風 魔
また
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伝説
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表記 ・読 み
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モデル
[岩槻 ・越谷 周辺 に残 る足跡
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中村 宮内 丞 :未 詳
足立 又 三郎 :未 詳
浜野 将 監 :未 詳 。
- 『
埼玉 苗字 辞典 』によれば、「浜野 」は武蔵 国 では利根川 流域 に多 くある姓 [19]。永 禄 3年 (1560年 )の『関東 幕 注文 』に岩 付 衆 として「浜野 修理 亮 」の名 がみえ、また『武家 雲 箋』所収 文書 に永 禄 12年 (1569年 )の春日 摂津 守 配下 の奉行 として、永 禄 年間 (1558年 - 1570年 )の「高麗 文書 」に太田 資 正 やその子 ・梶原 景政 に従 った人物 として「浜野 弥 六郎 」の名 がみえる[19]。 - 『
越谷 市 史 』には、天正 18年 (1590年 )の徳川 家康 の関東 入国 の後 、新 方領 増林 村 (越谷 市 増林 )に建 てられた仮 御殿 の御殿 番 をしていたという浜野 藤 右 衛門 の子孫 の由緒 書 を載 せている[20]。 - また『
岩槻 市 史料 13民俗 調査 報告 書 2』によると、1982年 当時 、後 出 の、始祖 が風間 出羽守 の子 という雨宮 弥 太夫 家 のあった岩槻 ・黒谷 の約 半数 は「浜野 」姓 で、屋号 「アブラヤ」で村 内 の薬師堂 を創建 した浜野 家 は、古 くから屋号 「ケイッカ」から分 れた屋号 「シモノカタヤ」の雨 宮家 と交流 があった[21]。
- 『
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- 『
新編 武蔵 風土記 稿 』によると、この文書 は、武蔵 国 足立 郡 鴻巣 領 鴻巣 宿 の旧家 ・(小池 )三太夫 の家 に伝 わった。小池 氏 の先祖 は、もと畠山 尾張 守 政長 幕下 の紀州 日高 郡 小池 の領主 だったが、先祖 ・小池 主計 助 が北条早雲 に仕 えて小田原 へ移住 し、その子 ・小池 長門 守 が岩槻 市宿 に居住 、功労 があって鴻巣 領 の原 地 に砦 を築 き、天文 20年 (1551年 )9月 1日 に岩槻 市 宿 から移住 して、「市宿 新田 」と名付 けた、と伝 わる。[30] - 「すな
原 」は文書 が鴻巣 宿 の小池 氏 の家 に伝 わったことから、『岩槻 市 史 』[31]、『鴻巣 市 史 』[32]、下山 『後 北条 氏 家臣 団 人名 辞典 』[33] などは鴻巣 市 内 の地名 と推測 しているが、黒田 基樹 「風間 出羽守 のこと」は「岩 付 領 砂原 村 (越谷 市 )」に比定 している[34]。
- 『
湯田 砦 の戦 い
[『
- 「
風間 」の通称 には写本 によって揺 れがあり、『改定 史籍 集 覧 』翻刻 [36](底本 :東京 国立 博物館 本 )は「風間 孫 兵衛 (右 衛門 イ)」、『戦国 史料 叢書 』翻刻 [37](底本 :静嘉堂文庫 蔵本 )は「孫 左衛門 」としている。影印 では、東京大学 史料 編纂 所 蔵本 [38]は「孫 左 (または右 )ヱ門 」、国立 公文書 館 蔵本 [39]は「孫右衛門 」。 石塚 藤 兵衛 :『水海道 市 史 』[40]によると、花島 (水海道 )の石塚 左京 家 と、その分流 で五 家 (水海道 )の石塚 彦三郎 将監 は、弘治 2年 (1556年 )の海老島 合戦 で結城 勢 ・多賀 谷 政経 に与 して小田 氏 の海老島 城 (真壁 郡 大村 )を攻撃 し、石下 の領 知 を与 えられた。『石塚 左京 家 系図 』[41]には、永 禄 9年 (1566)5月 に没 した「石塚 藤 七郎 義久 」の名 がみえる(「藤 兵衛 」はみえない)。また『関 八 州 古 戦 録 』や『多賀 谷記 』『多賀 谷 氏 由緒 書 』(後 出 )などは、「湯田 砦 の戦 い」のとき、石塚 氏 は多 賀谷 氏 方 ではなく、北条 氏 方 についたとしている。
秋田 藩 の修史 事業 のため元禄 11年 (1698年 )頃 提出 されたとみられている[42]『多賀 谷 氏 由緒 書 』[43]およびこれに類 する『多賀 谷 家 譜 』[44]や『多賀 谷 旧記 』[45]は、北条 氏 は、天 神宮 (天神 社 )を焼 かせて「本城 」として300騎 (1,300騎 イ)を籠 もらせ、「石塚 ・風間 」を将 として下妻 を伺 っていた、としている。
著者 ・成立 時期 不明 で、跋 により寛政 5癸 丑 年 (1793年 )に真壁 郡 倉持 村 の神主 ・倉持 伊勢治 僮が写 したとされている『多賀 谷記 』[46]は、後 北条 氏 は飯沼 天神 の社 を焼 き払 って築 いた城 を「石塚 風 閑」に守 らせた、としている(「風間 」の名 はみえない)。
また
- 『
円福寺 記録 多 賀谷 譜 』は、序 によると、政経 の伝 の半分 より前 はもともと円福寺 が所蔵 していた家 譜 によっており、政経 の伝 の半分 より後 は、円福寺 の僧 が記 した日記 類 に基 づき、年代 に関 しては『王代 一覧 』『鎌倉 九 代 記 』『北条 五 代 記 』なども参照 して校正 したとされている。また「羽 州 秋田 陪臣 多賀 谷 左 兵衛 家 頼 多 賀谷 八右衛門 之 記 」(『多賀 谷記 』ヵ)を含 む多 賀谷 氏 関連 の古文書 類 ・覚書 ・手記 、他 の寺社 の記録 なども参照 し、典拠 を注記 して記述 が補 われている。
再 び越谷 ・岩槻 周辺
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内田 孫 四 郎 は、天正 元年 (1573年 )2月 に関宿 の合戦 で戦功 があったとして北条 氏直 の感状 を受 け、天正 2年 (1574年 )7月 に(北条 )氏 好 から太田 美濃 守 (資 正 )時代 からの「すな原 」の「打 明 」の領有 を引 き続 き認 められていた[58]。風間 (の軍勢 )が1572年 -1573年 頃 、「すな原 」に配置 され、在宿 していたことは上 の2件 の文書 に見 える。後 出 の「万代 記録 帳 」にみえる風間 出羽守 の子 ・雨宮 主 水 正 の子 ・弥 太夫 の妻 ・雲 信女 (1684年 没 )は、新 方領 恩間 村 (越谷 市 恩間 、『新編 武蔵 風土記 稿 』には「岩槻 領 忍 間 村 」としてみえる[59])の渡辺 氏 から嫁 いでいる[60]。
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若 御子 対陣
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岩槻 ・黒谷 の雨宮 弥 太夫 家 の先祖
[2006
「
「
風間 用水 と風間 圦
[『
—
一 村国 村 治郎 兵衛 裏 より風間 圦前迄 堀 長 三 百 八 拾 三 間
一 風間 (圦)尻 より往還 石橋 迄 七 拾 弐 間
一 往還 石橋 より古川 堤上 口 迄 弐 百 八 拾 八 間
一 古川 堤 上 り口 石橋 より下新井 馬洗場 石橋 迄 百 五 拾 弐 間
一 上曾根 土橋 より落口 迄 六 拾 四 間
〆堀 長 サ千 六 拾 八 間 (約 1.942km)有 之 申 侯 、右 之 役人 者共 算 ニ当年
ハ〆九 百 五 拾 九 間 当 有 之 、清水 右 金次 当 風間 堀 筋 之 覚 、「清水 金之 亮 家 文書 」[108]
考証 ・評価
[文政 11年 (1828年 )の『新編 武蔵 風土記 稿 』は、「風間 」の名 が記 された後 北条 氏 の発給 文書 2点 を収載 し、うち1点 に「文中 に風間 といへるは、小田原 北条 氏 にかかへおける乱 波 なり、乱 波 とは忍 びの者 のことにて、あるひは透 波 とも云 、風間 はその首領 にて、諸国 を廻 り軍事 をたすけしものなり」と編 注 を付 している[15]。嘉 永 3年 (1850年 )刊 の『武江 年表 』の天正 18年 (1590年 )の記事 に「天正 の頃 関東 に乱 波風 間 といへる強盗 あり、党 を結 び陣中 へも忍 び入 て盗 をなす諸人 恐 れけるが今年 より何 れへか逃退て其噂絶 たり〔北条 五 代 記 に出 〕」とあるが、『武江 年表 補正 略 』を著 した喜多村 信 節 は、「乱 破 」は徒党 の名称 、「風 魔 」はその中 の一人 の名前 だと補 説 している。[109]万延 元年 (1860年 )頃 完成 した和学 講談 所 の『武家 名目 抄 』において、『北条 五 代 記 』「関東 の乱 波 智 路 の事 」にみえる乱 波 は、常 に「忍 (しのび)」を役 する一種 の「賎 人 」で、野武士 ・強盗 などの中 から扶持 され、戦国 大名 は間 者 ・かまり・夜討 などに使 うために彼等 を養 い置 いた、と解釈 されている[110]。- 1926
年 に花見 朔 巳 は、「らっぱ」とは、もともと身分 が低 く、情勢 次第 で主君 を替 える傭兵 ・野武士 のような雑兵 で、軽装 で防備 が手薄 な敵 方 の陣所 に物 盗 りに入 り、火付 けをするなどしていた「足軽 」が、時代 が下 るにつれて部隊 化 されたもので、『北条 五 代 記 』の中 では不 分明 な、斥候 や偵察 をする「忍 びの者 」とはやや異質 な存在 だったのではないか、と指摘 した[111]。 - 1928
年 に三田村鳶魚 は、『北条 五 代 記 』の風 魔 、『鎌倉 管領 九 代 記 』の風間 小太郎 と『見聞 集 』の「風 魔 の一類 らっぱの子孫 共 」を同 じ「風 摩 の一類 」だ、と解釈 して、「らっぱ」すなわち怪 しげな能力 を持 った「忍 びの上手 」の「風 摩 の一類 」が、後 北条 氏 の滅亡 で食 禄 を失 い、江戸 に上 って盗賊 (泥坊 )になったと主張 した[112]。 - 1928
年 に折口 信夫 は、三田 村 の「盗賊 」的 な見方 を発展 させ、らっぱを「サンカ」(山岳 地帯 に住 む特殊 な民族 )が里 に下 りて街道 筋 を流浪 するようになった存在 だと主張 した[113]。 - 2004
年 に下沢 敦 は、『北条 五 代 記 』「関東 の乱 波 智 路 の事 」の条 に、乱 波 のい換 えである「二 百 人 の悪 盗 」について『節用 集 』に「悪 盗 」が「悪党 」のい換 えとされていることや、作中 の「山賊 ・海賊 ・夜討 ・強盗 」の列挙 が『御 成敗 式目 』第 3条 の罪科 の列挙 と共通 していることから、乱 波 を悪党 (極悪 で凶悪 な盗人 の集団 )と解釈 し、戦国 大名 家 が傭兵 として悪党 集団 を召 し抱 え、足軽 部隊 を先導 させるなどして、現代 の斥候 のような索敵 ・偵察 任務 や、夜討 ちに代表 される夜間 奇襲 攻撃 のような特殊 任務 に使役 した、と解釈 した[114]。
- また
下沢 は、『北条 五 代 記 』「関東 の乱 波 智 路 の事 」の後半 の「立 すぐり・居 すぐり」の逸話 が『太平 記 』巻 第 34「平石 の城 軍 の事 付 けたり和田 夜討 の事 」の記事 にみえることを指摘 し、同 話 が三浦 浄 心 による再話 である可能 性 を指摘 しつつも、身分 の低 い、社会 の最 底辺 にあるような人々 が悪党 集団 を構成 し、中世 の古風 な悪党 の智略 をそのまま踏襲 していた、と解釈 している[114]。
- 2006
年 の下山 治久 『後 北条 氏 家臣 団 人名 辞典 』は、「風間 」の名 が見 える後 北条 氏 の発給 文書 5点 と黒谷 村 の妙円寺 開基 ・雨宮 主 水 正 の先祖 ・風間 出羽守 の伝 を紹介 した上 で、「風間 」を「ふうま」と読 み、「風間 」と「風間 出羽守 」を「北条 氏 に仕 えた忍者 の棟梁 」と解釈 している[5]。 - 2013
年 に黒田 基樹 は、下山 『後 北条 氏 家臣 団 人名 辞典 』に挙 げられている史料 のうち、黒谷 村 の妙円寺 開基 ・雨宮 主 水 正 の先祖 ・風間 出羽守 の伝 を除 く5点 と、別人 と目 される「風間 」の人名 が見 える後 北条 氏 の発給 文書 1点 の存在 を指摘 し、風間 は史料 中 で、軍事 最前線 に配備 され、軍事 活動 を担 う存在 とされている、とし、推定 天正 9年 以降 の北条 氏政 の十 郎 あて書状 で風間 が敵 の夜 懸 への警戒 にあたっていることもあわせて、特殊 な軍事 活動 を多 く行 う存在 であったことが伺 われ、それが江戸 時代 に「忍者 風 魔 小太郎 」を生 み出 した、と推測 している[6]。 - 2020
年 の平山 優 『戦国 の忍 び』は、「風 魔 の実像 を検討 した唯一 の研究 」[115] として黒田 の論考 を挙 げ、他 の先行 研究 の存在 を否定 した上 で、天正 9年 以降 に北条 氏政 が氏 房 にあてて書 いたと推定 されている文書 の中 にみえる「かき」は「嗅 ぎ」(嗅物聞、偵察 の忍 び)で、風間 が「嗅 ぎ」をするよう命 じられたと解釈 し、実在 した風間 は、後 北条 氏 にとって重要 な戦場 の最前線 に派遣 、配置 されており、かなりの規模 の軍勢 を率 いていたが、その軍勢 は素行 が悪 く、味方 の村 々からも悪評 紛々 であった、として、『北条 五 代 記 』などが「明記 」する「風 魔 一 党 は悪党 出身 のアウトロー集団 であった」という記述 とほぼ一致 する、と解釈 している[116]。
関連 項目
[関連 作品
[脚注
[- ^ 『
北条 五 代 記 』巻 9 「関東 の乱 波 智略 の事 」萩原 龍夫 (校 注 )『北条 史料 集 』人物 往来 社 、1966年 、397-401頁 。 - ^
写本 、内閣 文庫 本 - ^ 「
風 麿 」表記 としている例 もある。推定 文化 9年 (1812年 )頃 成立 の『三浦郡神社寺院民家戸数並古城旧跡』の林 村 狐塚 の項 にある北条 高 時 の頃 の強盗 の話 に、「乱 波 風 麿 (らっぱかざまろ)」の名 がみえる(翻刻 :『三浦 古 文化 』第 4号 、京浜急行電鉄 株式会社 三浦 古 文化 研究 会 、1968年 5月 、81-118頁 の101頁 )。成立 時期 については、高橋 恭一 「『相州 三浦郡神社寺院民家戸数并古城旧跡』について・・・・・三浦 古蹟 集 」(同書 77-78頁 )を参照 。 - ^
表 に掲 げたほかに1906年 の芳賀 矢一 (校訂 )『慶長 見聞 集 』(袖珍 名著 文庫 、冨山 房 )の翻刻 が刊行 されているが、抄録 であり、7巻 「関 八 州 盗人 狩 の事 」が収載 されていない。 - ^ a b c
下山 治久 『後 北条 氏 家臣 団 人名 辞典 』東京 堂 出版 、2006年 9月 、523-524頁 、ISBN 978-4490106961 - ^ a b c
黒田 基樹 「コラム風間 出羽守 のこと」『北条 氏 年表 』高志 書院 、2013年 、136-138頁 - ^ 『
小田原 市 史 史料 編 中世 3小田原 北条 氏 2』小田原 市 、1993年 - ^ a b 『
小田原 市 史 史料 編 中世 3小田原 北条 氏 2』1993年 、No.1106、93-94頁 - ^
土井 忠生 ・森田 武 ・長南 実 『邦訳 日 葡辞書 』岩波書店 、1980年 、569頁 右 段 - ^ 『
邦訳 日 葡辞書 』792頁 左 段 - ^ 『
邦訳 日 葡辞書 』98頁 左 段 - ^ 『
邦訳 日 葡辞書 』395頁 左 段 - ^ 『
小田原 市 史 史料 編 中世 3小田原 北条 氏 2』1993年 、No.1106、93頁 注 (2) - ^ 『
邦訳 日 葡辞書 』162頁 左 段 - ^ a b 『
新編 武蔵 風土記 稿 』巻 之 111多磨 郡 之 23小宮 領 檜原 村 上 旧家 百姓 (吉野 )軍次 。蘆 田 伊 人 (編 )『大 日本 地誌 大系 第 10巻 風土記 稿 6』雄山閣 、1931年 、81-82頁 。 - ^
滝沢 博 「帰農 した地 侍 たち -吉野 氏 と師岡 氏 」たましん地域 文化 財団 『多摩 のあゆみ』第 46号 、1987年 2月 、37-50頁 - ^
黒田 基樹 「総論 北条 氏 房 の研究 」黒田 基樹 (編 )『北条 氏 房 』〈論集 戦国 大名 と国 衆 19〉岩田 書院 、2015年 、19頁 - ^ a b 「8 ○
向畑 村 新 方 三 郎 之 事 」『越谷 市 史 第 4巻 史料 2』(越谷 市 、1972年 )133頁 。茂木 和平 『埼玉 苗字 辞典 』ウェブ版 の「イ」「岩井 氏 」の項 に言及 がある。 - ^ a b 『
埼玉 苗字 辞典 』ウェブ版 、ハ~ヒ - ^ 「496
明和 4年 11月浜野 藤蔵 由緒 書 」(市 史 編 さん室 蔵 )『越谷 市 史 第 3巻 史料 1』越谷 市 、1973年 、495-497頁 - ^ 『
岩槻 市 史料 13民俗 調査 報告 書 2』岩槻 市 市 史 編 さん室 、1982年 、27,35-36,268頁 。 - ^ a b 嗣永
芳照 「岩 付 の立川 氏 その関連 史料 」36-37頁 - ^ a b 『
小田原 市 史 史料 編 中世 3小田原 北条 氏 2』1993年 、No.1137、128頁 - ^ 『
邦訳 日 葡辞書 』395頁 右 段 - ^
小林 千夏 『「大 かうさまぐんき」を読 む』東海大学 出版 部 、2017年 、230頁 - ^ 『
邦訳 日 葡辞書 』825頁 右 段 - ^ 『
邦訳 日 葡辞書 』488頁 左 段 - ^ 『
邦訳 日 葡辞書 』716頁 左 段 - ^ 『
邦訳 日 葡辞書 』724頁 右 段 - ^ 『
新編 武蔵 風土記 稿 』巻 之 148足立 郡 之 14鴻巣 領 鴻巣 宿 旧家 (小池 )三太夫 。蘆 田 伊 人 (編 )『大 日本 地誌 大系 第 12巻 風土記 稿 8』雄山閣 、1932年 、5-6頁 。 - ^ 『
岩槻 市 史 古代 ・中世 史料 編 I古文書 史料 (下 )』岩槻 市役所 、1983年 、182頁 、No.477 - ^
鴻巣 市 市 史 編 さん調査 会 『鴻巣 市 史 資料 編 2古代 ・中世 』埼玉 県 鴻巣 市 、1991年 、508-509頁 、No.353 - ^ 523
頁 - ^
黒田 基樹 (編 )『北条 氏 年表 』高志 書院 、2013年 、137頁 - ^
巻 203埼玉 郡 14向 川辺 領 砂原 村 、巻 203埼玉 郡 5越 ヶ谷 領 砂原 村 。ほかに、巻 23葛飾 郡 4西葛西 領 本田 筋 にも「砂原 村 」がある。 - ^
近藤 瓶 城 (校訂 )「関 八 州 古 戦 録 」近藤 瓶 城 (編 )『改定 史籍 集 覧 第 五 冊 』近藤 出版 部 、1900年 (1925年 再版 )、187-188頁 - ^
中丸 和 伯 (校 注 )『関 八 州 古 戦 録 』〈第 2期 戦国 史料 叢書 15〉人物 往来 社 、1967年 、262-263頁 - ^
群馬 県 令 写 、請求 番号 4141.30-1、巻 14、コマ43-「多賀 谷 政経 湯田 城 を乗取 事 」 - ^ 『
関東 古 戦 録 』昌平 坂 学問 所 旧 蔵本 、請求 番号 168-0347、第 5冊 、コマ18-巻 第 10 「多賀 谷 政経 乗 捕 湯田 砦 事 」 - ^ 『
水海道 市 史 上巻 第 三 編 』1983年 、289-291頁 - ^
水海道 市 前掲 書 346頁 - ^
古澤 一巳 「多賀 谷 氏 家伝 の伝来 と異同 」茨城 地方 史 研究 会 『茨城 史 林 』第 38号 (筑波 書林 、2014年 6月 、25-53頁 )32頁 - ^ 「
多賀 谷 家 譜 」『下妻 市 史料 古代 ・中世 編 』1996年 、271-281頁 。元禄 家伝 文書 の『多賀 谷 氏 由緒 書 』には多 賀谷 氏 の系図 と家 譜 が含 まれており、『下妻 市 史料 』や『関城 町 史 史料 編 Ⅲ中世 関係 史料 』(1985年 、675-685頁 )は、このうちの家 譜 を「多賀 谷 家 譜 」と呼 んでいるが、本文 中 の呼称 は古澤 前掲 書 27頁 に準 じて『多賀 谷 氏 由緒 書 』とした。 - ^
茨城 県立 歴史 館 、静嘉堂文庫 蔵 色 川 三 中 旧 蔵書 No.191 - ^ 『
結城 市 史 第 1巻 古代 中世 史料 編 』1977年 、714-722頁 (東京大学 史料 編纂 所 架蔵 本 ) - ^ 『
多賀 谷記 』静嘉堂文庫 本 (茨城 県立 歴史 館 、静嘉堂文庫 蔵 色 川 三 中 旧 蔵書 No.160) - ^
国立 公文書 館 蔵本 、請求 番号 155-0263 - ^
典拠 については注 に「南 軍 (北条 軍 )退去 普 門 寺 過去 帳 亦 有 之 」とある。 - ^ a b 『
小田原 市 史 史料 編 中世 3小田原 北条 氏 2』1993年 、No.1239、217-218頁 - ^ 『
邦訳 日 葡辞書 』121頁 左 段 - ^ 『
邦訳 日 葡辞書 』73頁 左 段 - ^ 『
邦訳 日 葡辞書 』124頁 左 段 - ^ 『
邦訳 日 葡辞書 』393頁 右 段 - ^ 『
邦訳 日 葡辞書 』190頁 右 段 - ^ 『
邦訳 日 葡辞書 』511頁 右 段 - ^ 『
邦訳 日 葡辞書 』306頁 右 段 - ^ 『
小田原 市 史 史料 編 中世 3小田原 北条 氏 2』1993年 、No.1239、218頁 注 (2) - ^ 『
岩槻 市 史 古代 ・中世 史料 編 I古文書 史料 (下 )』1983年 、No.475,481 - ^ 『
新編 武蔵 風土記 稿 』巻 203崎 玉 郡 5岩槻 領 忍 間 村 附 持 添新田 - ^
前掲 書 959頁 - ^ 『
越谷 市 史 第 3巻 史料 1』越谷 市 、1973年 、962-967頁 - ^
大竹 自治 会 、1997年 、30-32頁 - ^ 「497
天明 7年 12月恩間 渡辺 氏 家 譜 」『越谷 市 史 第 3巻 史料 1』962-963頁 - ^ a b 『
小田原 市 史 史料 編 中世 3小田原 北条 氏 2』1993年 、No.2245、1082-1083頁 - ^ 『
邦訳 日 葡辞書 』84頁 右 段 - ^ 『
邦訳 日 葡辞書 』92頁 右 段 - ^ 『
邦訳 日 葡辞書 』784頁 右 段 - ^ 『
邦訳 日 葡辞書 』510頁 右 段 - ^ 『
邦訳 日 葡辞書 』493頁 左 段 - ^ 『
邦訳 日 葡辞書 』39頁 左 段 - ^ 『
邦訳 日 葡辞書 』751頁 左 段 - ^ 『
邦訳 日 葡辞書 』96頁 左 段 - ^ 『
邦訳 日 葡辞書 』78頁 右 段 - ^ 『
邦訳 日 葡辞書 』72頁 右 段 - ^ 『
邦訳 日 葡辞書 』78頁 段 - ^ 『
邦訳 日 葡辞書 』697頁 右 段 - ^ 『
邦訳 日 葡辞書 』161頁 左 段 - ^ 『
邦訳 日 葡辞書 』682頁 左 段 - ^ 10
巻 本 『北条 記 』巻 8「若 御子 対陣 之 事 」(国立 公文書 館 蔵本 ・昌平 坂 学問 所 旧 蔵本 第 3冊 コマ67) - ^ a b 『
小田原 市 史 史料 編 中世 3小田原 北条 氏 2』1993年 、416頁 、No.1464 - ^ 『
邦訳 日 葡辞書 』131頁 右 段 - ^ 『
邦訳 日 葡辞書 』135頁 左 段 - ^ 『
邦訳 日 葡辞書 』721頁 左 段 - ^ ☆
出典 確認 中 - ^ 『
邦訳 日 葡辞書 』352頁 右 段 - ^ 『
邦訳 日 葡辞書 』319頁 右 段 - ^ 『
邦訳 日 葡辞書 』317頁 左 段 - ^ 『
邦訳 日 葡辞書 』687頁 右 段 - ^ 『
邦訳 日 葡辞書 』798頁 右 段 - ^ 『
邦訳 日 葡辞書 』215頁 右 段 - ^ a b
茂木 和平 、2006年 、第 2巻 、カ-シ、2165頁 - ^
岩槻 市 市 史 編 さん室 、1985年 - ^ 782
頁 。下山 氏 のご教示 による。 - ^ 『
岩槻 市 史 近世 史料 編 IV地方 史料 (下 )』1982年 、952-1060頁 - ^ a b
前掲 書 958-959頁 - ^ 『
武蔵 国 郡村 誌 第 11巻 』埼玉 県立 図書館 、1954年 、第 11巻 埼玉 郡 村 誌 巻 之 七 黒谷 村 、323頁 - ^
前掲 書 960頁 - ^ 『
岩槻 市 史 近世 史料 編 IV地方 史料 (下 )』976頁 - ^ 『
岩槻 市 史 金石 史料 編 Ⅰ中世 史料 』(岩槻 市 、1984年 、196頁 )には、妙円寺 には明 応 9年 (1500年 )の板碑 があるとされており、同 寺 の創建 は雨宮 主 水 正 の時代 よりも遡 る可能 性 がある。 - ^ 『
岩槻 市 史料 13民俗 調査 報告 書 2』岩槻 市 市 史 編 さん室 、1982年 、36-37,252,257-258頁 - ^ a b c 『
岩槻 市 史料 13民俗 調査 報告 書 2』岩槻 市 市 史 編 さん室 、1982年 、27-28頁 - ^
大河内 博 「ある豪農 の盛衰 -石川 民 部 の系譜 」『大 きく砕 けよ』1990年 、160-161頁 - ^ 「
松伏 町 き取 り調査 カード(事件 用 )」No.1-35・1-146、2001年 ・2002年 - ^ 「
万代 記録 帳 」によると、風間 出羽守 は黒谷 の雨 宮家 の先祖 筋 であるが、始祖 はその子 ・雨宮 主 水 正 とされているため、後 北条 氏 の推定 天正 10年 の発給 文書 にみえる風間 出羽守 と同 一人物 (の子 )であったとしても、当時 から一貫 して黒谷 にあったかは不明 で、『岩槻 市 史料 13民俗 調査 報告 書 2』の伝 のように別 地 からの移住 の経緯 があったとも考 えられる。 - ^
第 11巻 埼玉 郡 村 誌 巻 7下新井 村 、339-340頁 - ^ 『
岩槻 市 史 民俗 史料 編 』岩槻 市 市 史 編 さん室 、1984年 、177頁 。『岩槻 市 史料 13民俗 調査 報告 書 2』(岩槻 市 史 編 さん室 、1982年 )58頁 に、「風間 用水 は、飯塚 の金子 亀 次 家 の裏 、島田 タイル屋 から入 ってきて高曽根 に来 ているもの」とあり。 - ^ 「
清水 金之 亮 家 文書 」『岩槻 市 史 近世 史料 編 IV地方 史料 (上 )』岩槻 市 市 史 編 さん室 、1982年 、585-595頁 - ^ 『
岩槻 市 史 近世 史料 編 IV地方 史料 (上 )』岩槻 市 市 史 編 さん室 、1982年 、591頁 - ^
今井 金吾 『定本 武江 年表 上 』筑摩書房 、2003年 10月 。 - ^
今泉 定 介 編 『故実 叢書 武家 名目 抄 職名 部 巻 6』吉川弘文館 、1903年 、701-703頁 - ^
花見 朔 巳 「室町 時代 の解体 期 と足軽 の研究 」花見 朔 巳 「室町 時代 の解体 期 と足軽 の研究 」日本 歴史 地理 学会 『日本 兵制 史 』日本 歴史 地理 学会 、121-240頁 - ^
三田村鳶魚 「慶長 前後 の泥坊 」『中央公論 』第 43巻 第 2号 (通巻 481号 )1928年 2月 、説 苑 8-15頁 。三田 村 の主張 はその出典 の記述 内容 と論考 の結論 が必 ずしも結 び付 いていないと思 われるが、戦後 の戦後 の「風 摩 忍者 」に関 する時代 考証 物 において支配 的 な見方 となっている。例示 は省略 する。 - ^
折口 信夫 「無頼 の徒 の芸術 」民俗 芸術 の会 『民俗 芸術 』第 1巻 第 8号 、1928年 8月 、1-14頁 。論考 のもとは講演 での口頭 発表 で、論拠 となる出典 への言及 が全 く示 されていないが、安野 真幸 「『相良 氏 法度 』の研究 (二 )『スッパ・ラッパ』考 」(弘前大学 教養 部 『文化 紀要 』第 40号 、1994年 9月 、9-51頁 )や藤木 久志 『雑兵 たちの戦場 』(朝日新聞社 、1995年 、201-261頁 )など、近年 の雑兵 論 でも通説 と見 做されている。 - ^ a b
下沢 敦 「風 摩 :『北条 五 代 記 』「関東 の乱 波 智略 の事 」について」『共栄学園短期大学 研究 紀要 』2004年 、No.20、15-40頁 - ^
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平山 優 『戦国 の忍 び』角川 新書 、2020年 9月 、94-95頁
参考 文献
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岩槻 市 史料 13民俗 調査 報告 書 2』岩槻 市 市 史 編 さん室 、1982年 - 『
岩槻 市 史 近世 史料 編 IV地方 史料 (上 )』岩槻 市 市 史 編 さん室 、1982年 - 『
岩槻 市 史 近世 史料 編 IV地方 史料 (下 )』岩槻 市 市 史 編 さん室 、1982年 - 『
岩槻 市 史 古代 ・中世 史料 編 I古文書 史料 (下 )』岩槻 市役所 、1983年 - 『
岩槻 市 史 民俗 史料 編 』岩槻 市 市 史 編 さん室 、1984年 - 『
岩槻 市 史 通史 編 』岩槻 市 市 史 編 さん室 、1985年 - 『
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