきた。この地域ちいき社会しゃかいにいくつかの階層かいそう出来上できあがっていったことがわかる。それらの階層かいそう分化ぶんかは、前期ぜんきまつから中期ちゅうき初頭しょとう福岡ふくおかけん吉武よしたけ高木たかぎ遺跡いせき中期ちゅうき後半こうはん福岡ふくおかけん三雲みくも南小路みなみこじ遺跡いせき1・2ごうかん須玖すぐ岡本おかもと遺跡いせき後期こうきになって井原いはらやりみぞ遺跡いせき平原ひらはら遺跡いせきなどでられる。

弥生やよい時代じだいかんはか特徴とくちょうは、成人せいじん専用せんようかんつくられたてん青銅せいどうせい武器ぶきるい銅剣どうけんどうほこ銅戈どうかなど)や銅鏡どうきょうなどの副葬品ふくそうひんられるてんにある。

各地かくちかんはかれい[編集へんしゅう]

吉野よしのさと遺跡いせきかん墓列ぼれつ発掘はっくつ場所ばしょ真上まうえおなならびで再現さいげんされたもの)

アジア各地かくちかんはか[編集へんしゅう]

アジアでは、まず朝鮮半島ちょうせんはんとう中国ちゅうごくあらわれている。ほとんどが乳幼児にゅうようじのものであり、成人せいじんのものは韓国かんこく西南せいなん中国ちゅうごく西部せいぶのみに分布ぶんぷする。また、東南とうなんアジアでも紀元前きげんぜんすう世紀せいきころから、ジャワ島じゃわとうベトナム中部ちゅうぶサーフィン文化ぶんか)を中心ちゅうしんかんはかおこなわれていた。これについては、海洋かいようみん習俗しゅうぞくだったとする見方みかたがある。さらにみなみインドにおいても、紀元前きげんぜんすう世紀せいきごろかんはかあと発見はっけんされている。

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 縄文じょうもんはいつから!? 地球ちきゅう環境かんきょう変動へんどう縄文じょうもん文化ぶんか新泉しんいずみしゃ 2011ねん
  2. ^ 吉野よしのさと遺跡いせき紹介しょうかい > かん墓列ぼれつ > 発掘はっくつ調査ちょうさ」、吉野よしのさと遺跡いせき、2017ねん9がつ2にち閲覧えつらん
  3. ^ 吉野よしのさと遺跡いせき紹介しょうかい > きた墳丘ふんきゅう > 発掘はっくつ調査ちょうさ保存ほぞん」、吉野よしのさと遺跡いせき、2017ねん9がつ2にち閲覧えつらん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]