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ぶくいっじん

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ふくば はやと

ぶく いっじん
生誕せいたん 1856ねん12月13にち
島根しまねけん
死没しぼつ (1921-05-19) 1921ねん5月19にち(64さいぼつ
墓地ぼち 青山あおやま霊園れいえん4-1イ-7-1
国籍こくせき 日本の旗 日本にっぽん
職業しょくぎょう 造園ぞうえん園芸えんげい官僚かんりょう農学のうがくしゃ
著名ちょめい実績じっせき 新宿しんじゅく御苑ぎょえん
おや 佐々布さそうあつ
養父ようふ: ぶく美静よししず
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ぶく いっじん(ふくば はやと/いつじん安政あんせい3ねん11月16にち1856ねん12月13にち) - 大正たいしょう10ねん1921ねん5月19にち)は、日本にっぽん造園ぞうえん園芸えんげい官僚かんりょう農学のうがくしゃ位階いかい勲等くんとうせいさん勲一等くんいっとう[1]爵位しゃくい子爵ししゃく[1]みや内省ないせいなが宮廷きゅうてい園芸えんげい技師ぎしとして活躍かつやく小豆島しょうどしまオリーブや「ぶくいちご」としてられるイチゴなど植物しょくぶつ栽培さいばい花弁はなびら果樹かじゅ野菜やさいとう品種ひんしゅ改良かいりょうなど園芸えんげい分野ぶんやおお貢献こうけんをしたほか、新宿しんじゅく御苑ぎょえんをはじめとするみや内省ないせい管轄かんかつ庭園ていえんとう整備せいび武庫むこ離宮りきゅう須磨すま離宮りきゅう)の庭園ていえん設計せっけい栗林公園りつりんこうえんきたにわおよび日比谷公園ひびやこうえん西洋せいよう花壇かだん設計せっけいたった。

来歴らいれき人物じんぶつ[編集へんしゅう]

石見いわみこく津和野つわのはんにて津和野つわの藩士はんし佐々布さそうとぎあつ三男さんなんとしてまれる。ちちとは3さいのときに死別しべつした。1872ねん明治めいじ5ねん)、16さいのとき、国学こくがくしゃどう藩士はんしぶく美静よししず養子ようしとなる。そのとし上京じょうきょうすることになった実兄じっけいたのんで従僕じゅうぼくとして同行どうこうする。上京じょうきょうしてからは最初さいしょきゅう津和野つわの藩主はんしゅ亀井かめい茲監設立せつりつしていたつちかえたちじゅくき、ドイツそのまなび、1874ねん明治めいじ7ねん)、溜池ためいけ開校かいこうしたこうしょう工学こうがくりょう(のちのこうだい学校がっこう)の小学校しょうがっこう入学にゅうがくした。

工学こうがくりょう小学校しょうがっこうこうだい学校がっこうであり、少年しょうねん時代じだいから回顧かいころく[注釈ちゅうしゃく 1]にあるが、幼少ようしょうころからうめかきなどのはて樹木じゅもくそだて、うめかききくなどの栽培さいばいつよ興味きょうみっていたぶくには数学すうがく物理ぶつりがくせいわなかったためか、よく1875ねん明治めいじ8ねん)に内藤ないとう新宿しんじゅく試験しけんしょ実習じっしゅうせいとなる。1877ねん明治めいじ10ねん)には津田塾つだじゅくおこした津田つだ梅子うめこ実父じっぷ津田つだせん主宰しゅさいするがくのうしゃのう学校がっこう入学にゅうがく農学のうがく農芸のうげい化学かがくおさめる。『だい日本にっぽんのう』には「伝習でんしゅう希望きぼうしゃヨリ適当てきとうナルしゃ選抜せんばつシー(中略ちゅうりゃく明治めいじじゅういちねん日給にっきゅうあらためメテのう毫、なましょうス」とあり、ぶくはごくわずかのあいだではあるが、日給にっきゅう30ぜに支給しきゅうされる伝習でんしゅうせいという立場たちば雑多ざった農業のうぎょうじつおさむ従事じゅうじしていたとかんがえられる。また当時とうじ試験場しけんじょうには、松方まつかた大久保おおくぼべいおう旅先たびさきからおくったなえや、きゅう薩摩さつまはんのち山梨やまなし県知事けんちじのう商務しょうむ次官じかんになる前田まえだ正名まさながフランスから大量たいりょうかえったりんごぶどうなえなどもえられており、とくにぶどうはどう果樹かじゅ栽培さいばい技術ぎじゅつ確立かくりつ主要しゅよう目標もくひょうひとつであった。

1878ねん明治めいじ11ねん)に内務省ないむしょうすすむのうきょく試験場しけんじょうはいり、農事のうじ修学しゅうがくしょ勤務きんむ農業のうぎょう園芸えんげい実習じっしゅう加工かこう製造せいぞうとげ鑚する。1879ねん明治めいじ12ねん)、三田みた育種いくしゅじょうつめ植物しょくぶつ御苑ぎょえんかけとなる。果樹かじゅ栽培さいばいかんして山梨やまなし兵庫ひょうご和歌山わかやま地方ちほうなどを調査ちょうさし、日本にっぽん随一ずいいち先進地せんしんち甲州こうしゅうへの調査ちょうさ結果けっかをもとにぶどう栽培さいばい利点りてんをとりまとめた長編ちょうへんの『葡萄ぶどうえん開設かいせつろん』を作成さくせいすると、翌年よくねん、フランスから帰国きこくした松方まつかた正義まさよしすすむのうあたま大蔵おおくら大輔だいすけ兼務けんむ)に提出ていしゅつした。その一介いっかい農業のうぎょうせいぎず、またぶどう栽培さいばいかんする特別とくべつ知識ちしき経験けいけんのないぶくに、重要じゅうよう任務にんむまかされた理由りゆうなどは自身じしんのこした『回顧かいころく』にもなにしるされていないが、このことがそのぶく運命うんめいめた主因しゅいんであったとかんがえられ、同年どうねんには甲州こうしゅうのぶどう栽培さいばい現地げんち調査ちょうさめいじられる一方いっぽう兵庫ひょうごけん加古かこぐんげん稲美いなみまち)に国立こくりつ播州ばんしゅう葡萄ぶどうえん設立せつりつ、1886ねん明治めいじ19ねん)にどうえん園長えんちょうとなる。

ほか、欧州おうしゅう園芸えんげい実地じっち研究けんきゅうのためイタリアフランス派遣はけんされ、その米国べいこく巡回じゅんかいして帰国きこくした。1889ねんパリ万国博覧会ばんこくはくらんかい視察しさつする。また、ヨーロッパと北米ほくべい出張しゅっちょう訪問ほうもんした。これは明治めいじ18ねん(1885ねん)のなつ台風たいふうにより播州ばんしゅうぶどうえん甚大じんだい被害ひがいけて再起さいき不能ふのう状態じょうたいおちいったことを、一時いちじ不幸ふこう慨嘆がいたんしたと回顧かいころくしるしているが、その憤懣ふんまん本場ほんば欧州おうしゅうとくにフランスでのぶどう栽培さいばい、ワイン醸造じょうぞう園芸えんげい視察しさつおよびその技術ぎじゅつ学習がくしゅう習得しゅうとく意欲いよく転換てんかんし、留学りゅうがく決心けっしんしたともべている。しかしながら当時とうじ政府せいふ財政ざいせいきびしく、また、一介いっかいのう商務省しょうむしょう吏員りいん熱望ねつぼうすればかなえられるというものではなかったとし、大蔵おおくら大臣だいじん松方まつかた正義まさよしのう商務しょうむ大輔だいすけ品川しながわ弥二郎やじろうおよび大蔵おおくらのう商務しょうむだい書記官しょきかん前田まえだ正名まさなんで、ようやくそのとしあきごろには出張しゅっちょう許可きょか目途もくとをつけたとしている。よほどのことがなければ閣僚かくりょう支援しえんることなどは困難こんなんであったが、大久保おおくぼいのちによりワインづくりにみ、松方まつかた品川しながわともしたしかった薩摩さつまはん出身しゅっしん前田まえだ正名まさながフランスからかえったぶどうを播州ばんしゅうぶどうえん精魂せいこんこめてそだてたのがぶくであった。しかし、ぶく留学りゅうがく公費こうひ留学りゅうがくであったため、内閣ないかく決裁けっさい必要ひつようであり、最終さいしゅう決裁けっさいしゃ伊藤いとう博文ひろぶみ総理そうり大臣だいじん同意どういだったという。ぶく総理そうり直接ちょくせつ留学りゅうがく目的もくてき必要ひつようせい、すなわち日本にっぽん農業のうぎょう発展はってんにはぶどう栽培さいばい、ぶどうしゅ醸造じょうぞううまでもなく、欧州おうしゅう果樹かじゅ花卉かき蔬菜そさい園芸えんげい技術ぎじゅつ導入どうにゅうもっときゅうようする課題かだいであり、自分じぶん留学りゅうがく目的もくてきがそこにあることを執拗しつよう説明せつめいして、ようやく欧州おうしゅう留学りゅうがくみちをこじけたとしているが、前田まえだ支援しえんがあったことは想像そうぞうかたくない。

1890ねんのう商務省しょうむしょう技師ぎし就任しゅうにん東京とうきょう農林のうりん学校がっこう帝国ていこく大学だいがくのう大学だいがく兼務けんむとなり、はじめて園芸えんげいがく担当たんとうした。1891ねん明治めいじ24ねん)から御料ごりょうきょく技師ぎしとして内匠たくみりょう勤務きんむ

1896ねん明治めいじ29ねん)、みや内省ないせい式部しきぶかん兼務けんむし、伏見ふしみみやさだあい親王しんのうロシア随行ずいこう。これもロシア皇帝こうていニコライ2せい戴冠たいかんしき親王しんのう参列さんれつすることをき、その随員ずいいんとなって、ロシアのほか欧州おうしゅう皇室こうしつえんえんようと目論もくろんだものである。政府せいふ特命とくめい全権ぜんけん大使たいしとして山縣やまがた有朋ありとも派遣はけんすることにしていたので、すで面識めんしきがあったぶくのごりしにも好都合こうつごうだったとおもわれるが、このぶく要求ようきゅう当時とうじ上司じょうしとして積極せっきょくてき支援しえんしていた岩村いわむら御料ごりょう局長きょくちょうでさえ尻込しりごみし、ぶくはやむなく内務ないむ大臣だいじんになっていた前任ぜんにん品川しながわ弥二郎やじろうたすけをもとめた結果けっか最終さいしゅう決裁けっさいしゃへの請願せいがんみちあたえられた。その相手あいてしくも、1892ねん明治めいじ25ねん)8がつからだい5だい内閣ないかくひきいていた伊藤いとう博文ひろぶみであった。このときぶく伊藤いとうの「はよーそれ むつかしき」と否定ひていする言葉ことばをさえぎり、目的もくてきをるる陳述ちんじゅつした結果けっかのち田中たなかひかりあきら宮内みやうち大臣だいじんから随員ずいいんとして内定ないていしたむね通知つうちったという。

1897ねん明治めいじ30ねん)には植物しょくぶつ御苑ぎょえんかけちょうになり、ルソン島るそんとうマニラ調査ちょうさ出張しゅっちょうする。1899ねん明治めいじ32ねん)にロシアとフランスへ出張しゅっちょうよく1900ねん明治めいじ33ねん)にもパリ万国博覧会ばんこくはくらんかい出展しゅってん園芸えんげいぶつ審査しんさにフランスのパリ出向でむき、博覧はくらんかい園芸えんげい万国ばんこく会議かいぎれっする。その合間あいまにベルサイユ園芸えんげい学校がっこう校長こうちょうアンリ・マルチネ御苑ぎょえん改造かいぞう相談そうだん計画けいかく指導しどう依頼いらいしている[よう出典しゅってん]和洋わよう様式ようしき混在こんざいした造園ぞうえんとして面積めんせき18まんつぼめる新宿しんじゅく御苑ぎょえんは、2ねんから5年間ねんかんかけて完成かんせいさせる。じゅうすうねんまえから多種たしゅ多様たよう内外ないがいじゅくさ育成いくせい準備じゅんびしたため、わずかな経費けいひ豪華ごうかにして優麗ゆうれいだい庭園ていえん改造かいぞうした。

同年どうねん西欧せいおうふう公園こうえんである日比谷公園ひびやこうえん建設けんせつさい造営ぞうえい委員いいんかいくわわる。園芸えんげい花壇かだん設計せっけいおよび花壇かだん造成ぞうせい指揮しきをとり、西欧せいおう園芸えんげいいきをきわめた花壇かだん出現しゅつげんさせる。その新宿しんじゅく試験場しけんじょうあと植物しょくぶつ御苑ぎょえん発足ほっそくたり、1891ねんみや内省ないせい御料ごりょうきょく技師ぎし任命にんめいされ、1903ねんには植物しょくぶつ御苑ぎょえんえんちょう就任しゅうにん御苑ぎょえん改造かいぞう完成かんせいの1904ねん明治めいじ37ねん)にはみや内省ないせい内苑ないえん局長きょくちょうくと全般ぜんぱん指揮しきをとる立場たちばとなった。以後いごみや内省ないせい大正たいしょう6ねん退職たいしょくまで奉職ほうしょくする。

1906ねん明治めいじ39ねん)には東京とうきょう依頼いらいで、市内しない街路がいろじゅ試験しけん研究けんきゅうを受嘱する。長年ながねん経験けいけんもとに、白沢しらさわ保美やすみ協力きょうりょく立案りつあんスズカケノキ挿穂2まんほんユリノキ種子しゅしすうしゅを交附し育成いくせい指導しどうした結果けっか、3ねん街路がいろ樹木じゅもく育成いくせい定植ていしょくさせた。

武庫むこ離宮りきゅうげん須磨すま離宮りきゅう公園こうえん

1907ねん明治めいじ40ねん)8がつ22にち爵位しゃくい継承けいしょう[3]。また、大韓たいかん帝国ていこくあきらけいみや建設けんせつするガラス張がらすば温室おんしつ設計せっけいおこなった[4]。1908ねん明治めいじ41ねん)に武庫むこ離宮りきゅう現在げんざい須磨すま離宮りきゅう公園こうえん)の庭園ていえん設計せっけいおこなった。そのほか邸宅ていたく庭園ていえんでは、おうてい溝口みぞぐち伯爵はくしゃくてい改良かいりょう麻布あざぶ鳥居とりいさかまち佐々木ささきていなどをがける。また小沢おざわけい次郎じろう別府べっぷ公園こうえん明治めいじ41ねん)は、ぶく推薦すいせんによる。その明治めいじ43ねんまで欧米おうべい視察しさつをし、日本にっぽん西欧せいおう園芸えんげいがく導入どうにゅうし、学問がくもんとしての基礎きそきずいた。

1913ねん大正たいしょう2ねん)に大膳だいぜんあたまならびに内匠たくみりょう御用ごようかけ就任しゅうにん。これは翌年よくねん京都きょうと二条城にじょうじょうおこなわれる大正天皇たいしょうてんのう即位そくいれい大饗おわい」の指揮しき監督かんとくかんになったものであった。ぶくはこれまでにも新宿しんじゅく御苑ぎょえんにおいて栽培さいばいした西洋せいよう野菜やさい果物くだもの宮中きゅうちゅう晩餐ばんさんかいもちいたり、ようランなどの花卉かき会場かいじょう装飾そうしょくするなどの饗宴きょうえん手掛てがけ、また海外かいがい留学りゅうがく渡航とこう実績じっせき国内外こくないがい国家こっか行事ぎょうじへの知識ちしき経験けいけん豊富ほうふであったこともこう評価ひょうかされ、大正たいしょう4ねんおこなわれる大饗おわい指揮しきかんだい抜擢ばってきされる。

抜擢ばってきにはぶく自身じしんも「予想よそうがい人事じんじであった」というおどろきがあり、また「千載一遇せんざいいちぐう機会きかい」とのおもいで承諾しょうだくしたとかたっている。そして大正たいしょう4ねん報告ほうこくしょ大饗おわいごと』をあらわし、大正天皇たいしょうてんのう即位そくいれいのちおこなわれる宮中きゅうちゅう食事しょくじかいだいきょうについて、献立こんだて材料ざいりょう調達ちょうたつ会場かいじょう設備せつび室内しつない装飾そうしょく、スケジュール、職員しょくいん心得こころえなどを事細ことこまかに記録きろくした。報告ほうこくしょ序文じょぶんには「だいきょう国家こっか儀式ぎしきのなかでもっと重要じゅうようなもの」で「式典しきてん関与かんよするものもっともは慎重しんちょう誠実せいじつにこの儀式ぎしき遂行すいこうしなければならない」としるしている。このとき部下ぶか料理人りょうりにん秋山あきやま徳蔵とくぞうなどがいる[注釈ちゅうしゃく 2]

1917ねん大正たいしょう6ねん)7がつ21にち大膳だいぜんあたまなみ内匠たくみりょう御用ごようかけ退任たいにんし、せいさん勲一等くんいっとう瑞宝章ずいほうしょう宮中きゅうちゅう顧問こもんかんとなる[6]。1919ねん大正たいしょう8ねん)、農学のうがく博士はかせ授与じゅよされている。

ぶくいっじんきく[編集へんしゅう]

隣家りんか毎年まいとしきく花壇かだんもうけてきく自慢じまんをしていたひとがいたことから、はやくから、きく変化へんか観賞かんしょうはなであることをり、きくきになっていったとおもわれる。がくのうしゃはいったころ薩摩さつまはん出身しゅっしん司法しほう官僚かんりょうで、民法みんぽうてん編纂へんさん委員いいんをもつとめた水本みずもと成美まさみきく栽培さいばい鑑別かんべつかんする薫陶くんとうけたとされるが、駿河台するがだい自邸じていきく花壇かだんもうけて近隣きんりん住民じゅうみん観覧かんらんさせるきく栽培さいばいとしても著名ちょめいであった。ぶく明治めいじ24ねんみや内省ないせいきょく技師ぎし異動いどうし、内匠たくみりょう兼務けんむとなって植物しょくぶつ御苑ぎょえん再興さいこうたしたのち明治めいじ31ねんまつには内匠たくみりょう技師ぎし新宿しんじゅく植物しょくぶつ御苑ぎょえんかけちょう拝命はいめいし、その責任せきにんしゃとなったが、そのころ以前いぜんからばんまち自宅じたくきく植物しょくぶつ御苑ぎょえんんで試験しけん栽培さいばいしていたなかからだいつくりにてきした優良ゆうりょうしゅ作出さくしゅつするなど、きく栽培さいばい技術ぎじゅつ向上こうじょうさせていたという。このようなぶく努力どりょくにより、明治めいじ33ねんにパリで開催かいさいされた万博ばんぱくではフランスのきく使用しようし、また日本にっぽんとはことなる気候きこうなどの条件下じょうけんかではあったが、市川いちかわゆうらとともに苦心くしんして仕立したてた大造たいぞうきく各国かっこく審査しんさかん驚嘆きょうたんせしめたようである。

イチゴの栽培さいばいへの貢献こうけん[編集へんしゅう]

ぶくいっじん日本にっぽんにおけるイチゴ栽培さいばいへの貢献こうけんられている。西洋せいようイチゴの日本にっぽんでの栽培さいばい輸入ゆにゅうしたなえ輸送ゆそうちゅうにかれるなどなかなか成功せいこうしなかった。ぶくはフランスのヴィルモラン商会しょうかいからせたジェネラル・シャンジーしゅ種子しゅし新宿しんじゅく御苑ぎょえん実生みしょうさせ、なえなかおおきな果実かじつがつくものをえらび、1899ねんに「ぶく」というしん品種ひんしゅとして発表はっぴょうした。新宿しんじゅく御苑ぎょえん皇室こうしつのための栽培さいばいえんのため、一般いっぱん栽培さいばい許可きょかがされたのは1919ねんからとなったが、「ぶく」から改良かいりょうされたイチゴの品種ひんしゅには、1980年代ねんだい後半こうはんから1990ねんはじめに、作付さくづ面積めんせきの50%ちかくをめた品種ひんしゅおんなほう」などがある[注釈ちゅうしゃく 3]

栄典えいてん[編集へんしゅう]

位階いかい
勲章くんしょうとう
外国がいこく勲章くんしょう佩用はいよう允許いんきょ
  • 1890ねん明治めいじ23ねん)3がつ12にち - フランス共和きょうわこく農事のうじ有功ゆうこう記章きしょう[16]
  • 1896ねん明治めいじ29ねん)12月1にち - ロシア帝国ていこく神聖しんせいスタニスラスだいとう勲章くんしょう[17]
  • 1901ねん明治めいじ34ねん)2がつ27にち - ロシア帝国ていこく神聖しんせいアンナだいとう勲章くんしょう[18]
  • 1903ねん明治めいじ35ねん)3がつ28にち - ロシア帝国ていこく金剛石こんごうせき装飾そうしょく神聖しんせいアンナだいとう勲章くんしょう[19]
  • 1907ねん明治めいじ40ねん)11月1にち - イタリア王国おうこく王冠おうかんだいとう勲章くんしょう[20]

著述ちょじゅつ[編集へんしゅう]

おも著作ちょさくに「甲州こうしゅう葡萄ぶどう栽培さいばいほう」(明治めいじ14ねん)、『果樹かじゅ栽培さいばい全書ぜんしょ』(ぜん4さつ明治めいじ29ねん)、『紀州きしゅう柑橘かんきつろく』(1882ねん)など。明治めいじ26ねん蔬菜そさい総論そうろん各論かくろんけてろんじた『蔬菜そさい栽培さいばいほう』をあらわしている。94しゅ野菜やさいあつかい、明治めいじ中期ちゅうき野菜やさい栽培さいばい事情じじょう水準すいじゅんそうまとめとして編纂へんさんされ[21]改版かいはんされた[22]

1903ねんごろ新宿しんじゅく御苑ぎょえん園芸えんげい見習みならいせい講義こうぎした筆記ひっきろく園芸えんげいろん」のなかに「花園はなぞの及庭えんろんがあり、社団しゃだん法人ほうじん日本にっぽん公園こうえん緑地りょくち協会きょうかいにより活字かつじされた。

  • 『疏菜栽培さいばいほうはやしみずのえわけ)、中国ちゅうごく : 出版しゅっぱんしゃ不明ふめいひかりいとぐち年間ねんかん
  • 園藝えんげいろん』2かんぶくいっじん講演こうえん)、書写しょしゃしゃ不明ふめい明治めいじ。「まきノ1」「まきノ2」文字もじ資料しりょう書写しょしゃ資料しりょう)。べつだいは『園藝えんげいろん : 西洋せいよう蔬菜そさい』。
  • 園藝えんげいがくおもねとぎ栽培さいばい製油せいゆほう』、ぶくいっじん講演こうえん)、書写しょしゃしゃ不明ふめい、1892ねん明治めいじ25ねん)、文字もじ資料しりょう書写しょしゃ資料しりょう)。
  • 蔬菜そさい栽培さいばいほう : ちょん』、博文ひろぶみかん、1893ねん
  • 果樹かじゅ栽培さいばい全書ぜんしょ』、博文ひろぶみかん、1896ねんだい1かんだい2かんだい3かんだい4かん
  • 農学のうがく叢書そうしょだい3しゅう
    • 果樹かじゅ栽培さいばい全書ぜんしょぜん3かん、沈紘(わけ)、江南こうなんそうのうかい、1901ねんひかりいとぐち27ねん)。
    • 蔬菜そさい栽培さいばいほう」6へんはやしみずのえわけ)、江南こうなんそうのうかい、1901ねんひかりいとぐち27ねん)。
  • 園芸えんげい報告ほうこく」『せんきゅうひゃくねん巴里ぱりまん国大こくだい博覧はくらんかい』、のう商務省しょうむしょう、 1902ねん全国ぜんこく書誌しょし番号ばんごう:40033869
  • 果樹かじゅ蔬菜そさい高等こうとう栽培さいばいろん』、博文ひろぶみかん、1908ねん
  • 花卉かき栽培さいばいほう : ぶくいっじん遺稿いこう』、ぶく真城まきへん)、ぶく真城しんじょう、1931ねん
  • 回顧かいころく』、国民こくみん公園こうえん協会きょうかい新宿しんじゅく御苑ぎょえん、2006ねんNCID BA78158255
本編ほんぺん
解説かいせつへん国民こくみん公園こうえん協会きょうかい新宿しんじゅく御苑ぎょえんへん)、環境省かんきょうしょう自然しぜん環境かんきょうきょく監修かんしゅう)。

親族しんぞく[編集へんしゅう]

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 2006ねん本人ほんにん記録きろくした『回想かいそうろく』を遺族いぞくから提供ていきょうされ編纂へんさんして上梓じょうしした[2]
  2. ^ 実際じっさいぶくは、料理りょうり特技とくぎひとつとしていた[5]
  3. ^ この「ぶく」は2019ねん7がつ7にち放送ほうそう日本にほんテレビけいザ!鉄腕てつわん!DASH!!」「新宿しんじゅくDASH」ない新宿しんじゅく御苑ぎょえん温室おんしつハウスの内部ないぶ許可きょか潜入せんにゅう観察かんさつしている[7]
  4. ^ むすめ婿むこ北川きたがわおつ治郎じろうはドイツ留学りゅうがくから1890ねん帰国きこく和歌山わかやま県立けんりつ病院びょういんちょうしょくにつく。結婚けっこん義父ぎふ軍医ぐんい横井よこい信之のぶゆき設立せつりつした好生よしおかん病院びょういん院長いんちょうてんじた[25]もり鴎外おうがい紹介しょうかいぶくチヨと結婚けっこんのち三重みえけん高額こうがく納税のうぜいしゃ運送うんそう会社かいしゃ社長しゃちょうだった山中やまなか伝四郎でんしろういもうとみち(1885年生ねんせい)と再々さいさいこん[26]

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ a b 官報かんぽうだい2640ごう叙任じょにん及辞れい」1921ねん5がつ21にち
  2. ^ 広報こうほう みどりみずのひろばだい70ごう Winter 2013、公益社こうえきしゃだん法人ほうじん東京とうきょう公園こうえん協会きょうかい 
  3. ^ 官報かんぽうだい7246ごう明治めいじ40ねん8がつ23にち
  4. ^ あきらけいみや温室おんしつ」はあの当時とうじのまま…1909ねんてられた国内こくないはつ洋風ようふう温室おんしつ”. 東亜日報とうあにっぽう (2017ねん11月8にち). 2017ねん12月6にち閲覧えつらん
  5. ^ 津和野つわの自然しぜん歴史れきしまもかい つわぶき (PDF) だい46ごう 平成へいせい21ねん7がつ
  6. ^ 官報かんぽうだい1493ごう大正たいしょう6ねん7がつ23にち
  7. ^ 『くだもの・やさいの文化ぶんか今井いまい たかしじゅん文理ぶんりかくISBN 4892595209
  8. ^ 官報かんぽうだい3893ごう叙任じょにん及辞れい」1896ねん6がつ22にち
  9. ^ 官報かんぽうだい6766ごう叙任じょにん及辞れい」1906ねん1がつ22にち
  10. ^ a b 官報かんぽうだい1493ごう叙任じょにん及辞れい」1917ねん7がつ23にち
  11. ^ 官報かんぽうだい4949ごう叙任じょにん及辞れい」1899ねん12月28にち
  12. ^ 官報かんぽうだい5492ごう叙任じょにん及辞れい」1901ねん10がつ22にち
  13. ^ 官報かんぽうだい6450ごう叙任じょにん及辞れい」1904ねん12月28にち
  14. ^ 官報かんぽうだい1310ごう付録ふろく辞令じれい」1916ねん12月13にち
  15. ^ 官報かんぽうだい1038ごう叙任じょにん及辞れい」1916ねん1がつ20日はつか
  16. ^ 官報かんぽうだい2011ごう叙任じょにん及辞れい」1890ねん3がつ17にち
  17. ^ 官報かんぽうだい4030ごう叙任じょにん及辞れい」1896ねん12月3にち
  18. ^ 官報かんぽうだい5296ごう叙任じょにん及辞れい」1901ねん3がつ2にち
  19. ^ 官報かんぽうだい5948ごう叙任じょにん及辞れい」1903ねん5がつ4にち
  20. ^ 官報かんぽうだい7308ごう叙任じょにん及辞れい」1907ねん11月6にち
  21. ^ 蔬菜そさい栽培さいばいほうちょん』、1893ねん明治めいじ26ねん)、博文ひろぶみかんdoi:10.11501/840203
  22. ^ 野菜やさい 蔬菜そさい栽培さいばいほう松原まつばら茂樹しげきへん)『明治めいじのうしょ全集ぜんしゅうだい6かんのうやま漁村ぎょそん文化ぶんか協会きょうかい、1984ねんISBN 9784540840197
  23. ^ a b c 平成へいせいしんおさむきゅう華族かぞく家系かけい大成たいせい 1996, p. 438.
  24. ^ 北川きたがわおつ治郎じろう”. コトバンク. 2020ねん8がつ12にち閲覧えつらん
  25. ^ 梅溪ばいけいのぼり洪庵こうあんてきじゅく研究けんきゅう思文閣出版しぶんかくしゅっぱん、1993ねん、652ぺーじ 
  26. ^ 山中やまなか伝四郎でんしろう人事じんじ興信録こうしんろく』(だい8はん)、1928ねん昭和しょうわ3ねん)7がつhttp://jahis.law.nagoya-u.ac.jp/who/docs/who8-23746 
  27. ^ a b ぶくいっじん. 人事じんじ興信録こうしんろく (だい4はん ed.). (1915ねん大正たいしょう4ねん)1がつ). http://jahis.law.nagoya-u.ac.jp/who/docs/who4-9678 
  28. ^ だい島田しまだじんもり 鴎外おうがいひと文学ぶんがくのふるさと(15)」『明治大学めいじだいがく教養きょうよう論集ろんしゅうだい232ごう明治大学めいじだいがく教養きょうよう論集ろんしゅう刊行かんこうかい、1990ねん、199-358ぺーじISSN 0389-6005NAID 120001441111 

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

公職こうしょく
先代せんだい
万里小路まりこうじせいしゅう
日本の旗 大膳だいぜんあたま
1914ねん - 1917ねん
次代じだい
上野うえの季三すえぞうろう
大膳だいぜんあたま事務じむ取扱とりあつかい
日本にっぽん爵位しゃくい
先代せんだい
ぶく美静よししず
子爵ししゃく
ぶく美静よししずだい2だい
1907ねん - 1921ねん
次代じだい
ぶく真城しんじょう