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P・P・アーノルド

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P.P.アーノルド
P. P. Arnold
P.P.アーノルド(2007ねん
基本きほん情報じょうほう
出生しゅっしょうめい Patricia Ann Cole
別名べつめい Pat Arnold
生誕せいたん (1946-10-03) 1946ねん10月3にち(77さい
出身しゅっしん アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国あめりかがっしゅうこく カリフォルニアしゅうロサンゼルス
ジャンル ロックブルースソウルブルースロックゴスペル
職業しょくぎょう 歌手かしゅ
担当たんとう楽器がっき ボーカル
活動かつどう期間きかん 1965ねん -
レーベル Phi-Dan、イミディエイト
公式こうしきサイト ritareys.eu
P.P.アーノルド(1967ねん
オランダのテレビ番組ばんぐみでパフォーマンスするP.P.アーノルド(1968ねん

P・P・アーノルド[注釈ちゅうしゃく 1]P・P・Arnold1946ねん10月3にち - )[1]は、パット・アーノルドとしてもられるアメリカソウル・シンガー。アーノルドは、1965ねんアイク&ティナ・ターナー・レビューのバック・コーラス・グループ、アイケッツのメンバーとしてキャリアをスタートした。翌年よくねん彼女かのじょはソロ・キャリアを追求ついきゅうするためにロンドンへと移住いじゅう。シングル「ザ・ファースト・カット・イズ・ザ・ディーペスト」(1967ねん)と「あさ天使てんし」(1968ねん)によりイギリスでおおきな成功せいこうおさめた。

経歴けいれき[編集へんしゅう]

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アーノルドはゴスペル歌手かしゅ家庭かていまれた。家族かぞくロサンゼルス近郊きんこうのアフリカけいアメリカじんがいであるワッツ地区ちくんでいた[2]彼女かのじょは4さいはじめて人前ひとまえでボーカル・ソリストとしてうたった。

彼女かのじょはやくに結婚けっこんしてケヴィンとデビーという2人ふたり子供こどもち、オフィスと食品しょくひん製造せいぞうという2つの仕事しごとっていた。

1960年代ねんだい[編集へんしゅう]

アーノルドは、1964ねんからのティナ・ターナーとの友情ゆうじょう歌手かしゅとしての自分じぶんのキャリアを最終さいしゅうてき成功せいこうさせるきっかけをつくり、また自分じぶん指導しどうしゃとしての役割やくわりたしてくれたと確信かくしんしている。2023ねん12月のBBC Twoにおけるジュールズ・ホランドとの会話かいわのなかで、彼女かのじょはターナーがくなったことについておもいをかたった[3]

1965ねんあにもとガールフレンドであるマキシン・スミスからオファーの連絡れんらくがあった。スミスと彼女かのじょ友人ゆうじんグロリア・スコットは、アイク&ティナ・ターナー・レビューでバック・ボーカルとダンスを担当たんとうしていたダンサーけん歌手かしゅのグループであるアイケッツのオリジナル・メンバー3にん後任こうにんめるオーディションにさそった[4]。スミスはアーノルドが歌手かしゅになりたがっていることをっていたため、オーディションに参加さんかするようすすめたのだった。3にんわか女性じょせいたちはそのでその仕事しごと打診だしんされ、スミスが最終さいしゅう決定けっていをするまえに、そのよるフレズノでのコンサートに参加さんかするようアーノルドを説得せっとくした。翌朝よくあさ6帰宅きたくすると激怒げきどしたおっとなぐられたので、彼女かのじょはすぐにかれわかれ、子供こどもたち両親りょうしんあづけてアイク&ティナ・ターナー・レビューに参加さんかした[2][5]

彼女かのじょは、フィル・スペクターのファイ=ダン・レコードから発表はっぴょうされたアイケッツのシングル「What'cha Gonna Do (When I Leave You)」(1966ねん)で[6]ブレンダ・ホロウェイパトリス・ホロウェイをバックにリード・ボーカルをうたった。またアイク・ターナーがプロデュースしたアルバム『リヴァー・ディープ・マウンテン・ハイ』(1966ねん)の収録しゅうろくきょくでバック・ボーカルをうたった[7]。コンサート映画えいがThe Big T.N.T. Show』(1965ねん)にも出演しゅつえんした。

アーノルドはローリング・ストーンズとのイギリス・ツアーののち、1966ねんあきにアイク&ティナ・ターナー・レビューを脱退だったいし、ミック・ジャガーはげましをけて、ソロのキャリアを確立かくりつするためロンドンのこった。彼女かのじょは、アメリカとイギリスでの自分じぶんあつかわれかたちがいを指摘してきし、「アメリカの白人はくじん環境かんきょう一人ひとりでいるわか黒人こくじん女性じょせいは、イギリスにいたときのようにはあつかわれなかっただろう」とかたった[2]。ジャガーとの友情ゆうじょうは、ローリング・ストーンズのマネージャーのアンドリュー・ルーグ・オールダム設立せつりつしたイミディエイト・レコードとソロ契約けいやくむすぶのに役立やくだった[8]

アーノルドは、ポール・コルダが彼女かのじょのためにいた「The Time Has Come」(1967ねん7がつ)などの楽曲がっきょくで、イミディエイト・レコードにおけるイギリスでのだいヒットきょく数々かずかずたのしみ、ソロ・アルバム『ファースト・レディ・オブ・イミディエイト』(1968ねん4がつ)を発表はっぴょうした[9]。また、レーベルメイトのスモール・フェイセスからスティーヴ・マリオットロニー・レーンいたきょく録音ろくおんしており、スモール・フェイセスはいくつかのレコーディングで彼女かのじょをサポートした。アーノルドは1967ねんにマリオットと短期間たんきかん、ロマンチックな関係かんけいきずいた[10]彼女かのじょは1967ねんから1968ねんにかけてスモール・フェイセスとツアーをおこない、なん彼等かれらとテレビ出演しゅつえんし、彼等かれら最大さいだいのヒットきょく「イチクー・パーク」と「ティン・ソルジャー」の2きょくでバック・ボーカリストをつとめた。1968ねん8がつ彼女かのじょ野心やしんてきなソロ・アルバム『カフンタ』を発表はっぴょうした。このアルバムにはジョン・ポール・ジョーンズによるオーケストラ・アレンジがほどこされ、自作じさくきょくと「あさ天使てんし」や「エリナー・リグビー」などのカバーが収録しゅうろくされている[11]。この時期じきにクレジットされた作品さくひんとしては、ミック・ジャガーがプロデュースしたロッド・スチュワートとのデュエット「Come Home Baby」[12][注釈ちゅうしゃく 2]クリス・ファーロウによるモータウンのスタンダード「リーチ・アウト・アイル・ビー・ゼア[13][注釈ちゅうしゃく 3]がある。

彼女かのじょ最初さいしょのバック・バンドであるザ・ブルー・ジェイズは、アメリカのソウル・シンガー、ロニー・ジョーンズからがれており、もとブルースブレイカーズのギタリスト、ロジャー・ディーンも在籍ざいせきしていた。これにつづザ・ナイスは、VIPs[注釈ちゅうしゃく 4]めたばかりだったキース・エマーソン(オルガン)、デヴィッド・オリスト(ギター)、リー・ジャクソン(ベース)、イアン・ヘイグ(ドラム)というラインナップだった[14][15]。この期間きかんちゅう彼女かのじょは、キャット・スティーヴンスさくザ・ファースト・カット・イズ・ザ・ディーペスト」のオリジナル[5](1967ねん4がつ)やチップ・テイラーさくあさ天使てんし」のカバー(1968ねん6がつ)にくわえ、マリオット&レーンによる楽曲がっきょく「(If You Think You're) Groovy」(1968ねん1がつ)などをふくむいくつかのヒットきょくした[16]

1960年代ねんだい後半こうはんのイミディエイト・レコードの崩壊ほうかい、アーノルドはロバート・スティグウッド・オーガニゼーションとプロダクション契約けいやくむすび、バリー・ギブのプロデュースでポリドール・レーベルから2まいのシングルをリリースしたが、ギブと計画けいかくしていたアルバムが完成かんせいすることはなかった[1]。1969ねんから1970ねんにかけて、彼女かのじょはギブがプロデュースした11きょくをレコーディングしたが、そのうちリリースされたのは「Bury Me Down By the River」と「Give a Hand, Take a Hand」の2きょくだけだった。1970ねん2がつ彼女かのじょはギブのデビュー・ソロ・アルバム『The Kid's No Good』(リリース)に収録しゅうろくされる予定よていだったきょく「Born」でハーモニー・ボーカルをうたった[17]

1970年代ねんだい[編集へんしゅう]

1970ねん、アーノルドはミュージカルの舞台ぶたいへと転向てんこうし、ロック・ミュージカル『Catch My Soul』でP.J.プロビーと共演きょうえんした。その彼女かのじょはアシュトン・ガードナー・アンド・ダイクの将来しょうらいのメンバーにくわえ、あいだもなくしてイエスくわわるスティーヴ・ハウふくあたらしいバック・バンドを結成けっせいした。この期間きかんちゅう彼女かのじょはスティーヴ・マリオットとの関係かんけいあらたにし、かれあたらしいバンド、ハンブル・パイ(アルバム『ロック・オン』)のレコーディングとツアーに参加さんかしたほか、1970ねんのロック・ミュージカルのオリジナル・アルバム『ジーザス・クライスト・スーパースター』、ニック・ドレイクの「Poor Boy」、そしてドクター・ジョングラハム・ナッシュゲイリー・ライトマナサスネクタージミー・ウィザースプーンニルス・ロフグレンエリック・バードンによるレコーディングをふくむ、イギリスとアメリカのすうおおくの著名ちょめい作品さくひんにセッション・ミュージシャンとしてバック・ボーカルで貢献こうけんした[18]彼女かのじょエリック・クラプトン一緒いっしょにツアーをおこない、クラプトンは彼女かのじょ一緒いっしょおおくの発表はっぴょうセッションをプロデュースした。これらのセッションのなかで、彼女かのじょクロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤングのアメリカじんベーシスト、ファジー・サミュエルと出会であい、その、ロマンチックな関係かんけいとなって、息子むすこのコッゾがまれた[2]。1974ねん彼女かのじょフレディ・キングのアルバム『バーグラー』でうたった[19]。1970年代ねんだいなかばの急速きゅうそく変化へんかするイギリス音楽おんがくシーンに場違ばちがいをかんじたアーノルドとサミュエルは、故郷こきょうのロサンゼルスへともどった。そこでらすあいだ、アーノルドとサミュエルの関係かんけいわりをげた。破局はきょくからわずか2週間しゅうかんむすめのデビーが交通こうつう事故じこくなった。むすめ死後しご、アーノルドはしばらくおおやけからき、1978ねんまでふたたびシーンに登場とうじょうすることはなかった。このとき彼女かのじょのために完成かんせいのソロ・アルバムを完成かんせいさせたいとかんがえていたバリー・ギブと再会さいかい。この出会であいにより、アーノルドはこれらの録音ろくおんを2017ねんになってアルバム『The Turning Tide』としてリリースすることができた[20]

1980年代ねんだい-1990年代ねんだい[編集へんしゅう]

1981ねんにアーノルドはアメリカにもどり、ハリウッドへとうつったが、翌年よくねんにはおさな息子むすこをイングランドでそだてるためイギリスにもどった。彼女かのじょはイギリスを代表だいひょうするレゲエ・バンド、スティール・パルス活動かつどうはじめ、1983ねんにイギリスのエレクトロ・ポップ・グループ、ケイン・ギャング録音ろくおんしてヒットしたザ・ステイプル・シンガーズによる「Respect Yourself」のカバー・バージョンで、イギリスとオーストラリアの両国りょうこくでチャートにかえき、ぜんえい21、オーストラリアでは19たっした。

1984ねん彼女かのじょはミュージカル『スターライトエクスプレス』のベル・ザ・スリーピング・カー(寝台しんだいしゃやく舞台ぶたいもどり、そのボーイ・ジョージふくすうおおくのイギリスの著名ちょめいなアーティストと共演きょうえんしたほか、すうさく映画えいがのサウンドトラックにもたずさわった。ビリー・オーシャンとのツアーをはじめるすう週間しゅうかんまえ彼女かのじょ交通こうつう事故じこあし重傷じゅうしょうった。最初さいしょ松葉杖まつばづえをつきながらオーシャンのツアーにつづ同行どうこうしたが、最終さいしゅうてきにはこの怪我けがのため10週間しゅうかんにツアーから離脱りだつせざるをなくなった。レコード契約けいやくがなく、ライブで演奏えんそうすることもできず、アーノルドは広告こうこくジングルのセッションをおこなうことでびた。1986ねん彼女かのじょはロック・シーンにもどり、ピーター・ガブリエル世界せかいてきヒットきょくスレッジハンマー」のバック・ボーカリストとして注目ちゅうもくあつめた。つづいて、ビートマスターズとのレトロ・スタイルなアシッド・ハウスのヒットきょく「Burn It Up」(アルバム『Anyyawanna』収録しゅうろく)でのコラボレーションが成功せいこうし、1988ねん10がつにイギリスで14たっし、ぜんえいシングルチャートに10週間しゅうかん以上いじょうランクインした彼女かのじょの3番目ばんめのヒットきょくとなった[16]。1980年代ねんだい後半こうはんから1990年代ねんだいにかけて、アーノルドはセッション・ボーカリストとして活発かっぱつなキャリアを再開さいかいし、この時期じき彼女かのじょのクレジットには、The KLF (「What Time Is Love?」「3 A.M Eternal」)、ニーナ・ハーゲンロジャー・ウォーターズ (アルバム『死滅しめつ遊戯ゆうぎ』)、グレアム・パーカーなどがある。1989ねん彼女かのじょ旧友きゅうゆうのスティーヴ・マリオットと再会さいかいし、かれのソロ・アルバム『30セカンズ・トゥ・ミッドナイト』をともにレコーディングしたが、これが2人ふたり最後さいごのコラボレーションとなった。マリオットは1991ねん住宅じゅうたく火災かさいくなっている。その彼女かのじょは1992ねんにイギリスのハードコア・グループ、ALTERN 8のシングル「E-Vapor-8」で共演きょうえんし、そのビデオにも登場とうじょうした。

1994ねん彼女かのじょ受賞じゅしょうれきのあるミュージカル『アイランド』でうつくしきあい女神めがみエルズリーやくとして参加さんかした。この作品さくひんがバーミンガムで上演じょうえんされているあいだに、イギリスを代表だいひょうするバンド、オーシャン・カラー・シーン出会であった。オーシャン・カラー・シーンは、(かれらのであるポール・ウェラー同様どうように)スモール・フェイセスを崇拝すうはいしている後期こうきモッズ・グループにおけるニュー・ウェイヴのひとつだった[1]。1995ねん、アーノルドはプライマル・スクリーム共演きょうえんして、さまざまなアーティストによるスモール・フェイセスのトリビュート・アルバム『ロング・アゴウズ・アンド・ワールズ・アパート』のオープニングきょくであるスモール・フェイセスのうた「Understanding」のはげしいカバー・バージョンをレコーディングした。アーノルドはのち緊密きんみつ友情ゆうじょうきずくことになるオーシャン・カラー・シーンとの出会であいをけて、ぜんえいアルバムチャートで1獲得かくとくした1997ねんのアルバム『マーチング・オールレディ』に参加さんか。シングル「Travellers Tune」にバック・ボーカルを提供ていきょうし、1998ねんのシングル「It's a Beautiful Thing」ではサイモン・ファウラーとデュエット・リード・ボーカルを担当たんとうした。

2000年代ねんだい[編集へんしゅう]

アーノルドは、イアン・デューリー・アンド・ザ・ブロックヘッズのもとピアニストであるチャズ・ジャンケルと共演きょうえんした。これにつづいて、ロジャー・ウォーターズとの広範囲こうはんいにわたるツアーへの招聘しょうへいつづいた。彼女かのじょは1999ねんから2002ねんのツアー「イン・ザ・フレッシュ」(同名どうめいのCDとDVDにも収録しゅうろく)と、2006ねんから2008ねんのツアー「ダーク・サイド・オブ・ザ・ムーン・ライブ」でバック・ボーカリストをつとめた。「ファースト・レディ・オブ・イミディエイト」は、2012ねん映画えいがセブン・サイコパス』のサウンドトラックに収録しゅうろくされた[21]

2001ねん、アーノルドはイミディエイト・レコード時代じだい完全かんぜんなディスコグラフィが収録しゅうろくアルバム『The First Cut (The Immediate Anthology)』をリリースした。これには、シングルすうきょくくわえて、彼女かのじょ有名ゆうめいなアルバム『ファースト・レディ・オブ・イミディエイト』と『カフンタ』がふくまれている。パーティーでの偶然ぐうぜん出会であいが、ブロウ・モンキーズのフロントマンであるドクター・ロバートとの2007ねんのアルバム『Five in the Afternoon』への参加さんかにつながった。

2009ねん彼女かのじょはジーノ・ワシントンとジミー・ジェームスとともにフライング・ミュージックの「ディス・イズ・ソウル・ツアー」でイギリスをツアーし、それ以来いらい一人ひとりでイギリスちゅうをツアーしている。

2012ねん彼女かのじょマディ・プライヤージェリー・ドナヒューデイヴ・スウォーブリックティア・ギルモアとともにイギリス・ツアーをおこなった。2013ねん、アーノルドはイギリスのソングライターで、ジングル・ライター、映画えいがやテレビの音楽おんがく作曲さっきょくであるデヴィッド・ミンデルとのプロジェクト「ザ・バンド・オブ・シスターズ」に参加さんかした。アーノルド、ミム・グレイ、テッサ・ナイルズ、リンダ・ヘイズ、スティーヴィー・ランジ、マンディ・ベルを結集けっしゅうさせた『イシューズ』というアルバム。

2015ねん、アーノルドはみなみアフリカのケープタウンではつのソロ・ツアーにした。アーノルドはその、ウォータールーのヴォールト劇場げきじょう上演じょうえんされたスモール・フェイセスのミュージカル『All or Nothing』でフィーチャーされており、これは彼女かのじょとスティーヴ・マリオットとの恋愛れんあいがドキュメントされた作品さくひんとなっている[22]

2017ねん以降いこう[編集へんしゅう]

2017ねん、P.P.アーノルドはついに遺産いさんとなっていた録音ろくおんをアルバムでリリースした。アルバム『The Turning Tide』は、1968ねんから1970ねんあいだ録音ろくおんされたきょくのコレクションである。バリー・ギブとエリック・クラプトンがプロデュースしたものの、アルバムは中止ちゅうしされ、2017ねんまで完成かんせいのままのこされていた[23]。2017ねん、『The Turning Tide』のリリース時期じきを、彼女かのじょ音楽おんがく業界ぎょうかい50周年しゅうねんいわあきのツアーと一致いっちさせた。また、2017ねん5がつにリリースされたポール・ウェラーのアルバム『ア・カインド・レボリューション』の1きょく「Woo Sé Mama」でマデリーン・ベルとならんでバック・ボーカルをうたった。

2018ねん、アーノルドはオーストラリアで2のツアーをおこなった。5月には、ロック・バンド、ユー・アム・アイのフロントマンであるティム・ロジャースと、どうバンドのメンバーであるデイヴィー・レインとラスティ・ホプキンソンのバックアップをけて、オーストラリアとニュージーランドをめぐはつのソロ・ツアーをおこな[24]、11月には、2かいのツアー「The Return of PP Arnold」のためにオーストラリアへもどり、そこでふたたびジェームス・ブラック・アンド・ザ・ウルフグラム・シスターズとともにユー・アム・アイと共演きょうえんした。彼女かのじょは「Rockwiz Tour 2019」(『ロックウィズ (Rockwiz)』はオーストラリアのテレビ番組ばんぐみ)の特別とくべつゲストもつとめ、ロックウィズ・オーケストラと共演きょうえんした[25]

2019ねん8がつ、ソロ・アルバム『The New Adventures Of... P.P. Arnold』をリリースした。イミディエイト・レコードからリリースされた最初さいしょの2まいのソロ・アルバム『ファースト・レディ・オブ・イミディエイト』(1968ねん)と『カフンタ』(1968ねん)につづいて、51ねん空白くうはく作品さくひんとなった[注釈ちゅうしゃく 5]どうアルバムはデヴォンのクンダリーニ・スタジオで、オーシャン・カラー・シーンのスターでポール・ウェラー・バンドのギタリストもつとめるスティーヴ・クラドック[注釈ちゅうしゃく 6]によってレコーディングおよびプロデュースされた。このアルバムはクラシックなオーケストラ・ソウルからハウス・ミュージックまで多岐たきにわたり、最後さいごボブ・ディラン「ウディ・ガスリーへの最後さいごおもい」の10分間ふんかん朗読ろうどくわる。アーノルドはこう説明せつめいした。「わたしはこれまでうたってきたレコードの膨大ぼうだいなカタログをっていますが、わたし自身じしんはまだアルバムを2まいしかリリースしていませんでした。そして、それらは風化ふうかすることなくとき試練しれんえてきました」。同年どうねん10がつ、アーノルドはアルバムをサポートするためにイギリス・ツアーをおこなった[26]

2020ねん5がつ8にちザ・フラテリスが、アーノルドがリード・ボーカルをつとめたシングル「Strangers In The Street」[27]をリリースした。

私生活しせいかつ[編集へんしゅう]

アーノルドは15さい妊娠にんしんし、それが最初さいしょ結婚けっこんとなった[28]彼女かのじょには虐待ぎゃくたいてきおっととのあいだにケヴィンとデビーという2人ふたり子供こどもがいたが、彼女かのじょおっとてて、母親ははおや子供こども世話せわをしているあいだにアイケッツになるためにはたらいた[28]むすめデビーは1970年代ねんだいなかばに交通こうつう事故じこくなった[29]

1968ねん、ロバート・スティグウッドのドライバーけんアシスタントとしてはたらいていたジム・モリスとサリーしゅうのギルドフォード市庁舎しちょうしゃ結婚けっこんした[29][30]彼女かのじょはキム・ガードナーをつうじてかれった。結婚式けっこんしきではバリー・ギブが付添つきそいじんつとめた。2人ふたりは2ねん離婚りこんしたが、友人ゆうじん関係かんけいつづけた[29]

彼女かのじょにはミュージシャンのカルヴィン・"ファジー"・サミュエルとのあいだ息子むすこコッゾがいる。コッゾはジェシー・Jジェス・グリン音楽おんがく監督かんとくつとめており[31]母親ははおやのアルバム『The New Adventures Of... P.P. Arnold』(2019ねん)にソングライターとしてクレジットされている[32]

ディスコグラフィ[編集へんしゅう]

スタジオ・アルバム[編集へんしゅう]

  • 『ファースト・レディ・オブ・イミディエイト』 - The First Lady of Immediate (1968ねん)
  • 『カフンタ』 - Kafunta (1968ねん)
  • Five in the Afternoon (2007ねん) ※Dr. Robert & P.P. Arnold名義めいぎ
  • The Turning Tide (2017ねん) ※1960年代ねんだい後半こうはん-1970年代ねんだい録音ろくおん[33]
  • The New Adventures of... P.P. Arnold (2019ねん)[34]

コンピレーション・アルバム[編集へんしゅう]

  • P.P. Arnold / Chris Farlowe (1976ねん)
  • P.P. Arnold Greatest Hits (1977ねん)
  • Chris Farlowe / P.P. Arnold : Legendary (1979ねん)
  • Angel... (1986ねん)
  • The P.P Arnold Collection (1988ねん)
  • Kafunta - The First Lady Of Immediate: Plus (1988ねん)
  • 『ベスト・コレクション』 - The P.P. Arnold Collection (1995ねん)
  • The First Cut (1998ねん)
  • The Best Of (1999ねん)
  • Rod Stewart 1964-1969 (2000ねん) - Rod Stewart - "Come Home Baby"
  • The First Cut (The Immediate Anthology) (2001ねん)
  • A Little Misunderstood: The Sixties Sessions (2001ねん) - Rod Stewart - "Come Home Baby"
  • Can I Get a Witness (2001ねん) - Rod Stewart & The Steampacket - "Come Home Baby"
  • Immediate Pleasure (2002ねん) - Various Artists - compilation album of Immediate Records with the song "Come Home Baby"
  • Angel of the Morning (2006ねん)
  • The Best of P.P Arnold - The First Cut Is the Deepest (2006ねん)
  • The Best of P.P Arnold (2007ねん)
  • P.P Arnold (2008ねん)

シングル[編集へんしゅう]

チャート・シングル[編集へんしゅう]

タイトル とし チャート最高さいこう
ちょんすぐる
[35]
"The First Cut Is the Deepest" 1967 18
"The Time Has Come" 47
"(If You Think You're) Groovy" 1968 41
"Angel of the Morning" 29
"A Little Pain" 1985 93
"Burn It Up" (with Beatmasters) 1988 14
"Evapor-8" (with Altern-8) 1992 6[36]
"It's a Beautiful Thing" (Ocean Colour Scene with P.P. Arnold) 1998 12
"Different Drum" 1998 80
"Don't Burst My Bubble"/"Come Home Baby" (with Small Faces, Rod Stewart & P.P.) 2005 93

参加さんかアルバム&シングル[編集へんしゅう]

脚注きゃくちゅう[編集へんしゅう]

注釈ちゅうしゃく[編集へんしゅう]

  1. ^ PPアーノルド」「P・P・アーノルド」の表記ひょうきもある。
  2. ^ ギターにロン・ウッド、ベースにキース・リチャーズ、エレクトリック・ピアノにニッキー・ホプキンス、ハモンドオルガンにキース・エマーソンジョージィ・フェイムのブラス・セクションが参加さんか
  3. ^ The Art of Chris Farlowe (1967ねん)。ギターはアルバート・リー、ドラムはカール・パーマー
  4. ^ スプーキー・トゥース前身ぜんしんたる。
  5. ^ 1960年代ねんだい後半こうはんから1970年代ねんだい発表はっぴょうきょくあつめた最新さいしんコンピレーション・アルバム『The Turning Tide』をふくめると4まいのソロ・アルバムに相当そうとうする。、
  6. ^ まれてこのかた、ずっと彼女かのじょ音楽おんがく愛好あいこうであるという。

出典しゅってん[編集へんしゅう]

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外部がいぶリンク[編集へんしゅう]