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會稽郡 - 维基百科,自由的百科全书

かい稽郡

中国ちゅうごく古地こちめい
重定しげさだこうかい稽郡

かいkuàiぐん中國ちゅうごくいにしえぐんはたはじめおけこおりおさむざいくれけんいま江蘇こうそ蘇州そしゅうぐすく),轄春秋しゅんじゅうとき長江ながえ以南いなんてきこくえつこくかんはつ曾為かんしんすわえこくりゅう荊國、りゅう國領こくりょうななこくみだれこうふくおけかい稽郡。西にしかんまつねんかい稽郡轄境だい致相とう於今江蘇ちぁんすー南部なんぶ上海しゃんはい西部せいぶ浙江せっこう大部おおぶ以及福建ふっけん地區ちく當時とうじ轄境さいため廣闊こうかつてきいちぐん[1]隸屬れいぞくあげしゅう刺史ししひがしかん中期ちゅうき分會ぶんかい稽郡浙江せっこう以北いほくしょけんおけくれぐんかい稽郡しょうつりいたり山陰さんいんけんざいこん浙江せっこう紹興しょうこうぐすく),りょうじゅうけん[2]さんこく時分じぶんかい稽郡おけ臨海りんかいぐんこん浙江せっこうひがし南部なんぶ)、たてやすしぐん今福いまふくけん)、東陽とうようぐんこん浙江せっこう衢州きむはな一帶いったい)。西にしすすむいたり南朝なんちょうすえねんかい稽郡僅轄いま紹興しょうこうやすしなみ一帶いったいずいぶんみかどめつひねはいかい稽郡,おけくれしゅうずい煬帝あらためくれしゅうためこししゅうまたあらためためかい稽郡。とうはつおけこししゅうげんむねあらためこししゅうためかい稽郡,肅宗どきふくためこししゅう

历代变更
設置せっち はたちょう
使用しようじょう こう苏省苏州
浙江せっこうしょう紹興しょうこう
はたちょう かい稽郡
西にしかん かい稽郡
しんあさ かい稽郡
ひがしかん かい稽郡
さんこく かい稽郡(孫吳そんご
西にしすすむ かい稽郡
あずますすむ/じゅうろくこく かい稽郡
南北なんぼくあさ かい稽郡(そう
かい稽郡(ひとし
かい稽郡(はり
かい稽郡(ひね
ずいあさ こししゅうかい稽郡(607ねん
改稱かいしょうためこししゅう(621ねん
からあさ こししゅうかい稽郡(742ねん
改稱かいしょうためこししゅう(758ねん

ぐんめい起源きげん

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かい稽郡いんかい稽山とくめい相傳そうでんなつどきそくゆうかい稽山めいかい稽即會計かいけいこれ。《史記しき記載きさいりょうかん流行りゅうこうてき說法せっぽう:“あるげん禹會諸侯しょこう江南えなけいこう而崩,いんそう焉,いのち曰會稽。かい稽者,會計かいけい也”[3]。《こしぜっしょそと傳記でんきでん:“禹始也,ゆうみんすくいすいいた大越おおこしうえかやさんだい會計かいけい,爵有德うとくふう有功ゆうこうさらめいかやさん曰會稽。”かい稽人おうたかしろんしょきょへんちゅう引吳くんだかこれ:“かい稽本山名やまななつ禹巡かり會計かいけい於此さんいん以名ぐん曰會稽。”

ふみ記載きさいなつみかどしょうやすしこれ庶子しょしふう于會稽(ざいこん紹興しょうこう一帶いったい),ためこし國之くにゆき始祖しそ[4]戰國せんごく後期こうきすわえこくめつえつこくころせえつおうつよし,佔據江東こうとうえつ國王こくおうぞく分散ぶんさん于會稽一たい自立じりつためくんちょう臣服しんぷく于楚こく

けんおけ沿革えんかく

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はただい

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はた王政おうせいじゅうよんねんぜん223ねん),はためつすわえじゅうねんぜん222ねん),はたすすむおうてい江南こうなん[5]くだこしくんおけかい稽郡”[6]。此為かい稽郡しゅ於史せきかい稽郡はつおけ領有りょうゆうえつ兩國りょうこくだい致相とう於今江蘇ちぁんすー長江ちょうこう以南いなん安徽あんき東南とうなん上海しゃんはい西部せいぶ以及浙江せっこう北部ほくぶはたはじめすめらぎじゅうろくねんぜん221ねん),ふん天下でんかためさんじゅうろくぐん分會ぶんかい稽郡西部せいぶおけ鄣郡[7],其轄さかいりゃくどう于漢だい丹陽たんようぐんだい致相とう於今南京なんきん浙江せっこう西北せいほく一隅及安徽東南之地。

西にしかん

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かん初會しょかい稽郡またたたえくれぐんかんねんぜん202ねん正月しょうがつ劉邦りゅうほう徙齊おうかんしんためすわえおう,以秦東海とうかいぐんかい稽郡、泗水しすいぐん[8]薛郡ひねぐんおけすわえこくしもねんはいかんしんため淮陰こうかんだかみかどろくねんぜん201ねん正月しょうがつだてりゅうため荊王,おけ荊國,りょう東陽とうようぐん、鄣郡[9]くれぐんかい稽)じゅうさんけん”,相當そうとう於今江蘇ちぁんすーしょう淮河以南いなん上海しゃんはい以及浙江せっこうしょう北部ほくぶこうみかどじゅういちねんぜん196ねん),荊王賈為淮南ワイナンおうえいぬのへいしょころせつぎねんだてりゅうためくれおうおけくれこくりょうりゅう賈荊こくけいみかどさんねんぜん154ねん),平七へいしちこくみだれおう濞兵はいくれこくじょけいみかどなんじみなみおうりゅうためおうふん國之くにゆき東陽とうようぐん、鄣郡おけこうみやここくかい稽郡そくぞくかん[10]

かんはつ,“かい稽東せっ于海,みなみちかしょえつ北枕きたまくら大江おおえあいだしゃ濶焉”[11]りょうじゅうけん。其南ゆう閩越そくしんだい閩中ぐんこうみかどねんふうもろため閩越おう,其領ざい今福いまふく建一けんいちたいめぐみみかどさんねんぜん192ねんふう閩君ゆらため東海とうかいおう建都けんとひがしまたしょうひがし甌王,統轄とうかつこん浙江せっこう南部なんぶ地區ちくたけみかどたてはじめさんねんぜん138ねん),おう濞之りゅうこま煽動せんどう閩越きたげきひがし甌,たけみかどちゅう大夫たいふいむすけ發會はっかい稽郡へい渡海とかい往救。かんへいいたり,閩越やめ退ずさへいひがし甌王請求せいきゅう擧國きょこく內遷,たけみかどはた人口じんこう安置あんち長江ちょうこう、淮河あいだけんもとろくねんぜん135ねん),閩越おうはんかんはつへいめつ閩越,たてもろまご繇君うしため粵繇おうまたたて郢之おとうとぜんためひがしえつおうもとかなえろくねんぜん111ねん),ひがしえつおうあまりぜんはんもとふう元年がんねんぜん110ねんかんへい平定へいていひがしえつ,遷其眾于こう淮閒。其後逃遁山谷さんやてき閩越のこみんふく於閩こしひがしこれおけ冶縣ざいいまふくしゅう[12]また有東うとう甌遺みんあきらみかどはじめもとねんぜん85ねん)乃於ひがし甌故おけかいうらけん[13]

りょうけん

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なりみかどもとのべ綏和これさいやくまえ8ねん),かい稽郡りょうじゅうろくけん,其轄さかいだい致相とう於今江蘇ちぁんすーしょう長江ちょうこう以南いなんてき蘇州そしゅうすずつねしゅう鎮江よん上海しゃんはい西部せいぶ浙江せっこうしょうじょ安吉やすよしけん臨安西部せいぶじゅんやすけんてき其餘地區ちく,以及福建ふっけんしょう中部ちゅうぶ沿海えんかい一帶いったいたん其驤おもへんてき中國ちゅうごく歷史れきし地圖ちずしゅうはた今福いまふくけんしょうぜんさかい入會にゅうかい稽郡。ただし福建ふっけん西南せいなんそくかい稽、南海なんかいあきらさんぐんあいだ一帶いったいはらためだかみかどじゅうねんしょふう南海なんかいおう所領しょりょう[14]未聞みもんゆうしょけんおけ福建ふっけん北部ほくぶ地區ちくまた無法むほうしょうじつためかい稽郡所轄しょかつ[15]

西にしかんかい稽郡りょうけん
けんめい まもりじょうしょ けん所在地しょざいち[16] おう改名かいめい 備註
くれけん こおりおさむ 江蘇ちぁんすーしょう蘇州そしゅう市區しくない 泰德やすのり じゅんみかどにゅうくれぐん
きょくおもねけん 江蘇ちぁんすーしょう丹陽たんよう一帶いったい[17] かぜよし きゅうためくもけんじゅんみかどにゅうくれぐん
がらすきずけん 浙江せっこうしょう金華きんか境内けいだい がらすこう
毗陵けん 江蘇ちぁんすーしょうつねしゅう境内けいだい 毗壇 きゅうためのべりょうけん[18]じゅんみかどにゅうくれぐん
暨縣 浙江せっこうしょう杭州こうしゅうしょうやま境内けいだい
羡縣 江蘇ちぁんすーしょう宜興いいしん境内けいだい じゅんみかどにゅうくれぐん
しょ暨縣 浙江せっこうしょうしょ暨市境内けいだい 疏虜
すずけん 江蘇ちぁんすーしょうすずさかい ゆうすず じゅんみかどにゅうくれぐん
山陰さんいんけん 浙江せっこうしょう紹興しょうこうえつぐすく境内けいだい えつおうこれ都城みやこのじょうざいかい稽山きた名山めいざんかげひがしかんうつりぐん于此。
かちけん 江蘇ちぁんすーしょう鎮江京口きょうぐち[19] じゅんみかどにゅうくれぐん
姚縣 浙江せっこうしょう姚市境内けいだい
婁縣 江蘇ちぁんすーしょうこんやま一帶いったい 婁治 じゅんみかどにゅうくれぐん
うえおそれけん 浙江せっこうしょう绍兴うえおそれ境内けいだい かい
うみしおけん 浙江せっこうしょうたいら一帶いったい てんたけし きゅうためたけ原鄉はらごうゆうしおかんじゅんみかどにゅうくれぐん
剡縣 浙江せっこうしょう嵊州しんあきらけん境内けいだい 盡忠じんちゅう
よしけんけん 浙江せっこうしょうよしみおき境内けいだい[20] じゅんみかどにゅうくれぐん
だいすえけん 浙江せっこうしょう衢州境内けいだい 末治すえじ
がらすほどけん 浙江せっこうしょうみずうみしゅう境内けいだい じゅんみかどにゅうくれぐん
あきらけん 浙江せっこうしょうやすしなみ江北こうほく慈城鎮王壩村
くいけん 浙江せっこうしょう杭州こうしゅうくいうち すすむあつし じゅんみかどにゅうくれぐん
鄞縣 浙江せっこうしょうやすしなみ鄞州境内けいだい
ぜにからけん 西部せいぶじょう 浙江せっこうしょう杭州こうしゅう市區しくない いずみてい 有武ありたけ林山はやしやま武林たけばやしみずじゅんみかどにゅうくれぐん
鄮縣 浙江せっこうしょうやすしなみ境内けいだい うみ
とみはるけん 浙江せっこうしょう杭州こうしゅうとみ境内けいだい 誅歲 じゅんみかどにゅうくれぐん
冶縣 福建ふっけんしょうふくしゅういち區内くない 閩越
かいうらけん 東部とうぶじょう[21] 浙江せっこうしょううてなしゅう境内けいだい ひがし甌故

えつしょうしおため[22]かい稽郡有餘ゆうよ暨、くい姚,大概たいがいあずかしおぎょうゆうせき

ひがしかん

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かん光武みつたけみかどたてたけしちゅうあらため冶縣ためひがし冶,また析置こうかん[23]あきらみかどあきら元年がんねん,析鄞縣かい浦鄉うらごうためあきらやすけんそく西にしかんこれかいうらけん[24][25][26]じゅんみかどえいけんなか羡人しゅうよしみとうひといんかい稽郡轄境廣大こうだいぞくけんへんとお上書うわがきもとめぶんぐん而治[27]えいけんよんねん(129ねん),析會稽北じゅうさんけんおけくれぐんかい稽郡くれけんぞくくれぐんうつり山陰さんいんけん永和えいわさんねん(138ねん),釐章やすけんひがし甌鄉おけえいやすしけん[28]。此時かい稽郡りょうじゅうけん山陰さんいん、鄮、がらすきずしょ暨、暨、ふとしまつうえおそれ、剡、姚、あきら、鄞、あきらやすひがし冶、えいやすしこうかん

けんじみかどときりゅうまごさく一族いちぞく先後せんご割據かっきょ江東こうとう,于會稽郡內析おけじゅうけんはつたいらさんねん(192ねん),ふんふとしまつけんおけしんやすけん[29]ふんがらすきずけん南鄉なんごうおけ長山ながやまけん[30]きょうひらたねん(195ねん),ふんしょ暨縣おけやすしけん[31]たてやすし元年がんねん(196ねん),まごさくぶんあきらやすけん南鄉なんごうおけ松陽しょうようけん[32]またぶんこうかんおけたてやすしかんきょう南平みなみだいらさんけん[33][34]けんやすよんねんふんふとしまつけんおけ豐安とよやすけん[35]けんやすじゅうねん(205ねん),ふんけんやすけんうえにょうけんおけけんたいらけん[36]けんやすじゅうさんねん(218ねん),析太まつけんおけとげあきらけん[35],析新やすけんおけていけん[37]いたりけんやすまつねんかい稽郡いたりしょう領有りょうゆうじゅうろくけん

六朝りくちょう

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三國吳時析置始寧縣、えいやすしけん太平たいへいねん(257ねん),釐東臨海りんかいおけ臨海りんかいぐんしょうやすけん[38]永安えいあんさんねん(260ねん),釐會稽郡南部なんぶおけけんやすぐんけんやすけん[39]まごあきらたからかなえ元年がんねん(266ねん),また釐諸暨、剡縣以南いなんおけ東陽とうようぐんおさむ長山ながやまけん[40]あらためかい稽之あまり暨縣ため永興りょうごけん[41]

すすむたけみかどやすしはじめろくねん(270ねん),ふう孫吳そんごくだはたまごしゅうためかい稽公。ふとやすし元年がんねん(280ねん),めつくれあらためかい稽郡ためかい稽國。[42][43]西にしすすむかい稽國僅轄じゅうけん山陰さんいんうえおそれ姚、あきら、鄞、鄮、はじめやすし、剡、永興りょうごしょ暨。轄境だい致相とう於今紹興しょうこうやすしなみじょやすしうみ象山ぞうさんてき其餘地區ちく杭州こうしゅうしょうやま一帶いったい[44]すすむもとみかどたてたけし元年がんねん(317ねん),ふう司馬しばため琅邪おうあらためしょくかい稽、せんじょう邑五まんせんかい稽郡なりため琅邪こくてきささえぐん太守たいしゅ改稱かいしょう內史。すすむやすみかどじゅうさんねん(417ねん),かい稽悼おう司馬しばおさむこれ薨,くにじょ,內史改稱かいしょう太守たいしゅ[45]

りゅうそうみなみひとしりょうだいしょあらためおけかい稽郡仍領じゅうけん[46]はりちん于會稽郡おけひがしあげしゅう

ずいとう

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ずいひらきすめらぎきゅうねん(589ねん),めつひねあらためひがしあげしゅうためくれしゅうしょう山陰さんいんうえおそれはじめやすし永興りょうごよんけんおけかい稽縣,しょう併餘姚縣、鄞縣、鄮縣いれあきらけん大業おおわざはつあらためためこししゅう大業おおわざさんねん(607ねんあらためこししゅうためかい稽郡,りょうよんけんかい稽、あきら、剡、しょ暨。

とう武德ぶとくよんねん(621ねんふくおけこししゅう領會りょうかい稽、しょ暨、山陰さんいんさんけん武德ぶとくななねん,以姚しゅう姚縣らいぞくつぎねん(625ねん),はい鄞州ため鄮縣,はい嵊州ため剡縣,併入こししゅうまたしょう山陰さんいんけんおおとりねん(677ねん),分會ぶんかい稽、しょけんふくおけ永興りょうごけん天寶てんぽう元年がんねんあらためためしょう山縣やまがたたれねん(686ねん),分會ぶんかい稽縣ふくおけ山陰さんいんけんあずかかい稽縣どうしろ而治。天寶てんぽう元年がんねん(742ねん),あらためこししゅうためかい稽郡,りょうななけんかい稽、山陰さんいんしょ暨、姚、剡、しょうさんうえおそれいぬいはじめ元年がんねん(758ねんふくためこししゅう

人口じんこう

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はたかんかい稽郡人口じんこう密度みつど較低てき地區ちくはたはじめすめらぎ曾徙天下でんか罪人ざいにん于山かげななこくみだれちゅうおうりゅう濞徵はつくれこく14さい以上いじょう、62さい以下いかてき男子だんし從軍じゅうぐんとくじゅうあまりまん[47]けいみかどれいしょしょうげきはんとりこしゃ深入ふかいりころせためこう斬首ざんしゅ捕虜ほりょさんひゃくせき以上いじょうみなころせゆうしょおけ[47]かんぐんげきはいななこく叛軍はんぐんやめけい斬首ざんしゅじゅうあまりまんきゅう[48],其中はんくれぐん此時かい稽郡人口じんこうおうゆうしょうてき損失そんしつ

よりどころいまじんかずらけんゆう推算すいさん包括ほうかつかい稽郡ざい內的はらりゅう濞吳こく地區ちくけいみかど三年至平帝元始二年的156年間ねんかん人口じんこう增長ぞうちょうりょう0.88ばいねん平均へいきん增長ぞうちょうりつやくため4‰,ざい全國ぜんこくしょ於較てい水平すいへいかんたいらみかど元始げんしねんおおやけもと2ねん),かい稽郡26けん共有きょうゆう223038,1032604にん,佔全國ぜんこくそう人口じんこうてき1.79%。平均へいきんごとけん39716にん每戶まいこ4.63にんじょかいうらけん、冶縣そと24けん人口じんこう密度みつどやくためごと平方へいほうせんまい14.28にん[49]

しん莽、ひがしかんさいしょう中原なかはら移民いみん避亂遷入かい稽。じゅんみかど永和えいわ五年分置吳郡前,かい稽郡大約たいやくゆう287254,1181978にん人口じんこう較西かんまつねん增加ぞうかりょうきんじゅうまんにんじゅんみかど永和えいわねん(140ねん),くれぐん13けん析出せきしゅつかい稽郡戶口とぐち減少げんしょうりょう一半いっぱん以上いじょうゆう123090,481196にん平均へいきんごとけん32080にん每戶まいこ3.91にん經過けいかかんまつさんこく戰亂せんらんまたいん臨海りんかいたてやすし東陽とうようさんぐんぶん西にしすすむふとやすし初年しょねんかい稽郡戶數こすう僅有さんまん胡亂うろんはなとき中原なかはら人口じんこう大量たいりょう遷入えつこれかい人口じんこうゆうしょ增加ぞうかただしざいすすむ末孫ばっそんおんみだれちゅうまたゆうしょ損失そんしつりゅうそう大明だいめいはちねん(464ねん),ぜんぐんゆう52228,348014にん平均へいきんごとけん34801にん每戶まいこ6.66にんずい大業おおわざさんねん(607ねん),戶數こすうため20271。から天寶てんぽう元年がんねん(742ねん),ゆう90279,529589にん

こころざし

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書名しょめい なりしょ年代ねんだい 作者さくしゃ 備註
こしぜっしょ 戰國せんごくいたりひがしかん 袁康
たいら
原書げんしょじゅうろくかん今本いまもとじゅうかん
えつ春秋しゅんじゅう ひがしかん ちょう 原書げんしょじゅうかん今本いまもとじゅうかん
かい土地とち しゅいく ずいしょ經籍けいせきこころざしいちかんきゅうしんとうしょ經籍けいせきこころざしさくかい稽記,よんかん
かい稽先けんでん しゃうけたまわ ずいこころざしななかんりょうからこころざしかん
かい稽典ろく すすむ おそれあずか 原書げんしょじゅうよんかん
かい稽記 すすむ ずいこころざしいちかんりょうからこころざし
かい稽後けん傳記でんき すすむ 鍾離岫 ずいこころざしかんりょうからこころざしなみさくかい稽後けんでんさんかん
かい稽先けんぞうたたえ しょう ずいこころざしかんりょうからこころざしよんかんしんからこころざしだいさくかい稽先けんぞうでんたたえ
かい稽記 そう あなれい[50] 著錄ちょろく
かい稽郡じゅうしろこころざし そう[51] 佚名 著錄ちょろく
かい稽地こころざし りょうちんとき なつこう曾先 著錄ちょろく

行政ぎょうせい長官ちょうかん

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かい稽守(ぜん222ねんまえ148ねん

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かい稽太もりぜん148ねん—9ねん

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かい稽大いん(9ねん—25ねん

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かい稽太もり(25ねん—258ねん

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かい稽相(258ねん—260ねん

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かい稽太もり(260ねん—280ねん

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かい稽相(280ねん—310年代ねんだい

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かい稽太もり(310年代ねんだい—317ねん

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かい稽內(317ねん—402ねん

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かい稽太もり(402ねん—405ねん

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かい稽內(405ねん—417ねん

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かい稽太もり(417ねん—586ねん

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かい稽內(586ねん—589ねん

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かい稽郡太守たいしゅ(607ねん—621ねん

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かい稽郡太守たいしゅ(742ねん—758ねん

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國主こくしゅ

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孫吳そんごかい稽國(258ねん—260ねん

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かい稽國(258ねん—260ねん
代數だいすう ふう 姓名せいめい 在位ざいい時間じかん 備註
1 かい稽王 まごあきら 258ねん—260ねん
くだふうこうかんこう

西にしすすむかい稽國(270ねん—310年代ねんだい

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かい稽國(270ねん—310年代ねんだい[42][43]
以歸くだふう
代數だいすう ふう 姓名せいめい 在位ざいい時間じかん 備註
1 かい稽公 まごしゅう 270ねん—301ねんある302ねん
2 かい稽公 ?—310年代ねんだい
ぼつ于劉さとしくにぜっ

あずますすむかい稽國(317ねん—402ねん,405ねん—417ねん

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かい稽國(317ねん—402ねん,405ねん—417ねん
代數だいすう ふう 姓名せいめい 在位ざいい時間じかん 備註
琅邪おうしょくかい稽) こうおう 司馬しば 317ねん 司馬しば睿子
琅邪おうしょくかい稽) あいおう 司馬しば安國やすくに 318ねん 司馬しば裒子
琅邪おうしょくかい稽) 悼王 司馬しば 318ねん 司馬しば睿子
琅邪おうしょくかい稽) 司馬しば 322ねん—327ねん 司馬しば睿子
1 かい稽王 司馬しば 327ねん—365ねん
2 かい稽王 司馬しば 365ねん—372ねん 司馬しば昱子
琅邪おうしょくかい稽) 司馬しば道子みちこ 372ねん—392ねん 司馬しば昱子
3 かい稽王 文孝ふみたかおう 司馬しば道子みちこ 392ねん—402ねん
くにじょふく
4 かい稽王 悼王 司馬しばおさむこれ 405ねん—417ねん つかさ马宝
くにじょ

南朝なんちょうひねかい稽國(586ねん—589ねん

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かい稽國(586ねん—589ねん
代數だいすう ふう 姓名せいめい 在位ざいい時間じかん 備註
1 かい稽郡おう ちんそう 586ねん—589ねん ひねおもだいはち
ひねほろびくにじょ

相關そうかん條目じょうもく

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註釋ちゅうしゃく

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しるし文獻ぶんけん

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  1. ^ しゅうづる,《西にしかんせい地理ちり》,40ぺーじ
  2. ^ 今本いまもとこう漢書かんしょぐんこくこころざしじゅうよんけん楊守けいほうかんいちけんあきらすぐるいいこうかんとうさくこうかん
  3. ^ 史記しきなつ本紀ほんぎ
  4. ^ 史記しきえつおう踐世
  5. ^ 荊江みなみ史記しき正義せいぎうん:“すわえ及江みなみ。”
  6. ^ 史記しきはたはじめすめらぎ本紀ほんぎ
  7. ^ 史記しきしゅうかいさく鄣郡からし德勇とくゆうはたはじめすめらぎさんじゅうろくぐんしんこうだい五節考證其應作故鄣郡。
  8. ^ からし德勇とくゆういい其當さく四川しせんぐん
  9. ^ そくからし德勇とくゆう所謂いわゆるこれ鄣郡,見上みかみ
  10. ^ 漢書かんしょ地理ちりこころざしかい稽郡ちゅううん:“けいみかどよんねんぞく”,あやま廣陵こうりょうこく廣陵こうりょうけんちゅう:“こうみやこえきおう、广陵厲王胥皆此,併得鄣郡,而不とくくれ。”
  11. ^ 11.0 11.1 11.2 漢書かんしょげんしゅわれおかぬしちちじょいわおおわりおう賈傳
  12. ^ そうしょしゅうぐんしむらけんやす太守たいしゅ
  13. ^ 太平たいへい御覽ごらん引張ひっぱ勃《吳地くれじ》、りくひろほろ吳地くれじ
  14. ^ しゅうづる西にしかんせい地理ちりだいしょうだいよんせつ
  15. ^ そうしょしゅうぐんしむらけんやすぐんうん:“(ぐんしゅうすいみちせんさんひゃくはちじゅうさと),京都きょうとすいさんせんよんじゅうなみりく。”可知かちおそいたりりゅうそう,閩中之なかのなお陸路りくろあずか其它ぐんけんしょうどおりかんかい稽郡とく領有りょうゆう閩北一帶いったい
  16. ^ じょ註明出處しゅっしょしゃひとし中國ちゅうごく歷史れきし地圖ちずしゅうしょしめせ
  17. ^ 丹陽たんようけんこころざし. [2009-08-28]. (原始げんし内容ないようそん档于2019-05-19). 
  18. ^ かおいにしえちゅう
  19. ^ 鎮江こころざし. [2009-08-28]. (原始げんし内容ないようそん档于2011-08-30). 
  20. ^ ひかりいとぐちよしみおきこころざし
  21. ^ 漢書かんしょ地理ちり志下しげちゅうあやまため南部なんぶじょうおそれあずかかい稽典ろく》引吳まごけん時人じじんしゅいくさく東部とうぶじょう
  22. ^ こしぜっしょ:“しゅあまりしゃえつしおかん也。越人えつじんいいしお曰餘。”
  23. ^ 楊守けい三國みくにぐんけんひょう補正ほせい》以為とうさくほうかん三國志さんごくし志賀しがひとし傳作でんさくこうかんあきらすぐるうん:“しか其中こうかんじつおうさくこうかん,其性質せいしつあずか西北せいほくちょうわき屬國ぞっこく及上ぐん中之なかのこうかんしょうどう。”
  24. ^ 楊守けい三國みくにぐんけんひょう補正ほせい
  25. ^ ぞく漢書かんしょぐんこくこころざしあきらやす縣下けんかりゅうあきらちゅう引《すすむふとしやすし
  26. ^ 元和げんなぐんけんこころざしうてなしゅう
  27. ^ みずけいちゅうまき40:えいけんちゅうともしゅうよしみ上書うわがき,以縣とお,赴會至難しなんもとめ得分とくぶんおけとげ以浙江西えにしためくれ以東いとうためかい稽。
  28. ^ ぞく漢書かんしょぐんこくこころざし
  29. ^ ぞく漢書かんしょぐんこくこころざしりゅうあきらちゅうそうしょしゅうぐんこころざし
  30. ^ ぞく漢書かんしょぐんこくこころざしりゅうあきらちゅう引《英雄えいゆう交爭
  31. ^ ぞく漢書かんしょぐんこくこころざしりゅうあきらちゅうこしぜっしょそうしょしゅうぐんこころざし
  32. ^ 太平たいへい寰宇まききゅうきゅうしょしゅう白龍はくりゅうけん
  33. ^ 三國志さんごくし志賀しがひとしでん
  34. ^ 太平たいへい寰宇まきひゃくいちけんやす縣下けんかうん:“地本じもとまごさく于建やすはつぶんひがしこうかんりつ此邑,そく以年ごうためめいぞくかい南部なんぶじょう。”
  35. ^ 35.0 35.1 ぞく漢書かんしょぐんこくこころざしりゅうあきらちゅう
  36. ^ 太平たいへい寰宇まきひゃくいちけんけん
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參考さんこう文獻ぶんけん

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