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ふう

出典しゅってん: フリー百科ひゃっか事典じてん『ウィキペディア(Wikipedia)』

ふう(かざま/ふうま)、ふうふう广は、三浦みうらきよしこころの『北条ほうじょうだい』において、北条ほうじょう氏直うじなお扶持ふちされ、天正てんしょう9ねん(1581ねん)の「黄瀬川おうせがわたたかい」でてきかた武田たけだじん夜討ようをする集団しゅうだんひきいたらんとして紹介しょうかいされている人物じんぶつこう北条ほうじょう発給はっきゅう文書ぶんしょなどに名前なまえのみえる「風間かざま出羽守でわのかみ」や、『せきはちしゅういにしえせんろく』などに名前なまえのみえる「風間かざま孫右衛門まごえもん」はそのモデルとみられている。

またどう著者ちょしゃの『見聞けんぶんしゅう』には、江戸えど時代じだい初期しょきこうさき甚内関東かんとう各地かくち盗賊とうぞく首領しゅりょうを「ふう一類いちるいらっぱの子孫しそんども」だと告発こくはつして江戸えどまち奉行ぶぎょうしょによる「盗人ぬすっとかり」がおこなわれ、盗賊とうぞく根絶ねだやしにされたが、あとこうさき甚内も「大盗たいとうじん」として処刑しょけいされた、との逸話いつわがある。

鎌倉かまくら管領かんりょうきゅうだい』に登場とうじょうする風間かざま小太郎こたろうとは別人べつじん派生はせいして物語ものがたり登場とうじょうする人物じんぶつとしてふう小太郎こたろう著名ちょめい

伝説でんせつ

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三浦みうらきよしこころあらわした寛永かんえい18ねん1641ねんかんの『北条ほうじょうだい』によると、天正てんしょう9ねん1581ねん)のあき北条ほうじょう氏直うじなお黄瀬川おうせがわをはさんで武田たけだ勝頼かつより信勝のぶかつ父子ふし対陣たいじんしたとき、ふう广と「よんとう」にひきいられた山賊さんぞく海賊かいぞく強盗ごうとう窃盗せっとうの「よんとう」、合計ごうけい200にんからいちとうは、夜々よよ黄瀬川おうせがわわたって敵陣てきじんおそい、ひとりにし、つなつなってそのうまり、さらにあちこちに放火ほうかし、四方八方しほうはっぽうまぎんで、どきをあげるので、てきかたはさんざん動揺どうようした。頭目とうもくふう广について、武田たけだぐん兵士へいしは「たけ7しゃく2すんやく218cm)、筋骨きんこつ荒々あらあらしくむらこぶあり、くちひろくぎゃくくろひげ、きばよっがいあらわれ、あたまぶくろく寿ことぶきはなたかし」という、異様いよう風貌ふうぼうをしているとうわさしたという。[1]

北条ほうじょうだい』には、こう北条ほうじょう滅亡めつぼうふう广のうわさらん名前なまえ関東かんとうからせた、とあるが、おな三浦みうらきよししん著書ちょしょ見聞けんぶんしゅう』には、こう北条ほうじょう滅亡めつぼうこうさき甚内が「関東かんとう各地かくちせんにんせんにんもいる盗賊とうぞく首領しゅりょうはみなむかし有名ゆうめいだったいたづらしゃふう广が一類いちるい・らっぱの子孫しそんどもです。自分じぶん居場所いばしょっているのでご案内あんないしましょう」とうったて、江戸えどまち奉行ぶぎょうしょによる「盗人ぬすっとかり」がおこなわれ、「盗人ぬすっと」が根絶ねだやしにされたという逸話いつわせている。同書どうしょによると、のちこうさき甚内も「大盗たいとうじん」であることがわかり、慶長けいちょう18ねん(1613ねん)に浅草あさくさばら処刑しょけいされた。

北条ほうじょうだい』や『見聞けんぶんしゅう』の作中さくちゅうでは、ふう出自しゅつじ根拠地こんきょちなどはあきらかにされていない。

表記ひょうき

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三浦みうらきよししん著書ちょしょ-『北条きたじょうだい寛永かんえいばん万治まんじばんおよび『見聞けんぶんしゅう[2]-における表記ひょうきは「ふう广」で、「广」は浄心じょうしん著書ちょしょなかで「てん广」「須广」「薩广」「いたる广」など「まだれ」の漢字かんじ全般ぜんぱん略字りゃくじとしてもちいられている。みは『北条ほうじょうだい』に振仮名ふりがな「かざま」とあり、『見聞けんぶんしゅう』には振仮名ふりがながない。

明治めいじ以降いこう翻刻ほんこく刊行かんこうさいに、漢字かんじ表記ひょうきは「ふう广」「ふう」「ふう」にわかれており[3]振仮名ふりがな全般ぜんぱん脱落だつらくしている(下表かひょう)。

大正たいしょう以前いぜんの『北条ほうじょうだい』(きた)『見聞けんぶんしゅう』(翻刻ほんこくにおける「ふう广(かざま)」の表記ひょうき振仮名ふりがな
書名しょめい 表記ひょうき 振仮名ふりがな
1900ねん改定かいてい史籍しせきしゅうらん だい5さつ』(きた ふう (なし)
1901ねん改定かいてい史籍しせきしゅうらん だい10さつ』( ふう广 (なし)
1906ねん古事ふるごとるいえん 兵事へいじ8 間諜かんちょう』(きた ふう (なし)
1912ねんざつしゅう ぜん』( ふう (なし)
1916ねん江戸えど叢書そうしょ まきの2』( ふう广 (なし)

[4]

岩槻いわつき越谷こしがや周辺しゅうへんのこ足跡あしあと

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こう北条ほうじょう発給はっきゅう文書ぶんしょに、『北条ほうじょうだい』のふうのモデルとおぼしき「風間かざま」の人名じんめいがみえることは、文政ぶんせい13ねん(1830ねん)の『新編しんぺん武蔵むさし風土記ふどき稿こう』のなか指摘してきがあり、その関連かんれんする文書ぶんしょなんけんつかっていて、なかでも「風間かざま出羽守でわのかみ」の人名じんめいがみえるものが1けんあることがられている[5][6][7]

もとかめ3ねん(1572ねん5月7にちけで、こう北条ほうじょう笠原かさはら藤左衛門とうざえもんじょう)は、岩井いわいわたるみぎ衛門えもんじょうらに、風間かざまれの準備じゅんびをさせるよう指示しじした[8]

北条ほうじょう朱印しゅいんじょううつし新編しんぺん武蔵むさし風土記ふどき稿こう111)[8]
風間かざまらいなながつまでろくヶ村かそんためおけこうあいだ宿やど以下いかこと相違そうい申付もうしつけこうまんいちたい知行ちぎょうぶん、聊もおおかみせき致ニづけ而者、風間かざまいちはししょうだん承引しょういんしゃのり書付かきつけしゃ小田原おだわらささげこう明鏡めいきょうおおせづけこううまくさたきぎをは、相違そういため致之しゃ也、仍如けん

とら朱印しゅいんみずのえさるもとかめ3ねん・1572)がつななにち   笠原かさはら藤左衛門とうざえもんじょうたてまつ
岩井いわいわたるみぎ衛門えもんじょう殿どの
中村なかむら宮内みやうちすすむ殿どの
足立あだちまた三郎さぶろう殿どの
浜野はまのすすむかん殿どの
立川たちかわふじ左衛門尉さえもんのじょう殿どの

風間かざまたるなながつまでろくヶ村かそんきなされこうあいだ宿やど以下いかこと相違そういもうくべくこうまんいち知行ちぎょうぶんたいし、聊もおおかみせきいたすにづけては、風間かざまいちはししょうだんし(or しょうことわり)、承引しょういんいたさざれば、のり書付かきつけをば、小田原おだわらささぐべくこう明鏡めいきょうおおけらるべくこううまくさたきぎりのをば、相違そういいたさすべきものなり。仍ってけんごとし。

以下いかりゃく

ちゅう
あいだんだん):そうだん:相談そうだん[9]
承引しょういん:しょういん:承諾しょうだく(する)[10]
書付かきつけ:かきつけ:だれものか、または、だれぞくするものかをしるした張紙はりがみ、またはきつけ[11]
明鏡めいきょうに:めいけいに・めいきょうに:(めいけい)あきらかで純粋じゅんすいなもの。方正ほうせい純真じゅんしんひと(めいきょう)んだかがみ[12]道理どうりまかせてひいきなく[13]
けん:くだん:以前いぜんのこと、または、うえべたこと[14]

風間かざまたる7がつまでろくヶ村かそん配置はいちされることになりましたので、宿やど以下いかのことを、間違まちがいないように指示しじしてください。まんいち知行ちぎょうぶんたいしてすこしでも狼藉ろうぜきおよぶことがありましたら、まず風間かざま相談そうだんして、承諾しょうだくしない場合ばあいには、けを小田原おだわら提出ていしゅつするようにしてください。公平こうへい指示しじくだされるでしょう。馬草まぐさたきぎ調達ちょうたつさせることが、間違まちがいなくできるようにしてください。以上いじょう

以下いか省略しょうりゃく

  • 笠原かさはらふじ左衛門尉さえもんのじょう北条ほうじょう氏政うじまさ宿老しゅくろうとして、えいろく10ねん(1568)から天正てんしょう5ねん(1577)ごろ領域りょういき担当たんとう奉行ぶぎょうとして北条ほうじょう当主とうしゅからいわづけりょうへの取次とりつぎぎを担当たんとうしていた笠原かさはら康明やすあきとみられている[17]
    • 黒田くろだ基樹もときは、笠原かさはらたてまつしゃとなっていることから、文書ぶんしょ武蔵むさしいわづけりょう(さいたま周辺しゅうへん)にてたもので、宛名あてなにみえる岩井いわいら5にんいわづけしゅ、と推測すいそくしている[6]
  • 岩井いわいわたるみぎ衛門えもんじょう自序じじょにより天保てんぽう11ねん(1840ねんごろ成立せいりつの、越谷こしがや宿やど大沢おおさわまち名主なぬし江沢えざわあきらとおるあらわした地誌ちし大沢おおさわまちふる』に、以前いぜんしん方領ほうりょう向畑むかいばたむら越谷こしがや向畑むかいばた)にあった陣屋じんや陣屋じんやもりで、のち修験しゅげんとなって同村どうそんはなむこういん住職じゅうしょくをしていたひととしてみえる[18]天保てんぽうちかころまで子孫しそん縁者えんじゃのこっていたが、嫡家は没落ぼつらくしており、天保てんぽう当時とうじ向畑むかいばたむら陣屋じんや百姓ひゃくしょうはつみぎ衛門えもんいえ伝説でんせつてき人物じんぶつしんほう三郎さぶろう」の肖像しょうぞうとしてつたえられてたじくは、実際じっさいには岩井いわいわたるみぎ衛門えもん肖像しょうぞうで、また文化ぶんかころまではなむこういんには岩井いわいわたるみぎ衛門えもん所持しょじ短刀たんとうつたえられていた、とされている[18]
  • 中村なかむら宮内みやうちすすむしょう
  • 足立あだちまた三郎さぶろうしょう
  • 浜野はまのすすむかんしょう
埼玉さいたま苗字みょうじ辞典じてん』によれば、「浜野はまの」は武蔵むさしこくでは利根川とねがわ流域りゅういきおおくあるせい[19]えいろく3ねん(1560ねん)の『関東かんとうまく注文ちゅうもん』にいわづけしゅとして「浜野はまの修理しゅうりあきら」のがみえ、また『武家ぶけくも所収しょしゅう文書ぶんしょえいろく12ねん(1569ねん)の春日かすが摂津せっつもり配下はいか奉行ぶぎょうとして、えいろく年間ねんかん(1558ねん - 1570ねん)の「高麗こうらい文書ぶんしょ」に太田おおたただしやその梶原かじはら景政かげまさしたがった人物じんぶつとして「浜野はまのわたる六郎ろくろう」のがみえる[19]
越谷こしがや』には、天正てんしょう18ねん(1590ねん)の徳川とくがわ家康いえやす関東かんとう入国にゅうこくのちしん方領ほうりょう増林ましばやしむら越谷こしがや増林ましばやし)にてられたかり御殿ごてん御殿ごてんばんをしていたという浜野はまのふじみぎ衛門えもん子孫しそん由緒ゆいしょしょせている[20]
また『岩槻いわつき史料しりょう 13 民俗みんぞく調査ちょうさ報告ほうこくしょ2』によると、1982ねん当時とうじこうの、始祖しそ風間かざま出羽守でわのかみという雨宮あまみやわたる太夫たゆうのあった岩槻いわつき黒谷くろたにやく半数はんすうは「浜野はまのせいで、屋号やごう「アブラヤ」でむらない薬師堂やくしどう創建そうけんした浜野はまのは、ふるくから屋号やごう「ケイッカ」からわかれた屋号やごう「シモノカタヤ」のあめ宮家みやけ交流こうりゅうがあった[21]
  • 立川たちかわふじ左衛門尉さえもんのじょう天正てんしょう元年がんねん(1573ねん)にこう北条ほうじょう与野よの(さいたま中央ちゅうおう)の立石たていし甚左衛門えもん百姓ひゃくしょうちゅうてた印判いんばんじょう納税のうぜいさきとしてそのがみえ、天正てんしょう5ねん(1577ねん)7がつ13にちづけの「いわづけしょ奉行ぶぎょうただし今度こんどこれじんいちまわりじょう」に、しょう奉行ぶぎょうかがり奉行ぶぎょうとして名前なまえがみえる[22]天文てんもん14ねん(1545ねん)に扇谷おうぎや上杉うえすぎ北条ほうじょう氏康うじやすほろぼされたのちこう北条ほうじょう家臣かしんだんれられた立川たちかわ一族いちぞくなかから、いわづけ配置はいちされた人物じんぶつとみられている[22]

もとかめ4ねん(1573ねん12月10にちこう北条ほうじょう評定ひょうじょうしゅかんかいよし左衛門尉さえもんのじょうかんたもつ)は、(武蔵むさしこくの)「すなはら」の百姓ひゃくしょうたちからのうったえをけて、以後いご風間かざまを「すなはら」に在宿ざいしゅくさせないとする裁許さいきょ朱印しゅいんじょうあたえた[23]

北条ほうじょう裁許さいきょ朱印しゅいんじょううつしたけしゅう文書ぶんしょ12)[23]
風間かざま在所ざいしょおおせづけあいだ、すなげんしゃゆうあいだじき思召おぼしめししょ、于今致在宿ざいしゅくこう哉、百姓迷惑之段申処、余儀よぎこうあいだ向後きょうこう風間かざまおけごと無用むようこうむねおおせしゃ也、仍如けん

とら朱印しゅいんもとかめ4ねんみずのととり(1573ねん十二月じゅうにがつじゅうにち   評定ひょうじょうしゅ かんかいよし左衛門尉さえもんのじょう かんたもつ花押かおう
すなげん百姓ひゃくしょうちゅう

風間かざま在所ざいしょおおけらるるあいだ、すなはらにはこれゆうまじくおぼさるるしょいま在宿ざいしゅくいたこうや、百姓ひゃくしょう迷惑めいわくだんもうしょ余儀無よぎなこうあいだ向後きょうこう風間かざまこと無用むようこうむねおおさるるものなり。仍ってけんごとし。

以下いか省略しょうりゃく

ちゅう
迷惑めいわく:めいわく:苦悩くのうしんいためること[24]現代げんだいのような、他人たにんからかけられた精神せいしんてき物質ぶっしつてき損害そんがいよりも、精神せいしんてき肉体にくたいてき困惑こんわくし、どうしてよいかわからないような本人ほんにん苦悩くのう状態じょうたいあらわす[25]
余儀よぎない:よぎない:のがれられない(こと)[26]
向後こうご:きょうこう:これからさき以後いご[27]
く:おく:く、のこしてく、放置ほうちする[28]
おおさるる:おおせいださるる:めいずる、[29]

風間かざま在所ざいしょめいじられ、すなはらにはるべきではないとおかんがえのところ、いままで在宿ざいしゅくいたしましたので、百姓ひゃくしょう困惑こんわくしているとのおはなしいただき、やむをませんので、今後こんご風間かざまかないことにいたしますむねを、指示しじされました。以上いじょう

以下いか省略しょうりゃく

  • 新編しんぺん武蔵むさし風土記ふどき稿こう』によると、この文書ぶんしょは、武蔵むさしこく足立あだちぐん鴻巣こうのすりょう鴻巣こうのす宿やど旧家きゅうか・(小池こいけ三太夫さんだゆういえつたわった。小池こいけ先祖せんぞは、もと畠山はたけやま尾張おわりもり政長まさなが幕下まくした紀州きしゅう日高ひだかぐん小池こいけ領主りょうしゅだったが、先祖せんぞ小池こいけ主計かずえすけ北条早雲ほうじょうそううんつかえて小田原おだわら移住いじゅうし、その小池こいけ長門ながとまもる岩槻いわつき市宿いちじゅく居住きょじゅう功労こうろうがあって鴻巣こうのすりょうはらとりできずき、天文てんもん20ねん(1551ねん)9がつ1にち岩槻いわつき宿やどから移住いじゅうして、「市宿いちじゅく新田しんでん」と名付なづけた、とつたわる。[30]
  • 「すなはら」は文書ぶんしょ鴻巣こうのす宿やど小池こいけいえつたわったことから、『岩槻いわつき[31]、『鴻巣こうのす[32]下山げざん北条ほうじょう家臣かしんだん人名じんめい辞典じてん[33] などは鴻巣こうのすうち地名ちめい推測すいそくしているが、黒田くろだ基樹もとき風間かざま出羽守でわのかみのこと」は「いわづけりょう砂原さわらむら越谷こしがや)」に比定ひていしている[34]
  • 新編しんぺん武蔵むさしこく風土記ふどき稿こう』によると、埼玉さいたまぐんの「砂原さわらむら」はこう川辺かわべりょう加須かぞ)と越谷こしがやりょう越谷こしがや)にある[35]

湯田ゆだとりでたたか

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せきはちしゅういにしえせんろくまき10「多賀たがたに政経せいけいじょう湯田ゆたとりでごと」には、関宿せきやどじょう落城らくじょう翌年よくねんきのえいぬ天正てんしょう2ねん・1574ねん)のあき猿島さるしまりょうこう北条ほうじょう持分もちぶんとなったため、北条ほうじょう氏政うじまさ伊勢いせ備中びっちゅうもりさだれんめいじて湯田村ゆだむら坂東ばんどう弓田ゆみた)にとりできずかせ、飯沼いいぬま対岸たいがんにあった天満てんま天神てんじんしゃはらってしろきずき、風間かざままご兵衛ひょうえ(または孫右衛門まごえもん)と石塚いしづかふじ兵衛ひょうえ軽卒けいそつ300にんけてまもらせた。これは多賀たがたに政経せいけい領地りょうちさえ、てきかたすきをついて襲撃しゅうげきするためだった、との記事きじがある。

  • 風間かざま」の通称つうしょうには写本しゃほんによってれがあり、『改定かいてい史籍しせきしゅうらん翻刻ほんこく[36]底本ていほん東京とうきょう国立こくりつ博物館はくぶつかんほん)は「風間かざままご兵衛ひょうえみぎ衛門えもんイ)」、『戦国せんごく史料しりょう叢書そうしょ翻刻ほんこく[37]底本ていほん静嘉堂文庫せいかどうぶんこ蔵本ぞうほん)は「まご左衛門さえもん」としている。影印えいいんでは、東京大学とうきょうだいがく史料しりょう編纂へんさんしょ蔵本ぞうほん[38]は「まごひだり(またはみぎ)ヱもん」、国立こくりつ公文書こうぶんしょかん蔵本ぞうほん[39]は「孫右衛門まごえもん」。
  • 石塚いしづかふじ兵衛ひょうえ:『水海道みつかいどう[40]によると、花島はなしま水海道みつかいどう)の石塚いしづか左京さきょうと、その分流ぶんりゅういえ水海道みつかいどう)の石塚いしづか彦三郎ひこさぶろう将監しょうげんは、弘治こうじ2ねん(1556ねん)の海老島えびじま合戦かっせん結城ゆうきぜい多賀たがたに政経せいけいくみして小田おだ海老島えびじまじょう真壁まかべぐん大村おおむら)を攻撃こうげきし、石下いしげりょうあたえられた。『石塚いしづか左京さきょう系図けいず[41]には、えいろく9ねん(1566)5がつぼっした「石塚いしづかふじ七郎しちろう義久よしひさ」のがみえる(「ふじ兵衛ひょうえ」はみえない)。また『せきはちしゅういにしえせんろく』や『多賀たが谷記やぎ』『多賀たがたに由緒ゆいしょしょ』(こう)などは、「湯田ゆだとりでたたかい」のとき、石塚いしづか賀谷がやかたではなく、北条ほうじょうかたについたとしている。

同書どうしょによると、多賀たがたに政経せいけいじゅうけい父子ふしは、おか田原たはらつねそう岡田おかだ)へして湯田ゆだしろへい花島はなしま茨城いばらきけんつねそう花島はなしままち)へさそし、鬼怒川きぬがわ下流かりゅうからへいまわして退路たいろち、古間木ふるまき茨城いばらきけんつねそう)の城主じょうしゅ渡辺わたなべ周防すおうまもる仁連にれむら茨城いばらきけん古河ふるかわ)をえて湯田ゆだとりでちにして大勝たいしょうし、こう北条ほうじょう軍勢ぐんぜい関宿せきやどじょう退却たいきゃくして、多賀たがたにした猿島さしま占領せんりょうし、大生郷おおのごう天満宮てんまんぐう再建さいけんした、という。

類似るいじ記事きじは、『せきはちしゅういにしえせんろく以前いぜん成立せいりつした下妻しもづま多賀たがたにかんするしょ記録きろくにもみえる。

  • 著者ちょしゃ成立せいりつ時期じき不明ふめいで、ばつにより寛政かんせい5みずのとうしねん(1793ねん)に真壁まかべぐん倉持くらもちむら神主かんぬし倉持くらもち伊勢治いせじ僮がうつしたとされている『多賀たが谷記やぎ[46]は、こう北条ほうじょう飯沼いいぬま天神てんじんしゃはらってきずいたしろを「石塚いしづかふう閑」にまもらせた、としている(「風間かざま」のはみえない)。

自序じじょにより元禄げんろく2ねん(1689ねん成立せいりつの『(常陽じょうよう下妻しもづま香取かとりみや円福寺えんぷくじ記録きろく賀谷がや[47]賀谷がや政経せいけいつてによると、北条ほうじょう下総しもうさこく猿島さしまぐん湯田ゆたむらとりでかまえたのは(天正てんしょう2ねん・1574ねんではなく)天正てんしょう3ねん(1575ねん)であり、こうしろとされた天神てんじんじょうこもったのは「風間かざま」がひきいる300のみで、「石塚いしづか」は賀谷がやしげるけいかた渡辺わたなべ周防すおうまもるとともに湯田ゆだとりで襲撃しゅうげきする飯沼いいぬま郷士ごうしとされている。

また同書どうしょ賀谷がやしげるけいつてによると、政経せいけい死後しご天正てんしょう4ねん(1576)6がつ北条ほうじょう氏政うじまさつねそう発向はっこうして湯田ゆだから飯田いいだぬまカ)をわたって天神てんじんじょうこもり、下妻しもづまめようとしたため、多賀たがたにしげるけい佐竹さたけ義重よししげ救援きゅうえんもとめ、援軍えんぐん佐竹さたけ義昌よしまさ湯田ゆだとりでめ、損害そんがいあたえたが、北条ほうじょうかた天神てんじんじょうかたまもり、その湯田ゆだとりで修復しゅうふくしてどう5ねん(1577ねん以降いこう結城ゆうきつうじて下妻しもづまうかがい、佐竹さたけ多賀たがたにかた小田おだしろ谷田部やたべしろ攻撃こうげきした、とされている(多賀たがたに政経せいけいじゅうけい父子ふし北条ほうじょう戦勝せんしょうしてした猿島さしま回復かいふくしたとする「湯田ゆだとりでたたかい」の存在そんざい否定ひていする内容ないようになっている)。北条ほうじょうぐん飯沼いいぬま湯田ゆだ両城りょうじょうから撤退てったいしたのは天正てんしょう8ねん(1580ねん)12月のことで[48]多賀たがたにした猿島さしまぐん領有りょうゆうしたのは、天正てんしょう9ねん(1581ねん)の正月しょうがつとされている。

  • 円福寺えんぷくじ記録きろく賀谷がや』は、じょによると、政経せいけいつて半分はんぶんよりまえはもともと円福寺えんぷくじ所蔵しょぞうしていたいえによっており、政経せいけいつて半分はんぶんよりのちは、円福寺えんぷくじそうしるした日記にっきるいもとづき、年代ねんだいかんしては『王代おうだい一覧いちらん』『鎌倉かまくらきゅうだい』『北条ほうじょうだい』なども参照さんしょうして校正こうせいしたとされている。また「はねしゅう秋田あきた陪臣ばいしん多賀たがたにひだり兵衛ひょうえよりゆき賀谷がや八右衛門はちえもんこれ」(『多賀たが谷記やぎ』ヵ)をふく賀谷がや関連かんれん古文書こもんじょるい覚書おぼえがき手記しゅき寺社じしゃ記録きろくなども参照さんしょうし、典拠てんきょ注記ちゅうきして記述きじゅつおぎなわれている。

ふたた越谷こしがや岩槻いわつき周辺しゅうへん

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天正てんしょう5ねん(1577ねん)2がつ北条ほうじょう評定ひょうじょうしゅ下総しもうさ守康もりやすしん)は、内田うちだまごよんろうに、同人どうじんたいする「風間かざま同心どうしん渡辺わたなべしんさん」のうったえを却下きゃっかしたむねつたえた[49]

北条ほうじょう裁許さいきょ朱印しゅいんじょううつし埼玉さいたまけん都幾川ときがわむら 小室こむろひらくひろ所蔵しょぞうだい文書ぶんしょ[49]
内田うちだまごよんろう知行ちぎょう拘置こうち、一騎之致走廻由、風間かざま同心どうしん渡辺わたなべしんさん雖捧訴状そじょう糺明きゅうめいうえ御前ごぜんちょうすうまごよんろう拘置こうちしょ相違そういこうしん三申処無之候、おおせじょう如件、

 (とら朱印しゅいん天正てんしょうねんちょううしがつじゅういちにち   評定ひょうじょうしゅ下総しもうさまもる康信やすのぶ花押かおう
内田うちだまご四郎しろう殿どの

内田うちだまごよんろう知行ちぎょうかかわき、いちの致走をめぐらすよし風間かざま同心どうしん渡辺わたなべしんさん訴状そじょうささぐといえども、糺明きゅうめいうえ御前ごぜんちょうすうまごよんろうかかわしょ相違そういこうしんさんもうしょ、これこうっておおせのじょうけんごとし。

以下いか省略しょうりゃく

ちゅう
知行ちぎょう:ちぎょう:領地りょうち[50]
かかわだき)えく:かかえおく:あるひと扶養ふようして、自分じぶん奉公人ほうこうにんとしてやとれる[51]
致(はせはし:ちそう:世話せわをし、手厚てあつくもてなすこと[52]
めぐらす:めぐらす:まるまわらせる、回転かいてんさせる/比喩ひゆ(籌をうんらす)策略さくりゃく仕組しくむ、なに物事ものごと熟考じゅっこうする/(ちょうめぐらす)非常ひじょうはらてる、ひどくかなしむ(文書ぶんしょ)/(智恵ちえめぐらす)思慮しりょ分別ふんべつをもって熟考じゅっこうする、思案しあんする[53]
同心どうしん:どうしん:賛成さんせい(する)[54]
糺明きゅうめい:きゅうめい:裁判さいばん審問しんもん審判しんぱんする、調しらべる[55]
御前ごぜんちょう:ごぜんちょう:「御前ごぜん」は「貴人きじんまえ[56]
家臣かしん軍役ぐんえきしるした帳簿ちょうぼ[57]

内田うちだまごよんろうが2ぶん知行ちぎょうかかき、1ぶん世話せわをしているむね風間かざま同心どうしん渡辺わたなべしんさん訴状そじょう提出ていしゅつしましたが、調査ちょうさした結果けっか御前ごぜんちょうすうまごよんろうかかぶんには間違まちがいございませんでした。しんさんもうしたようなことはございませんでした。よって以上いじょうとおりおつたえします。

以下いか省略しょうりゃく

  • 内田うちだまごよんろうは、天正てんしょう元年がんねん(1573ねん)2がつ関宿せきやど合戦かっせん戦功せんこうがあったとして北条ほうじょう氏直うじなお感状かんじょうけ、天正てんしょう2ねん(1574ねん)7がつ(北条ほうじょう)このみから太田おおた美濃みのまもるせい時代じだいからの「すなはら」の「あかり」の領有りょうゆうつづみとめられていた[58]
  • 風間かざま(の軍勢ぐんぜい)が1572ねん-1573ねんごろ、「すなはら」に配置はいちされ、在宿ざいしゅくしていたことはうえの2けん文書ぶんしょえる。
  • こうの「万代よろずよ記録きろくちょう」にみえる風間かざま出羽守でわのかみ雨宮あまみやしゅみずせいわたる太夫たゆうつまくも信女しんにょ(1684ねんぼつ)は、しん方領ほうりょう恩間おんまむら越谷こしがや恩間おんま、『新編しんぺん武蔵むさし風土記ふどき稿こう』には「岩槻いわつきりょうにんあいだむら」としてみえる[59])の渡辺わたなべからとついでいる[60]
    • 恩間おんまむら渡辺わたなべについては、『越谷こしがや[61] や『大竹おおたけあゆみ』(抄本しょうほん[62]いえせているが、自序じじょによると、中世ちゅうせい系譜けいふ正保まさやす年間ねんかん(1644ねん-1648ねん)の火災かさい焼失しょうしつしたため、後年こうねん渡辺わたなべ系図けいず参照さんしょうしてまましいだといい、「しんさんめいはみえない[63]

天正てんしょう9ねん(1581ねん以降いこう北条ほうじょう氏政うじまさが、このころ岩槻いわつきじょうおもだった十郎じゅうろうぼうに、夜間やかんそなえの重要じゅうようせいき、かねてから準備じゅんびととのえておくよう指示しじしたと推定すいていされている書状しょじょうなかに、「風間かざましょ」に加勢かせいすることが重要じゅうようだとの言及げんきゅうがある[64]

北條ほうじょう氏政うじまさ〔カ〕書状しょじょううつし家伝かでん史料しりょう6)[64]
今日きょう構肝あくようカ)しょこうしかしゃ夜中よなか仕置しおきごくこうけん而不申付もうしつけしゃにわかなりかたくこうにちちゅうさへいむじきこうごとしゃあわたゝしくこう、いわんや夜中よなかしゃけん而之仕置しおきせんいちこうじょう風間かざましょこうけん加勢かせいせんいちこうだいいちかきを一里計可被申付侯、またかゝりニごくこう夜中よなかくら(くら)くこうまゝけん申付もうしつけこうかえし夜分やぶん用心ようじんせんいちこうたいかたニ覚悟かくごニ而ハこう惜候、またはん如何いか、くわしくきゝ(聞)こう

十郎じゅうろう殿どの

今日きょうかまえはかんあくようカ)のしょほうしからば、夜中よなか仕置しおききわめ(or 仕置しおきにきわまり)こうねてもうけざるは、にわかかにりがたくこうにちちゅうさへきびしくこうごとは、あわたゞしくこう。いわんや夜中よなかは、ねての仕置しおきせんいちこうじょう風間かざましょかた加勢かせいせんいちこうだいいちにかきをいちばかりもうけらるべくほうまたかゝりにきわめ(or きわまり)こう夜中よなかくら(くら)くこうまゝ、かたもうけらるべくこうかえす々ゝ夜分やぶん用心ようじんせんいちこうだいかたに覚悟かくごにては口惜くちおしくこうまたうるさいは如何いか、くわしくきゝ(聞)たくこう

十郎じゅうろう殿どの

ちゅう
かまえ:かまえ:かこい、防壁ぼうへき、または設備せつび[65]
肝要かんようよう):かんよう:「せんいち」とおなじ。必要ひつよう大切たいせつなこと[66]
仕置しおき:しをき:(仕置しおきをする)征服せいふくしたくに土地とちとりでつくっておく、守備しゅびへいをおく[67]
きわまる・きわめる:きわまる・きわめる:(きわまる)すっかり決定けっていしてしまう、落着らくちゃくする。または究極きゅうきょく状態じょうたいになる。(きわめる)あること究極きゅうきょくのところまでする。[68]
きびしい:きびしい:苛酷かこくな、厳格げんかくな。(用心ようじんきびしうする)非常ひじょう厳重げんじゅう警戒けいかいする[69]
あわたゝしい:何事なにごとかをなすのに、がせいて、さっさとすませようとしたり、みだしたりしている[70]
専一せんいつ:せんいち:必須ひっすなこと、用件ようけんもとづくところ[71]
かき:かきしばなどのかき[72]
かき:かぎかぎかぎてつつくったかぎ[73]
かゝり:あるひと自分じぶん職務しょくむとして管轄かんかつしている地域ちいき[74]
かゝり:かがり(かがり):よる街路がいろその場所ばしょ警固けいごのために。(後略こうりゃく[75]
だいかたに:をうかたに:だい部分ぶぶん、(大方おおがた大方おおかたの)中位ちゅういの、普通ふつうの。(これ大方おおかたことではない)これはありふれた出来事できごとでもなければ、普通ふつうことでもない[76]
口惜くやしい:くちをしい:残念ざんねんやまれる、腹立はらだたしくおもわれる[77]
うるさい:わずらい:病気びょうき骨折ほねおりと辛労しんろう[78]

今日きょう防御ぼうぎょじん大事だいじなところです。さてそこで、夜間やかん防備ぼうびめました(or 防備ぼうびきます)。ねてから指示しじしていないことは、きゅうにはできないものです。昼間ひるまでも、厳重げんじゅうおこなうことはみだしてしまうものです。まして夜間やかんのことは、ねてからの準備じゅんび重要じゅうようですから、風間かざまのところへしっかり加勢かせいすることが重要じゅうようです。だいいちかきを1やく4km)ほど指示しじされるべきです。またかがりめました(or かがりきます)。夜間やかんくらくなっているままに(?)しっかりと指示しじされるべきです。くれぐれも、夜分やぶん用心ようじん重要じゅうようです。とおいちへん覚悟かくごでは、不満ふまんおもいます。また病気びょうきはいかがですか。くわしくきたいです。

十郎じゅうろう殿どの

わか御子みこ対陣たいじん

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推定すいてい天正てんしょう10ねん・1582ねん本能寺ほんのうじへんの8-10がつにかけて、こう北条ほうじょう徳川とくがわうえきのえしん駿しゅん地方ちほう領有りょうゆうめぐってあらそったわか御子みこ対陣たいじん[79] のとき、)9月13にちづけで、北条ほうじょう氏政うじまさ風間かざま出羽守でわのかみに「大手おおてじん」(氏直うじなお軍勢ぐんぜい)の信州しんしゅうにおける戦況せんきょう有利ゆうりつたえ、当方とうほうとしめしあわせて攻勢こうせいるよう指示しじした[80]

北条ほうじょう氏政うじまさ書状しょじょう佐藤さとうこうしん所蔵しょぞう文書ぶんしょ[80]
注進ちゅうしんじょうおもむきなに心地好ここちよこうため致絵見届みとどけこうしかしゃ大手おおてじんわたる吉事きちじ連続れんぞく、於信しゅうとおしゅうさかい山家やまがさんぽうしゅせん余人よにん討捕、信州しんしゅうしゃ無残むざんしょこうとうくちへもてい使つかい見届みとどけこう毎日まいにちじんしゅこうあいだのう首尾しゅびごう打出うちいでこう二此時可走廻候、謹言きんげん

天正てんしょう10ねん・1582ねんきゅうがつじゅうさんにち   氏政うじまさ花押かおう
風間かざま出羽守でわのかみ殿どの

注進ちゅうしんじょうおもむき、いかにも心地好ここちよこう絵図えずいたさせ見届みとどこうしからば、大手おおてじんはいよいよ吉事きちじ連続れんぞく信州しんしゅうとおしゅうさかいいて、山家やまがさんぽうしゅせん余人よにんり、信州しんしゅうのこところこうとうくちへもてい使つかとどくべくこう毎日まいにちじんしゅこうあいだ、よくよく首尾しゅびあわせ、すべくこう此時、はしまわるべくこう謹言きんげん

以下いか省略しょうりゃく
ちゅう
注進ちゅうしんじょう:ちゅうしんじょう:「注進ちゅうしん」は「陣中じんちゅうから主君しゅくんたいして、戦争せんそう経過けいかとか、そのこととかにかんする情報じょうほうおくること」[81]
心地好ここちよい:ここちよい:「心地ここち」は「態度たいど、あるいは、様子ようす[82]
大手おおてじん:おおてじん:「大手おおて」は「しろ正門せいもん[83]氏直うじなお軍勢ぐんぜいのこと[84]。このころ甲州こうしゅう若神子わかみこきたもり須玉すたままち)にざいじんしていた。
わたる:いよいよ:ますます[85]
てい使つかい:ぢゃぅづかい:伝言でんごんつたえたり、用足ようたしをしたりなどする特定とくていひと[86]
ひとじんしゅう:じんしゅ:兵士へいし、または、陣営じんえいないにいる人々ひとびと[87]
づけ)くる:うちつくる:くぎなどのものをちつける、かべ粘土ねんどをくっつけるなど、ものげつけたり、ぶつけたりしてそれを付着ふちゃくさせる[88]
首尾しゅび:しゅび:あたまと。すなわち、はじめとわりと[89]
はしまわる:はしりまわる・はしりめぐる:はしってまわ[90]

報告ほうこくしょ趣旨しゅしは、なるほどいとおもいました。絵図えずえがかせて確認かくにんいたしました。さてところで、大手おおてじんはますますいことつづきで、信州しんしゅうとおしゅうさかいにおいて山家やまがさんぽうしゅせん余人よにんを討り、信州しんしゅうあますところがくなりました。我々われわれ方面ほうめんへもてい使つかいが確認かくにんできるでしょう。毎日まいにち味方みかた兵士へいし攻撃こうげきしているところですので、よくよくタイミングをわせて出撃しゅつげきしてください。いまこのときこそ、ご活躍かつやくください。謹言きんげん

以下いか省略しょうりゃく

岩槻いわつき黒谷くろたに雨宮あまみやわたる太夫たゆう先祖せんぞ

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2006年刊ねんかん茂木もき和平わへい埼玉さいたま苗字みょうじ辞典じてん[91]および下山しもやま治久はるひさ北条ほうじょう家臣かしんだん人名じんめい辞典じてん[5] に、いわづけ城下じょうか黒谷くろたにむらさいたま岩槻いわつき)の妙円寺みょうえんじ開基かいきは、風間かざま出羽守でわのかみ嫡子ちゃくし雨宮あまみやしゅみずただし、とあり、茂木もきは、「風間かざま」は信濃しなのこく水内みずうちぐん式内しきない社風しゃふうあいだ神社じんじゃからおこざいめいで、本名ほんみょうが「雨宮あまみや」と推測すいそくし、黒谷くろたにむらには、雨宮あまみやが5あり、風間かざまい、と指摘してきしている[91]。『岩槻いわつき 通史つうしへん[92] には、「妙円寺みょうえんじ曹洞宗そうとうしゅう開基かいき風間かざま出羽守でわのかみ嫡子ちゃくし雨宮あまみやしゅみずただし開山かいさんきよしてらだい三世雪庭祖林和尚」とある[93]

江戸えど時代じだい黒谷くろたにむら名主なぬしをしていた雨宮あまみやわたる太夫たゆう安政あんせい2ねん(1855ねん)からがれた「万代よろずよ記録きろくちょう」(杉崎すぎさき賢治けんじ文書ぶんしょ[94] なかの「清和せいわ天皇てんのう七代之孫源頼義公 当家とうけ世代せだいひかえ」によると、同家どうけ始祖しそは、「風間かざま出羽守でわのかみ嫡子ちゃくし雨宮あまみやしゅみずただし本国ほんごく紀州きしゅう清和せいわ源氏げんじ頼義よりちか18だいこう 風間かざま出羽守でわのかみ〕」である[95]雨宮あまみやしゅみずせい没年ぼつねんうけたまわおう元年がんねんみずのえたつ(1652ねん)で、その(1689ねんぼつ)から代々だいだいわたる太夫たゆう」を名乗なのったとされている[95]

明治めいじ8ねん(1875ねん)に調査ちょうさおこなわれた『武蔵むさしこく郡村こおりむら』の黒谷くろたにむら 妙円寺みょうえんじこうには、「正保しょうほうころむら雨宮あまみや利之としゆきすけ祖先そせん風間かざま出羽守でわのかみ庶子しょし雨宮あまみやしゅみず開基かいき創建そうけんすとうん」とあり[96]、「利之としゆきすけ」のは「万代よろずよ記録きろくちょう」にもみえる[97]

万代よろずよ記録きろくちょう」には、べつに、雨宮あまみや毎年まいとし正月しょうがつと7がつ岩槻いわつき太田おおたきよしげんてらと、黒谷くろたにむら妙円寺みょうえんじ遍照院へんしょういんとどけをしており、妙円寺みょうえんじについては、先祖せんぞ開基かいきだったむねがみえる[98][99]。『岩槻いわつき史料しりょう 13 民俗みんぞく調査ちょうさ報告ほうこくしょ2』所載しょさい聞書ききがきによると、黒谷くろたに雨宮あまみやいちとう本寺ほんじきよしげんてらで、妙円寺みょうえんじにははかのみがあったが、遍照院へんしょういんはかうつした、とされている[100]

黒谷くろたに地区ちく雨宮あまみやせいには2系統けいとうあり、屋号やごう「ホンケ」「トライチドン」のあめ宮家みやけには、4だいまえ継嗣けいしおさないうちに両親りょうしん死去しきょしたため、母方ははかた実家じっかのあった越谷こしがや西新井にしあらいやしなわれ、成長せいちょうしてから黒谷くろたにもど復活ふっかつさせたとつたえられていた[101]

べつ系統けいとう屋号やごう「ケイッカ」のあめ宮家みやけは、嫡子ちゃくし岩槻いわつき移住いじゅうしており、先祖せんぞだい坂城さかき財政ざいせい仕事しごとをしていたが、大坂おおさか落城らくじょうのとき、まつブシミンブサマ一緒いっしょびてきた、とつたえられていた[101]松伏まつぶしまち石川いしかわみんりゅうについては、河内かわうち石川いしかわとするせつもあり[102]松伏まつぶしまちで2001-2002ねんごろまち編纂へんさんのためききと調査ちょうさ実施じっししたさいにも、石川いしかわみん始祖しそ大坂おおさかじんころ関西かんさいからびてきた、との民間みんかん伝承でんしょうのこっていた[103][104]

万代よろずよ記録きろくちょう」がつたわった杉崎すぎさきは、雨宮あまみや継嗣けいしあねとつさきで、雨宮あまみや継嗣けいしおさなころ両親りょうしん死去しきょしたため、その後見人こうけんにんとなり、継嗣けいし成長せいちょうしたのち岩槻いわつき移住いじゅうしたため、雨宮あまみやあといだ、とされている[101]

風間かざま用水ようすい風間かざま

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武蔵むさしこく郡村こおりむら』の下新井しもあらいむらこうに、同村どうそん北方ほっぽう飯塚いいづかむらからみなみながれて高曽根たかそねむら黒谷くろたにむらあいだはいる「風間かざまほり」について言及げんきゅうがある[105]。1984ねん当時とうじは「風間かざま用水ようすい」とばれるようになっており、「飯塚いいづかから南下新井みなみしもあらい黒谷くろたに高曽根たかそねへとつづく」とされている[106]

天明てんめい3ねん(1783ねん)の「飯塚いいづかむら明細めいさいしょじょうちょう」には、元荒川もとあらかわから用水ようすいれるため、風間かざま風間かざま新田しんでんの2箇所かしょ圦(いり)普請ふしんしてあるむねがみえ、風間かざまの圦について飯塚いいづか下新井しもあらい黒谷くろたに高曽根たかそね野島のじままごじゅうろうの6ヶ村かそん風間かざま新田しんでんの圦について末田すえだ飯塚いいづかの2ヶ村かそん組合くみあいとされている[107]

いち 村国むらくにむら治郎じろう兵衛ひょうえうらより風間かざま圦前までほりちょうさんひゃくはちひろえさんあいだ
いち 風間かざま(圦)しりより往還おうかん石橋いしばしまで ななひろえあいだ
いち 往還おうかん石橋いしばしより古川ふるかわ堤上つつみのうえこうまで ひゃくはちひろえはちあいだ
いち 古川ふるかわつつみあがぐち石橋いしばしより下新井しもあらい馬洗場うまあらいば石橋いしばしまでひゃくひろえあいだ
いち 上曾根かみぞね土橋どばしより落口おちぐちまで ろくひろえよんあいだ
 〆ほりちょうせんろくひろえはちあいだやく1.942km)ゆうさるこうみぎ役人やくにん者共ものどもさん当年とうねん
 ハ〆きゅうひゃくひろえきゅうあいだとうゆう清水しみずみぎ金次きんじとう

— 風間かざまほりすじさとし、「清水しみず金之かねゆきあきら文書ぶんしょ[108]

考証こうしょう評価ひょうか

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  • 文政ぶんせい11ねん(1828ねん)の『新編しんぺん武蔵むさし風土記ふどき稿こう』は、「風間かざま」のしるされたのち北条ほうじょう発給はっきゅう文書ぶんしょ2てん収載しゅうさいし、うち1てんに「文中ぶんちゅう風間かざまといへるは、小田原おだわら北条ほうじょうにかかへおけるらんなり、らんとはしのびのもののことにて、あるひはとおるなみともうん風間かざまはその首領しゅりょうにて、諸国しょこくまわ軍事ぐんじをたすけしものなり」とへんちゅうしている[15]
  • よしみひさし3ねん(1850ねんかんの『武江たけえ年表ねんぴょう』の天正てんしょう18ねん1590ねん)の記事きじに「天正てんしょうころ関東かんとうみだれ波風なみかぜあいだといへる強盗ごうとうあり、とうむす陣中じんちゅうへもしのいれぬすめをなす諸人もろびとおそれけるが今年ことしよりいずれへか逃退て其噂ぜったり〔北条ほうじょうだい〕」とあるが、『武江たけえ年表ねんぴょう補正ほせいりゃく』をあらわした喜多村きたむらしんぶしは、「みだれやぶ」は徒党ととう名称めいしょう、「ふう」はそのなか一人ひとり名前なまえだとせつしている。[109]
  • 万延まんえん元年がんねん(1860ねんごろ完成かんせいした和学わがく講談こうだんしょの『武家ぶけ名目めいもくしょう』において、『北条ほうじょうだい』「関東かんとうらんさとしこと」にみえるらんは、つねに「しのぶ(しのび)」をえきする一種いっしゅの「しずじん」で、野武士のぶし強盗ごうとうなどのなかから扶持ふちされ、戦国せんごく大名だいみょうあいだしゃ・かまり・夜討ようちなどに使つかうために彼等かれらやしないた、と解釈かいしゃくされている[110]
  • 1926ねん花見はなみついたちは、「らっぱ」とは、もともと身分みぶんひくく、情勢じょうせい次第しだい主君しゅくんえる傭兵ようへい野武士のぶしのような雑兵ぞうひょうで、軽装けいそう防備ぼうび手薄てうすてきかた陣所じんしょものりにはいり、火付ひつけをするなどしていた「足軽あしがる」が、時代じだいくだるにつれて部隊ぶたいされたもので、『北条ほうじょうだい』のなかでは分明ぶんめいな、斥候せっこう偵察ていさつをする「しのびのもの」とはやや異質いしつ存在そんざいだったのではないか、と指摘してきした[111]
  • 1928ねん三田村鳶魚みたむらえんぎょは、『北条ほうじょうだい』のふう、『鎌倉かまくら管領かんりょうきゅうだい』の風間かざま小太郎こたろうと『見聞けんぶんしゅう』の「ふう一類いちるいらっぱの子孫しそんども」をおなじ「ふう一類いちるい」だ、と解釈かいしゃくして、「らっぱ」すなわちあやしげな能力のうりょくった「しのびの上手じょうず」の「ふう一類いちるい」が、こう北条ほうじょう滅亡めつぼうしょくろくうしない、江戸えどのぼって盗賊とうぞく泥坊どろぼう)になったと主張しゅちょうした[112]
  • 1928ねん折口おりぐち信夫しのぶは、三田みたむらの「盗賊とうぞくてき見方みかた発展はってんさせ、らっぱを「サンカ」(山岳さんがく地帯ちたい特殊とくしゅ民族みんぞく)がさとりて街道かいどうすじ流浪るろうするようになった存在そんざいだと主張しゅちょうした[113]
  • 2004ねん下沢しもざわあつしは、『北条ほうじょうだい』「関東かんとうらんさとしこと」のじょうに、らんのいいかえである「ひゃくにんあくぬすめ」について『節用せつようしゅう』に「あくとう」が「悪党あくとう」のいいかえとされていることや、作中さくちゅうの「山賊さんぞく海賊かいぞく夜討ようち強盗ごうとう」の列挙れっきょが『成敗せいばい式目しきもくだい3じょう罪科つみとが列挙れっきょ共通きょうつうしていることから、らん悪党あくとう極悪ごくあく凶悪きょうあく盗人ぬすっと集団しゅうだん)と解釈かいしゃくし、戦国せんごく大名だいみょう傭兵ようへいとして悪党あくとう集団しゅうだんかかえ、足軽あしがる部隊ぶたい先導せんどうさせるなどして、現代げんだい斥候せっこうのような索敵さくてき偵察ていさつ任務にんむや、夜討よう代表だいひょうされる夜間やかん奇襲きしゅう攻撃こうげきのような特殊とくしゅ任務にんむ使役しえきした、と解釈かいしゃくした[114]
また下沢しもざわは、『北条ほうじょうだい』「関東かんとうらんさとしこと」の後半こうはんの「たたすぐり・きょすぐり」の逸話いつわが『太平たいへいまきだい34「平石ひらいししろぐんことけたり和田わだ夜討ようちこと」の記事きじにみえることを指摘してきし、どうはなし三浦みうらきよししんによる再話さいわである可能かのうせい指摘してきしつつも、身分みぶんひくい、社会しゃかいさい底辺ていへんにあるような人々ひとびと悪党あくとう集団しゅうだん構成こうせいし、中世ちゅうせい古風こふう悪党あくとう智略ちりゃくをそのまま踏襲とうしゅうしていた、と解釈かいしゃくしている[114]
  • 2006ねん下山しもやま治久はるひさ北条ほうじょう家臣かしんだん人名じんめい辞典じてん』は、「風間かざま」のえるのち北条ほうじょう発給はっきゅう文書ぶんしょ5てん黒谷くろたにむら妙円寺みょうえんじ開基かいき雨宮あまみやしゅみずせい先祖せんぞ風間かざま出羽守でわのかみつて紹介しょうかいしたうえで、「風間かざま」を「ふうま」とみ、「風間かざま」と「風間かざま出羽守でわのかみ」を「北条ほうじょうつかえた忍者にんじゃ棟梁とうりょう」と解釈かいしゃくしている[5]
  • 2013ねん黒田くろだ基樹もときは、下山げざん北条ほうじょう家臣かしんだん人名じんめい辞典じてん』にげられている史料しりょうのうち、黒谷くろたにむら妙円寺みょうえんじ開基かいき雨宮あまみやしゅみずせい先祖せんぞ風間かざま出羽守でわのかみつてのぞく5てんと、別人べつじんされる「風間かざま」の人名じんめいえるのち北条ほうじょう発給はっきゅう文書ぶんしょ1てん存在そんざい指摘してきし、風間かざま史料しりょうちゅうで、軍事ぐんじ最前線さいぜんせん配備はいびされ、軍事ぐんじ活動かつどうにな存在そんざいとされている、とし、推定すいてい天正てんしょう9ねん以降いこう北条ほうじょう氏政うじまさじゅうろうあて書状しょじょう風間かざまてきよるかかへの警戒けいかいにあたっていることもあわせて、特殊とくしゅ軍事ぐんじ活動かつどうおおおこな存在そんざいであったことがうかがわれ、それが江戸えど時代じだいに「忍者にんじゃふう小太郎こたろう」をした、と推測すいそくしている[6]
  • 2020ねん平山ひらやまゆう戦国せんごくしのび』は、「ふう実像じつぞう検討けんとうした唯一ゆいいつ研究けんきゅう[115] として黒田くろだ論考ろんこうげ、先行せんこう研究けんきゅう存在そんざい否定ひていしたうえで、天正てんしょう9ねん以降いこう北条ほうじょう氏政うじまさぼうにあてていたと推定すいていされている文書ぶんしょなかにみえる「かき」は「ぎ」(嗅物聞、偵察ていさつしのび)で、風間かざまが「ぎ」をするようめいじられたと解釈かいしゃくし、実在じつざいした風間かざまは、こう北条ほうじょうにとって重要じゅうよう戦場せんじょう最前線さいぜんせん派遣はけん配置はいちされており、かなりの規模きぼ軍勢ぐんぜいひきいていたが、その軍勢ぐんぜい素行そこうわるく、味方みかたむら々からも悪評あくひょう紛々ふんぷんであった、として、『北条ほうじょうだい』などが「明記めいき」する「ふういちとう悪党あくとう出身しゅっしんのアウトロー集団しゅうだんであった」という記述きじゅつとほぼ一致いっちする、と解釈かいしゃくしている[116]

関連かんれん項目こうもく

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関連かんれん作品さくひん

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脚注きゃくちゅう

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  1. ^ 北条ほうじょうだいまき9 「関東かんとうらん智略ちりゃくこと萩原はぎはら龍夫たつおこうちゅう)『北条ほうじょう史料しりょうしゅう人物じんぶつ往来おうらいしゃ、1966ねん、397-401ぺーじ 
  2. ^ 写本しゃほん内閣ないかく文庫ぶんこほん
  3. ^ かぜ麿まろ表記ひょうきとしているれいもある。推定すいてい文化ぶんか9ねん(1812ねんごろ成立せいりつの『三浦郡神社寺院民家戸数並古城旧跡』のはやしむら 狐塚きつねづかこうにある北条ほうじょうだかころ強盗ごうとうはなしに、「らんかぜ麿まろ(らっぱかざまろ)」のがみえる(翻刻ほんこく:『三浦みうら文化ぶんかだい4ごう京浜急行電鉄けいひんきゅうこうでんてつ株式会社かぶしきがいしゃ 三浦みうら文化ぶんか研究けんきゅうかい、1968ねん5がつ、81-118ぺーじの101ぺーじ)。成立せいりつ時期じきについては、高橋たかはし恭一きょういち「『相州あいしゅう三浦郡神社寺院民家戸数并古城旧跡』について・・・・・三浦みうら古蹟こせきしゅう」(同書どうしょ77-78ぺーじ)を参照さんしょう
  4. ^ ひょうかかげたほかに1906ねん芳賀はが矢一やいち校訂こうてい)『慶長けいちょう見聞けんぶんしゅう』(袖珍しゅうちん名著めいちょ文庫ぶんこ冨山とやまぼう)の翻刻ほんこく刊行かんこうされているが、抄録しょうろくであり、7かんせきはちしゅう盗人ぬすっとかりこと」が収載しゅうさいされていない。
  5. ^ a b c 下山しもやま治久はるひさ北条ほうじょう家臣かしんだん人名じんめい辞典じてん東京とうきょうどう出版しゅっぱん、2006ねん9がつ、523-524ぺーじISBN 978-4490106961
  6. ^ a b c 黒田くろだ基樹もとき「コラム 風間かざま出羽守でわのかみのこと」『北条ほうじょう年表ねんぴょう高志こうし書院しょいん、2013ねん、136-138ぺーじ
  7. ^ 小田原おだわら 史料しりょうへん 中世ちゅうせい3 小田原おだわら北条ほうじょう2』小田原おだわら、1993ねん
  8. ^ a b 小田原おだわら 史料しりょうへん 中世ちゅうせい3 小田原おだわら北条ほうじょう2』1993ねん、No.1106、93-94ぺーじ
  9. ^ 土井どい忠生ただお森田もりたたけし長南ちょうなん邦訳ほうやく葡辞しょ岩波書店いわなみしょてん、1980ねん、569ぺーじみぎだん
  10. ^ 邦訳ほうやく葡辞しょ』792ぺーじひだりだん
  11. ^ 邦訳ほうやく葡辞しょ』98ぺーじひだりだん
  12. ^ 邦訳ほうやく葡辞しょ』395ぺーじひだりだん
  13. ^ 小田原おだわら 史料しりょうへん 中世ちゅうせい3 小田原おだわら北条ほうじょう2』1993ねん、No.1106、93ぺーじ ちゅう(2)
  14. ^ 邦訳ほうやく葡辞しょ』162ぺーじひだりだん
  15. ^ a b 新編しんぺん武蔵むさし風土記ふどき稿こうまき111 多磨たまぐん23 小宮こみやりょう 檜原ひのはらむら じょう 旧家きゅうか 百姓ひゃくしょう吉野よしの軍次ぐんじあしじんへん)『だい日本にっぽん地誌ちし大系たいけい だい10かん 風土記ふどき稿こう6』雄山閣ゆうざんかく、1931ねん、81-82ぺーじ
  16. ^ 滝沢たきざわひろし帰農きのうしたさむらいたち - 吉野よしの師岡もろおか」たましん地域ちいき文化ぶんか財団ざいだん多摩たまのあゆみ』だい46ごう、1987ねん2がつ、37-50ぺーじ
  17. ^ 黒田くろだ基樹もとき総論そうろん 北条ほうじょうぼう研究けんきゅう黒田くろだ基樹もときへん)『北条ほうじょうぼう』〈論集ろんしゅう戦国せんごく大名だいみょうくにしゅ19〉岩田いわた書院しょいん、2015ねん、19ぺーじ
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参考さんこう文献ぶんけん

[編集へんしゅう]
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