長島ながしま (鹿児島かごしまけん)

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長島ながしま
から大橋おおはし
所在地しょざいち 日本の旗 日本にっぽん鹿児島かごしまけん長島ながしままち
所在しょざい海域かいいき 東シナ海ひがししなかい八代海やつしろかい
座標ざひょう 北緯ほくい3209ふん00びょう 東経とうけい13009ふん00びょう / 北緯ほくい32.15000 東経とうけい130.15000 / 32.15000; 130.15000座標ざひょう: 北緯ほくい3209ふん00びょう 東経とうけい13009ふん00びょう / 北緯ほくい32.15000 東経とうけい130.15000 / 32.15000; 130.15000
面積めんせき 90.79 km²
最高さいこう標高ひょうこう 403 m
長島 (鹿児島県)の位置(九州内)
長島 (鹿児島県)
長島 (鹿児島県)の位置(鹿児島県内)
長島 (鹿児島県)
     
プロジェクト 地形ちけい
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長島ながしま(ながしま)は、天草諸島あまくさしょとうのうち諸浦島しょうらじま伊唐島いからじま獅子ししとうなどとともに長島ながしま列島れっとう構成こうせいするしまひとつ(どう列島れっとうおもとう[1]南北なんぼくやく15キロメートル、東西とうざいやく11キロメートル、面積めんせき90.79平方へいほうキロメートル。全域ぜんいき鹿児島かごしまけん長島ながしままちぞくする。地元じもとでは長島ながしま本島ほんとうあるいは本島ほんとうともばれる。

地理ちり[編集へんしゅう]

しま西岸せいがん東シナ海ひがししなかい北岸ほくがんおよび東岸とうがん八代海やつしろかいかこまれている。南端なんたんはばやく300メートルの黒之瀬戸くろのせと九州きゅうしゅうへだてられており、対岸たいがんかじおりはな阿久根あくね)とのあいだ黒之瀬戸くろのせと大橋おおはしむすばれている。北西ほくせい長島海峡ながしまかいきょうへだてて天草あまくさ下島しもじまのぞみ、島内とうない蔵之元くらのもとこうから天草あまくさ牛深うしぶかこうまで三和さんわ商船しょうせんのフェリーによってむすばれている。北東ほくとうちち瀬戸せとへだてて諸浦島しょうらじまと、から瀬戸せとへだてて伊唐島いからじまとそれぞれ隣接りんせつしており、長島ながしま諸浦しょうらとうあいだちちきょうで、長島ながしま伊唐島いからじまあいだから大橋おおはしむすばれている。長島ながしま西海岸にしかいがん沿いを国道こくどう389ごうが、東部とうぶ県道けんどう47ごう縦断じゅうだんする。

島内とうないだい部分ぶぶん丘陵きゅうりょう地形ちけいであり平地ひらちすくなく耕地こうち面積めんせき全島ぜんとうの20パーセント程度ていどである。暖流だんりゅうあらわれる温暖おんだん気候きこうであり、北東ほくとう海岸かいがん沿いの北方ほっぽうさきにはヘゴ自生じせいがあり鹿児島かごしまけん天然記念物てんねんきねんぶつ指定していされている。また、ふるくから柑橘類かんきつるい栽培さいばいさかんであり、日本にっぽん最初さいしょウンシュウミカン栽培さいばいされた場所ばしょとしてられている[2]しま北西ほくせいリアス式海岸りあすしきかいがんおおくのがあり漁港ぎょこうとして利用りようされてきた。

山岳さんがく[編集へんしゅう]

  • 大中おおなかたけし標高ひょうこう403メートル、最高峰さいこうほう
  • 矢岳やたけ標高ひょうこう402メートル)
  • 行人岳ぎょうにんだけ標高ひょうこう393メートル)

歴史れきし[編集へんしゅう]

長島ながしまふるくは仲島なかじまあるいはだい仲島なかじまばれていた[1]。4世紀せいきごろには当時とうじ有明海ありあけかいから八代海やつしろかいにかけて勢力せいりょくたもっていたこえくんきみ一族いちぞく勢力せいりょくにあり、天草諸島あまくさしょとう島々しまじまとともに天草てんぐさこく肥後ひごこく天草あまくさぐん)の一部いちぶとなっていた[1]。778ねん宝亀ほうき9ねん)11月13にち遣唐使けんとうしふね漂着ひょうちゃくし、このことにちなんだからくまという地名ちめいのこされている。鎌倉かまくら時代じだいしま名前なまえをもとに長島ながしま名乗なのうみ豪族ごうぞくとして領有りょうゆう戦国せんごく時代じだいには相良さがら勢力せいりょくにあったが、1565ねんえいろく8ねん)から1581ねん天正てんしょう9ねん)にかけてこされた幾度いくどかの侵攻しんこうけて居城きょじょう堂崎どうざきじょう落城らくじょう島津しまつ勢力せいりょくくわえられた。このとき肥後ひごこくから薩摩さつまこくぞくすることとなった。江戸えど時代じだいにはだい嶽野たけの牧場ぼくじょうえん国見くにみ牧場ぼくじょうえんなどの牧場ぼくじょうがあり放牧ほうぼくさかんであった。1889ねん明治めいじ22ねん)の町村ちょうそんせい施行しこうともなって東長島ひがしながしまむら東町あずままち)と西長島にしながしまむら長島ながしままち)に分割ぶんかつされたが2006ねん平成へいせい18ねん)に長島ながしままち統合とうごうされている。

地質ちしつ[編集へんしゅう]

長島ながしま地質ちしつ天草諸島あまくさしょとうにもられるはく亜紀あき後期こうきからふるだい三紀みきにかけての地層ちそうぐん基盤きばんとなっており、このうえ鮮新活動かつどうしたこえ火山かざんぐん火山かざん噴出ふんしゅつぶつかさなっている。火山かざん噴出ふんしゅつぶつしまだい部分ぶぶんおおっており基盤きばん地層ちそう地表ちひょう露出ろしゅつしているのは北端ほくたん海岸かいがん沿いのみである。火山かざん噴出ふんしゅつぶつ下層かそう凝灰岩ぎょうかいがん上層じょうそう安山岩あんざんがんまたは輝石きせき安山岩あんざんがんからっており、侵食しんしょくすすんでいるため火山かざん原形げんけいめていない。長島ながしま北部ほくぶには北東ほくとう-南西なんせい方向ほうこう長島ながしま断層だんそうばれる断層だんそうぐんはしっており、断層だんそう沿ってしま全体ぜんたい隆起りゅうき侵食しんしょくされたのち沈降ちんこうしたことでリアス式海岸りあすしきかいがん形成けいせいされた[3][4]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

  1. ^ a b c 荒武あらたけ けんいちろう. “長島ながしままちフィールドワークの記録きろく”. 周縁しゅうえん文化ぶんか交渉こうしょうがくシリーズ8 『天草諸島あまくさしょとう歴史れきし現在げんざい. 関西大学かんさいだいがく. 2022ねん10がつ24にち閲覧えつらん
  2. ^ 神田かんだげんいずみ 『本草ほんぞうあるあいだ』 1738ねん
  3. ^ 町田まちだひろしへん 『日本にっぽん地形ちけい 7 九州きゅうしゅう南西諸島なんせいしょとう』 東京とうきょう大学だいがく出版しゅっぱんかい、2001ねんISBN 4-13-064717-2
  4. ^ 松本まつもと達郎たつおほか 『日本にっぽん地方ちほう地質ちしつ 九州きゅうしゅう地方ちほう』 朝倉書店あさくらしょてん、1973ねん

参考さんこう文献ぶんけん[編集へんしゅう]

  • 長島ながしままち郷土きょうど編集へんしゅう委員いいんかいへん 『長島ながしままち郷土きょうど』 長島ながしま町長ちょうちょう福永ふくなが慶彦よしひこ、1974ねん
  • 東町あずままち郷土きょうどへんさん委員いいんかいへん 『東町あずままち郷土きょうど』 ひがし町長ちょうちょう飯尾いいお裕幸ひろゆき、1992ねん
  • 長島ながしままち郷土きょうど資料しりょうかん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]