(Translated by https://www.hiragana.jp/)
石津太神社 - Wikipedia コンテンツにスキップ

石津いしづふとし神社じんじゃ

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』
石津いしづふとし神社じんじゃ
所在地しょざいち 大阪おおさかさかい西にし浜寺石津はまでらいしづ町中まちなか4ちょう12-7
位置いち 北緯ほくい3433ふん24びょう 東経とうけい13527ふん12びょう / 北緯ほくい34.55667 東経とうけい135.45333 / 34.55667; 135.45333座標ざひょう: 北緯ほくい3433ふん24びょう 東経とうけい13527ふん12びょう / 北緯ほくい34.55667 東経とうけい135.45333 / 34.55667; 135.45333
主祭しゅさいしん 蛭子えびすいのち
八重やえ事代ことしろ主命しゅうめい
てんいのち
社格しゃかくひとし 式内しきないしゃしょう
きゅう村社そんしゃ
創建そうけんつて孝昭たかあき天皇てんのう7ねん紀元前きげんぜん469ねん
本殿ほんでん様式ようしき 一間いっけんしゃ流造ながれづくり一間いっけんしゃ春日しゅんじつづくり
例祭れいさい 10月5にちちか土曜日どようび
おも神事しんじ 十日とおかえびす初午はつうま八幡やはたさい、やっさいほっさい
テンプレートを表示ひょうじ
石津太神社の位置(日本内)
石津太神社
石津いしづふとし神社じんじゃ

石津いしづふとし神社じんじゃ(いわつたじんじゃ)は、大阪おおさかさかい西にしにある神社じんじゃである。きゅう社格しゃかく村社そんしゃ

同市どうしさかい石津いしづまち石津いしづ神社じんじゃ(いしづじんじゃ)とともに、式内しきない小社しょうしゃ和泉いずみこく大鳥おおどりぐん 石津いしづふとし神社じんじゃ」のろんしゃであり、どちらも「日本にっぽん最古さいこえびすしゃ」をしょうしている。

祭神さいじん[編集へんしゅう]

蛭子えびすいのち八重やえ事代ことしろ主命しゅうめいてんいのち石津いしづれん祖神そしん)をおも祭神さいじんとし、てんあきら大神おおがみ(靱大神宮じんぐう)をはいまつする。神社じんじゃ合祀ごうしによりけん御名ぎょめいかたとみいのちわせまつる。

歴史れきし[編集へんしゅう]

このもと浜辺はまべであり、伝承でんしょうでは、奘諾いのち奘册いのちによってながされた蛭子えびすいのちがこの漂着ひょうちゃくし、たずさえてきた五色ごしき神石じんせきいたという。蛭子えびすいのち漂着ひょうちゃくした場所ばしょを「石津いしづいわおさん」、「五色ごしきいし」をいた場所ばしょを「石津いしづ」という。鳥居とりいまえ交差点こうさてんに「五色ごしきいし」を地下ちかめたとされる場所ばしょがあり、その場所ばしょしめ地上ちじょう部分ぶぶんいしかれている。

孝昭たかあき天皇てんのう7ねん8がつ10日とおか勅命ちょくめいにより蛭子えびすいのちまつ社殿しゃでん造営ぞうえいし、八重やえ事代ことしろ主命しゅうめいてんいのち合祀ごうしした。平安朝へいあんちょう以後いご朝廷ちょうてい崇敬すうけいけ、幾度いくど御幸みゆき記録きろくもある。かつては広大こうだい社領しゃりょうゆうしていたが、元和がんわ年間ねんかん以後いごすう兵火へいかにより社殿しゃでん焼失しょうしつした。豊臣とよとみ秀吉ひでよし大阪城おおさかじょう築城ちくじょうしたさい裏鬼門うらきもん鎮守ちんじゅしんとして崇敬すうけいし、木村きむら重成しげなり社殿しゃでん復興ふっこうのために黄金おうごん寄進きしんした。明和めいわ5ねんかみさつ頒布はんぷについて係争けいそうしていた西宮にしのみや神社じんじゃ西宮にしのみやえびす)と和解わかいした。全国ぜんこく崇敬すうけいしゃがあり、明和めいわ6ねんには江戸えど湯島天神ゆしまてんじんすわ神社じんじゃ出開帳でがいちょうをしている。

石津川いしづがわ北岸ほくがん大阪おおさかわん手前てまえ河口かこうには、あしぶねった蛭子えびすいのちえびす大神おおがみ)が漂着ひょうちゃくしたとつたえられる場所ばしょがあり、現在げんざい御旅所おたびしょとしてまつられている。

明治めいじ5ねん1872ねん)に村社そんしゃれつかくした。明治めいじ41ねん浜寺はまでらむら大字だいじ船尾せんび諏訪すわ神社じんじゃ合祀ごうしした。

鳥居とりいまえには紀州きしゅう街道かいどう南北なんぼくはしっている。

社殿しゃでん[編集へんしゅう]

江戸えど時代じだい前期ぜんき造営ぞうえいされた本殿ほんでん殿どのあり、蛭子えびすいのち八重やえ事代ことしろ主命しゅうめいてんいのちまつきた殿どのいちあいだしゃ流造ながれづくりけん御名ぎょめいかたとみいのちてんあきら大神おおがみまつ南殿なんでんいちあいだしゃ春日かすがづくりである。たかられき年間ねんかん造営ぞうえいされたりょう殿しんがり共有きょうゆうするわり拝殿はいでん入母屋いりもやづくりとなっている。

境内けいだい末社まっしゃいわおさん稲荷いなりしゃ八幡やはた神社じんじゃ白蛇しろへびしゃがある。

境内けいだいには、蛭子えびすいのちこしけたとわれる大石おおいし存在そんざいする。蛭子えびすいのち漂着ひょうちゃくされたと伝承でんしょうされる御旅所おたびしょ石津川いしづがわ北岸ほくがんもと海岸かいがんにある。

鳥居とりい扁額へんがく三条さんじょう実美みみ参拝さんぱいいたとされている。

祭事さいじ[編集へんしゅう]

毎年まいとし12月14にちには「泉州せんしゅうさい」とわれる「ヤッサイホッサイまつり」とばれる火祭ひまつりおこなわれる。これは、往古おうこ蛭子えびすいのち漂着ひょうちゃくしたさい付近ふきん住民じゅうみん篝火かがりびいてむかえたとちなむ。

ねがごといたかみった108たばのご神木しんぼく参道さんどうんで神職しんしょく点火てんかし、えてたおれた方角ほうがく吉凶きっきょううらなう。ひがしたおれることを「おかましや」といい豊穣ほうじょうに、西にしたおれることを「はまましや」といい豊漁ほうりょうになるとわれる。いでえびすしん仮装かそうした神人しんじんを3にん男衆おとこしゅかつぎ、火渡ひわたを3かえ社地しゃちを3しゅうするさいに「やっさいほっさい」と掛声かけごえをする。えびすしん火渡ひわたりがわると参拝さんぱいしゃたちが火渡ひわたりをおこなう。もみしたはいがらは、歯痛しつうなどのいためや厄除やくよけになるとしんじられている[1]

なお、類似るいじした名称めいしょうまつりとして、千葉ちばけん木更津きさらづおこなわれる「やっさいっさい」があるが、こちらは火渡ひわた行事ぎょうじではなくおどりであるため無関係むかんけいである。

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

  • ふとん太鼓たいこ
  • 泉大津いずみおおつ教育きょういく支援しえんセンターきゅう泉大津いずみおおつ市立しりつえびす小学校しょうがっこう」) - 当社とうしゃより事代ことしろ主命しゅうめいを「えびす大明神だいみょうじん」として勧請かんじょうした場所ばしょで、のち小学校しょうがっこう建設けんせつされた。現在げんざい小学校しょうがっこう他校たこう合併がっぺい移転いてんし、「えびす」は周囲しゅうい地名ちめいとしてのこっている[2]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ 合田あいだ一道いちどう日本にっぽんさいあおゆみしゃ、1996ねんISBN 4787231308、pp.213-219.
  2. ^ 泉大津いずみおおつの「最初さいしょだんしりこう - 「さかい泉州せんしゅうだい10ごう

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]