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鳥羽とば陽之助ようのすけ

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とば ようのすけ
鳥羽とば 陽之助ようのすけ
鳥羽 陽之助
おかあさん』(1952ねん
本名ほんみょう 鳥羽とば 輝雄てるお とば てるお
生年月日せいねんがっぴ (1905-03-16) 1905ねん3月16にち
ぼつ年月日ねんがっぴ (1958-10-10) 1958ねん10がつ10日とおか(53さいぼつ
出生しゅっしょう 日本の旗 日本にっぽん 東京とうきょう東京とうきょう現在げんざい東京とうきょう
死没しぼつ 日本の旗 日本にっぽん
職業しょくぎょう 俳優はいゆう
ジャンル 映画えいが
活動かつどう期間きかん 1922ねん - 1958ねん
活動かつどう内容ないよう 1922ねん 新劇しんげき参加さんか
1926ねん マキノ・プロダクション映画えいがデビュー
1927ねん 日本にっぽん映画えいがプロダクション入社にゅうしゃ
1927ねん 日活にっかつ太秦うずまさ撮影さつえいしょ移籍いせき
1937ねん J.O.スタヂオ
1937ねん 東宝とうほう映画えいが京都きょうと撮影さつえいしょ
1938ねん 東宝とうほう映画えいが東京とうきょう撮影さつえいしょ
1944ねん 東宝とうほう
1947ねん しん東宝とうほう設立せつりつ参加さんか
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鳥羽とば 陽之助ようのすけ(とば ようのすけ、1905ねん3月16にち - 1958ねん10がつ10日とおか[1])は、日本にっぽん俳優はいゆうである。本名ほんみょう鳥羽とば 輝雄てるお(とば てるお)、高勢たかせじょうとの「極楽ごくらくコンビ」でられる[1]

人物じんぶつ来歴らいれき

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1905ねん明治めいじ38ねん3月16にち東京とうきょう東京とうきょう現在げんざい東京とうきょう)に「鳥羽とば輝雄てるお」としてまれる[1]

大倉おおくら高等こうとう商業しょうぎょう学校がっこう現在げんざい東京経済大学とうきょうけいざいだいがく)を3ねん中途ちゅうと退学たいがくし、まん17さいになる1922ねん大正たいしょう11ねん)、新劇しんげき東京とうきょう自由じゆう劇場げきじょう俳優はいゆう養成ようせいしょ研修生けんしゅうせいとなる。1923ねん大正たいしょう12ねん)に伊川いがわ八郎はちろうの「くにせいげき」、1926ねん大正たいしょう15ねん)には明石あかしうしお一座いちざ参加さんかする。

同年どうねん京都きょうと御室おむろマキノ・プロダクションで、二川ふたかわ文太郎ぶんたろうらが監督かんとくした月形つきがた龍之介りゅうのすけ主演しゅえんさく修羅しゅらはちあら』に出演しゅつえんして映画えいがかいにデビューした[2]よく1927ねん昭和しょうわ2ねん)、奈良なら設立せつりつされた日本にっぽん映画えいがプロダクション参加さんか[1]市川いちかわ市丸いちまる主演しゅえん志波しば西にしはて監督かんとくさく天狗てんぐ騒動そうどう』に出演しゅつえん[2]、つづいて中川なかがわむらさきろう監督かんとくの『東海道とうかいどう四谷よつや怪談かいだん』ではつ主演しゅえんたす[1]同社どうしゃどうさくをもって解散かいさんする。同年どうねん日活にっかつ太秦うずまさ撮影さつえいしょ入社にゅうしゃする[1]

日活にっかつでのだい1さくは、マキノに移籍いせきする寸前すんぜんみなみ光明こうめい主演しゅえんし、吉本よしもときよし監督かんとくした『助太刀すけだち御免ごめん』で[2]同年どうねん清瀬きよせ英次郎えいじろうみとめられて清瀬きよせ監督かんとくさくぎん蝙蝠かわほり』に主演しゅえんした[1]。トーキー以降いこうに、喜劇きげき俳優はいゆう転向てんこうした高勢たかせじょうと「極楽ごくらくコンビ」を[1]二人ふたりのかけあいのギャグ・シーンが、山中やまなか貞雄さだおやその弟子でし萩原はぎはらりょう作品さくひんふくめ、おおくの映画えいがまれた。「極楽ごくらくコンビ」を主役しゅやくとした映画えいがに、萩原はぎはら監督かんとくデビューさくちゃづけさむらい』(1936ねん)、石橋いしばし清一せいいち監督かんとくの『一刀いっとうりゅう指南しなん』(1936ねん)、ひさし見田みた喬二きょうじ監督かんとくの『極楽ごくらく武勇ぶゆうでん』(1936ねんとうがある[2]鳥羽とばは、1937ねん昭和しょうわ12ねん)、山中やまなか貞雄さだお監督かんとくの『もり石松ひかげのかずら』に清水次郎長しみずのじろちょうやく出演しゅつえんし、石橋いしばしきよしいち監督かんとくの『極楽ごくらく三度笠さんどがさ』に出演しゅつえんしたのを最後さいごJ.O.スタヂオ移籍いせきした[2]

J.O.入社にゅうしゃだい1さくは、並木なみきかがみ太郎たろう監督かんとく直木なおき三十五さんじゅうご原作げんさくの『南国なんごく太平たへい』で、岡田おかだしょうふじやく西郷さいごう吉之助よしのすけやくやくをこなした[2]同社どうしゃ同年どうねん合併がっぺいにより東宝とうほう映画えいが設立せつりつ鳥羽とばつづ東宝とうほう映画えいが京都きょうと撮影さつえいしょ所属しょぞくした[2]よく1938ねん昭和しょうわ13ねん)からは東宝とうほう映画えいが東京とうきょう撮影さつえいしょ現在げんざい東宝とうほうスタジオ)に異動いどうとなった[2]だい世界せかい大戦たいせんなか時期じき、1944ねん昭和しょうわ19ねん)に同社どうしゃ合併がっぺいによって東宝とうほうとなってからも、東宝とうほう所属しょぞくした[2]戦後せんご、1947(昭和しょうわ22ねん)、しん東宝とうほう設立せつりつ参加さんかし、同社どうしゃ設立せつりつだい1さく市川いちかわこん監督かんとくの『東宝とうほうせんいち』に出演しゅつえんしている[2]

1958ねん昭和しょうわ33ねん10がつ10日とおか病気びょうきにより死去しきょした[1]まん53さいぼつ

おもなフィルモグラフィ

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  1. ^ a b c d e f g h i 無声むせい映画えいが俳優はいゆう名鑑めいかん』、無声むせい映画えいが鑑賞かんしょうかいへんマツダ映画えいがしゃ監修かんしゅう、アーバン・コネクションズ、2005ねん、p.155。
  2. ^ a b c d e f g h i j #外部がいぶリンク、「鳥羽とば陽之助ようのすけ」、日本にっぽん映画えいがデータベース、2009ねん11月12にち閲覧えつらん

外部がいぶリンク

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