ねずみ小僧こぞう

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よん代目だいめ市川いちかわ小團次こだんじねずみ小僧こぞう
安政あんせい4ねん正月しょうがつ1857ねん2がつ)、江戸えど市村いちむら初演しょえんの『ねずみ小紋こもんひがしくん新形しんがた』より。2代目だいめ歌川うたがわ豊国ほうこく[よう出典しゅってん][1]

ねずみ小僧こぞう(ねずみこぞう)こと次郎吉じろきち(じろきち、 寛政かんせい9ねん1797ねん〉 - 天保てんぽう3ねん8がつ19にち1832ねん9月13にち〉)は、江戸えど時代じだい後期こうきせい)の盗賊とうぞく鼠小僧次郎吉ねずみこぞうじろきちとしてられる。大名だいみょう屋敷やしきのみをねらってぬすみにはいり、ひときずつけることもなかったことから、後世こうせい義賊ぎぞくとして伝説でんせつされた。

本業ほんぎょう鳶職とびしょくであったといわれる。

生涯しょうがい[編集へんしゅう]

以下いかは「鼠賊そぞく白状はくじょう」とばれるねずみ小僧こぞう自身じしん自白じはく調書ちょうしょによる。

ち - 盗人ぬすっと稼業かぎょうへ・1度目どめ捕縛ほばく[編集へんしゅう]

歌舞伎かぶき小屋こや中村なかむら便利べんり稼業かぎょうつとめる貞次郎ていじろう定吉さだきちていななとも)の息子むすことしてもと吉原よしはら現在げんざい日本橋にほんばし人形にんぎょうまち)にまれる[ちゅう 1]。10さい前後ぜんこう木具きぐ職人しょくにんいえ奉公ほうこうがり、16さい親元おやもとかえった。その鳶人足とびにんそくとなったが、不行跡ふぎょうせきのため父親ちちおやから25さいとき勘当かんどうされる。その賭博とばくくずし、その資金しきんかせぎのために盗人ぬすっと稼業かぎょうめるようになったとつたわる。

文政ぶんせい6ねん1823ねん以降いこう武家ぶけ屋敷やしき奥向おくむきしのむこと28箇所かしょ32かいおよんだが、文政ぶんせい8ねん1825ねん)に土浦つちうらはん上屋敷かみやしきげん日本橋蛎殻にほんばしかきがらまち丁目ちょうめ当時とうじ藩主はんしゅ奏者そうしゃばん土屋つちや彦直)にしのんだところ捕縛ほばくされた。みなみ町奉行まちぶぎょうしょ尋問じんもんけるが、「はじめてぬすみにはいった」とうそをついてけ、入墨いれずみうえ追放ついほうけいける。

なおもつづ盗人ぬすっと稼業かぎょう - 2度目どめ捕縛ほばく処刑しょけい[編集へんしゅう]

一時いちじ上方かみがた姿すがたしたものの、江戸えどひそかにもどり、父親ちちおやんでいる長屋ながやせる。しかし、賭博とばく資金しきんしさにまたもや盗人ぬすっと稼業かぎょうはじめた。

その7ねんにもわたって武家ぶけ屋敷やしき71箇所かしょ、90かいにわたってしのみついに天保てんぽう3ねん5月5にち1832ねん6月3にち)(日付ひづけについては8にち6にち)などの諸説しょせつあり)、日本橋にほんばし浜町はまちょう上野うえのこく小幡おばたはん屋敷やしき当時とうじ藩主はんしゅ松平まつだいらただしめぐみ)で捕縛ほばくされた。しゃくたぬ小男こおとこで、動作どうさ敏捷びんしょうといい、つかまったときはろく家財道具かざいどうぐもなくかねもなかった。

北町きたまち奉行ぶぎょう榊原さかきばら忠之ただゆき尋問じんもんたいし、じゅう年間ねんかんらした屋敷やしき95箇所かしょ、839かいぬすんだかねさんせんりょうあまり、とねずみ小僧こぞう供述きょうじゅつしたが、本人ほんにん記憶きおくしていない部分ぶぶんもあり、もろしょによってもちがうので正確せいかく金額きんがくいまだに不明ふめいである。

3ヵ月かげつの8がつ19にち(9がつ13にち)に市中しちゅうまわうえでの獄門ごくもん判決はんけつくだされる。まわしのさいにはろう屋敷やしきのある伝馬てんままちから日本橋にほんばし京橋きょうばしのあたりまで、すで有名人ゆうめいじんであったねずみ小僧こぞう一目いちもくようと野次馬やじうま大挙たいきょしてせたという。市中しちゅうまわしは当時とうじいちしゅ見世物みせものとなっており、みすぼらしい外見がいけんだと見物人けんぶつにん反感はんかんいかねなかったためとく有名ゆうめい罪人ざいにんであったねずみ小僧こぞうにはうつくしい着物きものけさせ、薄化粧うすげしょうをして口紅くちべにまでしていたという。

処刑しょけい小塚原こづかはら刑場けいじょうにておこなわれた。

その[編集へんしゅう]

ねずみ小僧こぞう両国りょうこく回向えこういん

当時とうじ重罪じゅうざいには連座れんざせい適用てきようされていたが、ねずみ小僧こぞう勘当かんどうされているために肉親にくしんとはえんれており、すうにんいたというつまわらわにも捕縛ほばく直前ちょくぜん離縁りえんじょうわたしていたため、天涯孤独てんがいこどくとしてけいけた。このみずからのおこないにたい他人たにんまずにませたというてんも、ねずみ小僧こぞう義賊ぎぞくあつかいされる要因よういんのひとつとなっている。

はか両国りょうこく回向えこういんにある。参拝さんぱいきゃく長年ながねんつかまらなかった幸運こううんにあやかろうと、はかのおまえちをけずってかえり、おまもりにしている[2]。また愛知あいちけん蒲郡がまごおりゆだねそらてらにも母親ははおやによるとされるはか移設いせつしたものがある。その南千住みなみせんじゅ小塚原こづかはら回向えこういん愛媛えひめけん松山まつやま岐阜ぎふけん各務原かがみはらひとしにもねずみ小僧こぞう恩義おんぎけた人々ひとびとてたひとしつたえられるはかがある。

異説いせつ[編集へんしゅう]

異説いせつとして、西之にしのぐんむらげん愛知あいちけん蒲郡がまごおり)が生家せいかであるとのせつがある。

鼠小僧次郎吉ねずみこぞうじろきち」(神明しんめいまち

江戸えど時代じだい末期まっきいちはちさん年代ねんだい天保てんぽう年間ねんかんのおはなしなんねんかはからないが、当時とうじ西にしぐんばれていたかばのぐん江戸えどから一人ひとりろう婦人ふじんがひっそりとかえってきてらしはじめた。三十五さんじゅうごろくねんぶりのことだ。いえ裏手うらてには、うっそうとしたやぶひろがっていた。そのやぶなかに、名前なまえ戒名かいみょうかれていない粗末そまつはからしきものがある、とちかくの住民じゅうみんづいたのは、それからしばらくたってからのことだった。 ろう婦人ふじんを、かんといった。あるのこと、みちでかんとすれちがった住民じゅうみんたずねた。「やぶなかにあるはかは、どなたをご供養くようなさっているんですか」。かんは一瞬いっしゅんおどろいた様子ようすせ、かおをくもらせた。しばらくたってちいさなこえで「せがれの」とだけ、ってった。 「がまごおり風土記ふどき」(伊藤いとうたかしあきらちょ)には、文政ぶんせい江戸えどちゅう大名だいみょう屋敷やしきしのみ、天保てんぽうさんねんさんじゅうはちさい処刑しょけいされた鼠小僧次郎吉ねずみこぞうじろきちかばのぐんまれだとかれている。母親ははおやのかんは、処刑しょけいのあといちにぎりの遺髪いはつがまがたむらかえり、はかをつくり冥福めいふくいのった。このはかのちゆだねそらてら神明しんめいまち)にうつされたという。 次郎吉じろきち生家せいか現在げんざい神明しんめいまち生後せいごあいだもなくちちていなな江戸えど旅立たびだってしまう。いちねんははのかんは、ていななっておさな次郎吉じろきち背負せお上京じょうきょうした。おはかのいわれとともに、このようなはなし代々だいだいかたつたえられている。真実しんじつはともかく、ねずみ小僧こぞう歌舞伎かぶき小説しょうせつ映画えいが義賊ぎぞくとしてえがかれている。地元じもとひとたちには、ちょっぴり自慢じまんだったにちがいない。 (広報こうほうがまごおり:H23.1より引用いんよう[3]

義賊ぎぞく伝説でんせつをめぐる虚像きょぞう実像じつぞう[編集へんしゅう]

ねずみ小僧こぞうについて「かねこまったまずしいものに、汚職おしょく大名だいみょう悪徳あくとく商家しょうかからぬすんだ金銭きんせんあたえた」という義賊ぎぞく伝説でんせつがある。事実じじつ次郎吉じろきち捕縛ほばくされたのち役人やくにんによる家宅かたく捜索そうさくおこなわれたが、ぬすまれた金銭きんせんはほとんど発見はっけんされなかった。しかしねずみ小僧こぞう記録きろくるとぬすんだ金銭きんせんあたえた事実じじつはどこにもしるされておらず、新聞しんぶん記者きしゃ経験けいけんもある作家さっか矢田挿雲やだそううんは「(ぬすんだかね大半たいはんは)衣食住いしょくじゅう贅沢ぜいたくひ其他は酒色しゅしょく遊興ゆうきょうまた博奕ばくえき資本しほん使つかい際立きわだって貧民ひんみんほどこした形跡けいせきい」と義賊ぎぞく伝説でんせつ否定ひていしている[4]

またねずみ小僧こぞう武士ぶし階級かいきゅう絶対ぜったいであった江戸えど時代じだいいて、大名だいみょう屋敷やしきせんもん徒党ととうむことなく一人ひとりぬすみにはいったことから、歌舞伎かぶき時代じだいげきなどでは江戸えど時代じだいにおけるはん権力けんりょく具現ぐげんしゃのようにえがかれることがおおい。しかし、次郎吉じろきち大名だいみょう屋敷やしきかぎってぬすみにはいった理由りゆうについては自身じしん説明せつめいしており、武家ぶけ屋敷やしき外見がいけん厳重げんじゅうなばかりで、屋敷やしきない警備けいび手薄てうす出入でいりが容易よういであったこと、屋敷やしきない奥向おくむきちょうきょく役人やくにんたちも遠慮えんりょしてはいらないため、万一まんいちとがめられてもげるのに都合つごうがいいことなどをげている。これを江戸えどがくとしてられる三田村鳶魚みたむらえんぎょは「便宜上べんぎじょう武家ぶけ屋敷やしき選定せんていしたのであって、けっして被害ひがいしゃ境遇きょうぐうたいする思慮しりょゆうするわけではなかったのがれる。武家ぶけ屋敷やしきったしょおとこ禁制きんせい奥向おくむきばかりを目掛めがけて這入はいいったのをればおそれずひるまぬきもむねがあったのではない」と人物じんぶつぞうそのものにも疑問ぎもんていしている[5]

一方いっぽうねずみ小僧こぞう義賊ぎぞくとして民衆みんしゅうにイメージされたこのこと自体じたいはひとつの歴史れきしてき事実じじつであり、ハンガリーの国民こくみんてき義賊ぎぞくロージャ・シャーンドルくわしい歴史れきし学者がくしゃ南塚みなみづか信吾しんごは『義賊ぎぞく伝説でんせつ』などでねずみ小僧こぞうについてげ、ねずみ小僧こぞうしゅとして大名だいみょう屋敷やしきからぬすんだことについては「その理由りゆうがなんであれ、単純たんじゅんではあるが意外いがい重要じゅうようなことであろう。民衆みんしゅう大名だいみょうたいする潜在せんざいてき不満ふまんいやされ、民衆みんしゅう正義せいぎかんにつながる側面そくめんがあったはずだからである」とべている[6][7]

ねずみ小僧こぞうあつかった創作そうさくぶつ[編集へんしゅう]

歌舞伎かぶき[編集へんしゅう]

落語らくご[編集へんしゅう]

小説しょうせつ[編集へんしゅう]

映画えいが[編集へんしゅう]

テレビドラマ[編集へんしゅう]

おんなねずみ作品さくひん[編集へんしゅう]

ねずみ小僧こぞうあつかったテレビドラマ作品さくひんなかには「おんなねずみ」という架空かくうのキャラクターをあつかった作品さくひん存在そんざいする。これら作品さくひん登場とうじょうする「ねずみ小僧こぞう」は鼠小僧次郎吉ねずみこぞうじろきち本人ほんにんではなく、かれむすめないしは孫娘まごむすめちちないしは祖父そふ処刑しょけいからすうねんとき江戸えど庶民しょみんのために「ねずみ小僧こぞう」の活躍かつやくするという設定せっていとなっている。

漫画まんが・アニメ[編集へんしゅう]

ゲーム[編集へんしゅう]

舞台ぶたい[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ 愛知あいちけん蒲郡がまごおりというせつもあるが、日本橋にほんばしせつほう有力ゆうりょくである

出典しゅってん[編集へんしゅう]

  1. ^ 展観てんかん目録もくろくだい129ごう ねんかんする図書としょてん目録もくろく(2003ねん5がつ17にち時点じてんアーカイブ場所ばしょ 東北大学とうほくだいがく附属ふぞく図書館としょかん会議かいぎしつ 昭和しょうわ47ねん1がつ18にち(火)19にち(水)すい かく午後ごご1から4まで
  2. ^ 名所めいしょ案内あんない 回向えこういん公式こうしきサイト。2014ねん1がつ24にち閲覧えつらん
  3. ^ 広報こうほうがまごおり(平成へいせい23ねん1がつごう)P32”. 蒲郡がまごおり (2011ねん12月24にち). 2018ねん4がつ27にち閲覧えつらん
  4. ^ 矢田挿雲やだそううん江戸えどから東京とうきょうだい4へん東光とうこうかく書店しょてん、1922ねん2がつ、285-287ぺーじ 
  5. ^ 三田村鳶魚みたむらえんぎょ史実しじつより歌舞伎かぶき芝居しばいたかしぶんどう、1923ねん5がつ、20-21ぺーじ 
  6. ^ 南塚みなみづか信吾しんご義賊ぎぞく伝説でんせつ岩波いわなみ新書しんしょ、1996ねん11月、9ぺーじ 
  7. ^ 南塚みなみづか信吾しんご『アウトローの世界せかい』NHKブックス、1999ねん12月、93-94ぺーじ 
  8. ^ 鼠小僧次郎吉ねずみこぞうじろきち”. 演劇えんげき上演じょうえん記録きろくデータベース. 2023ねん6がつ1にち閲覧えつらん

関連かんれん項目こうもく[編集へんしゅう]

外部がいぶリンク[編集へんしゅう]