聖書 せいしょ ゆかりの遺 のこ 丘 おか 群 ぐん - メギド、ハツォル、 ベエル・シェバ (イスラエル )
テル・ハツォルの「列 れつ 柱 ばしら 式 しき 建物 たてもの 」
英名 えいめい
Biblical Tels - Megiddo, Hazor, Beer Sheba 仏 ふつ 名 めい
Tels bibliques – Megiddo, Hazor, Beer-Sheba 面積 めんせき
96 ha (緩衝 かんしょう 地域 ちいき 604 ha) 登録 とうろく 区分 くぶん
文化 ぶんか 遺産 いさん 登録 とうろく 基準 きじゅん
(2), (3), (4), (6) 登録 とうろく 年 ねん
2005年 ねん 公式 こうしき サイト
世界 せかい 遺産 いさん センター(英語 えいご ) 使用 しよう 方法 ほうほう ・表示 ひょうじ
聖書 せいしょ ゆかりの遺 のこ 丘 おか 群 ぐん -メギド、ハツォル、ベエル・シェバ[注釈 ちゅうしゃく 1] (せいしょゆかりのいきゅうぐん メギド、ハツォル、ベエル・シェバ)はイスラエルの世界 せかい 遺産 いさん のひとつであり、同 どう 国内 こくない に200ほど残 のこ る遺 のこ 丘 おか (テル)の中 なか でも特 とく に代表 だいひょう 的 てき で、旧約 きゅうやく 聖書 せいしょ にも登場 とうじょう する3つの丘 おか が対象 たいしょう となっている。これらは単 たん に旧約 きゅうやく 聖書 せいしょ で言及 げんきゅう されていることだけに意義 いぎ があるのではなく、古代 こだい の水利 すいり 施設 しせつ の遺構 いこう や、近隣 きんりん 諸 しょ 地域 ちいき の建築 けんちく 様式 ようしき の影響 えいきょう が見 み られる建造 けんぞう 物 ぶつ 跡 あと など、青銅器 せいどうき 時代 じだい から鉄器 てっき 時代 じだい にかけての都市 とし や文化 ぶんか 交流 こうりゅう の様子 ようす を伝 つた えていることも重要 じゅうよう である。
登録 とうろく 対象 たいしょう [ 編集 へんしゅう ]
遺 のこ 丘 おか (テル)とは丘 おか 状 じょう に堆積 たいせき した都市 とし や集落 しゅうらく の遺跡 いせき のことである。西 にし アジア では建材 けんざい に日干 ひぼ しレンガ が用 もち いられることがしばしばあり、都市 とし や集落 しゅうらく は放棄 ほうき されて時間 じかん がたつと、崩 くず れたレンガが堆積 たいせき した丘 おか になる。後 ご の時代 じだい の人々 ひとびと はその丘 おか の上 うえ に都市 とし を築 きず き、その都市 とし が放棄 ほうき されるとさらに盛 も り土 つち が積 つ み上 あ がる。防衛 ぼうえい 的 てき 観点 かんてん などから、丘 おか の上 うえ には時代 じだい を隔 へだ てて複数 ふくすう の都市 とし が建設 けんせつ されることがしばしばあるため、テルは複数 ふくすう の時代 じだい の遺跡 いせき が層状 そうじょう に重 かさ なっている[1] 。それらの年代 ねんだい は、主 しゅ として層 そう 位 い 学的 がくてき 研究 けんきゅう 法 ほう と、土器 どき などの形式 けいしき から判断 はんだん され、放射 ほうしゃ 性 せい 炭素 たんそ 年代 ねんだい 測定 そくてい などの科学 かがく 的 てき 年代 ねんだい 測定 そくてい 法 ほう も併用 へいよう されるようになっている[2] 。
イスラエルには約 やく 200のテルがあり、その大 おお きさは1ha 規模 きぼ から10 ha 規模 きぼ が普通 ふつう だが、ハツォルのように100 ha規模 きぼ のものも例外 れいがい 的 てき に存在 そんざい する[3] 。
テル・メギド全景 ぜんけい
水利 すいり 施設 しせつ の遺構 いこう
テル・メギド (Tel Meggido , ID1108-001) は、イズレエルの谷 たに にある遺跡 いせき で、世界 せかい 遺産 いさん の登録 とうろく 範囲 はんい は 16.05 ha、緩衝 かんしょう 地域 ちいき は 290.85 ha である[4] 。登録 とうろく 範囲 はんい は1966年 ねん に設定 せってい されたメギド古代 こだい 遺跡 いせき 国立 こくりつ 公園 こうえん (Megiddo Antiquities National Park) に含 ふく まれている[5] 。
旧約 きゅうやく 聖書 せいしょ でのメギドへの言及 げんきゅう は、全部 ぜんぶ で11箇所 かしょ にのぼる[6] 。たとえば『ヨシュア記 き 』では、ヨシュア のカナン 征服 せいふく の際 さい にメギドも勢力 せいりょく 圏 けん におさめ、マナセ族 ぞく の領地 りょうち のひとつにしたが、占領 せんりょう できなかったとある[7] 。『士 し 師 し 記 き 』でもマナセ族 ぞく が占領 せんりょう しなかった土地 とち のひとつとして言及 げんきゅう されている[8] 。『士 し 師 し 記 き 』ではその他 た に、いわゆる「デボラの歌 うた 」の一節 いっせつ で、イスラエルの軍勢 ぐんぜい がカナンの軍勢 ぐんぜい と戦 たたか った場所 ばしょ として、メギドに言及 げんきゅう がある[9] 。また、『歴代 れきだい 誌 し 下 した 』では、南 みなみ ユダ王国 おうこく のヨシヤ 王 おう がエジプトのファラオ であるネコ に敗 やぶ れて戦死 せんし した場所 ばしょ として登場 とうじょう する[10] (メギドの戦 たたか い (紀元前 きげんぜん 609年 ねん ) )。
メギドは交通 こうつう の要衝 ようしょう にあり、軍事 ぐんじ 上 じょう の要地 ようち でもあったことから、古戦場 こせんじょう として知 し られていた。新約 しんやく 聖書 せいしょ の『ヨハネの黙示録 もくしろく 』に登場 とうじょう するハルマゲドン (メギドの丘 おか )は、そのような背景 はいけい から、終末 しゅうまつ 論 ろん 的 てき な決戦 けっせん の場 ば として選 えら ばれたとも言 い われている[11] [注釈 ちゅうしゃく 2] 。
テル・メギドの発掘 はっくつ 調査 ちょうさ は1903年 ねん から1905年 ねん 、1925年 ねん から1939年 ねん 、1960年代 ねんだい から1970年代 ねんだい にかけてなど、何 なん 度 ど も行 おこな われており[12] 、最 もっと もよく発掘 はっくつ されたテルという評価 ひょうか もある[6] 。その結果 けっか 、主要 しゅよう な層 そう が20層 そう あり、約 やく 30の都市 とし 遺跡 いせき が積 つ み重 かさ なっていることが明 あき らかになっている[6] 。1920年代 ねんだい から30年代 ねんだい にかけての発掘 はっくつ はシカゴ大学 だいがく の調査 ちょうさ チームによるものだったが、そのときに出 で てきた遺構 いこう には、中 なか が列 れつ 柱 ばしら のような仕切 しき り壁 かべ で区切 くぎ られた細長 ほそなが い部屋 へや が連続 れんぞく する構造 こうぞう 物 ぶつ が含 ふく まれており、調査 ちょうさ チームはソロモン 王 おう の厩舎 きゅうしゃ と推測 すいそく した[13] 。彼 かれ らの推測 すいそく の根拠 こんきょ になったのは『列 れつ 王 おう 記 き 上 うえ 』の記述 きじゅつ で、ソロモン王 おう が建設 けんせつ した都市 とし にメギドが含 ふく まれていることと[14] 、(それとの関連 かんれん 性 せい は明示 めいじ されていないが)戦車 せんしゃ 隊 たい や騎兵隊 きへいたい の町 まち を築 きず いたとされていること[15] による[16] 。のちに、イガエル・ヤディン の調査 ちょうさ ではアハブ 王 おう 時代 じだい の厩舎 きゅうしゃ と位置 いち づけなおされたが、馬 うま に関 かん する具体 ぐたい 的 てき な出土 しゅつど 品 ひん がまったくない上 うえ に、他 た の遺 のこ 丘 おか の類似 るいじ 構造 こうぞう 物 ぶつ では土器 どき が多 おお く発見 はっけん されていて倉庫 そうこ であった可能 かのう 性 せい をうかがわせることなどから、厩舎 きゅうしゃ とする見解 けんかい を疑問 ぎもん 視 し する者 もの もいる[17] 。他 た の遺 のこ 丘 おか の類似 るいじ 構造 こうぞう 物 ぶつ も含 ふく め、それらの「列 れつ 柱 ばしら 式 しき 建物 たてもの 」の正確 せいかく な用途 ようと は、今 いま のところ不明 ふめい のままである[18] 。
最古 さいこ のものは紀元前 きげんぜん 4千年紀 せんねんき にさかのぼる新 しん 石器 せっき 時代 じだい のもので、土器 どき や住居 じゅうきょ 跡 あと が出土 しゅつど している[6] 。青銅器 せいどうき 時代 じだい には、地震 じしん や海 うみ の民 みん による破壊 はかい などを経 へ て、何 なん 度 ど も再建 さいけん されたあとが見受 みう けられる[6] 。鉄器 てっき 時代 じだい の遺構 いこう では、都市 とし に水 みず を供給 きょうきゅう していた地下水 ちかすい を収集 しゅうしゅう する水利 すいり システムが高度 こうど に発達 はったつ していたことも明 あき らかになっている[6] 。
2005年 ねん には、世界 せかい 最古 さいこ のキリスト教 きりすときょう 聖堂 せいどう の跡 あと (Megiddo church ) が発見 はっけん された[19] 。
テル・ハツォル全景 ぜんけい
テル・ハツォル出土 しゅつど の土器 どき
ハツォルの水利 すいり 施設 しせつ 跡 あと
テル・ハツォル (Tel Hazor , ID1108-002) は北部 ほくぶ 地区 ちく の上 うえ ガリラヤ(英語 えいご 版 ばん ) にある遺跡 いせき で、世界 せかい 遺産 いさん としての登録 とうろく 面積 めんせき は 76.9 ha、緩衝 かんしょう 地域 ちいき は 204.6 haである[4] 。イスラエルのテルの中 なか では最大 さいだい 規模 きぼ で[6] [20] 、登録 とうろく 範囲 はんい は1967年 ねん に設定 せってい されたテル・ハツォル国立 こくりつ 公園 こうえん (Tel Hazor National Park) に含 ふく まれている[5] 。
旧約 きゅうやく 聖書 せいしょ では『ヨシュア記 き 』において、カナン人 じん の王 おう ヤビン が支配 しはい する都市 とし として登場 とうじょう するが、周辺 しゅうへん 諸 しょ 都市 とし と連合 れんごう してイスラエルに敵対 てきたい したヤビンが戦 たたか いに敗 やぶ れたため、都市 とし 住民 じゅうみん は皆殺 みなごろ しにされ、町 まち も焼 や き払 はら われたことになっている[21] 。『士 し 師 し 記 き 』では再 ふたた びヤビンが支配 しはい する町 まち として登場 とうじょう するが、ヤビンはデボラ とバラク に打 う ち滅 ほろ ぼされたという[22] 。この2人 ふたり のヤビンは別人 べつじん と捉 とら えられることがある一方 いっぽう で[23] 、前後 ぜんご の記述 きじゅつ の重複 じゅうふく なども視野 しや に入 い れつつ、同 どう 一人物 いちじんぶつ が登場 とうじょう する矛盾 むじゅん した記述 きじゅつ と見 み る者 もの もいる[24] [25] 。『列 れつ 王 おう 記 き 上 うえ 』では、ソロモン 王 おう が要害 ようがい を築 きず いた場所 ばしょ のひとつとしてメギドなどとともに言及 げんきゅう されている[26] 。『列 れつ 王 おう 記 き 下 か 』では、ペカ 王 おう の時代 じだい に、アッシリア の軍勢 ぐんぜい によって占領 せんりょう された都市 とし のひとつとして言及 げんきゅう されており、住民 じゅうみん は連行 れんこう されたという[27] 。
ハツォルの発掘 はっくつ は1928年 ねん に初 はじ めて行 おこな われたが、大 だい 規模 きぼ なものは1950年代 ねんだい にイガエル・ヤディン が指揮 しき する形 かたち で行 おこな われた[12] 。テル・ハツォルが標 しるべ 式 しき 遺跡 いせき と位置 いち づけられたこの発掘 はっくつ の結果 けっか [24] 、かつての大 だい 規模 きぼ な繁栄 はんえい の様子 ようす が明 あき らかになった。ハツォルは紀元前 きげんぜん 2千年紀 せんねんき の時点 じてん で2万 まん 人 にん を擁 よう していたと考 かんが えられているガリラヤ 地方 ちほう の主 しゅ 都 と であり[6] 、青銅器 せいどうき 時代 じだい に何 なん 度 ど か再建 さいけん され、山 やま の手 て にも下町 したまち にも神殿 しんでん や宮殿 きゅうでん が築 きず かれていた[25] 。特 とく に後期 こうき 青銅器 せいどうき 時代 じだい の宮殿 きゅうでん は大 だい 規模 きぼ なものであったが、鉄器 てっき 時代 じだい に入 はい る前 まえ に都市 とし 自体 じたい が破壊 はかい されていた[24] 。この破壊 はかい と、『ヨシュア記 き 』や『士 し 師 し 記 き 』の記述 きじゅつ との関連 かんれん 性 せい ははっきりしていない[24] 。周辺 しゅうへん の都市 とし 遺跡 いせき の破壊 はかい のされ方 かた などと関連付 かんれんづ けつつ、一帯 いったい の破壊 はかい が1世紀 せいき 以上 いじょう にわたる漸次 ぜんじ 的 てき なもので、単一 たんいつ の戦闘 せんとう が原因 げんいん とする見方 みかた を退 しりぞ ける者 もの もいる[28] 。
ハツォルにも水利 すいり 施設 しせつ の跡 あと は残 のこ っており、中期 ちゅうき 青銅器 せいどうき 時代 じだい 、後期 こうき 青銅器 せいどうき 時代 じだい 、鉄器 てっき 時代 じだい それぞれで変化 へんか した遺構 いこう を確認 かくにん することができる[25] 。
テル・ベエル・シェバ
テル・ベエル・シェバの水利 すいり 施設 しせつ
テル・ベエル・シェバ (Tel Beer Sheba , ID1108-003) は、南部 なんぶ 地区 ちく にある遺跡 いせき で、現在 げんざい のベエルシェバ 市街 しがい の郊外 こうがい に位置 いち している[29] 。世界 せかい 遺産 いさん としての登録 とうろく 面積 めんせき は 3.09 ha、緩衝 かんしょう 地域 ちいき は 108.53 ha である[4] 。登録 とうろく 範囲 はんい はテル・ベエル・シェバ国立 こくりつ 公園 こうえん (Tel Beer Sheba national Park) に含 ふく まれている[5] 。
ベエル・シェバは「7つの井戸 いど 」ないし「誓 ちか いの井戸 いど 」の意味 いみ で、その名前 なまえ 自体 じたい が旧約 きゅうやく 聖書 せいしょ の『創世 そうせい 記 き 』と関連 かんれん がある。アブラハム がその地 ち でゲラル の王 おう であるペリシテ人 じん のアビメレク と井戸 いど などに関 かん する誓 ちか いを交 か わしたことが由来 ゆらい とされているからである[30] 。ただし、『創世 そうせい 記 き 』には、アブラハムの子 こ イサク もアビメレクと誓 ちか いを交 か わし、それが都市 とし の名前 なまえ の由来 ゆらい になったという記述 きじゅつ がある[31] 。町 まち の由来 ゆらい が重出 じゅうしゅつ している背景 はいけい として、伝承 でんしょう が一 いち 通 とお りでなかった可能 かのう 性 せい を指摘 してき する者 もの もいる[32] 。また、ベエル・シェバの名 な は『士 し 師 し 記 き 』ほかでパレスチナ 全土 ぜんど を示 しめ す際 さい の南限 なんげん として、しばしば言及 げんきゅう されている[33] 。
テル・ベエル・シェバの発掘 はっくつ 調査 ちょうさ は1960年代 ねんだい から1970年代 ねんだい に行 おこな われた[12] [29] 。紀元前 きげんぜん 4千年紀 せんねんき の遺構 いこう は発見 はっけん されているが、青銅器 せいどうき 時代 じだい に一 いち 度 ど 放棄 ほうき された[25] 。鉄器 てっき 時代 じだい 初期 しょき にようやく再建 さいけん されたが、その間 あいだ の約 やく 2000年間 ねんかん は打 う ち捨 す てられたままであったため[25] 、アブラハムらがいたと考 かんが えられる時代 じだい に人 ひと が住 す んでいた形跡 けいせき は確認 かくにん されていない[29] 。紀元前 きげんぜん 1千年紀 せんねんき の大都市 だいとし の遺構 いこう は発見 はっけん されているが[29] 、破壊 はかい と再建 さいけん が繰 く り返 かえ された[25] 。
テル・ベエル・シェバにも水利 すいり 施設 しせつ の遺構 いこう が残 のこ っているが、2箇所 かしょ 残 のこ っている遺構 いこう はどちらも鉄器 てっき 時代 じだい のものである[25] 。
イスラエル政府 せいふ による推薦 すいせん 書 しょ が世界 せかい 遺産 いさん センターに提出 ていしゅつ されたのは2004年 ねん 1月 がつ 26日 にち のことで、当初 とうしょ の推薦 すいせん 名 めい は「聖書 せいしょ ゆかりの遺 のこ 丘 おか 群 ぐん と古代 こだい 水利 すいり 施設 しせつ 群 ぐん - メギド、ハツォル、ベエル・シェバ」(The Biblical Tels and Ancient Water Systems – Megiddo, Hazor, Beer Sheba / Les tells bibliques et les anciens systèmes d’adduction d’eau –Megiddo, Hazor, Beer-Sheba) だった[34] 。イスラエル当局 とうきょく は遺跡 いせき 丘 おか 群 ぐん と水利 すいり 施設 しせつ 群 ぐん でそれぞれ異 こと なる評価 ひょうか 基準 きじゅん の適用 てきよう を求 もと めていたが、世界 せかい 遺産 いさん 委員 いいん 会 かい の諮問 しもん 機関 きかん である国際 こくさい 記念 きねん 物 ぶつ 遺跡 いせき 会議 かいぎ (ICOMOS) の勧告 かんこく が出 で る前 まえ に、水利 すいり 施設 しせつ に関 かん して申請 しんせい していた評価 ひょうか 基準 きじゅん を取 と り下 さ げていた[35] 。
ICOMOSは取 と り下 さ げられた水利 すいり 施設 しせつ について、それだけを直接的 ちょくせつてき に評価 ひょうか することは行 おこな わなかったが、遺 のこ 丘 おか と水利 すいり 施設 しせつ が持 も つ顕著 けんちょ な普遍 ふへん 的 てき 価値 かち を認 みと めて「登録 とうろく 」を勧告 かんこく した。ただし、登録 とうろく 名 めい については、「古代 こだい 水利 すいり 施設 しせつ 群 ぐん 」を外 はず すようにと条件 じょうけん をつけた[35] 。2005年 ねん の第 だい 29回 かい 世界 せかい 遺産 いさん 委員 いいん 会 かい では、勧告 かんこく 通 どお り、登録 とうろく 名 めい を修正 しゅうせい したうえで登録 とうろく された。
世界 せかい 遺産 いさん としての正式 せいしき 登録 とうろく 名 めい は、Biblical Tels - Megiddo, Hazor, Beer Sheba (英語 えいご )、Tels bibliques – Megiddo, Hazor, Beer-Sheba (フランス語 ふらんすご )である。その日本語 にほんご 訳 やく は資料 しりょう によって以下 いか のような違 ちが いがある。
この世界 せかい 遺産 いさん は世界 せかい 遺産 いさん 登録 とうろく 基準 きじゅん のうち、以下 いか の条件 じょうけん を満 み たし、登録 とうろく された(以下 いか の基準 きじゅん は世界 せかい 遺産 いさん センター公表 こうひょう の登録 とうろく 基準 きじゅん からの翻訳 ほんやく 、引用 いんよう である)。
(2) ある期間 きかん を通 つう じてまたはある文化 ぶんか 圏 けん において、建築 けんちく 、技術 ぎじゅつ 、記念 きねん 碑 ひ 的 てき 芸術 げいじゅつ 、都市 とし 計画 けいかく 、景観 けいかん デザインの発展 はってん に関 かん し、人類 じんるい の価値 かち の重要 じゅうよう な交流 こうりゅう を示 しめ すもの。
この基準 きじゅん は、古代 こだい の交通 こうつう の要衝 ようしょう に建設 けんせつ された都市 とし であり、交易 こうえき 品 ひん の流通 りゅうつう の上 うえ で重要 じゅうよう だっただけでなく、建築 けんちく 様式 ようしき の面 めん でも、エジプト 、シリア などの様式 ようしき との交流 こうりゅう が認 みと められることなどに対 たい して適用 てきよう された[35] 。
(3) 現存 げんそん するまたは消滅 しょうめつ した文化 ぶんか 的 てき 伝統 でんとう または文明 ぶんめい の、唯一 ゆいいつ のまたは少 すく なくとも稀 まれ な証拠 しょうこ 。
この基準 きじゅん は青銅器 せいどうき 時代 じだい から鉄器 てっき 時代 じだい にかけての都市 とし 計画 けいかく や水利 すいり 施設 しせつ などの様子 ようす をよく伝 つた えていることなどに適用 てきよう された[35] 。
(4) 人類 じんるい の歴史 れきし 上 じょう 重要 じゅうよう な時代 じだい を例証 れいしょう する建築 けんちく 様式 ようしき 、建築 けんちく 物 ぶつ 群 ぐん 、技術 ぎじゅつ の集積 しゅうせき または景観 けいかん の優 すぐ れた例 れい 。
この基準 きじゅん は、「聖書 せいしょ の物語 ものがたり を通 つう じて、そこで言及 げんきゅう されている諸 しょ 都市 とし が後 こう の歴史 れきし に強 つよ い影響 えいきょう を及 およ ぼした」ことに対 たい して適用 てきよう された[35] 。
(6) 顕著 けんちょ で普遍 ふへん 的 てき な意義 いぎ を有 ゆう する出来事 できごと 、現存 げんそん する伝統 でんとう 、思想 しそう 、信仰 しんこう または芸術 げいじゅつ 的 てき 、文学 ぶんがく 的 てき 作品 さくひん と直接 ちょくせつ にまたは明白 めいはく に関連 かんれん するもの(この基準 きじゅん は他 た の基準 きじゅん と組 く み合 あ わせて用 もち いるのが望 のぞ ましいと世界 せかい 遺産 いさん 委員 いいん 会 かい は考 かんが えている)。
この基準 きじゅん は、対象 たいしょう となる遺 のこ 丘 おか 群 ぐん が聖書 せいしょ での言及 げんきゅう との組 く み合 あ わせによって、歴史 れきし 的 てき 事件 じけん を伝 つた える証拠 しょうこ となっていることなどに適用 てきよう された[35] 。
^ これら3つの遺 のこ 丘 おか については様々 さまざま な表記 ひょうき の揺 ゆ れが存在 そんざい するが、この記事 きじ では『新 しん 共同 きょうどう 訳 やく 聖書 せいしょ 』(日本 にっぽん 聖書 せいしょ 協会 きょうかい )の表記 ひょうき に従 したが っている。その表記 ひょうき はフィンケルシュタイン & シルバーマン (2009)、長谷川 はせがわ (2013) などの表記 ひょうき とも一致 いっち する。
^ ハルマゲドンの語源 ごげん については異説 いせつ もあるが(cf. 小河 おがわ 陽 よう 訳 わけ (1996) 『ヨハネの黙示録 もくしろく 』岩波書店 いわなみしょてん 、補注 ほちゅう pp.5-6)、世界 せかい 遺産 いさん の推薦 すいせん および評価 ひょうか ・勧告 かんこく ではメギドとする説 せつ が採 と られているので、この記事 きじ では深入 ふかい りしない。
^ 長谷川 はせがわ (2013) pp.40-42
^ 長谷川 はせがわ (2013) pp.50-57
^ ICOMOS (2005) p.122
^ a b c Biblical Tels - Megiddo, Hazor, Beer Sheba : Multiple Locations (World Heritage Centre)
^ a b c The State of Israel (2003) p.81
^ a b c d e f g h ICOMOS (2005) p.123
^ ヨシュア記 き 12章 しょう 1節 せつ - 21節 せつ 、同 どう 17章 しょう 11節 せつ - 12節 せつ 。章 あきら ・節 ふし は新 しん 共同 きょうどう 訳 やく 聖書 せいしょ による。以下 いか 同 おな じ。
^ 士 し 師 し 記 き 1章 しょう 27節 せつ
^ 士 し 師 し 記 き 5章 しょう 19節 せつ
^ 歴代 れきだい 誌 し 下 か 35章 しょう 20節 せつ – 24節 せつ
^ 秋山 あきやま (2005) pp.361, 451
^ a b c ICOMOS (2005) p.125
^ フィンケルシュタイン & シルバーマン (2009) pp.170-171
^ 列 れつ 王 おう 記 き 上 じょう 9章 しょう 15節 せつ
^ 列 れつ 王 おう 記 き 9章 しょう 19節 せつ
^ フィンケルシュタイン & シルバーマン (2009) p.170
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^ ヨシュア記 き 11章 しょう 1節 せつ - 11節 せつ 。
^ 士 し 師 し 記 き 第 だい 4章 しょう 1節 せつ - 24節 せつ 。
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^ a b c d e f g ICOMOS (2005) p.124
^ 列 れつ 王 おう 記 き 上 じょう 9章 しょう 15節 せつ 。なお、文中 ぶんちゅう に直接 ちょくせつ 「要害 ようがい 」の語 かたり は登場 とうじょう しないが、それについては、秋山 あきやま (2005) p.349を参照 さんしょう した。
^ 列 れつ 王 おう 記 き 下 か 15章 しょう 29節 せつ 。
^ フィンケルシュタイン&シルバーマン (2009) p.115
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^ 創世 そうせい 記 き 21章 しょう 22節 せつ - 32節 せつ 。
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